安政の開港以来、安価な外国糖の輸入が続いて内地の糖業は衰え、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入総額の約半ばを占めた[1]。1891年には新式製糖機械を備えた甜菜糖の官営工場が北海道に建設されたものの、より安価な甘蔗糖に圧倒されて1895年に作業を中止した[2]。同じ年に八重山島へ甘蔗を原料とする製糖工場が設立され、政府と民間有志の努力で国内の砂糖工業はようやく形を得たが、供給量はごくわずかで需要の約8割は輸入糖でまかなっていた[3]。米と砂糖の累年の輸入増加による貿易収支の悪化は米糖問題と呼ばれ、台湾の開発と並んで官民の関心を集めた[4]。
日清戦争によって甘蔗の栽培に適した台湾を領有した日本では、近代工業としての製糖業が生まれた[5]。第三代の台湾総督である児玉源太郎伯は、三井合名理事長の益田孝氏と、官政界および実業界に勢力のあった井上馨侯らの賛助を求めて新式製糖会社の計画を進めた[6]。政府は莫大な助成金を用意し、台湾で原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を併せ営む大企業の計画を立て、1900年12月、三井財閥の巨額の出資により台湾製糖が設立された[7]。創立総会は東京・日本橋坂本町の東京銀行集会所で開かれ、初代社長には鈴木藤三郎氏が就いた[8]。発起人には益田氏ら7氏が名を連ね、翌1901年1月に台南地方法院鳳山出張所で設立登記を済ませた[9]。
1902年1月、台湾製糖は橋仔頭工場で製糖を開始した[10]。現在の高雄市橋頭区にあたるこの工場は、台湾で最初の新式製糖工場となった[11]。当時の日本には甘蔗を栽培して新式製糖設備で砂糖を製造した経験者が皆無で、領有からまもない台湾現地の情勢も極めて悪く、企業化には種々の障害があった[12]。日本経済の実情を憂えて株主となった宮内省や実業家の支援と、全社をあげての努力により、第一回産糖は18,502ピクルを数えた[13]。台湾製糖はSとTの文字を組み合わせて社章を図案化し、Tの字を朝日にかたどって社運の隆昌を願った[14]。
1909年9月、台湾製糖は台南製糖を合併して湾裡工場を継承し、同年11月に大阪株式取引所へ上場した[15]。1911年12月には神戸精糖から神戸工場を買収し、台湾の甘蔗糖に加えて内地の精製糖にも設備を持った[16]。明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が相次いで創設され、大正初期にはさらに4社が設立された[17]。内地では精製糖工場が増設され、北海道では甜菜糖業が復活し、沖縄では糖業が強化され、南洋庁にも新式製糖工場が新設されて、国内消費の自給に向けた設備が各地に増えた[18]。
創立から35年後、台湾製糖の産糖は第一回の18,502ピクルから5,383,200ピクルに達し、台湾最大の製糖会社となった[19]。1932年には、その後に設立された塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖など各社の発展と相まって、内需を満たして海外へ輸出するという創立時の理想が実現した[20]。日本の糖業は大正末期から1930年代末にかけて生産を伸ばし、1929年から1940年までの総生産量のうち台湾産糖が80%以上を占めた[21]。1939年には糖業の創設以来の最高を記録したが、同じ年に糖価の公定価格制が実施され、自由な取引の時代から統制の時代へ移った[22]。
1939年3月、台湾製糖は広東省の東莞工場で操業を開始した[23]。台湾では1940年から1941年にかけて甘蔗の作付が米作に押されて面積を減らし、さらに暴風の被害が見込まれたことから、糖業の再編成が提唱された[24]。当時存続していた6社のうち帝国製糖が大日本製糖に合併され、1941年9月には新興製糖が台湾製糖に合併されて大寮製糖所として引き継がれた[25]。台湾の糖業は大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社に集約された[26]。1943年1月には、フィリピンで軍管理製糖工場の委任経営を軍政監部から受託した[27]。
内地の精製糖工場は1928年に16工場を数え、日産能力は合わせて2,800屯、年製造高は867万担に達して最盛期を迎えたが、台湾で耕地白糖の製造設備が次第に普及するにつれて精製糖の価値は相対的に低落し、生産高は年を追って減った[28]。太平洋戦争の進展とともに内地の精製糖は企業整備にかかり、1943年にはほとんどの工場が操業を中止した[29]。台湾製糖も同年7月、軍用燃料の製造への転用にともなって、神戸製糖工場を閉鎖した[30]。国民一般への砂糖の配給も同じ年に完全に途絶え、戦後の1947年まで4年にわたって停止が続いた[31]。
1945年、敗戦により台湾製糖は台湾における全事業を放棄した[32]。大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の4社は、製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ、終戦と同時に一切を喪失した[33]。1900年12月の創立から50年にわたって台湾に築いた事業は、原料甘蔗の畑から製糖工場まで会社の手を離れた[34]。原料甘蔗の栽培適地である台湾と南洋群島を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを海外から輸入して精製するだけの姿に変わり、砂糖の供給は全消費量の95%を輸入に仰ぐ往時の状況へ逆転した[35]。
台湾製糖は1945年9月に神奈川県小田原市へ小田原工場を設置し、ペニシリンの製造試験に着手した[36]。台湾に築いた全事業は敗戦で失われ、在外財産の接収事務は1946年7月に台湾行政長官公署へ引き渡して完了した[37]。内地に残ったのは、50年にわたって台湾で培った技術と人員だけだった[38]。台湾製糖はこれを元手に、1946年7月26日、新日本興業を設立した[39]。設立は大蔵省令第88号に基づく在外会社の内地における会社新設の許可によるもので、資本金は500万円、その半額を払い込んだ[40]。本店は東京都渋谷区代々木西原町に、事業所は長野県野辺山に置いた[41]。新日本興業は同年10月、商号を大東殖産へ改めた[42]。
台湾製糖は戦前戦中、砂糖を中心にアルコールなどの醗酵事業へも進出しており、大東殖産はそこで培った醗酵技術を用いて1946年にペニシリンの製造を始めた[43]。1947年2月には小田原市にペニシリン工場を建設し、ペニシリンの製造販売を専業として営業を開始した[44]。発足時の設備は日産能力1屯の壜培養で、収量も1cc当り100単位内外にとどまった[45]。1947年8月、台湾製糖が持株の全部を公開譲渡し、両社の資本関係は断絶した[46]。以後の大東殖産は、台湾製糖と資本関係のない内地の会社である[47]。資本金は1947年12月に1,500万円へ増額した[48]。
大東殖産は1948年9月、神戸市に本格的なペニシリン工場を増設し、タンク培養による量産を始めた[49]。日産培養能力は66屯、1cc当りの収量は4,000単位に達し、この2点で同社は業界の1、2位を占め、総合成績でも常に3、4位を保った[50]。ペニシリンは終戦後に製造業者が相次ぎ、製造許可会社は一時72社に上ったが、販売競争の激化で漸減し、稼働する会社は10社にまで減った[51]。台糖は1954年3月に九州出張所を閉鎖し、その業務を継承する九州台糖薬品販売を設立した[52]。翌4月には米国ダウ・ケミカルと飲食品保存剤デハイドロ醋酸の販売で提携し、国内使用特許権の分権を受けた[53]。
大東殖産は1950年1月10日の臨時株主総会で定款の変更を議決した[54]。同年5月、政令291号による在外会社の整理に沿って商号を台糖へ改め、台湾製糖の内地残余財産を承継した[55]。台糖はあわせて、台湾製糖が営んでいた精糖業と倉庫業を引き継いだ[56]。神戸の製糖工場は1943年7月、軍用燃料の製造への転用にともなって閉鎖されていた[57]。台糖は1950年4月、神戸に残っていたこの戦災工場を修理し、日産能力40屯で操業を開始した[58]。同年6月には神戸製糖工場で溶糖を始め、精製糖事業を再開した[59]。資本金は商号変更と同じ1950年5月に3,000万円へ増額した[60]。
原料甘蔗の栽培適地を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを輸入して精製するだけの産業へ変わり、1952年4月に統制が撤廃されるまでは政府が輸入した原糖の委託加工にすぎなかった[61]。統制撤廃と自由販売制の見通しがつくと、精糖工場の新設と増設が相次いだ[62]。原糖の輸入外貨の割当基準が能力7・実績3の比率だったため、各社は割当を多く取ろうと能力増強へ走った[63]。日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585屯から1954年末の25社36工場8,965屯へ拡大した一方、需要の増加は頭打ちとなり、設備過剰が残った[64]。台糖も2億円を投じて骨炭濾過法へ改め、4年後に日産能力を610屯とした[65]。製品は東京食品と第一物産の2社を代理店として販売した[66]。
資本金は1947年12月の1,500万円から1950年5月に3,000万円、1951年11月に9,000万円、1952年7月に2億円へと積み増した[67]。台糖は1951年9月に東京証券取引所へ上場し、大阪は1952年、神戸は1954年、名古屋は1956年に順次上場した[68]。倉庫営業部門は経営面積900余坪で発足し、逐次拡充して2,680坪となった[69]。1947年2月にペニシリンの製造販売を専業として出発した会社は、1950年5月に精糖業と倉庫業を加え、3つの事業を並べた[70]。1955年時点の本社は東京都中央区八重洲6の1、資本金は2億円で、武智勝社長が経営にあたった[71]。
1953年8月、田辺製薬とファイザー・コーポレーションが折半出資でファイザー田辺を設立し、チャールス・ファイザー社の医薬品の小分けや加工を行った[72]。製品の国産化が必要になると、田辺製薬と台糖が話し合い、ファイザーの了解を得て台糖ファイザーが新発足した[73]。台糖はペニシリンだけでは足りないとして製薬を専門化した事業として進める意向を持ち、米国の医薬品メーカーとの提携を望んでいた[74]。ファイザーは日本の技術と労働力で自社のノウハウを使うため、すぐれた醗酵技術を持つ相手を日本企業十数社の中から探し、台糖を選んだ[75]。1955年6月、両社は折半出資・資本金1億円で台糖ファイザーを設立し、台糖のペニシリンなどの製薬部門を同社へ移した[76]。当時の台糖はペニシリンを製造販売していたが、業界の過当競争で収益は思わしくなかった[77]。
台糖は1956年6月に太平製糖を合併し、大阪工場を継承した[78]。1958年の資本金3億円は誰の目にも過少資本で、株価は増資催促の相場を出していた[79]。武智社長は、過少資本の是正や高率配当を引き下げるための増資では筋が通らず、新規事業へ進出する資金が要るときに増資したいと考えていたと述べた[80]。新規事業の一つが飲料アルコールで、台糖には台湾製糖時代に糖蜜を原料としてアルコールを製造した経験があった[81]。台糖は合成酒醸造の上位10社に数えられる東邦酒類の株式の過半数を取得し、1958年1月からその経営に参加した[82]。東邦酒類は割高な干し芋を原料としていたため業績が下がっており、台糖は自社の糖蜜へ替えてアルコール精製に乗り出した[83]。
日本で消費される砂糖は年間120万から130万屯にのぼるが、北海道の甜菜糖が賄うのは8%程度で、残る9割以上を輸入糖に頼っていた[84]。キューバのような片貿易による輸入は年間40万から50万屯に達し、外貨の出しっ放しとなるため、政府は今後10年間に40万屯の甜菜糖を北海道で生産する方針を立て、1953年に甜菜生産振興臨時措置法が成立した[85]。台糖は1954年以来、道南地域への甜菜糖工場の建設を企図し、1957年度操業の当初計画を見送ったのち、1959年度操業を目標に道南伊達町での建設認可を1958年4月に受けた[86]。1日の原料截断能力は平均1,200屯、産糖高は年間1万7,000屯から1万8,000屯、建設費は24、5億円を見込んだ[87]。武智社長は、甘蔗栽培から精製糖まで一貫作業を行った50年の技術と体験を生かし、再び大地に足のついた産業を営むと語った[88]。道南製糖所は1959年10月に操業を開始した[89]。
1963年に原料糖の輸入が自由化されると、製糖各社は生産過剰に陥り大打撃を受けた[90]。台糖は自由化の2年後の1965年10月に川崎工場で溶糖を開始し、1日500トンの溶糖能力を加えた[91]。売上高は1964年3月期の217億円から1965年3月期に192億円へ減り、当期純利益も4億4000万円から1億4000万円へ落ちた[92]。赤字転落は翌期で、1966年3月期に1億7000万円、1967年3月期に9億7000万円の当期純損失を計上した[93]。売上高も1966年3月期は183億円、1967年3月期は199億円と、自由化前の1964年3月期を下回った[94]。
1966年3月期の半期売上高は、精製糖が86億659万円で構成比87.5%、甜菜糖が11億4227万円で11.6%、倉庫収入が9042万円で0.9%であり、砂糖以外の稼ぎはほとんどなかった[95]。台糖は九州製糖を吸収合併して業界第一位となり、三井系製糖会社の大合同を掲げて横浜精糖・芝浦精糖との合併にも取り組んだ[96]。しかし横浜精糖と芝浦精糖は1970年に大阪製糖と合併して三井製糖を発足させ、台糖はこの合同に加わらなかった[97]。群雄割拠していた砂糖業界は、商社主導で三井・三菱・丸紅・伊藤忠の4グループへ再編された[98]。
1968年4月、台糖は甜菜糖部門の道南製糖所を、芝浦精糖・大日本製糖との共同出資会社である北海道糖業に譲渡した[99]。同年7月には台糖ファイザー株の60%を25億円でファイザーへ売り[100]、8月に大阪工場と大阪倉庫営業所を廃止した[101]。1959年10月に操業を始めた甜菜糖と、1955年6月にファイザーとの折半出資で設けた医薬品事業を、同じ年に手放している[102]。経営が傾いた台糖は、損失の穴埋めのために台糖ファイザー株を売却した[103]。売却と部門譲渡を挟んだ1969年3月期、当期純利益は13億8000万円の黒字に戻った[104]。
出資比率は1968年にファイザー80に対し台糖20となり、1975年には95対5にまで下がった[105]。持分が縮む間も合弁会社は伸び、台糖ファイザーは1967年に名古屋工場を建設したうえ、中央薬理研究所の拡充と農畜産部門への進出にも資金を投じた[106]。1975年6月時点の資本金は24億5000万円、1974年11月期の年間売上高は237億円、従業員は1,515人で、抗生物質テラマイシンとマトロマイシンではファイザー・グループのバルク供給基地となった[107]。同じ1975年3月期、台糖は売上高637億円、経常利益22億7000万円を計上した[108]。
1983年3月、台糖は台糖ファイザーの全株式を14億4324万円でファイザーに譲渡した[109]。直前の1982年11月期に台糖ファイザーは売上高670億円、経常利益115億円を計上し、前年をそれぞれ33%、21%上回った[110]。国内医薬品売上高の順位も1981年の業界16位から1982年に12位へ上げ、外資系医薬品メーカーでは2位以下を引き離して首位に立った[111]。同じ時期の台糖は1982年3月期に6億9000万円、1983年3月期に40億5000万円の当期純損失を出しており、28年前に折半で始めた合弁の持分はここで消えた[112]。
1973年5月、台糖は神戸市東灘区深江浜町に工費80億円をかけた新神戸工場を竣工させ[113]、1974年3月期には売上高422億円、経常利益9億9000万円を計上した[114]。同じ1974年、横井英樹氏が台糖株を買い占めて大株主となり、株主総会で経営問題を質問すると会場は怒号に包まれた[115]。議事を進めようとする会社側の対応に不満を持つ一部株主が暴力を振るう騒ぎとなり、当時総務部長だった武智文男氏が警察と連絡を取りながら対応した[116]。武智氏は原料糖の輸入自由化で製糖各社が打撃を受けた1963年5月、36歳で日東化学工業から台糖へ移っていた[117]。
1976年3月期、台糖は経常損失142億7000万円、当期純損失90億円を計上し、1977年3月期も経常損失59億2000万円、当期純損失54億9000万円を重ねた[118]。売上高も1976年3月期の755億円から1977年3月期は495億円へ減った[119]。1978年3月期に経常利益9億円を確保して黒字へ戻したのち[120]、1979年3月、台糖は非砂糖部門と研究部門を台糖産業に譲渡し、医薬品に続いて砂糖以外の事業と研究機能を本体の外へ移した[121]。1979年3月期の当期純利益は前期の12億円から93億1000万円に増えた[122]。
1982年3月期に経常損失6億9000万円、1983年3月期に経常損失35億6000万円と赤字が続くなか[123]、台糖は1984年2月に川崎工場を閉鎖し、製糖の生産を神戸工場に集約した[124]。1965年10月に溶糖を始めた川崎工場は19年で操業を終え、精製糖の生産拠点は神戸1カ所に絞られた[125]。閉鎖を決めた1984年3月期も経常損失5億6000万円を計上したが[126]、集約後の1985年3月期は売上高441億円、経常利益26億9000万円、当期純利益38億9000万円となり、経常損益は1981年3月期の10億6000万円以来4期ぶりの黒字に戻った[127]。
台糖は1985年10月に台糖産業を合併し、1979年3月に譲渡していた非砂糖部門と研究部門を自社へ戻した[128]。合併で資本金は20億6600万円へ増えた[129]。合併前の1985年3月期の単体売上高は441億円で、うち上白糖が205億3600万円で46.5%、グラニュー糖が134億5500万円で30.5%を占め、白双糖・液糖・角砂糖・三温糖などを加えた精製糖だけで9割に達した[130]。砂糖以外は色素粉末食品他が3億5700万円で0.8%、耐火材が2億4000万円で0.5%、開発機器他が1億2700万円で0.3%にとどまった[131]。台糖は1983年3月に台糖ファイザーの全株式を14億4324万円でファイザーへ譲渡し、1984年2月には川崎工場を閉鎖し、製糖を神戸工場へ集約した[132]。
合併の翌年にあたる1986年6月、台糖は制癌剤の製造承認を受け、原末の製造販売を始めた[133]。砂糖では三井系との共同出資に動き、1989年8月に三井物産と旧三井製糖とでケイ・エスを福岡県福岡市に設立した[134]。1990年6月、武智文男氏が社長に就いた[135]。1927年3月17日に東京都で生まれ、1950年3月に慶応大学法学部を卒業している[136]。台糖では1974年11月に取締役、1979年6月に常務、1986年5月に専務、1989年6月に副社長を務めた[137]。祖父の武智直道氏は前身の台湾製糖社長、父の武智勝氏は新生台糖の初代社長であり、勝氏の後は三井物産出身者など4人が社長を務めた[138]。
武智文男社長が引き継いだ体制で、製糖を担う工場は神戸市の1カ所だけだった[139]。台糖は1968年4月に甜菜糖部門を北海道糖業へ譲渡し、1968年8月に大阪工場と大阪倉庫営業所を廃止したうえ、1984年2月に川崎工場を閉鎖しており、残る拠点は1973年5月に工費80億円で神戸市東灘区深江浜町へ建てた工場に絞られていた[140]。
1994年6月、天児勝彦氏が社長に就いた[141]。1932年5月16日に兵庫県で生まれ、1955年3月に東京大学農学部を卒業して同年4月に台糖へ入社し、1983年に取締役、1988年に常務、1990年に専務を務めている[142]。就任の翌年、阪神大震災で神戸工場が止まった[143]。設備集約の果てにただ一つ残った製造拠点であり、台糖は3月末までは三井製糖、塩水港精糖など業界他社への生産委託で急場をしのいだ[144]。神戸市中央区にある天児勝彦社長の自宅も、倒壊は免れたものの電気・水道・ガスが止まった[145]。台糖が神戸市東灘区に工場を建てたのは1973年5月で、震災はその22年後に起きた[146]。
台糖は1984年2月に川崎工場を閉鎖して製糖を神戸へ集約しており、神戸工場は唯一の拠点となっていた[147]。天児勝彦社長はその川崎工場の工場長として、閉鎖と50人の希望退職を経験した[148]。部下には、従業員に辞めるとは絶対に言うな、必要なら自分が言うから連れて来いと厳命し、川崎市内の飲み屋で3カ月間毎日待機した[149]。逃げずに待ったことが従業員にも理解され、一度も出番のないまま円満に解決した[150]。天児勝彦社長は経営者は能力1割で人柄9割だと口にし、社員には評論よりも実践をと説いた[151]。医者にならないなら東京にはやらないと父親に言われて東京大学の理科2類に入学したのち、2年後に父に内証で農学部へ進み、三白景気に沸いていた精糖業界へ入った[152]。
2003年1月、台糖は免疫抑制剤の原薬工場を竣工した[153]。1986年6月に製造販売を始めた制癌剤原末に続く医薬品であり、同年8月には会社分割で台糖バイオ生産研究所を設立した[154]。砂糖では2003年7月に新三井製糖と業務提携し、資本関係を作ったうえで生産・物流・販売を共同で行うことに合意した[155]。新三井製糖の商号は、2001年4月に三井製糖が新名糖と合併したときに生まれた[156]。台糖は1989年8月に三井物産・旧三井製糖とケイ・エスを設立しており、三井系の製糖3社は資本と事業の両面でつながった[157]。
2004年4月8日、台糖は新三井製糖およびケイ・エスとの合併契約を締結した[158]。合併比率は新三井製糖1に対して台糖1.05と定め、新三井製糖を存続会社とした[159]。この間に、群雄割拠していた砂糖業界は三井、三菱、丸紅、伊藤忠の4グループへ再編されており、2005年に台糖が加わったことで三井製糖が業界トップの座を確固とした[160]。台糖が最後に単体の売上構成を残した1985年3月期は、売上高441億円の9割を精製糖が占めていた[161]。合併の相手方となった新三井製糖も、原料糖を輸入して精製する事業を本業としていた[162]。
2005年3月28日、台糖株は東京証券取引所市場第一部で上場を廃止された[163]。廃止の時点で上場していたのは東京・大阪・名古屋の各第1部と福岡であり、1909年11月の大阪株式取引所上場、1951年9月の東京証券取引所上場と続いた株式公開はここで終わった[164]。2005年4月1日、台糖は新三井製糖を存続会社とする吸収合併により解散した[165]。存続会社は同じ日に商号を三井製糖へ改めた[166]。台糖の最終本店は東京都中央区日本橋大伝馬町7番5号である[167]。1900年12月に東京銀行集会所で創立総会を開いてから105年で、台糖の商号は登記から消えた[168]。
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|---|---|---|---|---|
| 1900〜1945年児玉源太郎伯の計画から橋仔頭工場へ、敗戦で失った台湾の全事業 | 東京銀行集会所で創立総会、初代社長に鈴木藤三郎氏 | ★★★ | ||
| 台南地方法院鳳山出張所で設立登記 | ★ | |||
| 橋仔頭工場で製糖を開始 | ★★ | |||
| 台南製糖を合併し湾裡工場を継承 | ★ | |||
| 大阪株式取引所に上場 | ★ | |||
| 神戸精糖から神戸工場を買収 | ★★ | |||
| 広東省東莞工場で操業を開始 | ★★ | |||
| 新興製糖を合併し大寮製糖所として継承 | ★ | |||
| 軍管理製糖工場の委任経営を軍政監部から受託 | ★★ | |||
| 軍用燃料製造への転用に伴い神戸製糖工場を閉鎖 | ★★ | |||
| 小田原工場を設置しペニシリン製造試験に着手 | ★★ | |||
| 1946〜1959年ペニシリンで再起し台糖の商号を取り戻した第二会社 | 台湾行政長官公署への在外財産の接収事務が完了 | ★★ | ||
| 新日本興業の設立登記が完了 | ★★ | |||
| 大東殖産に商号変更 | ★ | |||
| 台湾製糖が持株全部を公開譲渡し資本関係が断絶 | ★★ | |||
| 神戸ペニシリン工場が完成しタンク培養で量産を開始 | ★★ | |||
| 台糖に商号変更し台湾製糖の内地残余財産を承継 | ★★★ | |||
| 神戸製糖工場で溶糖を開始し精製糖事業を再開 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 武智勝 | 米国ファイザーとの合弁で台糖ファイザーを設立 | ★★★ | ||
| 武智勝 | 太平製糖を合併し大阪工場を継承 | ★★ | ||
| 武智勝 | 道南製糖所が操業を開始し甜菜糖事業に参入 | ★★ | ||
| 1960〜1984年原糖輸入自由化による赤字と、医薬合弁持分95対5への後退 | 武智勝 | 川崎工場で溶糖を開始 | ★ | |
| 武智勝 | 甜菜糖部門を北海道糖業に譲渡 | ★★ | ||
| 武智勝 | 台糖ファイザー株の60%をファイザーに譲渡 | ★★ | ||
| 武智勝 | 大阪工場と大阪倉庫営業所を廃止 | ★ | ||
| 武智勝 | 神戸市東灘区深江浜町に新神戸工場が竣工 | ★★ | ||
| 佐藤岩巳 | 非砂糖部門と研究部門を台糖産業に譲渡 | ★★ | ||
| 佐藤岩巳 | 台糖ファイザーの全株式をファイザーに譲渡 | ★ | ||
| 佐藤岩巳 | 川崎工場を閉鎖し神戸工場に生産を集約 | ★★ | ||
| 1985〜2005年制癌剤原末への回帰と新三井製糖に吸収された105年 | 福泉龍男 | 台糖産業を合併 | ★★ | |
| 福泉龍男 | 制癌剤の製造承認を受け原末の製造販売を開始 | ★★ | ||
| 福泉龍男 | 三井物産・旧三井製糖とケイ・エスを設立 | ★ | ||
| 佐藤英雄 | 免疫抑制剤の原薬工場が竣工 | ★ | ||
| 佐藤英雄 | 新三井製糖と業務提携 | ★★ | ||
| 佐藤英雄 | 会社分割で台糖バイオ生産研究所を設立 | ★ | ||
| 佐藤英雄 | 新三井製糖・ケイ・エスとの合併契約を締結 | ★★ | ||
| 佐藤英雄 | 東京証券取引所市場第一部で上場廃止 | ★ | ||
| 佐藤英雄 | 新三井製糖に吸収合併され解散 | ★★★ |
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事実根拠:出所(台糖)