創業1908年、輸入依存品の国産化が国策だった時代に、森矗昶が千葉で沃度製造の総房水産を創業した。海藻から採った沃度を医薬や写真材料の原料として売るところから事業が成立し、水力発電の余剰電力を電気化学へ振り向ける発想を得た。輸入品を国産へ置き換えるこの戦略のもとで、森は1926年の日本沃度、1928年の昭和肥料を別法人として並走させ、電解アルミ・カーバイド・化学肥料を相互に補完しあう電気化学コンツェルンへと広げていった。
決断同社は主力事業を、技術や会社ごと外から買い取って入れ替える経営を繰り返してきた。1956年のフィリップス・ペトロリウムとの技術提携で石油化学へ転じ、1986年には日本初を担った国内アルミ製錬を電力高騰で完全停止した。決め手となったのは2020年、黒鉛電極の市況高騰で得た超過利潤を原資に約9600億円で日立化成を買収し、半導体後工程材料を新たな主力へ据えたことである。
- 歴史詳細 3章・5,575字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 52件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1970〜2025年(56カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2007〜2025年(19カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2010〜2025年(16カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1954〜2025年(72カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2008〜2025年(18カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1939年に日本電気工業と昭和肥料を合併させ昭和電工を発足させたのか
- A 森矗昶は、資源の乏しい日本で唯一豊富な水を電力へ変え、輸入依存だったアルミ・化学肥料を国産へ置き換える事業哲学を持っていた。この発想のもとで沃度から出発した日本沃度(後の日本電気工業)と昭和肥料を別法人として並走させ、1934年に大町工場で日本初のアルミ製錬工業化、1931年に川崎工場で日本初の国産法硫安製造を実現した。電力を基礎に輸入代替を束ねる二社は同じ経営思想で運営されており、1939年6月に両社を合併して昭和電工を発足させた。
- Q なぜ2020年に約9600億円で日立化成を買収したのか
- A 総合化学のままでは構造的な収益力が改善しないと判断し、研究開発と顧客基盤を併せ持つ先端材料会社を丸ごと取り込む道を選んだためである。2017年のSGL買収で黒鉛電極を世界トップ級とし、電炉鋼向け市況の高騰で2018年12月期に営業利益1800億円・純利益1115億円の過去最高益を得た。このキャッシュを原資に、2020年4月に約9600億円で日立化成を買収し、半導体パッケージ封止材など後工程材料で世界トップ級のシェアを取り込んだ。
- Q なぜ2023年に84年続いた「昭和電工」の社名を捨ててレゾナックへ改めたのか
- A 髙橋秀仁社長は、半導体・電子材料へ経営資源を集中してグローバルで戦う方針を内外へ明示するため、業態転換を社名で不可逆にする選択をした。1939年から84年続いた昭和電工は総合化学を象徴する社名であり、その看板を残せば先端材料企業という新しい顔が伝わりにくい。2023年1月に持株会社体制へ移行すると同時に商号をレゾナック・ホールディングスへ変え、子会社の昭和電工マテリアルズもレゾナックへ改称して全事業を承継した。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1908年〜1955年 電気化学のパイオニアと事業ポートフォリオ再編
沃度から始まった森矗昶の電気化学
レゾナックの源流は、1908年に森矗昶が沃度の製造販売を目的として設立した総房水産にある[1][2]。総房水産は千葉県興津で、附近の海辺に産出するカジメを原料にヨードや硝酸カリを製造する会社だった[3]。1919年に鈴木三郎助を社長とする東京電気との合併と再分離を経て日本沃度となり、ここから電気化学の分野へ次々と進出していく[4]。森は水力発電を活用した電気化学工業の可能性を早くから見抜き、1926年に日本沃度を、1928年には昭和肥料を別法人として立ち上げ、事業領域を広げていった[5][6]。日本沃度は福島県広田、長野県塩尻、大町、横浜の諸工場で工業薬品・カーバイド・研削材・合金鉄・アルミニウムを製造し、1934年3月には事業の実態に合わせて日本電気工業へと商号を変更した[7][8]。沃度から始まった一企業が、わずか四半世紀ほどでアルミ製錬を主力に据える電気化学会社へと発展した経緯がここに見える。
森は電解アルミ、カーバイド、化学肥料という当時最先端の電気化学領域に同時並行で挑んだ。資源の乏しいわが国で唯一豊富な資源である水を電力化し、さらに原料化したうえで、国産技術の開発を進めて産業立国を図るという考え方が、その事業哲学の核にあった[9]。沃度製造から出発した一企業が、わずか四半世紀でアルミ製錬と化学肥料を主要事業とする電気化学会社群へと拡張した事実そのものが、戦前日本の重工業化の縮図でもあった。輸入依存品目の国産化を水力発電と結びつけるという発想は、当時の日本の電気化学工業のなかでも独自の位置を占めた。日本会社史総覧(1995)も、両社をわが国近代工業の発達に対して先駆者的な役割を果たした森矗昶のもとで経営された企業として記している[10]。
国産アルミと国産硫安、そして合併
昭和肥料は1928年に東京電気と東京電灯によって設立され、新潟県鹿瀬に石灰窒素、川崎に硫安の工場を建設して化学肥料の製造へ乗り出した[11]。その川崎工場で、昭和肥料は1931年4月に日本初の国産法による硫安製造に成功する。1934年1月には日本電気工業(旧日本沃度)の大町工場が、日本で初めてアルミニウム製錬の工業化を達成した。化学肥料とアルミニウムという当時の輸入依存品目の国産化を、森系の二つの会社が並行して成し遂げた。両社は別法人ではあったものの同じ経営思想で運営されており、合併による統合は時間の問題でしかなかった。電力を基礎に据えて輸入品を置き換える発想は、当時の総合商社や財閥系化学会社とは異なる系譜の成長モデルでもあった。
1939年6月、一層の発展を期して日本電気工業と昭和肥料は合併し、新会社の昭和電工が誕生した[12]。森系電気化学2社の合体による、戦後の総合化学会社の出発点となる新会社の発足である。開拓者精神を経営理念とする同社は第二次大戦中もアルミニウムを中心に発展を続け、朝鮮への進出も図った[13]。1943年には日満アルミニウムを合併して戦時統合の一翼を担ったが、戦争末期の爆撃で主力の川崎工場は壊滅的な打撃を受け、敗戦によってアルミニウムの生産も禁止された[14][15]。それでも終戦の翌日から復興に着手し、1945年末には硫安の出荷を再開する。戦後の食糧事情を背景とする肥料増産の要望に応え、塩尻・秩父・富山・旭川の各工場を石灰窒素へ転換するなど、肥料を中心とした会社再建が進んだ[16]。公職追放による混乱期も経たが、戦前の森コンツェルンと戦後の公開企業を繋ぐ橋渡しの役割は、このとき復旧した川崎工場と各地の肥料工場が担った[17]。
中央研究所開設と昭電疑獄の経緯と背景
戦後の昭和電工は、1949年5月に東京証券取引所等へ上場し、公開企業として再出発した[18]。1951年には大町工場でアルミニウム生産を再開し、戦時の禁止で途絶えていた主力事業を立て直した[19]。同じ1951年に中央研究所を開設して研究開発重視へと舵を切り、品質管理の取り組みは第1回デミング賞受賞で外部からの評価を得る。1955年には川崎工場に尿素を新設し、肥料一辺倒だった化学品の幅を広げた[20]。中央研究所の開設とデミング賞受賞は戦後復興期の日本企業における品質管理運動の最初期事例にあたり、同社は化学業界における品質管理の先頭集団に並ぶ存在となった。沃度・アルミ・肥料の現業会社から、研究開発と品質管理を経営の柱に据える総合化学会社への組み替えが、戦後の早い段階で進んだ。
ただし1948年の昭電疑獄事件で当時の社長であった日野原節三が逮捕されたことは、会社の信用と組織活動の双方に影を落とした[21]。日本会社史総覧(1995)も、この疑獄事件で当時の社長日野原節三が巻き込まれたことが同社の活動を少なからず傷つけたと記している[22]。一方で『企業の歴史:明治百年』(1968)は、この時期を公職追放による混乱期として控えめに描いており、概略書ごとに事件の扱いには温度差がある[23]。創業者の森矗昶のパイオニア精神が掲げられる一方で、戦後の混乱期に経営者が政治と結びついて摘発されたという事実もまた、戦後復興期の総合化学会社が抱えた構造的なリスクの一面だった。研究開発と品質管理で前進する組織と、政治との距離感を見誤った経営の双方が、当時の昭和電工に同居していた。
1956年〜2002年 石油化学への業態転換と事業ポートフォリオ再編
フィリップス・ペトロリウム提携が変えた事業構造
1956年、昭和電工は米フィリップス・ペトロリウムとポリエチレン技術導入契約を結んだ[24]。翌1957年6月には子会社の昭和油化を設立し、1959年には高密度ポリエチレンの生産を開始した[25]。並行して酢酸誘導品メーカーである昭和合成化学工業を合併し、有機化学の領域へと事業範囲をさらに広げた。アルミと肥料の電気化学会社が、外部からの技術導入によって石油化学の事業領域へと進出した瞬間である。森コンツェルン以来の電気化学路線とは異質な、欧米の石油メジャーとの技術提携を起点とする業態転換が、ここから動き出した。同社の中核事業構成を水力から石油へ移し替える長い変化の序章でもあった。
この決断の延長線上に、1969年4月から営業運転を始めた大分石油化学コンビナートがある[26]。グループ各社の総力を結集した総合的な石油化学拠点で、エチレンからポリエチレン、ユーティリティまでを一貫して運営する設計のコンビナートだった。1962年11月には千葉工場でアルミニウム製造を開始しており、伝統のアルミ事業を保ちつつ石油化学を新たな主力事業へ育てる二正面作戦を、1960年代を通じて行った[27]。電気化学のパイオニアと石油化学の新興企業という二つの顔を、同社は1960年代の十年間にわたって並走させた。大分・千葉という東西の拠点配置も、この並走体制の物理的な反映だった。
石油危機が選別した事業ポートフォリオ
1973年の第1次石油危機は、二正面作戦の選別を同社に強く迫った。当時計画していたアルミ千葉増設とエチレン大分2期増設のうち、会社はアルミの増設を断念し、大分2期の方へと経営資源を集中させる判断を下した。1974年1月にはフィリップス社との合弁関係を解消し、昭和油化と鶴崎油化を合併して石油化学事業を一本化した。1979年7月に昭和油化を本体合併したことで、石油化学が名実ともに同社の主力事業の地位へ押し上げられた[28]。電気化学のパイオニアから石油化学主力企業への組み替えは、第1次石油危機を受けて一段進んだ。電力多消費のアルミ製錬を切り捨て、ナフサ起点の石化事業に主力を移す選別は、当時の国内化学業界全体の潮流とも符合していた。
1967年に提訴された新潟水俣病損害賠償訴訟では、第1審判決に対して控訴せず受け入れる方針を示し、1973年には補償協定の締結に至った。公害問題への対応も含めて、1970年代は同社の社会的な位置づけが書き換わった時期にあたる。同社は戦前期に典型的な電気化学工業会社としての基礎を築いたのち、1970年代に入って石油化学を主力事業へと組み替えた企業である。両時期はあたかも異なる事業会社のように対比されると、日本会社史総覧(1995)も指摘している。社会との関係という観点から見ても、戦前と戦後では同社の輪郭がはっきりと分かれていた。補償協定の履行は、創業者の世代と戦後世代の経営の間に一本の責任線を引く作業でもあった。
国内アルミ製錬撤退 ── 日本初を担った事業の終わり
二度目の石油危機と円高は、さらに根本的な事業の再構築を同社に迫った。電力料金の高騰によって国際的な競争力を失った国内のアルミ製錬事業は、1976年設立の昭和軽金属に切り出されたうえで、国内製錬を順次停止した[29]。1986年11月には昭和軽金属を解散して事業を本体へ吸収し、国内のアルミ製錬を停止した。1934年に日本で初めてアルミ製錬の工業化に成功した同じ会社が、52年後にはその事業を閉じた。電気化学のパイオニアを名乗る最大の根拠だったアルミ製錬は、ここで歴史的な役割をすべて終えた。創業者森矗昶が見た水力電源と輸入代替の結合は、戦後の国際競争のなかで姿を消した。
代わりにファインケミカル、チタン、エレクトロニクス材料、アルミ鍛造といった新規事業分野への展開が進んだ。1988年には海外で、ザ・ビー・オー・シー・グループ社のエアコ・カーボン黒鉛電極事業を買収し、グローバル黒鉛電極事業の足場を築いた[30]。1990年10月には大分エチレン2号機の増強で年産73万トン体制を確立し、単一立地として当時国内最大の石油化学コンビナートへと成長させた[31]。BOC買収は後年のSGL買収の伏線として、電極事業の海外展開の原型を築いた動きでもあった。電気化学のパイオニアから石油化学主力企業への組み替えは、アルミからの撤退と新規事業の立ち上げという両面から、ここでほぼ完了した。
2003年〜2022年 半導体材料企業への変態と事業基盤の拡充
ハードディスクと黒鉛電極、二つの買収で変わった顔
2000年代の昭和電工は、石油化学コンビナートに依存する事業構造から脱却するため、買収による事業ポートフォリオの組み替えに乗り出した企業である。2001年3月に昭和アルミニウムを本体合併してアルミ加工事業を整理したのち、2003年1月には三菱化学グループのハードディスク事業を買収した[32][33]。HDメディアという、それまで同社にとって縁の薄かった事業領域への参入は、のちのデバイスソリューション事業の中核となった部分である。2009年7月には富士通のハードディスク事業も追加で取得し、HDメディア業界の寡占化を進める動きも見せた[34]。沃度・アルミ・肥料・石油化学という系譜の上に、電子部品と精密材料という新たな軸が重ねられ始めた時期でもある。
同時期、2009年12月期は売上高6782億円、営業損失▲50億円、純損失▲380億円というリーマンショック後の赤字を経験した[35]。長年にわたって黒字基調を続けた同社にとって、初めての通期営業赤字という重い結果である。2010年6月には高橋恭平から市川秀夫へと社長が交代し、経営再建の指揮が引き継がれた[36]。総合化学路線の限界が業績に表れ始め、ハードディスクや黒鉛電極の取得だけでは構造的な収益力の改善にまでは届いていなかった現実が、当時の決算で数字として突き付けられた。コンビナート依存からの脱却は、買収という手段だけで完結するものではなかった。
黒鉛電極世界トップへ ── SGL買収
2016年6月、市川秀夫から森川宏平へと社長が交代した[37]。森川体制のもとで会社は、黒鉛電極事業への集中投資に踏み込んだ。2017年10月にはドイツのSGL GE Holdingを買収し、北米拠点(旧BOC、1988年取得)と合わせて黒鉛電極で世界トップ級のシェアを獲得した[38]。直後の2018年12月期には、営業利益1800億円、純利益1115億円という過去最高の業績を記録した[39]。電炉鋼の需要拡大にともなう黒鉛電極市況の高騰が、短期間でキャッシュを同社にもたらした一年だった。総合化学のなかでも黒鉛電極というニッチな領域の世界寡占化を選び取った決断が、初めて目に見える形で報われた瞬間ともいえる。北米・欧州・国内の三極体制を1社でまとめる寡占構造は、当時の他社には真似しづらい競争上の堀になっていた。
このキャッシュこそが、次なる買収の原資となった。総合化学からの脱皮を本気で進めるのであれば、研究開発と顧客基盤の双方を併せ持った先端材料会社を丸ごと取り込む必要がある。森川体制の終盤に練られたその構想は、次の社長へと引き継がれていった。2018年の最高益は、後年の業態転換に向けた一時的な軍資金として扱われる性質のものだったといえる。黒鉛電極市況の急騰によって偶然得られた利益を、長期の業態転換にかかるコストへと充てるという発想そのものが、当時の経営陣が抱いていた独自性を象徴する判断だった。
9600億円で日立化成を買収した意味
2020年4月、昭和電工は約9600億円を投じて日立化成(後の昭和電工マテリアルズ)を買収した[40]。半導体パッケージ向けの封止材や銅張積層板など、後工程材料の領域で世界トップ級のシェアを持つ会社の取得は、旧来の総合化学から半導体・電子材料企業への業態転換を不可逆にする決断だった。同時にコロナ禍と買収負担のために、2020年12月期は売上高9737億円、営業損失▲194億円、純損失▲763億円となり、財務面で試練を抱える結果となった[41]。黒鉛電極で得たキャッシュを上回る規模の借入をともなう買収は、短期業績を犠牲にしてでも長期の事業構造を取りに行く性質の選択だった。
2021年6月に森川宏平から髙橋秀仁へと社長が交代し、髙橋体制のもとで統合の総仕上げに入った[42]。2023年1月には持株会社体制へと移行すると同時に、商号を昭和電工からレゾナック・ホールディングスへ変更し、子会社の昭和電工マテリアルズもレゾナックに改称して全事業を承継した[43]。髙橋は統合直後の取材で、半導体・電子材料に経営資源を集中してグローバルで戦える会社を目指す方針を示し、1939年から84年続いた昭和電工という社名を捨てる意図を明言した。日立化成買収から3年で完了したリブランディングは、同社の顔を総合化学から先端材料へと書き換える節目でもあった。