1906年〜 独立経営の確立とシェア首位獲得への長い道のり
- 1907年麒麟麦酒株式会社を共同設立
- 1928年清涼飲料に新規参入・キリンレモンの製造開始
- 1949年東京証券取引所に株式上場
- 1957年ビール工場の新増設
- 1972年子会社キリンシーグラムを設立
- 1972年ビール市場で国内シェア60%を突破
- 1975年昭和50年度構造計画を策定
キリンHDの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
スプリング・バレーから麒麟麦酒へ、外資系醸造を引き継いだ独立の選択
キリンの歴史は1869年、米国人コープランドが横浜山手天沼に日本最初のビール醸造所スプリング・バレー・ブルワリーを建てたときに始まる。同社は横浜・長崎の居留地や外国艦船向けにビールを供給し、上海やサイゴンなどにも輸出して約15年続いた。1885年には横浜居留の有力外国人と日本財界の指導者たちがジャパン・ブルーワリー会社を設立し、スプリング・バレーの敷地を譲り受けて日本最初の近代工場を建設した。そのビールは「キリンビール」と名付けられて1888年に発売され、ドイツ人技師の技術と良質の輸入原料によって品質は群を抜き、当初から他の銘柄より高い値段で全国に売られた。外資系醸造所が築いたこの品質本位の遺産が、後の麒麟麦酒の出発点となった。 [1][2][3]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [1]1869年に米国人コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建てた(日本最初のビール醸造所)
- [2]1885年にジャパン・ブルーワリー会社が設立され、スプリング・バレーの敷地を譲り受けて近代工場を建設した
- [3]ビールが「キリンビール」と名付けられ1888年に発売された
1907年、三菱・明治屋・日本郵船の人々によって麒麟麦酒が創立され、ジャパン・ブルーワリーの財産や技師など事業一切を引き継いで経営は日本人の手に移った。大正期に入ると欧洲大戦の好況で国内需要が急増し、欧洲品に代わる東南アジアへの輸出も伸びて業界は活況を呈した。この勢いに乗って1918年に神崎(現尼崎)工場を新設し、同12年には仙台の東洋醸造を吸収して仙台工場とし、関東大震災で壊滅した横浜山手工場に代えて同15年に鶴見へ横浜工場を新設するなど企業規模を拡大した。あわせて大戦によるドイツ人技師の帰国や原料輸入の障害を機に、独自の技術と国内原料供給体制を確立した。1927年には明治屋の一手販売を解いてそのビール販売部門を吸収し、営業部を創設して全国の販売網強化に乗り出した。外資の遺産を日本資本と日本人技術者の手で引き継ぎ自立させたこの過程が、後の独立経営の骨格となった。 [4][5][6][7]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [4]1907年に三菱・明治屋・日本郵船の人々によって麒麟麦酒が創立された
- [5]1918年に神崎(現尼崎)工場を新設した
- [6]1923年に仙台の東洋醸造を吸収して仙台工場とし、1926年に鶴見へ横浜工場を新設した
- [7]1927年に明治屋の一手販売を解いてビール販売部門を吸収し、営業部を創設した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [1]1869年に米国人コープランドが横浜山手天沼にスプリング・バレー・ブルワリーを建てた(日本最初のビール醸造所)
- [2]1885年にジャパン・ブルーワリー会社が設立され、スプリング・バレーの敷地を譲り受けて近代工場を建設した
- [3]ビールが「キリンビール」と名付けられ1888年に発売された
- [4]1907年に三菱・明治屋・日本郵船の人々によって麒麟麦酒が創立された
- [5]1918年に神崎(現尼崎)工場を新設した
- [6]1923年に仙台の東洋醸造を吸収して仙台工場とし、1926年に鶴見へ横浜工場を新設した
- [7]1927年に明治屋の一手販売を解いてビール販売部門を吸収し、営業部を創設した
戦後分割を免れた優位と家庭用市場の掌握によるシェア60%突破
戦時下は1939年が消費量のピークで、翌年以降は原料不足から配給統制が敷かれた。統制は1949年夏に終わり、同年9月の集中排除法によって戦前市場の7割以上を占めていた大日本麦酒が二分され、日本麦酒(現サッポロ)と朝日麦酒が発足した。分割を免れた麒麟麦酒は1887年以来のキリン商標を復活させてこの二社との競争に臨み、消費者と販売業界の支持を背に需要は一貫して他を上回って増加した。戦前は業務用が7割を占めて麒麟は家庭用にしか手を伸ばせなかったが、戦後はビールの大衆化と所得水準の上昇で家庭内消費が増え、業務用と家庭用の比率が逆転したことがキリンのシェアを押し上げる強い力となった。分割の波を被らなかった構造的優位と、家庭用市場での主力銘柄の定着が、戦後の首位確立の出発点となった。 [8][9][10]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [8]1949年夏に配給統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒(現サッポロ)と朝日麦酒が発足した
- [9]大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占めていた
- 週刊東洋経済(1972年3月25日)
- [10]戦前は業務用が7割を占め、戦後は家庭内消費が増えて業務用と家庭用の比率が逆転した
生産面でも品質本位の基本方針で原材料を厳選し、1953年には戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手するなど積極的に設備を拡張した。1950年から43年までの間に設備資金920億円を投じ、庫出量で業界全体の14倍を上回る24倍の増加を達成した。ビールの市場占有率は1949年に25%にすぎなかったが、1966年以降は約50%に及び、1967年の販売量119万キロリットルは大瓶換算で約19億本、米国アンホイザー・ブッシュ社に次ぐ世界第二位に達した。全国特約店は760店を超えた。こうした供給力と販路の積み上げの先に、1972年12月の国内ビールシェア60.1%達成があり、長年の組織的な市場開拓が結実した。 [11][12][13][14][15]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [11]1953年に戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手した
- [12]昭和二五〜四三年(1950〜1968年)に設備資金920億円を投じ、庫出量で業界全体の24倍の増加を達成した
- [13]ビールの市場占有率は1949年に25%、1966年以降は約50%だった
- [14]1967年の販売量は119万キロリットル(大瓶換算約19億本)で、米国アンホイザー・ブッシュ社に次ぐ世界第二位だった
- [15]全国特約店は760店を超えた
しかし過半を超えるシェアは独占禁止法の運用上の制約を伴い、数量拡大による成長余地は狭まった。1975年に「昭和50年度構造計画」を策定し、安定成長路線への切替えと清涼飲料・食品への多角化を模索し始めた。勝ちすぎた企業が直面する「成長の天井」が顕在化した時期であり、守りと攻めの同時進行という難しい舵取りが経営課題として重みを増した。シェア維持を優先するあまり、組織の保守性が強まりはじめた兆しは、後のスーパードライ対応の遅れにつながる。高シェアの維持と成長市場の開拓という二つの課題を同時に抱える難しさは、1975年前後から表面化した。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [8]1949年夏に配給統制が終わり、同年9月の集中排除法で大日本麦酒が二分され日本麦酒(現サッポロ)と朝日麦酒が発足した
- [9]大日本麦酒は戦前市場の7割以上を占めていた
- [11]1953年に戦後の業界に先がけて東京工場の新設に着手した
- [12]昭和二五〜四三年(1950〜1968年)に設備資金920億円を投じ、庫出量で業界全体の24倍の増加を達成した
- [13]ビールの市場占有率は1949年に25%、1966年以降は約50%だった
- [14]1967年の販売量は119万キロリットル(大瓶換算約19億本)で、米国アンホイザー・ブッシュ社に次ぐ世界第二位だった
- [15]全国特約店は760店を超えた
- 週刊東洋経済(1972年3月25日)
- [10]戦前は業務用が7割を占め、戦後は家庭内消費が増えて業務用と家庭用の比率が逆転した