三島海雲氏が内モンゴルから持ち帰ったのは製法であって、売る仕組みではなかった。1919年に売り出した"カルピス"は日本に前例のない飲み物で、味がよくても店に並ばなければ誰にも届かない。そこで三島氏は、國分商店や祭原商店といった関東・関西の大手食品問屋に商品を預け、彼らがすでに持つ全国の配荷網へ一本の単品を載せた。自前の販売会社を建てるより速く、資本も要らない。1923年に採用した"初恋の味"と水玉の包装は、その網の先にいる見知らぬ客へ名前だけを届ける道具である。作る者が売り先を持たないとき、広告は網を補う唯一の手段になる。1924年に大阪営業所を置き、販路は満州にまで及んだが、末端で客と向き合うのは終始よその店だった。
同じ構図は資本にも現れた。1937年に増資を必要とした三島氏が頼ったのは銀行ではなく味の素の鈴木三郎助氏で、その結果カルピス製造の株の過半数は相手に渡り、社長の座も移る。高島米峰氏らの交渉で3年後に戻ったものの、足りないものは外から借りるという形はここで定まった。戦時中は軍が滋養飲料と認めた特配で生産を続け、1945年に東京と甲府の全工場を焼く。1948年の特別経理会社の指定で会社そのものを解散し、資本金300万円の第二会社として建て直したとき手元に残っていたのは、焼けも凍結もされない二つ、"カルピス"という名前と問屋の網だけだった。株式を東京証券取引所へ上げたのは翌1949年12月、発売から30年が経っている。
三島海雲氏は1878年、大阪府豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に、住職の長男として生まれた。13歳で得度し、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学の3年に編入した。在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡った。北京では同志とともに日華洋行を創立し、青年たちと行商隊を組織して雑貨を売り歩いた。日露戦争が始まると日本陸軍から軍馬調達を請け負い、モンゴルで軍馬を集めて資金を得た。戦後はモンゴルで大牧場の経営に乗り出して全財産を投じたが、清国に革命が起こって引き揚げ、投じた資産を持ち帰れないまま東京へ戻った。
北京で緬羊の飼育と改良に取り組んだ三島氏は、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた。長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められて乳を乳酸菌で発酵させた酸乳を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復した。酸乳を日常的に摂る遊牧民のたくましさにも感心した。1915年、37歳で帰国した三島氏は、日本で健康で体によいものを提供しようと、独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた。1916年には醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた"醍醐味"の製造販売を始め、東京本郷林町に看板を掲げた。翌1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた"醍醐素"を売り出した。
1917年10月、三島氏は渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立した。資本金は25万円である。翌1918年に生きた乳酸菌入りの"ラクトーキャラメル"を発売したが、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けて事業としては失敗した。それでも乳酸菌飲料の研究開発を続けるなか、工場責任者が"醍醐素"に砂糖を入れて放置し、1日か2日置いて飲むと、空気中の酵母菌による発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味の釣り合った飲み物に変わっていた。三島氏はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた。商品名はカルシウムと、モンゴルで酸乳を指すサルピスマンダの双方から取った。1919年7月7日、日本で最初の乳酸菌飲料"カルピス"を発売した。
三島氏は、いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた。そこで合名会社國分商店(現在の国分グループ本社)や株式会社祭原商店(現在の三菱食品)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て、国内販売網を築いた。専務取締役に三島氏が就き、日本石油で専務を経験した津下紋太郎氏を取締役会長に迎えた体制のもと、カルピスが美味で健康によい飲料として売れ行きを伸ばしたことを受けて、1923年6月に社名はカルピス製造株式会社へ改められた。1924年7月の大阪営業所開設に続いて、評判が高まるにつれ外地でも売られるようになり、満州カルピス製造株式会社が設けられた。
カルピス製造は宣伝で斬新奇抜を狙い、"初恋の味"の名文句を掲げた。ストローでカルピスを飲む人物を描いたポスターも組み合わせて売り込んだ。このマークは水玉模様の包装とともに広く親しまれた。図案は、商業美術の進んでいたドイツ、フランス、イタリアなどの専門家に募って入選したもので、1923年に採用したもので、懸賞で3等に入ったドイツの無名の美術家が手がけた。商号をカルピス製造に変えた直後の1923年9月1日、関東大震災が発生した。カルピス製造の被害は軽微だったが、被災者は10万人を超え、水道のほとんどが止まって飲み水にも不自由していた。三島氏は困っている人を助けたいという考えから、震災の翌日にトラック隊を結成し、社員全員で冷たいカルピスを被災者に無料で配って回った。この配布は新聞に取り上げられ、反響を呼んだ。
昭和初期の金融恐慌で、売上と利益はともに減少した。ポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など容器と容量の多様化を進めたうえで、1932年7月には"赤紙包カルピス"を発売した。従来品の"青紙包カルピス"の製造工程を短縮して量産し、価格を引き下げた大衆向けの普及品で、満州事変の軍需による景気回復とも重なって販売は好調で、翌年には主力商品になった。生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要になった。関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で酪農地の開拓に乗り出した。農林省と県の協力を得て甲府盆地の農家を集め、"カルピス酪農組合"を結成して飼育農家を育て、1939年から集乳を始めた。同年12月には集乳プラントとして甲府工場を新設した。
1937年、三島氏は増資を目的に、味の素株式会社の鈴木三郎助氏(三代目)へ出資を依頼した。その結果、味の素がカルピス製造の過半数の株を保有する状態となり、鈴木氏が社長に就任した。鈴木氏は味の素を創業した二代目鈴木三郎助氏の長男で、味の素の代表取締役社長と会長のほか、森永乳業の取締役や京浜急行電鉄の代表取締役社長を務めた。三島氏の友人であった高島米峰氏や牧野良三氏が、カルピスは三島氏がつくった会社であり株を返してほしいと鈴木氏に交渉した。鈴木氏は持ち株を手放し、1940年に三島氏が経営の先頭に戻った。
太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、カルピスは戦争遂行に不要な平和物資とされ、生産を中止した。ところがカルピスが滋養飲料であることに着目した軍部が軍需物資に認定し、原料や物資の特配を受けて"軍用カルピス"と、ビタミンを添加した"軍用ビタカルピス"を生産し、陸軍と海軍に納入した。1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した。戦災で東京と甲府の全工場を焼失した。三島氏以下の社員が工場を再建し、1946年には厚生乳の製造を再開した。1947年には、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使ったカルピスの生産を再開し、以後は"ビタカルピス"や水飴入りの"特製カルピス"を製造販売した。
1948年、カルピス製造は特別経理会社の指定を受けて解散した。カルピス製造は商号を変更したのではなく、同社を解散して新会社を設立した。同年12月14日、カルピス製造の第二会社として資本金300万円のカルピス食品工業株式会社が発足し、カルピスの製造を再開した。三島氏が新会社の社長に就任し、本社は東京都渋谷区向山町53に置いた。1949年には資本金を1,000万円へ増やした。同年12月、カルピス食品工業は東京証券取引所に株式を上場した。1917年10月のラクトー設立から32年、"カルピス"の発売から30年が経っていた。
1950年の銀行管理は3年で終わったのに、その後20年の経営を決めた。4行の協調融資と派遣役員を受け入れ、従業員を半分にして1953年に完済した経験が、借りてまで広げないという判断を役員の間に残したからである。借入に頼らず伸びる道は、値段を上げずに量を増やすことしかない。三島海雲氏が1956年の社長復帰で掲げた一社一品主義は、理念である前にその条件から導かれる答えだった。大瓶290円は1950年から1972年まで動かず、安いから売れ、売れるから上げずに済む循環が回る。1957年に過去の借入を一掃できたのは、その循環が利いた証である。銀行管理下の1951年12月期に5億円だった売上高は、完済した1953年12月期に10億円、1956年12月期には22億円へ達した。
循環の見返りは速度だった。売上高は1960年の36億1,200万円から1972年の538億6,500万円へ12年で約15倍、年平均25%で伸び、乳酸菌飲料市場の8割を握る。相模・岡山・群馬に工場が建ち、資本金は1961年と1963年に倍増を重ねた。ただし増えたのは同じ一本の本数であって、売り先も値段も自社の外にあるという事実は動いていない。伸びているあいだ、この危うさは見えない。据え置いた価格が伸びの条件である以上、価格を動かせば条件のほうが先に崩れる。1973年4月に炭酸飲料"カルピスソーダ"を出すまで量を運んだのはほぼ一本の原液であり、営業所を福岡から仙台まで広げても、店頭で値を決めるのは問屋と小売だった。
1948年12月に資本金300万円で発足したカルピス食品工業は、甲府工場の増設と大阪工場の新設に着手し、従来のカルピスに加えてビタミン入りカルピスを発売し、これに合わせて宣伝を始めた。しかし需要は思惑どおりに伸びず、宣伝費を賄うだけの売上が立たないまま負債が膨らみ、約8,000万円の税金を滞納した。1950年、カルピス食品工業は山梨中央銀行・三井銀行・第一銀行・協和銀行の4行に協調融資を仰ぎ、見返りとして銀行の派遣役員を受け入れた。同年10月には従業員が半減する人員整理を実施した。創業者の三島海雲氏は業績不振の責任をとり、代表権のない会長へ就任した。
1951年、取締役13名のうち8名が交代し、國分商店の10代國分勘兵衛社長が率いる新経営陣が再建にあたった。國分商店は当時、日本の酒類・食品問屋の首位にあり、その社長がカルピス食品工業の最高責任者に就任したことは信頼の回復を助けた。三島氏が代表権を持たない6年間、経営の責任は國分社長を軸とする新経営陣が負った。新経営陣は堅実経営を徹底して業績の回復にあたり、営業では少ない経費で効果が大きいと判断した手段に絞った。卸店・小売店向けの謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場での試飲、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促を並行して実施した。
カルピス食品工業の売上高は1951年12月期の5億円から1952年12月期に7億円、1953年12月期には10億円へと2年で倍増し、1953年12月期には1億円の当期純利益を計上した。品目も増やし、1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した。1953年、カルピス食品工業は債務をすべて完済し、4行の協調融資と派遣役員の受け入れで始まった銀行管理は3年で終わった。完済を受けて、三島氏は1954年に代表権のある取締役会長へ戻った。売上高は1954年12月期に13億円、1955年12月期に17億円へ伸びた。
戦後も続いた砂糖の統制が1953年に解除され、カルピス食品工業は同年から全糖のカルピスの製造・販売を再開した。それまではサッカリンやズルチンといった代用甘味料と水飴を使っており、全糖の味に近づけるために重ねた研究が、のちの生産設備の改良と品質向上に生きた。1954年には特約店と卸売店が自主的に組織した"カルピス会"が全国に生まれ、会員相互の親睦とカルピスの拡販による利益の拡大を掲げて、販売網とカルピスの地域への浸透を厚くした。1956年12月期の売上高は22億円と、銀行管理下にあった1951年12月期の4倍を超えた。三島氏は1956年に6年ぶりの代表取締役社長へ復帰した。
社長へ戻った三島海雲社長は、カルピス1品に絞る"一社一品主義"を社是として掲げた。1950年の資金繰りの行き詰まりと銀行管理を経た役員の間では、借入を増やしてまで事業を広げてはならないという判断が共有されていた。三島海雲社長は会社を自ら率い、組織づくりや人材育成への配慮は薄かったと、のちに社長を承継した中道健太郎氏は述べた。カルピス1本の小売価格は1950年の290円から1972年まで据え置かれ、値上げをしないから売上が伸び、売れるから値を上げずに済むという循環に入った。1957年ごろにカルピス食品工業は過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった。
カルピス食品工業は1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルトとフルーツカルピスを発売した。1957年5月には渋谷区恵比寿南に研究所を新設した。広告では家庭に普及し始めたテレビに目を向け、1959年からテレビCMの出稿を始めて、読売巨人軍の長嶋茂雄氏が出演するCMを流したほか、"カルピス名作劇場"などファミリー層に人気の高視聴率番組を一社単独で提供した。カラーテレビや自動車が当たるクイズ形式のキャンペーンも実施した。テレビCMを始めた1959年12月期の売上高は29億円で、1957年12月期の25億円から2年で4億円増えた。
1950年代半ばに日本が高度経済成長期に入ると、貿易自由化を受けて清涼飲料市場が広がり、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて相次いで登場した。量販店が各地にでき、大量生産・大量販売の時代を迎えた。カルピス食品工業は生産量を需要に追いつかせるため、工場を3つ新設した。相模工場が1961年10月、岡山工場が1968年4月、群馬工場が1972年5月に稼動した。相模工場の稼動と同じ1961年10月、カルピス食品工業は大阪証券取引所へ株式を上場した。資本金も、1961年7月に2億円から4億円へ、1963年7月には4億円から8億円へと、いずれも1株につき1株を割り当てて倍増した。
相模工場の稼動前にあたる1960年の売上高36億1,200万円・営業利益4億4,100万円は、第一次石油危機前の1972年に売上高538億6,500万円・営業利益73億2,200万円へ達し、12年で売上高が約15倍、年平均25%増で伸びた。乳酸菌飲料市場でカルピスはシェア80%を占めた。岡山工場は30億円を投じた第2期工事で日産能力をカルピス大瓶12万本から24万本へ倍増させ、相模工場の日産13万本と合わせて需要増に備えた。売上の94%をカルピス類が占め、残る6%をヨーグルトとバターが分けた。この12年の途中にあたる1962年12月期は、売上高58億3,756万円、営業利益4億1,323万円を計上した。
カルピス食品工業は営業網も広げ、1957年に福岡へ九州事務所を置いたのを皮切りに、1959年に札幌事務所、1960年に名古屋事務所、1964年に広島事務所、1965年に仙台事務所を設け、1967年には高松に駐在を置いて、各地のカルピス会と連携しながら営業網を拡充した。1965年7月に渋谷区恵比寿西へ本社社屋を新築移転し、1969年5月には同区恵比寿南に東京研究所を新築移転した。1968年の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通配当と特別配当を合わせ3割の配当を続けた。1973年4月、カルピス食品工業は炭酸飲料"カルピスソーダ"を発売した。
22年動かさなかった値段を1年弱で3度上げれば、量で回っていた仕組みは逆へ回る。1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円。売上高は1974年12月期の630億円を最後に減りはじめ、以後5年は542億円から575億円の間で動かない。同じころ"カルピス"を飲むと虫歯になるという風説が広まり、"初恋の味"を掲げた攻めの宣伝は、無害を訴える守りの宣伝へ切り替わった。一社一品主義は、その一品が伸びるかぎり最も効率のよい戦略であり、伸びが止まった途端に逃げ場のない戦略になる。1974年12月に96歳で死去した三島海雲氏は、その切り替わりを見ずに済んだ。
このとき会社に残っていたのは、使わなかったことの裏返しとしての強さだった。1980年12月期は営業損失10億8,200万円を出しながら無借金を保ち、自己資本比率73.2%は日本企業で最も高い水準にある。もっともそれは1972年の群馬工場を最後に大型投資を止めた結果でもあり、有形固定資産は105億円から67億円へ痩せていた。横山淑夫氏はチルドと酒類とスポーツクラブへ、福井高行氏は乳酸発酵技術を軸に医薬と飼料へ広げたが、目標の800億円には届かず、1988年から3期連続の営業赤字を出す。厚い自己資本で買えなかったのは、単品に賭けた40年ぶんの時間である。1990年8月に味の素と結んだ業務提携は、その帰結だった。
1973年10月の第1次石油危機は、燃料のほか牛乳、砂糖、瓶・缶容器、紙製品の価格を押し上げ、カルピス食品工業は各種製品の値上げに踏み切った。全糖の"カルピス"大瓶630mlは発売再開から約20年にわたり小売価格を280円前後で保ってきたが、1973年11月に320円、12月に370円、翌1974年10月には450円へと、1年弱の間に3度値上げした。消費の停滞も重なり、"カルピス"をはじめとする各種製品の売り上げの伸び率は次第に鈍化した。売上高は1974年12月期の630億円を最後に減少に転じ、翌1975年12月期は555億円へ減少した。経常利益も同じ2期で34億円から28億円へ減った。
石油危機の前後には、"カルピス"を飲むと虫歯になるという風説が広まった。歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞いたところ『カルピス』と答えたという話が学会誌などに掲載され、その内容が"カルピス"を虫歯の直接の原因とする誤解として伝わり、マスコミが何度も取りあげた。カルピス食品工業は本来の虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会と日本歯科医師会の協力で冊子"子どもの歯と食生活"を製作して配布した。広告も、"初恋の味"を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝へ切り替えた。
創業者の三島海雲氏は、業績が振るわないことを理由に代表権を返上して会長に退いてからも、一社一品主義をカルピス食品工業の社是に掲げ続けた。1974年12月28日、96歳で世を去った。役員を離れてから1年後の死で、社葬は年が明けた1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた。一社一品主義の下、売上高は1973年、利益は1971年を頂点に減り続け、1975年12月期から1979年12月期までの売上高は542億円〜575億円、経常利益は28億円〜37億円の範囲に収まった。1980年12月期の売上高485億9,600万円のうち、カルピスが371億円と76.4%を占め、清涼飲料は61億8,600万円、乳製品は38億2,500万円にとどまった。
1979年の第2次石油危機で業績は再び悪化した。カルピス食品工業は1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年には希望退職の募集に踏み切った。1980年12月期は営業損失10億8,200万円を計上し、現先市場での有価証券の運用益などで補って経常利益2億1,300万円を確保した。それでも財務は強固で、自己資本比率は73.2%と日本企業で最高の水準にあり、無借金を保ち、流動比率は400%に迫った。1972年の群馬工場建設を最後に大型投資はなく、償却対象の有形固定資産は1972年の105億円をピークに減り、1980年には67億円まで低下した。
営業畑を歩んだ横山淑夫副社長が社長に上がったのは、1981年3月30日の定時株主総会でのことである。同じ総会で土倉冨士雄会長と中道健太郎社長は代表権を持たない相談役に退いた。会長は当面空席とし、欠けた役員も補わなかったので、役員の定員は2名少なくなった。社内に広がる甘えの構造を一番の問題とみた横山淑夫社長は、社員をスーパーの売り場に送り込んで"カルピス"の売り場の手入れを手伝わせ、問屋の社員に同乗させて得意先を一緒に回らせた。1982年に始まる4カ年の中期経営計画"チャレンジ'85"は、"カルピス"ブランドのてこ入れ、新製品や新分野への進出、合理化による生産性の引き上げを重点に据え、最終年度の目標を売上高800億円・営業利益15億円とした。あわせてCIを実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を定めた。
重点方針に沿って、カルピス食品工業は清涼飲料以外の分野へ本格的に進出した。1981年にドリンクヨーグルトと発酵クリームをベースにしたデザートをテスト販売し、翌1982年4月にチルド専門のカルピスフーズサービスを設立した。1984年にはチリワインの輸入を開始して酒類市場に入り、ホーメルとの合弁でカルピスホーメルを設立して調味・調理食品市場に参入した。1977年設立のカルピススポーツサービスは、1985年にテニスクラブとスイミングクラブの経営を始めた。売上高は1982年12月期の522億円から1984年12月期の593億円へ戻したものの、経常利益は19億円にとどまった。"チャレンジ'85"の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫した。
横山淑夫社長は、売上高に占めるカルピスの比率を8割から7割まで下げた段階で、生産・研究開発畑を歩んだ福井高行常務を後継に指名し、福井氏は1985年3月に社長へ就任した。福井高行社長は多角化の土台を乳酸発酵技術に置き、就任早々に東京研究所を研究開発センターへ拡張したうえ、腸内菌叢とヒトの健康の関係を探る腸内フローラ・ラボラトリーを開設した。ここから低カロリーでビフィズス菌を増やす甘味料の大豆オリゴ糖を開発し、ウイルス感染症の診断薬を発売して医薬品事業の足がかりを築き、子豚の整腸・肥育に使う飼料生菌剤を量産に乗せた。国際化では、1987年にアメリカの飲料メーカーであるハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年2月に果汁入り清涼飲料"フルーツ合衆国"3品種を発売した。同商品の小売ベースの売上高は約30億円に達した。
1988年は観測史上まれにみる冷夏となり、カルピスの売上高は前年比7%減った一方、ストレート飲料は20%伸びた。量販店がカルピスを目玉商品に据えたため、メーカー希望小売価格440円の商品が250円から260円台まで下がり、一般小売店の販売意欲もお中元・お歳暮のギフト需要も冷え込んだ。生産・配送の改善で量販店比率は50%程度から大幅に上がりコンビニエンスストアにも納入できたが、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた。1988年12月期は売上高が前期比3%増を見込みながら、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年比90.6%減の2億円となる見通しとなった。福井高行社長はこの結果の責任をとり、1988年11月15日に顧問へ退いて塩川義人専務を後任に指名した。
"チャレンジ'85"から続く中期経営計画"ACT'92"の事業多角化は手詰まりとなり、天候不順や消費税導入の影響も重なって、カルピス食品工業は1988年から3期連続で営業赤字を記録した。同じ時期、果汁の輸入自由化決定などを背景にビール4社が清涼飲料分野へ本格参入し、大塚製薬とネッスル日本が提携するなど、飲料業界の再編が進んだ。激しさを増すと予想される市場競争で競争優位を保って生き残るため、カルピス食品工業は1990年8月に味の素と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売にわたる提携を締結した。同年10月から、味の素が酒類以外のカルピス食品工業製品の総発売元となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1949年日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発と全国問屋網の構築 | ラクトーを設立 | ★★ | ||
| 日本で最初の乳酸菌飲料「カルピス」を発売 | ★★★ | |||
| 商号をカルピス製造に変更 | ★ | |||
| 大阪営業所を開設 | ★ | |||
| 三島海雲 | カルピス製造を解散 | ★★ | ||
| 三島海雲 | カルピス食品工業を発足 | ★★ | ||
| 三島海雲 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1950〜1973年銀行管理下の再建から、売上を12年で15倍にした一社一品主義 | 三島海雲 | 研究所を新設 | ★ | |
| 三島海雲 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 三島海雲 | 相模工場が稼動 | ★ | ||
| 三島海雲 | 本社社屋を新築移転 | ★ | ||
| 三島海雲 | 岡山工場が稼動 | ★ | ||
| 土倉冨士雄 | 群馬工場が稼動 | ★ | ||
| 土倉冨士雄 | 炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売 | ★★ | ||
| 1974〜1990年単品への依存が招いた長期低落と味の素との業務提携 | 横山淑夫 | カルピスフーズサービスを設立 | ★ | |
| 塩川義人 | 味の素とカルピス製品の総発売元契約を締結 | ★★ | ||
| 1991〜2007年味の素飲料部門の統合とカルピスウォーター・アミール、味の素の完全子会社化まで | 稲森俊介 | 味の素の飲料部門を統合 | ★★★ | |
| 稲森俊介 | 乳性飲料「カルピスウォーター」を発売 | ★★★ | ||
| 稲森俊介 | カルピス味の素ダノンを設立 | ★★ | ||
| 小林公生 | 乳酸菌飲料「カルピス酸乳アミール」を発売 | ★★ | ||
| 小林公生 | 商号をカルピスに変更 | ★ | ||
| 武藤高義 | カルピス味の素ダノン館林工場が稼動 | ★ | ||
| 石渡總平 | 機能性素材「アミールペプチド」の原料・知財事業を開始 | ★ | ||
| 石渡總平 | 群馬工場に畜産用生菌剤「カルスポリン」製造設備を新設 | ★ | ||
| 石渡總平 | 味の素の完全子会社となり株式を上場廃止 | ★★★ | ||
| 山田藤男 | アサヒグループホールディングスの完全子会社に移行 | ★★★ | ||
| 岸上克彦 | アサヒ飲料に吸収合併され解散 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(カルピス)