1949年6月、日本国有鉄道法に基づく公共企業体として日本国有鉄道が設立され、のちに西日本旅客鉄道が引き継ぐ北陸・近畿・中国地方の路線もこの組織に入った。敗戦後の国有鉄道は施設と車両が荒れ、特別会計の財政も赤字に転落して輸送の現状維持さえ難しくなった。1947年に日本国憲法が施行されて官庁の再編が日程に上ると、膨大な現業を抱える鉄道部門を運輸省から切り離す議論が大勢を占めた。公共企業体という器は日本政府の発案ではなく、総司令部が内示した“Public corporation”の構想に由来し、政府は米国の同種組織を一から調べた。独立採算制をとったことで大規模な工事資金は自前で調達できず、復興投資は抜本的な規模に達しなかった。
国鉄は第3次長期計画の一環として1965年に山陽新幹線の新設を政府に申請して認可を受け、1966年から新大阪〜岡山間を第1期工事として着手した。起工式は1967年3月16日、岡山県の帆坂トンネル東口で挙げられた。設計は東海道新幹線より速い時速250kmの運転を見込み、最小曲線半径を4000m、最急勾配を1000分の15とした。その結果、トンネルが全線の35%、高架スラブ橋が45%を占め、土工の区間は約12kmにとどまった。国鉄大阪新幹線工事局は工期の短縮と地元業者への配慮から工区を短く分け、六甲トンネルも7工区に割って発注した。長期計画の投資拡大で借入が膨らみ、国鉄の自己資本構成率は1965年度に50%を下回った。
国鉄の損益は1966年度から赤字に転じた。1969年度以降の財政再建計画は、新幹線の建設に合わせて中長距離の旅客を在来線から移し、輸送の質と量を高めて収入を確保する筋書きを描いた。計画は山陽新幹線の営業開始を新大阪〜岡山間で1972年、岡山〜博多間で1975年と定め、在来線にも最高時速130km程度の優等列車網を組むとした。旅客の輸送量は1973年度に約2270億人キロへ増やす目標が置かれた。建設工事では、六甲トンネル芦屋工区が開業6か月前までの完了を条件とされ、1日400人を投じて1971年12月に竣工した。1972年3月、山陽新幹線は新大阪〜岡山間180.3kmで営業を始めた。
1975年3月、山陽新幹線は岡山〜博多間の営業を始め、新大阪から博多までの465.3kmが1本の新幹線でつながった。開業の年は、1969年度以降の財政再建計画が岡山開業と対にして定めた時期に合わせた。東海道新幹線の開業だけでも山陽・九州方面への到達時間は約3〜4時間縮まり、博多以遠の熊本や長崎まで日着が可能になった。その効果は北陸本線の沿線にも及び、東海道経由と信越本線経由の所要が等しくなる地点は福井付近から高岡まで北上した。1985年の再建監理委員会の意見は、山陽新幹線を近畿圏と西日本の中長距離の都市間輸送を担う路線と位置づけた。博多全通は、東海道新幹線が開いた時間短縮の効果を西日本の広い範囲へ延ばす投資だったのだろう。
1973年度の国鉄は償却後で4544億円の単年度赤字を計上し、累積赤字は1兆5955億円に膨らんだ。この額は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を開業以来初めて上回った。営業収入1兆3791億円に対して営業経費は1兆8407億円に達し、人件費は春闘の大幅な賃上げで前年度より19%増えた。利子と債務取扱諸費も15%増え、この負担は1960年度の240億円から1965年度の1012億円へ4.2倍になった長期計画期の借入に根があった。貨物の輸送シェアは道路整備で伸びたトラックに奪われ、1955年度の50%超から1973年度には17%へ低下した。1974年10月の運賃値上げについても、経営改善への効果は乏しいというのが大方の見方だった。
国鉄諮問委員会は赤字の本質を衰退分野による発展分野の圧迫に求め、路線を幹線系線区と地方交通線区に会計上分けるよう意見書で提言した。幹線系は自立経営をめざし、地方交通線区の運営赤字は国か地方公共団体がその年度内に補塡する仕組みとした。この線区別の会計区分は1970年度に試行され、1971年度から施行に移った。それでも赤字は止まらず、1976年度と1980年度の2回、累積欠損に相当する計5兆3000億円の長期債務が棚上げされた。輸送密度が低くバス輸送が適した線区は特定地方交通線とされ、法律に基づくバス転換の対象になった。北陸から九州北部まで2府16県に広がる西日本の路線網では、このローカル線の問題が経営基盤の弱さとして挙げられた。
1981年3月に第2次臨時行政調査会が発足すると、その夏ごろから国鉄の分割民営化が論じられ始めた。1983年6月10日に発足した日本国有鉄道再建監理委員会は、1985年7月26日に国鉄改革に関する意見を内閣総理大臣へ提出した。意見は、全国一元の巨大組織のままでは経営責任が曖昧になるとして、公社制度と全国一元の運営をともに改めるよう求めた。本州は旅客の流れに沿って3つに分け、京阪神の国電区間を中心とする近畿圏の交通と山陽新幹線、北陸地方を1つのグループにまとめた。このグループの旅客流動の完結度は98%に達した。東日本との境界は北陸線の直江津に引かれ、山陽新幹線は博多まで西日本側に置かれた。
分割民営化を国鉄の内側から推したのは、井手正敬氏、松田昌士氏、葛西敬之氏の「国鉄改革三人組」だった。井手正敬氏は1980年3月に経営計画室主幹となり、1981年度に始まる5か年の再建計画づくりを担った。しかし職場の荒れ方を見て国鉄の自助努力では立ち直れないと考え、1981年秋に自らの計画を見切って分割民営化へ進む決意を固めた。改革派は当初20数人にすぎず、1984年に井手正敬氏は総裁室秘書課長から東京西鉄道管理局長へ出された。秘書課長の次は大阪鉄道管理局長などの特Aクラスの局長が通例だった。首相の中曽根康弘氏が仁杉巌総裁を更迭して元運輸事務次官の杉浦喬也氏を総裁に据えると、三人は本社に呼び戻された。井手正敬氏は1986年に総裁室長となった。
1986年12月、日本国有鉄道改革法など国鉄改革関連8法が公布され、国鉄の事業を旅客6社と貨物1社へ引き継ぐ枠組みが定まった。西日本旅客鉄道の会長には、住友銀行出身の村井勉氏が内命を受けた。村井勉氏は1976年に経営危機の東洋工業へ副社長として出向して立て直し、1982年からはアサヒビールの社長を務めた。マツダ(旧東洋工業)は1986年10月ごろ、国鉄から400人以上の出向者を受け入れ、現場の働きぶりを評価した。村井勉氏は国鉄の課題を、赤字を切り捨てる再建ではなく組織の活性化と捉え、東京に残る本社機能とは別に西日本に独自の頭脳を築く必要を説いた。副社長には総裁室長の井手正敬氏が充てられ、民間出身の会長と改革派の実務家による首脳の布陣が整った。
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|---|---|---|---|---|
| 1949〜1986年日本国有鉄道の発足と山陽新幹線の全通、国鉄改革 | 日本国有鉄道が公共企業体として設立 | ★ | ||
| 山陽新幹線(新大阪〜岡山間)開業 | ★ | |||
| 山陽新幹線(岡山〜博多間)開業・全線開通 | ★ | |||
| 国鉄改革関連8法が公布 | ★ | |||
| 1987〜1995年JR西日本の発足とローカル線廃止、関西空港線と阪神・淡路大震災 | 角田達郎 | 国鉄分割民営化によりJR西日本を設立 | ★★ | |
| 角田達郎 | 信楽線・岩日線を廃止 | ★ | ||
| 角田達郎 | 本四備讃線(茶屋町〜児島)開業 | ★ | ||
| 角田達郎 | 自動車事業を西日本ジェイアールバスなどに譲渡 | ★★ | ||
| 角田達郎 | 山陽新幹線鉄道施設を保有機構から譲受け | ★★ | ||
| 井手正敬 | 関西空港線開業 | ★ | ||
| 井手正敬 | 阪神・淡路大震災で鉄道網が被災 | ★★ | ||
| 1996〜2004年株式上場とJR東西線、日本旅行の子会社化と完全民営化 | 井手正敬 | 東京・大阪・名古屋等の各証��取引所に株式上場 | ★ | |
| 井手正敬 | JR東西線開業 | ★ | ||
| 南谷昌二郎 | 旅行業を日本旅行に譲渡 | ★ | ||
| 南谷昌二郎 | 日本旅行を子会社化 | ★ | ||
| 垣内剛 | 完全民営化を達成 | ★★ | ||
| 2005〜2020年福知山線脱線事故からの安全再建と北陸新幹線金沢開業、三江線廃止 | 垣内剛 | 安全性向上計画から安全基本計画へ、安全の経営計画の根幹への置き直し 2005年4月25日、福知山線塚口・尼崎間で列車事故が発生し、106名のお客様の尊い命が失われ、500名を超えるお客様が負傷した。二度と同じ事故を起こさないため安全性向上計画を策定し、同年5月31日に国土交通大臣へ報告した。 計画の柱は、風土・価値観の変革に向けた取り組み、「事故の芽」等の報告に対する対応方の是正、教育・指導のあり方の見直し、情報伝達・共有のあり方の見直し、組織の体制整備や機能強化、運行面・設備面での安全対策、新たな経営理念の策定と全社員への浸透、安全を支える投資計画の8つである。2006年3月には企業理念と安全憲章を制定し直した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山崎正夫 | 定時株主総会を待たない交代が5度続いた、事故後の経営トップ人事 2006年2月、福知山線列車事故の10か月後に山崎正夫氏が代表取締役社長兼執行役員へ就任した。2003年4月から社長を務めた垣内剛氏は同じ月に取締役兼執行役員となり、代表権を外れている。山崎正夫氏は1993年に鉄道本部副本部長兼安全対策室長、1996年に常務取締役鉄道本部長を務め、グループ会社の社長を経て、事故の2か月後に代表取締役副社長として本体へ戻っていた。 交代が行われたのは定時株主総会の時期ではなく2月だった。以後も2009年8月、2012年5月、2019年12月と総会を待たない交代が続き、2003年4月の垣内剛氏の就任から2025年6月の倉坂昇治氏の就任まで、7度の交代のうち5度は総会の時期を外れている。 詳細を読む | |||
| 山崎正夫 | おおさか東線(放出〜久宝寺)開業 | ★ | ||
| 真鍋精志 | 北陸新幹線(上越妙高〜金沢間)開業 | ★ | ||
| 来島達夫 | 来島達夫が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 来島達夫 | 菱重プロパティーズを買収・子会社化 | ★ | ||
| 来島達夫 | 三江線を廃止 | ★★ | ||
| 長谷川一明 | 長谷川一明が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2021〜2026年初の純損失とローカル線の線区別収支公表、北陸新幹線敦賀延伸 | 長谷川一明 | JRグループ初の公募増資2786億円と「鉄道一本足」からの構造転換 2021年9月1日、西日本旅客鉄道(JR西日本)は公募増資などで最大2786億円を調達すると発表した。1987年の国鉄分割民営化後、JRグループで初の公募増資であった。コロナ禍で発足以来初の純損失を計上した長谷川一明社長が、資本を厚くしつつ鉄道一本足の収益構造を組み替えた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 長谷川一明 | 監査役会の廃止と監査等委員4名の取締役会への参加、執行の権限の業務執行取締役への委譲 2022年6月23日、第35回定時株主総会の承認を得て、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。取締役会の監督機能を強化してコーポレート・ガバナンスの一層の強化を図るとともに、迅速な意思決定及び機動的な業務執行を図ることが、その理由である。 移行前は取締役13名(うち社外5名)に対し、社外3名を含む監査役5名が取締役の職務の執行を監査していた。移行後は監査等委員である取締役を除く13名(うち社外5名)に、取締役会で議決権を持つ監査等委員である取締役4名(うち社外3名)が加わり、取締役会は17名・うち社外8名となった。 詳細を読む | |||
| 長谷川一明 | 輸送密度2,000人未満30区間の収支初開示による、地域との存廃協議の提起 2022年4月11日、西日本旅客鉄道(JR西日本)は、輸送密度が1日2,000人未満の17路線30区間について、線区別の収支率などを初めて公表した。長谷川一明社長のもと、廃止を一方的に決めるのではなく、赤字の実態を地域と共有し、上下分離を含む地域交通の在り方を協議するための情報開示であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 長谷川一明 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 長谷川一明 | 北陸新幹線(金沢〜敦賀間)開業 | ★ |
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事実根拠:出所(西日本旅客鉄道)