歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1955年、戦後の通産省主導の石油化学育成策に応えて、三井グループ7社と興亜石油が共同出資で三井石油化学工業を設立した。単独で石油化学に挑む資本力は当時の国内化学各社になく、三井財閥系の総力を集めた共同出資だけが、後発の日本に世界水準のコンビナートを建てる解だった。1958年に岩国でエチレンと誘導品の量産が始まり、創業の事業は最初から協調を前提に組み立てられた。
決断この共同出資の方式は、その後の拡張でも繰り返し使われた。1967年に千葉で世界最大級のエチレン設備を動かすとすぐ、日本石油化学との折半で浮島石油化学を設けて増強を共同で担い、外資との合弁では相手の技術と自社の販路を組み合わせて特殊品を広げ、宇部興産との折半でポリプロピレンを統合した。単独で抱えず相手と分け合うやり方が、汎用石化を協調で守り特殊品を外部技術で立てる事業構造を作った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1933年〜1984年 三井系8社の共同出資で始まった日本の石油化学元年と岩国大竹の火消失
1955年・三井系8社の共同出資で生まれた「日本の石油化学元年」
三井化学の現在の系譜は、1933年に大牟田で硫安製造を始めた東洋高圧工業、1941年設立の三井化学工業(旧)、1955年7月に三井グループ7社と興亜石油の共同出資で設立された三井石油化学工業の3つに分かれる[1][2][3]。後者は戦後の通産省主導の石油化学育成策に応えて生まれた企業で、設立翌年から山口県岩国市の旧陸軍燃料廠跡地約32万平方メートルの払い下げを受け、工場建設が始まった[4]。単独資本で石油化学に参入する体力が当時の国内化学各社にはなく、三井系の総力を合わせる共同出資がその唯一の解となった。通産省の育成策と三井財閥系の資本協調という2つの力が重なり、後発の日本石油化学に世界水準のコンビナートが完成した。
1958年2月、岩国工場は年産2万トンのエチレン設備と誘導品プラントを擁する総合石油化学工場として完成した[5]。同社は日本で最初期にエチレン中心のコンビナートを稼働させた企業の一つとなり、戦後日本の石油化学工業の起点を担った[6]。ポリエチレン・ポリプロピレンの量産と誘導品の誘致が岩国を拠点に始まり、後背地の広島・山口に派生産業を呼び込む形で瀬戸内コンビナート構想の先鞭となった。三井系の財界が国家プロジェクトとして支えた共同事業として、三井化学の出発点は単独経営ではなく協調体制の上にあった。この協調の遺伝子はその後70年にわたる再編史のなかで外資合弁・業界合併・統合の場面ごとに何度も顔を出す原型となり、同社の意思決定の底流を規定した。
千葉工場のエチレン12万トン ── 世界規模を選んだ1967年の判断
岩国大竹工場の建設と並行して、需要地である関東で立地を探していた同社は、三井物産の推奨で千葉県五井姉崎の埋立地への進出を決めた[7]。1961年に東洋レーヨンや三井物産など三井系各社とともに約330万平方メートルの埋め立て分譲契約を千葉県と締結し、1967年3月に千葉工場が操業を始めた[8]。エチレン能力は年産12万トンで、当時としては日本最大、世界でも最大級のプラントだった[9]。東洋高圧工業の肥料事業と三井化学工業(旧)の染料・医薬事業に加え、三井石油化学の基礎化学品生産という3つの事業基盤が、千葉・岩国大竹・大牟田の3拠点に分かれて布陣する構図もここで整った。国内他社の追随を許さない規模投資であり、岩国大竹の後背地として東西2極を形づくる布石となった。
これにより同社は東西2極の供給体制を整え、1962年に東証・大証2部、1965年に1部へ指定替えされた[10][11]。1960年代後半に国内エチレン業界ではプラントの建設競争が激化し、1969年から1972年にかけてエチレンプラント9基が新設された。この設備投資ラッシュに対し同社は単独拡張を避け、1967年11月に日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立し、能力増強を共同で担う独自モデルを採った。共同出資による拡張は1955年の創業時の枠組みを応用したやり方で、協調で戦う同社の行動様式を示す選択となった。単独増強による設備過剰のリスクを避けながら規模の経済を確保する折衷型の成長戦略は、ここで同社の基本型として定着した。
浮島集約と産構法 ── エチレンの火が岩国大竹から消えた日
二度の石油危機と為替変動相場制への移行は、設備過剰に苦しむ石油化学業界を直撃した。1983年には同社・三井東圧化学・日本石油化学・三井デュポンポリケミカルの4社で三井日石ポリマーを設立し、特定産業構造改善臨時措置法(産構法)に基づく過剰設備処理の枠組みに入った。1984年から1985年にかけて、同社は岩国大竹工場のエチレン8万7000トンと千葉工場の14万3000トンを廃棄した[12]。国主導の業界再編に全面的に組み込まれ、拡大の時代から整理の時代への転換を主力拠点で引き受けた。折半出資で拡張した浮島石油化学の枠組みはそのまま能力削減の受け皿となり、共同事業という出発点がこのときも意思決定の前提となった。
1985年3月、同社のエチレン生産は浮島石油化学に全量集約され、岩国大竹工場からエチレンの火が消えた。日本の石油化学発祥の地から基幹設備が消えたこの再構築は、産構法時代の業界再編を代表する事例となった。事業内容は千葉工場を基礎化学品の生産拠点、岩国大竹工場を高度技術による特殊化学品の中核拠点とするものに改められ、汎用品から特殊品への転換が事業構造として明示された。創業から30年で、出発地である岩国大竹は汎用エチレンの現場ではなく特殊品拠点として第二の役割を担う場に生まれ変わった。その後のライセンス収益と機能性素材事業の地盤づくりは、ここから始まった。
1985年〜2009年 「超石油化学」宣言から三菱追随の対等合併と住友化学との統合撤回
1985年「超石油化学」宣言と合弁ラッシュ
エチレン集約と並行して、同社は1985年10月に「超石油化学」をうたう中期ビジョンを発表した。事業の多角化、高付加価値化、国際化の3本柱を掲げ、汎用品依存からの脱却を明示した経営方針である。1976年に開発したポリオレフィン分野の独自触媒技術はライセンスビジネスとして展開され、1995年時点で技術供与件数は140件を超えた[13]。自社装置からライセンス収益までを組み合わせる独自の収益モデルが育ち、研究開発体制も1967年の総合研究所から始まり、ポリマー応用研究所、生物工学研究所、機能材研究所、袖ヶ浦研究開発センターへと拡充が続いた。これらが特殊品への移行を支える基盤となった。
外資との合弁は1981年から1991年にかけて集中的に進んだ。アライド社との日本非晶質金属、GE社との日本ジーイープラスチックス、デュポンとの三井デュポンフロロケミカル、チバガイギーとの日本アルキルフェノール、エニケムとのミテックスなど、機能性素材分野で相次ぎ合弁会社を設立した。汎用石油化学の限界を見据えた合弁ラッシュは、同社が単独路線ではなく協調を選び続けた歴史と重なる。いずれも日本側が販売網と製造基盤を提供し、外資側が触媒・材料設計・製品仕様を持ち込む分業で、投資負担を抑えながら機能材のポートフォリオを広げる構造であった。1955年の三井系8社共同出資のパターンを外資相手に拡張した動きで、外資の技術と三井の販路を組み合わせる型が特殊品事業の基盤づくりを牽引した。
三菱の2年遅れで決まった三井東圧との対等合併
1994年、三菱化成と三菱油化が合併して三菱化学が発足した。総合化学業界における国内最大手の誕生は、三井系にとって統合検討のトリガーとなった。1995年10月、三井石油化学工業は宇部興産との折半出資で株式会社グランドポリマーを設立し、ポリプロピレン事業の一体化に踏み切った。続いて1996年に三井東圧化学との合併基本合意が結ばれ、1997年10月に対等合併で三井化学株式会社が発足した[14]。合併比率は三井東圧0.6に対して三井石油化学1.0で、収益力で勝る石油化学側に有利な条件となり、実質は石油化学主導の統合に近い構図で進んだ[15]。合併の前段に置かれたグランドポリマーの設立は、宇部興産という三井系外の相手と組んで業界再編に向けた交渉力を先に確保する布石でもあった。
合併によって三井化学は48事業を抱える総合化学メーカーとなったが、不採算部門も多く、翌1998年の中期経営計画では注力分野を17領域に絞り込む方針が示された[16][17]。三菱化学から2年遅れの追随は、戦後一貫して協調出資で成長した三井系の意思決定パターンを反映する。単独で最大手に挑まず、業界最大手が動いた後に三井系総力で追随する形は、石油化学の枠を超え総合化学の領域でも再現された。業界再編のタイミングを自ら切り開くよりも、最大手の動きを見定めて総力で合流する合従連衡が、総合化学の枠組みのなかでも踏襲された。統合後の組織運営では、三井東圧側の医薬・農薬・機能材と三井石油化学側の基礎化学品・ポリオレフィンを一本化する作業に時間を要した。
住友化学との統合計画はなぜ3年で撤回されたか
合併後まもない2000年12月、三井化学と住友化学は統合計画を発表した[18]。背景には合併直後の収益基盤の脆弱性と業界全体の設備過剰問題があった。しかし統合協議は事業ポートフォリオと経営権の調整で難航し、2003年3月、発表から3年足らずで統合計画は撤回された。同社はポリオレフィン事業の再編を別の方向で進め、2005年4月に出光興産と折半でプライムポリマーを設立した[19]。住友との統合の代わりに、出光との個別アライアンスで基礎化学品の一部を束ねる道を選んだ。合併後わずか3年で再び再編に方針を変えた背景には、48事業を抱え込んだことによる収益基盤の脆さと業界全体の過剰設備問題が重なっていた。
2000年代の同社は、住友化学との統合撤回という再編の挫折を抱えつつ、武田薬品工業のポリウレタン材料事業統合(2001年・三井武田ケミカル設立)、2007年の三共アグロ買収による農業化学品事業、2008年のSDC Technologies買収による調光レンズ事業など、成長領域への小型M&Aを積み上げる路線へと方針を変えた[20]。後のライフ&ヘルスケア戦略の素地は、この時期の個別買収の積み重ねで形成された。統合の代替として小型買収を束ねる道が選ばれ、汎用石油化学の外側に少しずつ別の事業柱を立てる準備が進んだ。後のライフ&ヘルスケア・ソリューション事業の源流は、この10年間の小型買収の積み重ねから生まれた。
2010年〜2019年 3期連続赤字から淡輪敏の構造改革で営業利益1021億円まで戻した5年
リーマン後の3期連続赤字が突きつけた「ポートフォリオ問題」
リーマンショック後、同社は2012年3月期に連結純損失10億円を計上し、2013年3月期に同81億円、2014年3月期には同251億円と、3期連続の純損失に陥った[21][22][23]。営業利益は黒字を維持したものの、汎用石油化学事業の収益悪化と特別損失の累積が当期利益を押し下げた。原因は中国を中心とする供給能力の急増と国内クラッカー稼働率の構造的な低下にあり、1980年代の産構法対応とほぼ同じ構図の再来だった。形を変えた設備過剰問題が再び同社を追い詰め、創業期から付きまとう汎用事業依存という課題が表面化した。1955年に三井系8社の共同出資で始まった石油化学事業が、50年を経てなお収益変動の主因として残ることが、3期連続赤字として財務諸表に現れた。
2010年4月、田中稔一が代表取締役社長に就任し、リーマン後の経営再建に着手した[24]。同年10月には出光興産と千葉地区エチレンプラントの統合運営を開始し、三共アグロの農業化学品事業を統合して三井化学アグロ(現三井化学クロップ&ライフソリューション)を設立、東セロ・三井化学ファブロのフィルム・シート事業を統合して三井化学東セロを発足させた[25][26]。基礎化学品の合理化と非石化領域の集約という2つの方向性が田中在任中に並行して進み、後の淡輪体制が掲げる本格的な構造改革の下ごしらえとなった。出光との千葉地区エチレン統合運営は、2027年度クラッカー集約へと続く長期協力関係の出発点で、ここでも折半型の共同事業という同社の伝統的なやり方が採られた。
淡輪敏の構造改革 ── 5年で営業利益1021億円まで回復した道筋
2014年6月、淡輪敏が代表取締役社長に就任した[27]。淡輪体制は汎用石油化学の合理化を続けつつ、ライフ&ヘルスケア・モビリティ・ICTの3成長領域に資源を集中させる構造改革に方針を変えた。2014年に米コーニングから調光レンズ材料事業を取得し、2015年には独ヘレウスから歯科材料事業(現クルツァー)の取得交渉を行った。同時に、千葉地区のエチレンプラント統合運営、岩国大竹の合理化、持分化学品の選別を進め、非中核資産の圧縮と成長投資を並行して回す改革路線を敷いた。事業ポートフォリオの重心は特殊品側へ移った。1985年の「超石油化学」宣言から30年、標語にとどまっていた汎用品依存からの脱却が、買収と合理化を伴う具体的な資本配分の転換として実行段階に入った。
構造改革の効果は財務に反映された。営業利益は2014年3月期420億円から、2017年3月期1021億円、2018年3月期1034億円へと3年で2倍以上に拡大した[28][29][30]。淡輪は構造改革で収益力を回復させた次の段階を成長投資の拡大と位置づけ、構造改革・収益回復・成長投資という3段階の経営ストーリーを掲げた。70年にわたる協調と再編の歴史のなかで、単独での構造改革の成果が財務に明確な形で表れた初の5年で、橋本体制が受け継ぐ二軸経営の出発点にもなった。汎用石油化学の合理化だけでは3期連続赤字から脱出できないという教訓が、成長領域への集中的な資源配分を経営の中心に押し上げた。
Heraeus Kulzer買収とライフ&ヘルスケアという軸
ヘレウスからの歯科材料事業買収は、同社のポートフォリオを書き換えた。2018年1月にKulzer GmbHを含む歯科材料事業を取得し、オーラルケアという新しい事業の柱をグローバル規模で手に入れた[31]。これに先立つ2010年の三井化学アグロ設立で農薬事業を統合し、2014年にコーニングから取得した調光レンズ材料はビジョンケア事業の中核となった。ライフ&ヘルスケア・ソリューションというセグメントは、農薬・歯科材料・調光レンズという性格の異なる個別買収の積み上げで構築され、汎用石油化学の景気連動とは独立した収益源を形づくった。汎用石油化学の外側に独立した事業柱が初めて明確な形で立ち上がり、二軸経営の片方の土台を形成した。
2019年6月、橋本修が代表取締役社長に就任した[32]。橋本は三池炭鉱出身で、前任までの構造改革路線を引き継ぎながら、石油化学と成長領域を別の論理で運営する二軸経営への転換を準備した[33]。2021年9月にはアークの完全子会社化と本州化学工業の連結子会社化、SKCとのポリウレタンJV株式取得、2022年1月には明治HDから農薬事業を取得した[34]。成長領域の積み増しは橋本在任中に加速し、淡輪期に敷いた3成長領域の枠組みを拡張する形で投資が続き、二軸経営を前提とした資本配分の輪郭が定まった。淡輪期の個別買収を継ぎ足す路線から、事業領域ごとに買収対象を束ね直し既存事業との組み合わせで相乗効果を狙う段階へと、M&Aの性格そのものが変わった。