ヤクルト本社は、権利を持つ者たちが後から作った共同の器であり、初めから号令をかけられる本部ではなかった。商標権と特許権は持っていても、原液を作るのも売るのも各地の会社で、本社にできるのは宣伝の取りまとめくらいだった。松園尚巳氏が長崎の販売権から出発し、関東ヤクルトを全国首位へ押し上げてようやく本社の発言権を得たのは、器の外側で実績を積むほかに中へ入る道がなかったからである。600社が並び立ち多数決が効く組織では、正しさを説くだけでは何も動かない。動かせるのは、各社の損得を組み替える提案だけだった。
プラスチック容器はその提案だった。瓶を捨てれば地方の瓶工場は資産を失うが、配達を担う主婦の手取りは倍になる。損をする者と得をする者が社内できれいに分かれたから、追放の動議が出て、4分の1が去った。それでも松園氏が押し通せたのは、去る者を出しても残る者の収入が増える設計になっていたからである。1955年に作られた調整機関は、この一件を境に、損得の配分を決める本部へ変わった。プラ容器革命と呼ばれた出来事の中身は、容器の材質ではなく、誰が配分を決めるかの交代だった。
株式会社ヤクルト本社が1955年4月、東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で設けられたのは、乱れた販売の体制を立て直すためだった。事業の起点は1935年で、医学博士の代田稔氏が乳酸菌"シロタ株"を強化培養し、福岡で"ヤクルト"を売り出したことにある。その後、商標権は各地の販売店がばらばらに取得し、戦後の復興期には販売権をもつ業者が一時600社を上回った。作る者も売る者も、会社としても集団としてもまとまりを欠いていた。本社は商標権と工業所有権を一元的に管理し、各地の業者には原液を作る権利と売る権利を与える代わりに、売上高に見合うロイヤリティを取るフランチャイズ方式を採った。
本社が発足しても、内部の争いは収まらなかった。利害が絡む場面になると本社の中でも衝突が激しくなり、組織としてのまとまりを欠いたため、本社が意見を通す力はほとんどなかった。本社を誰が動かすのかという問いは、最後には長崎地区の販売権を握る松園尚巳氏を軸に決着していく。松園氏がヤクルトと出会ったのは戦後で、1953年には200万円もの資金を投じて長崎地区の販売権を手に入れた。長崎で地盤を固めると、次は首都圏への進出をにらみ、藤沢に関東ヤクルトを立ち上げていた。関東ヤクルトの営業苦戦に対し松園氏は婦人配達員という業界初の販売方式を打ち出し、設立わずか5年で全国150業者のトップの売上を達成して本社での発言権を獲得した。これが後にヤクルトレディと呼ばれる訪問販売部隊の出発点である。
販売現場の労働は過酷を極めた。後年の松園尚巳氏の回想によれば、見知らぬ家庭の主婦を訪ねても8割は外交員だと分かった時点で追い返され、話を聞いてくれた家でも大半は疑いの目を向けてきたため、百軒を回って一軒の契約に至るかどうかだったという。そうした中でも松園氏は、各地の販売業者に向けて繰り返し訴えた。業者が乱立したままではヤクルト全体の飛躍は望めず、規模の小さい地方の会社のままでは社員が胸を張れないうえに人材も集まらない、だから目の前の利益より将来を見据えて手を組むべきだ、という主張である。1963年に本社専務となって経営権を握った松園氏は、ヤクルトレディを全国で導入する際の指揮を執る立場を得た。
1968年、松園氏は"配達労働の革命"を提唱した。松園氏の案は、ヤクルトレディの報酬を2倍に引き上げるという破格のものだった。その原資は、容器を瓶からプラスチックへ替えることで浮く生産と配達の費用に求めた。これに正面から異を唱えたのが、地方に瓶工場を抱える既得権の側である。彼らの言い分では、プラスチック化で全国160のびん工場は60まで絞り込めるものの、不要になる100工場の処分に300億円、新容器向けの機械に180億円、合わせて480億円がかかる。現状で十分な利益が出ている以上、各地の業者がわざわざ損を引き受ける理由はないと反対派は見た。松園氏の押しの強い言動を以前から快く思っていなかった役員の一人が緊急動議を提出し、その場の採決で松園氏はヤクルト本社から一時追放される事態となった。
ヤクルトを離れた事業者は、全体の4分の1に上った。プラ容器への移行案は最終的に通ったものの、その騒ぎの代償だった。松園氏は、ヤクルトを乱す男、正気でない専務とまで言われながらもプラ容器への切り替えをやり遂げ、1970年にはヤクルト本社の社長となった。それに先立つ1969年、株式会社サンケイアトムズ(現ヤクルト球団)の株式を取得してプロ野球の興行に加わり、ヤクルトスワローズは後に全国でブランドを知られる核となっていく。製造の面では1970年2月、各地のヤクルト製造会社を合理化し統廃合するのに合わせ、初めての自社製造部門となる藤沢工場を置いた。創業期に地方ごとに乱立した体制を、本社が主導する形へ改める動きである。
プラ容器への転換が採算に直結する理屈は単純だった。びんは回収・保管・洗浄という工程を回して初めて次の配達に使えるため、消費者一人に一本を届ける裏側でおよそ十一本の空きびんが流通過程に滞留する。中身は一本でも容器は十一本という空回りを、使い捨て容器はまるごと消せる。ヤクルトレディが毎日運ぶ荷も軽くなり、一人あたりの配達効率が上がる。既得権を持つ地方の瓶工場から見れば損失でしかないが、配達を担う女性と本社から見れば、報酬を二倍にする原資はここにしかなかった。追放の動議が飛び出したのは、この損得の線がそのまま社内の対立線と重なっていたからである。
松園尚巳社長は1973年に全国8社のヤクルト原液工場の買収を完了し、ヤクルト本社の"大政奉還"を果たした。フランチャイズ各社が握っていた製造機能を本社が一括統合する体制が、創業から18年を経てようやく整った形である。1971年に化粧品の本格販売を開始、1975年に医薬品の本格販売を開始し、乳製品単品依存からの脱却を試みた。だが同じ1973年の時点で、販売本数の伸びがやや頭打ちの現状では多角化は至上命題だという評価が、社外からすでに向けられていた。乳酸菌飲料という創業商品の市場が日本国内では飽和に向かう兆候は、上場前から見えていた。
1964年3月、ヤクルトグループ初の海外事業所として台湾ヤクルトが営業を開始した。1978年8月にはシンガポールヤクルト、1990年2月にインドネシアヤクルト、1992年6月にオーストラリアヤクルト、1996年3月にヨーロッパヤクルトと、海外事業所の設立は計画的に積み上がった。創業期の地方乱立を本社主導で再統合した松園体制は、その同じフランチャイズ統合の論理を海外展開へ転用し始めていた。国内が飽和に向かうほど、海外で同じ訪問販売モデルを移植する以外に成長の余地は残されていない構造が、この時点で既に組み込まれていた。
本社の権限がなぜここまで弱かったのかは、この組織の成り立ちに由来する。コカ・コーラ型のフランチャイズが本社を先に置いて各地に加盟店を作るのに対し、ヤクルトは各地の製造・販売会社が先にあり、それらが共同で本社を設立するという逆向きの順序をとった。本社が握っていたのは商標権と特許だけで、実務は宣伝広告の代行にとどまる調整・連絡機関に近かった。地方会社の整理・統合を進め、生みの親にあたる原液製造会社の株式まで買い取って管轄下に置くには、十余年を要している。大政奉還という言葉が選ばれたのは、この親子逆転の道のりを一語で言い表せたからである。
ヤクルトの多角化は、売る物を増やす話ではなく、売る人を減らさないための話だった。1日1600万本まで伸びた配達は1970年代の半ばで頭打ちになり、以降10年ほど1500万本の前後から動かなくなる。本数が伸びない宅配網は、そのままでは店主の収入も伸びない網である。ジュースもラーメンも化粧品も、利益を期待して並べたのではなく、ヤクルトとジョアの説明で疲れた販売店に、息抜きと幾らかの実入りを与えるために置かれた。商品が販路を養うという逆立ちした関係が、この会社の多角化の正体だった。
だから店頭売りの要求は退けられ続けた。店先に置けば本数は増えるが、説明する人がいらなくなり、6万5000人を繋ぎ止める理由が消える。松園尚巳氏が守ったのは乳酸菌の科学性というより、説明を要する商品であり続けることのほうだった。1980年に上場したとき、市場に載ったのは商標と種菌と原液を握る1社だけで、130社の販売会社も6万5000人の店主も資本の外にいた。資本で束ねられない組織を束ねる手段が、報酬と制服と受け箱だったのである。
宅配制度を始めた当初に集まった応募者は、新聞配達で集金を使い込んで解雇された者や、保険の外交で収入保証期間だけを渡り歩く者が多かった。1本10円そこそこの見慣れない商品を売る仕事に、歴史と信用のある乳業会社や新聞社、保険会社と競って人を集めても、条件で上回ることはできない。ヤクルト本社は配達の手数料を他業種より高く設定したが、松園尚巳氏は、報酬だけで人を繋ぎ止めれば顧客へ無理を重ねる悪循環になり、経営体質も虚弱になると判じた。そこで選んだのが、他の企業と競合しない労働市場を新たに開くことだった。家庭電化が進んで家計の支出がふくらみ、共稼ぎの必要が高まっていた家庭の主婦が、その相手だった。
1973年初めの時点で、婦人販売店の店主は全国で6万5000人を数えた。店は人口2000人ごとにほぼ1店の割合で配置され、売った本数が伸びるほど店主の取り分の率が高まる累進制が敷かれていた。これに奨励金や表彰の仕組みが細部まで組み合わされていた。平均的な店主は41歳、経験は4年2カ月だった。1613人の地域を受け持って日に260本を届け、月に約3万8000円を得ていた。定着率の高さを販売会社の経営者たちは新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが、松園尚巳氏はその見方を採らなかった。盆と正月に下駄を買ってやるほかに子供へ愛情を示す手立てのなかった主婦が、月に3000円から4000円を自分の判断で使えるようになったこと、そこに定着の理由があるとみた。
1日4時間の配達で4000円という報酬について、販売店の経営者たちは、新聞や牛乳の配達より上だとして、これ以上は出せないと答えた。松園尚巳氏はこれを退け、8000円を払うと決めた。1日8時間の労働を正業とし、4時間の配達をその半分としか見ない通念を崩さないかぎり、配達に従事する者の劣等感は消えないと考えたからである。値上げはしないと自らに課したうえで、精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の削減にかかった。制服を支給し、8億円を投じて専用の受け箱を配り、使い捨て容器で空き瓶の回収をなくして1人あたりの配達を200本から400本へ倍にした。報酬の原資は、値上げではなく配達の生産性から取り出された。
販売会社からは、店頭売りも並行させたいという要望がたびたび本社へ持ち込まれた。理由は、セールスマンや配達員が集めにくく定着しないというものだった。松園尚巳氏は、1時間かけて説明しても乳酸菌の効用が伝わらない相手に、何の説明もなく店先で売れば、客は嗜好飲料として買うにすぎず、もの珍しい期間が過ぎれば伸びは止まると答えた。宅配制度はそのまま貫かれ、それが後の発展の基礎になった『われわれは微生物を利用する、これまでになかった商品を確立するのだから安易な道があろうはずはなく、宅配以外に成功は期し難い』。駅の売店などでの店頭販売に手を付けたのは、1日の販売が1000万本を越えた1969年ごろからで、内容がある程度は理解されるようになったという判断が先にあった。
ヤクルトが嗜好飲料と見なされることは、販売現場の負担に直結していた。訪ねた100軒のうち80軒は、小さくて安いという連想から耳を貸さず、残る20軒でようやく話が始まる。この評価を商品の側から覆すために開発されたのがジョアである。牛乳に含まれる乳固形分が8%ほどであるのに対し、ジョアには11%以上を入れ、高タンパク・低カロリーの食品として設計した。日本人にスプーンを使う習慣がないことを踏まえて固まらないようにし、嫌われる発酵臭も抜いた。タンパク質を牛乳より多く入れた分だけ粘性が高まったため、専用のストローを添えて発売した。1973年初めには、ジョアとスカールの工場が本社の設備として動いていた。
オレンジジュースやラーメンを扱ったのは儲けのためではない。ヤクルトやジョアの説明に疲れ果てた販売店に、ひと息つく機会と多少の収入をもたらすための品だった。ジョアについては、粘りが強すぎて売りにくいとして、販売会社からタンパクを減らし果汁で味を調えるよう求める声が強かった。松園尚巳氏は、それでは自分から嗜好飲料の商売へ格を下げることになるとして退け、タンパクを多く含む仕様を変えなかった。化粧品は代田稔氏が微生物から取り出した美容素をもとにした商品で、客の関心を呼び込むきっかけにはなったが、利益を上げるまでには至らなかった。野菜ジュースだけは位置づけが違い、科学に立つ食品会社という評価を固めるために、2年でこの分野の首位に立った。商品を増やしたのは、市場を広げるためというより、宅配網を回し続けるためだった。
1973年2月の時点で、ヤクルト本社は東証上場を内定し、経営組織と販売方法の総仕上げにかかっていた。東京証券取引所市場第二部への上場が実現したのは1980年1月23日で、そこまでに7年近くを要した。その間、本社株は全国の販売会社や原液製造会社が分け持ち、各社のオーナー経営者55人が取締役に就いていた。この構成では、取締役の過半が同調すれば社長案を否決でき、社長その人を解くことさえ可能だった。松園尚巳氏も、代表権を3カ月ほど外された時期がある。これに先立つ1972年2月には、額面を変える目的で、名目上の存続会社を相手に吸収合併の手続きも踏んでいる。
上場にあたって、ヤクルト本社は1000万株すべてを公募で出し、既存株主による売出しを行わなかった。公募価格は1株1450円で、払込は1980年1月22日、受渡はその翌日に置かれた。引受は野村証券500万株、大和証券300万株を中心に組まれ、うち84万株が従業員持株会へ割り当てられた。創業者利益を取るための上場だという見方が一部にあったが、公募で得た資金はすべて会社へ入った。持株比率は最大の尚株式会社が9.9%、二番目の松園氏でも6.35%にとどまっていた。経営を圧迫する借入金はなく市場から資金を取る必要も当面はなかったから、狙いは予防医学に立つ事業だという認識を広く一般に持ってもらうことに置かれた。
上場時のヤクルト本社の従業員は3142人で、本店と9つの支店、11の工場、3つの研究所を持っていた。その外側には、1973年初めの時点で原液製造会社4社400人、瓶詰会社38社1750人、販売会社130社7490人、瓶詰販売会社23社2260人が連なり、末端に6万5000人の婦人販売店が置かれていた。1983年には販売会社が150社を数え、配達に従事する主婦は5万人を超え、グループ全体の従事者は10万人に及んだ。本社が全国に対して握っていたのは、商標権と特許権、中央研究所で培養する種菌、そして直轄に移した原液の製造だった。市場に載ったのはその中核の1社にすぎず、宅配網を繋ぎ止めていたのは資本ではなく、報酬と労働環境の設計だった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/2267/company.json https://the-shashi.com/api/2267/history.json https://the-shashi.com/api/2267/ceo.json https://the-shashi.com/api/2267/financials.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/2267/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/2267/financials.csv https://the-shashi.com/api/2267/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1955〜1969年地方フランチャイズの統合と松園尚巳氏によるプラ容器革命 | ヤクルト本社を設立 | ★ | ||
| 研究所(後に中央研究所京都分室と名称を変更)を設置 | ★ | |||
| 本社移転 | ★ | |||
| 初の海外拠点として台湾ヤクルトを設立 | ★★ | |||
| 国立研究所(後に中央研究所と名称を変更)を設置 | ★ | |||
| 瓶の廃止と全国の原液工場の統合による、本社集権体制への移行 1968年、ヤクルト本社の松園尚巳専務が瓶からプラスチック容器への転換を提案し、緊急動議で一時追放されながらも案を通し、1970年に社長へ就任、1973年に全国8社の原液工場買収を完了して本社直営体制(大政奉還)を確立した経営判断。乱立した地方フランチャイズを本社主導へ組み替えた業態転換であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| サンケイアトムズの株式を取得 | ★ | |||
| プロ野球興行事業に参入 | ★ | |||
| 1970〜1983年販路を資産とした多角化 | 初の製造部門として藤沢工場を新設 | ★ | ||
| 化粧品の本格販売を開始 | ★ | |||
| ヤクルト本社と合併 | ★ | |||
| 医薬品の本格販売を開始 | ★ | |||
| シンガポールヤクルトを設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部へ株式上場 | ★ | |||
| 1984〜2003年リプソンの失敗と医薬品の自社開発、富士裾野工場とアジア・欧州への展開 | 通信販売という新しい販路への進出と、それを畳む清算までの一巡 松園尚巳社長の発案を受け、ヤクルト本社は1984年に三菱商事と組んで無店舗販売の子会社リプソンを立ち上げた(出資比率はヤクルトが51%)。約6万人のヤクルトレディに"こっとんぽけっと"というカタログ誌を配らせて通信販売に乗り出し、運営は熊谷直樹常務が受け持ったが、1988年に累計50億6500万円の損失を出して清算に至った。通信販売への参入から清算までを扱う経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 医薬品の開発・製造を開始 | ★ | |||
| 東日本における製造・物流の拠点として、富士裾野工場を新設 | ★ | |||
| 富士裾野医薬品工場を新設 | ★ | |||
| インドネシアヤクルトを設立 | ★ | |||
| オーストラリアヤクルトを設立 | ★ | |||
| 堀澄也 | ヤクルト販売を統括するヨーロッパヤクルトを設立 | ★ | ||
| 2004〜2026年グループダノンとの提携と解消、中国・インドの拡大と新中央研究所 | 堀澄也 | 世界最大手の乳製品会社との連携と、16年後の資本関係の解消 2004年3月、ヤクルト本社が世界最大級の乳製品メーカー、仏ダノンを約2割を握る筆頭株主に迎えて戦略提携を締結した経営判断。前年に株を買い増して筆頭株主となったダノンを、欧州販売網とプロバイオティクス共同研究を得る戦略提携へと組み替えた。提携は2013年に協業覚書へ格下げされ、2018年・2020年の二段階の株式売却を経て、16年で資本関係が解消された。 詳細を読む | ★★★ | |
| 堀澄也 | 1単元の株式の数を1,000株から100株に変更 | ★ | ||
| 堀澄也 | ベルギーに研究拠点を設置 | ★ | ||
| 堀澄也 | ヤクルト事業を統括する中国ヤクルトを設立 | ★★ | ||
| 堀澄也 | グループダノンとの合弁でインドヤクルト・ダノンを設立 | ★ | ||
| 堀澄也 | 組織の統合・再編により5支店体制へ移行 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 西日本における生産拠点として、兵庫三木工場を新設 | ★ | ||
| 根岸孝成 | ダノンとの戦略提携契約を終了 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 本社乳製品工場の組織再編により5工場体制へ移行 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 7棟からなる新中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 本社移転 | ★ | ||
| 成田裕 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 成田裕 | 普通株式1株につき2株の割合で株式分割を実施 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ヤクルト本社)