チッソ の歴史

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創業 1906年
創業者 野口遵
創業地 鹿児島県伊佐郡大口村
創業
1906年1月、野口遵氏が鹿児島県伊佐郡大口村に資本金20万円で曾木電気を設立した。当時の水力発電所は貯水池を持たない自流式で発電量を調節できず、送り先のない電力が全国で余っていた。市町村へ配電しながら、余った電力でカーバイドをつくることを設立の目的に掲げる。1907年に日本カーバイド商会を設立して熊本県水俣へ工場を建て、1908年8月に両社を合併して日本窒素肥料を設立した。同年、財閥系に先んじてドイツのフランク・カロー式石灰窒素製造法の導入契約と特許権を取得し、水俣で石灰窒素と硫安の製造を始める。1921年にはカザレー式アンモニア合成法の特許を買い取り、1923年9月に宮崎県延岡へ硫安工場を建てた。
決断
補償を払い続けるために、事業のほうを手放した。1968年5月に水俣工場のアセトアルデヒド生産を止め、同年9月に政府は水俣病の原因を同工場の酢酸設備内で生成したメチル水銀化合物と断じた。1973年3月20日の熊本地裁判決はチッソの責任を確定し、1959年12月の見舞金契約を公序良俗違反とする。同年7月の患者補償協定の後、支払いは資産の処分で賄われ、1973年9月に堺工場を24億円、1974年2月にチッソ電子化学を三菱金属へ34億円で譲渡した。1975年3月期末の累積欠損は155億3,000万円と資本金78億1,400万円のほぼ倍に達する。支払った補償金は漁業補償を含め210億円弱、処分した資産は122億円で、差額は自力では埋まらなかった。
現況
製造も販売もせず、補償を担う主体としてだけ残っている。2011年1月にJNCを設立し、同年3月に事業を譲渡した。以後のチッソが開示する連結業績はJNCを中心とする企業集団のもので、2026年3月期の連結売上高は1,370億円、経常利益35億円である。連結従業員は2,493名にのぼるのに対し、チッソ単体は29名にとどまる。セグメントではアグリ・ライフイノベーションが売上608億円、ケミカルマテリアルが368億円と大きく、営業利益では発電を担うグリーンエネルギーの21億円が最大となった。創業時に余った電力から始めた発電が、事業譲渡を経てなお最も利益を出している。連結売上高は2014年3月期の2,288億円を超えられないまま推移している。
競合
日窒が二つに割れたとき、水俣を引き継いだのはチッソだけだった。1945年の敗戦でチッソは朝鮮・興南の設備を含む在外資産の一切を失い、財閥解体では宮崎県延岡の工場群が切り離される。この延岡が日窒コンツェルンから分離独立して旭化成工業となり、内地に残ったのは空襲で壊滅した水俣工場だけだった。延岡を引き継いだ側はヘーベルハウスで住宅事業へ参入しして住宅と医療へ広げ、新潟水俣病の補償を負った昭和電工も引当金を計上しながら上場を保ち、日立化成を買収して半導体材料へ移ったしている。水俣を引き継いだ側だけが1978年に上場を失い、熊本県が県債で調達した資金を借りて補償を続ける立場に置かれた。どの工場が手元に残ったかが、3社が次に何へ投資できるかを分けた。
長期業績の推移 1906〜2026年
チッソ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2013年3月期2026年3月期

創業ストーリー 金山の余剰電力から興南コンビナートまでの日窒コンツェルン (1906年〜)

金山の余剰電力から興南コンビナートまでの日窒コンツェルン

創業ストーリー(1)

金山への送電と余った電力が生んだカーバイド

日露戦争が終わった翌年の1906年、鉄道国有化による買収金が資本市場へ流れ込み、大規模な水力発電所の建設が全国各地で相次いだ[1]。当時の発電所は貯水池を持たない自流式で発電量を調節できず、送り先のない電力が大量に余っていた[2]。1906年1月、野口遵氏が鹿児島県大口に資本金20万円で曾木電気を設立し、水力発電事業を始めた[3]。市町村へも電気を送りながら、余った電力でカーバイドをつくることを設立の目的に掲げた[4]

  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [1]1906年、鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し、大規模水力発電所の建設が全国で相次いだ
    • [2]当時の水力発電はダム式ではなく自流式のため発電量を調節できず、多量の余剰電力を生じた
    • [4]曾木電気の目的は近郊の金山と市町村へ送電するかたわら、余剰電力でカーバイドをつくることだった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [3]1906年1月、初代社長の野口遵が資本金20万円で曾木電気を設立し水力発電事業を始めた

1907年、野口遵氏は日本カーバイド商会を設立し、熊本県水俣に工場を建てて大規模な生産に入った[5]。1908年、野口遵氏は30代でヨーロッパへ渡り、財閥系企業に先んじてドイツ人フランク・カロー氏の石灰窒素製造法の導入契約を結び[6]、同じ年にその特許権も取得した[7]。同年8月、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立し、本社を大阪市西区阿波堀通に置く[8]。水俣には硫安の製造工場を新設し、鏡工場も加えたうえ、発電所の新設も続けた[9]

  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [5]1907年、野口遵は日本カーバイド商会を設立し熊本県水俣に製造工場を建設して大規模な生産に踏み切った
    • [6]野口遵は1908年に30代でヨーロッパへ渡り、財閥系企業に先がけてドイツ人フランク・カローの石灰窒素製造法の導入契約に成功した
    • [7]日本カーバイド商会設立の翌年にあたる1908年、野口遵は石灰窒素製造法の特許権を取得した
    • [8]1908年8月、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立し、創業本社を大阪市西区阿波堀通に置いた
    • [9]日本窒素肥料は水俣に硫安製造工場を新設したほか鏡工場を新設し、発電所の新設も続けた

日本窒素肥料は1908年から水俣で石灰窒素と硫安の製造を始めた[10]。水俣の電気は曾木の発電所から引き、自前の電力で化学肥料をつくる経営がここで形になった[11]。1914年には変成硫安の製造に成功し[12]、同じ年に始まった第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり、肥料価格は高騰した[13]。日本窒素肥料は増産するほど値の上がる市況のもとで拡張を重ね、これに伴う輸送需要も膨らんだ[14]。その輸送は、野口遵氏がヨーロッパ航路の船中で知り合ったパーサーの富田正次氏が興した富田商会が引き受けた[15]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [10]1908年に日本窒素肥料へ社名を変更し、石灰窒素・硫安の製造を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [11]水俣では曾木電気の電力を利用してカーバイドから石灰窒素を製造し、化学肥料事業に進出した
  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [12]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功した
    • [13]第一次世界大戦の勃発で欧米からの硫安輸入が止まり、肥料価格は高騰した
    • [14]日本窒素肥料は拡張を重ね、増産するほど価格も上がる状況で輸送需要も活発になった
    • [15]富田商会創業者の富田正次はヨーロッパ航路の船のパーサーで、船中で野口遵と知り合った
  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [1]1906年、鉄道国有化の買収金が資本市場に流入し、大規模水力発電所の建設が全国で相次いだ
    • [2]当時の水力発電はダム式ではなく自流式のため発電量を調節できず、多量の余剰電力を生じた
    • [4]曾木電気の目的は近郊の金山と市町村へ送電するかたわら、余剰電力でカーバイドをつくることだった
    • [5]1907年、野口遵は日本カーバイド商会を設立し熊本県水俣に製造工場を建設して大規模な生産に踏み切った
    • [6]野口遵は1908年に30代でヨーロッパへ渡り、財閥系企業に先がけてドイツ人フランク・カローの石灰窒素製造法の導入契約に成功した
    • [7]日本カーバイド商会設立の翌年にあたる1908年、野口遵は石灰窒素製造法の特許権を取得した
    • [8]1908年8月、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立し、創業本社を大阪市西区阿波堀通に置いた
    • [9]日本窒素肥料は水俣に硫安製造工場を新設したほか鏡工場を新設し、発電所の新設も続けた
    • [12]日本窒素肥料は1914年に変成硫安の製造に成功した
    • [13]第一次世界大戦の勃発で欧米からの硫安輸入が止まり、肥料価格は高騰した
    • [14]日本窒素肥料は拡張を重ね、増産するほど価格も上がる状況で輸送需要も活発になった
    • [15]富田商会創業者の富田正次はヨーロッパ航路の船のパーサーで、船中で野口遵と知り合った
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [3]1906年1月、初代社長の野口遵が資本金20万円で曾木電気を設立し水力発電事業を始めた
    • [11]水俣では曾木電気の電力を利用してカーバイドから石灰窒素を製造し、化学肥料事業に進出した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [10]1908年に日本窒素肥料へ社名を変更し、石灰窒素・硫安の製造を開始した
創業ストーリー(2)

カザレー式アンモニアと朝鮮・興南のコンビナート

1921年、野口遵氏はイタリア人ルイギ・カザレー氏の発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため、ヨーロッパへ赴いた[16]。買い取った特許をもとに、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建てる[17]。自家用水力発電所の電力で水を電解して水素を取り、空気から分離した窒素と直接合成する設備で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目を集めた[18]。1928年には自社技術による合成硝酸の製造に成功し[19]、1932年からは同じく自社技術で合成酢酸をつくり、続いて酢酸繊維素、アセテート、酢酸ビニール、メタクリル硝子を製造した[20]。このうち塩化ビニールとアセテートは、日本で最初に手がけた製品である[21]。延岡の工場で大量に生まれるアンモニアは硫安に回るだけでなく、のちに火薬の主原料も供給した[22]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「旭化成工業」
    • [16]1921年、野口遵はカザレー式特許買収のためヨーロッパへ赴いた
    • [17]野口遵はイタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し、1923年9月に宮崎県延岡へ硫安工場(日本窒素肥料延岡工場)を建設した
    • [18]延岡の硫安工場は自家用水力発電所の電力で水を電解して得た水素と空気中から分離した窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [19]1928年に自社技術による合成硝酸の製造に成功した
    • [20]1932年に自社技術で合成酢酸の製造を開始し、続いて酢酸繊維素・アセテート・酢酸ビニール・メタクリル硝子を製造した
    • [21]塩化ビニールとアセテートは日本で同社が初めて手がけたものである
  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
    • [22]日本窒素肥料延岡工場は火薬の主原料を供給し、同工場では豊富にアンモニアが生産された

1927年5月、日本窒素肥料は朝鮮窒素肥料を設立して、現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市にあたる興南に工場を建てた[23]。巨大ダムの電力を使う興南工場は、アジア最大の電気化学工場と呼ばれた[24]。野口遵社長は電源開発をてこに事業を国策に沿って組み立て、一代で日窒コンツェルンを確立した[25]。三井・三菱など既存の財閥に対し、日窒コンツェルンは昭和財閥とも呼ばれた[26]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1927年5月に朝鮮窒素肥料を設立し興南工場を建設した。興南は現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市にあたる
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [24]巨大ダムの電力を使い、朝鮮の興南工場はアジア最大の電気化学工場と呼ばれた
    • [25]野口遵は電源開発をてこに一代で日窒コンツェルンを確立し、その事業は国策に沿った形で進められた
    • [26]三井・三菱など既存の財閥に対し、日窒コンツェルンは昭和財閥とも呼ばれた

朝鮮では化学肥料に加え、石炭低温乾溜と石炭液化などの石炭化学、アルミニウムや金属マグネシウム、合成宝石などの金属精錬、硬化油やグリセリンなどの油脂化学も手がけた[27]。油脂・火薬・人絹・石炭液化へも進み、電力と化学技術を根幹とする大日窒コンツェルンができあがった[28]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [27]朝鮮において化学肥料、石炭低温乾溜・石炭液化などの石炭化学、アルミニウム・金属マグネシウム・合成宝石などの金属精錬、硬化油・グリセリンなどの油脂化学を手がけた
  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [28]日本窒素は油脂・火薬・人絹・石炭液化などにも進出し、電力と化学技術を根幹とする大日窒コンツェルンを築き上げた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「旭化成工業」
    • [16]1921年、野口遵はカザレー式特許買収のためヨーロッパへ赴いた
    • [17]野口遵はイタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し、1923年9月に宮崎県延岡へ硫安工場(日本窒素肥料延岡工場)を建設した
    • [18]延岡の硫安工場は自家用水力発電所の電力で水を電解して得た水素と空気中から分離した窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [19]1928年に自社技術による合成硝酸の製造に成功した
    • [20]1932年に自社技術で合成酢酸の製造を開始し、続いて酢酸繊維素・アセテート・酢酸ビニール・メタクリル硝子を製造した
    • [21]塩化ビニールとアセテートは日本で同社が初めて手がけたものである
    • [27]朝鮮において化学肥料、石炭低温乾溜・石炭液化などの石炭化学、アルミニウム・金属マグネシウム・合成宝石などの金属精錬、硬化油・グリセリンなどの油脂化学を手がけた
  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
    • [22]日本窒素肥料延岡工場は火薬の主原料を供給し、同工場では豊富にアンモニアが生産された
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1927年5月に朝鮮窒素肥料を設立し興南工場を建設した。興南は現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市にあたる
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [24]巨大ダムの電力を使い、朝鮮の興南工場はアジア最大の電気化学工場と呼ばれた
    • [25]野口遵は電源開発をてこに一代で日窒コンツェルンを確立し、その事業は国策に沿った形で進められた
    • [26]三井・三菱など既存の財閥に対し、日窒コンツェルンは昭和財閥とも呼ばれた
  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
    • [28]日本窒素は油脂・火薬・人絹・石炭液化などにも進出し、電力と化学技術を根幹とする大日窒コンツェルンを築き上げた
創業ストーリー(3)

敗戦で失った在外資産と水俣工場だけの残存

延岡工場で豊富に出るアンモニアを硫安だけにとどめず高度に利用する道を調べた結果、日本窒素肥料はベンベルグ絹糸の製造を選んだ[29]。1928年11月、野口遵社長はニューヨークでドイツのベンベルグ社代表と製造特許の使用契約を結び[30]、1929年4月に資本金1,000万円の日本ベンベルグ絹糸を設立した[31]。ベンベルグ工場は延岡工場に隣接して1930年2月に着工し、1931年4月に完成、同月18日に試運転を行った[32]。この工場は延岡工場のアンモニアを大部分使う計画で、日窒延岡工場のほうがベンベルグ工場の原料工場とみなされるまでになる[33]。そこで1931年5月、日本窒素肥料は延岡工場を独立させ、延岡アンモニア絹糸を設立した[34]

  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
    • [29]日本窒素肥料延岡工場では豊富に生産されるアンモニアを硫安の製造だけにとどめず、高度に利用する工業を調査した結果ベンベルグ絹糸を製造することにした
    • [30]1928年11月6日、ニューヨークで野口社長とドイツ・ベンベルグ会社代表者との間にベンベルグ製造特許使用の契約書が締結された
    • [31]1929年4月27日、資本金1,000万円の日本ベンベルグ絹糸が設立された
    • [32]ベンベルグ工場は日本窒素肥料延岡工場に隣接して1930年2月に着工し1931年4月に完成、同月18日に試運転を行った
    • [33]新設のベンベルグ工場は日窒延岡工場で製造されるアンモニアを大部分使用する予定で、日窒延岡工場はむしろベンベルグ工場の原料工場とみなされるようになった
    • [34]1931年5月21日、日窒延岡工場を独立させて延岡アンモニア絹糸が設立された

これより先の1922年5月、野口遵社長は旭絹織を設立し、日本綿花社長の喜多又蔵氏と提携して旧旭人造絹糸を買収していた[35]。滋賀県膳所の工場は帝人と人絹業界を二分する勢力まで伸びたが[36]、土地が狭くて拡張の余地を失い、水の良い延岡に新工場を建てる[37]。1933年7月、延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織を合併し、資本金4,600万円の旭ベンベルグ絹糸となった[38]。火薬では1930年12月に資本金100万円で日本窒素火薬を設立し、1932年6月に延岡でダイナマイトの生産を始めた[39]。導火線・雷管・包装紙の各工場を吸収合併し、1941年12月に資本金は840万円へ増えた[40]

  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
    • [35]1922年5月25日、野口社長は旭絹織を設立し、日本綿花社長の喜多又蔵と提携して旧旭人造絹糸を買収した
    • [36]旭絹織は帝人と共に本邦人絹業界を二分する勢力にまで発展した
    • [37]旭絹織の滋賀県膳所の工場は土地が狭く拡張の余地がなくなったため、水質の良い延岡に新工場を建設した
    • [38]1933年7月15日、延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織を合併し、資本金4,600万円の旭ベンベルグ絹糸となった
    • [39]日本窒素火薬は1930年12月4日に資本金100万円で設立され、1932年6月に延岡でダイナマイトの生産を開始した
    • [40]導火線・雷管・電気雷管・火薬包装紙の各工場を買収して吸収合併し、1941年12月24日に日本窒素火薬の資本金は840万円となった

1941年12月、日本窒素肥料は朝鮮窒素肥料を合併した[41]。1920年代後半から事業の主体は朝鮮へ移り、化学肥料から金属精錬までを抱える総合化学会社に広がっていた[42]。1945年の敗戦により日本窒素肥料は朝鮮に築いた設備を含む在外資産の一切を失い、内地には水俣工場だけが残った[43]。財閥解体では宮崎県延岡の工場が切り離されて旭化成工業として独立した[44]。残った水俣工場も空襲で壊滅状態にあった[45]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1941年12月、朝鮮窒素肥料を合併した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [42]昭和に入って事業の主体を朝鮮に移し、総合化学会社にまで発展した
    • [43]終戦により内地の水俣工場を残し、他の在外資産の一切を失った
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [44]財閥解体で宮崎県の延岡工場は切り離され、旭化成工業として独立した
    • [45]残ったのは水俣工場だけで、その水俣工場も空襲で壊滅状態となった
  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
    • [29]日本窒素肥料延岡工場では豊富に生産されるアンモニアを硫安の製造だけにとどめず、高度に利用する工業を調査した結果ベンベルグ絹糸を製造することにした
    • [30]1928年11月6日、ニューヨークで野口社長とドイツ・ベンベルグ会社代表者との間にベンベルグ製造特許使用の契約書が締結された
    • [31]1929年4月27日、資本金1,000万円の日本ベンベルグ絹糸が設立された
    • [32]ベンベルグ工場は日本窒素肥料延岡工場に隣接して1930年2月に着工し1931年4月に完成、同月18日に試運転を行った
    • [33]新設のベンベルグ工場は日窒延岡工場で製造されるアンモニアを大部分使用する予定で、日窒延岡工場はむしろベンベルグ工場の原料工場とみなされるようになった
    • [34]1931年5月21日、日窒延岡工場を独立させて延岡アンモニア絹糸が設立された
    • [35]1922年5月25日、野口社長は旭絹織を設立し、日本綿花社長の喜多又蔵と提携して旧旭人造絹糸を買収した
    • [36]旭絹織は帝人と共に本邦人絹業界を二分する勢力にまで発展した
    • [37]旭絹織の滋賀県膳所の工場は土地が狭く拡張の余地がなくなったため、水質の良い延岡に新工場を建設した
    • [38]1933年7月15日、延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織を合併し、資本金4,600万円の旭ベンベルグ絹糸となった
    • [39]日本窒素火薬は1930年12月4日に資本金100万円で設立され、1932年6月に延岡でダイナマイトの生産を開始した
    • [40]導火線・雷管・電気雷管・火薬包装紙の各工場を買収して吸収合併し、1941年12月24日に日本窒素火薬の資本金は840万円となった
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1941年12月、朝鮮窒素肥料を合併した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [42]昭和に入って事業の主体を朝鮮に移し、総合化学会社にまで発展した
    • [43]終戦により内地の水俣工場を残し、他の在外資産の一切を失った
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [44]財閥解体で宮崎県の延岡工場は切り離され、旭化成工業として独立した
    • [45]残ったのは水俣工場だけで、その水俣工場も空襲で壊滅状態となった

水俣工場だけを残した第二会社と五井の石油化学

創業ストーリー(4)

企業再建整備法による第二会社としての再出発

敗戦により朝鮮の興南工場をはじめとする在外資産の一切を失い、財閥解体で宮崎県の延岡工場が旭化成工業として分離されたあと、日本窒素肥料の手元に残ったのは熊本県の水俣工場だけだった[46]。その水俣工場も空襲で壊滅状態になっていた[47]。1950年1月12日、資本金4億円で新日本窒素肥料が設立された[48]。旧・日本窒素肥料が南九州に築いた自家水力発電12か所、合計8万キロワットを引き継ぎ、その電力でカーバイドとアンモニアを作る化学会社として再出発した[49]。資本金は1951年12月に6億円、1955年5月に12億円、1957年1月に24億円へ増えた[50]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [46]敗戦で在外資産を失い、延岡工場が旭化成工業として分離され、内地に残ったのは水俣工場だけだった
    • [47]水俣工場も空襲で壊滅状態になった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [48]1950年1月12日に資本金4億円で新日本窒素肥料を設立
    • [49]自家水力発電12か所8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社
    • [50]資本金は1951年12月に6億円、1955年5月に12億円、1957年1月に24億円へ増資

新日本窒素肥料は熊本県内で内谷発電所を建設し、水俣工場の増強と合理化工事を続けて実施した[51]。生産する品目は硫安にとどまらず、化学肥料の高度化に加えてオクタノール、DOP、DOAの製造にも及んだ[52]。1963年時点の主力は、硫加燐安を中心とする高度化成肥料のほか、塩化ビニル、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンである[53]。カーバイドの生産規模は業界5位、塩化ビニルは4位、高度化成とアセテート繊維はいずれも3位、可塑剤のDOPとDOAでは首位を占めた[54]。1956年3月期に32億3,901万円だった売上高は、1961年3月期には84億円を超えた[55]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [51]内谷発電所の建設と水俣工場の増強、合理化工事を実施
    • [53]硫加燐安を中心とした高度化成肥料のほか、塩ビ、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンを生産
    • [54]カーバイドの生産規模は業界5位、塩ビ4位、高度化成3位、アセテート繊維3位、可塑剤DOP・DOAで首位
    • [55]売上高は1956年3月期32億3,901万円、1961年3月期84億295万円
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [52]戦後に化学肥料の高度化、オクタノール、DOP、DOAの製造へ進出

設立から6年後の1956年11月、新日本窒素肥料は全額出資で日窒アセテートを設立し、1958年12月には同じく全額出資の日窒電子化学を加えた[56]。酢酸繊維素アセテートの『ミナロン』は、この全額出資2社が生産を引き受けた[57]。1950年の設立時に副社長となった吉岡喜一社長が1958年に社長へ就き、1951年から副社長を務めた大石武夫会長が同じ年に会長となった[58]。1963年3月末の従業員は4,174人で、うち水俣工場が3,478人、横浜市の中央研究所が156人を数えた[59]。水俣工場には約2,158人の水俣工場労働組合と約1,207人の水俣工場新労働組合があった[60]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [56]1956年11月に日窒アセテート、1958年12月に日窒電子化学をそれぞれ全額出資で設立
    • [57]酢酸繊維素アセテート「ミナロン」を全額出資の日窒アセテートと日窒電子化学で生産
    • [58]吉岡喜一氏は1950年に副社長、1958年に社長。大石武夫氏は1951年に副社長、1958年に会長
    • [59]1963年3月末の従業員4,174人、水俣工場3,478人、横浜市の中央研究所156人
    • [60]水俣工場労働組合の加入人員約2,158名、水俣工場新労働組合の加入人員約1,207名
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [46]敗戦で在外資産を失い、延岡工場が旭化成工業として分離され、内地に残ったのは水俣工場だけだった
    • [47]水俣工場も空襲で壊滅状態になった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [48]1950年1月12日に資本金4億円で新日本窒素肥料を設立
    • [49]自家水力発電12か所8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社
    • [50]資本金は1951年12月に6億円、1955年5月に12億円、1957年1月に24億円へ増資
    • [51]内谷発電所の建設と水俣工場の増強、合理化工事を実施
    • [53]硫加燐安を中心とした高度化成肥料のほか、塩ビ、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンを生産
    • [54]カーバイドの生産規模は業界5位、塩ビ4位、高度化成3位、アセテート繊維3位、可塑剤DOP・DOAで首位
    • [55]売上高は1956年3月期32億3,901万円、1961年3月期84億295万円
    • [56]1956年11月に日窒アセテート、1958年12月に日窒電子化学をそれぞれ全額出資で設立
    • [57]酢酸繊維素アセテート「ミナロン」を全額出資の日窒アセテートと日窒電子化学で生産
    • [58]吉岡喜一氏は1950年に副社長、1958年に社長。大石武夫氏は1951年に副社長、1958年に会長
    • [59]1963年3月末の従業員4,174人、水俣工場3,478人、横浜市の中央研究所156人
    • [60]水俣工場労働組合の加入人員約2,158名、水俣工場新労働組合の加入人員約1,207名
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [52]戦後に化学肥料の高度化、オクタノール、DOP、DOAの製造へ進出
創業ストーリー(5)

アセトアルデヒド増産と1956年の水俣病公式確認

水俣工場でアセトアルデヒドと合成酢酸の製造設備が動き始めたのは1932年で、このときから工場排水が水俣湾へ流れ込んだ[61]。合成酢酸の製造技術は旧・日本窒素肥料が自社で開発したもので、酢酸繊維素やアセテート、酢酸ビニルの生産はここから広がった[62]。アセトアルデヒドは塩化ビニルや医薬品、肥料の中間物質にあたり、その製造工程で有機水銀が副生する[63]。新日本窒素肥料は戦後もアセトアルデヒドの生産を続けて1953年に水俣工場の生産能力を引き上げ[64]、同じ年から水俣周辺では猫が狂って死ぬ例が相次いだ[65]。1956年5月1日、水俣工場附属病院が水俣保健所へ類例のない疾患の発生を届け出て[66]、これが水俣病の公式発見となった[67]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [61]1932年にアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働し、水銀が流れ始めた
    • [63]有機水銀はアセトアルデヒドを製造する際に副生し、アセトアルデヒドはビニール、医薬品、肥料など化学合成品の中間物質
    • [64]1953年に水俣工場が生産能力を増強
    • [65]1953年に猫の狂死が相次いだ
    • [66]1956年5月1日、チッソ附属病院から水俣保健所へ類例のない疾患発生の届けがあった
    • [67]1956年5月1日の届け出が水俣病の公式発見にあたる
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [62]1932年に自社技術で合成酢酸の製造を開始し、酢酸繊維素、アセテート、酢酸ビニルなどを製造

熊本大学の研究班は新日本窒素肥料の妨害を受けながら原因究明を進め、1959年7月14日に有機水銀説を発表した[68]。原因物質はメチル水銀と判明して発生源も水俣工場とほぼ特定され[69]、同年12月30日に患者と新日本窒素肥料は見舞金契約を結んだ[70]。死者1人当たり30万円などの支払いを定める一方、将来原因が新日本窒素肥料にあると判明しても新たな補償を求めないという条項が入った[71]。見舞金を受け取る資格のある患者を決める組織として水俣病患者診査協議会が発足し、認定制度はこの受給資格の判定に力点を置いて出発した[72]。水俣湾の漁獲禁止や工場の排水停止を求める声はこの間も出ていたが、どちらも実現しなかった[73]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [68]チッソの妨害に遭いながら熊本大研究班が原因究明を進め、1959年7月14日に有機水銀説を発表
    • [69]1959年に原因がメチル水銀とわかり、発生源も水俣工場とほぼ特定された
    • [70]1959年12月30日に患者とチッソが見舞金契約を締結
    • [71]見舞金契約は死者1人当たり30万円などとし、将来原因がチッソにあるとわかっても新たな補償要求はしないとの条項を含んだ
    • [72]見舞金を受ける資格のある患者を決める組織として水俣病患者診査協議会が発足し、認定制度は受給資格の判定に力点が置かれた
    • [73]水俣湾の漁獲禁止や工場の排水停止を求める声は実現しなかった

水俣市は新日本窒素肥料の企業城下町で[74]、最盛期の従業員は4,000人にのぼり[75]、1963年3月末でも全従業員4,174人のうち3,478人が水俣工場に勤めた[76]。水俣病が公式に確認された当時に水俣市長を務めた橋本彦七市長は、もとは新日本窒素肥料の水俣工場長で、有機水銀を生む工程を工業化した人物である[77]。新日本窒素肥料は水俣病の公式発見から8年を経た1964年時点でも、自社を自家水力発電12か所8万キロワットを基礎とするカーバイド、アンモニア系統の化学会社と説明し、この業界のパイオニアとしての伝統を持つ会社と記した[78]。同じ説明のどこにも水俣病は出てこない[79]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [74]水俣市はチッソの企業城下町だった
    • [75]最盛期の従業員は4,000人
    • [77]橋本彦七氏は昭和30年代から40年代にかけて水俣市長を務めた元チッソ工場長で、有機水銀を生んだ工程を工業化した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [76]1963年3月末の従業員4,174人のうち水俣工場が3,478人
    • [78]1964年版の会社説明は自家水力発電12か所8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社とし、この業界のパイオニアとしての伝統を持つと記す
    • [79]1964年版の会社説明に水俣病への言及はない
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [61]1932年にアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働し、水銀が流れ始めた
    • [63]有機水銀はアセトアルデヒドを製造する際に副生し、アセトアルデヒドはビニール、医薬品、肥料など化学合成品の中間物質
    • [64]1953年に水俣工場が生産能力を増強
    • [65]1953年に猫の狂死が相次いだ
    • [66]1956年5月1日、チッソ附属病院から水俣保健所へ類例のない疾患発生の届けがあった
    • [67]1956年5月1日の届け出が水俣病の公式発見にあたる
    • [68]チッソの妨害に遭いながら熊本大研究班が原因究明を進め、1959年7月14日に有機水銀説を発表
    • [69]1959年に原因がメチル水銀とわかり、発生源も水俣工場とほぼ特定された
    • [70]1959年12月30日に患者とチッソが見舞金契約を締結
    • [71]見舞金契約は死者1人当たり30万円などとし、将来原因がチッソにあるとわかっても新たな補償要求はしないとの条項を含んだ
    • [72]見舞金を受ける資格のある患者を決める組織として水俣病患者診査協議会が発足し、認定制度は受給資格の判定に力点が置かれた
    • [73]水俣湾の漁獲禁止や工場の排水停止を求める声は実現しなかった
    • [74]水俣市はチッソの企業城下町だった
    • [75]最盛期の従業員は4,000人
    • [77]橋本彦七氏は昭和30年代から40年代にかけて水俣市長を務めた元チッソ工場長で、有機水銀を生んだ工程を工業化した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [62]1932年に自社技術で合成酢酸の製造を開始し、酢酸繊維素、アセテート、酢酸ビニルなどを製造
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [76]1963年3月末の従業員4,174人のうち水俣工場が3,478人
    • [78]1964年版の会社説明は自家水力発電12か所8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社とし、この業界のパイオニアとしての伝統を持つと記す
    • [79]1964年版の会社説明に水俣病への言及はない
創業ストーリー(6)

1962年のチッソ石油化学設立と3件の技術援助契約

石油化学に入るための製造技術を、新日本窒素肥料は3件の契約で外部から取り入れた。1960年12月、西独のアルデヒド社およびフリードリッヒウーデ社とアセトアルデヒド製造技術について技術援助契約を締結[80]。翌1961年1月には米国のアビサン社とポリプロピレン製造技術について、同年4月には米国のコスデン社とポリブテン製造技術について、それぞれ契約を結んだ[81]。アセトアルデヒドは水俣工場が1932年から製造してきた製品であり、新日本窒素肥料はその石油系の製法をあらためて外部から導入した[82]。ポリプロピレンの生産は、契約から2年後の1963年に始まった[83]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [80]1960年12月に西独アルデヒド社、フリードリッヒウーデ社とアセトアルデヒド製造技術の援助契約を締結
    • [81]1961年1月に米国アビサン社とポリプロピレン製造技術、1961年4月に米国コスデン社とポリブテン製造技術の援助契約を締結
    • [83]1963年から子会社チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [82]水俣工場では1932年からアセトアルデヒドを製造していた

1962年6月、吉岡喜一社長のもとで[84]新日本窒素肥料は全額出資の子会社チッソ石油化学を設立した[85]。工場用地は千葉県五井地区に置き、丸善石油化学グループの一員として年産1万3,000トンのポリプロピレン製造設備の建設に入った[86]。この設備は1962年12月に完成して[87]1963年からポリプロピレンの生産を開始し[88]、アセトアルデヒドなどエチレン系製品の製造設備も続けて建設する計画だった[89]。滋賀県守山ではポリプロピレン繊維の日産3トン設備を1963年5月末の完成目標で建設し、樹脂の加工は同系の積水化学工業が引き受けた[90]。熊本県の緑川水系では、出力5,700キロワットの目丸発電所を1966年1月の完成目標で建設した[91]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [84]吉岡喜一氏は1958年に社長へ就任
    • [86]千葉県五井地区でチッソ石油化学によりポリプロピレン年産1万3,000トン製造設備を建設中。千葉の丸善石油化学グループに属する
    • [88]1963年から子会社チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始
    • [89]アセトアルデヒド等エチレン系製品の製造設備も引き続き建設の予定
    • [90]滋賀県守山でポリプロピレン繊維日産3トン製造設備を建設中、1963年5月末完成予定。ポリプロピレンの樹脂加工は同系の積水化学が担当
    • [91]熊本県緑川水系で目丸発電所(出力5,700キロワット)を1966年1月完成目標に建設中
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [85]1962年6月にチッソ石油化学を全額出資で設立し、石油化学事業へ参入
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [87]1962年12月にポリプロピレン製造設備が完成

石油化学の建設と並行して、本業の収益は落ちた。1962年3月期に97億929万円だった売上高は[92]、1962年9月期に86億5,969万円へ減り、この半期に1億1,000万円の損失を計上した[93]。1963年3月期の売上高は92億3,168万円まで戻したものの、利益は1,332万円にとどまり、2期続けて無配となった[94]。同期の売上内訳は、商品が31億4,285万円、アセテートが20億5,554万円、樹脂と可塑剤が19億8,598万円、肥料が14億4,654万円、工業薬品が6億75万円である[95]。1963年3月末の借入金は短期65億254万円、長期109億8,770万円で、資本金47億2,500万円の3.7倍に達した[96]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [92]1962年3月期の売上高9,709,299千円
    • [93]1962年9月期の売上高8,659,695千円、当期損失110,003千円
    • [94]1963年3月期の売上高9,231,686千円、当期利益13,320千円。1962年9月期・1963年3月期は株主配当金なし
    • [95]1963年3月期の販売実績は商品3,142,859千円、アセテート2,055,548千円、樹脂可塑剤1,985,984千円、肥料1,446,541千円、工業薬品600,754千円
    • [96]1963年3月期の短期借入金6,502,545千円、長期借入金10,987,700千円、資本金4,725,000千円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [80]1960年12月に西独アルデヒド社、フリードリッヒウーデ社とアセトアルデヒド製造技術の援助契約を締結
    • [81]1961年1月に米国アビサン社とポリプロピレン製造技術、1961年4月に米国コスデン社とポリブテン製造技術の援助契約を締結
    • [83]1963年から子会社チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始
    • [84]吉岡喜一氏は1958年に社長へ就任
    • [86]千葉県五井地区でチッソ石油化学によりポリプロピレン年産1万3,000トン製造設備を建設中。千葉の丸善石油化学グループに属する
    • [88]1963年から子会社チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始
    • [89]アセトアルデヒド等エチレン系製品の製造設備も引き続き建設の予定
    • [90]滋賀県守山でポリプロピレン繊維日産3トン製造設備を建設中、1963年5月末完成予定。ポリプロピレンの樹脂加工は同系の積水化学が担当
    • [91]熊本県緑川水系で目丸発電所(出力5,700キロワット)を1966年1月完成目標に建設中
    • [92]1962年3月期の売上高9,709,299千円
    • [93]1962年9月期の売上高8,659,695千円、当期損失110,003千円
    • [94]1963年3月期の売上高9,231,686千円、当期利益13,320千円。1962年9月期・1963年3月期は株主配当金なし
    • [95]1963年3月期の販売実績は商品3,142,859千円、アセテート2,055,548千円、樹脂可塑剤1,985,984千円、肥料1,446,541千円、工業薬品600,754千円
    • [96]1963年3月期の短期借入金6,502,545千円、長期借入金10,987,700千円、資本金4,725,000千円
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [82]水俣工場では1932年からアセトアルデヒドを製造していた
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [85]1962年6月にチッソ石油化学を全額出資で設立し、石油化学事業へ参入
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [87]1962年12月にポリプロピレン製造設備が完成

熊本地裁判決と210億円の補償が奪った自力再建

創業ストーリー(7)

チッソへの社名変更とアセトアルデヒド製造停止

1963年の新日本窒素肥料は、12カ所8万キロワットの自家水力発電を基礎とするカーバイドとアンモニア系統の化学会社だった[97]。主力は硫加燐安を中心とする高度化成肥料で、ほかに塩化ビニル、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンを生産し、カーバイドの生産規模は業界5位、塩化ビニルは4位、高度化成は3位、可塑剤のDOPとDOAでは首位を占めた[98]。石油化学へは1962年6月に全額出資のチッソ石油化学を設立して入り[99]、千葉県五井地区にポリプロピレン年産1万3,000トンの設備を建てて1963年に生産を始めた[100]。五井では1964年にアセトアルデヒドの製造設備も完成し、石油化学事業の基礎ができた[101]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [97]1963年時点の新日本窒素肥料は自家水力発電12カ所・8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社
    • [98]硫加燐安を中心とした高度化成肥料のほか塩ビ・可塑剤・アセテート繊維・金属シリコンを生産。カーバイド業界5位、塩ビ4位、高度化成3位、可塑剤DOP・DOAで首位
    • [100]千葉県五井地区でチッソ石油化学によるポリプロピレン年産1万3000トン設備を建設し1963年から生産開始
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [99]1962年6月にチッソ石油化学を全額出資で設立し石油化学事業に参入
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [101]1964年に五井でアセトアルデヒド製造設備が完成し石油化学事業の基礎ができた

1965年1月、新日本窒素肥料は社名をチッソへ変更した[102]。同年9月には無配へ転落[103]。水俣工場では1932年からアセトアルデヒドと合成酢酸の設備が動き、その製造工程で副生したメチル水銀が排水とともに水俣湾へ流れ出て、1956年5月1日に水俣病が公式に確認された[104]。1962年8月には熊本大学が工場廃液中の有機水銀を報告し、1965年5月31日には新潟で第2の水俣病が公式に見つかった[105]。チッソが水俣工場でのアセトアルデヒド生産を止めたのは1968年5月で[106]、同年9月26日には厚生省と科学技術庁が政府統一見解を出し、熊本の水俣病の原因を水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物と断じた[107]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1965年1月に新日本窒素肥料からチッソへ商号変更
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [103]1965年9月、無配転落
    • [105]1962年8月に熊本大学レポートが工場廃液中の有機水銀を指摘。1965年5月31日に新潟水俣病が公式発見
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [104]1932年にアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働し水銀が流れ始める。1956年5月1日に水俣病公式発見
    • [106]1968年5月、チッソ水俣工場でアセトアルデヒドの生産が停止
    • [107]1968年9月26日、厚生省・科学技術庁が政府統一見解を発表し、熊本の水俣病の原因をチッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物とした

1968年のチッソは、江頭豊社長のもとで本社を東京都千代田区丸ノ内に置き、資本金78億1,396万円、従業員3,316名を抱え、年間売上高は360億円を超えた[108]。水俣・五井・守山・野田の4工場では、ポリプロピレンや塩化ビニルなどのプラスチック、可塑剤、硝酸・酢酸・酢酸エチルといった工業薬品、硝加燐安・硫酸加里・CDUなどの化学肥料、ポリプロピレン繊維、トランジスターに用いる金属シリコンを製造販売した[109]。同じ1968年の会社紹介でチッソは、自社にとっての最大の転機を1961年の千葉県五井地区での石油化学着手に置き、水俣病には一言も触れていない[110]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [108]1968年時点のチッソは本社が東京都千代田区丸ノ内二の三、資本金78億1396万8750円、社長は江頭豊、従業員3316名、年間売上高360億円超
    • [109]水俣・五井・守山・野田の4工場でプラスチック、可塑剤、工業薬品、化学肥料、ポリプロピレン繊維、金属シリコンを製造販売
    • [110]1968年の会社紹介で最大の転機を1961年の千葉県五井地区での石油化学着手とし、水俣病への言及がない
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
    • [97]1963年時点の新日本窒素肥料は自家水力発電12カ所・8万キロワットを基礎としたカーバイド、アンモニア系統の化学会社
    • [98]硫加燐安を中心とした高度化成肥料のほか塩ビ・可塑剤・アセテート繊維・金属シリコンを生産。カーバイド業界5位、塩ビ4位、高度化成3位、可塑剤DOP・DOAで首位
    • [100]千葉県五井地区でチッソ石油化学によるポリプロピレン年産1万3000トン設備を建設し1963年から生産開始
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [99]1962年6月にチッソ石油化学を全額出資で設立し石油化学事業に参入
    • [102]1965年1月に新日本窒素肥料からチッソへ商号変更
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
    • [101]1964年に五井でアセトアルデヒド製造設備が完成し石油化学事業の基礎ができた
    • [108]1968年時点のチッソは本社が東京都千代田区丸ノ内二の三、資本金78億1396万8750円、社長は江頭豊、従業員3316名、年間売上高360億円超
    • [109]水俣・五井・守山・野田の4工場でプラスチック、可塑剤、工業薬品、化学肥料、ポリプロピレン繊維、金属シリコンを製造販売
    • [110]1968年の会社紹介で最大の転機を1961年の千葉県五井地区での石油化学着手とし、水俣病への言及がない
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [103]1965年9月、無配転落
    • [105]1962年8月に熊本大学レポートが工場廃液中の有機水銀を指摘。1965年5月31日に新潟水俣病が公式発見
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [104]1932年にアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働し水銀が流れ始める。1956年5月1日に水俣病公式発見
    • [106]1968年5月、チッソ水俣工場でアセトアルデヒドの生産が停止
    • [107]1968年9月26日、厚生省・科学技術庁が政府統一見解を発表し、熊本の水俣病の原因をチッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物とした
創業ストーリー(8)

補償協定と資産売却が招いた債務超過

水俣病の補償は、1959年12月30日にチッソと患者との間で結ばれた見舞金契約から始まった。死者1人当たり30万円などとする内容で、将来原因がチッソにあると分かっても新たな補償要求はしないという条項を含んでいた[111]。1973年3月20日、熊本地裁は患者側を勝訴させ、チッソの責任を初めて確定するとともに、見舞金契約を公序良俗違反とした[112]。判決の後、1973年7月に患者補償協定書が結ばれ、認定を申請する被害者が相次ぎ、同年11月に申請者はそれまでの3倍を超える2,000人以上になった[113]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [111]1959年12月30日、死者1人当たり30万円などとする見舞金契約を締結。将来原因がチッソにあると判明しても新たな補償要求はしない条項を含む
    • [112]1973年3月20日、水俣病1次訴訟判決で患者勝訴。チッソの責任が初めて確定し、見舞金契約は公序良俗違反とされた
    • [113]1973年7月に患者補償協定書が成立。1973年11月には申請者がそれまでの3倍を超える2000人以上になった

1970年5月、チッソは一部の患者と和解契約を結び、訴訟を続ける患者との間で患者側は分裂した[114]。同年11月には一株株主運動によってチッソの株主総会が荒れた[115]。1971年7月1日に環境庁が発足し[116]、翌8月には環境庁長官が水俣病の認定について、否定できないものは認定するよう求めた[117]。1973年5月には、熊本大学の研究班が発生地域と異なる地域にも水俣病に似た患者がいると指摘したことから第3水俣病問題が起こり[118]、全国的な水銀パニックと魚価の下落を招いたが[119]、環境庁はこれを水俣病ではないと判定した[120]

  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [114]1970年5月、一部患者と和解契約。訴訟派が分裂
    • [115]1970年11月、一株株主運動でチッソの株主総会が大荒れ
    • [117]1971年8月、環境庁長官が水俣病の認定について「否定できないものは認定せよ」と発言
    • [119]1973年5月、第三水俣病問題で全国で水銀パニック、魚価下落
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [116]1971年7月1日、環境庁発足
    • [118]第3水俣病問題の発端は、熊本大研究班が水俣病発生地域と違う地域に「水俣病類似患者がいる」と指摘したこと
    • [120]第3水俣病問題について環境庁は「シロ判定」を下した

1973年10月、チッソの石油化学製品の生産を担う子会社チッソ石油化学の五井工場が爆発し[121]、この復旧資金の返済見通しが立たなくなった[122]。補償金の支払いはすでに資産の切り売りで賄われており、1973年9月に堺工場を24億円で、1974年2月には子会社のチッソ電子化学を三菱金属へ34億円で売却した[123]。チッソ石油化学自体も資本金20億円に対して1975年3月期末で43億円の累積赤字を抱え、1974年度だけで20億円の赤字を出した[124]

  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [121]1973年10月、チッソ石油化学五井工場が爆発
    • [122]チッソ石油化学はチッソの石油化学製品の生産部門で、爆発事故の復旧資金の返済のメドが立たなくなった
    • [123]1973年9月に堺工場を24億円で売却、1974年2月に子会社チッソ電子化学を三菱金属へ34億円で売却
    • [124]チッソ石油化学は資本金20億円に対し1975年3月期末で43億円の累積赤字。1974年度は20億円の赤字
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [111]1959年12月30日、死者1人当たり30万円などとする見舞金契約を締結。将来原因がチッソにあると判明しても新たな補償要求はしない条項を含む
    • [112]1973年3月20日、水俣病1次訴訟判決で患者勝訴。チッソの責任が初めて確定し、見舞金契約は公序良俗違反とされた
    • [113]1973年7月に患者補償協定書が成立。1973年11月には申請者がそれまでの3倍を超える2000人以上になった
    • [116]1971年7月1日、環境庁発足
    • [118]第3水俣病問題の発端は、熊本大研究班が水俣病発生地域と違う地域に「水俣病類似患者がいる」と指摘したこと
    • [120]第3水俣病問題について環境庁は「シロ判定」を下した
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [114]1970年5月、一部患者と和解契約。訴訟派が分裂
    • [115]1970年11月、一株株主運動でチッソの株主総会が大荒れ
    • [117]1971年8月、環境庁長官が水俣病の認定について「否定できないものは認定せよ」と発言
    • [119]1973年5月、第三水俣病問題で全国で水銀パニック、魚価下落
    • [121]1973年10月、チッソ石油化学五井工場が爆発
    • [122]チッソ石油化学はチッソの石油化学製品の生産部門で、爆発事故の復旧資金の返済のメドが立たなくなった
    • [123]1973年9月に堺工場を24億円で売却、1974年2月に子会社チッソ電子化学を三菱金属へ34億円で売却
    • [124]チッソ石油化学は資本金20億円に対し1975年3月期末で43億円の累積赤字。1974年度は20億円の赤字
創業ストーリー(9)

開銀融資20億円と県債方式への移行

資産売却を重ねてもなお、1975年3月期末の累積欠損は155億3,000万円に達し、資本金78億1,400万円のほぼ倍になった[125]。水俣病の関係でそれまでに支払った補償金は漁業補償を含めて210億円弱、これに対して処分した資産の合計は122億円である[126]。1975年3月末の現預金は22億5,700万円、手元流動性比率は0.40倍で、東京証券取引所上場の化学69社の1974年度下期平均1.91倍に対しておよそ84億円が不足した[127]。長短借入金に対する現預金の比率は5.3%[128]。売掛債権の回転日数を99.2日へ縮める一方で買掛債務の回転日数は110.8日へ延ばし、4月末には日本興業銀行三和銀行から6億円のつなぎ融資を受けた[129]。チッソは累積赤字を消す見通しを持たず、配当も断念していた[130]

  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [125]1975年3月期末の累積欠損は155億3000万円で資本金78億1400万円のほぼ倍
    • [126]1975年3月期までに支払った水俣病関係の補償金は漁業補償を含めて210億円弱、処分した資産合計は122億円
    • [127]1975年3月末の現預金22億5700万円、手元流動性比率0.40倍。東証上場化学69社の1974年度下期平均1.91倍に対し約84億円不足
    • [128]長短借入金に対する現預金の比率は5.3%
    • [129]売掛債権回転日数99.2日、買掛債務回転日数110.8日。4月末に日本興業銀行・三和銀行から6億円のつなぎ融資
    • [130]累積赤字を消すメドは全くたっておらず配当も断念(藤井副社長)

復旧資金の手当てとして、チッソは1974年10月に日本開発銀行へ39億円の融資を要請した[131]。政府資金を公害企業へ貸すことが汚染者負担の原則に照らしてどうかという世論があって決着は延び、1975年に20億円程度の線でまとまる[132]。チッソと日本興業銀行をはじめとする主力銀行筋は、融資の目的はあくまでチッソ石油化学の復旧資金であって水俣病の補償ではないと名目を主張した[133]。売れる資産としては最大出力9万キロワットの自流式水力発電所が挙げられ、簿価は約40億円、1キロワット当たり20万円という建設単価から換算した時価は約180億円になる[134]。チッソはこの電力の70%を関係会社の日本珪素工業へ売って市価換算で年間4億円程度の利益を得ており、年金の支払いに要る安定収入源として手放さなかった[135]

  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [131]1974年10月、39億円の開銀融資要請
    • [132]汚染者負担の原則に照らして公害企業への政府資金投入を疑問視する世論があり決着が延びたが、20億円程度の線でまとまった
    • [133]チッソと日本興業銀行など主力銀行筋は融資の目的はチッソ石油化学の復旧資金であり水俣病の補償ではないと主張
    • [134]最大出力9万キロワットの自流式発電所の簿価は約40億円、1キロワット当たり20万円の建設単価から換算した時価は約180億円
    • [135]電力の70%を日本珪素工業に販売し市価換算で年間4億円程度の利益。年金支払いのための安定収入源として売却しない

1975年6月4日時点の水俣病認定患者は808人、うち生存者は700人弱[136]。一時金は病状3ランクと家族への慰謝料を合わせて平均1人当たり2,000万円、年金にあたる特別調整手当は物価スライド制で年35万円程度、医療関係費が年50万円強で、認定患者だけで年間およそ6億円の支払いになる[137]。申請者は1975年4月末で熊本県2,845人、鹿児島県369人の計3,214人に上った[138]。水俣市の人口3万6,435人のうち42.3%はチッソ関連企業に関わる人々で、市の固定資産税の45%をチッソが納めた[139]。国は1978年、水俣病の認定基準を複数の症状の組み合わせを求める厳しいものへ改め、認定審査会を熊本県だけでなく国にも置いた[140]。あわせて同じ1978年から、熊本県が県債を発行して調達した資金を患者補償の原資としてチッソへ貸し付ける県債方式が始まる[141]

  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [136]1975年6月4日現在の水俣病認定患者数は808人、うち生存者は700人弱
    • [137]一時金は病状3ランクと家族への慰謝料を合わせ平均1人2000万円。特別調整手当は物価スライド制で年35万円程度、医療関係費が年50万円強。現在の患者数だけで年間約6億円
    • [138]1975年4月末の水俣病申請患者数は熊本県2845人、鹿児島県369人の合計3214人
    • [139]水俣市の人口3万6435人のうち42.3%がチッソ関連企業に関係し、市の固定資産税の45%をチッソが納付
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [140]1978年の「3点セット」で認定基準を複数症状の組み合わせを求める厳しいものとし、認定審査会を県だけでなく国にもつくった
    • [141]1978年から熊本県が県債を発行して調達した資金を患者補償の原資としてチッソに貸し付ける県債方式が始まった
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
    • [125]1975年3月期末の累積欠損は155億3000万円で資本金78億1400万円のほぼ倍
    • [126]1975年3月期までに支払った水俣病関係の補償金は漁業補償を含めて210億円弱、処分した資産合計は122億円
    • [127]1975年3月末の現預金22億5700万円、手元流動性比率0.40倍。東証上場化学69社の1974年度下期平均1.91倍に対し約84億円不足
    • [128]長短借入金に対する現預金の比率は5.3%
    • [129]売掛債権回転日数99.2日、買掛債務回転日数110.8日。4月末に日本興業銀行・三和銀行から6億円のつなぎ融資
    • [130]累積赤字を消すメドは全くたっておらず配当も断念(藤井副社長)
    • [131]1974年10月、39億円の開銀融資要請
    • [132]汚染者負担の原則に照らして公害企業への政府資金投入を疑問視する世論があり決着が延びたが、20億円程度の線でまとまった
    • [133]チッソと日本興業銀行など主力銀行筋は融資の目的はチッソ石油化学の復旧資金であり水俣病の補償ではないと主張
    • [134]最大出力9万キロワットの自流式発電所の簿価は約40億円、1キロワット当たり20万円の建設単価から換算した時価は約180億円
    • [135]電力の70%を日本珪素工業に販売し市価換算で年間4億円程度の利益。年金支払いのための安定収入源として売却しない
    • [136]1975年6月4日現在の水俣病認定患者数は808人、うち生存者は700人弱
    • [137]一時金は病状3ランクと家族への慰謝料を合わせ平均1人2000万円。特別調整手当は物価スライド制で年35万円程度、医療関係費が年50万円強。現在の患者数だけで年間約6億円
    • [138]1975年4月末の水俣病申請患者数は熊本県2845人、鹿児島県369人の合計3214人
    • [139]水俣市の人口3万6435人のうち42.3%がチッソ関連企業に関係し、市の固定資産税の45%をチッソが納付
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [140]1978年の「3点セット」で認定基準を複数症状の組み合わせを求める厳しいものとし、認定審査会を県だけでなく国にもつくった
    • [141]1978年から熊本県が県債を発行して調達した資金を患者補償の原資としてチッソに貸し付ける県債方式が始まった

補償を続けながら進んだJNCへの事業譲渡

創業ストーリー(10)

1995年の政治決着と債務超過のまま続く補償

認定患者1人には1,600万円から1,800万円の一時金と年金・医療費が支払われ、毎年30億円前後の負担が発生した[142]。1994年度のチッソ県債の発行額は727億円、1995年度からは設備投資名目の県債も新設され28億円が発行された[143]。それでも1995年3月期は液晶部門などが好調で経常利益23億円を計上したが[144]、同じ1995年3月末までにチッソが支払った補償金は約1,000億円に達していた[145]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [142]認定されると1,600万円から1,800万円の一時金と年金・医療費がチッソから支払われ、毎年30億円前後の認定患者への補償が発生した
    • [143]1994年度のチッソ県債発行額は727億円、1995年度からは設備投資名目の県債も新設され28億円が発行された
    • [144]1995年3月期は液晶部門などが好調で経常利益23億円を計上した
    • [145]チッソが1995年3月末までに支払った補償金は約1,000億円

1995年9月28日、政府と連立与党は水俣病問題の最終解決案を提示した[146]。認定を棄却された人のうち一定の要件を備えたおよそ8,000人を対象とし、一時金は一律部分を1人当たり260万円としたうえで、5つの被害者団体に38億円から6,000万円の団体加算金を上乗せする組み立てだった[147]。一時金の総額は約258億円と見込まれたが、チッソにこれを負担する力はなく、国費の投入を前提とした調整が続いた[148]。一時金の支払いに応じたチッソを率いたのは1993年6月に社長へ就いた後藤舜吉社長で、2000年3月期の債務免除も同じ在任中に受けた[149]。一方、水俣病関西訴訟グループは国の責任があいまいなままの決着を拒み、いち早く不参加を表明した[150]

  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [146]1995年9月28日に政府・連立与党が水俣病問題の最終解決案を提示した
    • [147]対象者は認定を棄却された人のうち一定の要件を備えたおおよそ8,000人、一時金は一律部分1人当たり260万円に5団体への38億円から6,000万円の団体加算金を上乗せする内容
    • [148]一時金の総額は約258億円とされたがチッソに負担能力はなく、国費の投入を前提にした調整が続けられた
    • [150]水俣病関西訴訟グループは国の責任があいまいなままでの決着を拒否していち早く不参加を表明した
  • チッソ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [149]後藤舜吉は1993年6月にチッソの代表取締役社長に就任し、2003年6月まで在任した

2000年2月、水俣病問題に係る支援措置が閣議で了解された[151]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [151]2000年2月に水俣病問題に係る支援措置が閣議了解された
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
    • [142]認定されると1,600万円から1,800万円の一時金と年金・医療費がチッソから支払われ、毎年30億円前後の認定患者への補償が発生した
    • [143]1994年度のチッソ県債発行額は727億円、1995年度からは設備投資名目の県債も新設され28億円が発行された
    • [144]1995年3月期は液晶部門などが好調で経常利益23億円を計上した
    • [145]チッソが1995年3月末までに支払った補償金は約1,000億円
    • [146]1995年9月28日に政府・連立与党が水俣病問題の最終解決案を提示した
    • [147]対象者は認定を棄却された人のうち一定の要件を備えたおおよそ8,000人、一時金は一律部分1人当たり260万円に5団体への38億円から6,000万円の団体加算金を上乗せする内容
    • [148]一時金の総額は約258億円とされたがチッソに負担能力はなく、国費の投入を前提にした調整が続けられた
    • [150]水俣病関西訴訟グループは国の責任があいまいなままでの決着を拒否していち早く不参加を表明した
  • チッソ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [149]後藤舜吉は1993年6月にチッソの代表取締役社長に就任し、2003年6月まで在任した
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [151]2000年2月に水俣病問題に係る支援措置が閣議了解された
創業ストーリー(11)

JNCへの事業譲渡と、補償を担って残った会社

チッソは2011年1月に事業の譲渡先となるJNCを設立し、同年3月に事業を譲渡した[152]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [152]2011年1月に事業譲渡先となるJNCを設立し、2011年3月にJNCへ事業を譲渡した

事業譲渡後のチッソは自ら製造も販売も手がけず、補償を担う主体として残った[153]。チッソが開示する連結業績はJNCを中心とする企業集団のもので、2026年3月期の売上高は1,370億円、経常利益は35億円だった[154]。従業員数は連結で2,493名、チッソ単体では29名にとどまる[155]。連結売上高は2014年3月期の2,288億円を超えられないまま推移し、2019年3月期と2020年3月期には連結営業損益が2期続けて赤字となった[156]。譲渡後の経営では2017年6月に後藤舜吉氏が代表取締役社長へ復帰し、2018年12月には木庭竜一氏が後を継いだ[157]。2019年6月にJNCの社長へ就いた山田敬三社長は、2024年6月にチッソの代表取締役社長へ就いた[158]。液晶材料については、2025年6月に中国の子会社の全出資持分を譲渡した[159]

  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [153]2011年3月にJNCへ事業を譲渡し、以後のチッソは補償を担う主体として残った
    • [159]2025年6月に中国の液晶材料子会社の全出資持分を譲渡した
  • チッソ 有価証券報告書【経理の状況】
    • [154]2026年3月期の連結売上高は1,370億6,300万円、連結経常利益は35億8,800万円
    • [156]連結売上高は2014年3月期の2,288億2,400万円が最高で、2019年3月期は連結営業損失37億8,700万円、2020年3月期は連結営業損失7億5,900万円
  • チッソ 有価証券報告書【従業員の状況】
    • [155]2026年3月期の従業員数は連結2,493名、単体29名
  • チッソ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [157]後藤舜吉は2017年6月にチッソの代表取締役社長に就任し、木庭竜一は2018年12月に代表取締役社長に就任した
    • [158]山田敬三は2019年6月にJNCの代表取締役社長、2024年6月にチッソの代表取締役社長に就任した
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
    • [152]2011年1月に事業譲渡先となるJNCを設立し、2011年3月にJNCへ事業を譲渡した
    • [153]2011年3月にJNCへ事業を譲渡し、以後のチッソは補償を担う主体として残った
    • [159]2025年6月に中国の液晶材料子会社の全出資持分を譲渡した
  • チッソ 有価証券報告書【経理の状況】
    • [154]2026年3月期の連結売上高は1,370億6,300万円、連結経常利益は35億8,800万円
    • [156]連結売上高は2014年3月期の2,288億2,400万円が最高で、2019年3月期は連結営業損失37億8,700万円、2020年3月期は連結営業損失7億5,900万円
  • チッソ 有価証券報告書【従業員の状況】
    • [155]2026年3月期の従業員数は連結2,493名、単体29名
  • チッソ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [157]後藤舜吉は2017年6月にチッソの代表取締役社長に就任し、木庭竜一は2018年12月に代表取締役社長に就任した
    • [158]山田敬三は2019年6月にJNCの代表取締役社長、2024年6月にチッソの代表取締役社長に就任した

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沿革年表 1906〜2025年

チッソの沿革1906〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1906〜1945年金山の余剰電力から興南コンビナートまでの日窒コンツェルン曾木電気を設立★★★
日本窒素肥料に商号変更★★
水俣工場で石灰窒素の製造を開始★★
白川発電所完成、以降南九州各地に発電所を建設
カザレー式合成アンモニアの製造を開始★★
朝鮮窒素肥料を設立、興南工場を建設★★
塩化ビニルの製造を開始
朝鮮窒素肥料を合併
水豊ダム完成
敗戦により在外資産の一切を喪失★★
アンモニア肥料(硫安)の製造を再開
1946〜1962年水俣工場だけを残した第二会社と五井の石油化学アセテート繊維の製造を再開
企業再建整備法により第二会社の新日本窒素肥料を設立★★★
オクタノール・DOP・アセテートステープルの製造設備完成
高度化成肥料の製造設備完成
水俣病の公式確認★★★
高純度金属シリコンの製造設備完成
チッソ石油化学を設立、石油化学事業に参入★★
1963〜1978年熊本地裁判決と210億円の補償が奪った自力再建チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始★★
チッソに商号変更★★
水俣工場のアセトアルデヒド製造を停止★★★
政府が水俣病を公害病と認定★★
ポリエチレンの製造設備完成
水島工場竣工
液晶の製造設備完成★★
水俣病第一次訴訟で熊本地裁が原告勝訴の判決★★
熱接着性複合繊維(ES)の製造設備完成★★
東京証券取引所の上場廃止★★
1979〜2026年補償を続けながら進んだJNCへの事業譲渡バイオヒアルロン酸の製造設備完成
後藤舜吉広州ES繊維有限公司を設立
後藤舜吉水俣病問題に係る支援措置を閣議了解★★
日本ポリプロを設立、ポリプロピレン事業を統合★★
チッソ旭肥料に肥料事業を承継★★
事業譲渡先となるJNCを設立
JNCに事業を譲渡★★★
ポリプロピレンコンパウンド事業を日本ポリプロに統合
山田敬三液晶材料子会社の全出資持分を譲渡
出典・参考 12件
出典・参考
  • チッソ 有価証券報告書【沿革】
  • チッソ 有価証券報告書【役員の状況】
  • チッソ 有価証券報告書【経理の状況】
  • チッソ 有価証券報告書【従業員の状況】
  • 旭化成火薬30年史(旭化成火薬、1964年)第7章第1節「日本窒素火薬株式会社より日窒化学工業株式会社となる」
  • センコー35年史(センコー、1981年)第1章「大日窒コンツェルンの夜明け」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「チッソ」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「旭化成工業」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「新日本窒素肥料」
  • 日経ビジネス 1975年7月7日号
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号
  • 環境省「水俣病の教訓と日本の水銀対策」

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