北米進出「第三の紙」の栄光と挫折 ── 成長会社セキスイの転落

1962〜1965

日本企業に先駆けて北米で現地生産に挑んだ上野次郎男社長は、なぜ成長会社の座を明け渡したのか

更新:

時期 1963年
意思決定者 上野次郎男 社長
論点 海外進出と成長の持続
概要
1962年から1963年にかけて、積水化学工業は日本企業として先駆けて北米での現地生産に踏み切り、米ペンシルベニア州で独自開発の発泡ポリスチレンペーパー「第三の紙」の量産を始めた。上野次郎男社長が主導した海外進出であったが、現地大手との競争と技術の未完成から在庫を抱え、1965年の赤字計上と社長更迭に至った経営判断である。
背景
硬質塩化ビニル管で急成長した積水化学は、1964年に「ソニー、ホンダ、セキスイ」と並び称される成長会社であった。原料を持たない加工専業ながら、上野次郎男社長は素材で世界市場を獲る構想を早くから掲げ、独自素材と国際化への意欲を海外進出の動機とした。
内容
1963年、米国政府の企業誘致に応じてペンシルベニア州に工場を建設し、発泡ポリスチレンペーパーの現地量産を始めた。上野社長は、軽量な製品を運賃をかけて輸出するより現地生産が有利だと説き、これをかねて狙っていた海外進出の念願と語った。
含意
ダウ・ケミカルやモンサントの追い上げと技術の未完成、国内の過当競争が重なり、1965年9月期に約7.6億円の赤字と約1000人の削減に至った。上野社長は代表権のない会長へ退き、積水化学は成長会社の座を明け渡した。米国への再挑戦は1983年のSekisui America設立を待った。
筆者の見解

先んじて出ることの意味

積水化学の北米進出は、輸送コストを現地生産で越え、独自素材で世界市場を獲るという、時代を先取りした構想であった。実際に上野次郎男社長が語った現地生産の論理は、その後の日本企業の海外展開に通じる。ただ、狙った「第三の紙」の技術がまだ固まりきらないうちに、ダウ・ケミカルやモンサントという桁違いの研究力を持つ相手と正面から競う場所を、自ら選んでしまった。先んじて動いたことと、勝ち切れなかったこととが同じ一つの決断のなかに同居している点に、この挑戦の難しさがうかがえる。

忘れてはならないのは、この失敗が積水グループのなかで完結しなかったことである。上野次郎男社長が米国に賭けた一方で、田鍋健氏が国内で育てた積水ハウスは、後にグループの成長を牽引していった。海外で華々しく散った本体と、国内で足場を固めた分社と――同じ時期の二つの選択が、まるで逆の結末をたどった。先陣を切る決断が正しかったのか、あるいは市場と技術の成熟を待つべきだったのか。成長会社セキスイの転落は、海外へ先んじて出ることの意味を、いまなお問いかけているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「ソニー、ホンダ、セキスイ」と呼ばれた成長会社

1947年に日本窒素肥料の引揚者救済を兼ねて資本金10万円で発足した積水化学工業は、硬質塩化ビニル管を武器に金属パイプ市場を置き換え、戦後の高度成長のなかで急拡大した。1951年9月に社長へ就いた上野次郎男氏は増資を重ねて事業を広げ、1964年には戦後の急成長企業としてソニー・本田技研と並び「ソニー、ホンダ、セキスイ」と称されるまでになっていた。原料を持たないプラスチック加工の専業でありながら、素材の時代の先頭を走る会社として脚光を浴びていた[1]

上野次郎男社長の積極経営は数字にも表れていた。度重なる増資で資本金は85.5億円に達し、売上高は創業から15年でおよそ58倍へと伸びた。1959年にはニューヨーク事務所を設け、各地の地方積水やアメリカ積水など子会社群をつくって、国内にとどまらない拡大を続けていた。ただし、この急な膨張は同時にひずみも生んでおり、成長の速さがそのまま次の破綻の芽を含んでいたという見方もできる[2]

「第三の紙」と国際市場への意欲

塩化ビニル管で市場を席巻した積水化学は、次の武器として独自開発の発泡ポリスチレンペーパーを掲げた。紙にもプラスチックにもない軽さと成型性を持つこの素材は「第三の紙」と呼ばれ、まだ世界のどこでも産業として立ち上がったばかりの新市場であった。1956年の時点で上野次郎男社長は、塩ビの原料事情から日本製が世界一安価であること、そして衣食住のうち衣と住はいずれプラスチックに置き換わるという展望を語っていた。素材で世界を獲るという発想は、早くから経営の中心に据えられていた[3]

上野次郎男社長にとって、海外はいずれ向き合うべき市場であった。日本のプラスチック産業は1963年時点で米国・西ドイツに次ぐ世界第3位に達し、一人当たり年間消費量でも世界第4位を占めていた。上野社長は、企業としてはようやく大人の仲間入りをしたにすぎず、これからは国際市場で幾多の競争会社としのぎを削らなければならないと述べ、国内市場の先に世界を見据えていた。この意欲が、日本企業として例の少ない北米での現地生産という選択へつながった[4]

決断

日本企業に先駆けた北米現地生産の決断

1962年、積水化学は日本企業として先駆けて北米での現地生産に踏み切る決断を下し、翌1963年、米国政府の企業誘致に応じてペンシルベニア州に工場を建設すると発表した。狙いは「第三の紙」発泡ポリスチレンペーパーの現地量産にあった。上野次郎男社長は、この発表を一部の新聞や雑誌が「アメリカ本土へ敵前上陸」「なぐりこみ」と書き立てたことを取り上げ、それはおかしなことだと述べた。当時の日本企業にとって、米国での工場進出はそれほど大胆に映る挑戦であった[5]

上野次郎男社長がこの進出を必然とみなした背景には、製品の性質と国際化の論理があった。発泡ポリスチレンペーパーのような製品は容積の割に軽く、運賃をかけて日本から輸出するのは不利だと上野社長は考えていた。需要があるなら、ブランドと技術とプラントを持ち込み、現地で生産・販売するのが最も望ましい――そう語り、今回の米国進出をかねて狙っていた海外進出の念願がかたちになったものと述べた。輸送コストの壁を現地生産で越えるという発想は、後年の日本企業の海外展開を先取りするものであった[6]

「大人の世界」への船出と上野経営の自負

積水化学の海外進出は、上野次郎男社長個人の積極経営と分かちがたく結びついていた。上野社長は、企業としての積水化学がようやく大人の仲間入りをしたところであり、子どもの世界から大人の世界に入れば、これまで考えもしなかった事柄に面食らうこともあろうと語っていた。国際市場での競争を覚悟しつつ、それでも前へ進むという構えである。プラスチック産業のパイオニアとしての社会的使命を掲げる上野社長にとって、北米進出は避けて通れない次の一手であった[7]

もっとも、積水グループの内部では、上野次郎男社長とは異なる市場観も育っていた。同じ時期、住宅事業を任された田鍋健氏は米国ではなく国内の住宅市場に目を向け、後の積水ハウスとして販売網を築いていった。上野社長がアメリカ市場に有望さを見たのに対し、田鍋氏は日本の中産階級の持ち家需要を選んだ。北米での現地生産という決断は、こうした複数の選択肢のなかから上野社長が世界市場を採った結果であり、その後のグループの明暗を分ける分岐でもあった[8]

結果

現地大手の猛追と技術の未完成

北米での船出は、ほどなく厳しい現実に突き当たった。発泡ポリスチレンペーパーは1955年ごろから積水化学が研究してきた新製品であったが、技術的にはまだ完成の域になかった。米国に進出してみると、ダウ・ケミカルやモンサントといった一流の化学会社が同じ製品を携えて乗り出してきた。研究所の規模が大きい現地大手は、原価にかまわず改良品を次々に投入し、後発でありながら積水化学を追い越していった。日本企業は手を出すまいと見られていた分野に、現地の巨大企業がすぐ参入した点に、上野経営の見込み違いがあった[9]

打撃は米国事業だけにとどまらなかった。国内でも主力の塩化ビニル管や波板に他社が相次いで参入し、過剰生産から値下がりを招いていた。1964年秋ごろからの需要の伸び悩みと景気全般の不況が重なるなかで、積水化学は大量生産・大量販売という方針を変えず、積極策で押し切ろうとして果たせなかった。売れ残った塩ビ関連樹脂の在庫が膨れ上がり、成長を支えてきたはずの積極経営が、そのまま重荷へと転じていった[10]

赤字7.6億円と社長更迭、そして再建へ

1965年9月期、積水化学は表面でおよそ7.6億円の赤字を計上し、あわせて約1000人の人員削減に踏み切った。ソニー・本田技研と並び称された成長会社は、この一期の赤字を境に、その勢いを失っていった。責任をとった上野次郎男社長は代表権のない会長へと退き、経営の第一線から外れた。決算をめぐっては粉飾の噂まで流れ、かつて経済界に華々しい話題を提供し続けた経営者の退場は、成長会社セキスイの一つの区切りとなった[11][12]

上野次郎男会長自身は、この破綻を単なる急成長の反動とは見ていなかった。1955年ごろに販売シェアの3割ほどを占めていた積水化学は、1965年には約1.5割と半分に落ち込んでいた。他産業からの参入が相次いだプラスチック業界の過当競争のなかで、業界全体の伸びに追いつけず、過去のシェアすら保てなかったと上野会長は総括した。1967年3月、旭化成から送り込まれた小幡謙三氏が不採算部門を整理し、同年7月の半額減資という荒療治で二年のうちに負債を消却して復配にこぎ着けた。米国市場への再挑戦が本格化するのは、1983年12月のSekisui America Corporation設立を待ってからであった[13][14][15]

出典・参考
  • 積水化学の歴史(上野次郎男, 2017)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 週刊ダイヤモンド 1956年7月7日号「前途洋々たるプラスチック工業」
  • 週刊ダイヤモンド臨時増刊 1963年9月10日号「経営者の社会的使命・上野次郎男」
  • 三鬼陽之助「敗軍の将、兵を語る」(1966)
  • 日経ビジネス 1971年5月17日号「『米国再上陸』を決意させた積水化学の貴重な教訓」
  • 積水化学工業 有価証券報告書【沿革】