1949年〜 東海道新幹線という黒字路線と、国鉄が負った赤字
- 1949年 日本国有鉄道が発足
- 1964年 東海道新幹線が東京〜新大阪間で開業
- 1986年 国鉄改革関連8法が公布
弾丸列車の構想から広軌新幹線の開業へ
東海道新幹線の構想は戦前にさかのぼり、1939年11月の鉄道幹線調査会答申[1]は東京〜下関間の弾丸列車を総予算5億5600万円の10カ年計画[2]として掲げ、東京〜大阪間を4時間半で結ぶ目標[3]を置いた。構想を戦後によみがえらせたのは1955年に国鉄総裁へ就いた十河信二氏[4]で、「狭軌では速力はでないし[5]、輸送力が少ないし、安全度が低くて危ない」(汎交通 1958年9月号)として広軌での建設を主張した。東海道線の沿線には「全国総人口の約4割が住んでおり[6]、最近では全国人口増加の6割がこの地方に集中し、また製造工業の全国総生産額の6割がこの地区において生産されている」(経団連月報 1958年10月号)と説き、輸送需要の裏づけを数字で示した。
- 読売新聞「東京下関間新幹線・答申案可決さる」(1939年11月7日)
- [1]1939年11月 鉄道幹線調査会答申が東京〜下関間の弾丸列車計画を可決
- [2]弾丸列車計画 総予算5億5600万円の10カ年計画
- [3]弾丸列車計画 東京〜大阪間4時間半の運転目標
- 読売新聞「新幹線けさから開業」(1964年10月1日)
- [4]1955年 十河信二 国鉄総裁就任
- 汎交通 1958年9月号「東海道広軌新幹線・十河信二」
- [5]十河信二 狭軌では速力・輸送力・安全度が不足と指摘
- 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
- [6]東海道線沿線に全国人口の約4割・人口増加の6割・製造工業生産額の6割が集中
着工後も世論と政界の批判は続き、1959年2月には「党としては新線の建設には反対しないが、国家的な大事業が、一部政府機関のみの独断で行われる危険[7]」(読売新聞 1959/02/04)との追及が出た。十河信二氏は世界銀行からの借款を取りつけて計画を後戻りできない段階へ運び、交渉にあたっては「絶対必要の仕事ならば、金なんか神さまがどうにかしてくれる[8]」(蔵前工業会誌 1967年2月号)と語った。建設費は当初予算1972億円から3800億円へ[9]膨らみ、1963年5月には「東海道新幹線の予算が800億円も不足するという。しかも補正予算950億円を組んでのうえである」(読売新聞 1963/05/28)と批判された。十河信二氏は完成を見ないまま退任し、開業式にも招かれなかった[11]。 [10]
- 読売新聞「"東海道新線"の独断・社党、追及きめる」(1959年2月4日)
- [7]1959年2月 新線建設の独断性をめぐる政界の追及
- 蔵前工業会誌 1967年2月号「東海道新幹線雑談(1)」
- [8]十河信二 世界銀行借款の交渉時の発言
- 読売新聞「新幹線」目的を見失うな(1963年5月28日)
- [9]建設費 当初予算1972億円から3800億円へ膨張
- [10]1963年5月 予算800億円の不足・補正予算950億円
- 読売新聞「新幹線けさから開業」(1964年10月1日)
- [11]十河信二 完成を見ずに退任し開業式に招かれず
- 読売新聞「東京下関間新幹線・答申案可決さる」(1939年11月7日)
- [1]1939年11月 鉄道幹線調査会答申が東京〜下関間の弾丸列車計画を可決
- [2]弾丸列車計画 総予算5億5600万円の10カ年計画
- [3]弾丸列車計画 東京〜大阪間4時間半の運転目標
- 読売新聞「新幹線けさから開業」(1964年10月1日)
- [4]1955年 十河信二 国鉄総裁就任
- [11]十河信二 完成を見ずに退任し開業式に招かれず
- 汎交通 1958年9月号「東海道広軌新幹線・十河信二」
- [5]十河信二 狭軌では速力・輸送力・安全度が不足と指摘
- 経団連月報 1958年10月号「東海道新幹線の建設について・十河信二」
- [6]東海道線沿線に全国人口の約4割・人口増加の6割・製造工業生産額の6割が集中
- 読売新聞「"東海道新線"の独断・社党、追及きめる」(1959年2月4日)
- [7]1959年2月 新線建設の独断性をめぐる政界の追及
- 蔵前工業会誌 1967年2月号「東海道新幹線雑談(1)」
- [8]十河信二 世界銀行借款の交渉時の発言
- 読売新聞「新幹線」目的を見失うな(1963年5月28日)
- [9]建設費 当初予算1972億円から3800億円へ膨張
- [10]1963年5月 予算800億円の不足・補正予算950億円
黒字路線が全国の赤字を支えた構造
1949年6月、日本国有鉄道法に基づく公共企業体として国鉄が設立[12]された。その15年後の1964年10月、東海道新幹線が東京〜新大阪間で営業を始めた[13]。開業日の10月1日午前6時、東京・新大阪の両駅から超特急「ひかり1号」「ひかり2号」が発車[14]し、広軌515キロの区間が開通[15]した。着工から5年5カ月、1939年の弾丸列車構想から数えて26年目[16]の開業だった。開発では、かつて航空機や精密兵器を手がけた技術者が大きな役割を果たしている[17]。のちにJR東海の社長となる金子慎氏は、この路線の当時の位置づけを「国鉄時代は東海道新幹線で得た収益が赤字路線の補填に充てられていた[18]」(週刊東洋経済 2018/12/29)と述べた。
- 東海旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [12]1949年6月 日本国有鉄道法に基づく公共企業体として国鉄設立
- [13]1964年10月 東海道新幹線 東京〜新大阪間の営業開始
- 読売新聞「新幹線けさから開業」(1964年10月1日)
- [14]1964年10月1日午前6時 ひかり1号・2号が東京・新大阪の両駅から発車
- [15]東海道新幹線 広軌515キロ
- [16]着工から5年5カ月・弾丸列車構想から26年目の開業
- 技術開発の昭和史(森谷正規、東洋経済新報社、1986年)2章 大型革新技術の導入
- [17]戦時に航空機・精密兵器を手がけた技術者が東海道新幹線の開発で大きな役割を果たした
- 週刊東洋経済 2018年12月29日号「【特集 2019大予測】PART1 国内産業 60 鉄道 INTERVIEW 東海旅客鉄道 社長 金子慎 東京─大阪間67分 大動脈をより太く」
- [18]金子慎 国鉄時代は東海道新幹線の収益が赤字路線の補填に充てられた
1980年代に入ると国鉄の累積債務の処理が政治日程に上り、1986年12月に日本国有鉄道改革法とJR会社法を含む国鉄改革関連8法が公布[19]された。翌1987年4月に日本国有鉄道法が廃止され、旅客6社と日本貨物鉄道の7社が設立[20]された。東海旅客鉄道は東海道新幹線と東海地方の在来線で鉄道事業を営む会社として発足[21]し、国鉄の黒字を生んできた路線を中核に据えた。ただし新幹線の施設は新会社の所有ではなく、新幹線鉄道保有機構が一括して保有したうえで、旅客3社が「年間リース料は7000億円で、負担割合はJR東海60%[22]、JR東日本30%、JR西日本10%」(日経新聞 1990/10/20)の比率で払う形をとった。
- 東海旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [19]1986年12月 日本国有鉄道改革法・JR会社法等の国鉄改革関連8法公布
- [20]1987年4月 日本国有鉄道法廃止・旅客6社と日本貨物鉄道の設立
- 東海旅客鉄道 有価証券報告書【事業の内容】
- [21]東海旅客鉄道は東海道新幹線及び東海地方の在来線における鉄道事業を営む
- 日経新聞「新幹線買い取り、亀裂深まるJRグループ」(1990年10月20日)
- [22]新幹線リース料 年7000億円・負担割合はJR東海60%/JR東日本30%/JR西日本10%
- 東海旅客鉄道 有価証券報告書【沿革】
- [12]1949年6月 日本国有鉄道法に基づく公共企業体として国鉄設立
- [13]1964年10月 東海道新幹線 東京〜新大阪間の営業開始
- [19]1986年12月 日本国有鉄道改革法・JR会社法等の国鉄改革関連8法公布
- [20]1987年4月 日本国有鉄道法廃止・旅客6社と日本貨物鉄道の設立
- 読売新聞「新幹線けさから開業」(1964年10月1日)
- [14]1964年10月1日午前6時 ひかり1号・2号が東京・新大阪の両駅から発車
- [15]東海道新幹線 広軌515キロ
- [16]着工から5年5カ月・弾丸列車構想から26年目の開業
- 技術開発の昭和史(森谷正規、東洋経済新報社、1986年)2章 大型革新技術の導入
- [17]戦時に航空機・精密兵器を手がけた技術者が東海道新幹線の開発で大きな役割を果たした
- 週刊東洋経済 2018年12月29日号「【特集 2019大予測】PART1 国内産業 60 鉄道 INTERVIEW 東海旅客鉄道 社長 金子慎 東京─大阪間67分 大動脈をより太く」
- [18]金子慎 国鉄時代は東海道新幹線の収益が赤字路線の補填に充てられた
- 東海旅客鉄道 有価証券報告書【事業の内容】
- [21]東海旅客鉄道は東海道新幹線及び東海地方の在来線における鉄道事業を営む
- 日経新聞「新幹線買い取り、亀裂深まるJRグループ」(1990年10月20日)
- [22]新幹線リース料 年7000億円・負担割合はJR東海60%/JR東日本30%/JR西日本10%