1899年〜 洋酒に賭けた大阪の商店から株式会社寿屋へ
- 1899年鳥井信治郎が大阪で鳥井商店を創業
- 1902年鳥井信治郎氏の個人経営で「赤玉ポートワイン」など洋酒類の製造に着手
- 1921年個人経営・を経て寿屋を設立
- 1923年本格ウイスキーの国産化に着手
- 1923年山崎に蒸溜所を建設
- 1929年国産第1号となる「サントリーウイスキー」を発売
- 1934年寿屋麦酒部を東京麦酒として分離
サントリーホールディングスの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
赤玉ポートワインが作った元手と株式会社化
1899年2月、鳥井信治郎は大阪で鳥井商店を開いた。当時の日本で洋酒は輸入品が主であり、国産品は模倣の域を出ていない。信治郎が選んだのは、輸入ワインをそのまま売ることではなく、日本人の味覚に合わせて甘味を加えた葡萄酒を自分で調合することだった。1902年8月には個人経営のまま、甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」をはじめとする洋酒類の製造に着手している。舶来品を右から左へ流す商いではなく、原酒を仕入れて自社で味を作る商いを選んだことが、以後の同社の性格を決めた。この一品が、その後20年にわたって事業の資金を生み続けた。 [1][2]
- サントリー食品インターナショナル 有価証券報告書【沿革】
- [1]1899年2月 鳥井商店創業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [2]1902年(明治35年)8月 個人経営により赤玉ポートワインをはじめ洋酒類の製造に着手
販路が広がるにつれて事業の形も改まった。個人経営から合資会社の時代を経て、1921年12月、資本金200万円で株式会社寿屋を設立する。『会社銀行八十年史』はこの経緯を「その後漸次販路を拡張するとともに基礎を固め、合資会社時代を経て大正十年十二月資本金二百万円の(株)寿屋を創立し、業界に確固たる地歩を占めるに至つた」と記した。洋酒という当時としては新奇な商品で、大阪の一商店が20年あまりで株式会社になった計算になる。この20年で蓄えた資金と販路が、次に控えていた長期投資を支える原資となった。 [3][4]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [3]1921年12月 合資会社時代を経て資本金200万円で株式会社寿屋を設立
- [4]八十年史の記述「その後漸次販路を拡張するとともに基礎を固め、合資会社時代を経て大正十年十二月資本金二百万円の(株)寿屋を創立し、業界に確固たる地歩を占めるに至つた」
- サントリー食品インターナショナル 有価証券報告書【沿革】
- [1]1899年2月 鳥井商店創業
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [2]1902年(明治35年)8月 個人経営により赤玉ポートワインをはじめ洋酒類の製造に着手
- [3]1921年12月 合資会社時代を経て資本金200万円で株式会社寿屋を設立
- [4]八十年史の記述「その後漸次販路を拡張するとともに基礎を固め、合資会社時代を経て大正十年十二月資本金二百万円の(株)寿屋を創立し、業界に確固たる地歩を占めるに至つた」
資本が寝ることを承知で始めたウイスキー
1923年、寿屋は本格ウイスキーの国産化に着手し、山崎に蒸溜所を建設した。当時この事業が国内で手つかずだった理由を、『会社銀行八十年史』は技術ではなく資金の問題として説明している。「資本が長期間固定するため、従来国内ではその醸造が不可能視されていた」。ウイスキーは仕込みから出荷まで数年を要し、その間ずっと資金が寝る。売れるかどうかも分からない酒に、数年ぶんの運転資金を先に沈める判断であった。赤玉ポートワインが毎年生む現金がなければ、着手そのものが成り立たない。技術的な難所より先に、資金繰りの壁が立っていた事業だった。 [5][6]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [5]1923年(大正12年) 本格ウイスキーの国産化に着手
- [6]八十年史は国産化が不可能視された理由を「資本が長期間固定するため」と記述
技術を担ったのは、スコットランドで醸造を学んで帰国した竹鶴政孝である。竹鶴はのちに寿屋を離れてニッカウヰスキーを興すが、自身の回想では、留学を実らせる場を与えたのが鳥井信治郎だったと書いている。「寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長(故人)が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに」踏み切らなければ、自分を見習い技師として採用する工場があったかどうかは疑わしい、という述懐である。1929年、国産第1号となる「サントリーウイスキー」が世に出た。着手から6年が経っていた。八十年史はこれを「世界の銘酒として、寿屋の洋酒陣に光彩を添えた」と書き、1937年には「角瓶」が続いた。 [7][8][9]
- 経済人11(日本経済新聞社、1980年)竹鶴政孝「私の履歴書」
- [7]竹鶴政孝が寿屋でウイスキー製造に従事し、のちにニッカウヰスキーを創業
- [8]竹鶴政孝の回想「寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長(故人)が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [9]1929年(昭和4年) サントリーウイスキーを発売。八十年史は「世界の銘酒として、寿屋の洋酒陣に光彩を添えた」と記述
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [5]1923年(大正12年) 本格ウイスキーの国産化に着手
- [6]八十年史は国産化が不可能視された理由を「資本が長期間固定するため」と記述
- [9]1929年(昭和4年) サントリーウイスキーを発売。八十年史は「世界の銘酒として、寿屋の洋酒陣に光彩を添えた」と記述
- 経済人11(日本経済新聞社、1980年)竹鶴政孝「私の履歴書」
- [7]竹鶴政孝が寿屋でウイスキー製造に従事し、のちにニッカウヰスキーを創業
- [8]竹鶴政孝の回想「寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長(故人)が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに」
戦前に一度手放していたビール事業
戦前の寿屋は、ビールにも手を出している。1934年、同社は麦酒部を東京麦酒株式会社として分離した。当時のビール業界は整理と統合が進んだあとで、1939年時点の内地のビール会社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒の4社にまで絞られている。寿屋の系譜を引く東京麦酒は、その一角を占めていた。しかし1943年、戦時の企業整備によって東京麦酒は閉鎖される。改組から9年での消滅であり、寿屋が戦前に築いたビールの製造基盤はここで途切れた。1963年にサントリーがビールへ参入したとき、それは初挑戦ではなく、30年前に手放した事業への復帰だった。 [10][11]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「14_醸造 概説」
- [10]1934年(昭和9年) 寿屋麦酒部が改組され東京麦酒となる。1943年(昭和18年)企業整備により閉鎖
- [11]昭和14年時点の内地ビール4社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒
戦中から戦後にかけての数年は、洋酒事業にとっても平時ではなかった。八十年史は寿屋について「九年より二十五年までの間は台風、戦禍等災害が相つづいたが、それを克服し」と短く記す。1934年から1950年までの16年、同社は自然災害と戦災に続けて見舞われていた。酒類は原料が主食と競合するため、戦中戦後の食糧事情がそのまま減産に直結する業種でもある。国内の清酒生産高は戦前の年間400万石台から、1948酒造年度には67万石まで落ち込んだ。この環境を通り抜けたうえで、寿屋は戦後の大衆酒市場に向き合った。 [12][13]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [12]八十年史の記述「九年より二十五年までの間は台風、戦禍等災害が相つづいたが、それを克服し」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「14_醸造 概説」
- [13]清酒は戦前年間400万石ないし450万石を製造していたが、1948酒造年度には67万石に減少
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「14_醸造 概説」
- [10]1934年(昭和9年) 寿屋麦酒部が改組され東京麦酒となる。1943年(昭和18年)企業整備により閉鎖
- [11]昭和14年時点の内地ビール4社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒
- [13]清酒は戦前年間400万石ないし450万石を製造していたが、1948酒造年度には67万石に減少
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「壽屋」
- [12]八十年史の記述「九年より二十五年までの間は台風、戦禍等災害が相つづいたが、それを克服し」