旭化成 の歴史

創業

1931年

創業者

野口遵

創業地

宮崎県延岡市

直近売上高(2025/3)

30,373億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1923年に延岡でアンモニアから肥料・繊維・火薬を同時に派生させたのか
A 1923年9月、化学肥料の国産化が国策となるなか、日本窒素肥料の野口遵氏は宮崎県延岡にカザレー式アンモニア合成工場を設け、五ヶ瀬川の水力発電で得た安価な電力で硫安を量産した。同じアンモニアと電力を元手に、すでに1922年に設けた旭絹織の人絹、火薬へと事業を派生させた。一つの原料と自社技術を別の事業へ転用して稼ぎ口を増やす発想が、延岡の現場で形を整えた。
Q なぜ宮崎輝氏は1968年に売上高並みの約1,000億円を水島の石油化学へ投じたのか
A 1961年に社長へ就いた宮崎輝氏は、ポリエステルの普及で繊維だけでは行き詰まると見て、稼ぎ頭を化学へ移す必要があると判断した。繊維の合理化で確保した利益を原資に新規事業の赤字を許す方針を採り、1968年7月に山陽石油化学を設立、当時の売上高に匹敵する約1,000億円を水島へ投じた。自社で持つ技術を別領域へ移して他社が追いつけない事業を育てる手法を、社運を賭けた一手で石化へ広げた。
Q なぜ2024年以降、半世紀かけて築いた基礎化学を縮め資金をヘルスケアへ回すのか
A 2012年以降に約7,000億円をかけて取り込んだ欧米のヘルスケア事業に対し、汎用品中心の基礎化学は投資回収が立たず資本効率を押し下げていた。そこで2025年4月の中期経営計画2027でROIC6%・ROE9%を掲げ、2024年11月にタイのPTT Asahi Chemicalの撤退を決め、2026年1月に西日本のエチレン体制見直しに入った。1968年に水島で広げた石油化学を、半世紀を経て自ら畳む作業に入った

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1923年〜 日本窒素コンツェルンからの独立と延岡アンモニアを起点とする多角化の原型

  1. 1923年 日本窒素が延岡工場を新設
  2. 1931年 延岡アンモニア絹絲を設立
  3. 1935年 食品事業に参入(グルタミン酸ソーダ)
  4. 1943年 日本窒素化学工業を発足(旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併)
  5. 1946年 日窒コンツェルンからの分離独立と旭化成工業への商号変更 財閥解体の圧力のもとで、延岡の事業は何を捨て何を残したか
  6. 1949年 東京証券取引所に株式上場
  7. 1961年 宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動 繊維不況で収益が急落するなか、旭化成工業はどこに次の柱を求めたか

アンモニアから肥料・繊維・火薬が派生する戦前の事業構造

初代社長の野口遵氏は、大正10年にイタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため渡欧し、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建設してカザレー式アンモニア合成法による硫安の製造を始めた。自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成する方式で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった。五ヶ瀬川の水力発電で得られる安定した電力供給が立地選定の決め手となり、1927年には硫安の年産が6万トンの水準に達し、国内最大級の硫安製造拠点へ成長した。野口氏はこの渡欧の際に人絹の将来性も見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入して、1922年には旭絹織を設立し、1924年には大津に工場を完成して操業を始めた。肥料と繊維を同時に立ち上げる経営構想を創業期から実行に移し、化学工業は水力電源の近くに展開するという立地論理が、延岡を旭化成の発祥の地に定めた背景にある。 [1][2][3][4][5]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
    • [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
    • [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
    • [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
    • [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)

野口氏はアンモニアの高度利用の立場からキュプラ糸ベンベルグに着眼し、1929年にはドイツのベンベルグ社より技術を導入して日本ベンベルグ絹糸を設立した。アンモニアの利用は合成硝酸から火薬工業への進出にも及び、1930年には日本窒素火薬を設立している。1931年には延岡アンモニア絹糸を設立し、この1931年が旭化成の公式な設立年である。1933年には延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併して旭ベンベルグ絹糸となり、1943年には日本窒素火薬を吸収合併して日本窒素化学工業が発足した。アンモニアという一つの化学技術から肥料・化学繊維・火薬という複数の事業が派生し、一つの原料と技術を基盤に多様な事業を並べる構造は、戦前期にすでに形を整えていた。後年の旭化成の多角化経営は、この戦前の事業配置を引き継いでいる。技術と電力を中核資源として複数事業を派生させる発想は、創業者の野口遵氏の経営思想そのものだった。 [6][7][8][9][10]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
    • [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
    • [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
    • [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
    • [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
    • [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
    • [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
    • [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
    • [7]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
    • [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
    • [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
    • [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す

水俣を免れた巡り合わせと繊維頼みの限界

1945年の終戦後、GHQの財閥解体政策により日本窒素コンツェルンは複数の会社へ分割された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日本窒素化学工業は日本窒素本体から分離され、1946年4月に財閥解体の趣旨にそって旭化成工業という新商号で独立した。独立後は制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による首脳部の交替といった試練が続いたが、再建計画を進めて1949年には各部門の復元をほぼ完了した。水俣の工場はチッソへ引き継がれ、旭化成は後の水俣病の賠償問題を結果的に免れた。独立後も延岡は事業運営の中心地であり続け、1977年時点で延岡の社員数は7413名に達したと社史に記録がある。戦前の日窒系3工場のうち、水俣は戦後のチッソ、延岡は旭化成というかたちで分岐し、それぞれの戦後史を決定づけた。創業地への経営資源の集中は戦後も長期にわたり続き、旭化成という企業の組織文化を規定する特徴となった。 [11][12]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)

1961年5月、合繊業界の状況は「供給過剰の恐れ・合繊業界・増設競争一段と激化」(読売新聞 1961/5/25)として紙面に取り上げられた。ポリエステルの普及でレーヨン・ベンベルグの競争力は落ち、新規に立ち上げたアクリル繊維「カシミロン」でも大量の不良在庫が発生した。売上高純利益率は1957年好調期の8.0%から1961年にはわずか1.3%まで下がり、社員の一時帰休を決める水準に追い込まれた。宮崎輝氏は後年、「私が社長になった1961年ごろから、ポリエステルなどの合成繊維が本格的に市場に出てきた。それをみて、レーヨンやベンベルクの化繊だけに頼っていたら、うちはやがてダメになると思ったんです」(ダイヤモンド 1964/6/29)と振り返る。この繊維不況が宮崎氏の社長就任と多角化推進のきっかけとなった。 [13][14]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [14]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
    • [13]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [14]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐

1962年〜 宮崎輝氏による1000億円石油化学投資と健全な赤字部門の経営哲学

旭化成の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1967年 ALC「へーベル」の製造を開始
  2. 1968年 売上高に匹敵する1000億円を投じた水島の石油化学コンビナート建設 原料を買い続けるか、自ら分解炉を持つか——化繊会社はどこまで賭けられたか
  3. 1972年 ALC建材「ヘーベル」を戸建てブランドに仕立てた住宅事業参入 素材を売るか、家ごと売るか——化繊会社・旭化成工業はなぜ住宅産業へ踏み込んだか
  4. 1974年 旭メディカルを設立・医療機器に参入
  5. 1980年 宮崎電子を設立しホール素子事業へ参入
  6. 1980年 「油漬け」体質の脱皮へ原子力・電子・医薬に賭けた第二次多角化 石油化学は解か、重荷か——石油危機後の旭化成工業は次の柱をどこに求めたか
  7. 1985年 吉野彰氏によるリチウムイオン電池の基本構造確立と特許戦略 石油化学に次ぐ新素材を探る少人数の研究テーマから、なぜ世界を変える電池が生まれたか

売上に匹敵する1000億円を賭けた社運の一手

1961年に社長に就任した宮崎輝氏は、繊維不況下の取締役構成を刷新し、副社長と専務を同時に降格させる人事を断行して経営体制の若返りを図った。宮崎氏は当時を「繊維だけじゃ、とても食っていけんぞ、と。まあ旭化成は50年の歴史がありますが、先輩の遺産に安住して繁栄を謳歌した時代が長かった。配当は2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代です。その時分からわたしは新しいことをやるべしと、しょっちゅう考えていましたよ」(ダイヤモンド 1964/6/29)と述懐している。繊維事業の合理化で年間約70億円の安定利益を確保し、その範囲内で新規事業の赤字を許容する「健全な赤字部門」の経営方針を築いた。1968年7月には山陽石油化学を設立し、当時の旭化成の売上高に匹敵する約1000億円を投じて水島コンビナートの建設に踏み切り、社運を賭ける経営判断を下した。 [15][16]

  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [15]宮崎氏のダイヤモンド1964年6月29日号での発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1968年7月 山陽石油化学株式会社設立・水島地区で石油化学事業へ本格進出

石油化学事業への参入の前提には、合弁会社の旭ダウを通じた樹脂事業の顧客基盤の先行構築があった。旭ダウは1969年時点でポリスチレン樹脂の国内シェア約40%を確保し、家電メーカーとの共同開発を通じて高収益を維持した。1982年には米ダウ・ケミカルとの合弁関係を解消し、約420億円を投じて旭ダウを完全子会社化する決断を下し、原料から製品までの一貫した生産体制を築いた。宮崎氏は事業選択の要諦として「企業で大事なことは何を選ぶかということです。これで勝負がつきます。しかしその選ぶときはやはり将来性のあるものでなければならぬ。また、自分の実力の範囲でなければならぬ」(化繊月報 1967/3)と語っている。繊維以外の事業基盤を積み上げ、経営の軸を多角的な産業構造へ移す宮崎氏の経営手腕が、投資の成功を支える土台となった。 [17][18][19]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]旭ダウは1952年7月に米国ダウ・ケミカル社と合弁で設立(合成樹脂事業へ進出)
    • [18]1982年に旭ダウとの合弁関係を解消(有報【沿革】は1982年10月「旭ダウ株式会社を合併、合成樹脂事業を強化」と記載。系譜図も1982「旭化成が吸収合併」)
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [19]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での発言
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [15]宮崎氏のダイヤモンド1964年6月29日号での発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1968年7月 山陽石油化学株式会社設立・水島地区で石油化学事業へ本格進出
    • [17]旭ダウは1952年7月に米国ダウ・ケミカル社と合弁で設立(合成樹脂事業へ進出)
    • [18]1982年に旭ダウとの合弁関係を解消(有報【沿革】は1982年10月「旭ダウ株式会社を合併、合成樹脂事業を強化」と記載。系譜図も1982「旭化成が吸収合併」)
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [19]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での発言

ソ連技術の失敗から住宅・医療機器へ転換した実行速度

宮崎氏は1967年の取材で「日本で一番足らぬのは住ですな。衣食足りて礼節を知るといいますが、もう一つ住が足りませんな。日本は絶対に」「私は壁、屋根、床、そのものずばりをつくる軽いコンクリートをつくる時代に入っていくと思います。これは将来のタネですよ。必ずこうなるのです」(化繊月報 1967/3)と述べ、住宅・建材を次の柱に据える意思を明示していた。住宅事業は1962年のソ連技術導入の失敗から出発した。ソ連から輸入したシリカリチートは建材として実用性に乏しい欠陥が判明し、累積赤字30億円を計上した。1965年にはドイツのALC技術へ切り替え、1967年には主力製品となる軽量気泡コンクリート「ヘーベル」の生産を開始した。失敗から学び技術を素早く入れ替える経営手法が、住宅事業の立ち上げ期にはっきり表れた。 [20][21]

  • 化繊月報(1967年3月)
    • [20]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での住宅・建材発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1967年8月 軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始・建材事業へ本格進出

1972年には代理店方式を廃止して直販体制へ移行し、1974年には宮崎氏の秘書を長年務めた山口信夫氏が住宅事業部長に就任した。山口氏の就任以後の3年間で住宅事業の売上高は70億円から370億円へ約5倍に拡大した。首都圏の高級住宅市場に集中する高付加価値戦略を徹底した経営判断が、市場から評価された。医療機器事業は1974年に旭化成メディカルを設立し、ベンベルグ繊維の研究過程で得た中空糸技術を人工腎臓のフィルター材に転用した。参入から3年で黒字化を達成し、1982年には人工腎臓の国内シェア約30%で業界首位となった。1977年の合繊中間決算では旭化成を除く大手6社が経常赤字へ転落し、旭化成だけが32億5400万円の経常利益を計上した。「非繊維部門の売り上げが53%で、『合繊メーカー』というより、同社自身が『化学メーカー』を自認している」(読売新聞 1977/11/15)との評価が定着した。 [22][23]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1974年7月 人工腎臓を生産開始し医療機器事業へ進出
  • 読売新聞(1977年11月15日)
    • [23]読売新聞1977年11月15日付の「化学メーカー」評
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [20]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での住宅・建材発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1967年8月 軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始・建材事業へ本格進出
    • [22]1974年7月 人工腎臓を生産開始し医療機器事業へ進出
  • 読売新聞(1977年11月15日)
    • [23]読売新聞1977年11月15日付の「化学メーカー」評

31年の拡張が急逝で30年の収縮へ反転する節目

宮崎輝氏は1961年から1992年までの31年間、代表取締役として旭化成の経営中枢に座り続けた。在任期間は戦後の日本化学産業でも指折りの長さだった。宮崎氏は信頼する人物に新規事業を任せる手法を採り、建材事業には黒田義久氏、住宅事業には山口信夫氏、東洋醸造には小川三男氏を配置した。東洋醸造で小川氏は酒類から医薬品への業態転換を主導し、売上高の50%を医薬品へ振り替えた。1992年1月には旭化成が東洋醸造を合併し、医薬品の事業基盤を取り込んだ。宮崎氏は1983年の日経新聞「私の履歴書」連載の末尾に「これで継続できる」(日経新聞「私の履歴書」1983/12)と記し、後継に引き継ぐべき事業群が揃ったとの認識を示していた。 [24][25]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1992年1月 東洋醸造株式会社と合併(医薬・医療事業を強化、酒類事業へ進出)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
    • [25]宮崎氏の日経新聞「私の履歴書」(1983年12月)の結語「これで継続できる」

宮崎氏の多角化経営は旭化成に繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類という8領域の事業基盤を残した。ただし撤退判断には消極的で、全社利益率の低さが後年の課題として残った。1992年4月に宮崎氏が出張先で急逝した直後、後任の弓倉礼一社長は経営資源の分散により効率が落ちているとの認識を示し、路線転換を表明した。拡大路線の限界は社内でもすでに広く認識されていたが、宮崎氏という存在そのものが方針転換を長期にわたり阻んでいた。31年の拡張から30年の収縮へ反転する節目だった。宮崎時代に仕込まれた事業群の大半は、その後の30年間で売却・停止の対象となり、残った柱だけが次の時代の収益基盤へ引き継がれた。 [26]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [26]繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類の各事業への進出は有報【沿革】の各年記載(1935食品・1952合成樹脂・1967建材・1968石油化学・1972住宅・1974医療機器・1992医薬/酒類)と整合
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1992年1月 東洋醸造株式会社と合併(医薬・医療事業を強化、酒類事業へ進出)
    • [26]繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類の各事業への進出は有報【沿革】の各年記載(1935食品・1952合成樹脂・1967建材・1968石油化学・1972住宅・1974医療機器・1992医薬/酒類)と整合
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
    • [25]宮崎氏の日経新聞「私の履歴書」(1983年12月)の結語「これで継続できる」

1993年〜 選択と集中からヘルスケアM&Aへの大転換と60年サイクルの帰結

旭化成の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1999年 「拡大」路線からの転換と食品・酒類事業の売却 宮崎輝氏の急逝を境に、旭化成は「健全な赤字」の経営からどう転じたか
  2. 2000年 商号を旭化成に変更
  3. 2002年 焼酎・低アルコール飲料事業を譲渡
  4. 2012年 米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収とクリティカルケア事業への参入 三本目の柱を自前で育てるか、丸ごと買うか——旭化成はどちらを選んだか
  5. 2015年 子会社・旭化成建材の杭打ちデータ偽装と全国自主調査による開示 一現場の不正か、構造の問題か——旭化成は隠すのではなく全件調査と公表を選んだ
  6. 2016年 水島の自社エチレンセンターの停止と、西日本3社によるエチレン集約への参加 自ら建てた分解炉を持ち続けるか、他社の設備に委ねるか——構造的な低稼働の前で旭化成は何を手放したか
  7. 2019年 吉野彰氏によるリチウムイオン電池の基本構造確立と特許戦略 石油化学に次ぐ新素材を探る少人数の研究テーマから、なぜ世界を変える電池が生まれたか

雇用を守る制約が整理の速度を縛った事業ポートフォリオ再編

1997年に就任した山本一元社長は旭化成の経営に部門別バランスシートを導入し、ROE経営へ切り替えた。山本社長は、旭化成は中小企業の寄せ集めであり1兆円の会社という意識があるため受け止め方が甘くなるとの認識を示して社内の意識改革を求め、宮崎時代の拡大経営で蓄積された非中核事業の整理売却に踏み切った。1999年には食品事業をJTへ譲渡し、2002年には焼酎・低アルコール飲料事業をアサヒビールへ、2003年には清酒・合成酒事業をオエノンHDへそれぞれ譲渡した。事業売却を矢継ぎ早に実行し、経営資源の集中を行った。部門別バランスシートの導入により、それまで全社利益に隠されていた個別事業の採算が可視化され、撤退の意思決定を後押しする材料となった。 [27][28][29]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1999年7月 食品事業を日本たばこ産業株式会社へ譲渡
    • [28]2002年9月 焼酎・低アルコール飲料事業をアサヒビールおよびニッカウヰスキーへ譲渡
    • [29]2003年7月 清酒・合成酒関連事業をオエノンホールディングスへ譲渡

創業の源流の一つだった化学繊維事業についても、2001年にレーヨン生産を停止し、2003年にはアクリル繊維の生産も停止する撤退判断を下した。石油化学事業は2016年に水島製作所のエチレンセンターを停止し、かつて宮崎社長が社運を賭けた1000億円投資の中核設備を閉鎖した。ただし旭化成は従業員のリストラを原則として行わず配置転換で対応し、工場の閉鎖も生産品目の変更で対応する方針を維持した。雇用を守りながら事業を入れ替える制約条件が整理の速度を規定し、旭化成の事業ポートフォリオ再編の特徴を決定づけた。同業他社がしばしば選んだ希望退職型の整理と比べ、時間はかかるが組織の信頼を損なわない経営手法として社内に定着した。 [30]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]2016年2月 水島のエチレンセンターを停止
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1999年7月 食品事業を日本たばこ産業株式会社へ譲渡
    • [28]2002年9月 焼酎・低アルコール飲料事業をアサヒビールおよびニッカウヰスキーへ譲渡
    • [29]2003年7月 清酒・合成酒関連事業をオエノンホールディングスへ譲渡
    • [30]2016年2月 水島のエチレンセンターを停止

自前技術から外部買収へと変わった成長の手段

事業整理で生まれた財務的な余力は2012年以降の海外M&Aへ集中的に投入された。2012年に米ZOLL(約1807億円)、2014年に米Polypore(約2100億円)、2018年に米Sage(約799億円)、2020年に米Veloxis(約1472億円)、2022年に米Bionova(約428億円)と、10年間で約7000億円規模の買収を次々と実行した。メディカル事業では除細動器のZOLL、移植後免疫抑制剤のVeloxis、IgA腎症治療剤を持つCalliditasといった欧米企業を取り込み、電池材料ではセパレータのPolyporeを成長事業として取得した。宮崎時代の自社技術からの派生による多角化とは異なり、外部の確立された事業資産を取り込む成長戦略への転換が進んだ。マテリアル・住宅・ヘルスケアという新たな三事業体制が、この買収群によって形を整えた。 [31][32][33][34][35][36][37]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [31]2012年4月 米国ZOLL Medical Corporationを買収・連結子会社化
    • [32]2018年9月 米国Sage Automotive Interiors, Inc.を買収・連結子会社化
    • [33]2020年 米国Veloxis Pharmaceuticals, Inc.を買収(1月)・連結子会社化(3月)
    • [35]Calliditas Therapeutics AB は2024年9月買収・連結子会社化
    • [36]Polypore=バッテリーセパレータ事業(有報【沿革】2015.8「バッテリーセパレータ事業を拡大」)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [34]ZOLL=除細動器(クリティカルケア事業。有報【事業の内容】に「心肺蘇生関連(AED、医療従事者向け除細動器)」等=ZOLL Medical Corporation)
    • [37]マテリアル・住宅・ヘルスケアの三事業体制(有報【事業の内容】のセグメント区分=マテリアル/住宅/ヘルスケア/その他と一致)

2024年3月期の売上高は2兆7848億円、営業利益は438億円で、マテリアル・住宅・ヘルスケアの三事業体制への移行がほぼ完了した。2022年に社長へ就任した工藤幸四郎氏は、野武士・進取の気風・アニマルスピリットといった失敗を恐れずに挑むDNAの再生を掲げ、宮崎時代の組織文化の復権を経営方針に据えた。30年かけて拡大し、30年かけて整理し、再び拡大へ転じる約60年にわたる拡張と収縮の循環は、多角化経営の時間軸の長さを示す実例であり、日本の化学産業史における一つの経営サイクルの典型として参照されている。戦前の延岡で肥料・繊維・火薬を一つの化学から派生させた発想は、いまや除細動器・免疫抑制剤・セパレータという三領域の国際事業群として再編された。 [38]

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [31]2012年4月 米国ZOLL Medical Corporationを買収・連結子会社化
    • [32]2018年9月 米国Sage Automotive Interiors, Inc.を買収・連結子会社化
    • [33]2020年 米国Veloxis Pharmaceuticals, Inc.を買収(1月)・連結子会社化(3月)
    • [35]Calliditas Therapeutics AB は2024年9月買収・連結子会社化
    • [36]Polypore=バッテリーセパレータ事業(有報【沿革】2015.8「バッテリーセパレータ事業を拡大」)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [34]ZOLL=除細動器(クリティカルケア事業。有報【事業の内容】に「心肺蘇生関連(AED、医療従事者向け除細動器)」等=ZOLL Medical Corporation)
    • [37]マテリアル・住宅・ヘルスケアの三事業体制(有報【事業の内容】のセグメント区分=マテリアル/住宅/ヘルスケア/その他と一致)
    • [38]工藤氏の「野武士・進取の気風・アニマルスピリット」発言

旭化成の沿革1922〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
旭絹織を設立
日本窒素が延岡工場を新設
延岡アンモニア絹絲を設立
食品事業に参入(グルタミン酸ソーダ)
日本窒素化学工業を発足(旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併)
日窒コンツェルンからの分離独立と旭化成工業への商号変更財閥解体の圧力のもとで、延岡の事業は何を捨て何を残したか 詳細を読む★★★
東京証券取引所に株式上場
旭ダウを合弁で設立
合成樹脂に参入
事業部制を採用・多角化を本格化
アクリル繊維「カシミロン」の製造開始
「サランラップ」の製造開始
宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動繊維不況で収益が急落するなか、旭化成工業はどこに次の柱を求めたか 詳細を読む★★★
希望退職者を募集
ALC「へーベル」の製造を開始★★
売上高に匹敵する1000億円を投じた水島の石油化学コンビナート建設原料を買い続けるか、自ら分解炉を持つか——化繊会社はどこまで賭けられたか 詳細を読む★★★
山陽エチレンが年産35万トンのエチレンセンターを完成
ALC建材「ヘーベル」を戸建てブランドに仕立てた住宅事業参入素材を売るか、家ごと売るか——化繊会社・旭化成工業はなぜ住宅産業へ踏み込んだか 詳細を読む★★★
旭メディカルを設立・医療機器に参入★★
宮崎電子を設立しホール素子事業へ参入★★
「油漬け」体質の脱皮へ原子力・電子・医薬に賭けた第二次多角化石油化学は解か、重荷か——石油危機後の旭化成工業は次の柱をどこに求めたか 詳細を読む★★★
旭マイクロシステムを設立・半導体に参入
吉野彰氏によるリチウムイオン電池の基本構造確立と特許戦略石油化学に次ぐ新素材を探る少人数の研究テーマから、なぜ世界を変える電池が生まれたか 詳細を読む★★★
東洋醸造と合併★★
「拡大」路線からの転換と食品・酒類事業の売却宮崎輝氏の急逝を境に、旭化成は「健全な赤字」の経営からどう転じたか 詳細を読む★★★
商号を旭化成に変更
蛭田史郎焼酎・低アルコール飲料事業を譲渡★★
蛭田史郎持株会社制に移行
藤原健嗣米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収とクリティカルケア事業への参入三本目の柱を自前で育てるか、丸ごと買うか——旭化成はどちらを選んだか 詳細を読む★★★
浅野敏雄Polyporeを買収(セパレーター)
小堀秀毅子会社・旭化成建材の杭打ちデータ偽装と全国自主調査による開示一現場の不正か、構造の問題か——旭化成は隠すのではなく全件調査と公表を選んだ 詳細を読む★★★
小堀秀毅水島の自社エチレンセンターの停止と、西日本3社によるエチレン集約への参加自ら建てた分解炉を持ち続けるか、他社の設備に委ねるか——構造的な低稼働の前で旭化成は何を手放したか 詳細を読む★★★
小堀秀毅Sage Automotiveを買収
小堀秀毅Veloxis medicalsを買収
工藤幸四郎Forcus関連5社を買収(住宅)
工藤幸四郎非注力事業を売却
工藤幸四郎スウェーデンCalliditas Therapeuticsを買収★★
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
  • 化繊月報(1967年3月)
  • 読売新聞(1977年11月15日)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【事業の内容】
  • 日経ビジネス(2023年2月)

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