1915年〜 カーバイド肥料創業と三井資本の引き受け
- 1915年 電気化学工業設立
- 1916年 東京・大阪株式取引所で株式定期売買開始
- 1916年 大牟田工場でカーバイド・石灰窒素の製造開始
- 1921年 青海工場でカーバイド製造開始
- 1942年 大牟田工場でアセチレンブラック製造開始
- 1949年 東京・大阪・名古屋証券取引所に株式上場
- 1953年 電化セメント設立
三井資本が引き受けた一人の科学者の技術
日本のカーバイド工業は、藤山常一という一人の科学者から始まった。藤山は1902年、仙台市郊外の三居沢に三居沢カーバイド製造所を起こし、日本で最初のカーバイドの製造を始めた。その藤山が1912年、北海道苫小牧に北海カーバイド工場を起こしたのが、電気化学工業の母体になった工場である。三居沢で始まったカーバイド製造が、苫小牧の北海カーバイド工場を経て、三井資本の引き受けによる会社設立へとつながった。一個人の発明として始まったこの前史が、デンカが祖業として抱えるカーバイド化学の出発点である。 [1][2]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「電気化学工業(現デンカ)」の項
- [1]藤山常一は1902年(明治35年)に仙台市郊外の三居沢に三居沢カーバイド製造所を起こし、日本で最初のカーバイドの製造を始めた
- [2]藤山常一は1912年(明治45年)に北海道苫小牧に北海カーバイド工場を起こし、これが電気化学工業の母体になった
電気化学工業の起点は、北海道苫小牧で藤山常一という科学者が個人で立ち上げた北海カーバイド工場にある。藤山は1913年にカーバイド、翌1914年に石灰窒素の製造に成功した。この事業に資金を出したのが、牧田環・藤原銀次郎・團琢磨ら三井系21人である。個人の発明を三井本流の重役たちが直接引き受ける形で、日本における電気化学工業の最初の事業化が動き出した。当時の日本は欧州からの化学肥料輸入に依存しており、国内生産の立ち上げは国策的にも急務である。苫小牧に石灰石と電源が揃っていたという地理的条件と、第1次大戦の輸入途絶という時勢と、三井合名が化学工業への進出先を探していたタイミングが重なった瞬間に、この会社は生まれている。 [3]
- デンカ 有価証券報告書【沿革】/ デンカ110年史
- [3]電気化学工業の設立は三井系が引き受けた
第1次大戦で欧州からの石灰窒素輸入が途絶し、三井合名内で化学工業進出の機運が高まったところへ、ちょうど苫小牧にこの工場があった。1915年5月、北海カーバイド工場の事業を引き継ぎ、資本金500万円で電気化学工業が設立される。社名はカーバイド製造が電気による化学反応に基づくことから付けられた。一個人の発明が、戦時の輸入途絶と三井資本の投資判断に拾われて会社になったというのが、デンカ110年史の起源である。創業の資本金500万円は当時としては、三井グループが化学工業に本格参入する象徴的な出資だった。以後の同社は、この三井系出資と国策的な肥料増産の要請を背景として、石灰窒素の国産化を担う主要プレーヤーへと育つ。 [4][5][6]
- デンカ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1915年5月に資本金500万円で電気化学工業が設立された
- [5]社名「電気化学工業」はカーバイド製造が電気化学反応に基づくことに由来する
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「電気化学工業(現デンカ)」の項
- [6]1915年(大正4年)5月、藤山博士の特許と北海カーバイド工場を譲り受け、三井系資本をバックに資本金500万円で電気化学工業が設立された
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「電気化学工業(現デンカ)」の項
- [1]藤山常一は1902年(明治35年)に仙台市郊外の三居沢に三居沢カーバイド製造所を起こし、日本で最初のカーバイドの製造を始めた
- [2]藤山常一は1912年(明治45年)に北海道苫小牧に北海カーバイド工場を起こし、これが電気化学工業の母体になった
- [6]1915年(大正4年)5月、藤山博士の特許と北海カーバイド工場を譲り受け、三井系資本をバックに資本金500万円で電気化学工業が設立された
- デンカ 有価証券報告書【沿革】/ デンカ110年史
- [3]電気化学工業の設立は三井系が引き受けた
- デンカ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1915年5月に資本金500万円で電気化学工業が設立された
- [5]社名「電気化学工業」はカーバイド製造が電気化学反応に基づくことに由来する
資源産地に張り付いた創業期の立地戦略
カーバイドの原料は電力・石灰石・炭素材で、いずれも重量物のため、工場は資源の出る場所に置く必要があった。1916年に旧満州・撫順(コークス)と福岡県大牟田(コークス)、1921年に新潟県青海(高純度石灰石)を完成させ、青海用に小滝川・大所川・海川第1〜第4の自社水力発電所を1921年から1930年にかけて建設した。電力を自前で押さえ、石灰石・コークスの産地に直結する立地戦略は、電気化学工業の原価構造そのものを決める選択だった。カーバイド1トンを作るために膨大な電力を投じる産業構造を、自家水力発電所と高純度石灰石鉱山の垂直統合で支えるという答えを、創業期の同社は選んだ。この青海拠点が、のちに塩ビ・クロロプレン・セメントの母胎となる。 [7][8]
- デンカ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1916年に福岡県大牟田の工場を完成させた
- [8]1921年に新潟県青海の工場を完成させた(高純度石灰石)
撫順は1920年に南満州鉄道へ譲渡されるが、海外では満州電気化学工業・台湾電化・山東電化・印度支那電化工業の設立にも参加し、戦前期の同社は国策的アジア展開の担い手でもあった。敗戦により海外資産はほぼ消失し、戦時中に強制出資させられた大淀川発電所も戦後は返還されないなど、創業期の資産形成の一部は戦争で失われた。満州・台湾・華北・仏印に広げた事業網と自家水力発電所の一部は戻らず、戦後の同社は国内の青海・大牟田を軸に再出発する。戦前に国策企業として築いた海外拠点網を一度はすべて失うという経験は、のちの海外展開の設計にも影を落としている。
- デンカ 有価証券報告書【沿革】
- [7]1916年に福岡県大牟田の工場を完成させた
- [8]1921年に新潟県青海の工場を完成させた(高純度石灰石)
戦後の高率配当が生んだ多角化原資
戦後の食糧難打開のための化学肥料緊急増産対策要領と、1950年の販売統制撤廃で石灰窒素市場は再活性化した。1951年下期と1952年上期に同社は40%という創立以来初の高率配当を実施し、株価は1952年に最高520円・最低438円と当時として破格の値を付けた(日本会社史総覧 1995)。当時の蓄積が、次の事業の幅を広げる原資になる。石灰窒素だけを生産していた創業期の会社が、配当40%を連続して出せるほどの収益力を回復したことで、次の投資に動き出す体力が整った。戦後復興期の食糧増産政策という国策の追い風を受け、祖業の石灰窒素事業が一時的に稼ぎ、それが次の時代の多角化投資を支える原資となる構図である。 [9][10]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1951年下期と1952年上期に40%の高率配当を実施した
- [10]株価は1952年に最高520円・最低438円を付けた
1948年策定の有機合成化学工業拡充五カ年計画を受け、同社は塩化ビニール樹脂・酢酸ビニールモノマー企業化を決定し、1951年に渋川工場で塩ビ製造を開始した。1953年に電化セメントを設立して青海工場製造のセメントを北陸地方に供給し、カーバイド一本足からの離脱が始まる。肥料会社から化学会社への転換を、戦後復興期の需要と40%配当の蓄積が押し出した形である。青海で築いたカーバイドチェーンが石灰窒素・塩ビ・セメントへと枝分かれし、多角化の原型が1950年代前半に固まった。カーバイドという一つの中間体から複数の最終製品へ流し込む連産品型の事業構造が、以後のデンカの多角化のロジックを規定する。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1951年下期と1952年上期に40%の高率配当を実施した
- [10]株価は1952年に最高520円・最低438円を付けた