第1章 年〜年

カルピス:日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の開発と全国問屋網の構築

1917年〜内モンゴルの酸乳から日本初の乳酸菌飲料へ

三島海雲氏は1878年、大阪府豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に、住職の長男として生まれた。13歳で得度し、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学の3年に編入した。在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡った。北京では同志とともに日華洋行を創立し、青年たちと行商隊を組織して雑貨を売り歩いた。日露戦争が始まると日本陸軍から軍馬調達を請け負い、モンゴルで軍馬を集めて資金を得た。戦後はモンゴルで大牧場の経営に乗り出して全財産を投じたが、清国に革命が起こって引き揚げ、投じた資産を持ち帰れないまま東京へ戻った。

  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [1]三島海雲は明治11年7月2日、大阪の在、豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に生まれた。父の名を法城といい住職であった
    • [4]北京で同志とともに日華洋行を創立し、多くの青年と共に行商隊を組織して雑貨の行商をした
    • [5]日露戦役に遭遇して日本陸軍から軍馬調達の仕事を請負い、蒙古人を使って蒙古まで軍馬集めに活躍、相当の金を握ることが出来た
    • [6]戦役の終結後は蒙古で大牧場の経営を企て全財産を注ぎ込んだが、清国に革命が起り蒙古を引揚げ、投資した全財産は一物も持ち帰ることができずに東京に舞いもどった
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [2]13歳で得度した海雲は、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学3年に編入した
    • [3]在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡航する

北京で緬羊の飼育と改良に取り組んだ三島氏は、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた。長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められて乳を乳酸菌で発酵させた酸乳を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復した。酸乳を日常的に摂る遊牧民のたくましさにも感心した。1915年、37歳で帰国した三島氏は、日本で健康で体によいものを提供しようと、独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた。1916年には醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた"醍醐味"の製造販売を始め、東京本郷林町に看板を掲げた。翌1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた"醍醐素"を売り出した。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [7]北京で事業を始めた海雲は、緬羊の飼育・改良を行うため、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた
    • [8]長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められ乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復し元気を取り戻した
    • [9]日常的に「酸乳」を摂取している遊牧民のたくましさに感心した
    • [10]1915年、37歳で帰国した海雲は、日本で健康で体によいものを提供しようと独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた
    • [11]1916年に醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた「醍醐味」の製造販売を開始した
    • [13]1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」の製造販売を開始した
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [12]東京本郷林町に初めて『醍醐味合資会社』の看板をかかげた

1917年10月、三島氏は渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立した。資本金は25万円である。翌1918年に生きた乳酸菌入りの"ラクトーキャラメル"を発売したが、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けて事業としては失敗した。それでも乳酸菌飲料の研究開発を続けるなか、工場責任者が"醍醐素"に砂糖を入れて放置し、1日か2日置いて飲むと、空気中の酵母菌による発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味の釣り合った飲み物に変わっていた。三島氏はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた。商品名はカルシウムと、モンゴルで酸乳を指すサルピスマンダの双方から取った。1919年7月7日、日本で最初の乳酸菌飲料"カルピス"を発売した。

  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]大正6年10月、東京都渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [15]1917年、資本金25万円をもつて設立されたラクトー会社に始まる
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [16]1918年に生きた乳酸菌入りの「ラクトーキャラメル」を発売した。しかし、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けるなど事業としては失敗だった
    • [17]工場責任者が思いつきで「醍醐素」に砂糖を入れて放置し、1、2日後に飲んでみると、空気中の酵母菌により発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味のバランスのとれた飲み物に変化していた
    • [18]海雲はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた
    • [20]1919年7月7日、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」が発売された
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [19]製品に乳酸カルシウムを加合、商品名もカルシュームとサルピスマンダの双方からとってカルピスと命名したという話だ
参考文献[1]-[20]
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [1]三島海雲は明治11年7月2日、大阪の在、豊能郡萱野村の浄土真宗の寺に生まれた。父の名を法城といい住職であった
    • [4]北京で同志とともに日華洋行を創立し、多くの青年と共に行商隊を組織して雑貨の行商をした
    • [5]日露戦役に遭遇して日本陸軍から軍馬調達の仕事を請負い、蒙古人を使って蒙古まで軍馬集めに活躍、相当の金を握ることが出来た
    • [6]戦役の終結後は蒙古で大牧場の経営を企て全財産を注ぎ込んだが、清国に革命が起り蒙古を引揚げ、投資した全財産は一物も持ち帰ることができずに東京に舞いもどった
    • [12]東京本郷林町に初めて『醍醐味合資会社』の看板をかかげた
    • [19]製品に乳酸カルシウムを加合、商品名もカルシュームとサルピスマンダの双方からとってカルピスと命名したという話だ
    • [2]13歳で得度した海雲は、西本願寺文学寮を卒業して中学の英語教師を2年間務めたのち、仏教大学3年に編入した
    • [3]在学中に大学から中国行きを勧められ、1902年に中国大陸へ渡航する
    • [7]北京で事業を始めた海雲は、緬羊の飼育・改良を行うため、1908年に内モンゴル東部の克什克騰旗を訪れた
    • [8]長旅で体調を崩していたが、遊牧民に勧められ乳を乳酸菌で発酵させた「酸乳」を毎日飲んだところ、弱っていた胃腸の調子が回復し元気を取り戻した
    • [9]日常的に「酸乳」を摂取している遊牧民のたくましさに感心した
    • [10]1915年、37歳で帰国した海雲は、日本で健康で体によいものを提供しようと独自の乳酸菌発酵による食品の研究を重ねた
    • [11]1916年に醍醐味合資会社を設立し、乳から取ったクリームを乳酸菌で発酵させた「醍醐味」の製造販売を開始した
    • [13]1917年には、脱脂乳を乳酸菌で発酵させた「醍醐素」の製造販売を開始した
    • [16]1918年に生きた乳酸菌入りの「ラクトーキャラメル」を発売した。しかし、当時は乳製品の流通や保存法が不完全で、暑さでキャラメルが溶けるなど事業としては失敗だった
    • [17]工場責任者が思いつきで「醍醐素」に砂糖を入れて放置し、1、2日後に飲んでみると、空気中の酵母菌により発酵が進み、香り豊かで甘味と酸味のバランスのとれた飲み物に変化していた
    • [18]海雲はこれだけでは商品価値に乏しいと考え、当時の日本人に不足していたカルシウムを加えた
    • [20]1919年7月7日、日本初の乳酸菌飲料「カルピス」が発売された
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]大正6年10月、東京都渋谷区恵比寿南にラクトー株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [15]1917年、資本金25万円をもつて設立されたラクトー会社に始まる

1923年〜「初恋の味」の広告と甲府盆地の集乳地開拓

三島氏は、いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた。そこで合名会社國分商店(現在の国分グループ本社)や株式会社祭原商店(現在の三菱食品)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て、国内販売網を築いた。専務取締役に三島氏が就き、日本石油で専務を経験した津下紋太郎氏を取締役会長に迎えた体制のもと、カルピスが美味で健康によい飲料として売れ行きを伸ばしたことを受けて、1923年6月に社名はカルピス製造株式会社へ改められた。1924年7月の大阪営業所開設に続いて、評判が高まるにつれ外地でも売られるようになり、満州カルピス製造株式会社が設けられた。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [21]いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた海雲
    • [22]合名会社國分商店(現・国分グループ本社㈱)や㈱祭原商店(現・三菱食品㈱)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て国内販売網を構築した
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [23]大正14年刊『銀行会社要録』に『カルピス製造株式会社、資本金25万円、半額払込、取締役会長=津下紋太郎、専務取締役=三島海雲』とある。津下氏は日本石油の専務を務めた人である
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [24]大正12年6月、商号をカルピス製造株式会社に変更
    • [25]大正13年7月、大阪営業所(現大阪支店)を開設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [26]カルピスの声価があがるとともに販路は外地にまで及んだ
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [27]満州カルピス製造㈱を設立した

カルピス製造は宣伝で斬新奇抜を狙い、"初恋の味"の名文句を掲げた。ストローでカルピスを飲む人物を描いたポスターも組み合わせて売り込んだ。このマークは水玉模様の包装とともに広く親しまれた。図案は、商業美術の進んでいたドイツ、フランス、イタリアなどの専門家に募って入選したもので、1923年に採用したもので、懸賞で3等に入ったドイツの無名の美術家が手がけた。商号をカルピス製造に変えた直後の1923年9月1日、関東大震災が発生した。カルピス製造の被害は軽微だったが、被災者は10万人を超え、水道のほとんどが止まって飲み水にも不自由していた。三島氏は困っている人を助けたいという考えから、震災の翌日にトラック隊を結成し、社員全員で冷たいカルピスを被災者に無料で配って回った。この配布は新聞に取り上げられ、反響を呼んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [28]宣伝では斬新奇抜を狙い、特に「初恋の味」の名文句は世に広まった
    • [30]水玉の包装とともに広く親しまれているマーク
    • [32]懸賞三等に入選したドイツの一無名美術家の作品である
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [29]ストローでカルピスを飲んでいるポスターとを組合わせ、宣伝これつとめた
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [31]商業美術の進んでいた独・仏・伊国等の専門家募集を行なって、入選したもの(1923年に採用)
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [33]1923年6月には商号をカルピス製造株式会社に変更した。その直後の9月1日に関東大震災が発生した
    • [34]カルピス社の被害は軽微だったが、被災者10万人を超える大災害となった。水道のほとんどが止まり、飲み水にも不自由していた
    • [35]震災翌日に「トラック隊」を結成し、社員全員で冷たい「カルピス」を無料で被災者に配って回った
    • [36]この行為は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼んだ

昭和初期の金融恐慌で、売上と利益はともに減少した。ポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など容器と容量の多様化を進めたうえで、1932年7月には"赤紙包カルピス"を発売した。従来品の"青紙包カルピス"の製造工程を短縮して量産し、価格を引き下げた大衆向けの普及品で、満州事変の軍需による景気回復とも重なって販売は好調で、翌年には主力商品になった。生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要になった。関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で酪農地の開拓に乗り出した。農林省と県の協力を得て甲府盆地の農家を集め、"カルピス酪農組合"を結成して飼育農家を育て、1939年から集乳を始めた。同年12月には集乳プラントとして甲府工場を新設した。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [37]昭和初期の金融恐慌の影響で、売上・利益ともに大きく落ち込んだ
    • [38]1932年7月、「赤紙包カルピス」を発売した。それまでもポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など、容器・容量の多様化を進めてきた
    • [39]「赤紙包カルピス」は従来品の「青紙包カルピス」の製造工程短縮と量産化により価格を引き下げ、大衆向けの普及品として売り出す戦略をとった。満州事変の軍需による景気回復とも重なり、販売は好調で、翌年には主力商品に成長した
    • [40]生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要となった
    • [41]関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、新規参入は困難だった。そこで東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で、酪農地の開拓に乗り出した
    • [42]農林省と県の協力を得て、甲府盆地の農家を集めて「カルピス酪農組合」を結成し、飼育農家を育成して、1939年から集乳を開始した
    • [43]1939年12月には、集乳プラントとして甲府工場を新設した
参考文献[21]-[43]
    • [21]いくら製品がよくても販売ルートの強弱が製品の明暗を分けると考えた海雲
    • [22]合名会社國分商店(現・国分グループ本社㈱)や㈱祭原商店(現・三菱食品㈱)など関東・関西の大手食品問屋の協力を得て国内販売網を構築した
    • [33]1923年6月には商号をカルピス製造株式会社に変更した。その直後の9月1日に関東大震災が発生した
    • [34]カルピス社の被害は軽微だったが、被災者10万人を超える大災害となった。水道のほとんどが止まり、飲み水にも不自由していた
    • [35]震災翌日に「トラック隊」を結成し、社員全員で冷たい「カルピス」を無料で被災者に配って回った
    • [36]この行為は新聞に取り上げられ、大きな反響を呼んだ
    • [37]昭和初期の金融恐慌の影響で、売上・利益ともに大きく落ち込んだ
    • [38]1932年7月、「赤紙包カルピス」を発売した。それまでもポケットサイズの小瓶や中瓶、大型の徳用瓶など、容器・容量の多様化を進めてきた
    • [39]「赤紙包カルピス」は従来品の「青紙包カルピス」の製造工程短縮と量産化により価格を引き下げ、大衆向けの普及品として売り出す戦略をとった。満州事変の軍需による景気回復とも重なり、販売は好調で、翌年には主力商品に成長した
    • [40]生産拡大に伴い、原料乳の新たな集乳地が必要となった
    • [41]関東周辺の主な酪農地帯は大手乳業各社が抑えており、新規参入は困難だった。そこで東京に近いが酪農が未発達だった山梨県で、酪農地の開拓に乗り出した
    • [42]農林省と県の協力を得て、甲府盆地の農家を集めて「カルピス酪農組合」を結成し、飼育農家を育成して、1939年から集乳を開始した
    • [43]1939年12月には、集乳プラントとして甲府工場を新設した
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
    • [23]大正14年刊『銀行会社要録』に『カルピス製造株式会社、資本金25万円、半額払込、取締役会長=津下紋太郎、専務取締役=三島海雲』とある。津下氏は日本石油の専務を務めた人である
    • [29]ストローでカルピスを飲んでいるポスターとを組合わせ、宣伝これつとめた
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [24]大正12年6月、商号をカルピス製造株式会社に変更
    • [25]大正13年7月、大阪営業所(現大阪支店)を開設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [26]カルピスの声価があがるとともに販路は外地にまで及んだ
    • [28]宣伝では斬新奇抜を狙い、特に「初恋の味」の名文句は世に広まった
    • [30]水玉の包装とともに広く親しまれているマーク
    • [32]懸賞三等に入選したドイツの一無名美術家の作品である
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [27]満州カルピス製造㈱を設立した
    • [31]商業美術の進んでいた独・仏・伊国等の専門家募集を行なって、入選したもの(1923年に採用)

1948年〜鈴木三郎助への出資依頼と第二会社の設立

1937年、三島氏は増資を目的に、味の素株式会社の鈴木三郎助氏(三代目)へ出資を依頼した。その結果、味の素がカルピス製造の過半数の株を保有する状態となり、鈴木氏が社長に就任した。鈴木氏は味の素を創業した二代目鈴木三郎助氏の長男で、味の素の代表取締役社長と会長のほか、森永乳業の取締役や京浜急行電鉄の代表取締役社長を務めた。三島氏の友人であった高島米峰氏や牧野良三氏が、カルピスは三島氏がつくった会社であり株を返してほしいと鈴木氏に交渉した。鈴木氏は持ち株を手放し、1940年に三島氏が経営の先頭に戻った。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [44]1937年、海雲が増資目的で鈴木三郎助(三代目)に出資を依頼した
    • [45]味の素が過半数の株を保有する状態となったため、鈴木三郎助(三代目)が社長に就任する出来事があった
    • [46]鈴木三郎助(三代目)は1890〜1973。味の素創業者・二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長および会長、森永乳業㈱取締役、京浜急行電鉄㈱代表取締役社長等を務めた
    • [47]海雲の友人であった高島米峰や牧野良三などが「カルピスは三島がつくった会社だから返してやってくれ」と交渉した
    • [48]鈴木は快く持ち株を手放し、1940年に再び海雲が経営の先頭に立つこととなった

太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、カルピスは戦争遂行に不要な平和物資とされ、生産を中止した。ところがカルピスが滋養飲料であることに着目した軍部が軍需物資に認定し、原料や物資の特配を受けて"軍用カルピス"と、ビタミンを添加した"軍用ビタカルピス"を生産し、陸軍と海軍に納入した。1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した。戦災で東京と甲府の全工場を焼失した。三島氏以下の社員が工場を再建し、1946年には厚生乳の製造を再開した。1947年には、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使ったカルピスの生産を再開し、以後は"ビタカルピス"や水飴入りの"特製カルピス"を製造販売した。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」
    • [49]太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、「カルピス」は戦争遂行に不要な“平和物資”とされ、一時生産を中止した
    • [50]「カルピス」が滋養飲料であることに着目した軍部が“軍需物資”に認定したことで、原料や物資の特配を受けて「軍用カルピス」と、ビタミンを添加した「軍用ビタカルピス」を生産し、陸軍と海軍に納入することとなった
    • [51]1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した
    • [54]三島海雲以下社員一丸となって工場を再建し、1947年、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使った「カルピス」の生産を再開した。以後、「ビタカルピス」や水飴入り「特製カルピス」などを製造・販売した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [52]20年戦災で東京、甲府の全工場を焼失した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [53]21年には早くも厚生乳の製造を再開した

1948年、カルピス製造は特別経理会社の指定を受けて解散した。カルピス製造は商号を変更したのではなく、同社を解散して新会社を設立した。同年12月14日、カルピス製造の第二会社として資本金300万円のカルピス食品工業株式会社が発足し、カルピスの製造を再開した。三島氏が新会社の社長に就任し、本社は東京都渋谷区向山町53に置いた。1949年には資本金を1,000万円へ増やした。同年12月、カルピス食品工業は東京証券取引所に株式を上場した。1917年10月のラクトー設立から32年、"カルピス"の発売から30年が経っていた。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [55]23年特別経理会社の指定を受けて解散した
    • [58]第二会社としてカルピス食品工業㈱を資本金300万円で設立し、カルピスの製造を再開し、三島海雲氏が社長に就任した
    • [60]24年に資本金を1,000万円に増資した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]昭和23年12月、カルピス製造株式会社を解散し、カルピス食品工業株式会社を発足
    • [61]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
    • [62]大正6年10月にラクトー株式会社を設立、大正8年7月に「カルピス」を発売、昭和24年12月に東京証券取引所に株式上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [57]23年12月カルピス製造の第二会社として、資本金300万円の当社を創立。設立 昭和23年12月14日
    • [59]本社 東京都渋谷区向山町53
参考文献[44]-[62]
    • [44]1937年、海雲が増資目的で鈴木三郎助(三代目)に出資を依頼した
    • [45]味の素が過半数の株を保有する状態となったため、鈴木三郎助(三代目)が社長に就任する出来事があった
    • [46]鈴木三郎助(三代目)は1890〜1973。味の素創業者・二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長および会長、森永乳業㈱取締役、京浜急行電鉄㈱代表取締役社長等を務めた
    • [47]海雲の友人であった高島米峰や牧野良三などが「カルピスは三島がつくった会社だから返してやってくれ」と交渉した
    • [48]鈴木は快く持ち株を手放し、1940年に再び海雲が経営の先頭に立つこととなった
    • [49]太平洋戦争が勃発すると産業界は政府の統制下に置かれ、「カルピス」は戦争遂行に不要な“平和物資”とされ、一時生産を中止した
    • [50]「カルピス」が滋養飲料であることに着目した軍部が“軍需物資”に認定したことで、原料や物資の特配を受けて「軍用カルピス」と、ビタミンを添加した「軍用ビタカルピス」を生産し、陸軍と海軍に納入することとなった
    • [51]1945年に入ると空襲は激しさを増し、本社・東京工場、甲府工場ともに被災した
    • [54]三島海雲以下社員一丸となって工場を再建し、1947年、統制品の砂糖の代わりに代用甘味料を使った「カルピス」の生産を再開した。以後、「ビタカルピス」や水飴入り「特製カルピス」などを製造・販売した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
    • [52]20年戦災で東京、甲府の全工場を焼失した
    • [57]23年12月カルピス製造の第二会社として、資本金300万円の当社を創立。設立 昭和23年12月14日
    • [59]本社 東京都渋谷区向山町53
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
    • [53]21年には早くも厚生乳の製造を再開した
    • [55]23年特別経理会社の指定を受けて解散した
    • [58]第二会社としてカルピス食品工業㈱を資本金300万円で設立し、カルピスの製造を再開し、三島海雲氏が社長に就任した
    • [60]24年に資本金を1,000万円に増資した
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]昭和23年12月、カルピス製造株式会社を解散し、カルピス食品工業株式会社を発足
    • [61]昭和24年12月、東京証券取引所に株式上場
    • [62]大正6年10月にラクトー株式会社を設立、大正8年7月に「カルピス」を発売、昭和24年12月に東京証券取引所に株式上場

筆者考察

三島海雲氏が内モンゴルから持ち帰ったのは製法であって、売る仕組みではなかった。1919年に売り出した"カルピス"は日本に前例のない飲み物で、味がよくても店に並ばなければ誰にも届かない。そこで三島氏は、國分商店や祭原商店といった関東・関西の大手食品問屋に商品を預け、彼らがすでに持つ全国の配荷網へ一本の単品を載せた。自前の販売会社を建てるより速く、資本も要らない。1923年に採用した"初恋の味"と水玉の包装は、その網の先にいる見知らぬ客へ名前だけを届ける道具である。作る者が売り先を持たないとき、広告は網を補う唯一の手段になる。1924年に大阪営業所を置き、販路は満州にまで及んだが、末端で客と向き合うのは終始よその店だった。

同じ構図は資本にも現れた。1937年に増資を必要とした三島氏が頼ったのは銀行ではなく味の素の鈴木三郎助氏で、その結果カルピス製造の株の過半数は相手に渡り、社長の座も移る。高島米峰氏らの交渉で3年後に戻ったものの、足りないものは外から借りるという形はここで定まった。戦時中は軍が滋養飲料と認めた特配で生産を続け、1945年に東京と甲府の全工場を焼く。1948年の特別経理会社の指定で会社そのものを解散し、資本金300万円の第二会社として建て直したとき手元に残っていたのは、焼けも凍結もされない二つ、"カルピス"という名前と問屋の網だけだった。株式を東京証券取引所へ上げたのは翌1949年12月、発売から30年が経っている。

出典・参考

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出典・参考
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 18_その他食品「カルピス食品」
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
  • 社会人 1955年「カルピス食品工業会長 三島海雲伝」(岡田文夫)
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)1「「カルピス」の誕生と普及」

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