第3章 年〜年

カルピス:カルピスソーダの発売と味の素への総発売元委託

1974年〜3度の値上げと虫歯風説、創業者三島海雲氏の死去

1973年10月の第1次石油危機は、燃料のほか牛乳、砂糖、瓶・缶容器、紙製品の価格を押し上げ、カルピス食品工業は各種製品の値上げに踏み切った。全糖の"カルピス"大瓶630mlは発売再開から約20年にわたり小売価格を280円前後で保ってきたが、1973年11月に320円、12月に370円、翌1974年10月には450円へと、1年弱の間に3度値上げした。消費の停滞も重なり、"カルピス"をはじめとする各種製品の売り上げの伸び率は次第に鈍化した。売上高は1974年12月期の630億円を最後に減少に転じ、翌1975年12月期は555億円へ減少した。経常利益も同じ2期で34億円から28億円へ減った。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [1]1973年10月の第1次石油危機で燃料・牛乳・砂糖・瓶缶容器・紙製品の価格が高騰し、各種製品を値上げした
    • [2]全糖の「カルピス」大瓶630mlは発売再開から約20年小売価格280円前後を維持したが、1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円へと1年弱で3度値上げした
    • [3]消費の停滞で「カルピス」など各種製品の売り上げの伸び率が次第に鈍化した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [4]売上高は1974年12月期630億円、1975年12月期555億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [5]経常利益は1974年12月期34億円、1975年12月期28億円

石油危機の前後には、"カルピス"を飲むと虫歯になるという風説が広まった。歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞いたところ『カルピス』と答えたという話が学会誌などに掲載され、その内容が"カルピス"を虫歯の直接の原因とする誤解として伝わり、マスコミが何度も取りあげた。カルピス食品工業は本来の虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会と日本歯科医師会の協力で冊子"子どもの歯と食生活"を製作して配布した。広告も、"初恋の味"を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝へ切り替えた。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [6]「カルピス」を飲むと虫歯になるという風説が流れた
    • [7]歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞き「カルピス」と答えたという話が学会誌等に掲載され、直接の原因という誤解として広まり、マスコミで何度も取りあげられた
    • [8]虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会・日本歯科医師会の協力で冊子『子どもの歯と食生活』を製作・配布した
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [9]「初恋の味」を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝に変わらざるを得なかった

創業者の三島海雲氏は、業績が振るわないことを理由に代表権を返上して会長に退いてからも、一社一品主義をカルピス食品工業の社是に掲げ続けた。1974年12月28日、96歳で世を去った。役員を離れてから1年後の死で、社葬は年が明けた1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた。一社一品主義の下、売上高は1973年、利益は1971年を頂点に減り続け、1975年12月期から1979年12月期までの売上高は542億円〜575億円、経常利益は28億円〜37億円の範囲に収まった。1980年12月期の売上高485億9,600万円のうち、カルピスが371億円と76.4%を占め、清涼飲料は61億8,600万円、乳製品は38億2,500万円にとどまった。

  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [10]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲氏は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [13]売上高は昭和48年(1973年)、利益は昭和46年(1971年)をピークに減り続けた
    • [15]昭和55年12月期のカルピスの製品構成は売上高485億9,600万円のうちカルピス371億円(76.4%)、清涼飲料61億8,600万円(12.7%)、乳製品38億2,500万円(7.9%)、その他14億7,600万円(3.0%)
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [11]1974年12月28日に創業者の三島海雲が死去、享年96歳
    • [12]役員を勇退してから1年後で、社葬は1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [14]売上高は1975年12月期555億円、1976年542億円、1977年550億円、1978年575億円、1979年573億円。経常利益は同期間で28億円、37億円、33億円、36億円、28億円
参考文献[1]-[15]
    • [1]1973年10月の第1次石油危機で燃料・牛乳・砂糖・瓶缶容器・紙製品の価格が高騰し、各種製品を値上げした
    • [2]全糖の「カルピス」大瓶630mlは発売再開から約20年小売価格280円前後を維持したが、1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円へと1年弱で3度値上げした
    • [3]消費の停滞で「カルピス」など各種製品の売り上げの伸び率が次第に鈍化した
    • [6]「カルピス」を飲むと虫歯になるという風説が流れた
    • [7]歯科医が虫歯の子供の親に普段何を飲ませているか聞き「カルピス」と答えたという話が学会誌等に掲載され、直接の原因という誤解として広まり、マスコミで何度も取りあげられた
    • [8]虫歯発生のメカニズムを研究したうえで歯科学会・歯科医・マスコミに対応し、日本食生活協会・日本歯科医師会の協力で冊子『子どもの歯と食生活』を製作・配布した
    • [11]1974年12月28日に創業者の三島海雲が死去、享年96歳
    • [12]役員を勇退してから1年後で、社葬は1975年1月11日に東京の築地本願寺で執り行われた
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [4]売上高は1974年12月期630億円、1975年12月期555億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [5]経常利益は1974年12月期34億円、1975年12月期28億円
    • [14]売上高は1975年12月期555億円、1976年542億円、1977年550億円、1978年575億円、1979年573億円。経常利益は同期間で28億円、37億円、33億円、36億円、28億円
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [9]「初恋の味」を売り物にした攻めの宣伝から、無害の健康食品を訴える防御的な宣伝に変わらざるを得なかった
    • [10]業績不振の責任をとって代表権のない会長に退いた創業者の三島海雲氏は、後にカルピスの社是として「一社一品主義」を明確に打ち出した
    • [13]売上高は昭和48年(1973年)、利益は昭和46年(1971年)をピークに減り続けた
    • [15]昭和55年12月期のカルピスの製品構成は売上高485億9,600万円のうちカルピス371億円(76.4%)、清涼飲料61億8,600万円(12.7%)、乳製品38億2,500万円(7.9%)、その他14億7,600万円(3.0%)

1979年〜横山淑夫社長の就任と希望退職、チルド・酒類への多角化

1979年の第2次石油危機で業績は再び悪化した。カルピス食品工業は1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年には希望退職の募集に踏み切った。1980年12月期は営業損失10億8,200万円を計上し、現先市場での有価証券の運用益などで補って経常利益2億1,300万円を確保した。それでも財務は強固で、自己資本比率は73.2%と日本企業で最高の水準にあり、無借金を保ち、流動比率は400%に迫った。1972年の群馬工場建設を最後に大型投資はなく、償却対象の有形固定資産は1972年の105億円をピークに減り、1980年には67億円まで低下した。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [16]1979年の第2次石油危機の影響で業績は再び悪化に向かった
    • [17]1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年に希望退職の募集に踏み切った
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [18]昭和55年12月期は営業利益で10億8,200万円の赤字を計上し、現先市場での有価証券の運用益などでカバーして経常利益2億1,300万円を計上した
    • [19]自己資本比率は昭和55年12月期に73.2%とわが国の企業の中でも最高の水準にあり、依然として無借金、流動比率も400%に迫る
    • [20]昭和47年の群馬工場建設を最後に大型投資を実施せず、償却対象の有形固定資産は47年の105億円をピークに年々減少し、55年には67億円まで低下した

営業畑を歩んだ横山淑夫副社長が社長に上がったのは、1981年3月30日の定時株主総会でのことである。同じ総会で土倉冨士雄会長と中道健太郎社長は代表権を持たない相談役に退いた。会長は当面空席とし、欠けた役員も補わなかったので、役員の定員は2名少なくなった。社内に広がる甘えの構造を一番の問題とみた横山淑夫社長は、社員をスーパーの売り場に送り込んで"カルピス"の売り場の手入れを手伝わせ、問屋の社員に同乗させて得意先を一緒に回らせた。1982年に始まる4カ年の中期経営計画"チャレンジ'85"は、"カルピス"ブランドのてこ入れ、新製品や新分野への進出、合理化による生産性の引き上げを重点に据え、最終年度の目標を売上高800億円・営業利益15億円とした。あわせてCIを実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を定めた。

  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [21]1981年3月30日の定時株主総会で土倉冨士雄会長・中道健太郎社長がそれぞれ代表権のない相談役に退き、営業畑出身の横山淑夫副社長が社長に昇格した
    • [22]当分は会長職を置かず、会長・社長が取締役をやめた後も役員の補充人事を行わなかったため役員定員は2名減となった
    • [23]最大のお荷物は社内にまん延している甘えの構造だとして、社員をスーパーに派遣してカルピスの棚の管理を直接手伝わせたり、問屋の社員と同じ車に乗って得意先回りをさせた
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [24]1982年を初年度とする4カ年の中期経営計画「チャレンジ'85」は「『カルピス』ブランドの活性化」「新製品・新分野への進出」「合理化による生産性向上」を重点方針とし、最終年度に売上高800億円、営業利益15億円を目指した
    • [25]CI(コーポレート・アイデンティティー)を実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を策定した

重点方針に沿って、カルピス食品工業は清涼飲料以外の分野へ本格的に進出した。1981年にドリンクヨーグルトと発酵クリームをベースにしたデザートをテスト販売し、翌1982年4月にチルド専門のカルピスフーズサービスを設立した。1984年にはチリワインの輸入を開始して酒類市場へ進出し、ホーメルとの合弁でカルピスホーメルを設立して調味・調理食品市場に参入した。1977年設立のカルピススポーツサービスは、1985年にテニスクラブとスイミングクラブの経営を始めた。売上高は1982年12月期の522億円から1984年12月期の593億円へ戻したものの、経常利益は19億円にとどまった。"チャレンジ'85"の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫した。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
    • [26]重点方針に従って多角化を進め、清涼飲料以外の分野にも本格的に進出した
    • [28]1984年にチリワインの輸入を開始し酒類市場に、㈱ホーメルと合弁でカルピスホーメル株式会社を設立し調味・調理食品市場にも参入した
    • [29]1977年設立のカルピススポーツサービス㈱が1985年にテニスクラブやスイミングクラブの経営も開始した
    • [31]中期経営計画「チャレンジ'85」の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫する結果となった
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1981年にドリンクヨーグルトや発酵クリームをベースにしたデザートのテスト販売を実施し、翌年チルド専門のカルピスフーズサービス株式会社を設立した(有報では1982年4月)
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [30]売上高は1982年12月期522億円、1984年12月期593億円。経常利益は1984年12月期19億円
参考文献[16]-[31]
    • [16]1979年の第2次石油危機の影響で業績は再び悪化に向かった
    • [17]1980年に工場従業員の一時帰休を実施し、1981年に希望退職の募集に踏み切った
    • [24]1982年を初年度とする4カ年の中期経営計画「チャレンジ'85」は「『カルピス』ブランドの活性化」「新製品・新分野への進出」「合理化による生産性向上」を重点方針とし、最終年度に売上高800億円、営業利益15億円を目指した
    • [25]CI(コーポレート・アイデンティティー)を実施し、新しいコーポレートマークと企業理念を策定した
    • [26]重点方針に従って多角化を進め、清涼飲料以外の分野にも本格的に進出した
    • [28]1984年にチリワインの輸入を開始し酒類市場に、㈱ホーメルと合弁でカルピスホーメル株式会社を設立し調味・調理食品市場にも参入した
    • [29]1977年設立のカルピススポーツサービス㈱が1985年にテニスクラブやスイミングクラブの経営も開始した
    • [31]中期経営計画「チャレンジ'85」の目標値は未達に終わり、急激な多角化は当時の財務体質を圧迫する結果となった
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
    • [18]昭和55年12月期は営業利益で10億8,200万円の赤字を計上し、現先市場での有価証券の運用益などでカバーして経常利益2億1,300万円を計上した
    • [19]自己資本比率は昭和55年12月期に73.2%とわが国の企業の中でも最高の水準にあり、依然として無借金、流動比率も400%に迫る
    • [20]昭和47年の群馬工場建設を最後に大型投資を実施せず、償却対象の有形固定資産は47年の105億円をピークに年々減少し、55年には67億円まで低下した
    • [21]1981年3月30日の定時株主総会で土倉冨士雄会長・中道健太郎社長がそれぞれ代表権のない相談役に退き、営業畑出身の横山淑夫副社長が社長に昇格した
    • [22]当分は会長職を置かず、会長・社長が取締役をやめた後も役員の補充人事を行わなかったため役員定員は2名減となった
    • [23]最大のお荷物は社内にまん延している甘えの構造だとして、社員をスーパーに派遣してカルピスの棚の管理を直接手伝わせたり、問屋の社員と同じ車に乗って得意先回りをさせた
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1981年にドリンクヨーグルトや発酵クリームをベースにしたデザートのテスト販売を実施し、翌年チルド専門のカルピスフーズサービス株式会社を設立した(有報では1982年4月)
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [30]売上高は1982年12月期522億円、1984年12月期593億円。経常利益は1984年12月期19億円

1985年〜福井高行社長の「脱カルピス」と3期連続の営業赤字

横山淑夫社長は、売上高に占めるカルピスの比率を8割から7割まで下げた段階で、生産・研究開発畑を歩んだ福井高行常務を後継に指名し、福井氏は1985年3月に社長へ就任した。福井高行社長は多角化の土台を乳酸発酵技術に置き、就任早々に東京研究所を研究開発センターへ拡張したうえ、腸内菌叢とヒトの健康の関係を探る腸内フローラ・ラボラトリーを開設した。ここから低カロリーでビフィズス菌を増やす甘味料の大豆オリゴ糖を開発し、ウイルス感染症の診断薬を発売して医薬品事業の足がかりを築き、子豚の整腸・肥育に使う飼料生菌剤を量産に乗せた。国際化では、1987年にアメリカの飲料メーカーであるハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年2月に果汁入り清涼飲料"フルーツ合衆国"3品種を発売した。同商品の小売ベースの売上高は約30億円に達した。

  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [32]横山淑夫社長は売上高に占めるカルピス比率を8割から7割まで下げた段階で技術屋の福井高行氏を後継社長に指名した。福井氏は昭和54年3月常務取締役東京研究所長、昭和60年(1985年)3月社長就任
    • [33]社長就任早々に東京研究所を研究開発センターに拡張し、腸内菌叢の状態とヒトの健康との関係を探る「腸内フローラ(菌叢)・ラボラトリー」を開設した
    • [34]低カロリーで腸内のビフィズス菌を増やす甘味料「大豆オリゴ糖」を開発し、ウイルス感染症に対する診断薬を発売して医薬品事業への足がかりを築き、子豚の整腸・肥育効果を高める「飼料生菌剤」も量産体制に入った
    • [36]「フルーツ合衆国」の小売りベースの売上高は約30億円に達した
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)3「味の素との業務提携と「カルピスウォーター」のヒット」
    • [35]1987年にアメリカの飲料メーカー、ハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年1月から日本市場向け缶飲料の生産を開始、第1号商品として果汁入り清涼飲料「フルーツ合衆国」(オレンジ・アップル・グレープフルーツ)の3品種を同年2月に発売した

1988年は観測史上まれにみる冷夏となり、カルピスの売上高は前年比7%減った一方、ストレート飲料は20%伸びた。量販店がカルピスを目玉商品に据えたため、メーカー希望小売価格440円の商品が250円から260円台まで下がり、一般小売店の販売意欲もお中元・お歳暮のギフト需要も冷え込んだ。生産・配送の改善で量販店比率は50%程度から大幅に上がりコンビニエンスストアにも納入できたが、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた。1988年12月期は売上高が前期比3%増を見込みながら、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年比90.6%減の2億円となる見通しとなった。福井高行社長はこの結果の責任をとり、1988年11月15日に顧問へ退いて塩川義人専務を後任に指名した。

  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [37]1988年の観測史上稀に見る異常気象による冷夏で、カルピスの売上高は前年比7%ダウン、ストレート飲料は昨年より20%伸びた
    • [38]1988年はカルピスが目玉商品にされることが多く、メーカー希望小売価格440円の商品の実売が250円から260円台まで落ち込み、一般小売店の販売意欲とお中元・お歳暮のギフト用需要まで冷え込んだ
    • [39]生産・配送システムの改善で従来50%程度だった量販店比率が大幅に上昇しコンビニエンスストアにも納入できるようになった反面、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた
    • [40]1988年の売上高は前期比3%増が見込めるものの、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年より90.6%減の2億円となる見通し
    • [41]福井高行社長は1988年11月15日に顧問へ退き、塩川義人専務を次期社長に指名した

"チャレンジ'85"から続く中期経営計画"ACT'92"の事業多角化は手詰まりとなり、天候不順や消費税導入の影響も重なって、カルピス食品工業は1988年から3期連続で営業赤字を記録した。同じ時期、果汁の輸入自由化決定などを背景にビール4社が清涼飲料分野へ本格参入し、大塚製薬とネッスル日本が提携するなど、飲料業界の再編が進んだ。激しさを増すと予想される市場競争で競争優位を保って生き残るため、カルピス食品工業は1990年8月に味の素と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売にわたる提携を締結した。同年10月から、味の素が酒類以外のカルピス食品工業製品の総発売元となった。

  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)3「味の素との業務提携と「カルピスウォーター」のヒット」
    • [42]「チャレンジ'85」から続く新中期経営計画「ACT'92」の事業多角化戦略が手詰まり状態となり、天候不順や消費税導入などの影響もあって1988年から3期連続で営業赤字を記録した
    • [43]果汁の輸入自由化決定などを背景としたビール4社の清涼飲料分野への本格参入や、大塚製薬㈱とネッスル日本㈱の提携など飲料業界の再編が進んだ
    • [44]激しさを増すと予想される市場競争を勝ち残るため、1990年8月に味の素㈱と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売を含めた提携を行った
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [45]1990年10月に味の素株式会社と製品の総発売元契約を締結し、味の素が酒類以外の製品の総発売元となった
参考文献[32]-[45]
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
    • [32]横山淑夫社長は売上高に占めるカルピス比率を8割から7割まで下げた段階で技術屋の福井高行氏を後継社長に指名した。福井氏は昭和54年3月常務取締役東京研究所長、昭和60年(1985年)3月社長就任
    • [33]社長就任早々に東京研究所を研究開発センターに拡張し、腸内菌叢の状態とヒトの健康との関係を探る「腸内フローラ(菌叢)・ラボラトリー」を開設した
    • [34]低カロリーで腸内のビフィズス菌を増やす甘味料「大豆オリゴ糖」を開発し、ウイルス感染症に対する診断薬を発売して医薬品事業への足がかりを築き、子豚の整腸・肥育効果を高める「飼料生菌剤」も量産体制に入った
    • [36]「フルーツ合衆国」の小売りベースの売上高は約30億円に達した
    • [37]1988年の観測史上稀に見る異常気象による冷夏で、カルピスの売上高は前年比7%ダウン、ストレート飲料は昨年より20%伸びた
    • [38]1988年はカルピスが目玉商品にされることが多く、メーカー希望小売価格440円の商品の実売が250円から260円台まで落ち込み、一般小売店の販売意欲とお中元・お歳暮のギフト用需要まで冷え込んだ
    • [39]生産・配送システムの改善で従来50%程度だった量販店比率が大幅に上昇しコンビニエンスストアにも納入できるようになった反面、価格とブランドイメージを維持する力は衰えた
    • [40]1988年の売上高は前期比3%増が見込めるものの、営業利益は8億円の赤字、経常利益は前年より90.6%減の2億円となる見通し
    • [41]福井高行社長は1988年11月15日に顧問へ退き、塩川義人専務を次期社長に指名した
    • [35]1987年にアメリカの飲料メーカー、ハンセンフーズ社と生産委託契約を締結し、同年1月から日本市場向け缶飲料の生産を開始、第1号商品として果汁入り清涼飲料「フルーツ合衆国」(オレンジ・アップル・グレープフルーツ)の3品種を同年2月に発売した
    • [42]「チャレンジ'85」から続く新中期経営計画「ACT'92」の事業多角化戦略が手詰まり状態となり、天候不順や消費税導入などの影響もあって1988年から3期連続で営業赤字を記録した
    • [43]果汁の輸入自由化決定などを背景としたビール4社の清涼飲料分野への本格参入や、大塚製薬㈱とネッスル日本㈱の提携など飲料業界の再編が進んだ
    • [44]激しさを増すと予想される市場競争を勝ち残るため、1990年8月に味の素㈱と業務提携契約を締結し、開発・生産・販売を含めた提携を行った
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
    • [45]1990年10月に味の素株式会社と製品の総発売元契約を締結し、味の素が酒類以外の製品の総発売元となった

筆者考察

22年動かさなかった値段を1年弱で3度上げれば、量で回っていた仕組みは逆へ回る。1973年11月に320円、12月に370円、1974年10月に450円。売上高は1974年12月期の630億円を最後に減りはじめ、以後5年は542億円から575億円の間で動かない。同じころ"カルピス"を飲むと虫歯になるという風説が広まり、"初恋の味"を掲げた攻めの宣伝は、無害を訴える守りの宣伝へ切り替わった。一社一品主義は、その一品が伸びるかぎり最も効率のよい戦略であり、伸びが止まった途端に逃げ場のない戦略になる。1974年12月に96歳で死去した三島海雲氏は、その切り替わりを見ずに済んだ。

このとき会社に残っていたのは、使わなかったことの裏返しとしての強さだった。1980年12月期は営業損失10億8,200万円を出しながら無借金を保ち、自己資本比率73.2%は日本企業で最も高い水準にある。もっともそれは1972年の群馬工場を最後に大型投資を止めた結果でもあり、有形固定資産は105億円から67億円へ痩せていた。横山淑夫氏はチルドと酒類とスポーツクラブへ、福井高行氏は乳酸発酵技術を軸に医薬と飼料へ広げたが、目標の800億円には届かず、1988年から3期連続の営業赤字を出す。厚い自己資本で買えなかったのは、単品に賭けた40年ぶんの時間である。1990年8月に味の素と結んだ業務提携は、その帰結だった。

売上高 1974年〜1984年(億円)

630 1974 555 1975 542 1976 550 1977 575 1978 573 1979 486 1980 479 1981 522 1982 562 1983 593 1984
  • 単体。12月期の売上高。
  • 出所は会社年鑑1976年版・会社年鑑1986年版。

1974年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1974年12月期 単体 630 n/a 34 27 4.3% n/a
1975年12月期 単体 555 ▲11.9% 28 15 2.7% n/a
1976年12月期 単体 542 ▲2.3% 37 18 3.3% n/a
1977年12月期 単体 550 +1.5% 33 15 2.7% n/a
1978年12月期 単体 575 +4.5% 36 17 3.0% n/a
1979年12月期 単体 573 ▲0.3% 28 17 3.0% n/a
1980年12月期 単体 486 ▲15.2% 2 4 0.8% n/a
1981年12月期 単体 479 ▲1.4% 1 1 0.2% n/a
1982年12月期 単体 522 +9.0% 10 7 1.3% n/a
1983年12月期 単体 562 +7.7% 15 6 1.1% n/a
1984年12月期 単体 593 +5.5% 19 7 1.2% n/a
1985年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • カルピス 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 日経ビジネス 1981年4月6日号
  • 日経ビジネス 1988年12月19日号
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)2「変化する市場環境と経営基盤の強化」
  • カルピス経営史(アサヒ飲料、2022年)3「味の素との業務提携と「カルピスウォーター」のヒット」

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