ヤクルト本社 の歴史

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創業 1955年
創業者 代田稔
創業地 東京都中央区西八丁堀
創業 1955年4月、東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で株式会社ヤクルト本社が設
1955年4月、東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で株式会社ヤクルト本社が設立された。代田稔氏が戦前に培養した乳酸菌シロタ株を使う飲料は、戦後の復興期に販売権を持つ業者が600社を超えて乱立し、会社としての形をなしていなかった。本社は商標権と工業所有権を一手に握ったうえで、各業者へ原液の製造権と販売権を与え、売上に応じてロイヤリティを受け取るフランチャイズ方式を敷いている。1963年からは婦人販売員による家庭訪問を全国へ広げた。1969年1月には株式会社サンケイアトムズの株式を取得してプロ野球へ参入し、1980年1月に東京証券取引所市場第二部、翌1981年7月に第一部へ上場した。
決断 商品ではなく、それを配る権利のほうを本社へ集めてきた。1955年の設立で商標権を
商品ではなく、それを配る権利のほうを本社へ集めてきた。1955年の設立で商標権を握った時点でも、原液の製造と販売は各地の業者の手にあった。1968年、松園尚巳氏が瓶からプラスチック容器への転換を提起する。生産と配達の費用が下がれば販売員の報酬を2倍にできるという計算だったが、地方の瓶工場を抱える既得権層が反対し、松園氏は一時本社を離れた。案は通り、1970年2月に藤沢工場を新設し、1973年には全国8社の原液工場の買収を終えて製造を本社へ引き上げる。権利と設備が揃った先で本業の外へ出た試みは続かず、1984年に三菱商事と設けた通販子会社は4年で清算に至った。1998年には財務運用の損失1,075億円を特別損失に計上し、二度の失敗が投資先を乳酸菌と訪問販売の周辺へ絞らせた。
現況 売上の2割に満たない米州が、営業利益の4割近くを返している。2026年3月期の連
売上の2割に満たない米州が、営業利益の4割近くを返している。2026年3月期の連結売上高は4,864億円、営業利益は451億円で、いずれも前期を下回った。地域別では日本が2,204億円・利益277億円、アジア・オセアニアが1,362億円・126億円、米州が911億円・238億円、ヨーロッパが127億円で1億円の損失である。米州の利益率26%は、日本の12%の2倍を超える。国内の乳製品は1990年代後半から1日1,100万本前後で頭打ちが続き、伸びは海外へ移った。同期の設備投資も米州が460億円と日本の224億円を上回り、投じる先まで入れ替わっている。
競合 競合が店の棚に払う費用を、ヤクルトは配る人に払っている。乳酸菌飲料で並ぶのは量販
競合が店の棚に払う費用を、ヤクルトは配る人に払っている。乳酸菌飲料で並ぶのは量販店の棚で回す会社であり、そこでは商品名と価格が競争の焦点になる。ヤクルトは1963年に始めた婦人販売員の家庭訪問を主たる販路として残し、2026年3月期の販売費及び一般管理費は売上の50%に達した。この構えは提携相手も選んでいる。2004年3月にフランスのグループダノンと戦略提携を締結したのは、欧州の販売網とプロバイオティクス研究を取り込むためだったが、ダノン自身が同じ市場の競合でもあった。2013年4月に戦略提携契約は終了し、2020年には資本関係も解消される。16年つづいた資本の関係が解けたあと、ダノンは棚で売る側の競合として向き合う位置へ戻った。
長期業績の推移 1955〜2026年
ヤクルト本社:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1955年〜 地方フランチャイズの統合と松園尚巳氏によるプラ容器革命

筆者考察y.sugiura, author

ヤクルト本社は、権利を持つ者たちが後から作った共同の器であり、初めから号令をかけられる本部ではなかった。商標権と特許権は持っていても、原液を作るのも売るのも各地の会社で、本社にできるのは宣伝の取りまとめくらいだった。松園尚巳氏が長崎の販売権から出発し、関東ヤクルトを全国首位へ押し上げてようやく本社の発言権を得たのは、器の外側で実績を積むほかに中へ入る道がなかったからである。600社が並び立ち多数決が効く組織では、正しさを説くだけでは何も動かない。動かせるのは、各社の損得を組み替える提案だけだった。

プラスチック容器はその提案だった。瓶を捨てれば地方の瓶工場は資産を失うが、配達を担う主婦の手取りは倍になる。損をする者と得をする者が社内できれいに分かれたから、追放の動議が出て、4分の1が去った。それでも松園氏が押し通せたのは、去る者を出しても残る者の収入が増える設計になっていたからである。1955年に作られた調整機関は、この一件を境に、損得の配分を決める本部へ変わった。プラ容器革命と呼ばれた出来事の中身は、容器の材質ではなく、誰が配分を決めるかの交代だった。

1955年〜600業者の乱立を一元管理するためのヤクルト本社設立

株式会社ヤクルト本社が1955年4月、東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で設けられたのは、乱れた販売の体制を立て直すためだった。事業の起点は1935年で、医学博士の代田稔氏が乳酸菌"シロタ株"を強化培養し、福岡で"ヤクルト"を売り出したことにある。その後、商標権は各地の販売店がばらばらに取得し、戦後の復興期には販売権をもつ業者が一時600社を上回った。作る者も売る者も、会社としても集団としてもまとまりを欠いていた。本社は商標権と工業所有権を一元的に管理し、各地の業者には原液を作る権利と売る権利を与える代わりに、売上高に見合うロイヤリティを取るフランチャイズ方式を採った。

  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月に東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で株式会社ヤクルト本社が設立された
  • ヤクルトの歴史/松園尚巳(2017年)
    • [2]1935年に代田稔氏が乳酸菌「シロタ株」を強化培養し福岡で「ヤクルト」を発売した
    • [4]本社は商標権・工業所有権を一元管理しフランチャイズ方式を採用した
  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [3]戦後復興期に販売権を持つ業者が600社を超えた

本社が発足しても、内部の争いは収まらなかった。利害が絡む場面になると本社の中でも衝突が激しくなり、組織としてのまとまりを欠いたため、本社が意見を通す力はほとんどなかった。本社を誰が動かすのかという問いは、最後には長崎地区の販売権を握る松園尚巳氏を軸に決着していく。松園氏がヤクルトと出会ったのは戦後で、1953年には200万円もの資金を投じて長崎地区の販売権を手に入れた。長崎で地盤を固めると、次は首都圏への進出をにらみ、藤沢に関東ヤクルトを立ち上げていた。関東ヤクルトの営業苦戦に対し松園氏は婦人配達員という業界初の販売方式を打ち出し、設立わずか5年で全国150業者のトップの売上を達成して本社での発言権を獲得した。これが後にヤクルトレディと呼ばれる訪問販売部隊の出発点である。

  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [5]松園尚巳氏は長崎地区の販売権を持つ人物だった
    • [6]1953年に200万円で長崎地区販売権を取得した
    • [7]松園氏は藤沢に関東ヤクルトを設立した
    • [8]関東ヤクルトは設立5年で全国150業者のトップになった

販売現場の労働は過酷を極めた。後年の松園尚巳氏の回想によれば、見知らぬ家庭の主婦を訪ねても8割は外交員だと分かった時点で追い返され、話を聞いてくれた家でも大半は疑いの目を向けてきたため、百軒を回って一軒の契約に至るかどうかだったという。そうした中でも松園氏は、各地の販売業者に向けて繰り返し訴えた。業者が乱立したままではヤクルト全体の飛躍は望めず、規模の小さい地方の会社のままでは社員が胸を張れないうえに人材も集まらない、だから目の前の利益より将来を見据えて手を組むべきだ、という主張である。1963年に本社専務となって経営権を握った松園氏は、ヤクルトレディを全国で導入する際の指揮を執る立場を得た。

  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「松園尚巳が語る「他人の道を行かぬ経営」」
    • [9]松園尚巳氏は訪問販売の実情を、8割は外交員というだけで門前払い、百軒歩いて一軒とれるかどうかと語った
  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [10]1963年に松園氏が本社専務に就任した
参考文献[1]-[10]
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月に東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で株式会社ヤクルト本社が設立された
  • ヤクルトの歴史/松園尚巳(2017年)
    • [2]1935年に代田稔氏が乳酸菌「シロタ株」を強化培養し福岡で「ヤクルト」を発売した
    • [4]本社は商標権・工業所有権を一元管理しフランチャイズ方式を採用した
  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [3]戦後復興期に販売権を持つ業者が600社を超えた
    • [5]松園尚巳氏は長崎地区の販売権を持つ人物だった
    • [6]1953年に200万円で長崎地区販売権を取得した
    • [7]松園氏は藤沢に関東ヤクルトを設立した
    • [8]関東ヤクルトは設立5年で全国150業者のトップになった
    • [10]1963年に松園氏が本社専務に就任した
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「松園尚巳が語る「他人の道を行かぬ経営」」
    • [9]松園尚巳氏は訪問販売の実情を、8割は外交員というだけで門前払い、百軒歩いて一軒とれるかどうかと語った

1968年〜プラ容器移行を巡る社内分裂と松園氏の社長就任

1968年、松園氏は"配達労働の革命"を提唱した。松園氏の案は、ヤクルトレディの報酬を2倍に引き上げるという破格のものだった。その原資は、容器を瓶からプラスチックへ替えることで浮く生産と配達の費用に求めた。これに正面から異を唱えたのが、地方に瓶工場を抱える既得権の側である。彼らの言い分では、プラスチック化で全国160のびん工場は60まで絞り込めるものの、不要になる100工場の処分に300億円、新容器向けの機械に180億円、合わせて480億円がかかる。現状で十分な利益が出ている以上、各地の業者がわざわざ損を引き受ける理由はないと反対派は見た。松園氏の押しの強い言動を以前から快く思っていなかった役員の一人が緊急動議を提出し、その場の採決で松園氏はヤクルト本社から一時追放される事態となった。

  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [11]1968年に松園氏が瓶からプラスチック容器への切り替え(配達労働の革命)を提唱した
    • [12]反対派の試算はスクラップ費用300億円+機械投資180億円の計480億円だった
    • [13]松園氏は緊急動議による投票でヤクルト本社から一時追放された

ヤクルトを離れた事業者は、全体の4分の1に上った。プラ容器への移行案は最終的に通ったものの、その騒ぎの代償だった。松園氏は、ヤクルトを乱す男、正気でない専務とまで言われながらもプラ容器への切り替えをやり遂げ、1970年にはヤクルト本社の社長となった。それに先立つ1969年、株式会社サンケイアトムズ(現ヤクルト球団)の株式を取得してプロ野球の興行に加わり、ヤクルトスワローズは後に全国でブランドを知られる核となっていく。製造の面では1970年2月、各地のヤクルト製造会社を合理化し統廃合するのに合わせ、初めての自社製造部門となる藤沢工場を置いた。創業期に地方ごとに乱立した体制を、本社が主導する形へ改める動きである。

  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [14]プラ容器移行で全事業者の4分の1が脱退した
    • [15]1970年に松園氏がヤクルト本社の社長に就任した
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1969年にサンケイアトムズ(現ヤクルト球団)の株式を取得しプロ野球興行に参入した
    • [17]1970年2月に自社初の製造部門として藤沢工場を設置した

プラ容器への転換が採算に直結する理屈は単純だった。びんは回収・保管・洗浄という工程を回して初めて次の配達に使えるため、消費者一人に一本を届ける裏側でおよそ十一本の空きびんが流通過程に滞留する。中身は一本でも容器は十一本という空回りを、使い捨て容器はまるごと消せる。ヤクルトレディが毎日運ぶ荷も軽くなり、一人あたりの配達効率が上がる。既得権を持つ地方の瓶工場から見れば損失でしかないが、配達を担う女性と本社から見れば、報酬を二倍にする原資はここにしかなかった。追放の動議が飛び出したのは、この損得の線がそのまま社内の対立線と重なっていたからである。

  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [18]びん容器は消費者一人に一本届ける間に約11本の余分なびんが流通過程に必要だった
    • [19]プラスチック容器はヤクルトレディの負担を軽減し配送効率を高めると見込まれた
参考文献[11]-[19]
  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
    • [11]1968年に松園氏が瓶からプラスチック容器への切り替え(配達労働の革命)を提唱した
    • [12]反対派の試算はスクラップ費用300億円+機械投資180億円の計480億円だった
    • [13]松園氏は緊急動議による投票でヤクルト本社から一時追放された
    • [14]プラ容器移行で全事業者の4分の1が脱退した
    • [15]1970年に松園氏がヤクルト本社の社長に就任した
    • [18]びん容器は消費者一人に一本届ける間に約11本の余分なびんが流通過程に必要だった
    • [19]プラスチック容器はヤクルトレディの負担を軽減し配送効率を高めると見込まれた
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1969年にサンケイアトムズ(現ヤクルト球団)の株式を取得しプロ野球興行に参入した
    • [17]1970年2月に自社初の製造部門として藤沢工場を設置した

1973年〜「大政奉還」と早すぎる多角化への踏み出し

松園尚巳社長は1973年に全国8社のヤクルト原液工場の買収を完了し、ヤクルト本社の"大政奉還"を果たした。フランチャイズ各社が握っていた製造機能を本社が一括統合する体制が、創業から18年を経てようやく整った形である。1971年に化粧品の本格販売を開始、1975年に医薬品の本格販売を開始し、乳製品単品依存からの脱却を試みた。だが同じ1973年の時点で、販売本数の伸びがやや頭打ちの現状では多角化は至上命題だという評価が、社外からすでに向けられていた。乳酸菌飲料という創業商品の市場が日本国内では飽和に向かう兆候は、上場前から見えていた。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [20]1973年に全国8社のヤクルト原液工場の買収を完了し「大政奉還」を果たした
    • [23]1973年時点で販売本数の伸びは頭打ちで多角化は至上命題と指摘されていた
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1971年に化粧品の本格販売を開始した
    • [22]1975年に医薬品の本格販売を開始した

1964年3月、ヤクルトグループ初の海外事業所として台湾ヤクルトが営業を開始した。1978年8月にはシンガポールヤクルト、1990年2月にインドネシアヤクルト、1992年6月にオーストラリアヤクルト、1996年3月にヨーロッパヤクルトと、海外事業所の設立は計画的に積み上がった。創業期の地方乱立を本社主導で再統合した松園体制は、その同じフランチャイズ統合の論理を海外展開へ転用し始めていた。国内が飽和に向かうほど、海外で同じ訪問販売モデルを移植する以外に成長の余地は残されていない構造が、この時点で既に組み込まれていた。

  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1964年3月にグループ初の海外事業所として台湾ヤクルトが営業を開始した
    • [25]1978年8月にシンガポールヤクルトを設立した
    • [26]1990年2月にインドネシアヤクルトを設立した
    • [27]1992年6月にオーストラリアヤクルトを設立した
    • [28]1996年3月にヨーロッパヤクルトを設立した

本社の権限がなぜここまで弱かったのかは、この組織の成り立ちに由来する。コカ・コーラ型のフランチャイズが本社を先に置いて各地に加盟店を作るのに対し、ヤクルトは各地の製造・販売会社が先にあり、それらが共同で本社を設立するという逆向きの順序をとった。本社が握っていたのは商標権と特許だけで、実務は宣伝広告の代行にとどまる調整・連絡機関に近かった。地方会社の整理・統合を進め、生みの親にあたる原液製造会社の株式まで買い取って管轄下に置くには、十余年を要している。大政奉還という言葉が選ばれたのは、この親子逆転の道のりを一語で言い表せたからである。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [29]ヤクルトは各地の製造・販売会社が共同で本社を設立した組織で、本社が先に立つフランチャイズとは順序が逆だった
    • [30]設立当初の本社は商標権と特許を持つだけで宣伝広告を代行する調整・連絡機関に近かった
    • [31]本社が地方会社の整理統合と原液製造会社の株式取得に至るまで十余年を要した
参考文献[20]-[31]
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [20]1973年に全国8社のヤクルト原液工場の買収を完了し「大政奉還」を果たした
    • [23]1973年時点で販売本数の伸びは頭打ちで多角化は至上命題と指摘されていた
    • [29]ヤクルトは各地の製造・販売会社が共同で本社を設立した組織で、本社が先に立つフランチャイズとは順序が逆だった
    • [30]設立当初の本社は商標権と特許を持つだけで宣伝広告を代行する調整・連絡機関に近かった
    • [31]本社が地方会社の整理統合と原液製造会社の株式取得に至るまで十余年を要した
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1971年に化粧品の本格販売を開始した
    • [22]1975年に医薬品の本格販売を開始した
    • [24]1964年3月にグループ初の海外事業所として台湾ヤクルトが営業を開始した
    • [25]1978年8月にシンガポールヤクルトを設立した
    • [26]1990年2月にインドネシアヤクルトを設立した
    • [27]1992年6月にオーストラリアヤクルトを設立した
    • [28]1996年3月にヨーロッパヤクルトを設立した

第2章 1970年〜 販路を資産とした多角化6万5000人の宅配網へ従属させたジョアと化粧品

筆者考察y.sugiura, author

ヤクルトの多角化は、売る物を増やす話ではなく、売る人を減らさないための話だった。1日1600万本まで伸びた配達は1970年代の半ばで頭打ちになり、以降10年ほど1500万本の前後から動かなくなる。本数が伸びない宅配網は、そのままでは店主の収入も伸びない網である。ジュースもラーメンも化粧品も、利益を期待して並べたのではなく、ヤクルトとジョアの説明で疲れた販売店に、息抜きと幾らかの実入りを与えるために置かれた。商品が販路を養うという逆立ちした関係が、この会社の多角化の正体だった。

だから店頭売りの要求は退けられ続けた。店先に置けば本数は増えるが、説明する人がいらなくなり、6万5000人を繋ぎ止める理由が消える。松園尚巳氏が守ったのは乳酸菌の科学性というより、説明を要する商品であり続けることのほうだった。1980年に上場したとき、市場に載ったのは商標と種菌と原液を握る1社だけで、130社の販売会社も6万5000人の店主も資本の外にいた。資本で束ねられない組織を束ねる手段が、報酬と制服と受け箱だったのである。

1970年〜主婦という非競合労働市場の開拓と6万5000店の配置

他社と競合しない労働力を主婦に求めた

宅配制度を始めた当初に集まった応募者は、新聞配達で集金を使い込んで解雇された者や、保険の外交で収入保証期間だけを渡り歩く者が多かった。1本10円そこそこの見慣れない商品を売る仕事に、歴史と信用のある乳業会社や新聞社、保険会社と競って人を集めても、条件で上回ることはできない。ヤクルト本社は配達の手数料を他業種より高く設定したが、松園尚巳氏は、報酬だけで人を繋ぎ止めれば顧客へ無理を重ねる悪循環になり、経営体質も虚弱になると判じた。そこで選んだのが、他の企業と競合しない労働市場を新たに開くことだった。家庭電化が進んで家計の支出がふくらみ、共稼ぎの必要が高まっていた家庭の主婦が、その相手だった。

  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [32]宅配制度の採用当初は新聞配達の使い込みで解雇された者や保険セールスの収入保証期間のみを渡り歩く者が集まった
    • [33]歴史と信用を持つ乳業メーカー・新聞社・保険会社とセールスマンを取り合っても勝てなかった
    • [36]家庭電化の進展で家計費がかさみ共稼ぎの必要性が高まっていたため主婦を販売戦力とすることに着目した
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [34]配達員の手数料を他より高くしたが、マージン政策だけでは顧客に無理を願う悪循環になり経営体質も虚弱になると考えた
    • [35]他の企業と競合しない労働市場を開拓する必要があると考えた
人口2000人に1店を置き報酬を本数に連動させた

1973年初めの時点で、婦人販売店の店主は全国で6万5000人を数えた。店は人口2000人ごとにほぼ1店の割合で配置され、売った本数が伸びるほど店主の取り分の率が高まる累進制が敷かれていた。これに奨励金や表彰の仕組みが細部まで組み合わされていた。平均的な店主は41歳、経験は4年2カ月だった。1613人の地域を受け持って日に260本を届け、月に約3万8000円を得ていた。定着率の高さを販売会社の経営者たちは新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが、松園尚巳氏はその見方を採らなかった。盆と正月に下駄を買ってやるほかに子供へ愛情を示す手立てのなかった主婦が、月に3000円から4000円を自分の判断で使えるようになったこと、そこに定着の理由があるとみた。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [37]1973年初めの婦人販売店主は全国で約6万5000人だった
    • [38]婦人販売店は人口2000人をメドに1店ずつ置かれ、収入は販売本数に比例して累進する仕組みだった
    • [39]奨励金制度と表彰制度が細かく設けられていた
    • [40]平均的な婦人販売店主は年齢41歳・経験4年2カ月・受け持ち人口1613人で毎日260本を配達し月収3万8000円ほどだった
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [41]販売会社の経営者たちは定着率の高さを新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが松園尚巳氏は同意しなかった
    • [42]松園尚巳氏は定着の理由を、月に3000円から4000円を子供への愛情表現に自由に使えることに求めた
配達を正業として扱い賃金を倍にした

1日4時間の配達で4000円という報酬について、販売店の経営者たちは、新聞や牛乳の配達より上だとして、これ以上は出せないと答えた。松園尚巳氏はこれを退け、8000円を払うと決めた。1日8時間の労働を正業とし、4時間の配達をその半分としか見ない通念を崩さないかぎり、配達に従事する者の劣等感は消えないと考えたからである。値上げはしないと自らに課したうえで、精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の削減にかかった。制服を支給し、8億円を投じて専用の受け箱を配り、使い捨て容器で空き瓶の回収をなくして1人あたりの配達を200本から400本へ倍にした。報酬の原資は、値上げではなく配達の生産性から取り出された。

  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [43]1日4時間の配達で4000円という報酬に対し販売店の経営者は新聞や牛乳の配達より上でこれ以上は出せないと答えた
    • [44]松園尚巳氏は配達員に8000円を払うと決めた
    • [45]8時間労働の正業に対し1日3〜4時間のアルバイト労働として報酬が少ないことが配達員の社会的評価の低さを生んでいると考えた
    • [47]制服を支給し、8億円をかけてプラスチックの受け箱を作った
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [46]配達労働を精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の軽減にあたった
    • [48]ワンウェイ容器への切り替えで1人が1日に配達できる本数は200本から400本へ倍増した
参考文献[32]-[48]
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [32]宅配制度の採用当初は新聞配達の使い込みで解雇された者や保険セールスの収入保証期間のみを渡り歩く者が集まった
    • [33]歴史と信用を持つ乳業メーカー・新聞社・保険会社とセールスマンを取り合っても勝てなかった
    • [36]家庭電化の進展で家計費がかさみ共稼ぎの必要性が高まっていたため主婦を販売戦力とすることに着目した
    • [41]販売会社の経営者たちは定着率の高さを新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが松園尚巳氏は同意しなかった
    • [42]松園尚巳氏は定着の理由を、月に3000円から4000円を子供への愛情表現に自由に使えることに求めた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [34]配達員の手数料を他より高くしたが、マージン政策だけでは顧客に無理を願う悪循環になり経営体質も虚弱になると考えた
    • [35]他の企業と競合しない労働市場を開拓する必要があると考えた
    • [46]配達労働を精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の軽減にあたった
    • [48]ワンウェイ容器への切り替えで1人が1日に配達できる本数は200本から400本へ倍増した
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [37]1973年初めの婦人販売店主は全国で約6万5000人だった
    • [38]婦人販売店は人口2000人をメドに1店ずつ置かれ、収入は販売本数に比例して累進する仕組みだった
    • [39]奨励金制度と表彰制度が細かく設けられていた
    • [40]平均的な婦人販売店主は年齢41歳・経験4年2カ月・受け持ち人口1613人で毎日260本を配達し月収3万8000円ほどだった
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [43]1日4時間の配達で4000円という報酬に対し販売店の経営者は新聞や牛乳の配達より上でこれ以上は出せないと答えた
    • [44]松園尚巳氏は配達員に8000円を払うと決めた
    • [45]8時間労働の正業に対し1日3〜4時間のアルバイト労働として報酬が少ないことが配達員の社会的評価の低さを生んでいると考えた
    • [47]制服を支給し、8億円をかけてプラスチックの受け箱を作った

1971年〜店頭売りの拒否とジョアによる嗜好飲料視の打ち消し

店頭売りの要求を退けた

販売会社からは、店頭売りも並行させたいという要望がたびたび本社へ持ち込まれた。理由は、セールスマンや配達員が集めにくく定着しないというものだった。松園尚巳氏は、1時間かけて説明しても乳酸菌の効用が伝わらない相手に、何の説明もなく店先で売れば、客は嗜好飲料として買うにすぎず、もの珍しい期間が過ぎれば伸びは止まると答えた。宅配制度はそのまま貫かれ、それが後の発展の基礎になった『われわれは微生物を利用する、これまでになかった商品を確立するのだから安易な道があろうはずはなく、宅配以外に成功は期し難い』。駅の売店などでの店頭販売に手を付けたのは、1日の販売が1000万本を越えた1969年ごろからで、内容がある程度は理解されるようになったという判断が先にあった。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [49]各地域の販売会社から店頭売りも並行して行ないたいという要望がたびたび本社に寄せられた
    • [53]駅の売店などでの店頭販売は1日の販売本数が1000万本を越えた1969年ごろから始めた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [50]販売会社が店頭売りを求めた理由はセールスマン・配達員が集めにくく定着しないことだった
    • [51]松園尚巳氏は、説明なしに店頭で売れば客は嗜好飲料として買うにすぎず将来の発展は望めないとして反対した
    • [52]宅配制度を貫いたことが今日の発展の基礎になったと述べた
嗜好飲料視を覆すためにジョアを開発した

ヤクルトが嗜好飲料と見なされることは、販売現場の負担に直結していた。訪ねた100軒のうち80軒は、小さくて安いという連想から耳を貸さず、残る20軒でようやく話が始まる。この評価を商品の側から覆すために開発されたのがジョアである。牛乳に含まれる乳固形分が8%ほどであるのに対し、ジョアには11%以上を入れ、高タンパク・低カロリーの食品として設計した。日本人にスプーンを使う習慣がないことを踏まえて固まらないようにし、嫌われる発酵臭も抜いた。タンパク質を牛乳より多く入れた分だけ粘性が高まったため、専用のストローを添えて発売した。1973年初めには、ジョアとスカールの工場が本社の設備として動いていた。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [54]ヤクルトが世間で嗜好飲料品視されがちなことが販売上の悩みだった
    • [55]セールスに行っても100軒のうち80軒は小さい・安い・だから嗜好飲料という連想から聞く耳を持たず、20軒がようやく話を聞いた
    • [56]嗜好飲料視される問題を解決する方策としてジョアを開発した
    • [57]牛乳の乳固形分は8%ほどだがジョアには11%以上を入れ高タンパク・低カロリーの食品とした
    • [58]日本人にスプーンを使う習慣がないため固くならないようにし、嫌われる牛乳の発酵臭を取り除いた
    • [59]タンパク質を牛乳より多く入れて粘性が高まったため特製のストローを付けて発売した
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [60]1973年初めの時点でジョアやスカールの工場が本社の設備として稼働していた
利益を生まない商品を宅配網の維持に充てた

オレンジジュースやラーメンを扱ったのは儲けのためではない。ヤクルトやジョアの説明に疲れ果てた販売店に、ひと息つく機会と多少の収入をもたらすための品だった。ジョアについては、粘りが強すぎて売りにくいとして、販売会社からタンパクを減らし果汁で味を調えるよう求める声が強かった。松園尚巳氏は、それでは自分から嗜好飲料の商売へ格を下げることになるとして退け、タンパクを多く含む仕様を変えなかった。化粧品は代田稔氏が微生物から取り出した美容素をもとにした商品で、客の関心を呼び込むきっかけにはなったが、利益を上げるまでには至らなかった。野菜ジュースだけは位置づけが違い、科学に立つ食品会社という評価を固めるために、2年でこの分野の首位に立った。商品を増やしたのは、市場を広げるためというより、宅配網を回し続けるためだった。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [61]オレンジジュースやラーメンはサイドビジネスで、説明に疲労する販売店に息抜きと幾らかの利益を得させる戦略上のものだった
    • [62]販売会社からジョアはドロッとしすぎて売れないのでタンパクを減らし果汁を入れて味を良くしてほしいという要望が強かった
    • [63]松園尚巳氏はその要望を自ら嗜好飲料業に身を落とすものだとして退け高タンパクの姿勢を堅持した
    • [64]化粧品は代田稔氏が微生物から得た美容素を商品化したもので、関心をもってもらうきっかけには役立ったが利益を生むほどではなかった
    • [65]野菜ジュースは科学食品メーカーとしての位置づけを強固にするために手がけ、2年でこの分野のトップメーカーになった
参考文献[49]-[65]
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [49]各地域の販売会社から店頭売りも並行して行ないたいという要望がたびたび本社に寄せられた
    • [53]駅の売店などでの店頭販売は1日の販売本数が1000万本を越えた1969年ごろから始めた
    • [60]1973年初めの時点でジョアやスカールの工場が本社の設備として稼働していた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [50]販売会社が店頭売りを求めた理由はセールスマン・配達員が集めにくく定着しないことだった
    • [51]松園尚巳氏は、説明なしに店頭で売れば客は嗜好飲料として買うにすぎず将来の発展は望めないとして反対した
    • [52]宅配制度を貫いたことが今日の発展の基礎になったと述べた
    • [54]ヤクルトが世間で嗜好飲料品視されがちなことが販売上の悩みだった
    • [55]セールスに行っても100軒のうち80軒は小さい・安い・だから嗜好飲料という連想から聞く耳を持たず、20軒がようやく話を聞いた
    • [56]嗜好飲料視される問題を解決する方策としてジョアを開発した
    • [57]牛乳の乳固形分は8%ほどだがジョアには11%以上を入れ高タンパク・低カロリーの食品とした
    • [58]日本人にスプーンを使う習慣がないため固くならないようにし、嫌われる牛乳の発酵臭を取り除いた
    • [59]タンパク質を牛乳より多く入れて粘性が高まったため特製のストローを付けて発売した
    • [61]オレンジジュースやラーメンはサイドビジネスで、説明に疲労する販売店に息抜きと幾らかの利益を得させる戦略上のものだった
    • [62]販売会社からジョアはドロッとしすぎて売れないのでタンパクを減らし果汁を入れて味を良くしてほしいという要望が強かった
    • [63]松園尚巳氏はその要望を自ら嗜好飲料業に身を落とすものだとして退け高タンパクの姿勢を堅持した
    • [64]化粧品は代田稔氏が微生物から得た美容素を商品化したもので、関心をもってもらうきっかけには役立ったが利益を生むほどではなかった
    • [65]野菜ジュースは科学食品メーカーとしての位置づけを強固にするために手がけ、2年でこの分野のトップメーカーになった

1980年〜東証二部上場と資本の外に残った販売網

内定から7年をかけて上場にたどり着いた

1973年2月の時点で、ヤクルト本社は東証上場を内定し、経営組織と販売方法の総仕上げにかかっていた。東京証券取引所市場第二部への上場が実現したのは1980年1月23日で、そこまでに7年近くを要した。その間、本社株は全国の販売会社や原液製造会社が分け持ち、各社のオーナー経営者55人が取締役に就いていた。この構成では、取締役の過半が同調すれば社長案を否決でき、社長その人を解くことさえ可能だった。松園尚巳氏も、代表権を3カ月ほど外された時期がある。これに先立つ1972年2月には、額面を変える目的で、名目上の存続会社を相手に吸収合併の手続きも踏んでいる。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [66]1973年2月の時点でヤクルト本社は東証上場を内定し経営組織・販売方法の再点検にとりかかっていた
    • [68]本社株式は各地の販売会社や原液製造会社に分散して持たれ、そのオーナー経営者ら合計55人が取締役に名を連ねていた
    • [69]取締役会の多数が一致すれば社長の意見を採用しないことも社長を罷免することもできる構造だった
    • [70]松園尚巳氏は3カ月ほど代表権を取り上げられたことがあった
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [67]1980年1月23日に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [71]1972年2月に額面変更のため形式上の存続会社である株式会社ヤクルト本社に吸収合併された
売出しを行わず全株を公募した

上場にあたって、ヤクルト本社は1000万株すべてを公募で出し、既存株主による売出しを行わなかった。公募価格は1株1450円で、払込は1980年1月22日、受渡はその翌日に置かれた。引受は野村証券500万株、大和証券300万株を中心に組まれ、うち84万株が従業員持株会へ割り当てられた。創業者利益を取るための上場だという見方が一部にあったが、公募で得た資金はすべて会社へ入った。持株比率は最大の尚株式会社が9.9%、二番目の松園氏でも6.35%にとどまっていた。経営を圧迫する借入金はなく市場から資金を取る必要も当面はなかったから、狙いは予防医学に立つ事業だという認識を広く一般に持ってもらうことに置かれた。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [72]上場する株式はすべて公募公開とし、増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収する形にした
    • [75]創業者利益を取るためという見方が一部にあったが、上場株はすべて公募公開で増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収された
    • [77]経営を圧迫する借入金はなく大衆資金の導入も当面は不要で、上場の狙いは予防医学に貢献する事業の意義を広く理解してもらうことにあった
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [73]公募は1000万株・1株1450円で、払込期日は1980年1月22日、受渡日は1月23日だった
    • [74]幹事別引受株数は野村証券500万株・大和証券300万株ほかで、うち84万株が従業員持株会への割当だった
    • [76]上場時の大株主は尚株式会社9.9%、松園尚巳6.35%、小野塚祐一郎2.84%、従業員持株会2.83%だった
上場したのは種菌と原液を握る本社だけだった

上場時のヤクルト本社の従業員は3142人で、本店と9つの支店、11の工場、3つの研究所を持っていた。その外側には、1973年初めの時点で原液製造会社4社400人、瓶詰会社38社1750人、販売会社130社7490人、瓶詰販売会社23社2260人が連なり、末端に6万5000人の婦人販売店が置かれていた。1983年には販売会社が150社を数え、配達に従事する主婦は5万人を超え、グループ全体の従事者は10万人に及んだ。本社が全国に対して握っていたのは、商標権と特許権、中央研究所で培養する種菌、そして直轄に移した原液の製造だった。市場に載ったのはその中核の1社にすぎず、宅配網を繋ぎ止めていたのは資本ではなく、報酬と労働環境の設計だった。

  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [78]上場時の従業員数は3142人で、本店・北海道支店ほか9支店・札幌工場ほか10工場・中央研究所ほか2研究所を持っていた
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [79]1973年初めのグループは原液製造会社4社400人・瓶詰会社38社1750人・販売会社130社7490人・瓶詰販売会社23社2260人・婦人販売店6万5000人で構成されていた
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [80]1983年時点で販売会社は150社、配達に従事する主婦は5万人以上、グループの従事者は10万人にのぼった
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [81]本社は商標権と特許権を保有し、中央研究所で培養する種菌をもとに各地へ原液を供給する立場にあった
参考文献[66]-[81]
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [66]1973年2月の時点でヤクルト本社は東証上場を内定し経営組織・販売方法の再点検にとりかかっていた
    • [68]本社株式は各地の販売会社や原液製造会社に分散して持たれ、そのオーナー経営者ら合計55人が取締役に名を連ねていた
    • [69]取締役会の多数が一致すれば社長の意見を採用しないことも社長を罷免することもできる構造だった
    • [70]松園尚巳氏は3カ月ほど代表権を取り上げられたことがあった
    • [79]1973年初めのグループは原液製造会社4社400人・瓶詰会社38社1750人・販売会社130社7490人・瓶詰販売会社23社2260人・婦人販売店6万5000人で構成されていた
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [67]1980年1月23日に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [71]1972年2月に額面変更のため形式上の存続会社である株式会社ヤクルト本社に吸収合併された
    • [73]公募は1000万株・1株1450円で、払込期日は1980年1月22日、受渡日は1月23日だった
    • [74]幹事別引受株数は野村証券500万株・大和証券300万株ほかで、うち84万株が従業員持株会への割当だった
    • [76]上場時の大株主は尚株式会社9.9%、松園尚巳6.35%、小野塚祐一郎2.84%、従業員持株会2.83%だった
    • [78]上場時の従業員数は3142人で、本店・北海道支店ほか9支店・札幌工場ほか10工場・中央研究所ほか2研究所を持っていた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [72]上場する株式はすべて公募公開とし、増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収する形にした
    • [75]創業者利益を取るためという見方が一部にあったが、上場株はすべて公募公開で増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収された
    • [77]経営を圧迫する借入金はなく大衆資金の導入も当面は不要で、上場の狙いは予防医学に貢献する事業の意義を広く理解してもらうことにあった
    • [81]本社は商標権と特許権を保有し、中央研究所で培養する種菌をもとに各地へ原液を供給する立場にあった
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [80]1983年時点で販売会社は150社、配達に従事する主婦は5万人以上、グループの従事者は10万人にのぼった

第3章 1984-2003 (気が向いたら執筆します!) リプソンの失敗と医薬品の自社開発、富士裾野工場とアジア・欧州への展開

第4章 2004-2026 (気が向いたら執筆します!) グループダノンとの提携と解消、中国・インドの拡大と新中央研究所

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歴史年表 1955〜2023年

ヤクルト本社の沿革1955〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1955〜1969年地方フランチャイズの統合と松園尚巳氏によるプラ容器革命ヤクルト本社を設立★
研究所(後に中央研究所京都分室と名称を変更)を設置★
本社移転★
初の海外拠点として台湾ヤクルトを設立★★
国立研究所(後に中央研究所と名称を変更)を設置★
瓶の廃止と全国の原液工場の統合による、本社集権体制への移行

1968年、ヤクルト本社の松園尚巳専務が瓶からプラスチック容器への転換を提案し、緊急動議で一時追放されながらも案を通し、1970年に社長へ就任、1973年に全国8社の原液工場買収を完了して本社直営体制(大政奉還)を確立した経営判断。乱立した地方フランチャイズを本社主導へ組み替えた業態転換であった。

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★★★
サンケイアトムズの株式を取得★
プロ野球興行事業に参入★
1970〜1983年販路を資産とした多角化初の製造部門として藤沢工場を新設★
化粧品の本格販売を開始★
ヤクルト本社と合併★
医薬品の本格販売を開始★
シンガポールヤクルトを設立★
東京証券取引所市場第二部へ株式上場★
1984〜2003年リプソンの失敗と医薬品の自社開発、富士裾野工場とアジア・欧州への展開通信販売という新しい販路への進出と、それを畳む清算までの一巡

松園尚巳社長の発案を受け、ヤクルト本社は1984年に三菱商事と組んで無店舗販売の子会社リプソンを立ち上げた(出資比率はヤクルトが51%)。約6万人のヤクルトレディに"こっとんぽけっと"というカタログ誌を配らせて通信販売に乗り出し、運営は熊谷直樹常務が受け持ったが、1988年に累計50億6500万円の損失を出して清算に至った。通信販売への参入から清算までを扱う経営判断である。

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★★★
医薬品の開発・製造を開始★
東日本における製造・物流の拠点として、富士裾野工場を新設★
富士裾野医薬品工場を新設★
インドネシアヤクルトを設立★
オーストラリアヤクルトを設立★
堀澄也ヤクルト販売を統括するヨーロッパヤクルトを設立★
2004〜2026年グループダノンとの提携と解消、中国・インドの拡大と新中央研究所堀澄也世界最大手の乳製品会社との連携と、16年後の資本関係の解消

2004年3月、ヤクルト本社が世界最大級の乳製品メーカー、仏ダノンを約2割を握る筆頭株主に迎えて戦略提携を締結した経営判断。前年に株を買い増して筆頭株主となったダノンを、欧州販売網とプロバイオティクス共同研究を得る戦略提携へと組み替えた。提携は2013年に協業覚書へ格下げされ、2018年・2020年の二段階の株式売却を経て、16年で資本関係が解消された。

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★★★
堀澄也1単元の株式の数を1,000株から100株に変更★
堀澄也ベルギーに研究拠点を設置★
堀澄也ヤクルト事業を統括する中国ヤクルトを設立★★
堀澄也グループダノンとの合弁でインドヤクルト・ダノンを設立★
堀澄也組織の統合・再編により5支店体制へ移行★
根岸孝成西日本における生産拠点として、兵庫三木工場を新設★
根岸孝成ダノンとの戦略提携契約を終了★
根岸孝成本社乳製品工場の組織再編により5工場体制へ移行★
根岸孝成7棟からなる新中央研究所が竣工★
根岸孝成本社移転★
成田裕プライム市場に移行★
成田裕普通株式1株につき2株の割合で株式分割を実施★
出典・参考 9件
出典・参考
  • ヤクルト本社 有価証券報告書【沿革】
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「松園尚巳が語る「他人の道を行かぬ経営」」
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
  • 『日経ビジネス』1985年7月8日号「石と呼ばれた男」
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
  • ヤクルトの歴史/松園尚巳(2017年)

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