歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1897年、明治の殖産興業が地方へ及ぶなか、渡辺祐策ら宇部の地元有志が資本金4.5万円を出し合い、瀬戸内海の海底炭田を採る沖ノ山炭鉱を匿名組合として立ち上げた。財閥も外部資本も入れず、出資者と従業員と地域住民がほぼ重なる村ぐるみの共同経営として石炭を掘り出荷した。渡辺は好況期から枯渇を口にし、炭を掘り尽くせば元の農漁村に戻ると説いて、枯れる前に次を仕込む発想を会社の理念とした。
決断渡辺は好況期から、炭を掘り尽くせばまた元の農漁村になってしまうと語り、石炭が枯れる前に機械を1914年、セメントを1923年、化学を1933年と地元出資で並走させた。決定的だったのは1957年からの石炭撤退の進め方である。鉱脈が薄れるなか炭鉱部門の約7,000名を化学・セメント・機械へ配置転換し、人を切らずに事業を載せ替えた。財閥系が人員整理で炭鉱を畳んだのに対し、人を抱えたまま量産化学品の総合素材企業へ転じた。
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1897年〜1956年 石炭が枯れる前に仕込まれた機械・セメント・化学
資本金4.5万円の村人組合から始まった炭鉱
1897年6月、渡辺祐策ら宇部の地元有志が資本金4.5万円を出し合い、匿名組合「沖ノ山炭鉱」を設立した[1][2][3][4]。出資者と従業員と地域住民がほぼ重なる共同経営の体裁で、瀬戸内海の海底炭田の採掘から事業が始まった。当時の宇部は山口県でも辺境の一寒村に過ぎず、産業基盤は皆無に等しい。明治末から戦前にかけて宇部周辺では沖ノ山・東見初・本山・山陽無煙・長澤・西沖ノ山の6炭鉱が稼働し、1949年時点で従業員約12,000名を石炭部門が抱える地域最大の炭鉱会社へ育った[5]。宇部の企業は宇部人のためにあり、宇部人の利益に奉仕すべきだという大原則が、組合員=出資者=従業員という構造から自然に生まれた。
渡辺は炭鉱の好況期から将来の枯渇を口にしていた。中安閑一は後年、渡辺の口癖を「炭をナマで出すことはいけん。石炭を使って事業をおこさにゃあ。炭を掘り尽くせば、また元の農漁村になってしまう」(歴史をつくる人々 第11、1965)と伝えている。中安自身も後年、経営理念を問われて「限りある石炭から無限の事業を起こして子孫に伝える」(わたしの経営 1963)と整理しており、枯れる前に次を仕込む発想が企業理念そのものへと引き上げられた。石炭そのものを売るのではなく、石炭を原料・燃料として加工産業へ転じさせる発想は、のちの多角化の骨格を早くから規定し、宇部発祥の産業群を下支えする共通の基盤にもなった。
3年刻みで仕込んだ機械・セメント・化学
渡辺の考えは具体的な会社設立として形をとった。1914年1月に炭鉱機械を内製する宇部新川鉄工所、1923年9月にセメント製造、1933年4月にアンモニアを軸とする宇部窒素工業を、いずれも宇部の地元出資で立ち上げた[6][7][8]。石炭の副産物や港湾立地を生かす形で、機械・セメント・化学の3領域を10〜20年刻みで仕込んでいく段取りだった。それぞれが独立した宇部発祥企業として並走する体制は、戦時統合の圧力に対する備えとしても機能し、9年後に宇部発祥4社の自己統合として合併する下地にもなった。外部資本を入れず、地元出資の法人群を束ねて一社にまとめる選択肢が、1942年の合併に向けて準備されていた。
1942年3月、政府が同業他社との企業合同を進める中で、宇部興産は沖ノ山炭鉱・宇部新川鉄工所・宇部セメント製造・宇部窒素工業の4社合併で発足した[9]。外部資本との統合ではなく、宇部発祥4社の自己統合という形を選び、地域共同経営の原型を維持した。1949年5月に東京証券取引所に上場し、1950年4月期の売上高構成は石炭3.0億円・硫安2.5億円・セメント0.8億円となっていた[10][11]。石炭が依然主力ではあったが、3本目・4本目の柱がすでに収益を生み始めていた。従業員の内訳は石炭部門約12,000名に対し肥料部門約4,000名・セメント部門約1,000名・機械部門約800名で、人員構成は炭鉱会社のままである。
7,000名の配置転換で行った石炭撤退
1951年1月に中央研究所を開設し、1955年12月には宇部カプロラクタム工場を新設してナイロン原料の量産に踏み込んだ[12][13]。販売先は日本レイヨンで、合成繊維市場の立ち上がりに合わせた参入だった[14]。エネルギー革命で国内炭鉱の採算が悪化するなか、宇部興産はカプロラクタム・アンモニアという量産化学品を、石炭事業の縮小と並行して立ち上げる段取りを選んだ。枯れていく祖業から出る利益を、次の主力となる化学量産品へ振り向ける計画が、中央研究所開設からわずか4年で量産工場として実体化した。研究所・プラント・販売先の3つを同時に手当てしたのは、合成繊維ブームに後れを取らないための速度優先の判断だった。
石炭撤退は社内の反対を抱えながら進んだ。水野一夫は「主力炭鉱だった宇部の沖ノ山炭鉱は鉱脈が薄くなり、採算が急速に悪化し始めた」「現場の坑夫と本社のスタッフとが一緒になり常磐炭田に進出しようと社内で運動し始めた」(日経ビジネス 1984/5/7)と振り返っている。経営陣は石炭の将来性を見限っていたが、現場の声に押されて常磐炭田への進出を決めた。出水多発で投資は失敗し、化学部門への投資を一時的に圧迫した[16]。水野は「転換期には往々にして両者(注:企業と社員)の間にズレが生じる」(日経ビジネス 1984/5/7)とも語っている。1957年から石炭部門の約7,000名を多角化事業に配置転換し、撤退と同時に化学・セメント・機械への再配置を行った点が、他の財閥系炭鉱会社との違いになった[15]。1967年10月に宇部鉱業所を閉鎖し、1970年代までに石炭事業の従事者数はゼロとなった[17][18]。
1957年〜2001年 セメントと化学量産で拡大した総合素材企業
千葉と宇部に置かれた化学量産の二極
1964年10月、千葉石油化学工場を新設し合成ゴム・エラストマー事業の拠点を整えた[19]。同じ1964年6月にニューヨークとデュッセルドルフに駐在員事務所を開設し、輸出と原料調達の窓口を欧米に置いた[20]。宇部の化学品は原料を石炭副産物やアンモニアに依存していたが、千葉の石油化学は輸入ナフサを原料とする別系統の事業であり、原料調達の地政学的リスクを2拠点で分散する構造を作った。千葉進出時点の中安閑一は「なんといっても、石油化学は、これからの化学工業の本命ですからネ。さしあたり、まず千葉の増強を図っていきます」(ダイヤモンド 1965/1/1)と語り、石炭由来からナフサ由来へ主力を移す意図を明言していた。1967年4月には堺工場、1965年7月には伊佐セメント工場を新設し、化学・セメント両事業の生産能力を西日本側でも積み増した[21]。
1968年9月の高分子研究所開設、1969年6月の宇部アンモニア工業設立、1982年10月の145千KW石炭専焼自家発電所完成と、設備投資が続いた[22][23][24]。自家発電所は宇部の電力コストを下げ、カプロラクタム・アンモニアの量産競争力を支えた。ただし千葉と宇部に化学量産の二極を抱える構造は、のちの市況変動で両拠点の損益を同時に押し下げる弱さも内包していた。1982年7月にはマッキンゼーに経営提言を依頼して中期計画策定に動くなど、量産事業の収益構造を外部の視点から見直す試みも始まっていた。研究所・拠点・電力と、量産を支える仕組みを一通り揃えた時点で、次の課題は収益の質に移りつつあった。
セメント合弁とアジア生産で行った同時改革
1994年9月、スペインProductos Quimicos del Mediterraneo S.A.の経営権を取得し、現UBE CORPORATION EUROPE S.A.U.として欧州拠点を置いた[25]。1997年5月にはタイでThai CaprolactamとUBE Nylon (Thailand)を立ち上げ、アジアでカプロラクタム・ナイロンの一貫生産体制を築いた[26]。為替・原料コストで国内拠点が劣位に立つ中、欧州とアジアに製造拠点を分散して輸出競争力を補完する構造である。一方で宇部エチレンセンター構想は1994年に延期され、国内追加投資による拡大ではなく海外取得による補完という路線が選ばれた。国内の量産拠点を増やすのではなく、買収と現地生産で競争力を保つ選択が、当時の宇部興産の海外戦略を特徴づけた。円高の進行と国内コストの悪化が、同社の投資先を日本の外へ押し出した形である。
1998年7月、三菱マテリアルとの合弁で宇部三菱セメントを設立した[27]。国内セメント業界は需要縮小で再編が続き、他社合弁による販社統合で生産能力過剰を調整する動きが各社で起きていた。1999年10月には宇部興産機械を分社化し、機械事業を独立採算化した[28]。1997年6月に創業100周年を迎えた直後の数年で、宇部興産はセメントの業界再編・機械の分社化・化学の海外展開という3つの構造改革を同時に行った[29]。総合素材企業の組織は、事業ごとに切り出し可能な単位へと組み替えられた。4社自己統合で発足した総合会社は、100年を経て、再び事業別の部品に分解されはじめた。地元4社の自己統合で生まれた会社は、海外買収と国内分社化の並行運営で、グループの輪郭をつくり直していた。
2002年3月期の希望退職とリストラの起点
人員整理は2000年代より前から始まっていた。1986年11月、宇部興産は1987年3月末までに社員700人、1987年度中にさらに630人の計1,300人を削減する方針を発表した(日経新聞 1986/11/27)[30]。化学大手で最初に踏み切った合理化であり、円高による輸出化学品の値下がりに対応する措置だった。2002年3月期の連結売上高は5,375億円で、同年8月には希望退職者402名を募集しており、2000年代初頭の宇部興産は化学・セメントの市況低迷と過剰人員の処理を抱えた[31]。2003年10月には宇部日東化成を株式交換で完全子会社化し、電子・情報通信関連製品を取り込んだ[32]。量産品の価格競争に巻き込まれる構造を、付加価値の高い特殊化成品で補おうとする動きである。1980年代後半の1,300人削減と2000年代初頭の人員整理・特殊化成品取り込みは、量産依存から脱却するための前後半の試みとしてつながっている。
このリストラを経て、2008年3月期には連結売上高7,042億円、営業利益559億円まで回復した[33]。経常利益467億円、当期純利益240億円は、宇部興産の連結ベースで見ても屈指の好業績だった。ただし、この回復は中国・アジア向けカプロラクタム・ナイロンの需要拡大と原燃料市況の上昇に支えられたもので、市況が反転した翌FY08には営業利益は311億円へ、FY09には275億円へ落ち込んだ。総合素材企業の構造そのものは、市況依存から抜け出していなかった。総資産は2002年3月期8,202億円から2010年3月期6,547億円へ縮小し、有利子負債圧縮と資産整理を進める守りの運営が続き、好業績の翌年に緊縮へ戻る振れ幅の大きい決算が繰り返された。
2002年〜2024年 祖業セメントの切り離しと商号UBE化への転換
営業利益500億円台と300億円台を往復した10年
FY10からFY17にかけて、連結売上高は6,000〜7,300億円のレンジで横ばいに推移し、営業利益は243億円(FY13)から502億円(FY17)まで振れた[34]。FY12は中国向け化学品の市況悪化で営業利益299億円、FY15は再び414億円へ戻す具合で、化学・セメント・機械を抱える総合素材企業の利益が地域市況に左右される構造が定着していた[35]。田村浩章(FY08-FY09)、竹下道夫(FY10-FY13)、山本謙(FY14-FY17)と社長は3代続いたが、ポートフォリオの基本構成は維持された[36]。自己資本はFY15の2,418億円からFY17の3,153億円へ積み上がり、有利子負債はFY12の2,453億円からFY17の1,941億円へ縮小し、財務の修復が進んだ。売上の伸びではなく、振れ幅の大きい利益を財務指標の改善で吸収する運営が、当時の宇部興産の基調だった。
セグメント別では、建設資材が2,000億円台の安定収益源、化学が市況で振れる主力、機械・金属成形が400〜900億円台の補助柱、医薬とエネルギー・環境がニッチ事業として並走した。FY15に化成品・樹脂と機能品・ファインを統合して「化学」セグメントへ束ねた組み替えは、量産化学品と機能品の共通基盤を強調する整理であり、後のスペシャリティ化への布石でもあった。FY10には医薬を独立セグメントとして開示し、機能品・ファインは2010年代を通じて利益寄与の振れが大きい領域として位置付けられた。セグメント構成の並びそのものが、祖業セメントへの依存から化学主体へ少しずつ重心を移していく過程を映している。
セメント承継と商号変更を同時に決めた2022年
2018年6月に泉原雅人が代表取締役社長に就任した[37]。2020年9月、三菱マテリアルとのセメント事業の経営統合方針を決定し、2022年4月にセメント関連事業をUBE三菱セメントに承継した[38]。同社は持分法適用関連会社となり、宇部興産の連結売上高から建設資材セグメントの2,000億円超が消えた。FY21の連結売上高6,553億円はFY22で4,947億円へ縮小し、純損失▲70億円を計上した[39]。祖業の一角を切り離す決断は、決算上の急減と赤字転落を伴って実行された。1998年の宇部三菱セメント設立から24年を経て、合弁による部分的な調整から完全な承継へと、セメント再編を一段先へ動かした判断である。石炭の次に柱となったセメントを、100年超の歴史のなかで初めて連結の外に置いた。
同じ2022年4月、社名を「宇部興産」から「UBE」に変更し、東証プライム市場へ移行した[40]。1942年の合併以来80年使った商号を捨てる判断と、祖業セメントの連結除外が同時に実施された[41]。中安が伝えた渡辺祐策の言葉「炭を掘り尽くせば、また元の農漁村になってしまう」(歴史をつくる人々 第11、1965)は、量産化学品と素材の市況に翻弄されてきた経験と重ねれば、80年を経て化学スペシャリティへの転換を促す論理として読み直せる。前後してエラストマー事業を2021年10月にUBEエラストマーへ分社化し、千葉拠点も独立採算に切り替えた[42]。商号・事業構成・拠点の3つが、同じ1年余りのあいだにまとめて組み替えられた。
構造改革と純損失▲48億円の2025年3月期
FY23は売上高4,682億円、営業利益225億円、当期純利益290億円と一旦黒字を回復した[43]。しかしFY24では構造改革の決定に伴う減損損失を中心に特別損失369億円を計上し、純損失▲48億円となった[44]。決算説明会の説明によれば、タイカプロラクタムの生産停止を従来の2027年3月から2026年3月へ前倒し、ナイロンポリマーは縮小、日本カプロラクタム・ナイロンポリマーは2027年3月停止、アンモニア国内生産は2028年3月停止が確定した[45][46][47]。1955年と1968年に始めた量産化学品は、2020年代後半に順次停止する計画である。GHG排出量は2024年度実績で2013年度比32%減、構造改革完了後の2028年度には65%減見込みで、脱炭素目標と事業撤退が一本の線でつながった格好になっている[48]。
2022年12月にエーピーアイコーポレーションを取得して医薬受託事業を強化し、2024年12月には欧州でマテリアルリサイクル樹脂製造会社を取得してコンポジット事業に新たな足場を作った[49][50]。量産品からの撤退と、医薬・機能品・コンポジット領域のM&A強化が、同時並行で走った。カプロラクタム・アンモニアの停止で空いた生産拠点と人員を、スペシャリティと循環型材料にどう振り向けるかが、次期中計の実行段階で焦点となる。2010年代の特殊化成品取り込みから15年を経て、同社は量産依存の構造を組み替えている。撤退と取得を同じ3年のなかで走らせる運営が、ここ数年の特徴になっている。