1893年〜 明治生保乱立時代から相互組織化までの歩み
- 1893年 名古屋生命保険を創立
- 1895年 真宗生命保険(後の朝日生命保険)を設立
- 1896年 護国生命保険を設立
- 1902年 大同生命保険を設立
- 1908年 名古屋生命が本社を移転し太陽生命保険に商号変更
- 1947年 大同生命保険相互会社として新発足
- 1961年 大同生命の企業市場特化 ── 契約の8割を法人に集めた中堅生保の一点集中 大手と同じ品揃えでは業界20社中14位。中堅生保の大同生命は、なぜ契約の8割を企業市場に絞り込んだのか
業界粛正の方針が生んだ3社合併と「大同」の起点
大同生命の成り立ちは、1902年7月の3社合併にさかのぼる。1895年に設立された真宗生命(のちの朝日生命)、1896年に設立された護国生命、そして北海生命の3社が合併して株式会社大同生命保険が発足し、初代社長には朝日生命社長で加島銀行を率いた広岡久右衛門氏が就いた。合併の判断には、農商務省商工局初代保険課長の矢野恒太氏(のちの第一生命創立者)が業界粛正・整理へ動いた流れがある。明治期の生保は小規模各社が乱立し、破綻や不健全経営が常態化しており、監督当局は整理統合で業界の足腰を固めようとしていた。3社合併は、その整理方針を最も早く受け止めた事例のひとつにあたる。 [1][2][3][4][5][6]
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1902年7月 株式会社大同生命保険が3社合併で発足
- [3]1895年 真宗生命(後の朝日生命)を設立
- [4]1896年 護国生命を設立
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [2]合併3社は真宗生命(のち朝日生命)・護国生命・北海生命
- [5]初代社長は加島銀行を率いた広岡久右衛門氏
- [6]業界粛正・整理に動いた農商務省商工局初代保険課長は矢野恒太氏(のちの第一生命創立者)
社名は『春秋左氏伝』の「小異を捨てて大同につく」から取られた。株式会社時代の前半には、本願寺門徒代表として真宗生命時代からの大株主であった広岡家の持ち株比率が約75%を占め、加島銀行を中心とする広岡家の影響を色濃く受ける経営が続いた。昭和初期の金融恐慌で加島銀行が整理されるなど苦難を経たのち、1947年7月に金融機関再建整備法に基づき、相互組織の大同生命保険相互会社として新発足した。戦時・戦後のインフレのもとで株主資本の論理よりも契約者保護の枠組みが優先され、旧会社の契約を引き継ぎつつ新しい組織形態を選んだ。広岡家支配からの離脱と相互会社化は、以降の経営統治の性格を変える入り口になった。 [7][8]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]株式会社時代前半、広岡家の持株比率は約75%
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1947年7月 金融機関再建整備法に基づき大同生命保険相互会社として新発足
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1902年7月 株式会社大同生命保険が3社合併で発足
- [3]1895年 真宗生命(後の朝日生命)を設立
- [4]1896年 護国生命を設立
- [8]1947年7月 金融機関再建整備法に基づき大同生命保険相互会社として新発足
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [2]合併3社は真宗生命(のち朝日生命)・護国生命・北海生命
- [5]初代社長は加島銀行を率いた広岡久右衛門氏
- [6]業界粛正・整理に動いた農商務省商工局初代保険課長は矢野恒太氏(のちの第一生命創立者)
- [7]株式会社時代前半、広岡家の持株比率は約75%
短満期月掛けが切り開いた都市庶民市場
太陽生命のルーツは、1893年5月に名古屋市で創立された名古屋生命保険にある。1908年7月には本社を東京に移転すると同時に社名を太陽生命保険株式会社と改称し、地方の小規模生保から全国展開を目指す生保へかじを切った。戦時・敗戦を経て、1948年2月には相互組織の太陽生命保険相互会社として第二会社方式で新発足した。悪性インフレが生保経営を直撃するもと、旧会社を整理しつつ契約の継承を相互組織の枠組みへ切り替える方法が選ばれ、相互組織化は同業他社よりも早く実行された。戦後の生保にとって資本の論理と契約者保護をどう両立させるかが焦点で、太陽生命は相互組織化と第二会社方式の組み合わせで切り抜けた。 [9][10][11]
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1893年5月 名古屋市で名古屋生命保険を創立(太陽生命の前身)
- [10]1908年7月 本社を東京に移転し太陽生命保険株式会社に改称
- [11]1948年2月 第二会社方式により太陽生命保険相互会社として新発足
戦後の成長を支えたのは、5年・3年満期の月掛け貯蓄保険と、提携先である鉄道弘済会保険部の活動だった。太陽生命は1950年代を通じて募集と集金業務を分離独立した機構として整備し、人口20万人以上の都心部を中心に支社店舗を増設した。庶民の小口貯蓄ニーズに月掛けで応える販売モデルと、都市部への拠点配置の組み合わせは、大手生保の外交員モデルとは異なる販売経路を形づくり、のちに「短満期保険の最大手」と呼ばれる立ち位置の土台となった。大手の終身型・外交員中心のモデルと、太陽の短満期月掛け・機構分離型のモデルは、戦後の生保市場を二つの方向から支える仕組みで棲み分けた。
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1893年5月 名古屋市で名古屋生命保険を創立(太陽生命の前身)
- [10]1908年7月 本社を東京に移転し太陽生命保険株式会社に改称
- [11]1948年2月 第二会社方式により太陽生命保険相互会社として新発足
オーナー型と従業員出身型に分かれた経営統治
1953年6月、大同生命では広岡松三郎社長に代わって常務の三木助九郎氏が社長に就いた。従業員出身者が社長に就いたのは大同生命として初めてで、広岡家の持ち株比率およそ75%のもとで続いたオーナー色の濃い経営から、内部登用型への転換である。以降の大同生命は、企業年金部・企業保険部の設置と連動して企業市場への特化を短期間で行った。広岡家の影響下で形成された金融・保険の結びつきは残しつつ、現場を預かる経営陣が商品と販売チャネルを主体的に設計する体制へ切り替わり、中堅生保としての独自路線を描く素地が整った。オーナー家の資本基盤と内部登用経営の組み合わせは、戦後の中堅生保では珍しい組み合わせで、企業市場特化の戦略を実行に移すうえで現場の意思決定の速さを支えた。 [12][13][14]
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [12]1953年6月 大同生命で三木助九郎氏が従業員出身初の社長に就任(広岡松三郎社長から交代)
- [13]三木助九郎氏は従業員出身者として大同生命で初の社長
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [14]広岡家の持株比率はおよそ75%
太陽生命では、1962年4月に大部孫大夫氏が社長に就任し、全従業員への開拓者精神の浸透を促すとともに、出社・コンビ・飛び込み・帰社という四段階の原則を外野活動の基本に据えた。販売の行動規範を四語の標語に切り詰めて組織へ刻み込む手法は、個人市場を数で押さえる戦後太陽生命の代名詞になった。同じ時期に相互会社化を経た2社は、経営統治の型でも販売モデルの組み立て方でも、はっきりと異なる道を歩みはじめた。大同は企業市場に狙いを定めた商品設計と内部登用経営の組み合わせで、太陽は個人市場を量で押さえる行動規範と拠点政策の組み合わせで、それぞれの立ち位置を固めた。 [15][16]
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [15]1962年4月 太陽生命で大部孫大夫氏が社長に就任
- [16]「出社・コンビ・飛び込み・帰社」の四段階の原則を外野活動の基本に据えた
- T&Dホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [12]1953年6月 大同生命で三木助九郎氏が従業員出身初の社長に就任(広岡松三郎社長から交代)
- [13]三木助九郎氏は従業員出身者として大同生命で初の社長
- [15]1962年4月 太陽生命で大部孫大夫氏が社長に就任
- [16]「出社・コンビ・飛び込み・帰社」の四段階の原則を外野活動の基本に据えた
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [14]広岡家の持株比率はおよそ75%