積水化学工業の最初の24年は、原料を持たない会社が、原料を持つ会社と同じ土俵に立たされ続けた時間である。日本窒素肥料が朝鮮半島の工場を失って抱えた余剰人員を資本金10万円の別会社へ移したところから始まったこの会社には、石油化学から降りてくる樹脂を買って加工する以外の道が無かった。だから日本で初めてという製品を並べ続けた。硬質塩化ビニル管で金属パイプを置き換え、合わせガラス用の中間膜を作り、発泡ポリスチレンペーパーを第三の紙と名づけて北米へ持ち込んだ。売上高を15年で58倍にしたのはその連打であり、ソニー・本田技研と並べて語られたのもその勢いによる。同時にそれは、新製品が一つ止まれば全体が止まる構造でもあった。
1965年の赤字は、真似のできない製品が真似のできる製品へ変わる速さを読み違えた結果であった。塩化ビニルパイプにも波板にも後続が入って値が崩れ、北米ではダウとモンサントが同じ紙を作った。資本金を半分に減らし、旭化成から来た小幡謙三が工場の売却と同時に取り組んだのは、社長にノーと言える職場をつくり直すことだった。そして住宅である。合理化で浮いた人員を、設計図も引けないまま新事業へ送り込んだのは、余った人の行き先を探した結果でもあり、専門家を雇う余裕が無かった結果でもある。住宅の常識を持たない集団が、住宅を工場生産物として設計した。積水化学の次の30年を決めたのは、その知らなさであった。
積水化学工業は、1947年3月に日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)の一部従業員がプラスチックの総合事業化を計画し、積水産業株式会社として発足した。敗戦により朝鮮半島の工場を失った日本窒素は、国内工場で吸収しきれない余剰人員を別会社に収容して引揚者を救済する道を選び、その受け皿の一つが積水産業であった。当初の資本金は10万円にすぎず、設立と同時に化学工業技術の研究機関として京都化学研究所も置いた。設立翌年の1948年1月には日本窒素から奈良工場を譲り受け、わが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始すると同時に、積水化学工業株式会社へ商号を変更した。同年8月には大阪工場を新設した。総合化学会社の多くが石油化学から多角化したのに対し、原料を持たない加工の専業として出発した出自が、その後の事業構造を方向づけた。
最初に売れたのはプラスチックテープで、1949年の暮れごろから注文が伸びた。1951年9月に上野次郎男氏が社長に就任すると、積極的な拡大策のもとで急成長に転じた。1952年に完成した京都工場では硬質塩化ビニル管の製造を始め、錆びて詰まる金属パイプを置き換えていった。1953年3月に大阪証券取引所へ、翌1954年4月に東京証券取引所へ株式を上場した。1953年9月に東京工場を新設して関東での生産を持ち、1956年6月に設けた中央研究所が次の品種を生み出す場となった。1960年には滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプと塩化ビニル建材の製造を、滋賀水口工場でポリビニルブチラールと合わせガラス用中間膜の製造を始めた。原料を持たない加工専業が採った道は、新しい素材でしか作れない製品を先に世へ出し、後続との差を開き続けることであった。
1962年7月、積水化学は武蔵工場でプラスチックテープと塩化ビニルテープの生産を始め、1964年1月には徳山積水工業を設立して塩化ビニル樹脂の製造に乗り出した。原料から成型品まで一貫して手がける体制がここで整った。加工専業にとって樹脂価格の変動は利益を直撃し、川上へ遡る投資はその変動を自社の内側へ取り込む手だてであった。増資を重ねた資本金は85.5億円に達し、売上高は創業から15年で58倍に伸びた。1964年には戦後の急成長企業として、ソニー・本田技研と並べて語られるまでになった。ひとつの技術を開発してその利潤の上に安んじることは加工という業態では許されず、首位の座は常に次の新製品でしか守れなかった。それが、この会社の強さと自己資本の薄さを同時に生んだ。
1965年、積水化学は赤字を計上して成長企業の座から脱落した。主力の塩化ビニルパイプと波板には他社が相次いで参入して過剰生産と値下がりを招き、業界は1965年9月に不況カルテルの認可を受けるまでに需給が崩れた。北米へ進出した発泡ポリスチレンペーパー事業も、ダウやモンサントといった現地大手化学会社の追い上げに遭った。1966年3月期の売上高は178億7,600万円と前期並みにとどまり、経常損失6億9,000万円を計上した。老朽不要資産の廃棄や大阪旭工場の売却に伴う損失を含めて特別損失は約51億円に達し、資本準備金・利益準備金・任意積立金を全額取り崩してもなお約19億5,000万円の繰越損失が残った。上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた。
1967年3月、旧日本窒素グループの旭化成から小幡謙三氏が再建のために送り込まれた。小幡氏は不採算部門の整理売却を進め、赤字が累積した大阪旭工場は1965年末に撤退を発表したうえで、1966年3月に大阪市との土地売却契約が成立した。北米で発泡ポリスチレンペーパーを手がけたアメリカ積水からも撤退した。そして同年7月、損失を資本で埋めて配当できる状態へ戻す荒療治として、資本金を半分に減らす半額減資に踏み切り、資本金は42億7,500万円となった。1967年3月期は売上高210億6,900万円、経常利益7億7,600万円まで戻したものの、繰越損失はなお44億円余にのぼっていた。二年で大きな負債を消却し、復配にこぎ着けた。
不振が続くなかで社員の士気は落ち、各人の創造的な動きを抑え込む傾向が強まっていた。小幡氏の手当ては、損益の立て直しにとどまらなかった。1966年に各工場で全社員参加の品質管理グループ活動を始め、交替勤務を終えた班ごとに話し合いの場を持ち、成型機から出てくる製品のばらつきの原因を前工程まで遡って突き止めた。指示された作業を指示どおりにこなせば足りるという職場の雰囲気は、この活動で改まった。1966年9月期は売上高193億4,000万円で前期比8.2%増、経常利益は3億8,000万円となり、再建計画は当初の見込みを超えた。上野時代を後年振り返った小幡氏の言葉が『当時の上野次郎男社長は偉すぎたんだな。旺盛な事業家精神でぐんぐん引っぱっていく。それが過ぎると周りの人間は誰もノーと言えなくなってしまう。言いたいことも言えず、やりたいこともやれずになって、それで会社がダメになっていくんですよ』である。相互信頼を掲げて率直な発言を促した再建は、数字の立て直し以上に、ものが言える組織をつくり直す作業であった。
1969年10月の常務会で住宅産業への参入が決まったが、系列にいた住宅専業の積水ハウスは独自工法の仕上げで手一杯だったため、担い手は化学の側になった。発端は、1年ほど前から社内で進んでいた、浴室や便所といった水まわりをユニットにして売り出す研究で、その先に住宅を丸ごと工場で作るという構想が見えてきた。さかのぼれば、当時の社長の小幡謙三氏が自宅を建てたとき、現場で組み立てる工法に無駄が多いと身にしみたことが出発点である。部屋の単位で工場から量産すれば、工期は短く、原価も安い住宅になる。ひさしもない箱を並べたような試作品を見て、小幡氏本人もこれを買う人がいるのかと首をかしげたという。それでも方向の正しさには確信があった。
新事業へ振り向けられたのは、外から雇った専門家ではなく社内で浮いた人員であった。1965年の不況でプラスチック業界が停滞し無配に転落した直後であり、合理化で余った人を収容する新規部門という位置づけだったため、外部からの採用は初めから考えられなかった。設計図を引ける社員は一人もいなかった。各部門から人を出させるにあたっては、住宅部門の人集めとは知らせずに人事の考課表を提出させ、そこから精鋭を抜いた。この人選に当たったのは、のちに社長となる当時の人事部長、藤沼基利氏である。リストを出した部長たちは住宅部門の人集めとは知らされておらず、いわばだまし討ちであった。ユニット工法を東京大学大学院生の大野勝彦氏の研究に見いだしたのも、住宅を工場生産物として捉えるメーカーの感覚であり、業界の常識を持たなかったからこそ踏み切れた。
1971年2月、積水化学は鉄骨系ユニット住宅セキスイハイムの販売を開始した。同年4月には武蔵工場で本格生産に入り、10月に奈積工業を、翌1972年3月にサンエスハイム製作所を設立して製造拠点を確保した。塩化ビニルパイプや建材で積み上げた量産工場の運営経験を、住宅という最終消費財へ移した事業であった。現場施工に依存する在来工法に対し、工場で躯体を作って品質と工期を管理する方式は、後発で参入する会社が既存の大手と違う土俵を選ぶ手でもあった。売り先も流通も既存事業とは異なり、社内に販売の蓄積は無い。営業は代理店に頼らず自社で直接売る体制を採り、商品を最もよく知る当人が売るほかなかった。のちに住宅が売上高の過半を占める会社になる転換は、この1971年から始まった。
積水化学工業が住宅で採った道は、家を建てる商売ではなく、家を作る工場を回す商売だった。土地で儲ける才覚が無かったと藤沼基利は言ったが、土地を持たないと決めた時点で、利益の源は工期と部材の数に限られる。だから釘1本にコードを振り、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流し、3分半に1ユニットを出すラインを組んだ。9年で516億円、半年で70億円という削減額は、住宅メーカーの数字というより自動車工場の数字である。工業化率8割という比率は、この商売の設計図そのものだった。阪神大震災で全半壊が1件も出なかったことも、工場で作った躯体の精度がそのまま現れた結果である。
だが工場を回す商売は、作るものを絞るほど強くなる。積水化学は所得五分位の第3分位に狙いを定め、他社が上下20万円の幅で商品を並べるところを10万円に収めた。絞ったから安く作れ、安く作れたから中間層で競争優位を得た。1997年のワルツは、その論理を最後まで進めた商品である。年5000戸というヒットは市場から取ったのではなく、隣に並ぶ自社のドマーニから取った。単価2100万円が単価2800万円を置き換えれば、戸数が同じでも売上高は減る。上場から45年目に初めて通期の営業赤字を出した理由は、売れなかったからではなく、売れたものが安かったからである。
1973年10月の第4次中東戦争に始まる石油危機は、原料を買って加工する積水化学を正面から直撃した。主原料の塩化ビニル樹脂は1キロ60円だったものが1973年8月には110円となり、闇値では400円とも言われた。高圧ポリエチレンも1973年1月の1キロ95円から12月には157円へ、65%上がった。加工メーカーの間では合成樹脂の争奪戦が起き、樹脂加工で首位に立つ積水化学は供給責任を果たすため採算を無視した緊急輸入に踏み切ったが、一部製品は生産中止を余儀なくされた。1974年3月期の売上高は原材料の値上げを製品価格へ転嫁して923億円へ跳ね上がったものの、総需要抑制策が効くと1975年3月期は売上高829億円、経常利益1億0100万円と、1966年9月期以来の最悪の決算になった。
柴田健三氏が社長に就いた1973年、積水化学は組織を組み替えた。同年10月、本社に広報部と東京支社、開発本部と技術本部を置き、事業本部制を採って第1・第2・住宅の3事業本部に束ね、あわせて国際事業本部を新設した。各事業部が個別に進めてきた海外進出を全社の戦略として束ねる意図であった。1960年代に日本企業として初めて米国へ工場進出したアメリカ積水は失敗に終わったが、マーケティングを先に置くこと、生産と販売の第一線には現地の人材を使うことという教訓を残していた。1974年6月にスイスのツーグへ資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGを置いてヨーロッパの統括会社とし、1975年9月には合弁相手の持ち株をすべて買い取ってボルテック社を全面支配下に入れ、その運営には米国人を起用した。
既存部門が縮むなかで、伸びたのは住宅だけであった。1973年9月期の住宅部門の売上高は82億円強と前期より40億円増え、1974年3月期には2,200戸を売って120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を超えた。1974年9月期には既存部門の売上高が前期比80億円減の708億円に落ちる一方で、住宅部門は182億円と62億円伸び、受注戸数は1万棟を突破して大手プレハブ5社に次ぐ位置に着けた。企業体質の改善のため大型設備投資を抑えていた時期に、住宅だけが唯一の例外として先行投資を認められていた。社史はその成長の理由を、需要層を絞り切ったこと、資金と人材を思い切って投じたこと、既存部門が優秀な人材を出し惜しまなかったことの三つに求めている。1974年4月にハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた際の入居者調査では、満足率が他社製品の3〜4割に対し7割であった。
1979年6月、藤沼基利氏が社長に就任した。積水化学として5代目、初の生え抜きであり、社歴の大半を人事・労務で過ごした人物である。住宅事業が採った基本方針は、土地で儲けないことであった。積水化学は合理的な価格帯に狙いを定め、原価を下げる道を選んだ。1970年代に住宅・不動産へ入ってきた企業の多くが、地価上昇による売買差益を当てにしたのとは逆の方向である。藤沼氏はその理由を、土地で儲ける才覚がなかったからだと説明する。地価は自社の努力でどうにかなる部分が小さく、だから土地の取得には踏み込まない、という考え方が土台にあった。顧客層は所得五分位の第3分位に置き、年収の3倍ほどで手が届く住宅という当初の線を崩さなかった。おかげで、含み損のある土地を抱え込まずに済んでいる。
販売の仕組みも既存事業とは別に組まれた。家庭雑貨なら問屋経由で小売店に並べれば売れる。だが住宅は注文の中身が込み入っており、商品のイメージが市場に行き渡るまでは、中身を一番知っている者が自ら売るほかなかった。このため代理店を通さず直接売る体制をとり、顧客の要望が生産の現場へ戻ってくる道筋をつくった。住宅部門の営業だけは賃金の仕組みを別にし、決まった額の残業手当に歩合を加えた。残業続きの働き方が根付いたのは、何もしなければ会社は丸ごと縮んでいき、自分たちの行く先もなくなるという危機感を社内が抱いていたからだ、と藤沼氏は見ている。こうした体制の結果、土地を除いて1戸約1300万円という価格にたどり着いた。1980年度には年間販売が1万戸を超え、受注から入居までは約40日、工場生産の比率は80%を上回っていた。
量が積み上がる一方で、体力は付いてこなかった。1978年度の自己資本比率は9.7%で、樹脂加工17社平均の17.4%を大きく下回り、負債比率は929.9%に達していた。売上総利益率は17社平均の20.3%を上回る21.14%を確保しながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮していた。住宅部門は売上高の3割以上、利益の半分を稼ぐ存在に育っていたが、土地の負担を伴うため借入金の減少を止める側に働いた。1976年3月期に22億円の経常欠損を出してから4年で、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込むまでに戻したものの、借入金の重さは景気変動に弱い体質をそのまま残した。新規事業へ踏み込み続ける姿勢が、競争上の強さと自己資本の薄さを同時に作っていた。
積水化学の住宅が他社と違ったのは、工場で作る比率であった。他のプレハブメーカーの工業化率が5〜7割のところ、セキスイハイムは8割を超え、現場の作業はユニットの据え付けと内装の仕上げに限られた。関東の主力である東京ハイム工場には全長400メートルのラインが2本あり、約30の工程を経て3分半に1ユニットが生まれる。住宅1棟に使う部材は1万点以上に及ぶため、1983年に導入した部材管理システムが釘1本までコード化し、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流した。部品在庫は半減し納期は30%短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円の原価を削った。1994年4月に始めた削減計画は半年で70億円を削り、1995年3月期の中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高になった。
財テクでつまずいたのは、金融子会社のセキスイファイナンスである。救済にあたり、積水化学は無利子・無担保の資金を1200億円あまり同社に回した。つまり、損失の出どころは本業の外にあった。含み損は特別損失として償却され、1992年度が126億円、1993年度が250億円だった。残りの約400億円も1994年度のうちに片づける計画になっていた。コスト削減を本業でいくら厳しく進めても、金融収支に足を取られていては成果が届かない。西沢進社長のもとで金融子会社を整理し、貸付金を全額引き上げる方針が採られた。同じ時期、研究開発では技術職を1988年の900人から1993年に1300人へ増やし、1990年につくば市へ住宅総合研究所を設けて各地に分かれていた開発部隊を集めていた。効率を上げる側と、過去の穴を埋める側が同時に走っていた。
1997年、積水化学は3.3平方メートル当たり41万円からという価格でワルツを発売した。高額な住宅にしか付かなかった24時間換気や温水床暖房を標準仕様に入れながら、当時の主流商品より5万円以上安かった。消費税率の引き上げで持ち家の着工が前年度比3割減となった年に、この1商品だけで年間5000戸が売れた。ところが、ワルツが食ったのは他社ではなく自社の商品であった。他社が3.3平方メートル当たり上下20万円ほどの幅で商品を並べたのに対し、積水化学の幅は10万円しかない。1998年3月期、ワルツは全体の21.2%を占め、平均2800万円のドマーニは13.5%から6.5%へ、戸数で3700戸から1500戸へ半減した。住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円を頂点に2期続けて2割前後落ち、1999年3月期には1953年の上場以来初となる通期の営業赤字を見込むに至った。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1971年加工専業から住宅への事業転換 | 積水産業として発足 | ★★ | ||
| 奈良工場を新設 | ★ | |||
| プラスチック自動射出成型事業に参入 | ★★ | |||
| 積水化学工業に商号変更 | ★ | |||
| 上野次郎男 | 大阪証券取引所に上場 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 東京工場を新設、プラスチック成型品の製造を開始 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 中央研究所を新設 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 滋賀栗東工場を新設、塩化ビニルパイプ、塩化ビニル建材製品の製造を開始 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 滋賀水口工場を新設、ポリビニルブチラール、同中間膜の製造を開始 | ★ | ||
| 上野次郎男 | 新素材にかけた海外展開の挫折と、成長会社からの転落 1962年から1963年にかけて、積水化学工業は日本企業として先駆けて北米での現地生産に踏み切り、米ペンシルベニア州で独自開発の発泡ポリスチレンペーパー"第三の紙"の量産を開始した。上野次郎男社長が主導した海外進出であったが、現地大手との競争と技術の未完成から在庫を抱え、1965年の赤字計上と社長更迭に至った経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上野次郎男 | 1965年に赤字計上と社長更迭 | ★★ | ||
| 上野次郎男 | 徳山積水工業を設立、塩化ビニル樹脂の製造を開始 | ★ | ||
| 小幡謙三 | 鉄骨系ユニット住宅を武器にした新しい主力事業の立ち上げ 1971年2月、積水化学工業が鉄骨系ユニット住宅"セキスイハイム"を発売し、住宅事業へ参入した経営判断。塩化ビニルパイプや成型品の加工専業だった同社が、樹脂加工で培った量産の技術と、住宅一棟を工場で箱型に組み立てる"ユニット工法"を掛け合わせ、設計図を引ける社員が一人もいない"素人集団"で新市場を開拓した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小幡謙三 | 住宅事業に参入 | ★★ | ||
| 下田謙治 | 奈積工業を設立、ユニット住宅の製造を開始 | ★ | ||
| 1972〜1999年住宅への事業構造転換 | 下田謙治 | サンエスハイム製作所を設立、ユニット住宅の製造を開始 | ★ | |
| 柴田健三 | 事業本部制を導入 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 木質系ユニット住宅「ツーユーホーム」の販売を開始 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 群馬工場を新設、塩化ビニルパイプ、ユニット住宅外壁パネルの製造を開始 | ★ | ||
| 藤沼基利 | Sekisui America Corporationを設立 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 応用電子研究所を新設 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 住宅事業本部内に住宅綜合研究所を新設 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 京都技術センターを新設 | ★ | ||
| 藤沼基利 | 小松化成を子会社化 | ★ | ||
| 2000〜2010年3事業本部への再編とカンパニー制、IT向けフィルムとPVA樹脂の買収 | 大久保尚武 | 7事業本部を3事業本部に再編 | ★ | |
| 大久保尚武 | カンパニー制を導入 | ★ | ||
| 大久保尚武 | 第一化学薬品を子会社化 | ★★ | ||
| 大久保尚武 | 多賀工場を設立、IT分野向けのフィルム・テープ製品群の製造を開始 | ★ | ||
| 根岸修史 | Celanese Corporationの子会社からポリビニルアルコール樹脂事業を買収 | ★ | ||
| 2011〜2026年検査薬・管材・航空機部材の買収からペロブスカイト太陽電池の事業化まで | 根岸修史 | Genzyme Corporationから検査薬事業を買収 | ★ | |
| 根岸修史 | 三菱樹脂の管材事業を買収 | ★★ | ||
| 髙下貞二 | エーザイからエーディアを買収 | ★ | ||
| 髙下貞二 | ポリマテック・ジャパングループの経営権を取得 | ★ | ||
| 髙下貞二 | AIM Aerospaceを買収 | ★★ | ||
| 加藤敬太 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 清水郁輔 | 積水ソーラーフィルムを設立 | ★ | ||
| 清水郁輔 | ペロブスカイト太陽電池事業の運営を開始 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(積水化学工業)