1902年〜 保険業法立案者の合理主義と戦前の業界2位ポジション
- 1902年 第一生命保険相互会社を設立
- 1912年 地方部(後の支部)の設置を本格化
- 1921年 業界5大生保入り
- 1932年 保有契約高10億円で業界第2位確保
- 1934年 結核予防の剰余金100万円を基金に保生会(後の結核予防会母体)を設立
- 1938年 第一生命館完成
- 1944年 保有契約高100億円到達
保険業法の立案者が作った相互会社
1900年の保険業法制定には、のちに第一生命を創設する矢野恒太氏が立案者側で参画した。矢野氏は同法公布後、農商務省の初代保険課長として保険監督の実務を担い、退官して1902年9月、池田謙三氏(第百銀行頭取)や岡野敬次郎氏(のちの文部大臣)の後援のもと、第一生命保険相互会社を設立した。初代社長には伯爵の柳沢保恵氏が就任し、基金20万円で発足した。明治期の生保業界では加入者の保険金不払いが頻発しており、倒産会社からの加入者保護を目的とした業法と、その立案者自身による相互会社の新規設立は、業界の構造的な信頼問題への一つの回答という色合いを帯びていた。 [1][2][3][4]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]第一生命を創設したのは矢野恒太氏
- [2]1902年9月 第一生命保険相互会社を設立
- [3]初代社長は伯爵の柳沢保恵氏
- [4]発足時の基金は20万円
第一生命が当初掲げた経営方針は、養老保険の高料高配(高い保険料で多く配当する)主義と、代理店を置かずに営業コストを削減する合理的経営だった。これは矢野氏が業法立案の過程で把握した業界の収益構造の課題に、相互会社という組織形態で答える設計でもあった。1912年から地方への進出を本格化し、主要都市に地方部(のちの支部)を順次設けた。1921年には5大生保の一角に並び、1932年8月には保有契約高10億円で業界第2位を確保し、以後この地位を長期にわたり維持した。合理主義を掲げた後発会社が相互会社形態で獲得した業界第2位の序列は、第二次大戦による業界再編まで動かなかった安定ポジションだった。 [5][6][7]
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1912年から地方への進出を本格化し、主要都市に地方部(後の支部)を設置
- [6]1921年に5大生保の一角に並ぶ(業界5大生保入り)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]1932年8月 保有契約高10億円で業界第2位を確保
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]第一生命を創設したのは矢野恒太氏
- [2]1902年9月 第一生命保険相互会社を設立
- [3]初代社長は伯爵の柳沢保恵氏
- [4]発足時の基金は20万円
- [7]1932年8月 保有契約高10億円で業界第2位を確保
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1912年から地方への進出を本格化し、主要都市に地方部(後の支部)を設置
- [6]1921年に5大生保の一角に並ぶ(業界5大生保入り)
日比谷の第一生命館と戦後のGHQ接収
1938年11月、東京日比谷に現在の本社にあたる第一生命館が完成した。戦時期の1944年には保有契約高100億円に到達し、業容は拡大した。しかし1945年9月、敗戦とともに本社社屋がGHQ連合国軍総司令部の庁舎として接収され、戦時資産の損害拡大とインフレの進行が重なり、生命保険の募集は困難をきわめた。1934年には結核予防のため剰余金100万円を基金として保生会(のちの結核予防会の母体)を設立するなど、戦前から社会貢献活動を続けていたが、戦時下ではその種の活動も一時中断した。戦前に積み上げた業界第2位のポジションも、社屋接収と資産毀損で、ゼロに近い水準から再起を迫られる立場に追い込まれた。 [8][9][10][11]
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1938年11月 東京日比谷に第一生命館(現本社)が完成
- [10]1945年9月 本社社屋がGHQ連合国軍総司令部の庁舎として接収
- [11]1934年 剰余金100万円を基金として保生会(のちの結核予防会の母体)を設立
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1944年 保有契約高100億円に到達
戦後はこども保険・団体定期保険などを新発売し、1949年には中止していた契約者配当を再開した。1950年には保健文化賞を創設し、1951年には保有契約高が1兆円に到達した。創業以来の社会貢献の系譜は、戦後も保健文化賞(1950〜)、心臓血管研究所(1959〜)、緑のデザイン賞(1990〜)と引き継がれ、一貫した姿勢として第一生命のブランドに組み込まれた。相互会社として剰余金を社会へ還元する動きが、戦前戦後を通じて続いた点は、のちの株式会社転換時にも参照される経営文化として残った。戦後の保有契約高1兆円到達で、戦前に得た業界第2位ポジションを戦災を挟んで取り戻し、業界での同社の位置を内外に示した。 [12][13][14]
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [12]1950年 保健文化賞を創設
- [14]心臓血管研究所を1959年に設立
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1951年 保有契約高が1兆円に到達
- 第一生命ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1938年11月 東京日比谷に第一生命館(現本社)が完成
- [10]1945年9月 本社社屋がGHQ連合国軍総司令部の庁舎として接収
- [11]1934年 剰余金100万円を基金として保生会(のちの結核予防会の母体)を設立
- [12]1950年 保健文化賞を創設
- [14]心臓血管研究所を1959年に設立
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1944年 保有契約高100億円に到達
- [13]1951年 保有契約高が1兆円に到達