1913
9月

住友総本店が肥料製造所を新設

住友財閥の中枢としての別子銅山

住友財閥は、明治時代を通じて別子銅山(愛媛県)への機械化投資を実行。従来は人力であった「排水」や「掘削」で機械を積極的に導入した結果、明治30年には3000トン/年、明治42年には6000トン/年を産出する日本有数の銅山に育て上げた。

そして住友財閥は、別子銅山における銅の産出で十分な利益を確保し、銀行(住友銀行)・保険(住友生命)・鉄(住友金属)といった多角事業に資本投下することで、財閥として発展した。このため、別子銅山における高収益が、住友家が財閥として発展するかどうかの鍵を握っており、銅の産出量の確保は至上命題であった。

銅精錬による亜硫酸ガスの公害問題

ところが、産出量が増えるにつれて、精錬における公害問題(煙害)が顕在化した。別子銅山で産出した銅は、山を下った海辺の新居浜の製錬所で精製されたが、この時に「亜硫酸ガス」が発生。新居浜周辺の農作物に被害をもたらした。このため、近隣の農民は暴動を起こして抗議するなど、住友財閥としては公害問題への対処が急務となった。

そこで、住友財閥は農民への金銭補償を行いつつ、精錬所を新居浜から、瀬戸内海に浮かぶ島「四阪島」に移転することを決定した。当時は亜硫酸ガスの回収法が技術的に確立されておらず、工場移転が最善の策でもあった。

しかし、それでも煙は四国本土に流れ着いてしまい、課題解決には至らなかった。

肥料製造による亜硫酸ガスの抑制

1908年に住友財閥は抜本的な解決策として、亜硫酸ガスの発生を抑制するために、硫酸を原料とした過リン酸石灰(肥料)の生産を決定。これらを近隣の農家に配ることで公害による補償を行う意図もあった。ただし、当時の肥料の市場は限定的であり、採算を度外視した意思決定でもあった。

肥料製造を本格展開するために、1913年に住友総本店は肥料製造所を新設。工場は新居浜の海岸を埋め立てることで工場を新設した。この製造所が住友化学の発祥工場に相当しており、創業地は「新居浜」とされる。創業においては肥料(化学)における市場は限定的であり、独立した株式会社ではなく、住友総本店の1事業として運営された。

1876年
別子銅山への機械化投資を開始
1888年
四阪島に精錬所を設置
1897年
別子銅山・産出量が増加
年産 3000 t
1908年
亜硫酸ガス抑制のために肥料製造を決定
1909年
別子銅山・産出量が増加
年産 6000 t
1910年
11月
農家への賠償金支払いで妥結
1913年
9月
新居浜に肥料製造所を新設
1925年6月
株式会社住友肥料所を設立
1934年2月
商号を住友化学工業株式会社に変更
1944年7月
日本染料製造を合併
1946年2月
日新化学工業に商号変更
1949年12月
住友アルミニウム精錬の設備を取得
1952年8月
住友化学工業株式会社に商号復帰
1958年5月
石油化学部門に進出・エチレン誘導品の生産開始
1965年11月
千葉工場の新設開始
1971年7月
宝塚総合研究所を新設・医薬品と農薬研究を強化
1976年11月
アルミニウム精錬から撤退
1978年1月
三沢工場の新設・殺虫剤の量産
1982年2月
インドネシア・アサハン・アルミニウムの操業開始
1984年2月
医薬品事業の分割・住友製薬株式会社を発足
1984年3月
シンガポール石油化学コンビナートの操業開始
1989年3月
組織再編を実施
2000年1月
米アボットの生物農薬関連事業を買収
2002年11月
武田薬品の農薬事業を買収
2003年11月
三井化学との経営統合で基本合意
2003年3月
三井化学・住友化学との統合計画を撤回
2003年4月
液晶ディスプレイ向けカラーフィルターの量産開始(韓国)
2004年5月
サウジアラムコと共同で「ペトロ・ラービグ」のPJ開始
2004年
5月
サウジアラムコと基本覚書を締結
2005年
8月
サウジアラムコと合弁会社の設立契約
2008年
合弁会社をサウジアラビア証券取引所に上場
株式保有比率 37.5 %
2009年
ラービグの操業開始
2005年10月
住友製薬と大日本製薬を合併・大日本住友製薬を発足
2009年4月
エンタンクラッカー操業開始(サウジアラビア)
2011年4月
十倉雅和氏が代表取締役社長に就任
2019年
ラービグ第2期計画の操業開始
2019年4月
岩田圭一氏が代表取締役社長に就任
2020年3月
子会社・住友ファーマでロイバンド社と提携
2024年4月
赤字転落・抜本的構造改革を公表
2024年
4月
子会社・住友ファーマで最終赤字に転落
当期利益 -3231 億円
2024年
8月
ペトロ・ラービグ再建プランを公表(出資引き下げ)
出資比率 15 %