ダイセル式生産革新(SPS)の確立と全社展開
属人化した化学プラントの技能を、網干工場発の生産革新でどう形式知へ移したか
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- 概要
- ダイセル化学工業が網干工場(兵庫県)で確立した独自の生産革新「ダイセル式生産革新(SPS)」を、プロセス産業版のカイゼンとして体系化した経営判断。2005年から横河電機と協業で外部提供を始め、2008年3月には経済産業省が報告書にまとめた。方式の生みの親であった小河義美氏が2018年に社長へ就き、グループ全社へ広げた。
- 背景
- 1951年に酢酸セルロースの量産を始めたダイセルは、石油化学各社より10年以上早くベテランの大量退職を迎え、属人化した装置産業の技能承継が課題となっていた。セルロイド8社の合併に始まる寄り合い所帯で、工場ごとに組合も用語もばらばらであった。
- 内容
- 「ミエル・ヤメル・カワル」の3段階で進める。見えないムダを排除して1人当たり売上高を3倍に高め、熟練者の判断を数十万件のケースへ書き出し、「シングル・ウインドー・オペレーション」という1枚の運転画面へ集約した。網干工場の従業員は導入当初の740人から約290人へ6割減らした。
- 含意
- 組立・加工業のトヨタ生産方式に対し、連続運転の装置産業に合う「止めない哲学」のカイゼンを確立した。三井化学・住友化学・ダイキン工業など格上大企業が導入し、経産省は素材産業全体への波及を期待した。
効率と、匠の記憶
この判断の中心には、装置産業という業態の難しさがある。組立・加工業のトヨタ生産方式が工程を目で追えるのに対し、化学プラントでは反応が容器の中で進み、熟練したオペレーターの勘と経験に運転が委ねられてきた。ダイセルが早すぎる高齢化のなかで選んだのは、その勘と経験を数十万件のケースへ書き出し、1枚の運転画面へ移すことであった。人を減らしながら人の技を残すという、一見矛盾した課題に、可視化と標準化という順序で答えを出そうとした試みとみることができる。
もっとも、暗黙知をどこまで形式知へ移せるのかは、なお開かれた問いである。数十万件のケースを画面に載せてもなお、想定を超える異常への最後の判断は人に残る。IoTとAIが運転の最適化を担う時代に、匠の技を写し取った画面が、次の世代にとって新たな暗黙知にならないともかぎらない。網干工場から始まった「止めない哲学」が、技能承継そのものの答えになりうるのか、それとも承継の形を変えたにとどまるのかは、これからの現場が示すとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
他社より10年早く来たベテランの大量退職
ダイセル化学工業は1919年にセルロイド生産から始まった化学メーカーで、1951年6月に網干工場(兵庫県)で酢酸セルロースの量産を始めた。この早い量産化のため、同社は石油化学や繊維の各社より10年以上早く大量採用の時期に入っていた。団塊世代の引退で技術の空洞化が問われた「2007年問題」を、ダイセルは実質10年早く迎えていた。素材から製品を連続運転で作る装置産業では、製造工程が外から見えにくく、熟練したオペレーターに判断が集中しがちであった[1][2]。
装置産業では工程が見えにくく、生産革新が難しいとされてきた。技能承継の不全は、相次ぐ工場事故として表面化していた。記事の前年、2007年3月に信越化学工業の直江津工場で、同12月に三菱化学の鹿島事業所で大規模な火災が起きた。三菱化学の事故については、元技術者から技術承継が不十分だったとの指摘も出ていた。経験を積んだベテランに役割が偏る素材産業で、現場の技をどう次へ渡すかが共通の課題となっていた[3]。
8社合併の寄り合い所帯と技能承継の早さ
ダイセルの成り立ちは、乱立していたセルロイド工業を1919年に主要8社の大合併でまとめた再編にあった。資本金1,250万円で創立した大日本セルロイドは、堺や網干など来歴の異なる工場を抱え、組合も工場ごとにばらばらであった。各部門には創業までさかのぼる図面・表示方法や物質・装置の呼び名が別々に根づき、部門をまたぐと通じない用語が残っていた。こうした寄り合い所帯という成り立ちが、技能や暗黙知を全社で共有する必要を早くから意識させた[4][5]。
この認識のもとで、同社は1990年代に社内組織をフラット化し、ベテランの技能承継を他社に先んじて進めた。方式の生みの親である小河義美・執行役員播磨工場長は、その意思は他社に比べても大きかったと後年に振り返っている。国際競争の激化と円高のもとで、解雇に頼らず人を減らしながら収益を守る方策が要ることも、現場の側で分かっていた。生産革新は、こうした早すぎる高齢化と寄り合い所帯という固有の事情の上に組み立てられた[6]。
決断
網干工場発の「ミエル・ヤメル・カワル」
ダイセルが網干工場で確立したのは、「ミエル・ヤメル・カワル」という3段階を順に踏むプロセス産業版のカイゼンであった。最初の「ミエル」では、受注から納品までの業務を総ざらいし、これまで見えなかったムダやロスを洗い出す。プラントの中身と業務の流れを可視化する過程で一時はトラブルの数がむしろ増えるが、現場と管理部門の間の壁を取り払い、曖昧な見込み生産を減らせる。ダイセルはこの可視化で、1人当たり売上高を3倍にまで高めた[7]。
続く「ヤメル」は、頭の中の標準化にあたる。認定試験を通った2人以上のオペレーターが1人の熟練者に聞き取りを行い、どの計器がどの値を示したときにどう動くかを、あらゆる場合について書き出す。ダイセルはこの作業で数十万件を集め、科学的に検証して省ける動作を見極めた。最後の「カワル」では、そこまでの知を「シングル・ウインドー・オペレーション」という1枚の運転画面へ集めた。異常が出ると画面に警告と想定される原因が並び、熟練者でなくても高度な運転ができる仕組みである[8]。
生みの親と、解雇によらない少人化
この方式の生みの親は、播磨工場長を務めた小河義美・執行役員であった。網干工場では、方式の導入当初に740人いた従業員が、記事の時点で約290人まで、6割減っていた。同社はこれを「1ドル=100円の円高にも打ち勝とう」という掛け声のもとで、解雇によらない少人化として進め、キャッシュフローの改善にもつなげた。人に焦点を当てて現場を安定させることを、ITという「箱」の整備よりも先に置いた点に、この方式の設計思想が表れていた[9]。
ダイセルは、この方式を自社に閉じず外へ開いた。2005年からは横河電機と組み、「知的生産支援コンサルティング」として同方式を外部の顧客へ提供し始めた。ただし定着させて生かすには最低3年が必要で、契約は事業場単位に限られた。現場のミドル層が主導し、抵抗を抑えながら数年がかりで根づかせる設計であった点に、短期の効率化とは異なる性格がうかがえる[10]。
結果
「格上」大企業の“ダイセル詣で”と行政の関心
網干工場には、さまざまな業界から延べ500社・約4000人が見学に訪れた。導入企業には三井化学、住友化学、ダイキン工業など、ダイセルの倍以上の売上高をもつ大企業が並び、東洋紡や日本ゼオンも顧客となった。効果は人員の面にも表れ、日本ゼオンでは2年でオペレーターの作業負荷が66%、ダイキンでは67%減った。作業負荷とは設備点検など日々の業務を指し、これを減らすことが工場の安定と生産効率に直結した[11]。
行政もこの方式に関心を寄せた。2008年3月、経済産業省の生産革新研究会が「ダイセル方式」の報告書をまとめた。当時化学課長を務めた山根啓氏は、トヨタのカイゼンが「止める哲学」であるのに対し、ダイセルのそれは「止めない哲学」であり、離着陸を繰り返さず飛び続ける飛行機のように、連続運転の化学プラントをいかに止めずに動かし続けるかに主眼を置くと語った。組立・加工業のトヨタ生産方式とは異なる、装置産業に固有の改善の型が公に認められた場面であった[12]。
小河社長のもとでの全社展開
網干発の現場改革は、その後、経営トップの手でグループ全体へ広げられた。2008年に方式の生みの親であった小河義美氏は、2018年6月、生産技術出身として代表取締役社長に就任した。同社は小河社長のもとで、網干工場で確かめた「ダイセル式生産革新」をグループの各事業所へ広げ、化学プラントの運転をIoTとAIで最適化し、熟練オペレーターの暗黙知として個人に留まっていた技能を、形式知としてグループで共有する取り組みを続けた[13]。
生産革新は、その後の社長にも引き継がれた。2024年6月に就任した研究開発出身の榊康裕氏は、小河時代に始めたダイセル式生産革新をグループ全社へ広げる方針を保ちつつ、SBU制で各事業に収益責任を負わせ、研究開発投資を絞る運営に力点を置いた。網干工場の一現場から生まれた改善が、20年をかけて外販の商品となり、行政の報告書に取り上げられ、経営トップの座からグループの生産基盤を組み替える方針へと育った[14]。
- 週刊東洋経済 2008年11月1日号「大企業が教えを請う“ダイセル式”カイゼン活動」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- ダイセル 有価証券報告書(役員の状況)
- ダイセル化学工業 有価証券報告書(2008年3月期・単体)