カルピス の歴史

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創業 1917年
創業者 三島海雲
創業地 東京都渋谷区恵比寿南
創業
1917年10月、三島海雲氏が渋谷の恵比寿南でラクトー株式会社を資本金25万円で設立した。大阪の寺に生まれた三島氏は中国大陸で行商と牧場経営に失敗したのち、1908年に内モンゴルで飲んだ酸乳を手がかりに乳酸菌の研究へ移っている。1916年の醍醐味合資会社、翌1917年の『醍醐素』を経て、脱脂乳の発酵液に砂糖とカルシウムを加えた『カルピス』を1919年7月7日に発売した。1923年6月に商号をカルピス製造へ改める。1937年に増資を求めて味の素の鈴木三郎助氏へ出資を依頼した際は同社が過半数を握ったが、株は3年で戻った。1948年に特別経理会社の指定で解散し、同年12月14日に第二会社のカルピス食品工業が資本金300万円で発足、1997年9月にカルピスへ商号を改めている。
決断
価格を22年据え置いたことが、伸びと行き詰まりの両方を生んだ。1950年に資金繰りが行き詰まり、4行の協調融資と派遣役員を受け入れて以降、借入で事業を広げない判断が役員の間に残った。1956年に社長へ復帰した三島海雲氏は一社一品主義を社是に掲げ、大瓶の小売価格290円を1972年まで動かさなかった。売上高は1960年の36億1,200万円から1972年の538億6,500万円へ12年で約15倍に伸びる。1973年の石油危機で1年弱に3度の値上げを迫られると、1974年12月期の630億円を最後に売上は減少へ転じる。1980年12月期に営業損失10億8,200万円を出しながら無借金と自己資本比率73.2%は保っており、広げなかった財務がそのまま停滞の姿になった。
現況
単品の会社を立て直したのは、味の素から来た資本と人だった。1990年8月の業務提携で味の素は第三者割当増資として200億円を払い込み、1991年2月に自社の飲料事業を移管統合した。売上高は1,000億円規模となり、前年まで赤字だった営業利益は黒字へ転じている。同じ月に発売した『カルピスウォーター』は8月末に1,000万ケースへ達し、稲森俊介社長は相模工場の缶飲料能力を3倍にする40億円の投資を決めた。2006年12月期の連結売上高は1,204億円・営業利益54億円で、翌2007年10月に味の素の完全子会社となる。2012年10月には味の素が全株式をアサヒグループホールディングスへ約1,190億円で譲渡し、旧カルピス社は2016年1月にアサヒ飲料へ吸収合併されて消えた。
競合
同じ乳酸菌飲料でも、売り先を問屋に置くか家庭に置くかで道が分かれた。三島海雲氏は販売ルートの強弱が製品の明暗を決めるとみて、國分商店や祭原商店など関東・関西の大手食品問屋を通じて全国網を築き、1954年には特約店と卸売店による『カルピス会』が各地に生まれた。ヤクルト本社は逆に瓶をプラスチック容器へ替えて全国の原液工場を統合し、家庭へ直接届ける組織を自前で持つ。問屋の網は値上げをしない単品の量を運ぶには適したが、1988年の冷夏で量販店がカルピスを特売の中核商品に据えると、希望小売価格440円の商品は250円台まで下がった。値決めを他人に委ねた流通が、価格でもブランドでも守る手立てを失わせた。
長期業績の推移 1949〜2006年
カルピス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1977年12月期2006年12月期

創業ストーリー 日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発と全国問屋網の構築 (1917年〜)

日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発と全国問屋網の構築

創業ストーリー(1)

内モンゴルの酸乳から日本初の乳酸菌飲料へ

三島海雲氏は1878年、大阪府豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に、住職の長男として生まれた[1]。13歳で得度し、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学の3年に編入した[2]。在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡った[3]。北京では同志とともに日華洋行を創立し、青年たちと行商隊を組織して雑貨を売り歩いた[4]。日露戦争が始まると日本陸軍から軍馬調達を請け負い、モンゴルで軍馬を集めて資金を得た[5]。戦後はモンゴルで大牧場の経営に乗り出して全財産を投じたが、清国に革命が起こって引き揚げ、投じた資産を持ち帰れないまま東京へ戻った[6]

  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [1]三島海雲は明治11年7月2日、大阪の在、豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に生まれた。父の名を法城といい住職であった
    • [4]北京で同志とともに日華洋行を創立し、多くの青年と共に行商隊を組織して雑貨の行商をした
    • [5]日露戦役に遭遇して日本陸軍から軍馬調達の仕事を請負い、蒙古人を使って蒙古まで軍馬集めに活躍、相当の金を握ることが出来た
    • [6]戦役の終結後は蒙古で大牧場の経営を企て全財産を注ぎ込んだが、清国に革命が起り蒙古を引揚げ、投資した全財産は一物も持ち帰ることができずに東京に舞いもどった
    • [2]13歳で得度した海雲は、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学3年に編入した
    • [3]在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡航する

北京で緬羊の飼育と改良に取り組んだ三島氏は、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた[7]。長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められて乳を乳酸菌で発酵させた酸乳を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復した[8]。酸乳を日常的に摂る遊牧民のたくましさにも感心した[9]。1915年、37歳で帰国した三島氏は、日本で健康で体によいものを提供しようと、独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた[10]。1916年には醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた『醍醐味』の製造販売を始め[11]、東京本郷林町に看板を掲げた[12]。翌1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた『醍醐素』を売り出した[13]

    • [7]北京で事業を始めた海雲は、緬羊の飼育・改良を行うため、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた
    • [8]長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められ乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復し元気を取り戻した
    • [9]日常的に「酸乳」を摂取している遊牧民のたくましさに感心した
    • [10]1915年、37歳で帰国した海雲は、日本で健康で体によいものを提供しようと独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた
    • [11]1916年に醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた「醍醐味」の製造販売を開始した
    • [13]1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」の製造販売を開始した
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [12]東京本郷林町に初めて『醍醐味合資会社』の看板をかかげた

1917年10月、三島氏は渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立した[14]。資本金は25万円である[15]。翌1918年に生きた乳酸菌入りの『ラクトーキャラメル』を発売したが、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けて事業としては失敗した[16]。それでも乳酸菌飲料の研究開発を続けるなか、工場責任者が『醍醐素』に砂糖を入れて放置し、1日か2日置いて飲むと、空気中の酵母菌による発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味の釣り合った飲み物に変わっていた[17]。三島氏はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた[18]。商品名はカルシウムと、モンゴルで酸乳を指すサルピスマンダの双方から取ったとされる[19]。1919年7月7日、日本で最初の乳酸菌飲料『カルピス』を発売した[20]

  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]大正6年10月、東京都渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [15]1917年、資本金25万円をもつて設立されたラクトー会社に始まる
    • [16]1918年に生きた乳酸菌入りの「ラクトーキャラメル」を発売した。しかし、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けるなど事業としては失敗だった
    • [17]工場責任者が思いつきで「醍醐素」に砂糖を入れて放置し、1、2日後に飲んでみると、空気中の酵母菌により発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味のバランスのとれた飲み物に変化していた
    • [18]海雲はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた
    • [20]1919年7月7日、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」が発売された
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [19]製品に乳酸カルシウムを加合、商品名もカルシュームとサルピスマンダの双方からとってカルピスと命名したという話だ
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [1]三島海雲は明治11年7月2日、大阪の在、豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に生まれた。父の名を法城といい住職であった
    • [4]北京で同志とともに日華洋行を創立し、多くの青年と共に行商隊を組織して雑貨の行商をした
    • [5]日露戦役に遭遇して日本陸軍から軍馬調達の仕事を請負い、蒙古人を使って蒙古まで軍馬集めに活躍、相当の金を握ることが出来た
    • [6]戦役の終結後は蒙古で大牧場の経営を企て全財産を注ぎ込んだが、清国に革命が起り蒙古を引揚げ、投資した全財産は一物も持ち帰ることができずに東京に舞いもどった
    • [12]東京本郷林町に初めて『醍醐味合資会社』の看板をかかげた
    • [19]製品に乳酸カルシウムを加合、商品名もカルシュームとサルピスマンダの双方からとってカルピスと命名したという話だ
    • [2]13歳で得度した海雲は、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学3年に編入した
    • [3]在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡航する
    • [7]北京で事業を始めた海雲は、緬羊の飼育・改良を行うため、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた
    • [8]長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められ乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復し元気を取り戻した
    • [9]日常的に「酸乳」を摂取している遊牧民のたくましさに感心した
    • [10]1915年、37歳で帰国した海雲は、日本で健康で体によいものを提供しようと独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた
    • [11]1916年に醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた「醍醐味」の製造販売を開始した
    • [13]1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」の製造販売を開始した
    • [16]1918年に生きた乳酸菌入りの「ラクトーキャラメル」を発売した。しかし、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けるなど事業としては失敗だった
    • [17]工場責任者が思いつきで「醍醐素」に砂糖を入れて放置し、1、2日後に飲んでみると、空気中の酵母菌により発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味のバランスのとれた飲み物に変化していた
    • [18]海雲はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた
    • [20]1919年7月7日、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」が発売された
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]大正6年10月、東京都渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [15]1917年、資本金25万円をもつて設立されたラクトー会社に始まる
創業ストーリー(2)

「初恋の味」の広告と甲府盆地の集乳地開拓

三島氏は、いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた[21]。そこで合名会社國分商店(現在の国分グループ本社)や株式会社祭原商店(現在の三菱食品)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て、国内販売網を築いた[22]。カルピスは美味しくて体によい飲み物として売上を伸ばし、1923年6月には商号をカルピス製造株式会社に変更した[23]。三島氏は同社の専務取締役を務め、取締役会長には日本石油の専務を務めた津下紋太郎氏が就いた[24]。1924年7月には大阪営業所を開設した[25]。カルピスの声価が上がるとともに販路は外地にまで及び[26]、満州カルピス製造株式会社を設立した[27]

    • [21]いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた海雲
    • [22]合名会社國分商店(現・国分グループ本社㈱)や㈱祭原商店(現・三菱食品㈱)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て国内販売網を構築した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]大正12年6月、商号をカルピス製造株式会社に変更
    • [25]大正13年7月、大阪営業所(現大阪支店)を開設
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [24]大正14年刊『銀行会社要録』に『カルピス製造株式会社、資本金25万円、半額払込、取締役会長=津下紋太郎、専務取締役=三島海雲』とある。津下氏は日本石油の専務を務めた人である
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [26]カルピスの声価があがるとともに販路は外地にまで及んだ
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [27]満州カルピス製造㈱を設立した

カルピス製造は宣伝で斬新奇抜を狙い、『初恋の味』の名文句を掲げた[28]。ストローでカルピスを飲む人物を描いたポスターも組み合わせて売り込んだ[29]。このマークは水玉模様の包装とともに広く親しまれた[30]。図案は、商業美術の進んでいたドイツ、フランス、イタリアなどの専門家に募って入選したもので、1923年に採用したもので[31]、懸賞で3等に入ったドイツの無名の美術家が手がけた[32]。商号をカルピス製造に変えた直後の1923年9月1日、関東大震災が発生した[33]。カルピス製造の被害は軽微だったが、被災者は10万人を超え、水道のほとんどが止まって飲み水にも不自由していた[34]。三島氏は困っている人を助けたいという考えから、震災の翌日にトラック隊を結成し、社員全員で冷たいカルピスを被災者に無料で配って回った[35]。この配布は新聞に取り上げられ、反響を呼んだ[36]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [28]宣伝では斬新奇抜を狙い、特に「初恋の味」の名文句は世に広まった
    • [30]水玉の包装とともに広く親しまれているマーク
    • [32]懸賞三等に入選したドイツの一無名美術家の作品である
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [29]ストローでカルピスを飲んでいるポスターとを組合わせ、宣伝これつとめた
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [31]商業美術の進んでいた独・仏・伊国等の専門家募集を行なって、入選したもの(1923年に採用)
    • [33]1923年6月には商号をカルピス製造株式会社に変更した。その直後の9月1日に関東大震災が発生した
    • [34]カルピス社の被害は軽微だったが、被災者10万人を超える大災害となった。水道のほとんどが止まり、飲み水にも不自由していた
    • [35]震災翌日に「トラック隊」を結成し、社員全員で冷たい「カルピス」を無料で被災者に配って回った
    • [36]この行為は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼んだ

昭和初期の金融恐慌で、売上と利益はともに落ち込んだ[37]。ポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など容器と容量の多様化を進めたうえで、1932年7月には『赤紙包カルピス』を発売した[38]。従来品の『青紙包カルピス』の製造工程を短縮して量産し、価格を引き下げた大衆向けの普及品で、満州事変の軍需による景気回復とも重なって販売は好調で、翌年には主力商品になった[39]。生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要になった[40]。関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で酪農地の開拓に乗り出した[41]。農林省と県の協力を得て甲府盆地の農家を集め、『カルピス酪農組合』を結成して飼育農家を育て、1939年から集乳を始めた[42]。同年12月には集乳プラントとして甲府工場を新設した[43]

    • [37]昭和初期の金融恐慌の影響で、売上・利益ともに大きく落ち込んだ
    • [38]1932年7月、「赤紙包カルピス」を発売した。それまでもポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など、容器・容量の多様化を進めてきた
    • [39]「赤紙包カルピス」は従来品の「青紙包カルピス」の製造工程短縮と量産化により価格を引き下げ、大衆向けの普及品として売り出す戦略をとった。満州事変の軍需による景気回復とも重なり、販売は好調で、翌年には主力商品に成長した
    • [40]生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要となった
    • [41]関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、新規参入は困難だった。そこで東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で、酪農地の開拓に乗り出した
    • [42]農林省と県の協力を得て、甲府盆地の農家を集めて「カルピス酪農組合」を結成し、飼育農家を育成して、1939年から集乳を開始した
    • [43]1939年12月には、集乳プラントとして甲府工場を新設した
    • [21]いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた海雲
    • [22]合名会社國分商店(現・国分グループ本社㈱)や㈱祭原商店(現・三菱食品㈱)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て国内販売網を構築した
    • [33]1923年6月には商号をカルピス製造株式会社に変更した。その直後の9月1日に関東大震災が発生した
    • [34]カルピス社の被害は軽微だったが、被災者10万人を超える大災害となった。水道のほとんどが止まり、飲み水にも不自由していた
    • [35]震災翌日に「トラック隊」を結成し、社員全員で冷たい「カルピス」を無料で被災者に配って回った
    • [36]この行為は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼んだ
    • [37]昭和初期の金融恐慌の影響で、売上・利益ともに大きく落ち込んだ
    • [38]1932年7月、「赤紙包カルピス」を発売した。それまでもポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など、容器・容量の多様化を進めてきた
    • [39]「赤紙包カルピス」は従来品の「青紙包カルピス」の製造工程短縮と量産化により価格を引き下げ、大衆向けの普及品として売り出す戦略をとった。満州事変の軍需による景気回復とも重なり、販売は好調で、翌年には主力商品に成長した
    • [40]生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要となった
    • [41]関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、新規参入は困難だった。そこで東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で、酪農地の開拓に乗り出した
    • [42]農林省と県の協力を得て、甲府盆地の農家を集めて「カルピス酪農組合」を結成し、飼育農家を育成して、1939年から集乳を開始した
    • [43]1939年12月には、集乳プラントとして甲府工場を新設した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [23]大正12年6月、商号をカルピス製造株式会社に変更
    • [25]大正13年7月、大阪営業所(現大阪支店)を開設
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [24]大正14年刊『銀行会社要録』に『カルピス製造株式会社、資本金25万円、半額払込、取締役会長=津下紋太郎、専務取締役=三島海雲』とある。津下氏は日本石油の専務を務めた人である
    • [29]ストローでカルピスを飲んでいるポスターとを組合わせ、宣伝これつとめた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [26]カルピスの声価があがるとともに販路は外地にまで及んだ
    • [28]宣伝では斬新奇抜を狙い、特に「初恋の味」の名文句は世に広まった
    • [30]水玉の包装とともに広く親しまれているマーク
    • [32]懸賞三等に入選したドイツの一無名美術家の作品である
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [27]満州カルピス製造㈱を設立した
    • [31]商業美術の進んでいた独・仏・伊国等の専門家募集を行なって、入選したもの(1923年に採用)
創業ストーリー(3)

鈴木三郎助への出資依頼と1948年の第二会社設立

1937年、三島氏は増資を目的に、味の素株式会社の鈴木三郎助氏(三代目)へ出資を依頼した[44]。その結果、味の素がカルピス製造の過半数の株を保有する状態となり、鈴木氏が社長に就任した[45]。鈴木氏は味の素を創業した二代目鈴木三郎助氏の長男で、味の素の代表取締役社長と会長のほか、森永乳業の取締役や京浜急行電鉄の代表取締役社長を務めた[46]。三島氏の友人であった高島米峰氏や牧野良三氏が、カルピスは三島氏がつくった会社であり株を返してほしいと鈴木氏に交渉した[47]。鈴木氏は持ち株を手放し、1940年に三島氏が経営の先頭に戻った[48]

    • [44]1937年、海雲が増資目的で鈴木三郎助(三代目)に出資を依頼した
    • [45]味の素が過半数の株を保有する状態となったため、鈴木三郎助(三代目)が社長に就任する出来事があった
    • [46]鈴木三郎助(三代目)は1890〜1973。味の素創業者・二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長および会長、森永乳業㈱取締役、京浜急行電鉄㈱代表取締役社長等を務めた
    • [47]海雲の友人であった高島米峰や牧野良三などが「カルピスは三島がつくった会社だから返してやってくれ」と交渉した
    • [48]鈴木は快く持ち株を手放し、1940年に再び海雲が経営の先頭に立つこととなった

太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、カルピスは戦争遂行に不要な平和物資とされ、生産を中止した[49]。ところがカルピスが滋養飲料であることに着目した軍部が軍需物資に認定し、原料や物資の特配を受けて『軍用カルピス』と、ビタミンを添加した『軍用ビタカルピス』を生産し、陸軍と海軍に納入した[50]。1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した[51]。戦災で東京と甲府の全工場を焼失した[52]。三島氏以下の社員が工場を再建し、1946年には厚生乳の製造を再開した[53]。1947年には、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使ったカルピスの生産を再開し、以後は『ビタカルピス』や水飴入りの『特製カルピス』を製造販売した[54]

    • [49]太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、「カルピス」は戦争遂行に不要な“平和物資”とされ、一時生産を中止した
    • [50]「カルピス」が滋養飲料であることに着目した軍部が“軍需物資”に認定したことで、原料や物資の特配を受けて「軍用カルピス」と、ビタミンを添加した「軍用ビタカルピス」を生産し、陸軍と海軍に納入することとなった
    • [51]1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した
    • [54]三島海雲以下社員一丸となって工場を再建し、1947年、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使った「カルピス」の生産を再開した。以後、「ビタカルピス」や水飴入り「特製カルピス」などを製造・販売した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [52]20年戦災で東京、甲府の全工場を焼失した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [53]21年には早くも厚生乳の製造を再開した

1948年、カルピス製造は特別経理会社の指定を受けて解散した[55]。カルピス製造は商号を変更したのではなく、同社を解散して新会社を設立した[56]。同年12月14日、カルピス製造の第二会社として資本金300万円のカルピス食品工業株式会社が発足し、カルピスの製造を再開した[57]。三島氏が新会社の社長に就き[58]、本社は東京都渋谷区向山町53に置いた[59]。1949年には資本金を1,000万円へ増やした[60]。同年12月、カルピス食品工業は東京証券取引所に株式を上場した[61]。1917年10月のラクトー設立から32年、『カルピス』の発売から30年が経っていた[62]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [55]23年特別経理会社の指定を受けて解散した
    • [58]第二会社としてカルピス食品工業㈱を資本金300万円で設立し、カルピスの製造を再開し、三島海雲氏が社長に就任した
    • [60]24年に資本金を1,000万円に増資した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]昭和23年12月、カルピス製造株式会社を解散し、カルピス食品工業株式会社を発足
    • [61]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
    • [62]大正6年10月にラクトー株式会社を設立、大正8年7月に「カルピス」を発売、昭和24年12月に東京証券取引所に株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [57]23年12月カルピス製造の第二会社として、資本金300万円の当社を創立。設立 昭和23年12月14日
    • [59]本社 東京都渋谷区向山町53
    • [44]1937年、海雲が増資目的で鈴木三郎助(三代目)に出資を依頼した
    • [45]味の素が過半数の株を保有する状態となったため、鈴木三郎助(三代目)が社長に就任する出来事があった
    • [46]鈴木三郎助(三代目)は1890〜1973。味の素創業者・二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長および会長、森永乳業㈱取締役、京浜急行電鉄㈱代表取締役社長等を務めた
    • [47]海雲の友人であった高島米峰や牧野良三などが「カルピスは三島がつくった会社だから返してやってくれ」と交渉した
    • [48]鈴木は快く持ち株を手放し、1940年に再び海雲が経営の先頭に立つこととなった
    • [49]太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、「カルピス」は戦争遂行に不要な“平和物資”とされ、一時生産を中止した
    • [50]「カルピス」が滋養飲料であることに着目した軍部が“軍需物資”に認定したことで、原料や物資の特配を受けて「軍用カルピス」と、ビタミンを添加した「軍用ビタカルピス」を生産し、陸軍と海軍に納入することとなった
    • [51]1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した
    • [54]三島海雲以下社員一丸となって工場を再建し、1947年、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使った「カルピス」の生産を再開した。以後、「ビタカルピス」や水飴入り「特製カルピス」などを製造・販売した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [52]20年戦災で東京、甲府の全工場を焼失した
    • [57]23年12月カルピス製造の第二会社として、資本金300万円の当社を創立。設立 昭和23年12月14日
    • [59]本社 東京都渋谷区向山町53
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [53]21年には早くも厚生乳の製造を再開した
    • [55]23年特別経理会社の指定を受けて解散した
    • [58]第二会社としてカルピス食品工業㈱を資本金300万円で設立し、カルピスの製造を再開し、三島海雲氏が社長に就任した
    • [60]24年に資本金を1,000万円に増資した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]昭和23年12月、カルピス製造株式会社を解散し、カルピス食品工業株式会社を発足
    • [61]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
    • [62]大正6年10月にラクトー株式会社を設立、大正8年7月に「カルピス」を発売、昭和24年12月に東京証券取引所に株式上場

銀行管理下の再建から、売上を12年で15倍にした一社一品主義

創業ストーリー(4)

4行の協調融資と國分勘兵衛社長を迎えた新経営陣

1948年12月に資本金300万円で発足したカルピス食品工業は、甲府工場の増設と大阪工場の新設に踏み込み、従来のカルピスに加えてビタミン入りカルピスを発売し、これに合わせて宣伝を始めた[63]。しかし需要は思惑どおりに伸びず、宣伝費を賄うだけの売上が立たないまま負債が膨らみ、約8,000万円の税金を滞納した[64]。1950年、カルピス食品工業は山梨中央銀行・三井銀行第一銀行・協和銀行の4行に協調融資を仰ぎ、見返りとして銀行の派遣役員を受け入れた[65]。同年10月には従業員が半減する人員整理を実施した[66]。創業者の三島海雲氏は業績不振の責任をとり、代表権のない会長へ退いた[67]

  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [63]1948年に資本金300万円で営業を再開し、甲府工場の増設・大阪工場の新設・ビタミン入りカルピス発売という積極策をとり、宣伝を開始した
    • [64]需要に恵まれず宣伝費をカバーするほど売れず、負債が膨らみ約8,000万円の税金を滞納した
    • [65]1950年に山梨中央・三井・第一・協和の4行から協調融資を仰ぎ、見返りに銀行派遣役員を受け入れた
    • [66]1950年10月に従業員が半減する人員整理があった
    • [67]業績不振の責任をとって創業者の三島海雲は代表権のない会長に退いた

1951年、取締役13名のうち8名が交代し、國分商店の10代國分勘兵衛社長が率いる新経営陣が再建にあたった[68]。國分商店は当時、日本の酒類・食品問屋の首位にあり、その社長がカルピス食品工業の最高責任者に就いたことは信頼の回復を助けた[69]。三島氏が代表権を持たない6年間、経営の責任は國分社長を軸とする新経営陣が負った[70]。新経営陣は堅実経営を徹底して業績の回復にあたり、営業では少ない経費で効果が大きいと判断した手段に絞った[71]。卸店・小売店向けの謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場での試飲、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促を並行して実施した[72]

    • [68]1951年に取締役13名のうち8名が交代し、10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣による経営再建が進められた
    • [69]当時、日本の酒類・食品問屋のトップの座にあった國分商店の社長が最高責任者に就任したことは、信頼回復の手助けとなった
    • [70]三島海雲は1950年に代表権のない会長へ退き、1956年に6年ぶりに代表取締役社長へ復帰した。その間の経営再建は10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣が進めた
    • [71]堅実経営を徹底して業績を回復した。営業活動は少ない経費で効果が大きいと判断したものを中心に実施した
    • [72]卸店・小売店向け謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場等での試飲PR、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促活動を実施した

カルピス食品工業の売上高は1951年12月期の5億円から1952年12月期に7億円、1953年12月期には10億円へと2年で倍増し、1953年12月期には1億円の当期純利益を計上した[73]。品目も増やし、1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した[74]。1953年、カルピス食品工業は債務をすべて完済し[75]、4行の協調融資と派遣役員の受け入れで始まった銀行管理は3年で終わった[76]。完済を受けて、三島氏は1954年に代表権のある取締役会長へ戻った[77]。売上高は1954年12月期に13億円、1955年12月期に17億円へ伸びた[78]

  • 上場会社総覧 1956年版
    • [73]売上高は1951年12月期5億円、1952年12月期7億円、1953年12月期10億円。1953年12月期の当期純利益は1億円
    • [78]売上高は1954年12月期13億円、1955年12月期17億円
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [74]1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した
    • [75]1953年に債務をすべて完済した
    • [77]1953年に債務をすべて完済したことで、三島海雲は1954年に代表権のある取締役会長に就いた
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [76]1950年に4行の協調融資と銀行派遣役員の受け入れで銀行管理会社となった
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [63]1948年に資本金300万円で営業を再開し、甲府工場の増設・大阪工場の新設・ビタミン入りカルピス発売という積極策をとり、宣伝を開始した
    • [64]需要に恵まれず宣伝費をカバーするほど売れず、負債が膨らみ約8,000万円の税金を滞納した
    • [65]1950年に山梨中央・三井・第一・協和の4行から協調融資を仰ぎ、見返りに銀行派遣役員を受け入れた
    • [66]1950年10月に従業員が半減する人員整理があった
    • [67]業績不振の責任をとって創業者の三島海雲は代表権のない会長に退いた
    • [76]1950年に4行の協調融資と銀行派遣役員の受け入れで銀行管理会社となった
    • [68]1951年に取締役13名のうち8名が交代し、10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣による経営再建が進められた
    • [69]当時、日本の酒類・食品問屋のトップの座にあった國分商店の社長が最高責任者に就任したことは、信頼回復の手助けとなった
    • [70]三島海雲は1950年に代表権のない会長へ退き、1956年に6年ぶりに代表取締役社長へ復帰した。その間の経営再建は10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣が進めた
    • [71]堅実経営を徹底して業績を回復した。営業活動は少ない経費で効果が大きいと判断したものを中心に実施した
    • [72]卸店・小売店向け謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場等での試飲PR、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促活動を実施した
    • [75]1953年に債務をすべて完済した
    • [77]1953年に債務をすべて完済したことで、三島海雲は1954年に代表権のある取締役会長に就いた
  • 上場会社総覧 1956年版
    • [73]売上高は1951年12月期5億円、1952年12月期7億円、1953年12月期10億円。1953年12月期の当期純利益は1億円
    • [78]売上高は1954年12月期13億円、1955年12月期17億円
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [74]1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した
創業ストーリー(5)

三島海雲の6年ぶりの社長復帰と全糖カルピスの再開

戦後も続いた砂糖の統制が1953年に解除され、カルピス食品工業は同年から全糖のカルピスの製造・販売を再開した[79]。それまではサッカリンやズルチンといった代用甘味料と水飴を使っており、全糖の味に近づけるために重ねた研究が、のちの生産設備の改良と品質向上に生きた[80]。1954年には特約店と卸売店が自主的に組織した『カルピス会』が全国に生まれ、会員相互の親睦とカルピスの拡販による利益の拡大を掲げて、販売網とカルピスの地域への浸透を厚くした[81]。1956年12月期の売上高は22億円と、銀行管理下にあった1951年12月期の4倍を超えた[82]。三島氏は1956年に6年ぶりの代表取締役社長へ復帰した[83]

    • [79]戦後も続いていた砂糖の統制が解除され、1953年から全糖カルピスの製造・販売を再開した
    • [80]それまで代用甘味料(サッカリン、ズルチン)や水飴を使用して生産しており、全糖カルピスの味に近づけるために研究を重ねたことが、後に生産設備・生産体制の改良や品質向上に役立った
    • [81]1954年、特約店と卸売店により自主的に組織された「カルピス会」が全国に誕生した。会員相互の親睦とカルピスの普及拡販による利益拡大を目的としており、販売網の強化とカルピスの地域への浸透に大きな役割を果たした
    • [83]三島海雲は1956年に6年ぶりに代表取締役社長に復帰した
  • 上場会社総覧 1959年版
    • [82]売上高は1956年12月期22億円、1951年12月期5億円

社長へ戻った三島海雲社長は、カルピス1品に絞る『一社一品主義』を社是として掲げた[84]。1950年の資金繰りの行き詰まりと銀行管理を経た役員の間では、借入を増やしてまで事業を広げてはならないという判断が共有されていた[85]三島海雲社長は会社を自ら率い、組織づくりや人材育成への配慮は薄かったと、のちに社長を継いだ中道健太郎氏は述べた[86]。カルピス1本の小売価格は1950年の290円から1972年まで据え置かれ、値上げをしないから売上が伸び、売れるから値を上げずに済むという循環に入った[87]。1957年ごろにカルピス食品工業は過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった[88]

  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [84]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [85]銀行管理という経験から、体力の強化が先決で借金してまで事業を拡大してはならないというムードだった
    • [87]カルピス1本の値段は1950年に290円で、1972年まで据え置いた。売れるから値を上げずに済み、値上げしないから売り上げが伸びる好循環に入っていた
    • [88]1957年ごろには過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった
  • 日経ビジネス 1975年4月28日号
    • [86]中道健太郎は、優秀な創業者社長は会社を自分一人で引っ張りがちで組織や人作りへの配慮が少ないとし、亡くなった三島海雲もそうだったと述べた

カルピス食品工業は1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルトとフルーツカルピスを発売した[89]。1957年5月には渋谷区恵比寿南に研究所を新設した[90]。広告では家庭に普及し始めたテレビに目を向け、1959年からテレビCMの出稿を始めて、読売巨人軍の長嶋茂雄氏が出演するCMを流したほか、『カルピス名作劇場』などファミリー層に人気の高視聴率番組を一社単独で提供した[91]。カラーテレビや自動車が当たるクイズ形式のキャンペーンも実施した[92]。テレビCMを始めた1959年12月期の売上高は29億円で、1957年12月期の25億円から2年で4億円増えた[93]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [89]1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルト、フルーツカルピスを発売した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1957年5月、渋谷区恵比寿南に研究所を新設した
    • [91]当時家庭に普及し始めたテレビに注目し、1959年からテレビCMの出稿を開始し、読売巨人軍の長嶋茂雄が出演するCMや『カルピス名作劇場』などファミリー層に人気の高視聴率番組への一社単独提供を行った
    • [92]カラーテレビや自動車など豪華商品が当たるクイズ形式のキャンペーンを行った
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [93]売上高は1957年12月期25億円、1958年12月期26億円、1959年12月期29億円
    • [79]戦後も続いていた砂糖の統制が解除され、1953年から全糖カルピスの製造・販売を再開した
    • [80]それまで代用甘味料(サッカリン、ズルチン)や水飴を使用して生産しており、全糖カルピスの味に近づけるために研究を重ねたことが、後に生産設備・生産体制の改良や品質向上に役立った
    • [81]1954年、特約店と卸売店により自主的に組織された「カルピス会」が全国に誕生した。会員相互の親睦とカルピスの普及拡販による利益拡大を目的としており、販売網の強化とカルピスの地域への浸透に大きな役割を果たした
    • [83]三島海雲は1956年に6年ぶりに代表取締役社長に復帰した
    • [91]当時家庭に普及し始めたテレビに注目し、1959年からテレビCMの出稿を開始し、読売巨人軍の長嶋茂雄が出演するCMや『カルピス名作劇場』などファミリー層に人気の高視聴率番組への一社単独提供を行った
    • [92]カラーテレビや自動車など豪華商品が当たるクイズ形式のキャンペーンを行った
  • 上場会社総覧 1959年版
    • [82]売上高は1956年12月期22億円、1951年12月期5億円
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [84]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [85]銀行管理という経験から、体力の強化が先決で借金してまで事業を拡大してはならないというムードだった
    • [87]カルピス1本の値段は1950年に290円で、1972年まで据え置いた。売れるから値を上げずに済み、値上げしないから売り上げが伸びる好循環に入っていた
    • [88]1957年ごろには過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった
  • 日経ビジネス 1975年4月28日号
    • [86]中道健太郎は、優秀な創業者社長は会社を自分一人で引っ張りがちで組織や人作りへの配慮が少ないとし、亡くなった三島海雲もそうだったと述べた
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [89]1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルト、フルーツカルピスを発売した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1957年5月、渋谷区恵比寿南に研究所を新設した
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [93]売上高は1957年12月期25億円、1958年12月期26億円、1959年12月期29億円
創業ストーリー(6)

相模・岡山・群馬の3工場新設と年平均25%増の売上

1950年代半ばに日本が高度経済成長期に入ると、貿易自由化を受けて清涼飲料市場が広がり、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて相次いで登場した[94]。量販店が各地にでき、大量生産・大量販売の時代を迎えた[95]。カルピス食品工業は生産量を需要に追いつかせるため、工場を3つ新設した。相模工場が1961年10月、岡山工場が1968年4月、群馬工場が1972年5月に稼動した[96]。相模工場の稼動と同じ1961年10月、カルピス食品工業は大阪証券取引所へ株式を上場した[97]

    • [94]1950年代半ばの高度経済成長期に貿易自由化の影響で清涼飲料市場が拡大し、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、濃厚果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて次々に登場した
    • [95]量販店が各地にでき、流通の近代化・合理化が進み、大量生産・大量販売時代が到来した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [96]相模工場は1961年10月、岡山工場は1968年4月、群馬工場は1972年5月に稼動した
    • [97]1961年10月に大阪証券取引所に株式を上場した

相模工場の稼動前にあたる1960年の売上高36億1,200万円・営業利益4億4,100万円は、第一次石油危機前の1972年に売上高538億6,500万円・営業利益73億2,200万円へ達し、12年で売上高が約15倍、年平均25%増で伸びた[98]。乳酸菌飲料市場でカルピスはシェア80%を占めた[99]。岡山工場は30億円を投じた第2期工事で日産能力をカルピス大瓶12万本から24万本へ倍増させ、相模工場の日産13万本と合わせて需要増に備えた[100]。売上の94%をカルピス類が占め、残る6%をヨーグルトとバターが分けた[101]

    • [98]相模工場設立前の1960年(売上高36億1,200万円、営業利益4億4,100万円)から第一次石油危機前の1972年(売上高538億6,500万円、営業利益73億2,200万円)まで売上額が約15倍、年平均25%増で伸びた
  • 東邦経済 1970年「乳酸菌飲料市場を制覇 カルピス食品工業」
    • [99]乳酸菌飲料カルピスは業界シェア80%を占めた
    • [100]30億円を投入した岡山工場の第2期工事により生産能力は日産12万本(カルピス大瓶)から24万本に倍増し、相模工場は日産13万本の生産能力を持っていた
    • [101]部門別ではカルピス類が94%を占め、残る6%がヨーグルト、バターだった

カルピス食品工業は営業網も広げ、1957年に福岡へ九州事務所を置いたのを皮切りに、1959年に札幌事務所、1960年に名古屋事務所、1964年に広島事務所、1965年に仙台事務所を設け、1967年には高松に駐在を置いて、各地のカルピス会と連携しながら営業網を拡充した[102]。1965年7月に渋谷区恵比寿西へ本社社屋を新築移転し[103]、1969年5月には同区恵比寿南に東京研究所を新築移転した[104]。1968年の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通配当と特別配当を合わせ3割の配当を続けた[105]。1973年4月、カルピス食品工業は炭酸飲料『カルピスソーダ』を発売した[106]

    • [102]九州事務所(福岡・1957年)、札幌事務所(1959年)、名古屋事務所(1960年)、広島事務所(1964年)、仙台事務所(1965年)、高松駐在(1967年)を設置し、各地の「カルピス会」と連携しながら営業網を拡充した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [103]1965年7月、渋谷区恵比寿西に本社社屋を新築移転した
    • [104]1969年5月、渋谷区恵比寿南に東京研究所を新築移転した
    • [106]1973年4月、炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [105]1968年時点の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通・特別を合わせ3割の高率配当を継続していた
    • [94]1950年代半ばの高度経済成長期に貿易自由化の影響で清涼飲料市場が拡大し、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、濃厚果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて次々に登場した
    • [95]量販店が各地にでき、流通の近代化・合理化が進み、大量生産・大量販売時代が到来した
    • [98]相模工場設立前の1960年(売上高36億1,200万円、営業利益4億4,100万円)から第一次石油危機前の1972年(売上高538億6,500万円、営業利益73億2,200万円)まで売上額が約15倍、年平均25%増で伸びた
    • [102]九州事務所(福岡・1957年)、札幌事務所(1959年)、名古屋事務所(1960年)、広島事務所(1964年)、仙台事務所(1965年)、高松駐在(1967年)を設置し、各地の「カルピス会」と連携しながら営業網を拡充した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [96]相模工場は1961年10月、岡山工場は1968年4月、群馬工場は1972年5月に稼動した
    • [97]1961年10月に大阪証券取引所に株式を上場した
    • [103]1965年7月、渋谷区恵比寿西に本社社屋を新築移転した
    • [104]1969年5月、渋谷区恵比寿南に東京研究所を新築移転した
    • [106]1973年4月、炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売した
  • 東邦経済 1970年「乳酸菌飲料市場を制覇 カルピス食品工業」
    • [99]乳酸菌飲料カルピスは業界シェア80%を占めた
    • [100]30億円を投入した岡山工場の第2期工事により生産能力は日産12万本(カルピス大瓶)から24万本に倍増し、相模工場は日産13万本の生産能力を持っていた
    • [101]部門別ではカルピス類が94%を占め、残る6%がヨーグルト、バターだった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [105]1968年時点の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通・特別を合わせ3割の高率配当を継続していた

単品への依存が招いた長期低落と味の素との業務提携

創業ストーリー(7)

3度の値上げと虫歯風説、創業者三島海雲氏の死去

1973年10月の第1次石油危機は、燃料のほか牛乳、砂糖、瓶・缶容器、紙製品の価格を押し上げ、カルピス食品工業は各種製品の値上げに踏み切った[107]。全糖の『カルピス』大瓶630mlは発売再開から約20年にわたり小売価格を280円前後で保ってきたが、1973年11月に320円、12月に370円、翌1974年10月には450円へと、1年弱の間に3度値上げした[108]。消費の停滞も重なり、『カルピス』をはじめとする各種製品の売り上げの伸び率は次第に鈍化した[109]。売上高は1974年12月期の630億円を最後に減少に転じ、翌1975年12月期は555億円へ落ちた[110]。経常利益も同じ2期で34億円から28億円へ減った[111]

    • [107]1973年10月の第1次石油危機で燃料・牛乳・砂糖・瓶缶容器・紙製品の価格が高騰し、各種製品を値上げした
    • [108]全糖の「カルピス」大瓶630mlは発売再開から約20年小売価格280円前後を維持したが、1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円へと1年弱で3度値上げした
    • [109]消費の停滞で「カルピス」など各種製品の売り上げの伸び率が次第に鈍化した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [110]売上高は1974年12月期630億円、1975年12月期555億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [111]経常利益は1974年12月期34億円、1975年12月期28億円

石油危機の前後には、『カルピス』[引用元]を飲むと虫歯になるという風説が広まった[112]。歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞いたところ『カルピス』と答えたという話が学会誌などに掲載され、その内容が『カルピス』を虫歯の直接の原因とする誤解として伝わり、マスコミが何度も取りあげた[113]。カルピス食品工業は本来の虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会と日本歯科医師会の協力で冊子『子どもの歯と食生活』を製作して配布した[114]。広告も、『初恋の味』を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝へ切り替えた[115]

    • [112]「カルピス」を飲むと虫歯になるという風説が流れた
    • [113]歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞き「カルピス」と答えたという話が学会誌等に掲載され、直接の原因という誤解として広まり、マスコミで何度も取りあげられた
    • [114]虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会・日本歯科医師会の協力で冊子『子どもの歯と食生活』を製作・配布した
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [115]「初恋の味」を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝に変わらざるを得なかった

1974年12月28日、創業者の三島海雲氏が96歳で死去した[116]。役員を勇退してから1年後のことで、社葬は翌1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた[117]。三島氏は業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた後、カルピス食品工業の社是として一社一品主義を打ち出していた[118]。その一社一品主義のもとで、売上高は1973年、利益は1971年をピークに減り続けた[119]。1975年12月期から1979年12月期まで売上高は542億円から575億円の幅で動かず、経常利益も28億円から37億円の水準にとどまった[120]。1980年12月期の売上高485億9,600万円のうち、カルピスが371億円と76.4%を占め、清涼飲料は61億8,600万円、乳製品は38億2,500万円にとどまった[121]

    • [116]1974年12月28日に創業者の三島海雲が死去、享年96歳
    • [117]役員を勇退してから1年後で、社葬は1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [118]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲氏は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [119]売上高は昭和48年(1973年)、利益は昭和46年(1971年)をピークに減り続けた
    • [121]昭和55年12月期のカルピスの製品構成は売上高485億9,600万円のうちカルピス371億円(76.4%)、清涼飲料61億8,600万円(12.7%)、乳製品38億2,500万円(7.9%)、その他14億7,600万円(3.0%)
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [120]売上高は1975年12月期555億円、1976年542億円、1977年550億円、1978年575億円、1979年573億円。経常利益は同期間で28億円、37億円、33億円、36億円、28億円
    • [107]1973年10月の第1次石油危機で燃料・牛乳・砂糖・瓶缶容器・紙製品の価格が高騰し、各種製品を値上げした
    • [108]全糖の「カルピス」大瓶630mlは発売再開から約20年小売価格280円前後を維持したが、1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円へと1年弱で3度値上げした
    • [109]消費の停滞で「カルピス」など各種製品の売り上げの伸び率が次第に鈍化した
    • [112]「カルピス」を飲むと虫歯になるという風説が流れた
    • [113]歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞き「カルピス」と答えたという話が学会誌等に掲載され、直接の原因という誤解として広まり、マスコミで何度も取りあげられた
    • [114]虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会・日本歯科医師会の協力で冊子『子どもの歯と食生活』を製作・配布した
    • [116]1974年12月28日に創業者の三島海雲が死去、享年96歳
    • [117]役員を勇退してから1年後で、社葬は1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [110]売上高は1974年12月期630億円、1975年12月期555億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [111]経常利益は1974年12月期34億円、1975年12月期28億円
    • [120]売上高は1975年12月期555億円、1976年542億円、1977年550億円、1978年575億円、1979年573億円。経常利益は同期間で28億円、37億円、33億円、36億円、28億円
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [115]「初恋の味」を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝に変わらざるを得なかった
    • [118]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲氏は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [119]売上高は昭和48年(1973年)、利益は昭和46年(1971年)をピークに減り続けた
    • [121]昭和55年12月期のカルピスの製品構成は売上高485億9,600万円のうちカルピス371億円(76.4%)、清涼飲料61億8,600万円(12.7%)、乳製品38億2,500万円(7.9%)、その他14億7,600万円(3.0%)
創業ストーリー(8)

横山淑夫社長の就任と希望退職、チルド・酒類への多角化

1979年の第2次石油危機で業績は再び悪化した[122]。カルピス食品工業は1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年には希望退職の募集に踏み切った[123]。1980年12月期は営業損失10億8,200万円を計上し、現先市場での有価証券の運用益などで補って経常利益2億1,300万円を確保した[124]。それでも財務は強固で、自己資本比率は73.2%と日本企業で最高の水準にあり、無借金を保ち、流動比率は400%に迫った[125]。1972年の群馬工場建設を最後に大型投資はなく、償却対象の有形固定資産は1972年の105億円をピークに減り、1980年には67億円まで低下した[126]

    • [122]1979年の第2次石油危機の影響で業績は再び悪化に向かった
    • [123]1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年に希望退職の募集に踏み切った
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [124]昭和55年12月期は営業利益で10億8,200万円の赤字を計上し、現先市場での有価証券の運用益などでカバーして経常利益2億1,300万円を計上した
    • [125]自己資本比率は昭和55年12月期に73.2%とわが国の企業の中でも最高の水準にあり、依然として無借金、流動比率も400%に迫る
    • [126]昭和47年の群馬工場建設を最後に大型投資を実施せず、償却対象の有形固定資産は47年の105億円をピークに年々減少し、55年には67億円まで低下した

1981年3月30日の定時株主総会で、土倉冨士雄会長と中道健太郎社長がいずれも代表権のない相談役に退き、営業畑出身の横山淑夫副社長が社長に昇格した[127]。会長職は当分置かず、役員の補充を行わなかったため定員は2名減った[128]。横山淑夫社長は最大の課題を社内にまん延する甘えの構造とみて、社員をスーパーに派遣して『カルピス』の棚の管理を手伝わせ、問屋の社員と同じ車で得意先を回らせた[129]。1982年を初年度とする4カ年の中期経営計画『チャレンジ'85』では、『カルピス』ブランドの活性化、新製品・新分野への進出、合理化による生産性向上を重点方針に掲げ、最終年度に売上高800億円、営業利益15億円を目標とした[130]。あわせてCIを実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を定めた[131]

  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [127]1981年3月30日の定時株主総会で土倉冨士雄会長・中道健太郎社長がそれぞれ代表権のない相談役に退き、営業畑出身の横山淑夫副社長が社長に昇格した
    • [128]当分は会長職を置かず、会長・社長が取締役をやめた後も役員の補充人事を行わなかったため役員定員は2名減となった
    • [129]最大のお荷物は社内にまん延している甘えの構造だとして、社員をスーパーに派遣してカルピスの棚の管理を直接手伝わせたり、問屋の社員と同じ車に乗って得意先回りをさせた
    • [130]1982年を初年度とする4カ年の中期経営計画「チャレンジ'85」は「『カルピス』ブランドの活性化」「新製品・新分野への進出」「合理化による生産性向上」を重点方針とし、最終年度に売上高800億円、営業利益15億円を目指した
    • [131]CI(コーポレート・アイデンティティー)を実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を策定した

重点方針に沿って、カルピス食品工業は清涼飲料以外の分野へ本格的に進出した[132]。1981年にドリンクヨーグルトと発酵クリームをベースにしたデザートをテスト販売し、翌1982年4月にチルド専門のカルピスフーズサービスを設立した[133]。1984年にはチリワインの輸入を始めて酒類市場に入り、ホーメルとの合弁でカルピスホーメルを設立して調味・調理食品市場に参入した[134]。1977年設立のカルピススポーツサービスは、1985年にテニスクラブとスイミングクラブの経営を始めた[135]。売上高は1982年12月期の522億円から1984年12月期の593億円へ戻したものの、経常利益は19億円にとどまった[136]。『チャレンジ'85』の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫した[137]

    • [132]重点方針に従って多角化を進め、清涼飲料以外の分野にも本格的に進出した
    • [134]1984年にチリワインの輸入を開始し酒類市場に、㈱ホーメルと合弁でカルピスホーメル株式会社を設立し調味・調理食品市場にも参入した
    • [135]1977年設立のカルピススポーツサービス㈱が1985年にテニスクラブやスイミングクラブの経営も開始した
    • [137]中期経営計画「チャレンジ'85」の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫する結果となった
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [133]1981年にドリンクヨーグルトや発酵クリームをベースにしたデザートのテスト販売を実施し、翌年チルド専門のカルピスフーズサービス株式会社を設立した(有報では1982年4月)
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [136]売上高は1982年12月期522億円、1984年12月期593億円。経常利益は1984年12月期19億円
    • [122]1979年の第2次石油危機の影響で業績は再び悪化に向かった
    • [123]1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年に希望退職の募集に踏み切った
    • [130]1982年を初年度とする4カ年の中期経営計画「チャレンジ'85」は「『カルピス』ブランドの活性化」「新製品・新分野への進出」「合理化による生産性向上」を重点方針とし、最終年度に売上高800億円、営業利益15億円を目指した
    • [131]CI(コーポレート・アイデンティティー)を実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を策定した
    • [132]重点方針に従って多角化を進め、清涼飲料以外の分野にも本格的に進出した
    • [134]1984年にチリワインの輸入を開始し酒類市場に、㈱ホーメルと合弁でカルピスホーメル株式会社を設立し調味・調理食品市場にも参入した
    • [135]1977年設立のカルピススポーツサービス㈱が1985年にテニスクラブやスイミングクラブの経営も開始した
    • [137]中期経営計画「チャレンジ'85」の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫する結果となった
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [124]昭和55年12月期は営業利益で10億8,200万円の赤字を計上し、現先市場での有価証券の運用益などでカバーして経常利益2億1,300万円を計上した
    • [125]自己資本比率は昭和55年12月期に73.2%とわが国の企業の中でも最高の水準にあり、依然として無借金、流動比率も400%に迫る
    • [126]昭和47年の群馬工場建設を最後に大型投資を実施せず、償却対象の有形固定資産は47年の105億円をピークに年々減少し、55年には67億円まで低下した
    • [127]1981年3月30日の定時株主総会で土倉冨士雄会長・中道健太郎社長がそれぞれ代表権のない相談役に退き、営業畑出身の横山淑夫副社長が社長に昇格した
    • [128]当分は会長職を置かず、会長・社長が取締役をやめた後も役員の補充人事を行わなかったため役員定員は2名減となった
    • [129]最大のお荷物は社内にまん延している甘えの構造だとして、社員をスーパーに派遣してカルピスの棚の管理を直接手伝わせたり、問屋の社員と同じ車に乗って得意先回りをさせた
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [133]1981年にドリンクヨーグルトや発酵クリームをベースにしたデザートのテスト販売を実施し、翌年チルド専門のカルピスフーズサービス株式会社を設立した(有報では1982年4月)
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [136]売上高は1982年12月期522億円、1984年12月期593億円。経常利益は1984年12月期19億円
創業ストーリー(9)

福井高行社長の「脱カルピス」と3期連続の営業赤字

横山淑夫社長は、売上高に占めるカルピスの比率を8割から7割まで下げた段階で、生産・研究開発畑を歩んだ福井高行常務を後継に指名し、福井氏は1985年3月に社長へ就いた[138]。福井高行社長は多角化の土台を乳酸発酵技術に置き、就任早々に東京研究所を研究開発センターへ拡張したうえ、腸内菌叢とヒトの健康の関係を探る腸内フローラ・ラボラトリーを開設した[139]。ここから低カロリーでビフィズス菌を増やす甘味料の大豆オリゴ糖を開発し、ウイルス感染症の診断薬を発売して医薬品事業の足がかりを築き、子豚の整腸・肥育に使う飼料生菌剤を量産に乗せた[140]。国際化では、1987年にアメリカの飲料メーカーであるハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年2月に果汁入り清涼飲料『フルーツ合衆国』3品種を発売した[141]。同商品の小売ベースの売上高は約30億円に達した[142]

  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [138]横山淑夫社長は売上高に占めるカルピス比率を8割から7割まで下げた段階で技術屋の福井高行氏を後継社長に指名した。福井氏は昭和54年3月常務取締役東京研究所長、昭和60年(1985年)3月社長就任
    • [139]社長就任早々に東京研究所を研究開発センターに拡張し、腸内菌叢の状態とヒトの健康との関係を探る「腸内フローラ(菌叢)・ラボラトリー」を開設した
    • [140]低カロリーで腸内のビフィズス菌を増やす甘味料「大豆オリゴ糖」を開発し、ウイルス感染症に対する診断薬を発売して医薬品事業への足がかりを築き、子豚の整腸・肥育効果を高める「飼料生菌剤」も量産体制に入った
    • [142]「フルーツ合衆国」の小売りベースの売上高は約30億円に達した
    • [141]1987年にアメリカの飲料メーカー、ハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年1月から日本市場向け缶飲料の生産を開始、第1号商品として果汁入り清涼飲料「フルーツ合衆国」(オレンジ・アップル・グレープフルーツ)の3品種を同年2月に発売した

1988年は観測史上まれにみる冷夏となり、カルピスの売上高は前年比7%減った一方、ストレート飲料は20%伸びた[143]。量販店がカルピスを目玉商品に据えたため、メーカー希望小売価格440円の商品が250円から260円台まで下がり、一般小売店の販売意欲もお中元・お歳暮のギフト需要も冷え込んだ[144]。生産・配送の改善で量販店比率は50%程度から大幅に上がりコンビニエンスストアにも納入できたが、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた[145]。1988年12月期は売上高が前期比3%増を見込みながら、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年比90.6%減の2億円となる見通しとなった[146]。福井高行社長はこの結果の責任をとり、1988年11月15日に顧問へ退いて塩川義人専務を後任に指名した[147]

  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [143]1988年の観測史上稀に見る異常気象による冷夏で、カルピスの売上高は前年比7%ダウン、ストレート飲料は昨年より20%伸びた
    • [144]1988年はカルピスが目玉商品にされることが多く、メーカー希望小売価格440円の商品の実売が250円から260円台まで落ち込み、一般小売店の販売意欲とお中元・お歳暮のギフト用需要まで冷え込んだ
    • [145]生産・配送システムの改善で従来50%程度だった量販店比率が大幅に上昇しコンビニエンスストアにも納入できるようになった反面、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた
    • [146]1988年の売上高は前期比3%増が見込めるものの、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年より90.6%減の2億円となる見通し
    • [147]福井高行社長は1988年11月15日に顧問へ退き、塩川義人専務を次期社長に指名した

『チャレンジ'85』から続く中期経営計画『ACT'92』の事業多角化は手詰まりとなり、天候不順や消費税導入の影響も重なって、カルピス食品工業は1988年から3期連続で営業赤字を記録した[148]。同じ時期、果汁の輸入自由化決定などを背景にビール4社が清涼飲料分野へ本格参入し、大塚製薬とネッスル日本が提携するなど、飲料業界の再編が進んだ[149]。激しさを増すと予想される市場競争を勝ち残るため、カルピス食品工業は1990年8月に味の素と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売にわたる提携を結んだ[150]。同年10月から、味の素が酒類以外のカルピス食品工業製品の総発売元となった[151]

    • [148]「チャレンジ'85」から続く新中期経営計画「ACT'92」の事業多角化戦略が手詰まり状態となり、天候不順や消費税導入などの影響もあって1988年から3期連続で営業赤字を記録した
    • [149]果汁の輸入自由化決定などを背景としたビール4社の清涼飲料分野への本格参入や、大塚製薬㈱とネッスル日本㈱の提携など飲料業界の再編が進んだ
    • [150]激しさを増すと予想される市場競争を勝ち残るため、1990年8月に味の素㈱と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売を含めた提携を行った
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [151]1990年10月に味の素株式会社と製品の総発売元契約を締結し、味の素が酒類以外の製品の総発売元となった
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [138]横山淑夫社長は売上高に占めるカルピス比率を8割から7割まで下げた段階で技術屋の福井高行氏を後継社長に指名した。福井氏は昭和54年3月常務取締役東京研究所長、昭和60年(1985年)3月社長就任
    • [139]社長就任早々に東京研究所を研究開発センターに拡張し、腸内菌叢の状態とヒトの健康との関係を探る「腸内フローラ(菌叢)・ラボラトリー」を開設した
    • [140]低カロリーで腸内のビフィズス菌を増やす甘味料「大豆オリゴ糖」を開発し、ウイルス感染症に対する診断薬を発売して医薬品事業への足がかりを築き、子豚の整腸・肥育効果を高める「飼料生菌剤」も量産体制に入った
    • [142]「フルーツ合衆国」の小売りベースの売上高は約30億円に達した
    • [143]1988年の観測史上稀に見る異常気象による冷夏で、カルピスの売上高は前年比7%ダウン、ストレート飲料は昨年より20%伸びた
    • [144]1988年はカルピスが目玉商品にされることが多く、メーカー希望小売価格440円の商品の実売が250円から260円台まで落ち込み、一般小売店の販売意欲とお中元・お歳暮のギフト用需要まで冷え込んだ
    • [145]生産・配送システムの改善で従来50%程度だった量販店比率が大幅に上昇しコンビニエンスストアにも納入できるようになった反面、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた
    • [146]1988年の売上高は前期比3%増が見込めるものの、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年より90.6%減の2億円となる見通し
    • [147]福井高行社長は1988年11月15日に顧問へ退き、塩川義人専務を次期社長に指名した
    • [141]1987年にアメリカの飲料メーカー、ハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年1月から日本市場向け缶飲料の生産を開始、第1号商品として果汁入り清涼飲料「フルーツ合衆国」(オレンジ・アップル・グレープフルーツ)の3品種を同年2月に発売した
    • [148]「チャレンジ'85」から続く新中期経営計画「ACT'92」の事業多角化戦略が手詰まり状態となり、天候不順や消費税導入などの影響もあって1988年から3期連続で営業赤字を記録した
    • [149]果汁の輸入自由化決定などを背景としたビール4社の清涼飲料分野への本格参入や、大塚製薬㈱とネッスル日本㈱の提携など飲料業界の再編が進んだ
    • [150]激しさを増すと予想される市場競争を勝ち残るため、1990年8月に味の素㈱と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売を含めた提携を行った
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [151]1990年10月に味の素株式会社と製品の総発売元契約を締結し、味の素が酒類以外の製品の総発売元となった

味の素からの200億円と、アサヒへの1,200億円の株式譲渡

創業ストーリー(10)

「カルピスウォーター」1,000万ケースと40億円の投資

1990年8月に結んだ業務提携に際し、味の素はカルピス食品工業の第三者割当増資として200億円を払い込んだ[152]。1991年2月、カルピス食品工業は味の素の飲料事業を移管統合して引き受けた[153]。これにより売上高は1,000億円規模となり、前年まで赤字だった営業利益は黒字へ転じた[154]。両社は共同購入と共同発送、人的交流や研究・開発の交流を進め、飲料部門ではタイとインドネシアで合弁事業を興した[155]

同じ1991年2月に発売した『カルピスウォーター』は、発売前に想定した年間400万ケースを6月末に突破し、8月末には1,000万ケースへ達した[156]。生産が追いつかず、缶飲料の製造ラインが2本しかなかったため、担当者が委託先を確保し、20を超えるラインがフル稼働で増産に当たった[157]。1990年10月に味の素専務からカルピス食品顧問へ移り、1991年3月に社長へ就いた稲森俊介氏は、年間500万ケースだった相模工場の缶飲料の生産能力を3倍の1,500万ケースへ引き上げ、物流倉庫を新設する総額40億円の投資を決めた[158]。規模が大きすぎるという慎重論が現場から出るなか、稲森俊介社長は生産がだぶついたら自分が注文を取ってくると言い、投資に踏み切った[159]

    • [156]1991年2月発売の「カルピスウォーター」は、発売前に想定した400万ケースを6月末に突破し、8月末には1,000万ケースに達した
    • [157]生産が追いつかず、当時缶飲料の製造ラインが2本しかなかったため委託先を確保し、20数カ所のラインがフル稼働で生産に対応した
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
    • [158]稲森俊介氏は1990年10月にカルピス食品顧問、1991年3月に社長就任。年間500万ケースだった相模工場の缶飲料生産ラインを3倍の1,500万ケースに引き上げ、物流倉庫を新設する総額40億円の投資を決めた
    • [159]現場からは規模が大きすぎるという慎重論ばかりが返ったが、稲森社長は「生産がだぶついたら私が注文を取ってくる」と言って投資に踏み切った

稲森俊介社長は、下から上がってくる投資案件の8割を通すという基準を自ら定め、案件に通し番号を振って経営企画室で保管し、結論を記録に残した[160]。1991年6月には東京カナダドライを20億円で買収し、東京都内の自動販売機のルートを広げた[161]。1992年1月に相模工場の増強が完了し、夏の需要期にフル稼働して同年の売り上げ2,500万ケースにつながった[162]。『カルピスウォーター』は1992年に販売のピークを越え、1994年には約2,000万ケースまで減ったが、1991年12月期に65.0%だった売上高原価率は1994年に55.2%へ下がり、1994年12月期は増収増益に転じた[163]稲森俊介社長は1995年6月、味の素の社長へ移った[164]

  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
    • [160]稲森社長は「下から上がってくる投資条件の8割を通す」ルールを決め、案件に通し番号を振って経営企画室で保管し、結論を記録に残した
    • [162]1992年1月に相模工場の増強が完了し、夏の需要期にフル稼働、その年の売り上げ2,500万ケースに結びついた
    • [163]カルピスウォーターは1992年にピークを越え1994年には約2,000万ケースに減少したが、1991年12月期に65.0%だった売上高原価率は1994年に55.2%へ改善し、1994年12月期は増収増益に転じた
    • [164]1995年6月、稲森氏は古巣の味の素に社長として戻った
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号
    • [161]20億円をかけて東京カナダドライを買収し、東京都内の自動販売機ルートを拡大した。買収は1991年6月
  • 日経ビジネス 1995年6月26日号
    • [152]味の素は資本参加する際にカルピスの第三者割当増資として200億円を払い込んだ
    • [158]稲森俊介氏は1990年10月にカルピス食品顧問、1991年3月に社長就任。年間500万ケースだった相模工場の缶飲料生産ラインを3倍の1,500万ケースに引き上げ、物流倉庫を新設する総額40億円の投資を決めた
    • [159]現場からは規模が大きすぎるという慎重論ばかりが返ったが、稲森社長は「生産がだぶついたら私が注文を取ってくる」と言って投資に踏み切った
    • [160]稲森社長は「下から上がってくる投資条件の8割を通す」ルールを決め、案件に通し番号を振って経営企画室で保管し、結論を記録に残した
    • [162]1992年1月に相模工場の増強が完了し、夏の需要期にフル稼働、その年の売り上げ2,500万ケースに結びついた
    • [163]カルピスウォーターは1992年にピークを越え1994年には約2,000万ケースに減少したが、1991年12月期に65.0%だった売上高原価率は1994年に55.2%へ改善し、1994年12月期は増収増益に転じた
    • [164]1995年6月、稲森氏は古巣の味の素に社長として戻った
    • [153]1991年2月、味の素の飲料事業を移管統合して引き受けた
    • [154]同年発売の「カルピスウォーター」の大ヒットも手伝って、売上高は1,000億円規模となり、前年まで赤字だった営業利益も一転して黒字化した
    • [156]1991年2月発売の「カルピスウォーター」は、発売前に想定した400万ケースを6月末に突破し、8月末には1,000万ケースに達した
    • [157]生産が追いつかず、当時缶飲料の製造ラインが2本しかなかったため委託先を確保し、20数カ所のラインがフル稼働で生産に対応した
    • [155]1990年の業務提携以来、共同購入や共同発送、人的交流や研究・開発に関する交流を進め、飲料部門ではタイ、インドネシアで合弁事業を推進するなど協力関係を維持した
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号
    • [161]20億円をかけて東京カナダドライを買収し、東京都内の自動販売機ルートを拡大した。買収は1991年6月
創業ストーリー(11)

特定保健用食品「アミールS」と味の素の完全子会社化

1992年に有効成分のラクトトリペプチドを発見し、1995年11月には高血圧患者でカルピス酸乳の血圧降下作用を実証して日本臨床栄養学会で発表した[165]。1997年、血圧を下げる効用で厚生省から特定保健用食品の許可を受けた『カルピス酸乳/アミールS』を発売し、機能性食品分野へ参入した[166]。同年9月、商号をカルピス食品工業からカルピスに変更した[167]

2001年6月には食品技術者協会から産業発展功労賞を受けた[168]。製造設備への投資と物流センターの開設、拠点の統廃合によるコスト削減も進み、2004年の営業利益は単体で44億6,800万円と、黒字化した1991年の15億8,600万円の約3倍になった[169]。同年12月、創業の地である渋谷区恵比寿南にグループ本社ビルが完成した[170]

  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [168]平成13年6月、「アミールS」が食品技術者協会(IFT)より「産業発展功労賞」を受賞
    • [169]製造設備への投資や物流センターの開設、拠点の統廃合などでコストダウンを図った結果、2004年の営業利益は44億6,800万円(単体)となり、黒字化した1991年の15億8,600万円(単体)の約3倍となった
    • [170]2004年12月、創業の地である恵比寿南2丁目にグループ本社ビルが完成した

2006年1月、カルピスはコスト競争力と収益性を高める全社業務改革『KAKUSHIN-7』を始め、7つのプロジェクトチームが業務を見直したが、コストダウンと要員創出の数値目標は未達成に終わった[171]。この改革で実施した意識調査では、消費者が『カルピス』を白くて甘い飲み物、その白い色を着色料と見ていることが判明した[172]。2007年6月、味の素と株式交換契約を締結し、8月の臨時株主総会の承認を経て、10月1日に味の素の完全子会社となった[173]。1949年12月の東京証券取引所上場から58年で、株式の公開は終わった[174]。同じ2007年10月、創立90周年に合わせて新企業スローガン『カラダにピース CALPIS』を策定した[175]

    • [171]コスト競争力強化と収益性の高い企業構造構築を目的とする全社業務改革「KAKUSHIN-7」が2006年1月にスタート。7つのプロジェクトチームが各業務を見直したが、定量的なコストダウンや要員創出の数値目標は未達成に終わった
    • [172]「事業部改革」で実施した社員・消費者意識調査で、消費者は「カルピス」を単なる白くて甘い飲み物、白い色は着色料と見ていることが明白となった
    • [173]2007年6月に味の素と株式交換契約を締結し、同年8月の臨時株主総会での承認を経て、10月1日より味の素の完全子会社となった
    • [175]2007年10月、創立90周年を機に新企業スローガン「カラダにピース CALPIS」を策定した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [174]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
    • [165]1992年に有効成分ラクトトリペプチドを発見。1995年11月、カルピス酸乳の高血圧抑制効果を初めてヒト(高血圧患者)で実証し日本臨床栄養学会で発表した
    • [166]1997年に特定保健用食品「カルピス酸乳/アミールS」を発売し、機能性食品分野に本格参入した。血圧を下げる効用が認められ厚生省から特定保健用食品の認定を受けた
    • [169]製造設備への投資や物流センターの開設、拠点の統廃合などでコストダウンを図った結果、2004年の営業利益は44億6,800万円(単体)となり、黒字化した1991年の15億8,600万円(単体)の約3倍となった
    • [170]2004年12月、創業の地である恵比寿南2丁目にグループ本社ビルが完成した
    • [171]コスト競争力強化と収益性の高い企業構造構築を目的とする全社業務改革「KAKUSHIN-7」が2006年1月にスタート。7つのプロジェクトチームが各業務を見直したが、定量的なコストダウンや要員創出の数値目標は未達成に終わった
    • [172]「事業部改革」で実施した社員・消費者意識調査で、消費者は「カルピス」を単なる白くて甘い飲み物、白い色は着色料と見ていることが明白となった
    • [173]2007年6月に味の素と株式交換契約を締結し、同年8月の臨時株主総会での承認を経て、10月1日より味の素の完全子会社となった
    • [175]2007年10月、創立90周年を機に新企業スローガン「カラダにピース CALPIS」を策定した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [167]平成9年9月、商号をカルピス株式会社に変更
    • [168]平成13年6月、「アミールS」が食品技術者協会(IFT)より「産業発展功労賞」を受賞
    • [174]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
創業ストーリー(12)

1,200億円の株式譲渡とアサヒ飲料への吸収合併

味の素の完全子会社となった2か月後の2007年12月、カルピスはアサヒ飲料と共同でアサヒカルピスビバレッジを設立し、自動販売機事業を統合した[176]。2009年にはアサヒオリオンカルピス飲料を設立し、沖縄で飲料事業を営んだ[177]。2012年5月8日、味の素はカルピスの発行済株式7,393万6,871株のすべてをアサヒグループホールディングスへ約1,200億円で譲渡する契約を締結した[178]。譲渡は同年10月1日に完了し、事前配当270億円を含む譲渡価額は1,190億円となった[179]。カルピスはアサヒビールやアサヒ飲料と並ぶアサヒグループの一員として再出発した[180]

2013年9月、国内飲料事業と営業部門がアサヒ飲料へ移管統合され、同社に新設された『カルピス営業本部』が『カルピス』ブランド製品のマーケティングと販売を承継した[181]。生産では、2014年6月に群馬工場で設置後20年が経った大ペットラインを撤去し、小型ペットボトルも造れる酸性アセプティックラインを稼働させた[182]。2015年2月には岡山工場で初のアセプティックラインを立ち上げ、アサヒ飲料の『バヤリース』と『三ツ矢サイダー』の受託生産を始めた[183]。アサヒ飲料の社長にはアサヒビール出身者が就くのが通例で、買収された企業の出身者がトップに立つのは異例の人事となった[184]

    • [181]2013年9月、国内飲料事業と営業部門がアサヒ飲料に移管・統合され、同社内に新設された「カルピス営業本部」が「カルピス」ブランド製品およびその他カルピス製品のマーケティング・販売を承継した
    • [182]2014年6月、群馬工場で設置後20年が経過した大ペットラインを撤去し、小ペット(280ml〜500ml)も製造できる酸性アセプラインを導入して稼働させた
    • [183]2015年2月に岡山工場で稼働した新アセプティックラインで「バヤリース」と「三ツ矢サイダー」シリーズの生産を開始した。岡山工場でのアセプティックライン導入は初めて
    • [184]アサヒ飲料社の社長にはアサヒビール出身者が就任するのが通例で、買収された企業の出身者がトップに立つのは異例のことであった

2016年1月1日のアサヒグループの飲料事業再編で、カルピスフーズサービスがカルピス株式会社へ商号を変え、旧カルピス社の国内飲料製造事業と乳製品事業を承継した[185]。機能性食品事業と飼料事業はアサヒグループホールディングスの完全子会社アサヒカルピスウェルネスが引き継ぎ、海外飲料事業と発酵応用研究に関する組織、間接機能の一部はアサヒグループホールディングスへ移った[186]。旧カルピス社はアサヒ飲料が吸収合併し、1917年10月に渋谷区恵比寿南でラクトーとして設立された法人は99年目で消えた[187]。旧カルピス社を統合したアサヒ飲料は、『ブランドを磨き、ブランドで挑む』[引用元]を事業方針のテーマに掲げた[188]

    • [176]2007年12月、カルピスはアサヒ飲料とアサヒカルピスビバレッジを共同で設立し、自動販売機事業を統合した
    • [177]2009年にアサヒオリオンカルピス飲料を設立し、沖縄での飲料事業の基盤を強化した
    • [180]2012年10月1日よりカルピス社はアサヒビール、アサヒ飲料などと並ぶアサヒグループの一員として再スタートを切った
    • [181]2013年9月、国内飲料事業と営業部門がアサヒ飲料に移管・統合され、同社内に新設された「カルピス営業本部」が「カルピス」ブランド製品およびその他カルピス製品のマーケティング・販売を承継した
    • [182]2014年6月、群馬工場で設置後20年が経過した大ペットラインを撤去し、小ペット(280ml〜500ml)も製造できる酸性アセプラインを導入して稼働させた
    • [183]2015年2月に岡山工場で稼働した新アセプティックラインで「バヤリース」と「三ツ矢サイダー」シリーズの生産を開始した。岡山工場でのアセプティックライン導入は初めて
    • [184]アサヒ飲料社の社長にはアサヒビール出身者が就任するのが通例で、買収された企業の出身者がトップに立つのは異例のことであった
    • [185]2016年1月1日、アサヒグループは飲料事業の再編を実施し、カルピスフーズサービス㈱を新たにカルピス株式会社に商号変更して旧カルピス社の国内飲料製造事業と乳製品事業を承継させた
    • [186]機能性食品事業と飼料事業はアサヒグループホールディングスの100%子会社アサヒカルピスウェルネス㈱に承継。海外飲料事業、発酵応用研究に関する組織と間接機能の一部はアサヒグループホールディングスに移管
    • [188]旧カルピス社を完全統合したアサヒ飲料社は「ブランドを磨き、ブランドで挑む」を事業方針のテーマに掲げた
    • [178]譲渡先アサヒグループホールディングス、譲渡株式数73,936,871株(発行済み株式に対する割合100%)、譲渡価額約1,200億円、譲渡実行予定日2012年10月1日
    • [179]2012年10月1日に全株式の譲渡が完了。譲渡価額は1,190億円(事前配当270億円を含む)
    • [187]旧カルピス社はアサヒ飲料社が吸収合併した。大正6年10月、東京都渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立

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沿革年表 1917〜2016年

カルピスの沿革1917〜2016年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1949年日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発と全国問屋網の構築ラクトーを設立★★
日本で最初の乳酸菌飲料「カルピス」を発売★★★
商号をカルピス製造に変更
大阪営業所を開設
三島海雲カルピス製造を解散★★
三島海雲カルピス食品工業を発足★★
三島海雲東京証券取引所に株式上場
1950〜1973年銀行管理下の再建から、売上を12年で15倍にした一社一品主義三島海雲研究所を新設
三島海雲大阪証券取引所に株式上場
三島海雲相模工場が稼動
三島海雲本社社屋を新築移転
三島海雲岡山工場が稼動
土倉冨士雄群馬工場が稼動
土倉冨士雄炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売★★
1974〜1990年単品への依存が招いた長期低落と味の素との業務提携横山淑夫カルピスフーズサービスを設立
塩川義人味の素とカルピス製品の総発売元契約を締結★★
1991〜2016年味の素からの200億円と、アサヒへの1,200億円の株式譲渡稲森俊介味の素の飲料部門を統合★★★
稲森俊介乳性飲料「カルピスウォーター」を発売★★★
稲森俊介カルピス味の素ダノンを設立★★
小林公生乳酸菌飲料「カルピス酸乳アミール」を発売★★
小林公生商号をカルピスに変更
武藤高義カルピス味の素ダノン館林工場が稼動
石渡總平機能性素材「アミールペプチド」の原料・知財事業を開始
石渡總平群馬工場に畜産用生菌剤「カルスポリン」製造設備を新設
石渡總平味の素の完全子会社となり株式を上場廃止★★★
山田藤男アサヒグループホールディングスの完全子会社に移行★★★
岸上克彦アサヒ飲料に吸収合併され解散★★
出典・参考 25件
出典・参考

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