祖業・石炭鉱業からの撤退と石炭部門約7,000名の配置転換
祖業の炭鉱を畳みながら、7,000名をどう次の事業へ移したか——エネルギー革命下の宇部興産の選択
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- 概要
- 1957年から1967年にかけて、宇部興産がエネルギー革命で採算を失った祖業の石炭鉱業から段階的に撤退し、石炭部門の約7,000名を化学・セメント・機械の多角化事業へ配置転換した経営判断。中安閑一社長のもと、大量解雇ではなく人員の再配置を伴って炭鉱を畳み、1967年10月に70年の歴史をもつ宇部鉱業所を閉山した。
- 背景
- 1950年代後半、割安な輸入原油への転換が進み、割高な国内炭は燃料としての座を失いつつあった。宇部興産の主力だった沖ノ山炭鉱も鉱脈が薄くなって採算が悪化し、かつて売上の3分の1を占めた石炭が構造的な不振に陥っていた。
- 内容
- 石炭の縮小と並行して、1955年のカプロラクタム量産や千葉・堺の化学工場という受け皿を先に育て、1957年から石炭部門の約7,000名を多角化事業へ配置転換した。大量解雇で炭鉱を畳んだ他の財閥系炭鉱会社と異なり、次の事業へ人を移して吸収する道を選んだ。
- 含意
- 「有限の石炭から無限の工業へ」という創業以来の理念を、雇用を抱えたまま事業を組み替えるという痛みを伴う実務として果たした。単一資源への依存から抜け出す転換は成し遂げられた一方、配置転換で全員を吸収しきれない限界や、常磐炭田進出の失敗も残った。
有限の石炭から無限の工業へ、という約束の果たし方
この判断の核心は、祖業が採算を失うと見切ったうえで、そこで働く人々をどう次へ渡すかという一点にあったとみることができる。エネルギー革命という後戻りのしない変化を前に、石炭を延命させる選択も、一気に畳んで人を切り離す選択もありえた。宇部興産が選んだのは、10年をかけて量産化学という受け皿を先に育て、約7,000名を配置転換で吸収しながら祖業を閉じる道であった。地域と出資者と従業員がほぼ重なって始まった会社にとって、雇用を抱えたまま事業を組み替えることは、経済合理性であると同時に創業以来の約束を守る営みでもあったとみられる。
もっとも、配置転換だけで全員を吸収しきれたわけではなく、常磐炭田への進出のように現場の慣性に引きずられた失敗も残った。撤退は市況の問題であると同時に、縮む部門の声とどう折り合うかという社内政治の問題でもあった。それでも、枯れる資源に見切りをつけ、次の柱を先回りして仕込む——「有限の石炭から無限の工業へ」という創業の言葉を、痛みを伴う実務として果たした点に、この判断の重さがある。素材市況に翻弄され続けた後年の宇部興産が、いままた化学スペシャリティへの転換を迫られていることを思うと、祖業を畳んだ半世紀前の選択は、なお現在の問いへとつながっているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
エネルギー革命が奪った炭鉱の採算
1950年代後半、国内の石炭鉱業はエネルギー革命の直撃を受けていた。割安な輸入原油への転換が急速に進み、割高な国内炭は火力や工業の燃料としての座を明け渡しつつあった。読売新聞は1962年、石炭の行き詰まりはエネルギー革命による構造的なもので、いまでは誰も否定しない、と当時の空気を書き留めている。一時の不況ではなく後戻りのしない構造変化だという認識が、産業界に共有されつつあった。祖業の炭鉱をこのまま抱え続ければ、近い将来に会社全体の重荷になりかねなかった[1]。
宇部興産にとって石炭の縮小は、事業構成の根幹を揺るがす問題であった。中安閑一氏は後年、10年ほど前まで売上高の34〜35%を石炭が占めていたと振り返っており、1950年代半ばまでは石炭が売上の3分の1を支える主力であった。その主力の足元が崩れ始めていた。取締役相談役だった水野一夫氏は、主力炭鉱だった宇部の沖ノ山炭鉱は鉱脈が薄くなり採算が急速に悪化し始めた、と当時を述懐している。稼ぎ頭が数年のうちに不採算部門へ転じる見通しが、経営の前提を書き換えつつあった[2][3]。
掘りつくす前に次を仕込む理念
石炭がいつか尽きるという前提は、宇部興産にとって創業時から織り込まれた与件であった。初代社長・渡辺祐策氏は、現在ある石炭の恩恵を一時代の宇部の人が独占せず、石炭が消滅しても無限の工業を残すことで子々孫々まで生活を豊かにする、という理念を掲げていた。「有限の石炭から無限の工業へ」という言葉に縮められたこの発想のもと、宇部では大正期の鉄工所・セメント、昭和初期の窒素工業と、石炭の副産物や立地を生かす加工産業が早くから仕込まれてきた。祖業の枯渇に備える構えは、思想として半世紀にわたり受け継がれていた[4]。
理念を実務へ引き継いだのが、戦後の宇部興産を率いた中安閑一氏であった。中安氏は後年の『私の履歴書』で、石炭を掘りつくせば宇部は火が消えたようになるので、世界中を歩いて宇部へ持ってこられる仕事を探してこい、と命じられた当時を回想している。掘れる石炭には限りがあるという危機感は、抽象的な理念にとどまらず、次の主力事業を探す具体的な行動を促していた。1951年に中央研究所を開設し、1955年にはナイロン原料のカプロラクタム工場を新設して量産化学品の生産を始めたのも、その延長にあった。石炭が尽きる前に次の柱を仕込むという段取りは、すでに形をとりつつあった[5]。
決断
経済性を貫く合理化という構え
エネルギー革命が構造的である以上、合理化は避けて通れない、というのが宇部興産の判断であった。読売新聞は1962年、当面の摩擦をさけようとすれば人員をへらすほかない、と経営側の立場を伝えている。同時に、石炭の合理化には変革の理論を是認したうえで対策を立てることが大前提だ、とも記した。目先の労使摩擦を避けて延命を図るのではなく、エネルギー転換という前提を受け入れたうえで採算の立たない石炭を縮めていく——中安氏はこの経済性の論理を、合理化の筋として貫こうとしていた[6]。
石炭を縮めるだけであれば単なる撤退にすぎないが、宇部興産は縮小と並行して受け皿となる事業を積み増した。戦後の設備復旧を経た1955年、6ナイロン原料のカプロラクタム工場を建設し、量産化学品への足がかりを築いた。中安氏は、石炭を掘りつくしたあとをどうするかを早め早めに考えて会社を安定させ、従業員が何代でも安心して勤められるようにするのが自らの経営だと語っている。1960年代には千葉の石油化学や堺の総合化学工場を加え、石炭由来からナフサ由来へと主力の原料を移していった。撤退で空く人と資本を吸収する新事業を、先回りして立ち上げていた[7]。
解雇ではなく7,000名の配置転換
石炭撤退の眼目は、雇用をどう扱うかにあった。宇部興産は1957年から石炭部門の約7,000名を化学・セメント・機械の多角化事業へ配置転換し、撤退と同時に人員を社内へ再配置した。大量解雇で炭鉱を畳んだ他の財閥系炭鉱会社と異なり、次の事業へ人を移して吸収する道を選んだ点に、宇部の特徴があった。もっとも中安氏自身、これだけでは離職者全員の吸収はできそうにない、と限界も認めていた。多角化で受けきれない部分は残ったが、企業ぐるみで雇用を抱え直す道を選んだことは、地域と一体で歩んできた宇部の来歴に沿うものであった[8][9]。
転換は社内の抵抗を抱えながら進んだ。石炭部門では現場の坑夫と本社スタッフが一緒になって常磐炭田への進出運動を起こし、経営が石炭に見切りをつけるなかでも延命を求める声が根強く残っていた。実際に進めた常磐炭田は出水が多く、進出は失敗に終わって化学部門への投資を一時圧迫した。水野一夫氏は後年、転換期には往々にして企業と社員の目指す方向にズレが生じ、その部門の勢力が強いほど企業の転換は遅れがちになる、と振り返っている。石炭からの撤退は、市況だけでなく社内の慣性との折り合いをつける過程でもあった[10][11]。
結果
1967年の閉山と石炭ゼロ化
石炭撤退は、1967年の閉山で一区切りを迎えた。読売新聞は1966年8月、宇部鉱業所を1967年秋に閉山すると報じ、宇部興産は予告どおり1967年10月に鉱業所を閉じた。『企業の歴史 : 明治百年』は、石炭部門はエネルギー革命の嵐のなかで不振を続け、坑内条件の悪化もあって70年の歴史をもつ宇部鉱業所を閉山した、と記録している。1897年の沖ノ山炭鉱に始まる祖業は、市況と鉱脈の両面から採算が立たなくなり、70年の操業に幕を下ろした。創業以来会社を支えてきた石炭が、事業として姿を消す節目であった[12][13]。
祖業が消えたあとの宇部興産は、化学とセメントを主力とする総合素材企業へ姿を変えていった。配置転換で送り出された人員を受け止めた多角化事業は伸び、単独売上高は撤退が始まった1957年3月期の267億円から、閉山を挟む1967年3月期には943億円へと拡大した。石炭が主力だった10年余り前の面影は薄れ、1970年代半ばには石炭部門の従事者はゼロとなった。祖業を畳みながら会社そのものは縮まず、むしろ規模を数倍に伸ばした点に、撤退と多角化を並行させた設計の帰結がうかがえる。石炭という単一資源への依存から抜け出す転換は、ひとまず成し遂げられた[14][15]。
- 中安閑一「私の履歴書」(日本経済新聞連載)
- 読売新聞 1962年9月25日「石炭合理化に経済性を貫け」
- 読売新聞 1966年8月27日「宇部鉱業所を1967年秋に閉山」
- 中安閑一「わたしの経営」(1963年)
- ダイヤモンド 1965年1月1日号「合理化コスト低下こそ第一」
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- 日経ビジネス 1984年5月7日号「有訓無訓 水野一夫 私心あると転換の方向見紛いやすい」
- 宇部興産 会社年鑑(部門別人員数・単独業績)