大日本製糖負債を除く営業全部のニットーへの譲渡と解散

再建か、債権の帳消しか——金利棚上げに耐えかねた三菱商事が系列の名門をどう畳んだか

時期 1984年2月
意思決定者(推定) 桜井喜久夫・相沢徹 大日本製糖 社長・三菱商事 常務
論点 累積赤字の処理と営業譲渡
概要
1984年3月下旬、大日本製糖が臨時株主総会で解散を決議し、負債を除く従業員・取引先など営業の一切を、三菱商事が100%出資して同年2月中旬に設立した新会社ニットー株式会社へ譲渡した経営判断。明治製糖も同時に解散し、明糖産業へ営業を移した。
背景
1963年8月の原糖輸入自由化を境に精製糖事業は慢性的な生産過剰におちいり、大日本製糖は1965年11月に三菱商事の傘下へ入った。1978年3月中間期には債務超過が約170億円に達し、1979年に上場を廃止。1983年9月期の累積赤字は109億円で、資本金39億6,000万円を大きく上回った。
内容
資本金10億円のニットーが負債を除く営業の一切と商号・商標を引き継ぎ、砂糖類の販売にあたる。生産は従来どおり共同生産会社の東日本製糖・西日本製糖への委託を続ける。三菱商事は両社向けの出資金・貸付金を含む債権160億円の大半を1984年3月期決算で償却した。
含意
貸付金の金利棚上げが続く現状より、回収困難な債権を帳消しにするほうが得策だと三菱商事が判断した結果の解散であった。累積赤字を一掃した新会社には他からの資金導入の道が開ける一方、業界24社の累積赤字は推定500億〜600億円のまま残った。
筆者の見解

帳消しにできたものと、残されたもの

金利の棚上げが続く貸付金を抱えるより、債権を帳消しにするほうが得策である——三菱商事がそう判断した時点で、大日本製糖の存廃は資本の側の計算に移っていた。三菱商事から社長を迎え、ホテル・ニュージャパンを売って上場を守り、生産部門を共同生産会社へ切り出す。1965年以来の手はいずれも会社の形を変えるもので、負債には届いていない。1984年の解散は、負債を旧会社に置いて営業だけを新しい器へ移した点で、それまでの再建策と性格を異にしていたとみることができる。

ただ、この形が身軽にしたのは債権者と新会社であって、業界の構造ではなかった。精糖24社の累積赤字は推定500億〜600億円のまま残り、100万トンといわれた設備の過剰も動いていない。三菱商事が1981年に説いていたとおり、工場の統廃合は人員の過剰を生み、雇用の確保と構造改善は矛盾する。負債を切り離す処理は、その矛盾に触れずに一社を軽くする道であった。名門2社の同時解散が業界に与えた衝撃は、裏返せば、そこまでしなければ動かない業界であったことを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

原糖自由化で固まった赤字と三菱商事の資本導入

1963年8月の原糖輸入自由化を境に、業界をとりまく環境は急変した。高い収益のもとで安定していた精製糖事業は慢性的な生産過剰におちいり、大日本製糖の売上高が1963年3月期の185億円から1965年3月期の237億円へ伸びる一方で、当期純利益は7億円から11億円の損失へ転じた。自力の立て直しをあきらめた同社は1965年11月、藤山勝彦社長の後任に三菱商事相談役の辻喜代治氏を迎え、1966年3月期から三菱商事の資本を導入した[1][2][3]

三菱商事の傘下に入っても収益は戻らなかった。1968年5月25日の第36回定時株主総会で、辻喜代治社長は8期ぶりに純益6,900万円を計上したと報告したが、その主因は1967年11月の英ポンド切り下げという社外の事情にあった。同期の営業外支払は5億6,500万円にのぼり、うち支払利息が4億1,300万円を占めた。懸案の過剰設備は、全日本製糖工業会として試案をまとめ、行政官庁に所見を求めた段階にとどまっていた[4][5]

170億円の債務超過と、守り切れなかった上場

1978年3月の中間決算で、大日本製糖の債務超過は約170億円に達した。3年以上の債務超過かつ5年以上の無配継続という東京証券取引所の上場廃止基準に、そのままでは抵触する見通しであった。三菱商事は減増資と資本金の大量引き受け、債権の一部放棄、リース会社を設立しての工場売却などを検討したが、これらに要する費用は約300億円と見積もられ、明治製糖も抱える同社にとって負担は重かった[6][7]

上場を守る手として選ばれたのは、ホテル・ニュージャパンの売却であった。藤山三代にわたる会社との深いつながりから、藤山覚一郎社長は上場廃止を避けたいと考えていた。同じ1978年3月末には、横井英樹氏が発行済株式の32.81%にあたる約1,300万株を握って筆頭株主となり、三菱商事の8.80%を大きく上回った。結局、上場していた精糖11社のうち大日本製糖と明治製糖だけが維持に失敗し、株式は店頭銘柄扱いへ移った[8][9]

決断

雇用を理由に退けられた明治製糖との合併説

上場廃止から2年後の1981年、大日本製糖と明治製糖が合併するという噂が業界に流れた。両社は福岡に工場を並べ、株主構成も再建の主体も三菱商事で一致しており、構造改善計画が同一地域の工場の統廃合を求めていた点からも、合併の下地はできているとみられた。業界の需要は300万トン前後に対して供給能力が400万トン強あり、100万トンの設備が余っていた。農林水産省も、噂が実現すれば業界にとってよいことだと述べた[10][11]

三菱商事が合併を否定した理由は、雇用にあった。工場の統廃合や合併に踏み込めば人員が過剰になり、余剰の受け皿がない以上は削減するほかなく、政府の掲げる雇用の確保と構造改善は矛盾するというのが、同社の見方である。この時点の大日本製糖は1980年9月期に売上高433億円、利益12億円を計上しながら、累積赤字は87億円に積み上がっていた。従業員は215名まで減り、精製シェアは7.8%であった[12][13]

負債を旧会社に残し、営業だけを新会社へ移す

生産から降りても赤字は縮まなかった。大日本製糖は堺、門司、横浜の工場を閉じ、明治製糖とともに1971年に東日本製糖、1982年に西日本製糖を共同生産会社として設け、自らは販売部門だけを受け持つ会社になっていた。それでも1983年9月期の累積赤字は109億円に達し、資本金39億6,000万円の3倍に近づいた。1983年から三菱商事を含む3社で協議した結果、現状維持の形では再建は不可能という結論に達した[14][15]

解散という形をとった理由は、三菱商事の側にあった。両社への貸付金は金利の棚上げが続いて同社の重荷となっており、回収の困難な債権は帳消しにしたほうが現状を続けるより得策だと判断された。累積赤字を一掃した新会社であれば、他からの資金を導入する道も開ける。1984年2月中旬、三菱商事は100%出資で資本金10億円のニットー株式会社を設立し、負債を除く従業員、取引先など営業の一切を引き継がせた[16][17]

結果

債権160億円の償却と、名門2社の同時退場

1984年3月下旬、大日本製糖は臨時株主総会で解散を正式に決議した。商号、商標なども全面的に新会社へ譲渡され、砂糖の生産は従来どおり東日本製糖と西日本製糖への委託が続いた。三菱商事は両社に対する出資金と貸付金を含む債権160億円の大半を、1984年3月期決算で償却した。相沢徹常務は、この償却で食料品部門は赤字の計上を免れないが、三菱商事全体ではさほど影響を受けないだろうと述べた[18][19]

業界の側から見れば、名門の同時退場であった。藤山愛一郎氏の一族が経営したこともある大日本製糖と、明治製糖という戦前からの老舗2社がそろって解散し再生をめざしたことは、業界に衝撃を与えた。両社を合わせた累積赤字は186億円、精糖24社の累積赤字総額は推定で500億〜600億円にのぼっていた。業界はすでに特定産業構造改善臨時措置法の不況業種指定を受け、1983年10月には構造改善基本計画を決めた[20][21]

出典・参考
  • 月刊経済 1984年
  • 実業往来 1981年
  • 経済展望 1978年
  • 実業往来 1968年(遠藤忍)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
  • 会社年鑑(1967年版)

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