大日本セルロイドの創立は、業界が自ら選んだ統合ではなかった。第1次大戦後の反動不況で、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産が後発を加えて35万〜40万ポンドまで膨らみ、売り競争で各社が疲弊したところへ、台湾総督府専売局が原料樟脳の一手供給を統合の条件として示した。原料の蛇口を握る側が合同の形を決めたのであり、堺48%という比率も三井が推した森田茂吉という社長の人選も、その枠の中で決まっている。発足の翌年には4工場のうち3工場を閉じ、280名を解雇し、資本金を1,250万円から1,000万円へ落とした。合同で得たはずの規模は、発足から2年のうちにいったん失われている。
この会社が積み上げたのは工場ではなく、セルロースを化学的に扱う技術だった。硝酸で処理すればセルロイドと写真フィルムになり、酢酸で処理すれば燃えないフィルムとアセテート繊維になり、苛性ソーダで溶かせばセロハンになる。1934年に切り離した写真フィルム部が富士写真フイルムとして育ったのも、1951年に網干で始めた酢酸セルロースが後の主力になったのも、同じ幹から出た枝である。そして原料の酢酸を自給しようという1933年の判断が有機合成へ広がり、カーバイドの品不足に行き当たった末、1961年の大日本化成設立で石油化学へ届いた。処理に使う薬品を替えるたびに、扱える市場が一つずつ増えていったのである。
網干工場の源流は三菱が出資した日本セルロイド人造絹糸株式会社、堺工場の源流は三井が出資した堺セルロイドである。両社はともに1908年に生まれた。原料を国内で得やすく、輸出でも見込みがあるという点が、セルロイドに目を向けさせた。網干側を起こしたのは鈴木商店の金子直吉で、人絹に将来性を見ていた。そのためセルロイドをつくる傍ら、硝化綿を使う人絹の研究も進めさせたものの、事業化までは届かなかった。1914年に欧州大戦が始まると輸出向けのセルロイドは好況に沸き、同じ時期に6社が新たに加わった。これら8社がまとまって大日本セルロイド株式会社となったのが1919年9月で、資本金は1,250万円だった。9月8日の創立総会は大阪ホテルが会場となり、本社には大阪府堺市が選ばれた。
合同は業界が自ら選んだ道というより、追い込まれた末の決着だった。第1次大戦の終結で世界的にセルロイド需要が減る一方、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発各社を加えて35万〜40万ポンドに膨らんでおり、供給過剰から販売競争が激化して業界は疲弊していた。堺セルロイド専務の森田茂吉が台湾総督府専売局長に相談したところ、専売局は有力各社が一社に統合されるなら原料樟脳を一手に供給すると決め、これが合同を動かす決定打となる。交渉は合同比率と幹部の人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・残る4社が計8%、社長は三井側が推す森田で決着した。
新会社は発足するや事業場の整理に迫られた。設備が劣り生産原価の高い工場を切る方針で、三国は一時閉鎖、能登屋と十河は生地製造をしない条件で加工場専業として売り戻し、東洋の工場も売却して、堺・網干・神崎・東京の4工場で操業を開始する。1920年9月と1921年2月の二度にわたって従業員280名を解雇し、常勤取締役は報酬を半分に、他の取締役と監査役は無報酬とした。従業員も2年間は昇給も賞与もなしとされた。こうした措置は、翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を次々に閉じ、どうにか動き続けたのが堺工場だけという事態を受けたものである。250万円の損失金を抱えた同社は1921年12月の株主総会で資本金を1,000万円に減らし、これを境にその後の社業は順調に伸びた。
1929年に始めたラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造は、国内のプラスチック工業の先駆けとなった。昭和期の同社は、セルロイドの原料となる硝化綿で培った技術を土台にセルロース事業を広げていた。包装材料にも手を広げ、1932年6月には兵庫県の神崎工場でセロハンの生産に入り、1934年1月には写真フィルム部を切り離して富士写真フイルム株式会社(現富士フイルムホールディングス)を設けている。1935年9月には新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始し、セルロース系から有機合成系への事業拡張を始めた。当時の有機合成はアセテート繊維の原料を自給するための原料源確保にとどまり、主力事業と呼べる位置にはなかった。
1930年代半ば、同社のセルロイド生地は品質でも製造量でも世界一となり、40数カ国へ輸出されるに至った。1921年、同社は粗製乱売を防ぐ狙いで全国の主要業者20社と共同販売所を設けており、のちに政府が定めた「工業組合法」はこの自主的な統制を手本に骨格が組まれたと自社史は記す。販売の基盤はその流れを受け継いで育ち、代理店や加工業者との結びつきは親子に近い関係にまで深まった。東京の寺島界わいと大阪の今里界わいは「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として根づいた。1937〜38年ごろには同社が国内セルロイド生産量の8割を握り、日本の生産量は世界の43%に及んでいた。
創立の翌年から続けてきた国産ロールフィルムの研究は1934年に工業化へ至り、写真フィルム部はその年に富士写真フイルムとして独立した。ただ、分離が決まるまでには社内に異論があった。10数年かけてきた成果を社内で結実させたいとの声は根強かったが、すでに完成の域にあるセルロイドに比べ、写真フィルムは最先端の精緻な化学工業に属し、造り方も売り方も別の手法を要すると判断されて、1933年11月に別会社の設立が決まった。同じ1933年に着手が決まった酢酸綿では、原料の酢酸をカーバイドから一貫して造って自前でまかない、関連する薬品の開発も併せて進める方針を定めた。自社史はこれを有機合成事業の起源と位置づける。
空襲と敗戦で多大の被害をこうむった同社は、1948年にアセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた。アセテートは原料の醋酸やアセトンの生産が遅れて戦前は工業化に至らず、戦後になって帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが相次いで乗り出した分野である。1949年5月、東京証券取引所(現株式会社東京証券取引所)に上場した。1951年6月に網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始、1954年1月に播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始した。発射薬づくりは後にエアバッグインフレータ事業を支える火薬技術につながり、戦後民需転換の中で蓄積された技術資産が数十年後に自動車安全部品の中核事業へとつながった。
1956年には大日本プラスチック株式会社を設立して樹脂事業を拡張した。1958年8月には堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始。その製造技術は1961年9月に米イーストマン・コダック社と結んだ技術契約によるもので、たばこフィルター用トウは当時から独占生産品だった。もっとも酢酸繊維素の大口需要家だった帝人が自給体制を構築し、1961年5月に販売が打ち切られてもいる。1961年1月に大日本化成株式会社を設立して石油系有機合成事業へ進出し、1964年5月には米国 Celanese Corporation との合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立して、工業用プラスチック"ジュラコン"を製造した。
石油化学への進出は、既存の原料系統が行き詰まった末の判断だった。酢酸原料を自給するため石灰石とカーバイドを手がけアセチレン系有機合成へ伸びてきたが、カーバイドの品不足と電力コストの上昇で増産に限界が見え始めていた。1961年1月16日に創立総会を開いた大日本化成は全額出資の別会社とされ、西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、岩国に隣接する広島県大竹市に第一期22億円で建設された。別会社形式をとったのは原料源をカーバイド系から石油化学系へ転換する際のリスクを切り離すためで、増資を重ねて将来は本体が吸収合併する見込みだと当時から報じられている。1968年6月の合併はこの筋書き通りの帰結である。
ダイセルの1970年代は、作るものを増やした時期ではなく、誰と作るかを決め直した時期だった。無配に落ちた1970年11月期の直後に三井銀行から来た昌谷忠がまず削ったのは設備ではなく人で、800人という約2割の縮小が1973年3月期の復配を用意した。次に手を付けたのが酢酸の原料である。石油危機でエチレンとナフサが高騰したとき、メタノール法への転換に要るプラントは年20万〜30万トンと自社の必要量を超えていた。そこで三菱瓦斯化学など4社を誘って協同酢酸を作り、利益の出ない生産会社に量だけを担わせ、製品は出資比率で分けて持ち帰らせた。規模の要る工程は共同で持ち、売る場面では競うという分け方である。
1980年代の久保田美文は、その分け方を商品の選別にまで広げた。参入して3社以上になるものはやらない、年商は30億円以下でよい、粗利益率30%を下回るなら投資しない。大きい市場を避けるこの基準は、数量で譲る代わりに値決めで譲らない場所を選ぶという宣言でもあった。酢酸セルロースで国内シェア85%、たばこフィルター用トウで50%を持ちながら、残る三菱アセテートの原料までを供給する形もその延長にある。汎用樹脂を採らずに残した特殊樹脂は、1984年9月期に売上高400億円・経常利益90億円を上げるポリプラスチックスとなり、売上高1,800億円の親会社の利益に並んだ。
1966年2月、商号を大日本セルロイドからダイセルへ改めた。1968年6月には、全額出資で切り離していた大日本化成を吸収合併し、その工場を大竹工場(広島県)とした。有機合成事業は、酢酸セルロースの原料である酢酸を自給する目的で生まれ、そこから拡大してきた。酢酸の製法は、1961年に石油化学の勃興を背景として、カーバイドから起こすアセチレン系を離れ、エチレンからアセトアルデヒドを経る石油系へ移り、さらにナフサの直接酸化法へ移った。1970年7月には西ドイツのヒュルス社との合弁でダイセル・ヒュルスを設立している。1974年3月期の部門別売上高は有機合成品が38.1%、セルロースおよびフィルターが27.3%、プラスチックスが21.5%を占め、社名の由来だったセルロイドの系統より酢酸の系統が大きくなっていた。
昌谷忠がダイセルの社長に就いたのは、2月末の株主総会においてである。その直前の1971年1月30日付で、専務を務めていた三井銀行を退いていた。就任を挟む決算は厳しく、合成グリセリン設備の稼働に伴う赤字が見込みを超えて膨らみ、1970年11月期は配当を出せなかった。続く1971年5月期も、売上高404億円に対して経常利益は4.7億円、当期純利益は0.3億円という水準だった。前任の山脇義勇は会長となっている。昌谷は1933年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入り、ニューヨーク支店長、大阪支店長を経て1969年5月に専務へ進んだ人物である。次期頭取の有力候補と目された専務が無配会社へ移ったことを、関係筋は格落ちも甚だしいと不審がったという。無配の根底にあったのは、その赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことである。
就任から半年のあいだに、昌谷は機構を改め、常務2人を退任させ、役員報酬を引き下げた。昌谷はその狙いを、『この場合額が問題ではなく精神的に我々がまっ先に会社の非常時に対処するという意欲を示すことが大切だと思います』と説明している。低収益の根は労務構成にあった。生産性も賃金も低かった時代の構成から出発したために人を多く使う経営となり、賃金が急に上がる局面で耐える力が乏しく、配当した年でも配当性向が高かった。1971年秋、労働組合と全従業員の理解を得て、800人、約2割に及ぶ人員の縮小を実施した。1973年3月期に8分で復配し、同年9月期には1割へ増配している。同期の経常利益は20億円まで戻った。設備ではなく人員を削減したのは、セルロイドという労働集約の事業で作られた体が、化学工業の賃金水準に合わなくなっていたからである。
1980年、酢酸の原料を石油系のエチレンとナフサから天然ガス系のメタノールへ切り替えた。石油を原料にも燃料にも使う日本の化学会社は、第1次・第2次の石油危機でエチレンとナフサの値が跳ね上がると国際的な競争力を失い、そろって赤字を出した。自家製の酢酸は、1936年に製造を始めた当初は石灰石から得るカーバイドを原料とし、1960年代に石油系へ移っていた。メタノール法への転換は以前から検討の対象だった。1974年時点の判断は、これを将来の酢酸製造の本流と見つつも、規模が最低で年10万トン単位になる以上、一気に量を増やせば業界を乱しかねず、設備費も高騰しているとして着手を見送るものだった。一方で米国のモンサント社とは数年前から接触しており、実施に移す用意はいつでもできていた。同社からの基礎技術の導入は、三菱瓦斯化学と組んで行った。
メタノール法へ切り替える際、経済的なプラントの規模が年20万〜30万トンと自社の必要量を大きく超えたため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社へ呼びかけ、1977年7月に協同酢酸を設立した。出資比率はダイセルが54%で、製品は各社が比率に応じて分割して持ち帰る形とし、協同酢酸には利益が出ない仕組みにした。設備は網干第2工場として1978年6月から1980年1月にかけて総工事費170億円で建設され、一酸化炭素年産10万トン、水素7千トン、酢酸15万トンの規模を備えた。一酸化炭素とメタノールをロジウムなどの触媒で低温低圧のまま反応させる工程で、酢酸の収率は99%に達し、コストは在来法より20〜25%低くなる見込みだった。1981年6月の増強で年産22万5千トンとなり、国内の酢酸生産の約半分を占めた。
網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模にあった。生産能力は年産8万8,800トン、国内シェアは85%で、米国のイーストマンとセラニーズに並ぶ世界3大メーカーの一つとなる。たばこフィルター用トウは1954年から日本専売公社と共同研究を進め、1957年初めに完成してショート・ホープ用を国内で初めて生産した。1984年には国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%がダイセル製だった。トウそのもののシェアは50%で、もう一社の三菱アセテートが使う酢酸セルロースも全量をダイセルが供給していた。1979年10月には商号をダイセル化学工業へ改めている。同業を1社残したまま、その原料の位置で優位を握る構造が出来上がっていた。
1982年8月21日、堺工場で大きな事故が起きた。被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売する状態となり、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業が止まった。事故による営業損失は約5億円に達した。従業員6名が殉職し、その弔慰金や近隣の復旧にかかった費用など約10億円の特別償却と合わせて、損害は約15億円に上っている。フィルター部門は10月8日に再開してフル操業へ戻り、ABS樹脂は日本合成ゴムとの合弁形式で生産を続け、AS樹脂は堺以外の場所へ自前の設備を建てる計画とした。1983年3月期の売上高は1,543億円で前年度を17億円下回ったが、経常利益は65億円と8億円増えた。損害はその期のうちにすべて償却し、1割配当を継続している。
久保田美文社長は、投資する商品を3つの条件で選り分けた。参入して作り手が3社以上になる商品はやらないこと、年間売上高が100〜200億円の商品より30億円以下の商品群を選ぶこと、粗利益率が30%以上でなければ投資しないことの3つである。久保田はこの基準を『ホームランよりもヒットを狙え。小さな事業でヒットを打てないような者にホームランを打てるわけがない』と言い換えて従業員へ伝えた。化学業界が構造改善期に入って方向転換を迫られるなか、素材型から機能型へを掲げ、成長産業向けの新規素材へ資源を寄せた。1982年度の有機ファイン製品は96品目のうち独占商品が38品目で売上高56億円、シェア第1位が36品目で72億円を上げた。1971年度比で品目数は3倍、売上高は49億円から182億円へ増えている。スペシャリティ製品が売上高に占める比率は63.7%となり、1986年には独占・寡占製品群が全売上高の65%を占めた。
高度成長期に化学各社の多くが汎用樹脂を選んだのに対し、ダイセルは特殊樹脂の路線をとった。その中核をなすポリプラスチックスは、国内のポリアセタール樹脂市場の75%を押さえていた。原料がメタノールなので、石油の値上がりに振り回されにくかった。同社はダイセルと米国のセラニーズ社の合弁として1964年に生まれ、出資はダイセル55%、セラニーズ45%で、工場を静岡県富士市に構えた。売り込みに立つ人員はおおむね技術者だった。需要家と組んで作業を進めたのは、企画や設計に取りかかる時点からである。1984年9月期の同社の数字は売上高400億円、経常利益90億円で、同年度の親会社の見込み(売上高1,800億円、経常利益97億円)と利益ではほぼ肩を並べた。ダイセル・セイフティ・システムズの設立は1988年10月である。作り手の少ない製品を選ぶという基準は、樹脂の外側にも当てられていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1919〜1965年大日本セルロイドの設立とセルロース化学の確立 | 大日本セルロイドとして創立 | ★★ | ||
| 神崎工場(兵庫県)においてセロハンの製造開始 | ★ | |||
| 写真フィルム部を分離、富士写真フイルム設立 | ★★ | |||
| 新井工場(新潟県)設置、有機合成事業開始 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)において酢酸セルロース事業開始 | ★ | |||
| 播磨工場(兵庫県)設置、発射薬の製造開始 | ★ | |||
| 結城鉄雄 | 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)において、アセテート・トウの製造開始 | ★ | ||
| 結城鉄雄 | 大日本化成を設立 | ★ | ||
| 結城鉄雄 | 石油系有機合成事業に参入 | ★ | ||
| 山脇義勇 | Celanese Corporationとの合弁でポリプラスチックスを設立 | ★★ | ||
| 1966〜1989年寡占製品への選択と集中 | 山脇義勇 | 商号をダイセルに商号変更 | ★ | |
| 山脇義勇 | 大日本化成を吸収合併、同社工場を大竹工場(広島県)に | ★ | ||
| 山脇義勇 | Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | 協同酢酸を三菱瓦斯化学、電気化学工業、協和醗酵工業、チッソとの合弁で設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | 商号をダイセル化学工業に商号変更 | ★ | ||
| 昌谷忠 | 中央研究所を移転し総合研究所を新設 | ★ | ||
| 昌谷忠 | Daicel (U.S.A.), Inc.設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | ポリプラスチックスが、Taiwan Engineering PlasticsをHoechst・長春との合弁で設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | ダイセル・セイフティ・システムズ設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | Daicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現Daicel (Asia) Pte. Ltd.)設立 | ★ | ||
| 1990〜2007年液晶用フィルム・アセテートトウとキラル分離、中国合弁と事業分社 | 昌谷忠 | 網干工場で液晶用フィルム酢酸セルロース・アセテートトウの製造を開始 | ★★ | |
| 昌谷忠 | Chiral Technologies, Inc.を設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | Xi'an Huida Chemical Industries Co., Ltd.を陜西中煙工業公司との合弁で設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | 大同商工に資本参加 | ★ | ||
| 昌谷忠 | セパレーション事業を分社しダイセン・メンブレン・システムズを設立 | ★ | ||
| 昌谷忠 | ダイセルパックシステムズ営業開始。(成型容器製品事業を大同商工と事業統合) | ★ | ||
| 昌谷忠 | ダイセルバリューコーティング営業開始。(フィルム事業の分社) | ★ | ||
| 小川大介 | 大竹工場においてアセテート・トウの製造開始 | ★ | ||
| 2008〜2026年ダイセル式生産革新とSDI買収、ポリプラスチックスの完全子会社化 | 小川大介 | 堺工場を閉鎖 | ★ | |
| 小川大介 | 自社で作り上げた生産方式の全社展開と、現場運営の作り替え ダイセル化学工業が網干工場(兵庫県)で確立した独自の生産革新"ダイセル式生産革新(SPS)"を、プロセス産業版のカイゼンとして体系化した経営判断。2005年から横河電機と協業で外部提供を開始し、2008年3月には経済産業省が報告書にまとめた。方式の生みの親であった小河義美氏が2018年に社長へ就任し、グループ全社へ広げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 札場操 | 商号をダイセルに商号変更 | ★ | ||
| 札場操 | Special Devices, Inc.を買収 | ★ | ||
| 札場操 | Daicel ChemTech, Inc.設立 | ★ | ||
| 札場操 | 総合研究所と姫路技術本社をイノベーション・パークに集約 | ★ | ||
| 札場操 | Daicel Safety Systems India Pvt. Ltd.を設立 | ★ | ||
| 小河義美 | ダイセルミライズ営業開始。(樹脂事業の再編) | ★ | ||
| 小河義美 | ポリプラスチックスを完全子会社化 | ★★ | ||
| 小河義美 | ポリプラスチックスが、DP Engineering Plastics (Nantong) Co., Ltd.設立 | ★ | ||
| 小河義美 | ダイセルビヨンド操業開始 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ダイセル)