大日本製糖日糖興業の内地財産だけを承継した第二会社の設立と、門司一工場からの再出発
台湾とジャワの工場を失った会社は、内地に残った何を元手に建て直したか
- 概要
- 1950年4月7日、在外資産を失った日糖興業の国内残財産5,497万余円の現物出資と、藤山愛一郎社長個人の現金出資引受により、事業の全部を承継する新会社として大日本製糖が資本金5,500万円で発足した。証券コード2101の法人はこの第二会社にあたり、台湾やジャワに20数工場を擁した戦前の会社とは別法人である。
- 背景
- 敗戦で海外の事業設備は連合国側にすべて接収され、本店を台湾に置く外地会社であったため国内財産まで管理下に入った。戦災を免れた生産設備は門司工場だけとなり、砂糖の需給も輸出国から輸入国へ反転して、粗糖の割当は極少量かつ不定期であった。
- 内容
- 1949年8月の政令第291号で在外会社の制限が解除されると、翌1950年4月に内地財産だけを承継して旧名を復活させた。門司工場ではパン用イーストが収益の柱で、精製糖の日産200トンの設備は原料が集まる時を待って集中的に動かしていた。1950年6月26日には110万株を東京証券取引所へ上場した。
- 含意
- 承継したのは資産と社名で、事業の中身は醗酵技術と原料倉庫から組み直された。1951年の横浜工場と1953年の堺工場で溶糖能力は日産935屯の業界最高に達したが、原料も製品も相場に握られる構造は残り、藤山愛一郎社長は好決算の期にも2割5分配当を据え置いた。
承継したのは資産と社名だけであった
承継したのは、内地に残った5,497万余円の資産と、1943年に手放していた社名であった。台湾もジャワも戻らない以上、戦前の大日本製糖の続きを演じることはできない。門司工場で先に立ち上がったのは精製糖ではなく、往時の醗酵技術によるパン用イーストであり、営業倉庫も焼酎も残っていたものから逆算して選ばれている。制度が法人を組み替える時期を決めた以上、会社に残された選択は、承継したあとに何を建てるかだけだったとみられる。
もっとも、3工場で日産935屯という業界最高の能力は、需要の裏づけを得て積まれたものではない。統制の撤廃と増資が重なった数年で設備が先に膨らみ、1956年のスエズ動乱以降は原料高と供給過剰が同時に来て、売上高は165億円から138億円へ、営業利益は13億円から6億円へ落ちた。好決算の期にあえて2割5分配当を据え置いた藤山愛一郎社長の慎重さは、原料も製品も相場に握られる事業の性格を、再出発の数年で見切っていたためだといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
接収された海外設備と、輸入国へ転じた砂糖
太平洋戦争が終わると、日糖興業の海外の事業設備は連合国側にすべて接収された。本店を台湾に置く外地会社であったため、接収は海外にとどまらず、門司工場をはじめとする国内財産も連合国側の管理下に入り、経営は種々の制約を受けた。1946年3月には台湾の製糖工場と資産を中国側へ引き渡している。内地・朝鮮・台湾・ジャワ・海南島などに20数工場を数えた設備のうち、戦災を免れて手元に残った生産設備は門司工場ただ一つにすぎない[1][2][3]。
砂糖の需給も敗戦を境に反転した。輸出国から完全な輸入国へ一八〇度転換し、戦前におよそ年100万トンあった消費量に対し、前年度の輸入は台湾糖約25万トン、キューバ粗糖2万900トン、メキシコ糖1万8千トンの合計約29万トンにとどまる。しかも加工を要する粗糖は3万900トンしかない。ジャワは内乱で買い付けができず、台湾も人口の激増で主食物の耕作に重点が移っていた[4][5]。
門司工場に残った醗酵技術と原料倉庫
門司工場は精製糖の設備を備えていたが、粗糖が入らない以上それは動かない。日糖興業は砂糖づくりで培った往時の醗酵技術を転用し、1946年11月から同工場でパン用イーストの製造に着手した。1948年4月には原料倉庫を営業倉庫へ転用して保管料を得、1949年4月からは糖蜜とイースト残渣を使って焼酎の醸造に入る。残っていた設備と技術から逆算して、収入源を一つずつ足していった[6][7]。
粗糖の輸入が戻ると、1949年7月に門司工場で精製糖の製造が再開された。もっとも、新会社の発足時に収益を支えていたのは砂糖ではない。イーストは月産24万ポンドと能力以上に運転され、この部門が収益の重要部分を占めた。焼酎はイーストの残滓からつくる月200石程度の副業で、これに倉庫収入が若干加わった。砂糖の会社が、砂糖以外の稼ぎで立っていた[8][9]。
決断
政令第291号と、内地財産だけの承継
1949年8月、政令第291号の公布により在外会社の制限が解除された。在外資産を抱えたままの整理は制度の側が決めた道筋であり、法人をいつ組み替えるかを会社が選べる状況ではない。制限が解けた翌1950年4月、日糖興業の内地財産を承継し、1943年に手放していた旧名を復活させて大日本製糖が新しく発足した。承継の対象は内地に残った資産だけで、台湾やジャワの事業は一切含まれない[10][11]。
新会社の元手は二つの出資からなる。一つは日糖興業が現物出資した国内残財産5,497万余円、もう一つは藤山愛一郎社長個人が引き受けた現金出資で、この二つで日糖興業の事業の全部を承継した。設立は1950年4月7日、資本金5,500万円、発行株数110万株。本社は東京都千代田区神田富山町に置き、営業目的には精製糖に加えてパン用イーストと焼酎の製造販売、物品の保管業務を並べた[12][13]。
割当に握られた操業と、110万株の上場
承継した生産拠点は門司市大里東口の1工場のみで、工場建物6,286坪、倉庫建物3,242坪を数えた。精製糖の施設は日産200トンの能力を備えていたが、粗糖の割当が極少量かつ不定期であったため、一定限度の原料が集まって経済的に機械を運転できる時を待ち、そのつど集中的に操業していた。1950年1月から6月の砂糖生産は月287トンから900トンの間で振れ、稼働率は4.0%から18.0%にとどまる[14][15]。
割当を握っていたのは政府である。1950年度の日産割当は大日本製糖185トン、名古屋製糖110トン以下の11社で合計700トンと定められ、各社は輸入粗糖の割当を受けて加工し、公団へ売り戻す立場に置かれた。1950年6月26日、新会社は110万株を東京証券取引所へ上場する。閉鎖機関が持つ90,600株は1株76円で全部が従業員へ処分され、16,899名の株主のうち15,805名は100株未満しか持たない[16][17]。
結果
京浜への進出と、増資で建てた3工場
新会社が最初に手をつけたのは京浜地区への進出であった。横浜新子安の敷地1万6千坪を昭和電工から買収し、所要資金1億6千万円のうち3,000万円を増資分から充て、不足は借入で賄う計画を立てる。1950年11月には資本金を5,500万円から1億2,000万円へ増額して着工し、横浜工場は1951年7月に竣工してイーストと精製糖の製造を始めた。門司の一工場体制は1年余りで終わった[18][19]。
資本金はその後も工場の建設に連動して積み上がる。1951年11月の倍額増資で2億4,000万円、1953年1月の半額無償増資と同年4月の倍額増資を経て7億2,000万円となり、同年7月には堺工場が竣工した。門司・横浜・堺の3工場で溶糖能力は日産935屯に達し、業界最高となる。砂糖の統制も1951年10月に業務用が、1952年4月には全面が撤廃されて、自由販売へ移った[20][21]。
相場に握られる事業と、据え置いた2割5分配当
1954年3月までの半期に、大日本製糖は総売上高85億9,700万円、純益5億900万円を計上しながら、2割5分の配当を据え置いた。原料は全部を海外から買い、製品も国内の商品相場で売る事業であり、不況に耐える弾力性を先に積んでおく必要がある。他社が軒並み増配するなかで増配分は社内蓄積へ回され、藤山愛一郎社長自らが踏襲を指示したと伝えられる。資本金7億2,000万円に対し、借入は短期の8億5,000万円だけで、長期借入も社債もない[22][23][24]。
ただし、相場が会社を運ぶ構図までは変えられなかった。1956年のスエズ動乱以来、原料の砂糖は高値を続けた一方、国内の供給能力は消費量を上回り、市場価格は弱いまま推移する。売上高は1955年3月期の165億円から1957年3月期には138億円へ、営業利益は13億円から6億円へ落ちた。パン用イーストも三年続きの豊作と原料糖蜜の逼迫に押され、醸造部門は焼酎の売行不振に押された[25][26]。
- 証券 1950年 新規上場会社紹介
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- 東邦経済 1954年「業態向上・活況の大日本製糖」
- 東邦経済 1957年「堅実一本槍の大日本製糖」
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- 上場会社総覧 1956年版/上場会社総覧 1959年版