【筆者所感】 1656年の鴻池両替店、1870年の岩崎弥太郎による海運業、1919年の三菱銀行設立という3つの系譜が、いまの三菱UFJフィナンシャル・グループに合流している。1923年の関東大震災では罹災銀行の金庫を開放し、1927年の金融恐慌では中小企業を救済し、戦後の財閥解体では「三菱」名の使用を禁じられて千代田銀行へ改称した。1971年には業界初のオンラインCD(現金引出機)を設置し、1984年には米西海岸最古の名門バンク・オブ・カリフォルニアを買収して海外戦略を加速した。三菱は財閥系の本流として、三和は大阪の在阪3行(鴻池・山口・三十四)の合併として、それぞれ別経路で都銀上位に駆け上がった2つの源流が、半世紀後の統合で1つに束ねられる構図である。
1996年に三菱銀行が外国為替専門の東京銀行と合併して資金量世界一となり、2005年10月には経営難のUFJホールディングスと統合して国内最大の金融グループが発足した。2008年のリーマン・ショック直前にはモルガン・スタンレーに約90億ドルを投じて米投資銀行を救済し、2022年には14年間保有した米ユニオンバンクの個人向け事業をUSバンコープに約80億ドルで手放し、ホールセール領域に資源を集中した。2025年3月期には親会社株主純利益1兆8,629億円という過去最高益を計上した亀澤宏規CEOのもとで、中長期ROE目標は7.5%から12%程度に引き上げられ、AMを「第4の柱」とする構造転換に着手した。1870年の海運業から始まった金融業が、銀行・信託・証券・AMの4本柱構造に骨格を組み替える流れにある。
歴史概略
1656年〜1948年三菱と三和 ── 2つの系譜が並行して都銀上位に駆け上がる
鴻池両替店と岩崎弥太郎、2つの金融の起点
MUFGの源流のひとつ、鴻池家は1656年(明暦2)に初代鴻池善右衛門が大阪で両替店を開いた江戸初期からの両替商である。370年に及ぶ歴史は日本金融業界で屈指の古さに当たる。1877年5月、第十三国立銀行が鴻池両替店の建物を本店として開業し、これが鴻池銀行に継承された。同じ大阪では1878年3月に繊維関係商人たちが第三十四国立銀行を設立し、1879年4月には山口家が第百四十八国立銀行を開いた。のちの三和銀行を構成する3行の起源である。江戸期からの鴻池両替店の看板を引き継ぎつつ、明治初期に設立された国立銀行が大阪経済の資金需要を支え、昭和初期に対等合併で三和銀行に再編された経路は、戦前日本における地方金融機関の全国化にあって特筆される。
三菱系の金融は海運業から枝分かれした。1870年、土佐藩の郷士出身の岩崎弥太郎が大阪・西長堀で海運事業を起こし、これが三菱事業全体の出発点となる。1876年に郵便汽船三菱会社が「為替局」を発足させ、回漕貨物を担保にして荷主へ為替金を融通する業務を開始した。1880年に為替局が分離独立して三菱為換店となり、本格的な金融業務が始まった。海運業の付随業務として始まった金融が、独立した業態に育っていく経路をたどる。三菱為換店はのちに三菱合資会社銀行部、1919年の三菱銀行設立へと姿を変え、1885年の第百十九国立銀行継承を挟んで3大財閥銀行の一角に並ぶ。海運の岩崎弥太郎が起こした事業から金融が分離して独立した業態に育つ経路は、三菱財閥全体の事業多角化の縮図でもあった。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
関東大震災と金融恐慌で築いた信用力
三菱の銀行業務は、1885年の第百十九国立銀行継承、1895年の三菱合資会社銀行部発足を経て、1919年8月に株式会社三菱銀行として分離独立した。1922年には現在地に本店営業所が完成し、翌1923年9月の関東大震災では東京所在の銀行の大半が本店を焼失するなか、同行本館は無事に残った。同行は他行に先駆けて預金の支払いを始めるとともに、本店金庫を開放して罹災した諸銀行の業務に供した。震災直後の混乱期に罹災銀行の業務継続を下支えした動きが同行の信用力を一段と高めた。1927年の金融恐慌下でも同様の救済行動が繰り返された。1922年完成の本店営業所は堅牢な設計で、震災下での業務継続を支えた。危機対応で築いた信用は、預金が大銀行に集中する流れのなかで同行の地位を押し上げる要因となった。
1927年3月の金融恐慌でも、全国各地で多数の銀行が取り付けにあうなか、三菱銀行は中小企業や経営難に陥った銀行の救済に動いた。2度の金融危機に対応した結果、同行の信用は高まり、預金が積み上がった。金融恐慌以降、預金が大銀行に集まる傾向が顕著となった。三菱商事・三菱重工と並ぶ3大財閥系銀行の一角として三菱グループの中核を占める位置付けは、この10年で固まった。関東大震災と金融恐慌で生じた信用力の差は、中小銀行から大銀行への資金シフトを生み、戦前日本の金融構造を書き換える起点となる。三菱銀行はその主役の一つとなり、財閥系3行が日本の金融構造の中心を占める構図が固まった。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
3行合併で三和誕生、戦時統合と財閥解体
大阪系3行(鴻池銀行・山口銀行・三十四銀行)はいずれも本店を大阪に置く都銀で、1933年12月に3行が合併して三和銀行が創立された。営業地盤を同じくする3行の過当競争を避ける狙いから、初代頭取には日銀出身の中根貞彦が就任した。創立直後の第1回決算で預金高は10億円を超え、国内普通銀行のトップに立った。中根は社名について「三和の意は文字通り三行が和することを意味する」(日本会社史総覧 1995/11)と語った。大阪経済を地盤とする3行の対等合併は、戦前日本の金融業界で起きた数少ない大都市銀行同士の合併に当たる。3行が地盤を共有していた結果、統合後の店舗網整理が早く進み、初年度から業界首位の預金規模に到達した。
三菱銀行は1929年に森村銀行、1940年に金原銀行、1942年に東京中野銀行を相次ぎ買収し、1943年4月には大銀行の一角だった第百銀行を合併した。資本金1億3,500万円、店舗177、預金48億円と一挙に規模を拡大した結果である。戦時体制下の銀行集中政策の帰結だった。1948年10月、GHQによる財閥解体で「三菱」の名称使用が禁止され、同行は千代田銀行に商号変更した。三菱銀行の名称に復帰するのは5年後の1953年7月になる。1948年3月には三和銀行も金融機関再建整備法に基づいて1,538万円まで減資し、同年10月に10億円に増資して新発足した。財閥解体と再建整備法により、両行は戦前の姿から一旦解体されたうえで再出発した。戦時統合でひとまとめにされた組織が制度の枠内で再構築される時期に当たる。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
1949年〜1995年高度成長・国際化・ユニバーサルバンク化への競争
ニューヨーク・ロンドンからオンラインCDまで
戦後、三菱銀行は1949年5月に東京・大阪両証取に上場し、1952年にニューヨーク支店、1956年にロンドン支店を再開した。三和銀行は「ピープルズバンク」理念を中核に据え、1955年3月に全国どこでも出し入れできるネットサービス預金、1960年12月に消費者金融ドリームローンを開始した。海外では1953年1月のサンフランシスコ、1957年のロンドン、1963年のニューヨーク、1964年の香港と、国際金融の中心地に相次ぎ支店を設置した。三菱は財閥系の本流として法人取引を軸に、三和は大阪を地盤に大衆化と消費者金融を軸に、別経路で都銀上位を競った。のちのユニバーサルバンキング戦略の素地は、この戦後出発点で2系譜とも準備された。1972年に三菱銀行頭取に就任した田実渉は「帝国ホテルでメシを食って大衆化を口にするなどナンセンスだ」(読売新聞 1972/01/23)と述べ、三菱系の大衆化対応の難しさを率直に認めた。
1971年、三菱銀行は業界初のオンライン式CD(現金引出機)を設置し、1972年に総合口座を開発するなど、リテール銀行技術の先頭に立った。海外では1972年1月に海外現地法人第1号の加州三菱銀行を設立、同年5月に欧米先進諸国の代表的銀行で構成されたオライオン・グループに参加した。1984年6月には米西海岸最古の名門銀行バンク・オブ・カリフォルニアを買収する。邦銀による米銀買収の本格事例として業界で注目された買収だった。オンラインCDや総合口座など情報技術を生かしたリテール機能の拡張でも三菱銀行は先頭を走り、システム投資と海外展開を並走させた。同行の技術先行の姿勢は、後年のデジタル金融でも同じパターンが繰り返される。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
- 読売新聞 1969/1/4
- 読売新聞 1972/1/23
- 臨増東洋経済 1973
バブル期の「ユニバーサルバンキング」競争
1982年、海外経験の長い川勝堅二が三和銀行の第7代頭取に就任し、銀行業務の新展開を「国際化・証券化」に振り向けた。川勝のもとで同行は「ピープルズバンク」に加えて「インベストメントバンク重視」を打ち出し、両者を統合した「ユニバーサルバンキング」を目標に掲げた。米国のリース会社や証券会社の買収を進め、国内でも証券業務を強化し、シンクタンクの三和総合研究所を設立した。銀証一体のビジネスモデルを早期に志向した点で、三和銀行はバブル期の邦銀のなかで野心的な設計を描いた。1988年に就任した渡辺滉頭取は「最新にして最強、世界のユニバーサルバンクを目指そう」(日本会社史総覧 1995/11)とコーポレート・カルチャーを切り替え、ストレングス・ストラテジー・スペシャリティーの3Sを行員に徹底させた。
1988年10月、三菱銀行はロンドン証券取引所に株式を上場、1989年にはスイス3取引所・パリ・ニューヨークにも相次ぎ株式を上場した。1992年、三和銀行は業務純益・経常利益・当期利益の3部門でトップに立ち「三冠王」を達成する。ユニバーサルバンキング戦略がバブル崩壊直前にピークを打った瞬間だった。同年10月には料亭経営者の尾上縫が起こした架空預金証書事件で経営難に陥った東洋信用金庫を救済合併した。1993年3月には三和銀行の国内拠点が1,000店舗を超え、邦銀最大の国内拠点網を築いた。拠点数・預金量・業務純益で頂点に立ち、バブル末期の邦銀ランキングで三和が首位に立つ場面もあった。三和の高速ユニバーサル化と三菱の堅実路線という対照的な戦略が、バブル末期の都銀勢力図のなかで併存した構図でもある。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
- 読売新聞 1969/1/4
- 読売新聞 1972/1/23
- 臨増東洋経済 1973
1996年の東京銀行合併 ── 平成金融再編の号砲
1994年11月、三菱銀行は日本信託銀行に第三者割当増資を引き受けさせて株式の68%を取得し、本格的な信託業務に乗り出した。同月には証券子会社の三菱ダイヤモンド証券も設立し、事実上のユニバーサルバンク化を加速した。信託・証券子会社を持つ体制は、戦後長らく銀証分離の枠内にあった日本の銀行業にとって転換点となる。前頭取の田実渉は1973年時点で「私はいまでも合併論者なんだ。なにも銀行だけじゃなく、企業の数はおおすぎるよ」「企業が大きくなると、専門店のようにサービスが行き渡らなくなるかというけれども、根本問題として、大きくなればコストも安くなるから、お客さんに対して本当のサービスができるはずだ」(臨増東洋経済 1973)と合併と規模追求の必要性を説いた。20年越しに同行が信託・証券子会社を傘下に取り込む動きは、田実が示した方向の延長線上にある。
1969年1月、三菱銀行は第一銀行との合併交渉に踏み切ったが、第一銀の井上薫会長は「三菱との合併は第一銀行にとって不利である。それは事実上、第一銀行の吸収合併となるからだ」「三菱とは銀行員数、店舗数など規模も違うし収益力も差がある」(読売新聞 1969/01/04)と反対し、交渉は同月内に破談に終わった。1996年4月、27年越しに三菱銀行は外国為替専門銀行の東京銀行と合併し、東京三菱銀行が発足した。合併比率10対8、存続会社は三菱銀、新本店は東京・丸の内の三菱銀本店に置かれた。資金量で当時世界最大だったさくら銀行を抜いた瞬間だった。都市銀行と外為専門銀行という異なる系譜の合併は、平成金融再編の口火を切る。みずほ(DKB・富士・興銀)、UFJ(三和・東海)、三井住友(さくら・住友)と4メガ体制に集約される一連の再編は、この1996年4月合併から始まった。
- 日本会社史総覧 1995/11 三菱銀行
- 日本会社史総覧 1995/11 三和銀行
- 読売新聞 1969/1/4
- 読売新聞 1972/1/23
- 臨増東洋経済 1973
1996年〜2022年UFJ統合と海外依存度50%体制への構造転換
UFJ救済統合と国内最大金融グループ誕生
2001年4月、三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行の3行統合でUFJ銀行が発足した。平成金融再編の第2波として、大阪系都銀と信託・東海が束ね直された再編である。2002年1月には三菱東京フィナンシャル・グループが発足して持株会社体制に移行し、銀証一体運営の枠組みを整えた。持株会社方式への移行は、銀行本体と信託・証券子会社を一つの統治の下にまとめる仕組みとして、日本の金融機関のガバナンス設計を変える。21世紀型の金融コングロマリットのひな型が、2002年に国内へ持ち込まれた格好だった。UFJが一足先に持株会社体制を発足させ、三菱系も同様に採用した経緯から、銀・信・証を一つの持株会社の下に束ねる体制は、後年のMUFG統合の制度的な受け皿として機能した。
UFJはその後、業績悪化と経営難が表面化する。2005年10月、三菱東京FGとUFJホールディングスが統合し、三菱UFJフィナンシャル・グループが発足した。当時国内最大、総資産190兆円規模の4大メガバンク体制が立ち上がった瞬間で、日本の金融再編は1つの到達点を迎えた。2006年1月には三菱東京UFJ銀行が発足する。鴻池両替店・岩崎弥太郎の海運業・第百銀行・山口銀行・三十四銀行・日本信託銀行・東京銀行・東海銀行・UFJ信託など、江戸初期から昭和にかけて生まれた多数の金融機関が、ひとつの持株会社の下に集結した。日本の金融再編は1990年代末の金融ビッグバンから10年で4メガ体制に集約され、MUFGはその最大の成果物として誕生した。4メガ体制の首位という位置付けが、ここで定まった。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY2024 Investors Day
リーマン・ショックと米国への90億ドル
2008年3月、MUFGはリーマン・ショック直前のモルガン・スタンレーに約90億ドルを出資した。ベアー・スターンズ破綻直後、米国投資銀行が連鎖破綻の懸念にさらされるさなかの資本注入で、業界史に残るクロスボーダー投資となる。MUFG-MSの提携はのちに米国投資銀行ビジネスにおける役割分担の基礎となり、ECM・M&Aアドバイザリーで協働領域を生む。リーマン・ショック直後の混乱期にあって日本の銀行が米国の投資銀行を事実上救済する動きは、戦後の金融史で前例のないクロスボーダー投資だった。モルガン・スタンレー株式の優先株取得として結ばれた提携はその後長く続く戦略関係に発展し、邦銀による米国資本市場ビジネスへの参加路線として続いている。
2008年8月には米ユニオンバンク(UnionBanCal)を完全子会社化し、西海岸最大級の商業銀行を米国商業銀行事業の主軸に置いた。しかしFY2008の親会社株主純利益は▲2,570億円と、MUFG発足後初の赤字を計上する。金融危機時の投資銀行救済と商業銀行買収という2件の海外投資は、短期には損失をもたらしたが、長期で海外収益比率を日本の金融機関のなかで群を抜いた水準まで押し上げた。2024年度の海外収益比率は約50%で、当時の2件の投資を抜きにして成立しない構図である。リーマン期の損失を受け止めて海外比率を上げ続けた経営判断が、後年のROE改善の土台となった。西海岸の商業銀行を押さえ、東海岸の投資銀行と戦略提携する2軸の米州戦略は、日本の銀行業界では異例の布陣だった。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY2024 Investors Day
アジア・パートナーバンク構想とMUB売却
2013年12月にはタイ・アユタヤ銀行(KS)を子会社化し、東南アジアへの本格進出を果たした。以後、ベトナム・インドネシア(BDI銀行を2019年12月に子会社化)・フィリピンなどで出資・提携を進め、APAC域内のパートナーバンク・ネットワークに広げた。フィンテック出資も含めアジア×デジタル領域への累計投資は6,000億円規模に達し、APAC貸出残高で世界トップクラスの位置を占める。アジアのパートナーバンク構想は、日本国内の預貸マージン縮小を補うフロンティアとしてMUFGの中期戦略の中心軸に据えられた。国内の金利環境が厳しいなかで、成長性の高いASEAN市場にバランスシートを振り向ける流れが続く。タイ・インドネシア・ベトナム・フィリピンと、地域各国のパートナーバンクを順に取り込んで押さえる布陣に当たる。
2022年12月、MUFGは14年間保有した米ユニオンバンクの個人向け事業をUSバンコープに約80億ドルで手放した。米州戦略の転換である。リテール商業銀行事業から撤退してホールセールに資源を集中する判断で、2008年の買収から14年越しのポートフォリオ組み替えに当たる。2016年に平野信行、2020年4月に亀澤宏規が代表執行役社長に就任しており、MUB売却はデジタル・システム出身の亀澤体制下で実行された。三菱東京UFJ銀行の発足から16年、MUB買収から14年で、商業銀行事業の海外展開が一旦縮小に転じた格好でもある。14年にわたって保有した商業銀行事業から手を引く決断は、それまでの拡大志向から選択と集中への軸足移動の表れだった。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY2024 Investors Day
直近の動向と展望
過去最高益と中長期ROE12%目標
2025年3月期、MUFGは親会社株主純利益1兆8,629億円、経常収益13兆6,300億円、経常利益2兆6,694億円の過去最高益を計上した。2023年3月期の1兆1,165億円、2024年3月期の1兆4,908億円から積み上げた数字で、前中計のROE目標7.5%を上回る水準である。2025年5月、亀澤CEOは中長期ROE目標を12%程度と提示した。株価3,100円・時価総額30兆円程度を視野に入れる設計である。マイナス金利時代の7.5%目標は到達水準にあり、金利上昇下の次の目標として12%という水準を掲げた。日本の金融機関で初めて国際水準のROEに近づく目標設定で、過去最高益の積み上げと並行して資本効率の改善に舵を切った。マイナス金利時代からの改善カーブを、金利正常化下で加速させる絵柄である。
中長期12%に到達するには営業純益を1兆円程度伸ばす必要があり、その半分は資金収益向上やオーガニック成長で、残り半分はAM/IS・デジタル・アジア等の成長領域への投資、および投資銀行ビジネスで作る構想である。亀澤CEOは「前中計では、資本市場の評価を得るために最低限必用な水準としてROE目標を7.5%とした。当初は意欲的な目標と考えていたが、マイナス金利環境下において収益の多様化を進めるため、リスクリターンの向上や手数料収益の拡大、デジタルやAM/IS領域での投資に取り組んできた。その結果、金利が上がり始めた現在では、10%が視野に入るまで改善している」(決算説明会 FY2024)と説明する。マイナス金利時代に進めた収益多様化が金利正常化の流れと合わさり、ROE改善に結びついた構図である。
- 決算説明会 FY2024
- 決算説明会 FY2024-2Q
- 決算説明会 FY2024 Investors Day
- 有価証券報告書
政策保有株式売却と「第4の柱」としてのAM
2024年11月、MUFGは政策保有株式の売却目標を当初の3,500億円から7,000億円に倍増させ、2024年3月末残高からの半減を今中計期間中に前倒すと発表した。保有残高20%未満の達成時期も前倒し、株式含み益のボラティリティを資本運営から切り離す転換である。同時期、コーポレートバンキング部門では行政処分を受け、グループ間連携におけるモニタリング態勢の不備が課題として浮上した。統合運営の規模と複雑性が、ガバナンスの新たな論点を生んでいる。グループ各社の情報共有やリスク管理の枠組みをどう統一するかは、4メガのなかで最大のMUFGにとって構造的な経営課題に当たる。政策株売却の加速は資本運営の自由度を上げる一方、事業ポートフォリオとガバナンスの両面で宿題が残った。
2024年4月、MUFGは三菱UFJアセットマネジメント(MUAM)を信託子会社からMUFG持株会社直下に移管し、AM事業を「第4の柱」とする構造転換を始動した。AuMを約38兆円から60兆円程度に引き上げ、個人投資家向けeMAXIS Slimシリーズで新NISAの受け皿に据える戦略である。デジタル領域ではダイレクトMAU2027年3月1,000万人を目標に掲げ、グループ5,700万人の顧客基盤を活用したロイヤリティプログラムを並走させる。1870年に岩崎弥太郎の海運業から始まった金融業が、2020年代には銀行・信託・証券・AMの4本柱に骨格を組み替える流れにあり、AMを第4の柱に据える設計は1996年からの統合連鎖が一段落した次の経営論点を示している。1656年の鴻池両替店から数えて370年に及ぶ蓄積が、新NISA時代の運用ビジネスに振り向けられる構図である。
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