積水化学工業 の歴史

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創業 1947年
創業者 上野次郎
創業地 大阪市北区
創業 1947年3月、日本窒素肥料の一部従業員がプラスチックの総合事業化を計画し、大阪
1947年3月、日本窒素肥料の一部従業員がプラスチックの総合事業化を計画し、大阪で資本金10万円の積水産業株式会社を発足させた。敗戦で朝鮮半島の工場を失った本体が吸収しきれない人員の行き先でもあり、石油化学から下りてくる総合化学各社と違って原料を持たなかった。1948年1月に奈良工場で日本初のプラスチック自動射出成型を始め、同月に積水化学工業へ商号を変更する。1960年には滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプ、水口工場でポリビニルブチラール中間膜の製造に入った。ただし1963年に始めた独自素材「第三の紙」による北米での現地生産は2年で在庫が滞り、1965年の赤字と社長の交代を招いている。
決断 事業の枠は25年変えず、中身を買収で足してきた。1971年2月、樹脂加工の量産技
事業の枠は25年変えず、中身を買収で足してきた。1971年2月、樹脂加工の量産技術とユニット工法を合わせた鉄骨系ユニット住宅「セキスイハイム」を発売し、化学会社が最終消費財である家を作る側へ回った。住宅は1994年3月期に売上の55.6%を占め、参入から23年で最大の事業になる。2000年3月に7事業本部を住宅・環境ライフライン・高機能プラスチックスの3本部へ再編し、翌2001年3月にカンパニー制へ改めて以降、この3区分を一度も統廃合していない。医薬・モビリティ・太陽電池はいずれも区分の外へ会社を足す形で入り、2006年の第一化学薬品、2019年の米AIM Aerospace、2025年の積水ソーラーフィルムがその例にあたる。買収した検査薬の各社は積水メディカルへ集約され、現在は売上937億円の報告セグメントとして開示されている。
現況 売上の4割は化学製品ではなく、家である。2026年3月期の連結売上高1兆3,09
売上の4割は化学製品ではなく、家である。2026年3月期の連結売上高1兆3,092億円のうち住宅は5,359億円を占め、セグメント利益371億円は全社営業利益1,064億円の3分の1にあたる。利益率で上に立つのは高機能プラスチックスで、売上4,517億円から593億円を上げ、13.1%は住宅の6.9%の2倍近い。合わせガラス用中間膜と車載材料を担うこの事業は、1960年11月に水口工場で始めたポリビニルブチラール中間膜に連なり、2009年に米セラニーズのグループ会社からポリビニルアルコール樹脂事業を取得して原料まで自社に置いた。原料を持たずに始めた会社が、中間膜では原料へ遡り、住宅では最終製品まで下りている。
競合 分けて出した住宅会社が、本体の3倍を売る会社になった。1960年8月、積水化学工
分けて出した住宅会社が、本体の3倍を売る会社になった。1960年8月、積水化学工業はハウス事業部を母体に積水ハウス産業を発足させ、初代社長は当時の積水化学工業社長が兼任した。1963年に代理店販売を廃して社員による直接販売へ切り替えた積水ハウスは現場で組む鉄骨軸組を採り、1971年に自ら参入した積水化学工業は工場でユニットを箱型に組み立てる工法を選ぶ。1992年度には戸建住宅の販売実績で両社が首位を争ったが、2026年1月期の積水ハウスの連結売上高4兆1,979億円に対し、積水化学工業は2026年3月期で1兆3,092億円である。住宅の外の開発と賃貸管理へ出た分社に対し、積水化学工業は住宅を4つの報告セグメントの一つに置き、高機能プラスチックスの利益率で全社の採算を支えている。
長期業績の推移 1949〜2026年
積水化学工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1947年〜 加工専業から住宅への事業転換日本窒素肥料の余剰人員からセキスイハイムへの転用

筆者考察y.sugiura, author

積水化学工業の最初の24年は、原料を持たない会社が、原料を持つ会社と同じ土俵に立たされ続けた時間である。日本窒素肥料が朝鮮半島の工場を失って抱えた余剰人員を資本金10万円の別会社へ移したところから始まったこの会社には、石油化学から降りてくる樹脂を買って加工する以外の道が無かった。だから日本で初めてという製品を並べ続けた。硬質塩化ビニル管で金属パイプを置き換え、合わせガラス用の中間膜を作り、発泡ポリスチレンペーパーを第三の紙と名づけて北米へ持ち込んだ。売上高を15年で58倍にしたのはその連打であり、ソニー・本田技研と並べて語られたのもその勢いによる。同時にそれは、新製品が一つ止まれば全体が止まる構造でもあった。

1965年の赤字は、真似のできない製品が真似のできる製品へ変わる速さを読み違えた結果であった。塩化ビニルパイプにも波板にも後続が入って値が崩れ、北米ではダウとモンサントが同じ紙を作った。資本金を半分に減らし、旭化成から来た小幡謙三が工場の売却と同時に取り組んだのは、社長にノーと言える職場をつくり直すことだった。そして住宅である。合理化で浮いた人員を、設計図も引けないまま新事業へ送り込んだのは、余った人の行き先を探した結果でもあり、専門家を雇う余裕が無かった結果でもある。住宅の常識を持たない集団が、住宅を工場生産物として設計した。積水化学の次の30年を決めたのは、その知らなさであった。

積水化学工業の売上高 1965年3月期〜1967年3月期(半期・単体)(億円)

189 65年3月期 179 65年9月期 179 66年3月期 193 66年9月期 210 67年3月期

1947年〜引揚者救済の受け皿から原料一貫体制までの事業基盤づくり

積水化学工業は、1947年3月に日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)の一部従業員がプラスチックの総合事業化を計画し、積水産業株式会社として発足した。敗戦により朝鮮半島の工場を失った日本窒素は、国内工場で吸収しきれない余剰人員を別会社に収容して引揚者を救済する道を選び、その受け皿の一つが積水産業であった。当初の資本金は10万円にすぎず、設立と同時に化学工業技術の研究機関として京都化学研究所も置いた。設立翌年の1948年1月には日本窒素から奈良工場を譲り受け、わが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始すると同時に、積水化学工業株式会社へ商号を変更した。同年8月には大阪工場を新設した総合化学会社の多くが石油化学から多角化したのに対し、原料を持たない加工の専業として出発した出自が、その後の事業構造を方向づけた。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1947年3月 日本窒素肥料(現・チッソ)の一部従業員がプラスチック総合事業化を計画し積水産業株式会社を発足
    • [4]1948年1月 奈良工場を(日本窒素から譲り受けて)新設し積水化学工業株式会社へ商号変更
    • [5]奈良工場でわが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [2]敗戦で朝鮮半島の工場を失った日本窒素が余剰人員を収容する別会社の一つとして積水化学を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [3]設立当初の資本金は10万円で、同時に研究機関として京都化学研究所を設置した
    • [6]1948年8月 大阪工場を設置

最初に売れたのはプラスチックテープで、1949年の暮れごろから注文が伸びた。1951年9月に上野次郎男氏が社長に就任すると、積極的な拡大策のもとで急成長に転じた。1952年に完成した京都工場では硬質塩化ビニル管の製造を始め、錆びて詰まる金属パイプを置き換えていった。1953年3月に大阪証券取引所へ、翌1954年4月に東京証券取引所へ株式を上場した。1953年9月に東京工場を新設して関東での生産を持ち、1956年6月に設けた中央研究所が次の品種を生み出す場となった。1960年には滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプと塩化ビニル建材の製造を、滋賀水口工場でポリビニルブチラールと合わせガラス用中間膜の製造を始めた原料を持たない加工専業が採った道は、新しい素材でしか作れない製品を先に世へ出し、後続との差を開き続けることであった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [7]1949年暮れごろから売れ始めたプラスチックテープがヒットし社業の基礎が固まった
    • [8]1951年9月 上野次郎男が社長に就任し積極拡大策で高度成長を遂げた
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [9]1952年 京都工場を完成させ硬質塩化ビニル管の製造に進み金属パイプを置き換えた
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1953年3月 大阪証券取引所に上場
    • [11]1954年4月 東京証券取引所に上場
    • [12]1953年9月 東京工場を新設
    • [13]1956年6月 中央研究所(現・開発研究所)を新設
    • [14]1960年8月 滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプ・塩化ビニル建材製品の製造を開始
    • [15]1960年11月 滋賀水口工場でポリビニルブチラール・合わせガラス用中間膜の製造を開始

1962年7月、積水化学は武蔵工場でプラスチックテープと塩化ビニルテープの生産を始め、1964年1月には徳山積水工業を設立して塩化ビニル樹脂の製造に乗り出した。原料から成型品まで一貫して手がける体制がここで整った。加工専業にとって樹脂価格の変動は利益を直撃し、川上へ遡る投資はその変動を自社の内側へ取り込む手だてであった。増資を重ねた資本金は85.5億円に達し、売上高は創業から15年で58倍に伸びた。1964年には戦後の急成長企業として、ソニー・本田技研と並べて語られるまでになった。ひとつの技術を開発してその利潤の上に安んじることは加工という業態では許されず、首位の座は常に次の新製品でしか守れなかったそれが、この会社の強さと自己資本の薄さを同時に生んだ。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1962年7月 武蔵工場でプラスチックテープ・塩化ビニルテープの製造を開始
    • [17]1964年1月 徳山積水工業を設立し塩化ビニル樹脂の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [18]増資を重ねて資本金は85.5億円、売上高は創業15年で58倍に伸長した
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [19]1964年に戦後の急成長企業として「ソニー、ホンダ、セキスイ」と並称された
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [20]樹脂加工という業態では一つの技術の創業者利潤の上に安閑とすることが不可能で、トップメーカーの地位を守るには常に新商品を開発して後続との差をつける必要があった
参考文献[1]-[20]
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1947年3月 日本窒素肥料(現・チッソ)の一部従業員がプラスチック総合事業化を計画し積水産業株式会社を発足
    • [4]1948年1月 奈良工場を(日本窒素から譲り受けて)新設し積水化学工業株式会社へ商号変更
    • [5]奈良工場でわが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始
    • [10]1953年3月 大阪証券取引所に上場
    • [11]1954年4月 東京証券取引所に上場
    • [12]1953年9月 東京工場を新設
    • [13]1956年6月 中央研究所(現・開発研究所)を新設
    • [14]1960年8月 滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプ・塩化ビニル建材製品の製造を開始
    • [15]1960年11月 滋賀水口工場でポリビニルブチラール・合わせガラス用中間膜の製造を開始
    • [16]1962年7月 武蔵工場でプラスチックテープ・塩化ビニルテープの製造を開始
    • [17]1964年1月 徳山積水工業を設立し塩化ビニル樹脂の製造を開始
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [2]敗戦で朝鮮半島の工場を失った日本窒素が余剰人員を収容する別会社の一つとして積水化学を設立した
    • [9]1952年 京都工場を完成させ硬質塩化ビニル管の製造に進み金属パイプを置き換えた
    • [19]1964年に戦後の急成長企業として「ソニー、ホンダ、セキスイ」と並称された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [3]設立当初の資本金は10万円で、同時に研究機関として京都化学研究所を設置した
    • [6]1948年8月 大阪工場を設置
    • [7]1949年暮れごろから売れ始めたプラスチックテープがヒットし社業の基礎が固まった
    • [8]1951年9月 上野次郎男が社長に就任し積極拡大策で高度成長を遂げた
    • [18]増資を重ねて資本金は85.5億円、売上高は創業15年で58倍に伸長した
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [20]樹脂加工という業態では一つの技術の創業者利潤の上に安閑とすることが不可能で、トップメーカーの地位を守るには常に新商品を開発して後続との差をつける必要があった

1964年〜成長企業からの転落と半額減資による再建

1965年、積水化学は赤字を計上して成長企業の座から脱落した。主力の塩化ビニルパイプと波板には他社が相次いで参入して過剰生産と値下がりを招き、業界は1965年9月に不況カルテルの認可を受けるまでに需給が崩れた。北米へ進出した発泡ポリスチレンペーパー事業も、ダウやモンサントといった現地大手化学会社の追い上げに遭った。1966年3月期の売上高は178億7,600万円と前期並みにとどまり、経常損失6億9,000万円を計上した。老朽不要資産の廃棄や大阪旭工場の売却に伴う損失を含めて特別損失は約51億円に達し、資本準備金・利益準備金・任意積立金を全額取り崩してもなお約19億5,000万円の繰越損失が残った上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた

  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [21]1965年 赤字を計上して成長企業の座から脱落した
    • [23]主力の塩ビパイプ・波板への他社参入による過剰生産・値下がりと、北米進出した発泡ポリスチレンペーパー事業のダウ・モンサント等との競合で苦境に陥った
    • [26]上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [22]1965年9月 塩ビ業界全体の生産過剰に対し不況カルテル(生産カルテル)が認可され需給調整の役割を果たした
    • [24]1966年3月期 売上高178億7,600万円(ほぼ前期並み)、経常損失6億9,000万円
    • [25]1966年3月期の特別損失は約51億円(老朽不要資産の廃棄除却、旭工場売却に伴う固定資産売却除去損約4億円、棚卸資産処分損約3億円を含む)。資本準備金・利益準備金・任意積立金の全額を取り崩して約11億円を充当してもなお次期繰越損失は約19億5,000万円

1967年3月、旧日本窒素グループの旭化成から小幡謙三氏が再建のために送り込まれた。小幡氏は不採算部門の整理売却を進め、赤字が累積した大阪旭工場は1965年末に撤退を発表したうえで、1966年3月に大阪市との土地売却契約が成立した。北米で発泡ポリスチレンペーパーを手がけたアメリカ積水からも撤退した。そして同年7月、損失を資本で埋めて配当できる状態へ戻す荒療治として、資本金を半分に減らす半額減資に踏み切り、資本金は42億7,500万円となった。1967年3月期は売上高210億6,900万円、経常利益7億7,600万円まで戻したものの、繰越損失はなお44億円余にのぼっていた。二年で大きな負債を消却し、復配にこぎ着けた

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [27]1967年3月 旭化成から小幡謙三が再建のために派遣された
    • [32]半額減資を断行して二年で負債を消却し復配した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [28]赤字累積工場として1965年末に撤退を発表した大阪旭工場は1966年3月に大阪市との間で土地売却契約が成立した
    • [30]1967年7月の半額減資により資本金は42億7,500万円となった
    • [31]1967年3月期 売上高210億6,900万円・経常利益7億7,600万円。なお44億円余の損失金を次期へ繰り越した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [29]SPC(アメリカ積水)を設立した米国進出から撤退した

不振が続くなかで社員の士気は落ち、各人の創造的な動きを抑え込む傾向が強まっていた。小幡氏の手当ては、損益の立て直しにとどまらなかった。1966年に各工場で全社員参加の品質管理グループ活動を始め、交替勤務を終えた班ごとに話し合いの場を持ち、成型機から出てくる製品のばらつきの原因を前工程まで遡って突き止めた。指示された作業を指示どおりにこなせば足りるという職場の雰囲気は、この活動で改まった。1966年9月期は売上高193億4,000万円で前期比8.2%増、経常利益は3億8,000万円となり、再建計画は当初の見込みを超えた。上野時代を後年振り返った小幡氏の言葉が『当時の上野次郎男社長は偉すぎたんだな。旺盛な事業家精神でぐんぐん引っぱっていく。それが過ぎると周りの人間は誰もノーと言えなくなってしまう。言いたいことも言えず、やりたいこともやれずになって、それで会社がダメになっていくんですよ』である。相互信頼を掲げて率直な発言を促した再建は、数字の立て直し以上に、ものが言える組織をつくり直す作業であった。

  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [33]業績不振が社員の士気低下をもたらし一人一人の創造的活動を阻む傾向が強かった
    • [34]1966年 各工場で全社員参加のQC(総合品質管理)グループ改善活動が開始され、交替勤務後にグループごとのミーティングで前工程へ原因を追及した
    • [35]決められた仕事を決められたとおりやればよいという従来の職場の雰囲気が変わった
    • [36]1966年9月期 売上高193億4,000万円余(前期比8.2%増)、経常利益3億8,000万円。所期の計画を上回った
参考文献[21]-[36]
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [21]1965年 赤字を計上して成長企業の座から脱落した
    • [23]主力の塩ビパイプ・波板への他社参入による過剰生産・値下がりと、北米進出した発泡ポリスチレンペーパー事業のダウ・モンサント等との競合で苦境に陥った
    • [26]上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [22]1965年9月 塩ビ業界全体の生産過剰に対し不況カルテル(生産カルテル)が認可され需給調整の役割を果たした
    • [24]1966年3月期 売上高178億7,600万円(ほぼ前期並み)、経常損失6億9,000万円
    • [25]1966年3月期の特別損失は約51億円(老朽不要資産の廃棄除却、旭工場売却に伴う固定資産売却除去損約4億円、棚卸資産処分損約3億円を含む)。資本準備金・利益準備金・任意積立金の全額を取り崩して約11億円を充当してもなお次期繰越損失は約19億5,000万円
    • [28]赤字累積工場として1965年末に撤退を発表した大阪旭工場は1966年3月に大阪市との間で土地売却契約が成立した
    • [30]1967年7月の半額減資により資本金は42億7,500万円となった
    • [31]1967年3月期 売上高210億6,900万円・経常利益7億7,600万円。なお44億円余の損失金を次期へ繰り越した
    • [33]業績不振が社員の士気低下をもたらし一人一人の創造的活動を阻む傾向が強かった
    • [34]1966年 各工場で全社員参加のQC(総合品質管理)グループ改善活動が開始され、交替勤務後にグループごとのミーティングで前工程へ原因を追及した
    • [35]決められた仕事を決められたとおりやればよいという従来の職場の雰囲気が変わった
    • [36]1966年9月期 売上高193億4,000万円余(前期比8.2%増)、経常利益3億8,000万円。所期の計画を上回った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [27]1967年3月 旭化成から小幡謙三が再建のために派遣された
    • [32]半額減資を断行して二年で負債を消却し復配した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [29]SPC(アメリカ積水)を設立した米国進出から撤退した

1969年〜合理化で浮いた人員を振り向けたユニット住宅への参入

1969年10月の常務会で住宅産業への参入が決まったが、系列にいた住宅専業の積水ハウスは独自工法の仕上げで手一杯だったため、担い手は化学の側になった。発端は、1年ほど前から社内で進んでいた、浴室や便所といった水まわりをユニットにして売り出す研究で、その先に住宅を丸ごと工場で作るという構想が見えてきた。さかのぼれば、当時の社長の小幡謙三氏が自宅を建てたとき、現場で組み立てる工法に無駄が多いと身にしみたことが出発点である。部屋の単位で工場から量産すれば、工期は短く、原価も安い住宅になる。ひさしもない箱を並べたような試作品を見て、小幡氏本人もこれを買う人がいるのかと首をかしげたという。それでも方向の正しさには確信があった

  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [37]住宅産業への進出を決定したのは1969年10月の常務会
    • [38]専業の積水ハウスでという話もあったが、ハウスは独自工法の完成に追われていたため積水化学でやることになった
    • [39]進出決定の1年ほど前からバス・トイレなど水まわり設備をユニット化して事業化する研究が始まり、その延長線上に工場生産のユニット住宅が浮かんだ
    • [40]小幡謙三は自分で家を建てて現場施工のロスの多さを感じ、部屋までを工場で大量生産できれば工期が短縮されローコストで機能性の高い住宅ができると考えた
    • [41]試作品はひさしも何も無い、ただの箱を組み合わせたようなもので、小幡謙三はこんな家を買う人がいるのかと思った
    • [42]小幡謙三は試作品への不安にもかかわらず方向の正しさには絶対に確信があったと述べた

新事業へ振り向けられたのは、外から雇った専門家ではなく社内で浮いた人員であった。1965年の不況でプラスチック業界が停滞し無配に転落した直後であり、合理化で余った人を収容する新規部門という位置づけだったため、外部からの採用は初めから考えられなかった。設計図を引ける社員は一人もいなかった。各部門から人を出させるにあたっては、住宅部門の人集めとは知らせずに人事の考課表を提出させ、そこから精鋭を抜いた。この人選に当たったのは、のちに社長となる当時の人事部長、藤沼基利氏である。リストを出した部長たちは住宅部門の人集めとは知らされておらず、いわばだまし討ちであった。ユニット工法を東京大学大学院生の大野勝彦氏の研究に見いだしたのも、住宅を工場生産物として捉えるメーカーの感覚であり、業界の常識を持たなかったからこそ踏み切れた

  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [43]住宅事業ではスカウトを初めから考えず、合理化で浮いた人員を振り向けるための新規部門と考えていた
    • [44]1965年不況でプラスチック業界が停滞し積水化学も無配に転落した直後で、外から人を採用するどころの話ではなかった
    • [45]住宅事業の立ち上げ時、社内に設計図を引ける人間が1人もいなかった
    • [46]各部門の長にリストを出させるとエースが出てこないため、別の名目で人材の考課表を提出させ、これに基づいて精鋭をそろえた
    • [47]藤沼基利は当時人事部長としてこの人選に当たり、いわば「だまし討ち」だったが、それだけ真剣な人事だったと述べた
    • [48]当時東京大学大学院生だった大野勝彦が研究していたユニット工法に目をつけて事業化したのは、住宅を住宅屋の常識からではなく工場生産物として捉える素人ゆえの発想だった

1971年2月、積水化学は鉄骨系ユニット住宅セキスイハイムの販売を開始した。同年4月には武蔵工場で本格生産に入り、10月に奈積工業を、翌1972年3月にサンエスハイム製作所を設立して製造拠点を確保した。塩化ビニルパイプや建材で積み上げた量産工場の運営経験を、住宅という最終消費財へ移した事業であった。現場施工に依存する在来工法に対し、工場で躯体を作って品質と工期を管理する方式は、後発で参入する会社が既存の大手と違う土俵を選ぶ手でもあった。売り先も流通も既存事業とは異なり、社内に販売の蓄積は無い。営業は代理店に頼らず自社で直接売る体制を採り、商品を最もよく知る当人が売るほかなかったのちに住宅が売上高の過半を占める会社になる転換は、この1971年から始まった。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1971年2月 鉄骨系ユニット住宅「ハイム」の販売を開始し住宅事業に進出(沿革表記は「ハイム」)
    • [51]1971年10月 奈積工業(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
    • [52]1972年3月 サンエスハイム製作所(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [50]1971年4月 武蔵工場で「ハイム」の本格生産を開始
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [53]市場に商品のイメージが浸透するまでは商品を最もよく知る自分たち自身が直接売らねばならず、代理店に頼らない直販体制を中心にした
参考文献[37]-[53]
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [37]住宅産業への進出を決定したのは1969年10月の常務会
    • [38]専業の積水ハウスでという話もあったが、ハウスは独自工法の完成に追われていたため積水化学でやることになった
    • [39]進出決定の1年ほど前からバス・トイレなど水まわり設備をユニット化して事業化する研究が始まり、その延長線上に工場生産のユニット住宅が浮かんだ
    • [40]小幡謙三は自分で家を建てて現場施工のロスの多さを感じ、部屋までを工場で大量生産できれば工期が短縮されローコストで機能性の高い住宅ができると考えた
    • [41]試作品はひさしも何も無い、ただの箱を組み合わせたようなもので、小幡謙三はこんな家を買う人がいるのかと思った
    • [42]小幡謙三は試作品への不安にもかかわらず方向の正しさには絶対に確信があったと述べた
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [43]住宅事業ではスカウトを初めから考えず、合理化で浮いた人員を振り向けるための新規部門と考えていた
    • [44]1965年不況でプラスチック業界が停滞し積水化学も無配に転落した直後で、外から人を採用するどころの話ではなかった
    • [45]住宅事業の立ち上げ時、社内に設計図を引ける人間が1人もいなかった
    • [46]各部門の長にリストを出させるとエースが出てこないため、別の名目で人材の考課表を提出させ、これに基づいて精鋭をそろえた
    • [47]藤沼基利は当時人事部長としてこの人選に当たり、いわば「だまし討ち」だったが、それだけ真剣な人事だったと述べた
    • [48]当時東京大学大学院生だった大野勝彦が研究していたユニット工法に目をつけて事業化したのは、住宅を住宅屋の常識からではなく工場生産物として捉える素人ゆえの発想だった
    • [53]市場に商品のイメージが浸透するまでは商品を最もよく知る自分たち自身が直接売らねばならず、代理店に頼らない直販体制を中心にした
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1971年2月 鉄骨系ユニット住宅「ハイム」の販売を開始し住宅事業に進出(沿革表記は「ハイム」)
    • [51]1971年10月 奈積工業(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
    • [52]1972年3月 サンエスハイム製作所(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [50]1971年4月 武蔵工場で「ハイム」の本格生産を開始

第2章 1972年〜 住宅への事業構造転換セキスイハイムの量産化がワルツの自社競合を招くまで

筆者考察y.sugiura, author

積水化学工業が住宅で採った道は、家を建てる商売ではなく、家を作る工場を回す商売だった。土地で儲ける才覚が無かったと藤沼基利は言ったが、土地を持たないと決めた時点で、利益の源は工期と部材の数に限られる。だから釘1本にコードを振り、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流し、3分半に1ユニットを出すラインを組んだ。9年で516億円、半年で70億円という削減額は、住宅メーカーの数字というより自動車工場の数字である。工業化率8割という比率は、この商売の設計図そのものだった。阪神大震災で全半壊が1件も出なかったことも、工場で作った躯体の精度がそのまま現れた結果である。

だが工場を回す商売は、作るものを絞るほど強くなる。積水化学は所得五分位の第3分位に狙いを定め、他社が上下20万円の幅で商品を並べるところを10万円に収めた。絞ったから安く作れ、安く作れたから中間層で競争優位を得た。1997年のワルツは、その論理を最後まで進めた商品である。年5000戸というヒットは市場から取ったのではなく、隣に並ぶ自社のドマーニから取った。単価2100万円が単価2800万円を置き換えれば、戸数が同じでも売上高は減る。上場から45年目に初めて通期の営業赤字を出した理由は、売れなかったからではなく、売れたものが安かったからである。

積水化学工業の住宅事業の売上高 1997年3月期〜1999年3月期(1999年3月期は見込み)(億円)

4,884 97年3月期 4,021 98年3月期 3,176 99年3月期

1972年〜石油危機による原料逼迫と「量から質」への転換

1973年10月の第4次中東戦争に始まる石油危機は、原料を買って加工する積水化学を正面から直撃した。主原料の塩化ビニル樹脂は1キロ60円だったものが1973年8月には110円となり、闇値では400円とも言われた。高圧ポリエチレンも1973年1月の1キロ95円から12月には157円へ、65%上がった。加工メーカーの間では合成樹脂の争奪戦が起き、樹脂加工で首位に立つ積水化学は供給責任を果たすため採算を無視した緊急輸入に踏み切ったが、一部製品は生産中止を余儀なくされた。1974年3月期の売上高は原材料の値上げを製品価格へ転嫁して923億円へ跳ね上がったものの、総需要抑制策が効くと1975年3月期は売上高829億円、経常利益1億0100万円と、1966年9月期以来の最悪の決算になった

  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [54]1973年10月 第4次中東戦争の勃発とともにアラブ産油国がとった石油戦略が世界経済を一変させる危機的状況を招いた
    • [55]塩化ビニル樹脂は1971〜72年ごろの1キロ60円が1973年8月には110円、闇値では400円ともいわれた
    • [56]高圧ポリエチレンは1973年1月の1キロ95円が12月には157円へ65%値上がりした
    • [57]樹脂加工メーカー首位として供給責任を果たすため一部採算を無視して主要原料の緊急輸入を行なったが、結果的に一部製品の生産中止を余儀なくされた
    • [58]1973年9月期の売上高約695億円が1974年3月期には923億円へ増加した。原材料の大幅値上げを吸収するための製品価格引き上げと、限られた原料を付加価値の高い製品へ重点配分した結果
    • [59]1975年3月期 売上高829億円(前年同期比100億円近い減収)、経常利益1億0100万円、税引後利益3億7,300万円。1966年9月期以来の最悪決算

柴田健三氏が社長に就いた1973年、積水化学は組織を組み替えた。同年10月、本社に広報部と東京支社、開発本部と技術本部を置き、事業本部制を採って第1・第2・住宅の3事業本部に束ね、あわせて国際事業本部を新設した。各事業部が個別に進めてきた海外進出を全社の戦略として束ねる意図であった。1960年代に日本企業として初めて米国へ工場進出したアメリカ積水は失敗に終わったが、マーケティングを先に置くこと、生産と販売の第一線には現地の人材を使うことという教訓を残していた。1974年6月にスイスのツーグへ資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGを置いてヨーロッパの統括会社とし、1975年9月には合弁相手の持ち株をすべて買い取ってボルテック社を全面支配下に入れ、その運営には米国人を起用した

  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [60]1973年 柴田健三が社長に就任した
    • [61]1973年10月の組織改正で広報部の新設、東京支社の設置、開発本部・技術本部の設置を行ない、事業本部制を採用して第1事業本部・第2事業本部・住宅事業本部を設置、あわせて国際事業本部を新設した
    • [62]国際事業本部の新設は、従来各事業部が個別に行なってきた海外進出を全社的レベル・積水グループ全体の総合戦略として進めるためのものだった
    • [63]SPC(アメリカ積水)の失敗からは、何よりマーケティングを先行させること、生産・販売の第一線には現地の人材を活用すべきことという教訓を得て、その後の海外進出の基礎とした
    • [64]1974年6月 スイスのツーグ市に資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGが日本政府の正式認可を得て発足。積水化学・積水ハウス・積水化成品・積水樹脂の共同出資によるヨーロッパの国際統括会社
    • [65]1975年9月 ハイ・ボルテージ・エンジニアリング社が所有するボルテック社の全株式を買収して経営を全面的に引き受け、運営にはアメリカ人を起用して現地主義に徹した

既存部門が縮むなかで、伸びたのは住宅だけであった。1973年9月期の住宅部門の売上高は82億円強と前期より40億円増え、1974年3月期には2,200戸を売って120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を超えた。1974年9月期には既存部門の売上高が前期比80億円減の708億円に落ちる一方で、住宅部門は182億円と62億円伸び、受注戸数は1万棟を突破して大手プレハブ5社に次ぐ位置に着けた。企業体質の改善のため大型設備投資を抑えていた時期に、住宅だけが唯一の例外として先行投資を認められていた。社史はその成長の理由を、需要層を絞り切ったこと、資金と人材を思い切って投じたこと、既存部門が優秀な人材を出し惜しまなかったことの三つに求めている。1974年4月にハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた際の入居者調査では、満足率が他社製品の3〜4割に対し7割であった

  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [66]1974年9月期は第1・第2事業本部の既存部門が原料騰貴・原料逼迫・買控えムードのもとで低調に推移した
    • [67]1973年9月期の住宅部門売上高は82億円強(前期より40億円増)、1974年3月期は2,200戸を売って売上高120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を突破
    • [68]1974年9月期 既存事業部の売上高は708億円と前期比80億円減、住宅部門は182億円と前期より62億円増。発売以来の受注戸数は1万棟を突破し大手プレハブメーカー5社に次ぐ位置になった
    • [69]ハイム発売前後の数期、企業体質改善のため大型設備投資を極力抑えていたが、住宅部門は唯一の例外として先行投資が積極的に行なわれた
    • [70]ハイムが短期間に成長した理由として、マーケットセグメンテーションの徹底、思いきった資金および人材の投入、既存部門で培われた優秀な人材の参画の三つが挙げられた
    • [71]1974年4月 ハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた。建設省の入居者アンケートで住宅の満足率は他社製品の3〜4割に対しハイムは7割だった
参考文献[54]-[71]
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [54]1973年10月 第4次中東戦争の勃発とともにアラブ産油国がとった石油戦略が世界経済を一変させる危機的状況を招いた
    • [55]塩化ビニル樹脂は1971〜72年ごろの1キロ60円が1973年8月には110円、闇値では400円ともいわれた
    • [56]高圧ポリエチレンは1973年1月の1キロ95円が12月には157円へ65%値上がりした
    • [57]樹脂加工メーカー首位として供給責任を果たすため一部採算を無視して主要原料の緊急輸入を行なったが、結果的に一部製品の生産中止を余儀なくされた
    • [58]1973年9月期の売上高約695億円が1974年3月期には923億円へ増加した。原材料の大幅値上げを吸収するための製品価格引き上げと、限られた原料を付加価値の高い製品へ重点配分した結果
    • [59]1975年3月期 売上高829億円(前年同期比100億円近い減収)、経常利益1億0100万円、税引後利益3億7,300万円。1966年9月期以来の最悪決算
    • [60]1973年 柴田健三が社長に就任した
    • [61]1973年10月の組織改正で広報部の新設、東京支社の設置、開発本部・技術本部の設置を行ない、事業本部制を採用して第1事業本部・第2事業本部・住宅事業本部を設置、あわせて国際事業本部を新設した
    • [62]国際事業本部の新設は、従来各事業部が個別に行なってきた海外進出を全社的レベル・積水グループ全体の総合戦略として進めるためのものだった
    • [63]SPC(アメリカ積水)の失敗からは、何よりマーケティングを先行させること、生産・販売の第一線には現地の人材を活用すべきことという教訓を得て、その後の海外進出の基礎とした
    • [64]1974年6月 スイスのツーグ市に資本金約10億円のセキスイ・グルッペAGが日本政府の正式認可を得て発足。積水化学・積水ハウス・積水化成品・積水樹脂の共同出資によるヨーロッパの国際統括会社
    • [65]1975年9月 ハイ・ボルテージ・エンジニアリング社が所有するボルテック社の全株式を買収して経営を全面的に引き受け、運営にはアメリカ人を起用して現地主義に徹した
    • [66]1974年9月期は第1・第2事業本部の既存部門が原料騰貴・原料逼迫・買控えムードのもとで低調に推移した
    • [67]1973年9月期の住宅部門売上高は82億円強(前期より40億円増)、1974年3月期は2,200戸を売って売上高120億円、発売以来の通算戸数は5,000戸を突破
    • [68]1974年9月期 既存事業部の売上高は708億円と前期比80億円減、住宅部門は182億円と前期より62億円増。発売以来の受注戸数は1万棟を突破し大手プレハブメーカー5社に次ぐ位置になった
    • [69]ハイム発売前後の数期、企業体質改善のため大型設備投資を極力抑えていたが、住宅部門は唯一の例外として先行投資が積極的に行なわれた
    • [70]ハイムが短期間に成長した理由として、マーケットセグメンテーションの徹底、思いきった資金および人材の投入、既存部門で培われた優秀な人材の参画の三つが挙げられた
    • [71]1974年4月 ハイムM1が建設大臣の性能認定を受けた。建設省の入居者アンケートで住宅の満足率は他社製品の3〜4割に対しハイムは7割だった

1979年〜土地に手を出さない住宅メーカーへの純化

1979年6月、藤沼基利氏が社長に就任した。積水化学として5代目、初の生え抜きであり、社歴の大半を人事・労務で過ごした人物である。住宅事業が採った基本方針は、土地で儲けないことであった。積水化学は合理的な価格帯に狙いを定め、原価を下げる道を選んだ。1970年代に住宅・不動産へ入ってきた企業の多くが、地価上昇による売買差益を当てにしたのとは逆の方向である。藤沼氏はその理由を、土地で儲ける才覚がなかったからだと説明する。地価は自社の努力でどうにかなる部分が小さく、だから土地の取得には踏み込まない、という考え方が土台にあった。顧客層は所得五分位の第3分位に置き、年収の3倍ほどで手が届く住宅という当初の線を崩さなかった。おかげで、含み損のある土地を抱え込まずに済んでいる

  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [72]藤沼基利は1979年6月に積水化学工業の社長に就任した
    • [73]藤沼基利は積水化学として5代目にして初の生え抜き社長。1944年東京大学経済学部卒、1951年特殊合成工業入社、1953年の吸収合併で積水化学工業に入社。社歴の大半が人事・労務畑
    • [74]1970年代に住宅・不動産事業へ参入した企業の多くが地価の値上がりを見越した売買差益を狙ったのに対し、積水化学は合理的な価格帯をねらいコスト引き下げの方向をめざした
    • [75]藤沼基利は「土地でもうける才覚がなかった」と述べ、土地は努力だけではどうにもならない要素が大きいのでそういうものには手を出すなという方針が前提にあったと語った
    • [76]対象は五分位の所得階層分類でいう第3分位の中間所得層で、「年収の3倍程度の値段で買える住宅を」という当初の方針を変更していない
    • [77]参入したころに土地を買い始めたのでは遅すぎてほとんど儲けはなく、結果としてコゲつきの資産を作らずに済んだ

販売の仕組みも既存事業とは別に組まれた。家庭雑貨なら問屋経由で小売店に並べれば売れる。だが住宅は注文の中身が込み入っており、商品のイメージが市場に行き渡るまでは、中身を一番知っている者が自ら売るほかなかった。このため代理店を通さず直接売る体制をとり、顧客の要望が生産の現場へ戻ってくる道筋をつくった。住宅部門の営業だけは賃金の仕組みを別にし、決まった額の残業手当に歩合を加えた。残業続きの働き方が根付いたのは、何もしなければ会社は丸ごと縮んでいき、自分たちの行く先もなくなるという危機感を社内が抱いていたからだ、と藤沼氏は見ている。こうした体制の結果、土地を除いて1戸約1300万円という価格にたどり着いた。1980年度には年間販売が1万戸を超え、受注から入居までは約40日、工場生産の比率は80%を上回っていた

  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [78]当時としては珍しい新商品だったため、市場にイメージが浸透するまでは最も商品をよく知る自分たち自身が直接売らねばならなかった
    • [79]直販体制を中心にして代理店にあまり頼らなかったことが、顧客の気持ちを生産現場へ反映させるうえで役立った
    • [80]住宅部門の営業マンだけに別の賃金体系を新設し、固定的な残業手当の上に歩合給を乗せる制度にした
    • [81]このままでは会社全体が縮小均衡に陥り自分たちにも未来がなくなるという緊迫感が社内にはりつめており、それまでの積水化学には考えられなかった「毎日が残業」という体制が定着した
    • [82]1981年時点の平均単価は土地なしで1戸約1300万円、3.3平方メートル当たり34万円
    • [83]1980年度にセキスイハイムの年間販売戸数は1万戸を超えた。工期は受注から入居まで約40日、工場生産の比率は80%を超える

量が積み上がる一方で、体力は付いてこなかった。1978年度の自己資本比率は9.7%で、樹脂加工17社平均の17.4%を大きく下回り、負債比率は929.9%に達していた。売上総利益率は17社平均の20.3%を上回る21.14%を確保しながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮していた。住宅部門は売上高の3割以上、利益の半分を稼ぐ存在に育っていたが、土地の負担を伴うため借入金の減少を止める側に働いた。1976年3月期に22億円の経常欠損を出してから4年で、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込むまでに戻したものの、借入金の重さは景気変動に弱い体質をそのまま残した新規事業へ踏み込み続ける姿勢が、競争上の強さと自己資本の薄さを同時に作っていた。

  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [84]1978年度の自己資本比率は9.7%(樹脂加工17社計17.4%)、負債比率929.9%(同474.1%)
    • [85]売上総利益率は17社平均20.3%を上回る21.14%を上げながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮する主因になっていた
    • [86]住宅部門は売上高の30%以上、利益の半分を稼ぐ存在だったが、土地負担を伴うため借入金の減少にマイナスに作用した
    • [87]1976年3月期に22億円の経常欠損を計上。1978年度は売上高2360億7300万円・経常利益51億5300万円、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込んだ
    • [88]過大な借入金は不況時の金利負担増となり、結果的に景気変動に弱い体質を温存することになる
参考文献[72]-[88]
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [72]藤沼基利は1979年6月に積水化学工業の社長に就任した
    • [73]藤沼基利は積水化学として5代目にして初の生え抜き社長。1944年東京大学経済学部卒、1951年特殊合成工業入社、1953年の吸収合併で積水化学工業に入社。社歴の大半が人事・労務畑
    • [74]1970年代に住宅・不動産事業へ参入した企業の多くが地価の値上がりを見越した売買差益を狙ったのに対し、積水化学は合理的な価格帯をねらいコスト引き下げの方向をめざした
    • [75]藤沼基利は「土地でもうける才覚がなかった」と述べ、土地は努力だけではどうにもならない要素が大きいのでそういうものには手を出すなという方針が前提にあったと語った
    • [76]対象は五分位の所得階層分類でいう第3分位の中間所得層で、「年収の3倍程度の値段で買える住宅を」という当初の方針を変更していない
    • [77]参入したころに土地を買い始めたのでは遅すぎてほとんど儲けはなく、結果としてコゲつきの資産を作らずに済んだ
    • [78]当時としては珍しい新商品だったため、市場にイメージが浸透するまでは最も商品をよく知る自分たち自身が直接売らねばならなかった
    • [79]直販体制を中心にして代理店にあまり頼らなかったことが、顧客の気持ちを生産現場へ反映させるうえで役立った
    • [80]住宅部門の営業マンだけに別の賃金体系を新設し、固定的な残業手当の上に歩合給を乗せる制度にした
    • [81]このままでは会社全体が縮小均衡に陥り自分たちにも未来がなくなるという緊迫感が社内にはりつめており、それまでの積水化学には考えられなかった「毎日が残業」という体制が定着した
    • [82]1981年時点の平均単価は土地なしで1戸約1300万円、3.3平方メートル当たり34万円
    • [83]1980年度にセキスイハイムの年間販売戸数は1万戸を超えた。工期は受注から入居まで約40日、工場生産の比率は80%を超える
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [84]1978年度の自己資本比率は9.7%(樹脂加工17社計17.4%)、負債比率929.9%(同474.1%)
    • [85]売上総利益率は17社平均20.3%を上回る21.14%を上げながら、1,000億円を超える長短借入金が経常利益を圧縮する主因になっていた
    • [86]住宅部門は売上高の30%以上、利益の半分を稼ぐ存在だったが、土地負担を伴うため借入金の減少にマイナスに作用した
    • [87]1976年3月期に22億円の経常欠損を計上。1978年度は売上高2360億7300万円・経常利益51億5300万円、1979年度は売上高2950億円・経常利益90億円を見込んだ
    • [88]過大な借入金は不況時の金利負担増となり、結果的に景気変動に弱い体質を温存することになる

1990年〜工業化の徹底と、中間層特化が招いた1999年の営業赤字

積水化学の住宅が他社と違ったのは、工場で作る比率であった。他のプレハブメーカーの工業化率が5〜7割のところ、セキスイハイムは8割を超え、現場の作業はユニットの据え付けと内装の仕上げに限られた。関東の主力である東京ハイム工場には全長400メートルのラインが2本あり、約30の工程を経て3分半に1ユニットが生まれる。住宅1棟に使う部材は1万点以上に及ぶため、1983年に導入した部材管理システムが釘1本までコード化し、約180社の部材メーカーへ回線で発注を流した。部品在庫は半減し納期は30%短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円の原価を削った。1994年4月に始めた削減計画は半年で70億円を削り、1995年3月期の中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高になった

  • 日経ビジネス 1995年3月20日号
    • [89]他のプレハブ住宅メーカーの工業化率が5〜7割に対し、セキスイハイムの工業化率は8割を超え、施工現場ではユニット同士の接続や屋根の取り付け以外に壁紙や床材を張る程度の手間しかかからない
    • [90]東京ハイム工場(埼玉県蓮田市)には全長400mのラインが2本あり約30の工程が並ぶ。分速2.7mで動くラインから3分半に1ユニットが生み出され、生産能力は月約9000ユニット
    • [91]住宅1棟に使う建築部材は1万点以上。1983年に導入したコンピューターによる部材管理システムが釘1本からパネル・鉄骨までコード化し、約180社の部材メーカーへVAN回線でリアルタイムに発注データを送る
    • [92]全工場へのシステム導入で部品在庫が半減し納期も30%程度短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円のコスト削減につながった
    • [93]1994年4月に正式スタートしたコスト削減計画「SHIPS-21」はわずか半年で70億円を削減。1995年3月期中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高

財テクでつまずいたのは、金融子会社のセキスイファイナンスである。救済にあたり、積水化学は無利子・無担保の資金を1200億円あまり同社に回した。つまり、損失の出どころは本業の外にあった。含み損は特別損失として償却され、1992年度が126億円、1993年度が250億円だった。残りの約400億円も1994年度のうちに片づける計画になっていた。コスト削減を本業でいくら厳しく進めても、金融収支に足を取られていては成果が届かない。西沢進社長のもとで金融子会社を整理し、貸付金を全額引き上げる方針が採られた。同じ時期、研究開発では技術職を1988年の900人から1993年に1300人へ増やし、1990年につくば市へ住宅総合研究所を設けて各地に分かれていた開発部隊を集めていた効率を上げる側と、過去の穴を埋める側が同時に走っていた。

  • 日経ビジネス 1995年3月20日号
    • [94]財テクに失敗した子会社セキスイファイナンスの救済のため1200億円余りを無利子で融資していた
    • [95]含み損の償却は1992年度126億円、1993年度250億円を特別損失に計上済みで、残り約400億円を1994年度中に償却する
    • [96]西沢進社長は、本業で血の出るようなコスト削減を進めても金融収支が足を引っ張っていてはどうしようもないとして、金融子会社を整理し貸付金を全額引き上げると述べた
    • [97]技術職者を1988年の900人から1993年に1300人へ増員し、1990年には茨城県つくば市に住宅総合研究所を設立して各地に分散していた開発部隊を集約した

1997年、積水化学は3.3平方メートル当たり41万円からという価格でワルツを発売した。高額な住宅にしか付かなかった24時間換気や温水床暖房を標準仕様に入れながら、当時の主流商品より5万円以上安かった。消費税率の引き上げで持ち家の着工が前年度比3割減となった年に、この1商品だけで年間5000戸が売れた。ところが、ワルツが食ったのは他社ではなく自社の商品であった。他社が3.3平方メートル当たり上下20万円ほどの幅で商品を並べたのに対し、積水化学の幅は10万円しかない。1998年3月期、ワルツは全体の21.2%を占め、平均2800万円のドマーニは13.5%から6.5%へ、戸数で3700戸から1500戸へ半減した。住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円を頂点に2期続けて2割前後落ち、1999年3月期には1953年の上場以来初となる通期の営業赤字を見込むに至った

  • 日経ビジネス 1999年1月4日号
    • [98]1997年に発売した「ワルツ」の価格は3.3平方メートル当たり41万円から
    • [99]「ワルツ」はそれまで高額な住宅に採用されていた24時間換気や温水床暖房などの設備を標準仕様に取り入れながら、当時の住宅業界で主流の商品よりも5万円以上安かった
    • [100]持ち家の着工戸数が前年度比3割減と空前の落ち込みを記録した1997年に「ワルツ」は年間5000戸売れた
    • [101]他社が3.3平方メートル当たりの価格で上下20万円ほど開いているのに対し、積水化学は中間層に特化して10万円の差しかない商品構成だった
    • [102]1998年3月期に「ワルツ」が全体の21.2%に達した半面、主力商品「ドマーニ」の占有率は13.5%から6.5%へ半減し、戸数では3700戸が1500戸へ減った。「ワルツ」の販売価格は平均2100万円、「ドマーニ」は同2800万円
    • [103]住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円をピークに1998年3月期4021億円、1999年3月期見込み3176億円と2期連続で20%前後落ち込み、1999年3月期は14億円の営業赤字を見込んで1953年の上場以来初めての通期営業赤字となる
参考文献[89]-[103]
  • 日経ビジネス 1995年3月20日号
    • [89]他のプレハブ住宅メーカーの工業化率が5〜7割に対し、セキスイハイムの工業化率は8割を超え、施工現場ではユニット同士の接続や屋根の取り付け以外に壁紙や床材を張る程度の手間しかかからない
    • [90]東京ハイム工場(埼玉県蓮田市)には全長400mのラインが2本あり約30の工程が並ぶ。分速2.7mで動くラインから3分半に1ユニットが生み出され、生産能力は月約9000ユニット
    • [91]住宅1棟に使う建築部材は1万点以上。1983年に導入したコンピューターによる部材管理システムが釘1本からパネル・鉄骨までコード化し、約180社の部材メーカーへVAN回線でリアルタイムに発注データを送る
    • [92]全工場へのシステム導入で部品在庫が半減し納期も30%程度短縮され、1985年度から1993年度までの9年間で総額516億円のコスト削減につながった
    • [93]1994年4月に正式スタートしたコスト削減計画「SHIPS-21」はわずか半年で70億円を削減。1995年3月期中間決算の営業利益は前年同期比34.3%増の168億2100万円と過去最高
    • [94]財テクに失敗した子会社セキスイファイナンスの救済のため1200億円余りを無利子で融資していた
    • [95]含み損の償却は1992年度126億円、1993年度250億円を特別損失に計上済みで、残り約400億円を1994年度中に償却する
    • [96]西沢進社長は、本業で血の出るようなコスト削減を進めても金融収支が足を引っ張っていてはどうしようもないとして、金融子会社を整理し貸付金を全額引き上げると述べた
    • [97]技術職者を1988年の900人から1993年に1300人へ増員し、1990年には茨城県つくば市に住宅総合研究所を設立して各地に分散していた開発部隊を集約した
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号
    • [98]1997年に発売した「ワルツ」の価格は3.3平方メートル当たり41万円から
    • [99]「ワルツ」はそれまで高額な住宅に採用されていた24時間換気や温水床暖房などの設備を標準仕様に取り入れながら、当時の住宅業界で主流の商品よりも5万円以上安かった
    • [100]持ち家の着工戸数が前年度比3割減と空前の落ち込みを記録した1997年に「ワルツ」は年間5000戸売れた
    • [101]他社が3.3平方メートル当たりの価格で上下20万円ほど開いているのに対し、積水化学は中間層に特化して10万円の差しかない商品構成だった
    • [102]1998年3月期に「ワルツ」が全体の21.2%に達した半面、主力商品「ドマーニ」の占有率は13.5%から6.5%へ半減し、戸数では3700戸が1500戸へ減った。「ワルツ」の販売価格は平均2100万円、「ドマーニ」は同2800万円
    • [103]住宅事業の売上高は1997年3月期の4884億円をピークに1998年3月期4021億円、1999年3月期見込み3176億円と2期連続で20%前後落ち込み、1999年3月期は14億円の営業赤字を見込んで1953年の上場以来初めての通期営業赤字となる

第3章 2000-2010 (気が向いたら執筆します!) 3事業本部への再編とカンパニー制、IT向けフィルムとPVA樹脂の買収

第4章 2011-2026 (気が向いたら執筆します!) 検査薬・管材・航空機部材の買収からペロブスカイト太陽電池の事業化まで

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歴史年表 1947〜2025年

積水化学工業の沿革1947〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1971年加工専業から住宅への事業転換積水産業として発足★★
奈良工場を新設
プラスチック自動射出成型事業に参入★★
積水化学工業に商号変更
上野次郎男大阪証券取引所に上場
上野次郎男東京工場を新設、プラスチック成型品の製造を開始
上野次郎男東京証券取引所に上場
上野次郎男中央研究所を新設
上野次郎男滋賀栗東工場を新設、塩化ビニルパイプ、塩化ビニル建材製品の製造を開始
上野次郎男滋賀水口工場を新設、ポリビニルブチラール、同中間膜の製造を開始
上野次郎男新素材にかけた海外展開の挫折と、成長会社からの転落

1962年から1963年にかけて、積水化学工業は日本企業として先駆けて北米での現地生産に踏み切り、米ペンシルベニア州で独自開発の発泡ポリスチレンペーパー"第三の紙"の量産を開始した。上野次郎男社長が主導した海外進出であったが、現地大手との競争と技術の未完成から在庫を抱え、1965年の赤字計上と社長更迭に至った経営判断である。

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★★★
上野次郎男1965年に赤字計上と社長更迭★★
上野次郎男徳山積水工業を設立、塩化ビニル樹脂の製造を開始
小幡謙三鉄骨系ユニット住宅を武器にした新しい主力事業の立ち上げ

1971年2月、積水化学工業が鉄骨系ユニット住宅"セキスイハイム"を発売し、住宅事業へ参入した経営判断。塩化ビニルパイプや成型品の加工専業だった同社が、樹脂加工で培った量産の技術と、住宅一棟を工場で箱型に組み立てる"ユニット工法"を掛け合わせ、設計図を引ける社員が一人もいない"素人集団"で新市場を開拓した。

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★★★
小幡謙三住宅事業に参入★★
下田謙治奈積工業を設立、ユニット住宅の製造を開始
1972〜1999年住宅への事業構造転換下田謙治サンエスハイム製作所を設立、ユニット住宅の製造を開始
柴田健三事業本部制を導入
藤沼基利木質系ユニット住宅「ツーユーホーム」の販売を開始
藤沼基利群馬工場を新設、塩化ビニルパイプ、ユニット住宅外壁パネルの製造を開始
藤沼基利Sekisui America Corporationを設立
藤沼基利応用電子研究所を新設
藤沼基利住宅事業本部内に住宅綜合研究所を新設
藤沼基利京都技術センターを新設
藤沼基利小松化成を子会社化
2000〜2010年3事業本部への再編とカンパニー制、IT向けフィルムとPVA樹脂の買収大久保尚武7事業本部を3事業本部に再編
大久保尚武カンパニー制を導入
大久保尚武第一化学薬品を子会社化★★
大久保尚武多賀工場を設立、IT分野向けのフィルム・テープ製品群の製造を開始
根岸修史Celanese Corporationの子会社からポリビニルアルコール樹脂事業を買収
2011〜2026年検査薬・管材・航空機部材の買収からペロブスカイト太陽電池の事業化まで根岸修史Genzyme Corporationから検査薬事業を買収
根岸修史三菱樹脂の管材事業を買収★★
髙下貞二エーザイからエーディアを買収
髙下貞二ポリマテック・ジャパングループの経営権を取得
髙下貞二AIM Aerospaceを買収★★
加藤敬太プライム市場に移行
清水郁輔積水ソーラーフィルムを設立
清水郁輔ペロブスカイト太陽電池事業の運営を開始★★
出典・参考 9件
出典・参考
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
  • 日経ビジネス 1995年3月20日号
  • 日経ビジネス 1999年1月4日号
  • 積水化学の歴史/上野次郎男

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