【筆者所感】 住友家が1670年に両替商を始めてから225年後の1895年、住友吉左衛門は資本金100万円の住友銀行を中之島で開業した。1916年には市中銀行のトップを切ってサンフランシスコに支店を出し、19年末には第一・三井に次ぐ全国3位の規模に躍り出た。効率経営と国際業務を2本柱としたこの位置取りは戦後も踏襲され、1980年代には平和相互銀行合併、スイスのゴッタルド銀行買収、米ゴールドマン・サックスへの出資で国内外に布石を打った。他の財閥系都銀とは異なる国際志向と効率経営の組み合わせが、戦後長らく住友銀行の個性を形作った。戦後復興期から高度成長期を経て、国際業務と効率経営の2本柱は同行の競争力の源泉として働いた。
ところがバブル崩壊後、イトマンなどへの融資が不良債権化し、1995年3月期に他都銀に先駆けて8000億円超を償却した。2001年のさくら銀行との合併、2002年の三井住友FG設立を経て国内2位メガバンクとして再出発。太田純が掲げた「脱金融」路線の下で政策保有株式削減と事業ポートフォリオ入替を進め、2025年3月期には経常利益1兆7195億円・純利益1兆1780億円と過去最高水準に到達した。2023年に急逝した太田の後を継いだ中島達は、国内ビジネスで本気でトップを目指すと宣言した。マイナス金利時代の停滞から金利正常化と脱金融路線の組み合わせで収益を拡大させ、国内2位メガバンクからグローバル水準のROEを目指す新しいフェーズに入った。欧米メガバンクに伍する収益性を狙う局面に入った。
歴史概略
1670年〜1945年両替商から戦前トップ都銀への発展の250年
別子銅山と金融業250年の住友家の系譜
住友銀行のルーツは、住友家が屋号「泉屋」を称し別子銅山経営を中心に発展を遂げてきたことに始まる。徳川時代初期の1670年、泉屋平兵衛友貞が両替商を手掛けて以来、金融業務は住友家の事業の一角を占めた。明治維新により札差・蔵元業務には終止符が打たれたが、1875年に並合い業(商品担保金融)を始めて金融業を再開した。並合い業は年々業容を広げ、銀行条例発布を受けた1895年11月、住友吉左衛門の個人経営による資本金100万円の住友銀行が大阪市中之島で誕生した。両替商から商品担保金融を経て近代銀行業務へと移る過程は、そのまま後の住友銀行の姿を形作った。江戸期の住友家が積んだ金融業の蓄積は、明治の銀行条例下で正式な銀行業へと姿を変えた。
1912年3月、住友銀行は株式会社に改組され、資本金1500万円の株式会社住友銀行として発足した。初代社長は住友吉左衛門、常務は中田錦吉が務めた。同年には第六十一銀行を買収、1919年末には預金残高3億4836万円・貸金残高2億6156万円と、第一銀行・三井銀行に次いで全国第3位の規模となった。両替商のルーツを持つ住友家の金融業は、明治後期から大正期にかけて都市銀行の上位に入った。住友家は別子銅山という日本有数の鉱山経営を資本の核としたため、銀行業務にも厚い自己資本を提供でき、他の財閥の金融事業とは異なる強みを持った。大正期の成長は、この資本の厚みと国際志向の両輪がもたらした結果だ。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
市中銀行初の海外進出とサンフランシスコ支店
第1次世界大戦勃発に伴う輸出急増と在外邦人の内地仕送り増加を受け、住友銀行は海外拠点の開設を検討した。1916年9月、市中銀行のトップを切ってサンフランシスコ支店とハワイ住友銀行を開設した。同年に上海・ボンベイ、17年に漢口、18年にシアトル・ロンドン、そしてニューヨークに拠点を開いている。1924年にはロサンゼルス支店、25年には加州住友銀行を設立した。第2次大戦で一時縮小はしたものの、戦前に築いた海外支店網は今日に至る同行の国際業務の土台となった。市中銀行として先頭を切ってサンフランシスコに支店を構えた事実は、住友銀行の国際志向の起点として後年まで語り継がれた。他の財閥系都銀が国内拠点整備に注力する時期に住友だけが海外進出を先行させた事実は、同行の個性を象徴する。
第1次大戦後の反動から1920年・1922年と金融恐慌が日本経済を襲い、住友銀行も預金・貸出金ともに減少が続いた。しかし1927年の昭和金融恐慌で多くの銀行が破綻する中、預金は信用度の高い銀行に集中し、住友銀行は1929年末に普通銀行中首位を占めた。海外網と効率経営を背景とした信用力が、恐慌という外的ショックを業界再編のきっかけに変えた。金融恐慌で中小銀行が破綻する中で預金が大銀行に集中した流れは、戦前の銀行業界の構造を塗り替えた。住友銀行はその最大の受益者の一つとなり、戦前都銀の上位に駆け上がった。信用力による業界再編の受け皿となった構図は、後の戦後金融再編でも同じパターンで繰り返された。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
1946年〜1995年大阪銀行改称からトップバンク復帰までの戦後再建
財閥解体と大阪銀行改称からの復名
終戦直後、半年で物価が2倍以上になるインフレが進む中、1945年11月にGHQが財閥解体方針を出した。住友本社は解散を余儀なくされ、1948年10月、住友銀行は行名を大阪銀行に改め、新資本金11億4000万円で再出発した。1949年5月には東京・大阪両証券取引所に上場。1952年4月の対日平和条約発効に伴い、同年12月に株式会社住友銀行へ行名復帰し、堅実経営・精鋭主義を掲げて業績発展に取り組んだ。GHQの財閥解体方針の下で大阪銀行と改称していた期間はおよそ4年間にとどまり、戦後の早い時期に住友銀行の看板を取り戻した。1949年5月の東京・大阪両証取上場と合わせ、戦後の新しい企業体制を早期に整えた。住友という名称の一時的な封印は、戦後の財閥解体方針の象徴でもあった。
1955年以降の高度成長期には、職員1人当たりの預金額が他行を大きく上回る効率経営が定着した。独自のダブルチェックシステムで優良企業取引を広げる一方、1960年11月にはプリンス自動車販売との提携による自動車購入資金貸付を制度化し、わが国における消費者金融の先鞭をつけた。1965年4月には戦後新設地銀の河内銀行(21カ店)を合併。1967年1月には都市銀行初の総合オンラインシステムを稼働させ、事務処理の効率化とサービス向上を実現した。高度成長期の住友銀行は、効率経営と先進的な業務改革を両輪で進めて他都銀との差別化を図り、トップバンク復帰への道筋を固めていった。プリンス自動車販売との提携による消費者金融の先駆けは、個人取引の拡大を重視する同行の姿勢を示す。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
安宅産業と不良債権8000億円の先行処理
1973年秋の石油危機で内外経済が不況に陥る中、在米子会社の三国間貿易の失敗による総合商社・安宅産業の破綻が露呈した。住友銀行経営陣は、安宅の経営危機が信用不安の引き金となり日本経済の失速につながることを懸念し、安宅を伊藤忠商事と合併させる道を選んだ。銀行団の救済融資総額約2000億円のうち住友銀行は1132億円を負担、1977年9月末決算で全額償却を余儀なくされた。それでも業績は回復し、1980年9月末決算でトップバンクに復帰した。安宅産業救済のための1132億円の先行償却は、一時的に損失を計上する判断だったが、経済全体の連鎖破綻を避けるための経営判断として後に高く評価された。1980年9月末決算でのトップバンク復帰は、その回復力を象徴する。
1986年10月、住友銀行は東京の相互銀行大手・平和相互銀行を合併し、懸案だった首都圏の店舗網を充実させ、全国で300カ店におよぶネットワークを完成させた。国際化・金融自由化対応として1984年2月にスイスのゴッタルド銀行を買収、1986年には米ゴールドマン・サックスへの出資を実施した。1990年代初頭のバブル崩壊でイトマン等への融資が不良債権化すると、住友銀行は他の都銀に先駆けて1995年3月期に8000億円超の不良債権償却を断行し、経常赤字を計上しつつ収益力を早期に回復させた。他行に先んじた処理で、平成金融危機の最も厳しい局面を先手で乗り越えた。他都銀がなお不良債権処理に苦しむ中、住友銀行だけが一足早く損失計上を済ませる構図となった。この処理の先行が、後のさくら銀行との統合にも有利に働いた。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
1996年〜2018年都銀再編と三井住友FG発足までの平成再編期
さくら銀行との合併と三井住友FG設立
金融ビッグバン期の都銀再編の中核ディールとして、2001年4月、住友銀行とさくら銀行が合併し三井住友銀行が発足した。住友と三井という2つの財閥系銀行の統合は、国内2位のメガバンクの誕生を意味した。2002年12月には持株会社・三井住友フィナンシャルグループを設立し、初代社長に西川善文が就任した。2003年3月期には経常損失5157億円・純損失4654億円を計上し、2005年3月期にも純損失2342億円と、バブル処理の最終局面で大きな損失を引き受けながら再建を進めた。合併で規模を確保しつつ、経営陣は残された不良債権処理を素早く進める運営を続けた。2002年の三井住友FG発足、2003年の合併銀行統合、2005年の持株会社体制の整備など、平成金融再編の仕上げをこの時期に進めた。
西川の後を受けた北山禎介(2005〜2011)、宮田孝一(2011〜2017)、國部毅(2017〜2019)は、住友銀行とさくら銀行の「ベストプラクティス」を組み合わせる統合思想を維持した。國部は後年、みずほ銀行の難渋したシステム統合と対比して「経営統合あるいは企業買収においては、経営者同士の信頼関係が大事」(ダイヤモンド・オンライン 2022/3)と振り返った。2008年度にはリーマンショックで純損失3734億円を計上したが、翌年には業績を戻し、FY10以降は国内上位行として安定して利益を計上する体制に入った。住友とさくらという2つの系譜を統合した三井住友銀行は、この時期にメガバンク3行体制の中で独自の位置を固めた。旧住友の国際志向と旧さくらの国内基盤を組み合わせた独自のポジションが、この時期に形を取り始めた。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
- PRESIDENT Online 2013
- ダイヤモンド・オンライン 2022/3
宮田・國部体制が描いたソリューションビジネスへの転換
宮田孝一は就任当時、銀行ビジネスの性格変化を次のように述べている。「銀行のビジネスは、お客様が必要なときに資金を融資するという受け身の姿勢からソリューションビジネスへ急速に変化している」(PRESIDENT Online 2013/06/14)。貸出需要の伸び悩む成熟経済下で、手数料・コンサルティング・投資銀行業務を強化する方向は、この時期から同行の路線として定着した。貸出金利差による収益から、顧客の経営課題を解決するソリューション提供へと銀行ビジネスの軸を動かす判断を、経営層が言葉にして示した。これが後の太田体制の「脱金融」路線の前史となった。宮田時代にすでに銀行業をソリューションビジネスへと転換する路線が示されており、同行の変身はこの時期から準備されていた。
FY12〜FY19にかけて経常収益は4兆3000億円〜4兆8000億円台で推移し、親会社株主純利益は7000億〜8000億円台を維持した。マイナス金利政策下で国内の資金利益が圧迫される中、SMBC日興証券や海外現地法人を通じた手数料収益の拡大が業績を支えた。2017年4月に社長に就任した國部毅は、都銀再編の当事者経験を踏まえてシステム統合を円滑に完了させ、グループ内の連携強化に注力した。みずほのシステム統合が難航する中、三井住友はスムーズに統合運営を完成させ、この差が後の業績の差にもつながった。國部体制は統合仕上げと成長投資の両面で次期体制への橋渡しを果たした。同規模の合併銀行の比較事例としても注目され、次期の太田体制が脱金融路線に踏み込むための基盤をこの時期に整えた。
- 日本会社史総覧 1995/11/1
- 有価証券報告書
- PRESIDENT Online 2013
- ダイヤモンド・オンライン 2022/3
直近の動向と展望
太田純の「脱金融」路線と政策保有株式削減の加速
2019年4月、太田純が社長に就任した。「別に銀行である必要はない」「社長製造業になりたい」(Sustainable Brands Japan 2020/09/10)と述べ、銀行業務にとらわれない価値創造を掲げた。2023年度決算では中期経営計画の最終年度目標を初年度で上回り、期中1000億円の上方修正後にさらに400億円超上振れて着地。太田は後に「期初に保守的なガイダンスを発表したことで、業績に対する自信の欠如や投資家に非公開のリスク要因があるという誤解を与えていたのではないかと反省している」(決算説明会 FY2023)と述べ、保守ガイダンス方針を転換した。銀行業界では珍しいほど踏み込んだ対外発信が、太田時代の三井住友の特徴として定着していく。リスクや反省も含めた経営の言葉が、機関投資家との対話の質を変えた。
政策保有株式削減は加速した。現中計3年間で簿価2000億円の削減計画を1年半で前倒し達成、新計画では次期中計を含む5年間で6000億円の削減を単年度1200億円ペースで進める方針。2029年3月末には簿価ベースでSMBC設立当初比93%削減、時価ベースでは純資産対比16%程度まで減少する見込みで、政策保有株式の削減はいよいよ最終局面に入る。太田は2023年11月に急逝し、同年12月に中島達が社長に就任した。太田体制の「脱金融」路線と政策保有株式削減の加速は、それまでの日本のメガバンクの常識を塗り替え、収益構造と資本運営の両面で次期経営陣への土台となった。太田個人のリーダーシップが短期間で同行の方向性を変えた時期でもあった。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY2023
- 決算説明会 FY2024-2Q
- 決算説明会 FY2024
- Sustainable Brands Japan 2020
- 読売新聞 2026/3/30
中島達が掲げた国内トップとグローバルピア挑戦
中島体制下で業績は過去最高を更新した。2024年3月期は経常利益1兆4661億円・純利益9629億円、2025年3月期は経常利益1兆7195億円・純利益1兆1780億円と、マイナス金利解除後の金利上昇局面で国内ビジネスが収益拡大を牽引した。2024年11月には24年度ボトムライン目標を1兆1600億円に引き上げ、通期政策保有株式売却益4000億円超、自己株取得通期2500億円という過去最大の株主還元を打ち出した。国内ビジネスの収益力が、金利正常化と政策株削減の合わせ技で高まった時期にあたる。2025年5月には2028年度ROE10%、2030年頃にはROE11%・ボトムライン利益2兆円を長期目標として公表し、グローバルピアに伍する水準を掲げた。長期目標の公表は、グローバル水準の収益性を狙う新たな指針となった。
成長投資と事業ポートフォリオ入替も進んだ。2025年にはインドYES Bankへの出資(PBR1.4倍)、米航空機リース大手Air Lease Corporationの買収(住友商事・投資家との共同出資スキームで1年で資本回収可能な設計)を発表。一方で低採算アセットの売却、欧州プロジェクトファイナンスや米国貨車リース事業の売却も進めた。成長投資とポートフォリオ入替を同時に走らせる運営は、太田時代の脱金融路線を中島が継承・加速する構図として定着しつつある。中島は「いよいよ国内ビジネスでのトップと、世界で存在感を有するプレーヤーを本気で目指せるところにきた」(読売新聞 2026/3/30)と述べ、「グローバルなプレゼンスを持つ金融グループを目指す以上はROE11%では物足りず、欧米行が開示するROTEで10%台半ばまで引き上げなければグローバルピアに伍するとは言えない」(決算説明会 FY2024)と長期目線を引き上げた。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY2023
- 決算説明会 FY2024-2Q
- 決算説明会 FY2024
- Sustainable Brands Japan 2020
- 読売新聞 2026/3/30