1964年 自動車セールスからの転身──包装茶のルートセールスで製茶業界首位へ
- 1966年日本ファミリーサービス株式会社と合資会社ビーエー商会との共同出資により、当社の前身であるフロンティア製茶株式会社を静岡県静岡市に設立。緑茶のルートセールス(小売店等への直接販売)を開始。
- 1968年神奈川県横浜市港北区(現・青葉区)に支店第1号として神奈川支店(現・横浜緑支店)を開設。
- 1969年株式会社本庄商事(旧・日本ファミリーサービス株式会社)及び合資会社ビーエー商会より緑茶事業に関する営業譲渡を受け、生産部門を確保。
- 1969年フロンティア製茶株式会社から「株式会社伊藤園」に商号変更。
- 1974年静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に静岡相良工場を建設。
- 1976年茶産地育成事業の展開を開始。
- 1979年中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結。
伊藤園の業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
自動車セールスの兄弟と日本ファミリーサービスの失敗
伊藤園の創業者・本庄正則氏は1934年、神戸に生まれた。父親の事業失敗で一家が財産を失い、早稲田大学法学部を働きながら卒業した後、自動車販売会社に入り、入社4年目に年間407台を売るトップセールスマンとなる。1964年8月、その蓄えを元手に、食料品や調味料を扱う卸会社・日本ファミリーサービス株式会社を設立した。伊藤園はこの1964年を創業の年と定めている。卸売業そのものは失敗に終わったものの、扱った商品のなかで最も利益率が高かったのが、パック詰めの包装茶だった。兄弟がお茶専業へ転じた理由は、この利益率にあった。 [1][2][3]
- 日経ビジネス 1998年9月14日号「事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩小渕首相に助けられる」
- [1]本庄正則は1934年神戸生まれ、早稲田大学法学部卒業後に自動車販売会社で入社4年目に年間407台を販売した
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [2]1964年に本庄正則が伊藤園の前身となる日本ファミリーサービスを設立した(創業は1964年8月)
- [3]伊藤園は1964年を創業の年としている
1966年8月、日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資により、伊藤園の直接の前身であるフロンティア製茶株式会社が静岡県静岡市に設立された。小売店へお茶を直接売り込むルートセールスをここから始める。ただし茶業界の慣習は厚く、小売店にはすでに仕入れ先があり、新参の製茶会社は相手にされなかった。弟の本庄八郎氏(1940年神戸生まれ、1963年早稲田大学法学部卒業)は当時24歳で兄とともに設立に加わり、以後、兄が財務、弟が営業・商品開発という役割分担で経営を担った。 [4][5][6]
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1966年8月に日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡県静岡市に設立し、緑茶のルートセールスを開始した
- 日経ビジネス 1997年9月22日号「新参者だからこそ工夫できた」
- [5]本庄八郎は1940年8月神戸市出身、1963年3月早稲田大学法学部卒業、1966年8月に兄の正則氏らとフロンティア製茶を設立した
- [6]兄・正則氏が財務面、弟・八郎氏が営業を中心に役割分担してきた
- 日経ビジネス 1998年9月14日号「事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩小渕首相に助けられる」
- [1]本庄正則は1934年神戸生まれ、早稲田大学法学部卒業後に自動車販売会社で入社4年目に年間407台を販売した
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [2]1964年に本庄正則が伊藤園の前身となる日本ファミリーサービスを設立した(創業は1964年8月)
- [3]伊藤園は1964年を創業の年としている
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1966年8月に日本ファミリーサービスと合資会社ビーエー商会の共同出資でフロンティア製茶を静岡県静岡市に設立し、緑茶のルートセールスを開始した
- 日経ビジネス 1997年9月22日号「新参者だからこそ工夫できた」
- [5]本庄八郎は1940年8月神戸市出身、1963年3月早稲田大学法学部卒業、1966年8月に兄の正則氏らとフロンティア製茶を設立した
- [6]兄・正則氏が財務面、弟・八郎氏が営業を中心に役割分担してきた
「伊藤園」の商号買収と包装茶のルートセールス
古い体質のお茶業界で販路を開くには老舗の看板が要ると考えた本庄正則氏は、1969年5月、東京・上野の老舗から「伊藤園」の商号を200万円で買い取り、フロンティア製茶を株式会社伊藤園に改称した。資金は底をつく寸前で、埼玉県川口市のはずれの竹やぶに囲まれたバラックを事務所に借り、社員は弟を含めわずか5人だった。この時期には4,000万円の手形詐欺にも遭い、銀行が融資を渋るなか、1970年には早稲田大学の後輩で代議士になりたての小渕恵三氏から500万円の出資を受けている。同年6月には本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受け、生産部門を確保した。 [7][8][9][10]
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1969年5月にフロンティア製茶から株式会社伊藤園に商号変更した
- [10]1969年6月に本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受けた
- 日経ビジネス 1998年9月14日号「事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩小渕首相に助けられる」
- [8]1969年に上野の老舗から「伊藤園」のブランドを200万円で買い取り、埼玉県川口市のバラックを事務所に社員5人で営業した
- [9]1970年当時、小渕恵三が伊藤園に500万円を出資した
商いの武器は、量り売りが当たり前だった茶葉を小分けにする包装茶である。台頭してきたスーパーマーケットの店頭では茶葉が3日で湿気てしまうため置かれていなかったが、伊藤園はアルミ箔の袋で密封した包装茶を並べてもらうことに成功した。産地直送・現金決済のルートセールスで量販に乗り出し、1968年には茶業界初のテレビCMを放映する。参入から11年余りの1976年時点で、包装茶で業界首位の座を固めた。当時の社員は580人、平均年齢は25歳。営業マンを140項目で年4回査定して昇給に直結させる「ガラス張り人事考課」が、急成長を支える仕組みとして注目された。 [11][12][13]
- 日経ビジネス 1997年9月22日号「新参者だからこそ工夫できた」
- [11]スーパー向けにアルミ箔の袋で湿気を防いだ包装茶を店頭に並べることに成功した
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [12]1968年に茶業界初のテレビCMを放映し、産地直送・現金決済のルートセールスでお茶の量販に乗り出した
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「業界一に直結、ガラス張り人事考課」
- [13]1976年時点で製茶業界に参入して11年余りで首位となり、社員580人・平均年齢約25歳、営業マンは140項目を年4回査定する人事考課を公開していた
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1969年5月にフロンティア製茶から株式会社伊藤園に商号変更した
- [10]1969年6月に本庄商事(旧・日本ファミリーサービス)とビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受けた
- 日経ビジネス 1998年9月14日号「事業失敗、詐欺、胃ガン乗り越え成功 28年前、後輩小渕首相に助けられる」
- [8]1969年に上野の老舗から「伊藤園」のブランドを200万円で買い取り、埼玉県川口市のバラックを事務所に社員5人で営業した
- [9]1970年当時、小渕恵三が伊藤園に500万円を出資した
- 日経ビジネス 1997年9月22日号「新参者だからこそ工夫できた」
- [11]スーパー向けにアルミ箔の袋で湿気を防いだ包装茶を店頭に並べることに成功した
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [12]1968年に茶業界初のテレビCMを放映し、産地直送・現金決済のルートセールスでお茶の量販に乗り出した
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「業界一に直結、ガラス張り人事考課」
- [13]1976年時点で製茶業界に参入して11年余りで首位となり、社員580人・平均年齢約25歳、営業マンは140項目を年4回査定する人事考課を公開していた
製販一体の布石──相良工場・茶産地育成・中国との縁
販売網が整うと、伊藤園は川上へさかのぼる投資を進めた。1974年5月、静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に静岡相良工場を建設し、茶葉の生産から販売までの一貫体制を敷く。1976年4月には耕作放棄地などを茶園に転換する茶産地育成事業を始め、農家との契約栽培という、当時の業界では前例のない製販一体の作戦へ乗り出した。1977年6月には直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を神奈川県横浜市に開いている。小売の売り場と茶畑の両端を押さえたこの体制が、後の飲料事業では原料調達力の下地になる。 [14][15][16][17]
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1974年5月に静岡県榛原郡相良町に静岡相良工場を建設した
- [15]1976年4月に茶産地育成事業の展開を開始した
- [17]1977年6月に直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を横浜市に開設した
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「業界一に直結、ガラス張り人事考課」
- [16]農家との契約栽培は業界でも前例のない製販一体の作戦と報じられた
次の商材は、中国からの視察団が運んできた。1977年11月、日中国交正常化から間もない時期に中国食品加工技術機械視察団が静岡の製茶工場を訪れ、本庄正則社長が半日がかりで案内した。その席で福建省のウーロン茶を勧められたことがきっかけとなり、伊藤園は年間2億円規模の茶葉輸入を始める。1979年8月には中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を結び、福建省産ウーロン茶の独占販売権を手にした。1979年からのウーロン茶ブームで茶葉販売は潤い、「日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている」と本庄正則社長が語る体制ができあがった。 [18][19][20]
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [18]1977年11月に中国食品加工技術機械視察団が伊藤園の工場を見学し、懇親会で団長からウーロン茶の話が持ちかけられ、3年契約で年間2億円分の輸入を始めた
- [20]1989年時点で本庄正則氏は「日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている」と述べた
- 有価証券報告書【沿革】
- [19]1979年8月に中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結した
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1974年5月に静岡県榛原郡相良町に静岡相良工場を建設した
- [15]1976年4月に茶産地育成事業の展開を開始した
- [17]1977年6月に直営小売店第1号「茶十徳・日吉店」を横浜市に開設した
- [19]1979年8月に中国土産畜産進出口総公司と日本初のウーロン茶輸入代理店契約を締結した
- 日経ビジネス 1976年5月10日号「業界一に直結、ガラス張り人事考課」
- [16]農家との契約栽培は業界でも前例のない製販一体の作戦と報じられた
- 日経ビジネス 1989年5月22日号「常識に逆らい「缶入りだ」」
- [18]1977年11月に中国食品加工技術機械視察団が伊藤園の工場を見学し、懇親会で団長からウーロン茶の話が持ちかけられ、3年契約で年間2億円分の輸入を始めた
- [20]1989年時点で本庄正則氏は「日本のウーロン茶の葉の6割以上は当社が扱っている」と述べた