1923年〜 日本窒素コンツェルンからの独立と延岡アンモニアを起点とする多角化の原型
- 1923年 日本窒素が延岡工場を新設
- 1931年 延岡アンモニア絹絲を設立
- 1935年 食品事業に参入(グルタミン酸ソーダ)
- 1943年 日本窒素化学工業を発足(旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併)
- 1946年 日窒コンツェルンからの分離独立と旭化成工業への商号変更 財閥解体の圧力のもとで、延岡の事業は何を捨て何を残したか
- 1949年 東京証券取引所に株式上場
- 1961年 宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動 繊維不況で収益が急落するなか、旭化成工業はどこに次の柱を求めたか
アンモニアから肥料・繊維・火薬が派生する戦前の事業構造
初代社長の野口遵氏は、大正10年にイタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため渡欧し、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建設してカザレー式アンモニア合成法による硫安の製造を始めた。自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成する方式で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった。五ヶ瀬川の水力発電で得られる安定した電力供給が立地選定の決め手となり、1927年には硫安の年産が6万トンの水準に達し、国内最大級の硫安製造拠点へ成長した。野口氏はこの渡欧の際に人絹の将来性も見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入して、1922年には旭絹織を設立し、1924年には大津に工場を完成して操業を始めた。肥料と繊維を同時に立ち上げる経営構想を創業期から実行に移し、化学工業は水力電源の近くに展開するという立地論理が、延岡を旭化成の発祥の地に定めた背景にある。 [1][2][3][4][5]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
- [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
- [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
- [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
- [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
野口氏はアンモニアの高度利用の立場からキュプラ糸ベンベルグに着眼し、1929年にはドイツのベンベルグ社より技術を導入して日本ベンベルグ絹糸を設立した。アンモニアの利用は合成硝酸から火薬工業への進出にも及び、1930年には日本窒素火薬を設立している。1931年には延岡アンモニア絹糸を設立し、この1931年が旭化成の公式な設立年である。1933年には延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併して旭ベンベルグ絹糸となり、1943年には日本窒素火薬を吸収合併して日本窒素化学工業が発足した。アンモニアという一つの化学技術から肥料・化学繊維・火薬という複数の事業が派生し、一つの原料と技術を基盤に多様な事業を並べる構造は、戦前期にすでに形を整えていた。後年の旭化成の多角化経営は、この戦前の事業配置を引き継いでいる。技術と電力を中核資源として複数事業を派生させる発想は、創業者の野口遵氏の経営思想そのものだった。 [6][7][8][9][10]
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
- [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
- [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
- [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
- [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
- [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
- [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
- [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
- [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
- [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [6]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
- [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
- [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
水俣を免れた巡り合わせと繊維頼みの限界
1945年の終戦後、GHQの財閥解体政策により日本窒素コンツェルンは複数の会社へ分割された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日本窒素化学工業は日本窒素本体から分離され、1946年4月に財閥解体の趣旨にそって旭化成工業という新商号で独立した。独立後は制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による首脳部の交替といった試練が続いたが、再建計画を進めて1949年には各部門の復元をほぼ完了した。水俣の工場はチッソへ引き継がれ、旭化成は後の水俣病の賠償問題を結果的に免れた。独立後も延岡は事業運営の中心地であり続け、1977年時点で延岡の社員数は7413名に達したと社史に記録がある。戦前の日窒系3工場のうち、水俣は戦後のチッソ、延岡は旭化成というかたちで分岐し、それぞれの戦後史を決定づけた。創業地への経営資源の集中は戦後も長期にわたり続き、旭化成という企業の組織文化を規定する特徴となった。 [11][12]
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)
1961年5月、合繊業界の状況は「供給過剰の恐れ・合繊業界・増設競争一段と激化」(読売新聞 1961/5/25)として紙面に取り上げられた。ポリエステルの普及でレーヨン・ベンベルグの競争力は落ち、新規に立ち上げたアクリル繊維「カシミロン」でも大量の不良在庫が発生した。売上高純利益率は1957年好調期の8.0%から1961年にはわずか1.3%まで下がり、社員の一時帰休を決める水準に追い込まれた。宮崎輝氏は後年、「私が社長になった1961年ごろから、ポリエステルなどの合成繊維が本格的に市場に出てきた。それをみて、レーヨンやベンベルクの化繊だけに頼っていたら、うちはやがてダメになると思ったんです」(ダイヤモンド 1964/6/29)と振り返る。この繊維不況が宮崎氏の社長就任と多角化推進のきっかけとなった。 [13][14]
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [13]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
- ダイヤモンド(1964年6月29日)
- [14]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐
- 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
- [13]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)
- ダイヤモンド(1964年6月29日)
- [14]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐