ダイセル の歴史

更新:

創業 1919年
母体 セルロイド業者8社合同
創業地 兵庫県尼崎市
創業 1919年9月8日、セルロイド8社の合併で大日本セルロイド株式会社が創立された。
1919年9月8日、セルロイド8社の合併で大日本セルロイド株式会社が創立された。資本金1,250万円、本社は大阪府堺市に置かれた。合同は業界が選んだ道ではない。第1次大戦の終結で世界の需要が減る一方、開戦前に堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発を加えて35万〜40万ポンドに膨らみ、販売競争が業界を疲弊させていた。台湾総督府専売局が一社への統合を条件に原料樟脳の一手供給を決めたことが決定打となり、合同比率は堺48%を筆頭に決着している。ところが翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を閉鎖し、従業員280名を解雇したうえ、1921年12月に資本金を1,000万円へ減資した。
決断 セルロースの誘導体を、火薬と繊維の二方向へ分けてきた。1932年6月に神崎工場で
セルロースの誘導体を、火薬と繊維の二方向へ分けてきた。1932年6月に神崎工場でセロハン、1935年9月に新井工場で有機合成を始め、1951年6月に網干工場で酢酸セルロースの製造に入る。1954年1月には播磨工場で発射薬の製造を開始する。硝化綿は燃焼を制御する技術となり、1988年10月のダイセル・セイフティ・システムズ設立でエアバッグ用インフレータへ向かった。酢酸セルロースは1958年8月にたばこフィルター用トウ、1990年11月に液晶表示向けフィルムへ向かう。2008年11月には熟練者の暗黙知を形式知へ移す生産革新を全社へ広げた。1954年に始めた発射薬と1951年に始めた酢酸セルロースが同じ会社に残ったため、ダイセルは自動車の安全部品とたばこという互いに無関係な二つの顧客産業を同時に相手にしている。
現況 利益が最も大きい事業から、最も大きい減損が出た。2026年3月期の連結売上高5,
利益が最も大きい事業から、最も大きい減損が出た。2026年3月期の連結売上高5,796億円のうちエンジニアリングプラスチックが2,547億円・利益191億円で最大となり、マテリアル1,613億円・利益150億円、セイフティ1,042億円・利益61億円が続く。ところが同じ期の減損損失328億円のうち324億円はエンジニアリングプラスチックで計上され、投資有価証券売却益175億円を加えても純利益は前期の495億円から102億円へ減少した。この事業の中核は、1964年5月に米セラニーズとの合弁で設立し2020年に相手方の保有株式を取得して完全子会社化したポリプラスチックスである。半世紀の合弁を解いて全株式を取得した事業が、6年後に全社最大の減損を生んだ。
競合 セルロースを捨てた側と、捨てずに用途を替えた側に分かれた。1934年1月に写真フ
セルロースを捨てた側と、捨てずに用途を替えた側に分かれた。1934年1月に写真フィルム部として分離した富士写真フイルムは、2000年代にフィルム需要が消えると本業の消失に備えた構造改革を掲げ、化粧品と医薬へ移ってセルロースの写真用途から離れた。ダイセルは酢酸セルロースを残し、たばこフィルター用トウ、液晶表示向けフィルム、光学異性体分離カラムへ売り先を替えている。2026年3月期の売上高は、富士フイルムホールディングスの3兆3,569億円に対しダイセルが5,796億円にとどまる。エアバッグを組み立てる豊田合成に対し、ダイセルが持つのはガスを発生させるインフレータだけである。原料を残したダイセルは用途ごとに顧客産業が分かれ、自動車部品メーカーと競うセイフティ事業の利益率5.9%が全社の7.3%を押し下げている。
長期業績の推移 1949〜2026年
ダイセル:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1919年〜 大日本セルロイドの設立とセルロース化学の確立

筆者考察y.sugiura, author

大日本セルロイドの創立は、業界が自ら選んだ統合ではなかった。第1次大戦後の反動不況で、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産が後発を加えて35万〜40万ポンドまで膨らみ、売り競争で各社が疲弊したところへ、台湾総督府専売局が原料樟脳の一手供給を統合の条件として示した。原料の蛇口を握る側が合同の形を決めたのであり、堺48%という比率も三井が推した森田茂吉という社長の人選も、その枠の中で決まっている。発足の翌年には4工場のうち3工場を閉じ、280名を解雇し、資本金を1,250万円から1,000万円へ落とした。合同で得たはずの規模は、発足から2年のうちにいったん失われている。

この会社が積み上げたのは工場ではなく、セルロースを化学的に扱う技術だった。硝酸で処理すればセルロイドと写真フィルムになり、酢酸で処理すれば燃えないフィルムとアセテート繊維になり、苛性ソーダで溶かせばセロハンになる。1934年に切り離した写真フィルム部が富士写真フイルムとして育ったのも、1951年に網干で始めた酢酸セルロースが後の主力になったのも、同じ幹から出た枝である。そして原料の酢酸を自給しようという1933年の判断が有機合成へ広がり、カーバイドの品不足に行き当たった末、1961年の大日本化成設立で石油化学へ届いた。処理に使う薬品を替えるたびに、扱える市場が一つずつ増えていったのである。

1919年〜セルロイド業界の合同事業として創立

網干工場の源流は三菱が出資した日本セルロイド人造絹糸株式会社、堺工場の源流は三井が出資した堺セルロイドである。両社はともに1908年に生まれた。原料を国内で得やすく、輸出でも見込みがあるという点が、セルロイドに目を向けさせた。網干側を起こしたのは鈴木商店の金子直吉で、人絹に将来性を見ていた。そのためセルロイドをつくる傍ら、硝化綿を使う人絹の研究も進めさせたものの、事業化までは届かなかった。1914年に欧州大戦が始まると輸出向けのセルロイドは好況に沸き、同じ時期に6社が新たに加わった。これら8社がまとまって大日本セルロイド株式会社となったのが1919年9月で、資本金は1,250万円だった。9月8日の創立総会は大阪ホテルが会場となり、本社には大阪府堺市が選ばれた

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [1]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地

合同は業界が自ら選んだ道というより、追い込まれた末の決着だった。第1次大戦の終結で世界的にセルロイド需要が減る一方、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発各社を加えて35万〜40万ポンドに膨らんでおり、供給過剰から販売競争が激化して業界は疲弊していた。堺セルロイド専務の森田茂吉が台湾総督府専売局長に相談したところ、専売局は有力各社が一社に統合されるなら原料樟脳を一手に供給すると決め、これが合同を動かす決定打となる。交渉は合同比率と幹部の人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・残る4社が計8%、社長は三井側が推す森田で決着した

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉

新会社は発足するや事業場の整理に迫られた。設備が劣り生産原価の高い工場を切る方針で、三国は一時閉鎖、能登屋と十河は生地製造をしない条件で加工場専業として売り戻し、東洋の工場も売却して、堺・網干・神崎・東京の4工場で操業を開始する。1920年9月と1921年2月の二度にわたって従業員280名を解雇し、常勤取締役は報酬を半分に、他の取締役と監査役は無報酬とした。従業員も2年間は昇給も賞与もなしとされた。こうした措置は、翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を次々に閉じ、どうにか動き続けたのが堺工場だけという事態を受けたものである。250万円の損失金を抱えた同社は1921年12月の株主総会で資本金を1,000万円に減らし、これを境にその後の社業は順調に伸びた

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [13]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
参考文献[1]-[15]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [1]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [13]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資

1929年〜セルロイド生地世界一と繊維素化学への展開

1929年に始めたラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造は、国内のプラスチック工業の先駆けとなった昭和期の同社は、セルロイドの原料となる硝化綿で培った技術を土台にセルロース事業を広げていた。包装材料にも手を広げ、1932年6月には兵庫県の神崎工場でセロハンの生産に入り、1934年1月には写真フィルム部を切り離して富士写真フイルム株式会社(現富士フイルムホールディングス)を設けている。1935年9月には新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始し、セルロース系から有機合成系への事業拡張を始めた。当時の有機合成はアセテート繊維の原料を自給するための原料源確保にとどまり、主力事業と呼べる位置にはなかった

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった

1930年代半ば、同社のセルロイド生地は品質でも製造量でも世界一となり、40数カ国へ輸出されるに至った。1921年、同社は粗製乱売を防ぐ狙いで全国の主要業者20社と共同販売所を設けており、のちに政府が定めた「工業組合法」はこの自主的な統制を手本に骨格が組まれたと自社史は記す。販売の基盤はその流れを受け継いで育ち、代理店や加工業者との結びつきは親子に近い関係にまで深まった。東京の寺島界わいと大阪の今里界わいは「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として根づいた。1937〜38年ごろには同社が国内セルロイド生産量の8割を握り、日本の生産量は世界の43%に及んでいた

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [22]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
  • 日本経済新報 1962年
    • [24]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有

創立の翌年から続けてきた国産ロールフィルムの研究は1934年に工業化へ至り、写真フィルム部はその年に富士写真フイルムとして独立したただ、分離が決まるまでには社内に異論があった。10数年かけてきた成果を社内で結実させたいとの声は根強かったが、すでに完成の域にあるセルロイドに比べ、写真フィルムは最先端の精緻な化学工業に属し、造り方も売り方も別の手法を要すると判断されて、1933年11月に別会社の設立が決まった同じ1933年に着手が決まった酢酸綿では、原料の酢酸をカーバイドから一貫して造って自前でまかない、関連する薬品の開発も併せて進める方針を定めた。自社史はこれを有機合成事業の起源と位置づける

  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [25]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [26]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
参考文献[16]-[27]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった
    • [24]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [22]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
    • [26]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [25]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた

1948年〜戦後復興期の上場と有機合成系への本格進出

空襲と敗戦で多大の被害をこうむった同社は、1948年にアセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた。アセテートは原料の醋酸やアセトンの生産が遅れて戦前は工業化に至らず、戦後になって帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料三菱レイヨンが相次いで乗り出した分野である。1949年5月、東京証券取引所(現株式会社東京証券取引所)に上場した。1951年6月に網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始、1954年1月に播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始した発射薬づくりは後にエアバッグインフレータ事業を支える火薬技術につながり、戦後民需転換の中で蓄積された技術資産が数十年後に自動車安全部品の中核事業へとつながった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始

1956年には大日本プラスチック株式会社を設立して樹脂事業を拡張した。1958年8月には堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始。その製造技術は1961年9月に米イーストマン・コダック社と結んだ技術契約によるもので、たばこフィルター用トウは当時から独占生産品だった。もっとも酢酸繊維素の大口需要家だった帝人が自給体制を構築し、1961年5月に販売が打ち切られてもいる。1961年1月に大日本化成株式会社を設立して石油系有機合成事業へ進出し、1964年5月には米国 Celanese Corporation との合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立して、工業用プラスチック"ジュラコン"を製造した

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた

石油化学への進出は、既存の原料系統が行き詰まった末の判断だった。酢酸原料を自給するため石灰石とカーバイドを手がけアセチレン系有機合成へ伸びてきたが、カーバイドの品不足と電力コストの上昇で増産に限界が見え始めていた。1961年1月16日に創立総会を開いた大日本化成は全額出資の別会社とされ、西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、岩国に隣接する広島県大竹市に第一期22億円で建設された。別会社形式をとったのは原料源をカーバイド系から石油化学系へ転換する際のリスクを切り離すためで、増資を重ねて将来は本体が吸収合併する見込みだと当時から報じられている1968年6月の合併はこの筋書き通りの帰結である。

  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた
参考文献[28]-[42]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた
  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた

第2章 1966年〜 寡占製品への選択と集中昌谷忠の2割減員から酢酸・特殊樹脂の寡占へ

筆者考察y.sugiura, author

ダイセルの1970年代は、作るものを増やした時期ではなく、誰と作るかを決め直した時期だった。無配に落ちた1970年11月期の直後に三井銀行から来た昌谷忠がまず削ったのは設備ではなく人で、800人という約2割の縮小が1973年3月期の復配を用意した。次に手を付けたのが酢酸の原料である。石油危機でエチレンとナフサが高騰したとき、メタノール法への転換に要るプラントは年20万〜30万トンと自社の必要量を超えていた。そこで三菱瓦斯化学など4社を誘って協同酢酸を作り、利益の出ない生産会社に量だけを担わせ、製品は出資比率で分けて持ち帰らせた。規模の要る工程は共同で持ち、売る場面では競うという分け方である。

1980年代の久保田美文は、その分け方を商品の選別にまで広げた。参入して3社以上になるものはやらない、年商は30億円以下でよい、粗利益率30%を下回るなら投資しない。大きい市場を避けるこの基準は、数量で譲る代わりに値決めで譲らない場所を選ぶという宣言でもあった。酢酸セルロースで国内シェア85%、たばこフィルター用トウで50%を持ちながら、残る三菱アセテートの原料までを供給する形もその延長にある。汎用樹脂を採らずに残した特殊樹脂は、1984年9月期に売上高400億円・経常利益90億円を上げるポリプラスチックスとなり、売上高1,800億円の親会社の利益に並んだ。

売上高(単体) 1971年5月期〜1985年3月期(億円)

404 71.5 638 74.3 1,001 77.3 1,252 80.3 1,543 83.3 1,721 85.3

1966年〜三井銀行から迎えた社長による低収益体質の切開

1966年2月、商号を大日本セルロイドからダイセルへ改めた。1968年6月には、全額出資で切り離していた大日本化成を吸収合併し、その工場を大竹工場(広島県)とした。有機合成事業は、酢酸セルロースの原料である酢酸を自給する目的で生まれ、そこから拡大してきた。酢酸の製法は、1961年に石油化学の勃興を背景として、カーバイドから起こすアセチレン系を離れ、エチレンからアセトアルデヒドを経る石油系へ移り、さらにナフサの直接酸化法へ移った。1970年7月には西ドイツのヒュルス社との合弁でダイセル・ヒュルスを設立している。1974年3月期の部門別売上高は有機合成品が38.1%、セルロースおよびフィルターが27.3%、プラスチックスが21.5%を占め、社名の由来だったセルロイドの系統より酢酸の系統が大きくなっていた

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1966年2月 商号を大日本セルロイドからダイセルへ変更
    • [44]1968年6月 大日本化成を吸収合併し、同社工場を大竹工場(広島県)とした
    • [47]1970年7月 Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [45]酢酸を中心とする有機合成事業は酢酸セルロースの原料酢酸の自給を目的として生まれ、拡大・成長してきた
    • [48]昭和49年3月期の部門別売上高構成は有機合成品38.1%、セルロースおよびフィルター27.3%、プラスチックス21.5%、フィルム10.4%
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [46]昭和11年から酢酸の自家製造を開始、当初はカーバイドからアセチレン・アセトアルデヒドを経る製法。昭和36年に石油化学の勃興を背景としてエチレン法アセトアルデヒドへ転換し、さらにナフサ直接酸化法へ切り替えた

昌谷忠がダイセルの社長に就いたのは、2月末の株主総会においてである。その直前の1971年1月30日付で、専務を務めていた三井銀行を退いていた。就任を挟む決算は厳しく、合成グリセリン設備の稼働に伴う赤字が見込みを超えて膨らみ、1970年11月期は配当を出せなかった。続く1971年5月期も、売上高404億円に対して経常利益は4.7億円、当期純利益は0.3億円という水準だった。前任の山脇義勇は会長となっている。昌谷は1933年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入り、ニューヨーク支店長、大阪支店長を経て1969年5月に専務へ進んだ人物である。次期頭取の有力候補と目された専務が無配会社へ移ったことを、関係筋は格落ちも甚だしいと不審がったという。無配の根底にあったのは、その赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことである

  • 月刊経済 1971年
    • [49]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
    • [52]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
    • [54]「ポスト小山」の最右翼といわれた実力派が無配会社へ転出したことを、関係筋は「格落ちも甚しい」と不審がった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [50]昭和45年11月期、予想以上に大きくなった合成グリセリンの操業時赤字によって無配となった
    • [55]無配の根底には、赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことがあると昌谷社長は述べた
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [51]1971年5月期 売上高404億円・経常利益4.7億円・当期純利益0.3億円(単体)
  • 新日本経済 1971年
    • [53]昌谷忠は昭和8年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入行、ニューヨーク支店長・大阪支店長を経て昭和44年5月に専務就任

就任から半年のあいだに、昌谷は機構を改め、常務2人を退任させ、役員報酬を引き下げた。昌谷はその狙いを、『この場合額が問題ではなく精神的に我々がまっ先に会社の非常時に対処するという意欲を示すことが大切だと思います』と説明している。低収益の根は労務構成にあった。生産性も賃金も低かった時代の構成から出発したために人を多く使う経営となり、賃金が急に上がる局面で耐える力が乏しく、配当した年でも配当性向が高かった。1971年秋、労働組合と全従業員の理解を得て、800人、約2割に及ぶ人員の縮小を実施した。1973年3月期に8分で復配し、同年9月期には1割へ増配している。同期の経常利益は20億円まで戻った設備ではなく人員を削減したのは、セルロイドという労働集約の事業で作られた体が、化学工業の賃金水準に合わなくなっていたからである。

  • 新日本経済 1971年
    • [56]昌谷社長は就任から半年で機構を改革し、常務2名を退任させ、役員報酬を引き下げた
    • [57]昌谷社長は役員報酬の引き下げについて、額の多少ではなく非常時に経営陣がまっ先に対処する意欲を示すことが大切だと説明した
    • [58]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
    • [59]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [60]昭和46年秋、労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割に及ぶ人員の縮少を実施
    • [61]昭和48年3月期に8分で復配、同年9月期に1割へ増配
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [62]1973年3月期 経常利益20億円(単体・1972年6月〜1973年3月の変則決算)
参考文献[43]-[62]
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1966年2月 商号を大日本セルロイドからダイセルへ変更
    • [44]1968年6月 大日本化成を吸収合併し、同社工場を大竹工場(広島県)とした
    • [47]1970年7月 Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [45]酢酸を中心とする有機合成事業は酢酸セルロースの原料酢酸の自給を目的として生まれ、拡大・成長してきた
    • [48]昭和49年3月期の部門別売上高構成は有機合成品38.1%、セルロースおよびフィルター27.3%、プラスチックス21.5%、フィルム10.4%
    • [50]昭和45年11月期、予想以上に大きくなった合成グリセリンの操業時赤字によって無配となった
    • [55]無配の根底には、赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことがあると昌谷社長は述べた
    • [60]昭和46年秋、労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割に及ぶ人員の縮少を実施
    • [61]昭和48年3月期に8分で復配、同年9月期に1割へ増配
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [46]昭和11年から酢酸の自家製造を開始、当初はカーバイドからアセチレン・アセトアルデヒドを経る製法。昭和36年に石油化学の勃興を背景としてエチレン法アセトアルデヒドへ転換し、さらにナフサ直接酸化法へ切り替えた
  • 月刊経済 1971年
    • [49]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
    • [52]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
    • [54]「ポスト小山」の最右翼といわれた実力派が無配会社へ転出したことを、関係筋は「格落ちも甚しい」と不審がった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [51]1971年5月期 売上高404億円・経常利益4.7億円・当期純利益0.3億円(単体)
    • [62]1973年3月期 経常利益20億円(単体・1972年6月〜1973年3月の変則決算)
  • 新日本経済 1971年
    • [53]昌谷忠は昭和8年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入行、ニューヨーク支店長・大阪支店長を経て昭和44年5月に専務就任
    • [56]昌谷社長は就任から半年で機構を改革し、常務2名を退任させ、役員報酬を引き下げた
    • [57]昌谷社長は役員報酬の引き下げについて、額の多少ではなく非常時に経営陣がまっ先に対処する意欲を示すことが大切だと説明した
    • [58]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
    • [59]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった

1977年〜メタノール法への原料転換と、同業4社を巻き込んだ共同生産

1980年、酢酸の原料を石油系のエチレンとナフサから天然ガス系のメタノールへ切り替えた。石油を原料にも燃料にも使う日本の化学会社は、第1次・第2次の石油危機でエチレンとナフサの値が跳ね上がると国際的な競争力を失い、そろって赤字を出した。自家製の酢酸は、1936年に製造を始めた当初は石灰石から得るカーバイドを原料とし、1960年代に石油系へ移っていた。メタノール法への転換は以前から検討の対象だった。1974年時点の判断は、これを将来の酢酸製造の本流と見つつも、規模が最低で年10万トン単位になる以上、一気に量を増やせば業界を乱しかねず、設備費も高騰しているとして着手を見送るものだった。一方で米国のモンサント社とは数年前から接触しており、実施に移す用意はいつでもできていた。同社からの基礎技術の導入は、三菱瓦斯化学と組んで行った

  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [63]第1次・第2次石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰のため酢酸の原料をメタノールに切り替え、昭和55年にメタノール法酢酸設備を完成
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [64]日本の化学会社の大部分は石油を原料とし大量の石油を燃料として使うため、第1次・第2次石油ショックによる原燃料価格の高騰で国際競争力を失い、需要減退・過当競争・採算悪化からほとんどの会社が赤字に陥った
    • [65]昭和11年から酢酸の自社生産を開始、当初は石灰石(カーバイド)から製造し、30年代に原料を石油系(エチレン)へ切り替えた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [66]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
    • [67]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [68]メタノール法の基礎技術は米国モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、自社独自の精製装置を付加した

メタノール法へ切り替える際、経済的なプラントの規模が年20万〜30万トンと自社の必要量を大きく超えたため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社へ呼びかけ、1977年7月に協同酢酸を設立した。出資比率はダイセルが54%で、製品は各社が比率に応じて分割して持ち帰る形とし、協同酢酸には利益が出ない仕組みにした。設備は網干第2工場として1978年6月から1980年1月にかけて総工事費170億円で建設され、一酸化炭素年産10万トン、水素7千トン、酢酸15万トンの規模を備えた。一酸化炭素とメタノールをロジウムなどの触媒で低温低圧のまま反応させる工程で、酢酸の収率は99%に達し、コストは在来法より20〜25%低くなる見込みだった。1981年6月の増強で年産22万5千トンとなり、国内の酢酸生産の約半分を占めた

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1977年7月 協同酢酸を三菱瓦斯化学・電気化学工業・協和醗酵工業・チッソとの合弁で設立
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [70]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
    • [71]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [72]協同酢酸は網干工場に酢酸プラントを建設し、製品は各社が出資比率に応じて分割して持ち帰るため、協同酢酸には利益が出ない
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [73]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
    • [74]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
    • [75]昭和56年6月に年産能力22万5千トンへ増強、増設後はわが国の酢酸生産シェア約50%を占める

網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模にあった。生産能力は年産8万8,800トン、国内シェアは85%で、米国のイーストマンとセラニーズに並ぶ世界3大メーカーの一つとなる。たばこフィルター用トウは1954年から日本専売公社と共同研究を進め、1957年初めに完成してショート・ホープ用を国内で初めて生産した。1984年には国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%がダイセル製だった。トウそのもののシェアは50%で、もう一社の三菱アセテートが使う酢酸セルロースも全量をダイセルが供給していた。1979年10月には商号をダイセル化学工業へ改めている同業を1社残したまま、その原料の位置で優位を握る構造が出来上がっていた。

  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [76]網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [77]酢酸セルロースは生産能力年産8万8,800トン、業界シェア85%で、米国のイーストマン・セラニーズと並ぶ世界3大メーカーの一つ
    • [80]たばこフィルター用トウは年産2万1,600トンで業界シェア50%、同業の三菱アセテートが使う原料の酢酸セルロースは全量を自社が供給
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [78]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
    • [79]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1979年10月 商号をダイセル化学工業へ変更
参考文献[63]-[81]
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [63]第1次・第2次石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰のため酢酸の原料をメタノールに切り替え、昭和55年にメタノール法酢酸設備を完成
    • [70]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
    • [71]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
    • [77]酢酸セルロースは生産能力年産8万8,800トン、業界シェア85%で、米国のイーストマン・セラニーズと並ぶ世界3大メーカーの一つ
    • [80]たばこフィルター用トウは年産2万1,600トンで業界シェア50%、同業の三菱アセテートが使う原料の酢酸セルロースは全量を自社が供給
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [64]日本の化学会社の大部分は石油を原料とし大量の石油を燃料として使うため、第1次・第2次石油ショックによる原燃料価格の高騰で国際競争力を失い、需要減退・過当競争・採算悪化からほとんどの会社が赤字に陥った
    • [65]昭和11年から酢酸の自社生産を開始、当初は石灰石(カーバイド)から製造し、30年代に原料を石油系(エチレン)へ切り替えた
    • [72]協同酢酸は網干工場に酢酸プラントを建設し、製品は各社が出資比率に応じて分割して持ち帰るため、協同酢酸には利益が出ない
    • [78]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
    • [79]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [66]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
    • [67]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [68]メタノール法の基礎技術は米国モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、自社独自の精製装置を付加した
    • [73]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
    • [74]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
    • [75]昭和56年6月に年産能力22万5千トンへ増強、増設後はわが国の酢酸生産シェア約50%を占める
    • [76]網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1977年7月 協同酢酸を三菱瓦斯化学・電気化学工業・協和醗酵工業・チッソとの合弁で設立
    • [81]1979年10月 商号をダイセル化学工業へ変更

1982年〜堺工場の事故と、参入3社以内という商品選別の基準

1982年8月21日、堺工場で大きな事故が起きた。被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売する状態となり、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業が止まった。事故による営業損失は約5億円に達した。従業員6名が殉職し、その弔慰金や近隣の復旧にかかった費用など約10億円の特別償却と合わせて、損害は約15億円に上っている。フィルター部門は10月8日に再開してフル操業へ戻り、ABS樹脂は日本合成ゴムとの合弁形式で生産を続け、AS樹脂は堺以外の場所へ自前の設備を建てる計画とした。1983年3月期の売上高は1,543億円で前年度を17億円下回ったが、経常利益は65億円と8億円増えた。損害はその期のうちにすべて償却し、1割配当を継続している

  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [82]昭和57年8月21日 堺工場で大きな事故が発生
    • [83]事故の被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業停止
    • [84]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
    • [85]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
    • [86]フィルター部門は10月8日に再開しフル操業、ABS樹脂は日本合成ゴムと合弁形式で生産、AS樹脂は堺以外の場所に自前の設備を建設する計画
    • [88]事故による経済的損害は昭和57年度ですべて償却し、当期利益30億5,100万円で1割配当を継続
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [87]1983年3月期 売上高1,543億円(前年度比17億円減)・経常利益65億円(前年度比8億円増)

久保田美文社長は、投資する商品を3つの条件で選り分けた。参入して作り手が3社以上になる商品はやらないこと、年間売上高が100〜200億円の商品より30億円以下の商品群を選ぶこと、粗利益率が30%以上でなければ投資しないことの3つである。久保田はこの基準を『ホームランよりもヒットを狙え。小さな事業でヒットを打てないような者にホームランを打てるわけがない』と言い換えて従業員へ伝えた。化学業界が構造改善期に入って方向転換を迫られるなか、素材型から機能型へを掲げ、成長産業向けの新規素材へ資源を寄せた。1982年度の有機ファイン製品は96品目のうち独占商品が38品目で売上高56億円、シェア第1位が36品目で72億円を上げた。1971年度比で品目数は3倍、売上高は49億円から182億円へ増えている。スペシャリティ製品が売上高に占める比率は63.7%となり、1986年には独占・寡占製品群が全売上高の65%を占めた

  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [89]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
    • [90]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
    • [91]久保田社長は従業員に対し「ホームランよりもヒットを狙え」と説いていた
    • [92]化学業界が大きな構造改善期に直面するなか、「素材型から機能型へ」をスローガンに技術立社・ハイテクノロジーを掲げ、先端技術・成長産業分野に焦点を合わせた新規高機能素材・商品の開発強化に徹する方針を採った
    • [93]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
    • [94]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
    • [95]スペシャリティ製品の売上高に占める比率は全体で63.7%
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
    • [96]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占める

高度成長期に化学各社の多くが汎用樹脂を選んだのに対し、ダイセルは特殊樹脂の路線をとった。その中核をなすポリプラスチックスは、国内のポリアセタール樹脂市場の75%を押さえていた。原料がメタノールなので、石油の値上がりに振り回されにくかった。同社はダイセルと米国のセラニーズ社の合弁として1964年に生まれ、出資はダイセル55%、セラニーズ45%で、工場を静岡県富士市に構えた。売り込みに立つ人員はおおむね技術者だった。需要家と組んで作業を進めたのは、企画や設計に取りかかる時点からである。1984年9月期の同社の数字は売上高400億円、経常利益90億円で、同年度の親会社の見込み(売上高1,800億円、経常利益97億円)と利益ではほぼ肩を並べた。ダイセル・セイフティ・システムズの設立は1988年10月である作り手の少ない製品を選ぶという基準は、樹脂の外側にも当てられていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [97]高度成長時代に化学会社の多くが汎用樹脂路線を選んだのに対し、当社は特殊樹脂路線をとった
    • [98]ポリアセタール樹脂はメタノールを原料とする合成樹脂のため石油価格高騰の影響を受けず、国内市場の75%を占める
    • [99]ポリプラスチックスは昭和39年に米国セラニーズ社との合弁で設立、出資比率は当社55%・セラニーズ45%、工場は静岡県富士市
    • [100]ポリプラスチックスのセールスマンはほとんどが技術者で、企画・設計の段階から需要家と一緒に作業する
    • [101]ポリプラスチックスの昭和59年9月期は売上高400億円・経常利益90億円。親会社は昭和59年度に売上高1,800億円・経常利益97億円を見込む
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズを設立
参考文献[82]-[102]
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [82]昭和57年8月21日 堺工場で大きな事故が発生
    • [83]事故の被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業停止
    • [84]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
    • [85]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
    • [86]フィルター部門は10月8日に再開しフル操業、ABS樹脂は日本合成ゴムと合弁形式で生産、AS樹脂は堺以外の場所に自前の設備を建設する計画
    • [88]事故による経済的損害は昭和57年度ですべて償却し、当期利益30億5,100万円で1割配当を継続
    • [89]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
    • [90]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
    • [91]久保田社長は従業員に対し「ホームランよりもヒットを狙え」と説いていた
    • [92]化学業界が大きな構造改善期に直面するなか、「素材型から機能型へ」をスローガンに技術立社・ハイテクノロジーを掲げ、先端技術・成長産業分野に焦点を合わせた新規高機能素材・商品の開発強化に徹する方針を採った
    • [93]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
    • [94]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
    • [95]スペシャリティ製品の売上高に占める比率は全体で63.7%
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [87]1983年3月期 売上高1,543億円(前年度比17億円減)・経常利益65億円(前年度比8億円増)
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
    • [96]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占める
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [97]高度成長時代に化学会社の多くが汎用樹脂路線を選んだのに対し、当社は特殊樹脂路線をとった
    • [98]ポリアセタール樹脂はメタノールを原料とする合成樹脂のため石油価格高騰の影響を受けず、国内市場の75%を占める
    • [99]ポリプラスチックスは昭和39年に米国セラニーズ社との合弁で設立、出資比率は当社55%・セラニーズ45%、工場は静岡県富士市
    • [100]ポリプラスチックスのセールスマンはほとんどが技術者で、企画・設計の段階から需要家と一緒に作業する
    • [101]ポリプラスチックスの昭和59年9月期は売上高400億円・経常利益90億円。親会社は昭和59年度に売上高1,800億円・経常利益97億円を見込む
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズを設立

第3章 1990-2007 (気が向いたら執筆します!) 液晶用フィルム・アセテートトウとキラル分離、中国合弁と事業分社

第4章 2008-2026 (気が向いたら執筆します!) ダイセル式生産革新とSDI買収、ポリプラスチックスの完全子会社化

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1919〜2022年

ダイセルの沿革1919〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1965年大日本セルロイドの設立とセルロース化学の確立大日本セルロイドとして創立★★
神崎工場(兵庫県)においてセロハンの製造開始
写真フィルム部を分離、富士写真フイルム設立★★
新井工場(新潟県)設置、有機合成事業開始
東京証券取引所に上場
網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)において酢酸セルロース事業開始
播磨工場(兵庫県)設置、発射薬の製造開始
結城鉄雄堺工場(大阪府、2008年3月廃止)において、アセテート・トウの製造開始
結城鉄雄大日本化成を設立
結城鉄雄石油系有機合成事業に参入
山脇義勇Celanese Corporationとの合弁でポリプラスチックスを設立★★
1966〜1989年寡占製品への選択と集中山脇義勇商号をダイセルに商号変更
山脇義勇大日本化成を吸収合併、同社工場を大竹工場(広島県)に
山脇義勇Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
昌谷忠協同酢酸を三菱瓦斯化学、電気化学工業、協和醗酵工業、チッソとの合弁で設立
昌谷忠商号をダイセル化学工業に商号変更
昌谷忠中央研究所を移転し総合研究所を新設
昌谷忠Daicel (U.S.A.), Inc.設立
昌谷忠ポリプラスチックスが、Taiwan Engineering PlasticsをHoechst・長春との合弁で設立
昌谷忠ダイセル・セイフティ・システムズ設立
昌谷忠Daicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現Daicel (Asia) Pte. Ltd.)設立
1990〜2007年液晶用フィルム・アセテートトウとキラル分離、中国合弁と事業分社昌谷忠網干工場で液晶用フィルム酢酸セルロース・アセテートトウの製造を開始★★
昌谷忠Chiral Technologies, Inc.を設立
昌谷忠Xi'an Huida Chemical Industries Co., Ltd.を陜西中煙工業公司との合弁で設立
昌谷忠大同商工に資本参加
昌谷忠セパレーション事業を分社しダイセン・メンブレン・システムズを設立
昌谷忠ダイセルパックシステムズ営業開始。(成型容器製品事業を大同商工と事業統合)
昌谷忠ダイセルバリューコーティング営業開始。(フィルム事業の分社)
小川大介大竹工場においてアセテート・トウの製造開始
2008〜2026年ダイセル式生産革新とSDI買収、ポリプラスチックスの完全子会社化小川大介堺工場を閉鎖
小川大介自社で作り上げた生産方式の全社展開と、現場運営の作り替え

ダイセル化学工業が網干工場(兵庫県)で確立した独自の生産革新"ダイセル式生産革新(SPS)"を、プロセス産業版のカイゼンとして体系化した経営判断。2005年から横河電機と協業で外部提供を開始し、2008年3月には経済産業省が報告書にまとめた。方式の生みの親であった小河義美氏が2018年に社長へ就任し、グループ全社へ広げた。

詳細を読む
★★★
札場操商号をダイセルに商号変更
札場操Special Devices, Inc.を買収
札場操Daicel ChemTech, Inc.設立
札場操総合研究所と姫路技術本社をイノベーション・パークに集約
札場操Daicel Safety Systems India Pvt. Ltd.を設立
小河義美ダイセルミライズ営業開始。(樹脂事業の再編)
小河義美ポリプラスチックスを完全子会社化★★
小河義美ポリプラスチックスが、DP Engineering Plastics (Nantong) Co., Ltd.設立
小河義美ダイセルビヨンド操業開始
出典・参考 15件
出典・参考
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
  • 野田経済 1961年2月27日号
  • 日本経済新報 1962年
  • 月刊経済 1971年
  • 新日本経済 1971年
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」

免責事項およびポリシー