台糖:神戸ペニシリン工場の量産開始と台糖への商号変更
1946年〜大蔵省令第88号で発足した新日本興業のペニシリン専業
台湾製糖は1945年9月に神奈川県小田原市へ小田原工場を設置し、ペニシリンの製造試験に着手した。台湾に築いた全事業は敗戦で失われ、在外財産の接収事務は1946年7月に台湾行政長官公署へ引き渡して完了した。内地に残ったのは、50年にわたって台湾で培った技術と人員だけだった。台湾製糖はこれを元手に、1946年7月26日、新日本興業を設立した。設立は大蔵省令第88号に基づく在外会社の内地における会社新設の許可によるもので、資本金は500万円、その半額を払い込んだ。本店は東京都渋谷区代々木西原町に、事業所は長野県野辺山に置いた。新日本興業は同年10月、商号を大東殖産へ改めた。
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [1]1945年9月に小田原工場を設置しペニシリン製造試験に着手
- [2]1946年7月に台湾行政長官公署への在外財産の接収事務が完了
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
- [3]敗戦で台湾の全事業を失い、残された技術と人員を活用して再建をはかった
- [4]設立は昭和21年7月26日
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [5]大蔵省令第88号に基づく在外会社の内地における会社新設の許可を得て、資本金500万円・半額払込で新日本興業として発足
- [6]本店を東京都渋谷区代々木西原町に、事業所を長野県野辺山に設置
- [7]1946年10月に大東殖産と商号を改めた
台湾製糖は戦前戦中、砂糖を中心にアルコールなどの醗酵事業へも進出しており、大東殖産はそこで培った醗酵技術を用いて1946年にペニシリンの製造を開始した。1947年2月には小田原市にペニシリン工場を建設し、ペニシリンの製造販売を専業として営業を開始した。発足時の設備は日産能力1屯の壜培養で、収量も1cc当り100単位内外にとどまった。1947年8月、台湾製糖が持株の全部を公開譲渡し、両社の資本関係は断絶した。以後の大東殖産は、台湾製糖と資本関係のない内地の会社である。資本金は1947年12月に1,500万円へ増額した。
- 月刊経済 1963年10月15日号
- [8]戦前戦中は砂糖を中心にアルコール等の醗酵事業にも進出し、戦後1946年にその醗酵技術を生かしてペニシリンの製造を始めた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [9]1947年2月に小田原市にペニシリン工場を建設し製造販売を専業として営業開始
- [10]日産能力1屯の壜培養から発足し、収量は1cc当り100単位内外
- [13]資本金は1947年12月に1,500万円へ増額
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [11]1947年8月に台湾製糖が持株全部を公開譲渡し資本関係が断絶
- [12]以後は台湾製糖と資本関係のない純然たる内地会社
大東殖産は1948年9月、神戸市に本格的なペニシリン工場を増設し、タンク培養による量産を開始した。日産培養能力は66屯、1cc当りの収量は4,000単位に達し、この2点で同社は業界の1、2位を占め、総合成績でも常に3、4位を保った。ペニシリンは終戦後に製造業者が相次ぎ、製造許可会社は一時72社に上ったが、販売競争の激化で漸減し、稼働する会社は10社にまで減った。台糖は1954年3月に九州出張所を閉鎖し、その業務を継承する九州台糖薬品販売を設立した。翌4月には米国ダウ・ケミカルと飲食品保存剤デハイドロ醋酸の販売で提携し、国内使用特許権の分権を受けた。
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [14]1948年9月に神戸ペニシリン工場が完成しタンク培養で量産を開始
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [15]日産培養能力66屯・1cc当り収量4,000単位で斯界の一、二位、総合成績では常に三、四位
- [16]製造許可会社は一時72社に上ったが販売競争激化で漸減し稼働会社は10社
- [17]1954年3月に九州出張所を閉鎖し九州台糖薬品販売を設立
- [18]1954年4月に米国ダウ・ケミカルと飲食品保存剤デハイドロ醋酸の販売で提携し国内使用特許権の分権を受けた
参考文献[1]-[18]
- [1]1945年9月に小田原工場を設置しペニシリン製造試験に着手
- [2]1946年7月に台湾行政長官公署への在外財産の接収事務が完了
- [11]1947年8月に台湾製糖が持株全部を公開譲渡し資本関係が断絶
- [12]以後は台湾製糖と資本関係のない純然たる内地会社
- [14]1948年9月に神戸ペニシリン工場が完成しタンク培養で量産を開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
- [3]敗戦で台湾の全事業を失い、残された技術と人員を活用して再建をはかった
- [4]設立は昭和21年7月26日
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [5]大蔵省令第88号に基づく在外会社の内地における会社新設の許可を得て、資本金500万円・半額払込で新日本興業として発足
- [6]本店を東京都渋谷区代々木西原町に、事業所を長野県野辺山に設置
- [7]1946年10月に大東殖産と商号を改めた
- [9]1947年2月に小田原市にペニシリン工場を建設し製造販売を専業として営業開始
- [10]日産能力1屯の壜培養から発足し、収量は1cc当り100単位内外
- [13]資本金は1947年12月に1,500万円へ増額
- [15]日産培養能力66屯・1cc当り収量4,000単位で斯界の一、二位、総合成績では常に三、四位
- [16]製造許可会社は一時72社に上ったが販売競争激化で漸減し稼働会社は10社
- [17]1954年3月に九州出張所を閉鎖し九州台糖薬品販売を設立
- [18]1954年4月に米国ダウ・ケミカルと飲食品保存剤デハイドロ醋酸の販売で提携し国内使用特許権の分権を受けた
- 月刊経済 1963年10月15日号
- [8]戦前戦中は砂糖を中心にアルコール等の醗酵事業にも進出し、戦後1946年にその醗酵技術を生かしてペニシリンの製造を始めた
1950年〜台糖への商号復帰と神戸工場日産610屯の精糖再開
大東殖産は1950年1月10日の臨時株主総会で定款の変更を議決した。同年5月、政令291号による在外会社の整理に沿って商号を台糖へ改め、台湾製糖の内地残余財産を承継した。台糖はあわせて、台湾製糖が営んでいた精糖業と倉庫業を引き継いだ。神戸の製糖工場は1943年7月、軍用燃料の製造への転用にともなって閉鎖されていた。台糖は1950年4月、神戸に残っていたこの戦災工場を修理し、日産能力40屯で操業を開始した。同年6月には神戸製糖工場で溶糖を始め、精製糖事業を再開した。資本金は商号変更と同じ1950年5月に3,000万円へ増額した。
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [19]1950年1月10日の臨時株主総会で定款変更を議決
- [20]1950年5月に台糖へ商号変更し台湾製糖の内地残余財産を承継。政令291号による在外会社整理
- [22]1943年7月に軍用燃料製造への転用に伴い神戸製糖工場を閉鎖
- [24]1950年6月に神戸製糖工場で溶糖を開始し精製糖事業を再開
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [21]1950年5月に台湾製糖の内地資産を継承し、その経営にかかる精糖業および倉庫業を引き継いだ
- [23]1950年4月に神戸に残存していた旧台湾製糖戦災工場を修理し日産能力40屯で操業を開始
- [25]資本金は1950年5月に3,000万円へ増額
原料甘蔗の栽培適地を失った日本の糖業は、原料糖のすべてを輸入して精製するだけの産業へ変わり、1952年4月に統制が撤廃されるまでは政府が輸入した原糖の委託加工にすぎなかった。統制撤廃と自由販売制の見通しがつくと、精糖工場の新設と増設が相次いだ。原糖の輸入外貨の割当基準が能力7・実績3の比率だったため、各社は割当を多く取ろうと能力増強へ走った。日産溶糖能力は1949年末の9社9工場585屯から1954年末の25社36工場8,965屯へ拡大した一方、需要の増加は頭打ちとなり、設備過剰が残った。台糖も2億円を投じて骨炭濾過法へ改め、4年後に日産能力を610屯とした。製品は東京食品と第一物産の2社を代理店として販売した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [26]戦後の糖業は原料糖をすべて輸入して精製するのみとなり、1952年4月の統制撤廃までは政府輸入原糖の委託加工にすぎなかった
- [27]1952年4月からの統制撤廃・自由販売制の見通しがついてから新設・増設が相次いだ
- [28]原糖の輸入外貨の割当基準が能力7・実績3の比率だったため各社は能力増強に狂奔した
- [29]日産溶糖能力は1949年末9社585屯から1954年末25社36工場8,965屯へ。需要は頭打ちで設備過剰は免れない
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [30]2億円を投じて骨炭濾過法に改め4年後に日産能力610屯
- [31]製品は東京食品・第一物産の2社を代理店として販売
資本金は1947年12月の1,500万円から1950年5月に3,000万円、1951年11月に9,000万円、1952年7月に2億円へと積み増した。台糖は1951年9月に東京証券取引所へ上場し、大阪は1952年、神戸は1954年、名古屋は1956年に順次上場した。倉庫営業部門は経営面積900余坪で発足し、逐次拡充して2,680坪となった。1947年2月にペニシリンの製造販売を専業として出発した会社は、1950年5月に精糖業と倉庫業を加え、3つの事業を並べた。1955年時点の本社は東京都中央区八重洲6の1、資本金は2億円で、武智勝社長が経営にあたった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [32]資本金は1947年12月1,500万円、1950年5月3,000万円、1951年11月9,000万円、1952年7月2億円へ増額
- [34]倉庫営業部門は経営面積900余坪で発足し、現在2,680坪
- [35]1947年2月からペニシリンの製造販売を専業とし、1950年5月に精糖業・倉庫業を引き継いだ。現在の事業は精糖業・製薬業・倉庫業
- [36]本社は東京都中央区八重洲6の1、資本金2億円、社長は武智勝
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [33]1951年9月に東京証券取引所へ上場、大阪1952年・神戸1954年・名古屋1956年に順次上場
参考文献[19]-[36]
- [19]1950年1月10日の臨時株主総会で定款変更を議決
- [20]1950年5月に台糖へ商号変更し台湾製糖の内地残余財産を承継。政令291号による在外会社整理
- [22]1943年7月に軍用燃料製造への転用に伴い神戸製糖工場を閉鎖
- [24]1950年6月に神戸製糖工場で溶糖を開始し精製糖事業を再開
- [33]1951年9月に東京証券取引所へ上場、大阪1952年・神戸1954年・名古屋1956年に順次上場
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- [21]1950年5月に台湾製糖の内地資産を継承し、その経営にかかる精糖業および倉庫業を引き継いだ
- [23]1950年4月に神戸に残存していた旧台湾製糖戦災工場を修理し日産能力40屯で操業を開始
- [25]資本金は1950年5月に3,000万円へ増額
- [30]2億円を投じて骨炭濾過法に改め4年後に日産能力610屯
- [31]製品は東京食品・第一物産の2社を代理店として販売
- [32]資本金は1947年12月1,500万円、1950年5月3,000万円、1951年11月9,000万円、1952年7月2億円へ増額
- [34]倉庫営業部門は経営面積900余坪で発足し、現在2,680坪
- [35]1947年2月からペニシリンの製造販売を専業とし、1950年5月に精糖業・倉庫業を引き継いだ。現在の事業は精糖業・製薬業・倉庫業
- [36]本社は東京都中央区八重洲6の1、資本金2億円、社長は武智勝
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [26]戦後の糖業は原料糖をすべて輸入して精製するのみとなり、1952年4月の統制撤廃までは政府輸入原糖の委託加工にすぎなかった
- [27]1952年4月からの統制撤廃・自由販売制の見通しがついてから新設・増設が相次いだ
- [28]原糖の輸入外貨の割当基準が能力7・実績3の比率だったため各社は能力増強に狂奔した
- [29]日産溶糖能力は1949年末9社585屯から1954年末25社36工場8,965屯へ。需要は頭打ちで設備過剰は免れない
1953年〜台糖ファイザー折半出資と道南製糖所の甜菜糖参入
台糖の側には、ペニシリンにとどまらず製薬を専門の事業として育てたい考えがあり、組む相手として米国の製薬会社を求めていた。一方のファイザーは、日本の技術と労働力のもとで自社のノウハウを生かそうと、醗酵技術に優れた会社を日本企業十数社から探し、台糖に行き着いた。ファイザーとの関わりは、1953年8月に田辺製薬とファイザー・コーポレーションが半分ずつ出資したファイザー田辺に始まる。同社はチャールス・ファイザー社の医薬品を小分けし、加工する会社だった。国産化が求められる段階に入ると、田辺製薬と台糖の協議にファイザーが同意し、台糖ファイザーが新たに発足する運びとなった。1955年6月、両社が折半で資本金1億円を出して台糖ファイザーを設立し、台糖はペニシリンなどの製薬部門をここへ移した。当時の台糖はペニシリンを製造販売していたが、業界の過当競争で収益は思わしくなかった。
- 月刊経済 1963年10月15日号
- [37]台糖はペニシリンだけでは足りないとして専門化した事業として進めたい意向を持ち、米国の医薬品メーカーとの提携を望んでいた
- [38]ファイザーはすぐれた醗酵技術をもつパートナーを日本企業十数社の中から探して台糖を選んだ
- [39]1953年8月に田辺製薬とファイザー・コーポレーションが折半出資でファイザー田辺を設立し、医薬品の小分け・加工を行った
- [40]製品の国産化が痛感され、田辺製薬と台糖が話合い、ファイザーも了解して台糖ファイザーが新発足
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [41]1955年に折半出資・設立当時資本金1億円で台糖ファイザーが発足
- [42]当時ペニシリンを製造販売していた台糖は業界の過当競争で収益状況が思わしくなかった
台糖は1956年6月に太平製糖を合併し、大阪工場を継承した。1958年の資本金3億円は誰の目にも過少資本で、株価は増資催促の相場を出していた。台糖は合成酒の醸造で上位10社に入る東邦酒類の株式の過半を取得し、1958年1月から経営に加わった。同社は値の張る干し芋を原料にしていたため業績を落としており、台糖はこれを自社の糖蜜に替えてアルコールの精製に取り組んだ。台湾製糖の時代に糖蜜からアルコールを造った経験が台糖にはあり、飲料アルコールは新規事業の一つに位置づけられた。増資の目的について、武智勝社長は過少資本の手直しや高率配当の引き下げを退けた。資金を要するのは新しい事業へ出ていくときであり、増資はそのために行うという方針である。
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [43]1956年6月に太平製糖を合併し大阪工場を継承
- 経済知識 1958年
- [44]資本金3億円が過少資本であることは誰がみてもハッキリしており、株価は増資催促相場を出していた
- [45]合成酒醸造の上位10社に数えられる東邦酒類(資本金2億円)の株式の過半数を獲得し1958年1月から経営に参加
- [46]東邦酒類は割高な干し芋を原料としていたため業績が急低下したが、糖蜜を原料とすればコストダウンすることが明らかだった
- [47]戦前の台湾製糖時代に糖蜜を原料としてアルコールを作っていた経験を活用
- [48]武智勝社長の増資理由についての発言
日本で消費される砂糖は年間120万から130万屯にのぼるが、北海道の甜菜糖が賄うのは8%程度で、残る9割以上を輸入糖に頼っていた。キューバのような片貿易による輸入は年間40万から50万屯に達し、外貨の出しっ放しとなるため、政府は今後10年間に40万屯の甜菜糖を北海道で生産する方針を立て、1953年に甜菜生産振興臨時措置法が成立した。道南製糖所が操業に入ったのは1959年10月である。台糖が道南に甜菜糖工場を建てようと考え始めたのは1954年にさかのぼる。1957年度に動かす当初の計画は見送られ、1959年度の操業を目指して1958年4月に道南伊達町での建設の認可を得た。計画では、原料を1日に平均1,200屯截断し、年に1万7,000屯から1万8,000屯の砂糖を産し、建設に24、5億円を投じる見込みだった。甜菜糖に乗り出すにあたり武智勝社長は、甘蔗の栽培から精製糖までを一貫して手がけてきた50年の技術と経験を生かし、もう一度土地に根ざした産業に取り組むとの抱負を掲げた。
- 経済知識 1958年
- [49]年間120万から130万屯の砂糖消費のうち北海道の甜菜糖は8%程度で残る9割以上は外糖輸入に依存
- [50]キューバのような片貿易の輸入は年間40万から50万屯に達し外貨の出しっ放しとなるため、政府は今後10年間に40万屯の甜菜糖生産方針を立て、1953年に甜菜生産振興臨時措置法が国会を通過
- [52]1954年以来道南地域に甜菜糖工場の建設を企図し、1957年度操業の当初計画を見送ったのち1959年度操業を目標に道南伊達町の工場建設認可を1958年4月に受けた
- [53]1日原料截断能力平均1,200屯、産糖高年間1万7,000屯から1万8,000屯、建設費24、5億円
- [54]武智勝社長の甜菜糖進出の抱負についての発言
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表
- [51]1959年10月に道南製糖所が操業を開始し甜菜糖事業に参入
参考文献[37]-[54]
- 月刊経済 1963年10月15日号
- [37]台糖はペニシリンだけでは足りないとして専門化した事業として進めたい意向を持ち、米国の医薬品メーカーとの提携を望んでいた
- [38]ファイザーはすぐれた醗酵技術をもつパートナーを日本企業十数社の中から探して台糖を選んだ
- [39]1953年8月に田辺製薬とファイザー・コーポレーションが折半出資でファイザー田辺を設立し、医薬品の小分け・加工を行った
- [40]製品の国産化が痛感され、田辺製薬と台糖が話合い、ファイザーも了解して台糖ファイザーが新発足
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [41]1955年に折半出資・設立当時資本金1億円で台糖ファイザーが発足
- [42]当時ペニシリンを製造販売していた台糖は業界の過当競争で収益状況が思わしくなかった
- [43]1956年6月に太平製糖を合併し大阪工場を継承
- [51]1959年10月に道南製糖所が操業を開始し甜菜糖事業に参入
- 経済知識 1958年
- [44]資本金3億円が過少資本であることは誰がみてもハッキリしており、株価は増資催促相場を出していた
- [45]合成酒醸造の上位10社に数えられる東邦酒類(資本金2億円)の株式の過半数を獲得し1958年1月から経営に参加
- [46]東邦酒類は割高な干し芋を原料としていたため業績が急低下したが、糖蜜を原料とすればコストダウンすることが明らかだった
- [47]戦前の台湾製糖時代に糖蜜を原料としてアルコールを作っていた経験を活用
- [48]武智勝社長の増資理由についての発言
- [49]年間120万から130万屯の砂糖消費のうち北海道の甜菜糖は8%程度で残る9割以上は外糖輸入に依存
- [50]キューバのような片貿易の輸入は年間40万から50万屯に達し外貨の出しっ放しとなるため、政府は今後10年間に40万屯の甜菜糖生産方針を立て、1953年に甜菜生産振興臨時措置法が国会を通過
- [52]1954年以来道南地域に甜菜糖工場の建設を企図し、1957年度操業の当初計画を見送ったのち1959年度操業を目標に道南伊達町の工場建設認可を1958年4月に受けた
- [53]1日原料截断能力平均1,200屯、産糖高年間1万7,000屯から1万8,000屯、建設費24、5億円
- [54]武智勝社長の甜菜糖進出の抱負についての発言
1946年〜1959年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 18 | n/a | 0 | 0 | 4.4% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 69 | +283.3% | 4 | 4 | 5.8% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 98 | +42.0% | 6 | 5 | 5.1% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 118 | +20.4% | 9 | 6 | 5.5% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 132 | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算
出典・参考
7件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「台糖」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)3編 企業の歴史「台糖」
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- 経済知識 1958年
- 月刊経済 1963年10月15日号
- 台糖九十年通史(台糖、1990年)年表