カルピス:銀行管理下の再建と一社一品主義による売上15倍
1950年〜4行の協調融資と國分勘兵衛社長を迎えた新経営陣
1948年12月に資本金300万円で発足したカルピス食品工業は、甲府工場の増設と大阪工場の新設に着手し、従来のカルピスに加えてビタミン入りカルピスを発売し、これに合わせて宣伝を始めた。しかし需要は思惑どおりに伸びず、宣伝費を賄うだけの売上が立たないまま負債が膨らみ、約8,000万円の税金を滞納した。1950年、カルピス食品工業は山梨中央銀行・三井銀行・第一銀行・協和銀行の4行に協調融資を仰ぎ、見返りとして銀行の派遣役員を受け入れた。同年10月には従業員が半減する人員整理を実施した。創業者の三島海雲氏は業績不振の責任をとり、代表権のない会長へ就任した。
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- [1]1948年に資本金300万円で営業を再開し、甲府工場の増設・大阪工場の新設・ビタミン入りカルピス発売という積極策をとり、宣伝を開始した
- [2]需要に恵まれず宣伝費をカバーするほど売れず、負債が膨らみ約8,000万円の税金を滞納した
- [3]1950年に山梨中央・三井・第一・協和の4行から協調融資を仰ぎ、見返りに銀行派遣役員を受け入れた
- [4]1950年10月に従業員が半減する人員整理があった
- [5]業績不振の責任をとって創業者の三島海雲は代表権のない会長に退いた
1951年、取締役13名のうち8名が交代し、國分商店の10代國分勘兵衛社長が率いる新経営陣が再建にあたった。國分商店は当時、日本の酒類・食品問屋の首位にあり、その社長がカルピス食品工業の最高責任者に就任したことは信頼の回復を助けた。三島氏が代表権を持たない6年間、経営の責任は國分社長を軸とする新経営陣が負った。新経営陣は堅実経営を徹底して業績の回復にあたり、営業では少ない経費で効果が大きいと判断した手段に絞った。卸店・小売店向けの謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場での試飲、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促を並行して実施した。
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [6]1951年に取締役13名のうち8名が交代し、10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣による経営再建が進められた
- [7]当時、日本の酒類・食品問屋のトップの座にあった國分商店の社長が最高責任者に就任したことは、信頼回復の手助けとなった
- [8]三島海雲は1950年に代表権のない会長へ退き、1956年に6年ぶりに代表取締役社長へ復帰した。その間の経営再建は10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣が進めた
- [9]堅実経営を徹底して業績を回復した。営業活動は少ない経費で効果が大きいと判断したものを中心に実施した
- [10]卸店・小売店向け謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場等での試飲PR、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促活動を実施した
カルピス食品工業の売上高は1951年12月期の5億円から1952年12月期に7億円、1953年12月期には10億円へと2年で倍増し、1953年12月期には1億円の当期純利益を計上した。品目も増やし、1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した。1953年、カルピス食品工業は債務をすべて完済し、4行の協調融資と派遣役員の受け入れで始まった銀行管理は3年で終わった。完済を受けて、三島氏は1954年に代表権のある取締役会長へ戻った。売上高は1954年12月期に13億円、1955年12月期に17億円へ伸びた。
- 上場会社総覧 1956年版
- [11]売上高は1951年12月期5億円、1952年12月期7億円、1953年12月期10億円。1953年12月期の当期純利益は1億円
- [16]売上高は1954年12月期13億円、1955年12月期17億円
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [12]1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [13]1953年に債務をすべて完済した
- [15]1953年に債務をすべて完済したことで、三島海雲は1954年に代表権のある取締役会長に就いた
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- [14]1950年に4行の協調融資と銀行派遣役員の受け入れで銀行管理会社となった
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- [1]1948年に資本金300万円で営業を再開し、甲府工場の増設・大阪工場の新設・ビタミン入りカルピス発売という積極策をとり、宣伝を開始した
- [2]需要に恵まれず宣伝費をカバーするほど売れず、負債が膨らみ約8,000万円の税金を滞納した
- [3]1950年に山梨中央・三井・第一・協和の4行から協調融資を仰ぎ、見返りに銀行派遣役員を受け入れた
- [4]1950年10月に従業員が半減する人員整理があった
- [5]業績不振の責任をとって創業者の三島海雲は代表権のない会長に退いた
- [14]1950年に4行の協調融資と銀行派遣役員の受け入れで銀行管理会社となった
- [6]1951年に取締役13名のうち8名が交代し、10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣による経営再建が進められた
- [7]当時、日本の酒類・食品問屋のトップの座にあった國分商店の社長が最高責任者に就任したことは、信頼回復の手助けとなった
- [8]三島海雲は1950年に代表権のない会長へ退き、1956年に6年ぶりに代表取締役社長へ復帰した。その間の経営再建は10代國分勘兵衛社長率いる新経営陣が進めた
- [9]堅実経営を徹底して業績を回復した。営業活動は少ない経費で効果が大きいと判断したものを中心に実施した
- [10]卸店・小売店向け謝恩セール、営業部員による小売店訪問、百貨店や催し物会場等での試飲PR、贈答用カルピスの店頭での拡販、食堂・喫茶店での販促活動を実施した
- [13]1953年に債務をすべて完済した
- [15]1953年に債務をすべて完済したことで、三島海雲は1954年に代表権のある取締役会長に就いた
- 上場会社総覧 1956年版
- [11]売上高は1951年12月期5億円、1952年12月期7億円、1953年12月期10億円。1953年12月期の当期純利益は1億円
- [16]売上高は1954年12月期13億円、1955年12月期17億円
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [12]1951年にカルピス・ヨーグルトを発売した
1953年〜三島海雲の6年ぶりの社長復帰と全糖カルピスの再開
戦後も続いた砂糖の統制が1953年に解除され、カルピス食品工業は同年から全糖のカルピスの製造・販売を再開した。それまではサッカリンやズルチンといった代用甘味料と水飴を使っており、全糖の味に近づけるために重ねた研究が、のちの生産設備の改良と品質向上に生きた。1954年には特約店と卸売店が自主的に組織した"カルピス会"が全国に生まれ、会員相互の親睦とカルピスの拡販による利益の拡大を掲げて、販売網とカルピスの地域への浸透を厚くした。1956年12月期の売上高は22億円と、銀行管理下にあった1951年12月期の4倍を超えた。三島氏は1956年に6年ぶりの代表取締役社長へ復帰した。
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [17]戦後も続いていた砂糖の統制が解除され、1953年から全糖カルピスの製造・販売を再開した
- [18]それまで代用甘味料(サッカリン、ズルチン)や水飴を使用して生産しており、全糖カルピスの味に近づけるために研究を重ねたことが、後に生産設備・生産体制の改良や品質向上に役立った
- [19]1954年、特約店と卸売店により自主的に組織された「カルピス会」が全国に誕生した。会員相互の親睦とカルピスの普及拡販による利益拡大を目的としており、販売網の強化とカルピスの地域への浸透に大きな役割を果たした
- [21]三島海雲は1956年に6年ぶりに代表取締役社長に復帰した
- 上場会社総覧 1959年版
- [20]売上高は1956年12月期22億円、1951年12月期5億円
社長へ戻った三島海雲社長は、カルピス1品に絞る"一社一品主義"を社是として掲げた。1950年の資金繰りの行き詰まりと銀行管理を経た役員の間では、借入を増やしてまで事業を広げてはならないという判断が共有されていた。三島海雲社長は会社を自ら率い、組織づくりや人材育成への配慮は薄かったと、のちに社長を承継した中道健太郎氏は述べた。カルピス1本の小売価格は1950年の290円から1972年まで据え置かれ、値上げをしないから売上が伸び、売れるから値を上げずに済むという循環に入った。1957年ごろにカルピス食品工業は過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった。
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- [22]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
- [23]銀行管理という経験から、体力の強化が先決で借金してまで事業を拡大してはならないというムードだった
- [25]カルピス1本の値段は1950年に290円で、1972年まで据え置いた。売れるから値を上げずに済み、値上げしないから売り上げが伸びる好循環に入っていた
- [26]1957年ごろには過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった
- 日経ビジネス 1975年4月28日号
- [24]中道健太郎は、優秀な創業者社長は会社を自分一人で引っ張りがちで組織や人作りへの配慮が少ないとし、亡くなった三島海雲もそうだったと述べた
カルピス食品工業は1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルトとフルーツカルピスを発売した。1957年5月には渋谷区恵比寿南に研究所を新設した。広告では家庭に普及し始めたテレビに目を向け、1959年からテレビCMの出稿を始めて、読売巨人軍の長嶋茂雄氏が出演するCMを流したほか、"カルピス名作劇場"などファミリー層に人気の高視聴率番組を一社単独で提供した。カラーテレビや自動車が当たるクイズ形式のキャンペーンも実施した。テレビCMを始めた1959年12月期の売上高は29億円で、1957年12月期の25億円から2年で4億円増えた。
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [27]1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルト、フルーツカルピスを発売した
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- [28]1957年5月、渋谷区恵比寿南に研究所を新設した
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [29]当時家庭に普及し始めたテレビに注目し、1959年からテレビCMの出稿を開始し、読売巨人軍の長嶋茂雄が出演するCMや『カルピス名作劇場』などファミリー層に人気の高視聴率番組への一社単独提供を行った
- [30]カラーテレビや自動車など豪華商品が当たるクイズ形式のキャンペーンを行った
- 会社年鑑(1963年版)
- [31]売上高は1957年12月期25億円、1958年12月期26億円、1959年12月期29億円
参考文献[17]-[31]
- [17]戦後も続いていた砂糖の統制が解除され、1953年から全糖カルピスの製造・販売を再開した
- [18]それまで代用甘味料(サッカリン、ズルチン)や水飴を使用して生産しており、全糖カルピスの味に近づけるために研究を重ねたことが、後に生産設備・生産体制の改良や品質向上に役立った
- [19]1954年、特約店と卸売店により自主的に組織された「カルピス会」が全国に誕生した。会員相互の親睦とカルピスの普及拡販による利益拡大を目的としており、販売網の強化とカルピスの地域への浸透に大きな役割を果たした
- [21]三島海雲は1956年に6年ぶりに代表取締役社長に復帰した
- [29]当時家庭に普及し始めたテレビに注目し、1959年からテレビCMの出稿を開始し、読売巨人軍の長嶋茂雄が出演するCMや『カルピス名作劇場』などファミリー層に人気の高視聴率番組への一社単独提供を行った
- [30]カラーテレビや自動車など豪華商品が当たるクイズ形式のキャンペーンを行った
- 上場会社総覧 1959年版
- [20]売上高は1956年12月期22億円、1951年12月期5億円
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- [22]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
- [23]銀行管理という経験から、体力の強化が先決で借金してまで事業を拡大してはならないというムードだった
- [25]カルピス1本の値段は1950年に290円で、1972年まで据え置いた。売れるから値を上げずに済み、値上げしないから売り上げが伸びる好循環に入っていた
- [26]1957年ごろには過去の借入を一掃し、実質的な無借金企業になった
- 日経ビジネス 1975年4月28日号
- [24]中道健太郎は、優秀な創業者社長は会社を自分一人で引っ張りがちで組織や人作りへの配慮が少ないとし、亡くなった三島海雲もそうだったと述べた
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [27]1956年にピルマン製造を設立し、フルーツヨーグルト、フルーツカルピスを発売した
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- [28]1957年5月、渋谷区恵比寿南に研究所を新設した
- 会社年鑑(1963年版)
- [31]売上高は1957年12月期25億円、1958年12月期26億円、1959年12月期29億円
1960年〜相模・岡山・群馬の3工場新設と年平均25%増の売上
1950年代半ばに日本が高度経済成長期に入ると、貿易自由化を受けて清涼飲料市場が広がり、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて相次いで登場した。量販店が各地にでき、大量生産・大量販売の時代を迎えた。カルピス食品工業は生産量を需要に追いつかせるため、工場を3つ新設した。相模工場が1961年10月、岡山工場が1968年4月、群馬工場が1972年5月に稼動した。相模工場の稼動と同じ1961年10月、カルピス食品工業は大阪証券取引所へ株式を上場した。資本金も、1961年7月に2億円から4億円へ、1963年7月には4億円から8億円へと、いずれも1株につき1株を割り当てて倍増した。
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [32]1950年代半ばの高度経済成長期に貿易自由化の影響で清涼飲料市場が拡大し、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、濃厚果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて次々に登場した
- [33]量販店が各地にでき、流通の近代化・合理化が進み、大量生産・大量販売時代が到来した
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- [34]相模工場は1961年10月、岡山工場は1968年4月、群馬工場は1972年5月に稼動した
- [35]1961年10月に大阪証券取引所に株式を上場した
- 株式会社年鑑 1964年版
- [36]資本金は1959年7月に2億円、1961年7月に4億円(1対1の割当)、1963年7月に8億円(1対1の割当)へ増資された
相模工場の稼動前にあたる1960年の売上高36億1,200万円・営業利益4億4,100万円は、第一次石油危機前の1972年に売上高538億6,500万円・営業利益73億2,200万円へ達し、12年で売上高が約15倍、年平均25%増で伸びた。乳酸菌飲料市場でカルピスはシェア80%を占めた。岡山工場は30億円を投じた第2期工事で日産能力をカルピス大瓶12万本から24万本へ倍増させ、相模工場の日産13万本と合わせて需要増に備えた。売上の94%をカルピス類が占め、残る6%をヨーグルトとバターが分けた。この12年の途中にあたる1962年12月期は、売上高58億3,756万円、営業利益4億1,323万円を計上した。
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [37]相模工場設立前の1960年(売上高36億1,200万円、営業利益4億4,100万円)から第一次石油危機前の1972年(売上高538億6,500万円、営業利益73億2,200万円)まで売上額が約15倍、年平均25%増で伸びた
- 東邦経済 1970年「乳酸菌飲料市場を制覇 カルピス食品工業」
- [38]乳酸菌飲料カルピスは業界シェア80%を占めた
- [39]30億円を投入した岡山工場の第2期工事により生産能力は日産12万本(カルピス大瓶)から24万本に倍増し、相模工場は日産13万本の生産能力を持っていた
- [40]部門別ではカルピス類が94%を占め、残る6%がヨーグルト、バターだった
- 株式会社年鑑 1964年版
- [41]1962年12月期の売上高は5,837,564千円、営業利益は413,230千円だった
カルピス食品工業は営業網も広げ、1957年に福岡へ九州事務所を置いたのを皮切りに、1959年に札幌事務所、1960年に名古屋事務所、1964年に広島事務所、1965年に仙台事務所を設け、1967年には高松に駐在を置いて、各地のカルピス会と連携しながら営業網を拡充した。1965年7月に渋谷区恵比寿西へ本社社屋を新築移転し、1969年5月には同区恵比寿南に東京研究所を新築移転した。1968年の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通配当と特別配当を合わせ3割の配当を続けた。1973年4月、カルピス食品工業は炭酸飲料"カルピスソーダ"を発売した。
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
- [42]九州事務所(福岡・1957年)、札幌事務所(1959年)、名古屋事務所(1960年)、広島事務所(1964年)、仙台事務所(1965年)、高松駐在(1967年)を設置し、各地の「カルピス会」と連携しながら営業網を拡充した
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- [43]1965年7月、渋谷区恵比寿西に本社社屋を新築移転した
- [44]1969年5月、渋谷区恵比寿南に東京研究所を新築移転した
- [46]1973年4月、炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売した
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [45]1968年時点の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通・特別を合わせ3割の高率配当を継続していた
参考文献[32]-[46]
- [32]1950年代半ばの高度経済成長期に貿易自由化の影響で清涼飲料市場が拡大し、コーラ飲料、フレーバー飲料、果実飲料、濃厚果実飲料、乳性果汁飲料などの新製品が1960年代にかけて次々に登場した
- [33]量販店が各地にでき、流通の近代化・合理化が進み、大量生産・大量販売時代が到来した
- [37]相模工場設立前の1960年(売上高36億1,200万円、営業利益4億4,100万円)から第一次石油危機前の1972年(売上高538億6,500万円、営業利益73億2,200万円)まで売上額が約15倍、年平均25%増で伸びた
- [42]九州事務所(福岡・1957年)、札幌事務所(1959年)、名古屋事務所(1960年)、広島事務所(1964年)、仙台事務所(1965年)、高松駐在(1967年)を設置し、各地の「カルピス会」と連携しながら営業網を拡充した
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- [34]相模工場は1961年10月、岡山工場は1968年4月、群馬工場は1972年5月に稼動した
- [35]1961年10月に大阪証券取引所に株式を上場した
- [43]1965年7月、渋谷区恵比寿西に本社社屋を新築移転した
- [44]1969年5月、渋谷区恵比寿南に東京研究所を新築移転した
- [46]1973年4月、炭酸飲料「カルピスソーダ」を発売した
- 株式会社年鑑 1964年版
- [36]資本金は1959年7月に2億円、1961年7月に4億円(1対1の割当)、1963年7月に8億円(1対1の割当)へ増資された
- [41]1962年12月期の売上高は5,837,564千円、営業利益は413,230千円だった
- 東邦経済 1970年「乳酸菌飲料市場を制覇 カルピス食品工業」
- [38]乳酸菌飲料カルピスは業界シェア80%を占めた
- [39]30億円を投入した岡山工場の第2期工事により生産能力は日産12万本(カルピス大瓶)から24万本に倍増し、相模工場は日産13万本の生産能力を持っていた
- [40]部門別ではカルピス類が94%を占め、残る6%がヨーグルト、バターだった
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- [45]1968年時点の従業員は1,094名、資本金は20億円で、普通・特別を合わせ3割の高率配当を継続していた
筆者考察
1950年の銀行管理は3年で終わったのに、その後20年の経営を決めた。4行の協調融資と派遣役員を受け入れ、従業員を半分にして1953年に完済した経験が、借りてまで広げないという判断を役員の間に残したからである。借入に頼らず伸びる道は、値段を上げずに量を増やすことしかない。三島海雲氏が1956年の社長復帰で掲げた一社一品主義は、理念である前にその条件から導かれる答えだった。大瓶290円は1950年から1972年まで動かず、安いから売れ、売れるから上げずに済む循環が回る。1957年に過去の借入を一掃できたのは、その循環が利いた証である。銀行管理下の1951年12月期に5億円だった売上高は、完済した1953年12月期に10億円、1956年12月期には22億円へ達した。
循環の見返りは速度だった。売上高は1960年の36億1,200万円から1972年の538億6,500万円へ12年で約15倍、年平均25%で伸び、乳酸菌飲料市場の8割を握る。相模・岡山・群馬に工場が建ち、資本金は1961年と1963年に倍増を重ねた。ただし増えたのは同じ一本の本数であって、売り先も値段も自社の外にあるという事実は動いていない。伸びているあいだ、この危うさは見えない。据え置いた価格が伸びの条件である以上、価格を動かせば条件のほうが先に崩れる。1973年4月に炭酸飲料"カルピスソーダ"を出すまで量を運んだのはほぼ一本の原液であり、営業所を福岡から仙台まで広げても、店頭で値を決めるのは問屋と小売だった。
- 単体。2年おきに抜いた12月期の売上高。
- 出所は上場会社総覧1956年版・会社年鑑1963年版・会社年鑑1971年版・会社年鑑1976年版。
1950年〜1973年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1950年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | 5 | n/a | 0 | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 7 | +40.0% | 0 | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 10 | +42.9% | 1 | n/a | 1 | 10.0% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 13 | +30.0% | 1 | n/a | 1 | 7.7% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 17 | +30.8% | 2 | n/a | 1 | 5.9% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 22 | +29.4% | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 25 | +13.6% | n/a | n/a | 2 | 8.0% | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 26 | +4.0% | n/a | n/a | 2 | 7.7% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 29 | +11.5% | n/a | n/a | 2 | 6.9% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 36 | +24.1% | n/a | n/a | 2 | 5.6% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 48 | +33.3% | n/a | n/a | 3 | 6.3% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 58 | +20.8% | n/a | n/a | 4 | 6.9% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 71 | +22.4% | n/a | n/a | 5 | 7.0% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 91 | +28.2% | n/a | n/a | 4 | 4.4% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 114 | +25.3% | n/a | 15 | 6 | 5.3% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 145 | +27.2% | n/a | 21 | 12 | 8.3% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 184 | +26.9% | n/a | 25 | 18 | 9.8% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 210 | +14.1% | n/a | 28 | 19 | 9.0% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 285 | +35.7% | n/a | 43 | 27 | 9.5% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 377 | +32.3% | n/a | 60 | 33 | 8.8% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 474 | +25.7% | n/a | 78 | 38 | 8.0% | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 539 | +13.7% | n/a | 74 | 42 | 7.8% | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 586 | +8.7% | n/a | 52 | 35 | 6.0% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、上場会社総覧 1959年版、会社年鑑
出典・参考
10件
- カルピス 有価証券報告書【沿革】
- 上場会社総覧 1956年版
- 上場会社総覧 1959年版
- 会社年鑑(1963年版)
- 株式会社年鑑 1964年版
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「カルピス食品工業」
- 日経ビジネス 1975年4月28日号
- 日経ビジネス 1981年4月6日号
- 東邦経済 1970年「乳酸菌飲料市場を制覇 カルピス食品工業」
- カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」