日産化学の創業経緯は複雑である。
明治時代を通じて、日本全国に肥料の製造会社が設立されたが、コモディティー化によって激しい競争が繰り広げられていた。そこで、業界全体が大同団結の方向に動き、戦時中の1937年に日産財閥が、当時の主力肥料メーカーの複数社を譲受したことを受けて、日産化学工業(以下、日産化学)が発足した。
このため、発足時から日産化学は全国各地に工場を保有しており、いずれも小規模かつ生産性の低い肥料工場が多く、工場の再編が宿命づけられたスタートとなった。
資本政策の面では、戦後の財閥解体によって大株主が日産財閥から、日本興業銀行に変わった関係から、興銀との結びつきも強い側面もあった。
なお、各工場が全国に分散しており、日産化学の実態は「中小化学メーカーの寄り合い所帯」であったため、東京本社から各地方工場へのコントロールが難しかったことも推察される。
日産化学は、石灰石を原料として肥料を製造していたが、1960年代を通じて石油化学に原料転換されつつあった。
これを受けて、日産化学は石油化学分野への進出を決断した。
しかし、石油化学を取り巻く競争環境は厳しく、すでに先発企業として、三井石油化学・三菱化学・住友化学といった財閥系の各社が参入しており、加えて宇部興産などの石炭・石灰系の企業も石油化学に参入した。
このため、日産化学は石油化学事業の売上高は伸ばすことに成功したが、収益の悪化に悩まされるようになった。
1988年に日産化学の社長であった中井武夫氏(興銀出身)は、競争が激化した石油化学からの撤退を決断し、各事業の開発・販売人員と、その設備を丸ごと同業他社に売却した。当時は同業他社も石油化学の慢性的な低収益に苦しんでいたが、完全な事業撤退を決めた日産化学の決断は異色であった。
塩ビ事業は東ソー、高級アルコール事業は協和発酵(KHネオケム)、ポリエチレン事業は丸善石油化学に、それぞれ譲渡することで日産化学は石油化学部門から撤退を完了した。
なお、事業撤退ではあったが、各部門の従業員は雇用が保証されており、社内OBに対する説明を丁寧に行うことで利害関係者が理解を示したため、悲劇的な撤退にはならなかったという。
日産化学の歴史において、石油化学の撤退は、主力事業を切り捨てるという大胆な決断であった。
日産化学の社長であった中井武夫氏は、1989年に中期五カ年計画を策定し、農薬・医薬品・液晶材料などの高機能化学品を中心に投資を行う方針を明確にし、収益性を重視する経営に舵を切った。
方針が明確になったことで、日産化学に残った社員は目の色を変えて新規事業の研究開発にコミットしたという。この結果、各分野で重要な成果を残すに至った。
農薬部門では、1989年に「シリウス(水稲向け除草剤)」、1991年に「サンマイト(果樹・野菜向け殺虫剤)」、1994年に「パーミット(トウモロコシ向け除草剤)」を相次いで発売して業容を拡大した。
医薬品分野では1994年に初の医薬品となる「ランデル(血圧降下剤)」を発売したのを皮切りに、2003年に「リバロ(高コレステロール血症治療薬)」を発売して安定的な利益を稼ぐ事業となった。
機能性材料分野では、1989年に液晶パネル向けの配向膜材料、1998年には半導体向けのコーディング材料にそれぞれ参入した。2000年代を通じた半導体と液晶パネルの需要増加という追い風を受けて、日産化学の高成長・高収益事業に育っている。
したがって、2021年現在の日産化学が高収益を享受している要因の1つは、1988年〜1989年に行った事業ポートフォリオの入れ替えという決断にあると言える。