1987年〜 国鉄の清算として生まれ、鉄道の立て直しに集中した最初の七年
東日本旅客鉄道の業績推移:連結
- 1987年 国鉄分割民営化によりJR東日本を設立
- 1987年 東日本キヨスクの株式取得・子会社化
- 1989年 ジェイアール東日本高架開発を設立
- 1990年 駅ナカ・生活サービス事業による鉄道外収益の柱化 直営百貨店の夢が潰えた後、JR東日本は駅という空間資産をどう鉄道外収益の柱に変えたか
- 1991年 東北・上越新幹線の東京駅乗り入れ開始
- 1991年 新幹線鉄道施設を新幹線鉄道保有機構から譲受け
- 1992年 山形新幹線の運転開始
37兆円の負債と1万人の余剰人員を抱えた発足
1987年4月、東日本旅客鉄道が設立され、日本国有鉄道の事業を引き継いで[1]旅客鉄道事業と旅客自動車運送事業を開始した。同時に旅客鉄道6社と日本貨物鉄道が発足し、国鉄そのものは日本国有鉄道清算事業団へ移行して[2]債務の処理にあたった。末期の国鉄は毎年1兆円以上の赤字を出し、累積債務は約37兆円に達していた[3]。中曽根康弘内閣のもとで進められた分割民営化は、地域ごとに経営を自立させて赤字の循環を断つ設計[4]であった。同年7月には東日本キヨスクの株式を取得して子会社とし[5]、駅で物を売る機能を早い段階で手元へ引き寄せている。民営化がもたらした意識の変化を、松田昌士氏はのちに「『国鉄のころの一種の破産状態に2度と陥りたくない』という思いが社員に定着し、それが仕事に前向きに取り組む大きな力になった[6]」(日経ビジネス 1998/04/27)と説明している。
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [1]1987年 東日本旅客鉄道設立・国鉄の事業を承継
- [2]旅客鉄道6社と日本貨物鉄道の発足、国鉄は日本国有鉄道清算事業団へ移行
- [3]国鉄の累積債務 約37兆円
- [5]1987年 東日本キヨスクの株式取得・子会社化
- 国鉄改革関連法(1986年)
- [4]中曽根康弘内閣のもとで国鉄分割民営化を実施
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [6]破産状態に二度と陥りたくないという思いが社員に定着したとの認識
発足時の経営陣が最初に直面したのは人の過剰であった。住田正二社長は「JR東日本だけで現有人員8.3万人に対して約1万人の余剰人員がある[8]。この人たちの有効活用を一刻も早く考えなければならない」(日本経済新聞 1987/07/26)と述べ、人件費の構造そのものを組み替える必要を認めている。使える資産にも制約があった。同社長は「国鉄清算事業団との関係もあって、自社所有の土地であっても簡単にいじれない。唯一、自由にできるのは主要駅の上空や、高架下などだろう」(日本経済新聞 1987/07/26)と語っており、鉄道用地の大半は債務の担保として清算事業団の管理下にあった。 [7][9]
- 日本経済新聞(1987年7月26日)
- [7]住田正二 初代社長
- [8]発足時の現有人員8.3万人に対し約1万人の余剰人員
- [9]自由に使えるのは主要駅の上空・高架下に限られた
国鉄末期の職場は、経営難よりも人心の荒廃が深かった。のちに社長となる松田昌士氏は当時を振り返り「なにしろ当時は労使が紛糾し社内は陰気だったし、社員は『国賊』と呼ばれて、会社に行きたくないなという感じでしたからね」(日経ビジネス 1998/04/27)と語っている。住田正二氏も、改革が成立した条件を人の意識に見ていた。「当時国鉄には30万人近くの職員がいて、10万人近くの人がクビになるという状況でした」「『新しく民営化した会社に行けるかどうかは分からない』『民営化されると、今度はつぶれるかもしれない』という危機感があったからこそうまくいったのです[12]」(日経ビジネス 2001/07/23)。 [10][11]
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [10]松田昌士(のち社長)の国鉄末期回想
- 日経ビジネス 2001年7月23日号「有訓無訓 住田正二[東日本旅客鉄道相談役]精神革命なくして改革の成功なし」
- [11]国鉄の職員 30万人近く/10万人近くが職を失う状況
- [12]住田正二による改革成立条件の説明
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [1]1987年 東日本旅客鉄道設立・国鉄の事業を承継
- [2]旅客鉄道6社と日本貨物鉄道の発足、国鉄は日本国有鉄道清算事業団へ移行
- [3]国鉄の累積債務 約37兆円
- [5]1987年 東日本キヨスクの株式取得・子会社化
- 国鉄改革関連法(1986年)
- [4]中曽根康弘内閣のもとで国鉄分割民営化を実施
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [6]破産状態に二度と陥りたくないという思いが社員に定着したとの認識
- [10]松田昌士(のち社長)の国鉄末期回想
- 日本経済新聞(1987年7月26日)
- [7]住田正二 初代社長
- [8]発足時の現有人員8.3万人に対し約1万人の余剰人員
- [9]自由に使えるのは主要駅の上空・高架下に限られた
- 日経ビジネス 2001年7月23日号「有訓無訓 住田正二[東日本旅客鉄道相談役]精神革命なくして改革の成功なし」
- [11]国鉄の職員 30万人近く/10万人近くが職を失う状況
- [12]住田正二による改革成立条件の説明
関連事業に手を出さず、鉄道の原価を下げた十年
発足から十年間、同社は多角化へ向かわなかった。松田昌士氏は「この10年間は本業の鉄道事業の立て直しに集中してきました。俗にいう関連事業にはあまり力を入れなかったんです」(日経ビジネス 1998/04/27)と述べている。その代わりに手を付けたのが調達と規格である。国鉄規格(JRS)を廃止して汎用品で足りるものは汎用品へ切り替え、車両発注で慣行となっていたメーカー別のシェア割りもやめた[15]。目標の明確さも変化のひとつであった。松田昌士氏は「民間会社は目標がはっきりしています。自分たちの生活はお客様からの運賃などで賄い、しかもそれによって黒字を出して株主に配当するというようにね」と述べ、国鉄時代は法律に公共性と企業性が並記され何が目標か分からなかった[17]と振り返っている。 [13][14][16]
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [13]発足後10年は鉄道事業の立て直しに集中し関連事業を抑制
- [14]国鉄規格(JRS)の廃止と汎用品への切り替え
- [15]車両発注のメーカー別シェア割りの廃止
- [16]民間会社としての目標の明確化(運賃で賄い黒字を出して株主に配当する)
- [17]国鉄時代は法律に公共性と企業性が並記され目標が不明確だった
規格と商慣行を外した効果は原価に表れた。松田昌士氏によれば「モノを買ったりつくったりするコストは国鉄時代に比べ平均2割ぐらい安くなっています」(日経ビジネス 1998/04/27)。海外調達も年2億円程度から自社だけで80億円へ広がり[19]、新幹線の扉はフランス製、長野新幹線の推進装置はドイツ製[20]、英国製のディーゼルエンジンも導入している。予算の扱いも変わった。「国鉄時代には、何かをつくるとき『いくらかかってもつくるんだ』という発想でしたから常に、初めの計画の2倍ぐらいに経費が膨らんでいた」のが、民間会社となって「この予算でやるよ、それでできないなら、やめるよ」と言えるようになった(日経ビジネス 1998/04/27)。 [18][21]
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [18]調達・製造コストが国鉄時代比で平均2割低下
- [19]海外調達 年2億円程度から自社だけで80億円へ
- [20]新幹線の扉はフランス製・長野新幹線の推進装置はドイツ製・英国製ディーゼルエンジンの導入
- [21]国鉄時代は計画の2倍に経費が膨張していた
鉄道の外側にも布石は打たれていた。1988年4月、関連事業の推進体制を強化するため開発事業本部を設置し、同月にバス事業部門を分離してジェイアールバス東北とジェイアールバス関東を設立した[23]。1989年4月にはジェイアール東日本高架開発(現ジェイアール東日本都市開発)を[24]、1990年3月に日本食堂の株式を取得し、同年4月に東京圏駅ビル開発(現アトレ)を設立している[25]。1988年5月にはジェイアール東日本企画を設立し[26]、広告の扱いも自社の系列に置いている。 [22]
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [22]1988年 開発事業本部を設置
- [23]1988年 バス事業部門の分離(ジェイアールバス東北・関東の設立)
- [24]1989年 ジェイアール東日本高架開発を設立
- [25]1990年 日本食堂の株式取得/1990年 東京圏駅ビル開発(現アトレ)設立
- [26]1988年 ジェイアール東日本企画を設立
- 日経ビジネス 1998年4月27日号「編集長インタビュー 松田昌士氏[東日本旅客鉄道社長]関連事業、若手と女性に期待 運賃はあと10年間据え置く」
- [13]発足後10年は鉄道事業の立て直しに集中し関連事業を抑制
- [14]国鉄規格(JRS)の廃止と汎用品への切り替え
- [15]車両発注のメーカー別シェア割りの廃止
- [16]民間会社としての目標の明確化(運賃で賄い黒字を出して株主に配当する)
- [17]国鉄時代は法律に公共性と企業性が並記され目標が不明確だった
- [18]調達・製造コストが国鉄時代比で平均2割低下
- [19]海外調達 年2億円程度から自社だけで80億円へ
- [20]新幹線の扉はフランス製・長野新幹線の推進装置はドイツ製・英国製ディーゼルエンジンの導入
- [21]国鉄時代は計画の2倍に経費が膨張していた
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [22]1988年 開発事業本部を設置
- [23]1988年 バス事業部門の分離(ジェイアールバス東北・関東の設立)
- [24]1989年 ジェイアール東日本高架開発を設立
- [25]1990年 日本食堂の株式取得/1990年 東京圏駅ビル開発(現アトレ)設立
- [26]1988年 ジェイアール東日本企画を設立
新幹線施設の買い取りと、250万株の売り出し
1991年6月、東北・上越新幹線の東京〜上野間3.6キロが開業し[27]、新幹線が都心へ乗り入れた。同年10月には東北・上越新幹線の鉄道施設を新幹線鉄道保有機構から譲り受けている[28]。発足時はリース方式で借り受けていた基幹資産を自社の所有へ移している。1992年7月には東北新幹線から奥羽線へ直通する山形新幹線の運転を始め、在来線の軌間を広げて新幹線車両を直通させる方式を実用化している。鉄道の周辺機能も順に会社の形へ移された。1989年11月に情報システム部門を分離してジェイアール東日本情報システムを設立し、1990年8月にジェイアール東日本ビルテック、1992年4月にジェイアール東日本メカトロニクスを設けている[31]。 [29][30]
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [27]1991年 東北・上越新幹線 東京〜上野間(営業キロ3.6km)の営業開始
- [28]1991年 新幹線鉄道保有機構から東北・上越新幹線の鉄道施設を譲受
- [31]1990年 ジェイアール東日本ビルテック設立/1992年 ジェイアール東日本メカトロニクス設立
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書
- [29]1992年 山形新幹線(東北新幹線から奥羽線への直通)運転開始
- [30]1989年 情報システム部門を分離しジェイアール東日本情報システムを設立
1993年10月、日本国有鉄道清算事業団が保有する同社株式250万株が売却され[32]、東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部と新潟証券取引所へ株式を上場した[33]。売却代金は国鉄の債務返済に充てられた。同年、松田昌士氏が社長に就任している。1993年3月期の連結営業収益は2兆3,388億円、経常利益は1,106億円であった[35]。前期にあたる1992年3月期の連結営業収益は2兆2,223億円、経常利益は1,168億円[36]であり、上場時点で2兆円台の売上と千億円台の経常利益を安定して出す事業体になっていた。 [34]
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [32]1993年 清算事業団保有の当社株式250万株を売却
- [33]東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部および新潟証券取引所へ上場
- 週刊東洋経済 1999年9月11日号「編集長インタビュー 松田昌士 東日本旅客鉄道(JR東日本)社長 来年には完全民営化してケジメをつけたい」
- [34]1993年 松田昌士が社長就任
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書(連結損益計算書)
- [35]1993年3月期 連結営業収益2兆3,388億円・経常利益1,106億円
- [36]1992年3月期 連結営業収益2兆2,223億円・経常利益1,168億円
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [27]1991年 東北・上越新幹線 東京〜上野間(営業キロ3.6km)の営業開始
- [28]1991年 新幹線鉄道保有機構から東北・上越新幹線の鉄道施設を譲受
- [31]1990年 ジェイアール東日本ビルテック設立/1992年 ジェイアール東日本メカトロニクス設立
- [32]1993年 清算事業団保有の当社株式250万株を売却
- [33]東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部および新潟証券取引所へ上場
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書
- [29]1992年 山形新幹線(東北新幹線から奥羽線への直通)運転開始
- [30]1989年 情報システム部門を分離しジェイアール東日本情報システムを設立
- 週刊東洋経済 1999年9月11日号「編集長インタビュー 松田昌士 東日本旅客鉄道(JR東日本)社長 来年には完全民営化してケジメをつけたい」
- [34]1993年 松田昌士が社長就任
- 東日本旅客鉄道 有価証券報告書(連結損益計算書)
- [35]1993年3月期 連結営業収益2兆3,388億円・経常利益1,106億円
- [36]1992年3月期 連結営業収益2兆2,223億円・経常利益1,168億円