宇部中央銀天街商店街にて「小郡商事」を開店
ファーストリテイリング(ユニクロなどを展開)の創業は終戦直後の1949年である。山口県宇部を地盤として主に土木業に携わっていた柳井等(やない・ひとし)氏が、1949年に宇部新川駅前の商店街(宇部中央銀天街商店街)にて紳士服店「メンズショップ小郡商事」を開業し、現在のファーストリテイリングを創業した。
なお、ユニクロが店舗展開を開始したのは1984年であり、それまでの35年間は、商店街の紳士服店として経営されていた。
当時は商店街の小さな紳士服を扱う店舗に過ぎず、ありふれた零細小売店舗の一つであったが、駅前商店街の発展によりそこそこ繁盛したと言われている。
小郡商事が拠点を構えた宇部新川駅前商店街は、宇部を代表する石炭会社であった宇部興産の本社拠点の最寄であり、1950年代の石炭産業の興隆にも支えられて商売を軌道に乗せた。
小郡商事株式会社を設立
宇部新川駅前商店街の発展により、紳士服店も業容を拡大。1960年に柳井等氏は、それまで個人事業であった「小郡商事」を株式会社に改組することを決め、資本金600万円で小郡商事株式会社を設立した。
1969年には北九州市の小倉に「メンズショップOS小倉店」を出店するなど、創業の地である宇部以外にも店舗展開を開始した。
帝国銀行の調査によれば、1967年時点の小郡商事の業績は、年商は約8000万円・年間利益157万円・従業員数22名であり、商店街の小売業としては中規模の会社であった。また、取引先の金融機関は広島銀行宇部支店の1行のみであった。
なお、小郡商事はの本店の所在地は、創業地である宇部新川駅前商店街(山口県宇部市中央町2-12-12)に設置した。なお、2022年現在、小郡商事の本店所在地は公園として整備されており、かつての店舗があった形跡は存在しない。
柳井正氏が小郡商事に入社
柳井等氏の息子である柳井正氏は、早稲田大学卒業後にイトーヨーカ堂で約1年就職したのちに、1972年に実家のある宇部に戻り、家業の紳士服店の経営に携わるようになった。この当時、柳井正氏は商店街の1店主として、小郡商事の店舗を運営した。
最初の約10年間は、商店街の衰退スピードが緩かったこともあり、小郡商事は商店街で複数店舗を運営することで発展していた。商店街の一等地に存在した中堅百貨店にも出店するなど、商店街の中では発展した店舗となった。
ところが、1980年代に入ると商店街の衰退が徐々に影響に現れるようになった。このため、柳井正氏は商店街に店舗を構える小郡商事のままでは未来がないと考え、この頃から経営改革に乗り出した。
商店街(銀天街)の衰退
1980年代を通じて、宇部新川駅前商店街は「宇部興産のリストラ」と「生活圏の郊外への移転」という時代の変化に直面した。
宇部興産のリストラは、石炭産業の衰退によるものであった。企業城下町として発展した宇部新川駅商店街は、宇部興産の従業員という大口顧客がこれ以上増えないという問題に直面した。
生活圏の郊外移転は、自動車の普及によるロードサイドの発展による。1970年代に入ると道路網が整備されたことで、宇部のような地方都市にもモータリゼーションの波が到来。顧客の購買行動は「徒歩による商店街での買い物」から「自動車によるショッピングセンターでの買い物」へと変化し、宇部新川駅前商店街の衰退が決定的となった。
ただし、宇部新川駅前の衰退は一夜にして突然到来したものではなく、1970年代から2000年代にかけて徐々に影響が出たことから、危機感を持つ商店主は少なかったと思われる。1980年代には宇部新川商店街の気鋭の若手店主たちが、街を盛り上げるために立ち上がり、9億円を投資して多目的施設「銀天プラザ」を1988年に開業するなど、希望の光も存在した。
その後、これらの活性化の試みは、いずれも効果を発揮せずに失敗に終わり、商店街はシャッター街と化した。2022年現在、宇部新川駅前の商店街は商業地としての役目を終えて、空き地ないし住宅地に転換されつつある。かつて宇部新川にて最も栄えていた百貨店「デパート大和(中央大和)」は2007年に閉鎖され、跡地には高層マンションが建設されるなど、かつての繁栄の面影は跡形もなく消滅した。