ダイセル の歴史

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創業 1919年
母体 セルロイド業者8社合同
創業地 兵庫県尼崎市
創業
1919年9月8日、セルロイド8社の合併で大日本セルロイド株式会社が創立された。資本金1,250万円、本社は大阪府堺市に置かれた。合同は業界が選んだ道ではない。第1次大戦の終結で世界の需要が減る一方、開戦前に堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発を加えて35万〜40万ポンドに膨らみ、販売競争が業界を疲弊させていた。台湾総督府専売局が一社への統合を条件に原料樟脳の一手供給を決めたことが決定打となり、合同比率は堺48%を筆頭に決着している。ところが翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を閉鎖し、従業員280名を解雇したうえ、1921年12月に資本金を1,000万円へ減資した。
決断
セルロースの誘導体を、火薬と繊維の二方向へ分けてきた。1932年6月に神崎工場でセロハン、1935年9月に新井工場で有機合成を始め、1951年6月に網干工場で酢酸セルロースの製造に入る。1954年1月には播磨工場で発射薬の製造を開始する。硝化綿は燃焼を制御する技術となり、1988年10月のダイセル・セイフティ・システムズ設立でエアバッグ用インフレータへ向かった。酢酸セルロースは1958年8月にたばこフィルター用トウ、1990年11月に液晶表示向けフィルムへ向かう。2008年11月には熟練者の暗黙知を形式知へ移す生産革新を全社へ広げた。1954年に始めた発射薬と1951年に始めた酢酸セルロースが同じ会社に残ったため、ダイセルは自動車の安全部品とたばこという互いに無関係な二つの顧客産業を同時に相手にしている。
現況
利益が最も大きい事業から、最も大きい減損が出た。2026年3月期の連結売上高5,796億円のうちエンジニアリングプラスチックが2,547億円・利益191億円で最大となり、マテリアル1,613億円・利益150億円、セイフティ1,042億円・利益61億円が続く。ところが同じ期の減損損失328億円のうち324億円はエンジニアリングプラスチックで計上され、投資有価証券売却益175億円を加えても純利益は前期の495億円から102億円へ減少した。この事業の中核は、1964年5月に米セラニーズとの合弁で設立し2020年に相手方の保有株式を取得して完全子会社化したポリプラスチックスである。半世紀の合弁を解いて全株式を取得した事業が、6年後に全社最大の減損を生んだ。
競合
セルロースを捨てた側と、捨てずに用途を替えた側に分かれた。1934年1月に写真フィルム部として分離した富士写真フイルムは、2000年代にフィルム需要が消えると本業の消失に備えた構造改革を掲げ、化粧品と医薬へ移ってセルロースの写真用途から離れた。ダイセルは酢酸セルロースを残し、たばこフィルター用トウ、液晶表示向けフィルム、光学異性体分離カラムへ売り先を替えている。2026年3月期の売上高は、富士フイルムホールディングスの3兆3,569億円に対しダイセルが5,796億円にとどまる。エアバッグを組み立てる豊田合成に対し、ダイセルが持つのはガスを発生させるインフレータだけである。原料を残したダイセルは用途ごとに顧客産業が分かれ、自動車部品メーカーと競うセイフティ事業の利益率5.9%が全社の7.3%を押し下げている。
ダイセル:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

設立ストーリー 大日本セルロイドの設立とセルロース化学の確立 (1919年〜)

セルロイド業界の合同事業として創立

セルロイド事業は原料面でわが国に恵まれ輸出産業としても有望であることが着眼され、1908年に堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸株式会社が設立された[1]。前者が堺工場、後者が網干工場の前身で、堺は三井、網干は三菱の出資による[2]。網干の会社は鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて興したもので、セルロイド製造のかたわら硝化綿式人絹を研究させたが工業化には至らなかった[3]。1914年の欧州大戦勃発からセルロイドは輸出品として活況を呈し、この時期にさらに6社が生まれる[4]。1919年9月、これら8社の大合併により大日本セルロイド株式会社が創立された[5]。資本金は1,250万円[6]、創立総会は9月8日に大阪ホテルで開かれ、本社は大阪府堺市に置かれた[7]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [2]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地

合同は業界が自ら選んだ道というより、追い込まれた末の決着だった。第1次大戦の終結で世界的にセルロイド需要が減る一方、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発各社を加えて35万〜40万ポンドに膨らんでおり、供給過剰から販売競争が激化して業界は疲弊していた[8]。堺セルロイド専務の森田茂吉が台湾総督府専売局長に相談したところ、専売局は有力各社が一社に統合されるなら原料樟脳を一手に供給すると決め、これが合同を動かす決定打となる[9]。交渉は合同比率と幹部の人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・残る4社が計8%、社長は三井側が推す森田で決着した[10]

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉

新会社は発足するや事業場の整理に迫られた。設備が劣り生産原価の高い工場を切る方針で、三国は一時閉鎖、能登屋と十河は生地製造をしない条件で加工場専業として売り戻し、東洋の工場も売却して、堺・網干・神崎・東京の4工場で操業を始める[11]。ところが翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を相次いで閉鎖し、堺工場だけが辛うじて運転を続ける状態に陥った[12]。1920年9月と1921年2月の二度にわたり従業員280名を解雇し、常勤取締役の報酬を半減、他の取締役と監査役は無報酬、従業員も2年間無昇給・無賞与とする[13]。損失金250万円を抱えて1921年12月の株主総会で資本金を1,000万円へ減資し[14]、以後これを契機に順調な社業発展をみせた[15]

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [13]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [2]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [13]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資

セルロイド生地世界一と繊維素化学への展開

昭和に入ると、セルロイドの原料である硝化綿の技術を生かしてセルロース事業を進展させた。1929年にはラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる[16]。1932年6月には神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始し[17]、包装材料へも進出する。1934年1月、写真フィルム部を分離して富士写真フイルム株式会社(現富士フイルムホールディングス)を設立した[18]。1935年9月には新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始[19]し、セルロース系から有機合成系への事業拡張を始めた。当時の有機合成はアセテート繊維の原料を自給するための原料源確保にとどまり、事業の柱と呼べる位置にはなかった[20]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった

1930年代半ば、同社のセルロイド生地は品質でも製造量でも世界一となり、40数カ国へ輸出されるに至った[21]。1937〜38年ごろには国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%に達していた[22]。国内では代理店・加工業者との関係が親子のようなものへ育ち、東京の寺島界わい、大阪の今里界わいは『ダイセル村』と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が『ダイセルファミリー』として定着する[23]。この販売基盤は、粗製乱売を防ぐため1921年に全国の主な業者20社と共同販売所を設けた自治統制の系譜の上にあり、後年政府が制定した工業組合法の骨子はこれをモデルにしたと自社史は記している[24]

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
    • [24]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
  • 日本経済新報 1962年
    • [22]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有

写真フィルム事業の分離には社内に異論があった。10数年注いできた努力を自社内で実らせたいという意見も強かったが、セルロイド事業が既に大成の域に達していたのに対し写真フィルムは最新微妙の化学工業に属し、製造でも販売でもセルロイドと異なる取り組みが要るとの判断で、1933年11月に別会社設立が決まる[25]。後年、昌谷忠社長は創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を始め1934年にようやく工業化に至ったと振り返り、分離後に自社より遥かに大きく育った同社を喜ばしいと語った[26]。一方、1933年に着手を決めた酢酸綿事業では、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給し併せて関連薬品も開発する方針を立てる。自社史はこれを有機合成事業の起源と位置づける[27]

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [25]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [26]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった
    • [22]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
    • [24]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
    • [25]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [26]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた

戦後復興期の上場と有機合成系への本格進出

空襲と敗戦で多大の被害をこうむった同社は、1948年にアセテート繊維事業の企業化を中心に復興[28]を進めた。アセテートは原料の醋酸やアセトンの生産が遅れて戦前は工業化に至らず、戦後になって帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが相次いで乗り出した分野である[29]。1949年5月、東京証券取引所[30](現株式会社東京証券取引所)に上場した。1951年6月に網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始[31]、1954年1月に播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始した[32]。発射薬づくりは後にエアバッグインフレータ事業を支える火薬技術につながり、戦後民需転換の中で蓄積された技術資産が数十年後に自動車安全部品の中核事業へとつながった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始

1956年には大日本プラスチック株式会社を設立して樹脂事業を拡張した[33]。1958年8月には堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始[34]。その製造技術は1961年9月に米イーストマン・コダック社と結んだ技術契約によるもので、たばこフィルター用トウは当時から独占生産品だった[35]。もっとも酢酸繊維素の大口需要家だった帝人が自給体制を整え、1961年5月に販売が打ち切られてもいる[36]。1961年1月に大日本化成株式会社を設立して石油系有機合成事業へ進出し[37]、1964年5月には米国 Celanese Corporation との合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立して[38]、工業用プラスチック『ジュラコン』を製造した[39]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた

石油化学への進出は、既存の原料系統が行き詰まった末の判断だった。酢酸原料を自給するため石灰石とカーバイドを手がけアセチレン系有機合成へ伸びてきたが、カーバイドの品不足と電力コストの上昇で増産に限界が見え始めていた[40]。1961年1月16日に創立総会を開いた大日本化成は全額出資の別会社とされ、西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、岩国に隣接する広島県大竹市に第一期22億円で建設された[41]。別会社形式をとったのは原料源をカーバイド系から石油化学系へ転換する際のリスクを切り離すためで、増資を重ねて将来は本体が吸収合併する見込みだと当時から報じられている[42]。1968年6月の合併はこの筋書き通りの帰結である。

  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた
  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた

商号変更と無配転落からの経営再建

1966年2月に商号をダイセル株式会社と改称[43]した(『大日本セルロイド』の略称を社名に採用)。1968年6月に大日本化成株式会社を吸収合併し、同社工場[44]を大竹工場(広島県)として石油化学事業を取り込んだ。1970年7月にダイセル・ヒュルス株式会社(現ポリプラ・エボニック株式会社、独 Huels AG との合弁)を設立してナイロン12樹脂等の製造・販売を開始した[45]。1979年10月に商号をダイセル化学工業株式会社と改称し[46]、化学事業の総合化学メーカーとしての位置づけを社名に明示した。

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1966年2月 商号をダイセル株式会社と改称
    • [44]1968年6月 大日本化成株式会社を吸収合併し同社工場を大竹工場(広島県)とする
    • [45]1970年7月 ダイセル・ヒュルス株式会社(独Huels AGとの合弁)を設立しナイロン12樹脂等の製造・販売を開始
    • [46]1979年10月 商号をダイセル化学工業株式会社と改称

1970年11月期、売上200億円に対し利益は1,700万円にとどまり、1969年11月期から辛うじて維持してきた8分配当を落として無配に転落した[47]。直接の原因は予想以上に膨らんだ合成グリセリンの操業時赤字だが、根底には、セルロイド生地メーカー8社の合併という労働集約的な出自が残した過剰労働力と低収益体質があった[48]。1971年1月、三井銀行の筆頭専務だった昌谷忠が退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任、山脇義勇は会長へ退く[49]。三井銀行『ポスト小山』の最右翼と目された実力派の転出は『格落ちも甚しい』と受け止められ、背景には三井東圧・三井石油化学・ダイセルを統合する『三井総合化学』構想があるとも報じられた[50]

  • 月刊経済 1971年
    • [47]昭和45年11月期は売上200億円に対し利益1,700万円で無配に転落、44年11月期から8分配当を維持してきていた
    • [49]1971年1月30日付で三井銀行の昌谷忠専務が退職、2月末の株主総会でダイセル社長に就任し山脇義勇は会長へ
    • [50]三井銀行「ポスト小山」の最右翼とされた実力派の転出は「格落ちも甚しい」と受け止められ、三井東圧・三井石油化学・ダイセルを統合する「三井総合化学」構想が背景にあると報じられた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [48]無配の直接原因は合成グリセリンの操業時赤字で、根底にセルロイド生地メーカー8社合併という労働集約的な出自が残した過剰労働力と低収益体質があった

昌谷は復配を第一目標に掲げ、就任から半年で会社の数字的欠陥を洗い直した[51]。診断は明快で、創立50年の会社が『生産性も低いが賃金も低い』時代の労務構成から出発したため急速な賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代も配当性向が高い本質的な低収益体質にあるというものだった[52]。手は重役の減員と機構の簡素化で、部長が課長に、課長が平になる降格を伴い、部長の数が三分の一になったなら残った部長が三倍働けと号令する[53]。資産処分で出た特別利益は経常利益と混ぜず社内に留め置く経理を厳守した[54]。1971年秋には労働組合と全従業員の理解を得て800人・約2割の人員削減を実施し、1973年3月期に復配を果たす[55]

  • 新日本経済 1971年
    • [51]昌谷忠は入社時点で無配だったことから一日も早く配当できる状態に戻すことを第一目標に置き、半年かけて会社の数字的欠陥と再建プランを検討した
    • [52]創立50年の会社が生産性も賃金も低い時代の労務構成から出発したため賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代も配当性向が高い本質的な低収益体質だと診断
    • [53]重役の減員と機構簡素化でポジションを削り、部長が課長に課長が平になる降格を実施、部長の数が三分の一になったら残った部長は三倍働けと号令した
    • [54]資産処分による特別利益は経常利益と区別してほとんど内部留保し、両者を混同しない経理方針を厳守した
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [55]昭和46年秋に労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割の人員削減を実施し、昭和48年3月期に復配
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1966年2月 商号をダイセル株式会社と改称
    • [44]1968年6月 大日本化成株式会社を吸収合併し同社工場を大竹工場(広島県)とする
    • [45]1970年7月 ダイセル・ヒュルス株式会社(独Huels AGとの合弁)を設立しナイロン12樹脂等の製造・販売を開始
    • [46]1979年10月 商号をダイセル化学工業株式会社と改称
  • 月刊経済 1971年
    • [47]昭和45年11月期は売上200億円に対し利益1,700万円で無配に転落、44年11月期から8分配当を維持してきていた
    • [49]1971年1月30日付で三井銀行の昌谷忠専務が退職、2月末の株主総会でダイセル社長に就任し山脇義勇は会長へ
    • [50]三井銀行「ポスト小山」の最右翼とされた実力派の転出は「格落ちも甚しい」と受け止められ、三井東圧・三井石油化学・ダイセルを統合する「三井総合化学」構想が背景にあると報じられた
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [48]無配の直接原因は合成グリセリンの操業時赤字で、根底にセルロイド生地メーカー8社合併という労働集約的な出自が残した過剰労働力と低収益体質があった
    • [55]昭和46年秋に労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割の人員削減を実施し、昭和48年3月期に復配
  • 新日本経済 1971年
    • [51]昌谷忠は入社時点で無配だったことから一日も早く配当できる状態に戻すことを第一目標に置き、半年かけて会社の数字的欠陥と再建プランを検討した
    • [52]創立50年の会社が生産性も賃金も低い時代の労務構成から出発したため賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代も配当性向が高い本質的な低収益体質だと診断
    • [53]重役の減員と機構簡素化でポジションを削り、部長が課長に課長が平になる降格を実施、部長の数が三分の一になったら残った部長は三倍働けと号令した
    • [54]資産処分による特別利益は経常利益と区別してほとんど内部留保し、両者を混同しない経理方針を厳守した

酢酸の原料転換とスペシャリティ路線

1970年代の重い負担は公害防止投資だった。1972〜73年の2年で約30億円を投じ、以降も年30億円台を積んで総額130〜140億円に達する見込みで、償却を含む月々の経費負担が製品コストを押し上げると昌谷は憂いている[56]。酢酸の増強では米モンサント社と接触して技術を用意しながら、最低年10万トン単位という規模では急激な増産が業界の混乱を招くとして、1974年時点では保留していた[57]。踏み切ったのは第1次石油危機を経てからである。1978年6月から1980年1月にかけ総工費170億円を投じて網干第2工場を建設し、石油系アセトアルデヒド法から天然ガス系メタノール法へ原料を転換した[58]。わが国初のメタノール法酢酸工場であり、C1化学の国内第1号工場でもあった[59]

  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [56]昭和47・48年の2年で約30億円の公害防止投資、49年35億円・50年度30億円程度を予定し総額130〜140億円と見込まれ、償却を含む月々の経費負担が製品コスト上昇を招くと社長が述べた
    • [57]メタノール法は将来の酢酸製造の主流と考え米モンサント社と接触して実施準備を整えていたが、最低年10万トン単位で急激な増産は業界の混乱を招くとして保留していた
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [58]昭和53年6月から55年1月にかけ総工事費170億円で網干第2工場を建設、第1次オイルショックを契機に石油系アセトアルデヒド法から天然ガス系メタノール法へ原料転換
    • [59]網干第2工場はわが国初のメタノール法酢酸工場であり、C1化学のわが国における第1号工場でもある

プラントの経済規模が大きすぎたため、事業化は同業を誘う形をとった。1977年に三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソを誘って協同酢酸を設立し、自社が過半を出資して1980年6月に操業を開始する[60]。基礎技術は三菱瓦斯化学と共同で米モンサント社から導入し、独自の精製装置を加えて世界の大手を上回る高純度を実現した[61]。網干工場は酢酸セルロースの月産能力6,300トンで単一工場として世界最大となり、創業以来のセルロイドもメガネフレームや卓球ボール向けの定着した需要で黒字を保っていた[62]。1982年8月には堺工場で大事故が起きて従業員6名が殉職し、AS・ABS樹脂とたばこフィルター部門が停止する。損害は経常段階の約5億円と特別償却約10億円を合わせた約15億円で、1982年度中に全額を償却した[63]

  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [60]石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰でメタノール法への転換を決めた際、プラントの経済規模が大きいため同業の三菱ガス化学・電気化学・協和醗酵・チッソを誘って昭和52年に協同酢酸を設立、自社が過半を出資
    • [63]昭和57年8月の堺工場事故で従業員6名が殉職しAS・ABS樹脂とたばこフィルター部門が停止、経常段階約5億円と特別償却約10億円の計約15億円を57年度ですべて償却
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [61]基礎技術は米モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、独自技術の精製装置を付加して世界の大手メーカーをしのぐ高純度の酢酸製造に成功
    • [62]網干工場の酢酸セルロース月産能力は6,300トンで単一工場として世界最大、創業以来のセルロイドもメガネフレーム・卓球ボール等の定着需要で黒字を確保

事故を挟んで久保田美文社長が掲げたのはスペシャリティ路線だった。約150種類の製品の3分の2が独占か少数寡占で、それが厳しい環境下でも収益が安定する最大の理由だと説き[64]、新規事業には参入して3社以上になる商品はやらない・年商30億円以下の商品群が好ましい・粗利益率30%以上でなければ投資しないという基準を置いて、ホームランよりヒットを狙えと繰り返した[65]。アナリスト側も独占・寡占製品が売上の65%を占める企業と評価している[66]。研究開発は竹の根から筍を増やす『竹やぶ方式』と称され[67]、その成果が光ディスクだった。1985年秋に年産50万枚のプラントを完成させ、マスタリング工程は装置メーカーから買うべしという社内論を退けて自社開発に踏み切っている[68]

  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [64]約150種類の製品の3分の2が国内で自社しか作っていないか少数寡占で圧倒的シェアを持ち、それが厳しい環境下でも収益が安定する最大の理由だと社長が説明
    • [67]研究開発は竹の根のない所に筍は生えないという「竹やぶ方式」で、伝統的な技術基盤から枝葉を伸ばす戦略をとった
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [65]新規事業の基準として、参入して3社以上になる商品はやらない・年商30億円以下の商品群が好ましい・粗利益率30%以上でなければ投資しないを掲げ「ホームランよりもヒットを狙え」と説いた
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
    • [66]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占め、参入企業3社以内・粗利益率30%以上でトップになるという基本方針をとる
  • 発明 1987年6月号「光ディスクへの進出 ── 技術開発と経営の多角化(6)」
    • [68]昭和60年秋に年産50万枚の光ディスクプラントを完成、マスタリング工程は装置メーカーから購入すべしという社内論を退け開発担当者の主張で自社開発に踏み切った
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [56]昭和47・48年の2年で約30億円の公害防止投資、49年35億円・50年度30億円程度を予定し総額130〜140億円と見込まれ、償却を含む月々の経費負担が製品コスト上昇を招くと社長が述べた
    • [57]メタノール法は将来の酢酸製造の主流と考え米モンサント社と接触して実施準備を整えていたが、最低年10万トン単位で急激な増産は業界の混乱を招くとして保留していた
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
    • [58]昭和53年6月から55年1月にかけ総工事費170億円で網干第2工場を建設、第1次オイルショックを契機に石油系アセトアルデヒド法から天然ガス系メタノール法へ原料転換
    • [59]網干第2工場はわが国初のメタノール法酢酸工場であり、C1化学のわが国における第1号工場でもある
    • [61]基礎技術は米モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、独自技術の精製装置を付加して世界の大手メーカーをしのぐ高純度の酢酸製造に成功
    • [62]網干工場の酢酸セルロース月産能力は6,300トンで単一工場として世界最大、創業以来のセルロイドもメガネフレーム・卓球ボール等の定着需要で黒字を確保
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
    • [60]石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰でメタノール法への転換を決めた際、プラントの経済規模が大きいため同業の三菱ガス化学・電気化学・協和醗酵・チッソを誘って昭和52年に協同酢酸を設立、自社が過半を出資
    • [63]昭和57年8月の堺工場事故で従業員6名が殉職しAS・ABS樹脂とたばこフィルター部門が停止、経常段階約5億円と特別償却約10億円の計約15億円を57年度ですべて償却
    • [65]新規事業の基準として、参入して3社以上になる商品はやらない・年商30億円以下の商品群が好ましい・粗利益率30%以上でなければ投資しないを掲げ「ホームランよりもヒットを狙え」と説いた
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
    • [64]約150種類の製品の3分の2が国内で自社しか作っていないか少数寡占で圧倒的シェアを持ち、それが厳しい環境下でも収益が安定する最大の理由だと社長が説明
    • [67]研究開発は竹の根のない所に筍は生えないという「竹やぶ方式」で、伝統的な技術基盤から枝葉を伸ばす戦略をとった
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
    • [66]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占め、参入企業3社以内・粗利益率30%以上でトップになるという基本方針をとる
  • 発明 1987年6月号「光ディスクへの進出 ── 技術開発と経営の多角化(6)」
    • [68]昭和60年秋に年産50万枚の光ディスクプラントを完成、マスタリング工程は装置メーカーから購入すべしという社内論を退け開発担当者の主張で自社開発に踏み切った

海外拠点の展開と光学異性体分離カラム

1980年代には海外拠点展開を本格化する。1984年4月に米国に Daicel (U.S.A.), Inc[69].(現 Daicel America Holdings, Inc.)を設立、同年11月にドイツに Daicel (Europa[70]) GmbH を設立した。1988年6月にはポリプラスチックスが台湾[71]に Taiwan Engineering Plastics Co., Ltd.(現 Polyplastics Taiwan、Hoechst グループ・長春グループとの合弁)を設立してエンジニアリングプラスチックのアジア展開を始めた。1988年10月にダイセル・セイフティ・システムズ株式会社を設立し、自動車エアバッグ用インフレータの製造を開始した[72]。発射薬技術の応用事業として始まったエアバッグインフレータは、後にダイセルグループ最大の成長事業へと育つ。

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1984年4月 米国にDaicel (U.S.A.), Inc.(現Daicel America Holdings, Inc.)を設立
    • [70]1984年11月 ドイツにDaicel (Europa) GmbHを設立
    • [71]1988年6月 ポリプラスチックスが台湾にTaiwan Engineering Plastics Co., Ltd.を設立
    • [72]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズ株式会社を設立し自動車エアバッグ用インフレータの製造を開始

1989年5月にシンガポールに Daicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現 Daicel (Asia) Pte. Ltd.)を設立し[73]、東南アジア拠点を整備した。1990年11月には網干工場で液晶表示向けフィルム用酢酸セルロース及びアセテート・トウの製造を開始し、同時に米国に Chiral Technologies, Inc. を設立して光学異性体分離カラムの販売を始めた[74]。医薬開発で光学活性化合物の分離精製に不可欠なこの製品は、後のヘルスケア SBU の中核技術へ育つ。同じ頃、会長の久保田美文は人事の刷新にも手を入れている。第1次石油危機時の投資失敗で4,600人を3,200人に減らした記憶から『これ以上減らさない』と宣言し[75]、入社10年で3職種を経験させる『三職経験制』と、異なる性格の者を上下に配する『八宝菜組織』で減点主義から加点主義への転換を進めた[76]

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [73]1989年5月 シンガポールにDaicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現Daicel (Asia) Pte. Ltd.)を設立
    • [74]1990年11月 網干工場で液晶表示向けフィルム用酢酸セルロース等の製造を開始し米国にChiral Technologies, Inc.を設立
  • 日経ビジネス 1990年3月26日号
    • [75]第1次石油危機時の投資失敗で4,600人いた人員を3,200人に減らした経験から、これ以上減らさず今の仕事を7割の人員でこなし3割を新しい仕事へ回す方針を掲げた
    • [76]入社10年で3職種を経験させる「三職経験制」と、異なる性格の者を上下に配する「八宝菜組織」で減点主義から加点主義への人事考課転換を進めた

1992年7月に中国に Xi'an Huida Chemical Industries(西安北方恵安化学工業、陜西中煙工業との合弁)を設立してアセテート・トウの中国生産を開始[77]、1995年10月にフランスに Chiral[78] Technologies-Europe SARL を設立して光学異性体分離カラムの欧州展開を始めた。1997年3月にはポリプラスチックスが Polyplastics Asia Pacific Sdn. Bhd. を設立[79]、2000年7月にウィンテックポリマー株式会社(現ポリプラスチックス、帝人との合弁)を設立して PBT 樹脂・GF-PET[80] 樹脂へも事業領域を広げた。第2期はセルロース・有機合成・エアバッグ・ヘルスケア(光学異性体)という現在の4つの事業軸が形作られた時期である。

  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1992年7月 中国にXi'an Huida Chemical Industries(西安北方恵安化学工業)を設立しアセテート・トウの中国生産を開始
    • [78]1995年10月 フランスにChiral Technologies-Europe SARLを設立
    • [79]1997年3月 ポリプラスチックスがPolyplastics Asia Pacific Sdn. Bhd.を設立
    • [80]2000年7月 ウィンテックポリマー株式会社(帝人との合弁)を設立しPBT樹脂・GF-PET樹脂へ事業を拡大
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1984年4月 米国にDaicel (U.S.A.), Inc.(現Daicel America Holdings, Inc.)を設立
    • [70]1984年11月 ドイツにDaicel (Europa) GmbHを設立
    • [71]1988年6月 ポリプラスチックスが台湾にTaiwan Engineering Plastics Co., Ltd.を設立
    • [72]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズ株式会社を設立し自動車エアバッグ用インフレータの製造を開始
    • [73]1989年5月 シンガポールにDaicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現Daicel (Asia) Pte. Ltd.)を設立
    • [74]1990年11月 網干工場で液晶表示向けフィルム用酢酸セルロース等の製造を開始し米国にChiral Technologies, Inc.を設立
    • [77]1992年7月 中国にXi'an Huida Chemical Industries(西安北方恵安化学工業)を設立しアセテート・トウの中国生産を開始
    • [78]1995年10月 フランスにChiral Technologies-Europe SARLを設立
    • [79]1997年3月 ポリプラスチックスがPolyplastics Asia Pacific Sdn. Bhd.を設立
    • [80]2000年7月 ウィンテックポリマー株式会社(帝人との合弁)を設立しPBT樹脂・GF-PET樹脂へ事業を拡大
  • 日経ビジネス 1990年3月26日号
    • [75]第1次石油危機時の投資失敗で4,600人いた人員を3,200人に減らした経験から、これ以上減らさず今の仕事を7割の人員でこなし3割を新しい仕事へ回す方針を掲げた
    • [76]入社10年で3職種を経験させる「三職経験制」と、異なる性格の者を上下に配する「八宝菜組織」で減点主義から加点主義への人事考課転換を進めた

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ダイセルの沿革1919〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1965年大日本セルロイドの設立とセルロース化学の確立大日本セルロイドとして創立★★
神崎工場(兵庫県)においてセロハンの製造開始
写真フィルム部を分離、富士写真フイルム設立★★
新井工場(新潟県)設置、有機合成事業開始
東京証券取引所に上場
網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)において酢酸セルロース事業開始
播磨工場(兵庫県)設置、発射薬の製造開始
堺工場(大阪府、2008年3月廃止)において、アセテート・トウの製造開始
大日本化成を設立
石油系有機合成事業に参入
Celanese Corporationとの合弁でポリプラスチックスを設立★★
1966〜2000年ダイセル化学工業期 ── 無配からの再建とスペシャリティ路線商号をダイセルに商号変更
大日本化成を吸収合併、同社工場を大竹工場(広島県)に
Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
協同酢酸を三菱瓦斯化学、電気化学工業、協和醗酵工業、チッソとの合弁で設立
商号をダイセル化学工業に商号変更
中央研究所を移転し総合研究所を新設
Daicel (U.S.A.), Inc.設立
ポリプラスチックスが、Taiwan Engineering PlasticsをHoechst・長春との合弁で設立
ダイセル・セイフティ・システムズ設立
Daicel Chemical (Asia) Pte. Ltd.(現Daicel (Asia) Pte. Ltd.)設立
網干工場で液晶用フィルム酢酸セルロース・アセテートトウの製造を開始★★
Chiral Technologies, Inc.を設立
Xi'an Huida Chemical Industries Co., Ltd.を陜西中煙工業公司との合弁で設立
大同商工に資本参加
セパレーション事業を分社しダイセン・メンブレン・システムズを設立
2001〜2025年ダイセル期 ── ポリプラ完全子会社化と生産革新ダイセルパックシステムズ営業開始。(成型容器製品事業を大同商工と事業統合)
ダイセルバリューコーティング営業開始。(フィルム事業の分社)
小川大介大竹工場においてアセテート・トウの製造開始
小川大介堺工場を閉鎖
小川大介ダイセル式生産革新(SPS)の確立と全社展開

ダイセル化学工業が網干工場(兵庫県)で確立した独自の生産革新『ダイセル式生産革新(SPS)』を、プロセス産業版のカイゼンとして体系化した経営判断。2005年から横河電機と協業で外部提供を始め、2008年3月には経済産業省が報告書にまとめた。方式の生みの親であった小河義美氏が2018年に社長へ就き、グループ全社へ広げた。

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★★★
札場操商号をダイセルに商号変更
札場操Special Devices, Inc.を買収
札場操Daicel ChemTech, Inc.設立
札場操総合研究所と姫路技術本社をイノベーション・パークに集約
札場操Daicel Safety Systems India Pvt. Ltd.を設立
小河義美ダイセルミライズ営業開始。(樹脂事業の再編)
小河義美ポリプラスチックスを完全子会社化★★
小河義美ポリプラスチックスが、DP Engineering Plastics (Nantong) Co., Ltd.設立
小河義美ダイセルビヨンド操業開始
出典・参考
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
  • 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
  • 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
  • 発明 1987年6月号「光ディスクへの進出 ── 技術開発と経営の多角化(6)」
  • 日経ビジネス 1990年3月26日号
  • 野田経済 1961年2月27日号
  • 日本経済新報 1962年
  • 月刊経済 1971年
  • 新日本経済 1971年
  • 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
  • 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」

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