日露戦争が終わった翌年の1906年、鉄道国有化による買収金が資本市場へ流れ込み、大規模な水力発電所の建設が全国各地で相次いだ[1]。当時の発電所は貯水池を持たない自流式で発電量を調節できず、送り先のない電力が大量に余っていた[2]。1906年1月、野口遵氏が鹿児島県大口に資本金20万円で曾木電気を設立し、水力発電事業を始めた[3]。市町村へも電気を送りながら、余った電力でカーバイドをつくることを設立の目的に掲げた[4]。
1907年、野口遵氏は日本カーバイド商会を設立し、熊本県水俣に工場を建てて大規模な生産に入った[5]。1908年、野口遵氏は30代でヨーロッパへ渡り、財閥系企業に先んじてドイツ人フランク・カロー氏の石灰窒素製造法の導入契約を結び[6]、同じ年にその特許権も取得した[7]。同年8月、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立し、本社を大阪市西区阿波堀通に置く[8]。水俣には硫安の製造工場を新設し、鏡工場も加えたうえ、発電所の新設も続けた[9]。
日本窒素肥料は1908年から水俣で石灰窒素と硫安の製造を始めた[10]。水俣の電気は曾木の発電所から引き、自前の電力で化学肥料をつくる経営がここで形になった[11]。1914年には変成硫安の製造に成功し[12]、同じ年に始まった第一次世界大戦で欧米からの硫安輸入が止まり、肥料価格は高騰した[13]。日本窒素肥料は増産するほど値の上がる市況のもとで拡張を重ね、これに伴う輸送需要も膨らんだ[14]。その輸送は、野口遵氏がヨーロッパ航路の船中で知り合ったパーサーの富田正次氏が興した富田商会が引き受けた[15]。
1921年、野口遵氏はイタリア人ルイギ・カザレー氏の発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため、ヨーロッパへ赴いた[16]。買い取った特許をもとに、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建てる[17]。自家用水力発電所の電力で水を電解して水素を取り、空気から分離した窒素と直接合成する設備で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目を集めた[18]。1928年には自社技術による合成硝酸の製造に成功し[19]、1932年からは同じく自社技術で合成酢酸をつくり、続いて酢酸繊維素、アセテート、酢酸ビニール、メタクリル硝子を製造した[20]。このうち塩化ビニールとアセテートは、日本で最初に手がけた製品である[21]。延岡の工場で大量に生まれるアンモニアは硫安に回るだけでなく、のちに火薬の主原料も供給した[22]。
1927年5月、日本窒素肥料は朝鮮窒素肥料を設立して、現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市にあたる興南に工場を建てた[23]。巨大ダムの電力を使う興南工場は、アジア最大の電気化学工場と呼ばれた[24]。野口遵社長は電源開発をてこに事業を国策に沿って組み立て、一代で日窒コンツェルンを確立した[25]。三井・三菱など既存の財閥に対し、日窒コンツェルンは昭和財閥とも呼ばれた[26]。
朝鮮では化学肥料に加え、石炭低温乾溜と石炭液化などの石炭化学、アルミニウムや金属マグネシウム、合成宝石などの金属精錬、硬化油やグリセリンなどの油脂化学も手がけた[27]。油脂・火薬・人絹・石炭液化へも進み、電力と化学技術を根幹とする大日窒コンツェルンができあがった[28]。
延岡工場で豊富に出るアンモニアを硫安だけにとどめず高度に利用する道を調べた結果、日本窒素肥料はベンベルグ絹糸の製造を選んだ[29]。1928年11月、野口遵社長はニューヨークでドイツのベンベルグ社代表と製造特許の使用契約を結び[30]、1929年4月に資本金1,000万円の日本ベンベルグ絹糸を設立した[31]。ベンベルグ工場は延岡工場に隣接して1930年2月に着工し、1931年4月に完成、同月18日に試運転を行った[32]。この工場は延岡工場のアンモニアを大部分使う計画で、日窒延岡工場のほうがベンベルグ工場の原料工場とみなされるまでになる[33]。そこで1931年5月、日本窒素肥料は延岡工場を独立させ、延岡アンモニア絹糸を設立した[34]。
これより先の1922年5月、野口遵社長は旭絹織を設立し、日本綿花社長の喜多又蔵氏と提携して旧旭人造絹糸を買収していた[35]。滋賀県膳所の工場は帝人と人絹業界を二分する勢力まで伸びたが[36]、土地が狭くて拡張の余地を失い、水の良い延岡に新工場を建てる[37]。1933年7月、延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織を合併し、資本金4,600万円の旭ベンベルグ絹糸となった[38]。火薬では1930年12月に資本金100万円で日本窒素火薬を設立し、1932年6月に延岡でダイナマイトの生産を始めた[39]。導火線・雷管・包装紙の各工場を吸収合併し、1941年12月に資本金は840万円へ増えた[40]。
1941年12月、日本窒素肥料は朝鮮窒素肥料を合併した[41]。1920年代後半から事業の主体は朝鮮へ移り、化学肥料から金属精錬までを抱える総合化学会社に広がっていた[42]。1945年の敗戦により日本窒素肥料は朝鮮に築いた設備を含む在外資産の一切を失い、内地には水俣工場だけが残った[43]。財閥解体では宮崎県延岡の工場が切り離されて旭化成工業として独立した[44]。残った水俣工場も空襲で壊滅状態にあった[45]。
敗戦により朝鮮の興南工場をはじめとする在外資産の一切を失い、財閥解体で宮崎県の延岡工場が旭化成工業として分離されたあと、日本窒素肥料の手元に残ったのは熊本県の水俣工場だけだった[46]。その水俣工場も空襲で壊滅状態になっていた[47]。1950年1月12日、資本金4億円で新日本窒素肥料が設立された[48]。旧・日本窒素肥料が南九州に築いた自家水力発電12か所、合計8万キロワットを引き継ぎ、その電力でカーバイドとアンモニアを作る化学会社として再出発した[49]。資本金は1951年12月に6億円、1955年5月に12億円、1957年1月に24億円へ増えた[50]。
新日本窒素肥料は熊本県内で内谷発電所を建設し、水俣工場の増強と合理化工事を続けて実施した[51]。生産する品目は硫安にとどまらず、化学肥料の高度化に加えてオクタノール、DOP、DOAの製造にも及んだ[52]。1963年時点の主力は、硫加燐安を中心とする高度化成肥料のほか、塩化ビニル、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンである[53]。カーバイドの生産規模は業界5位、塩化ビニルは4位、高度化成とアセテート繊維はいずれも3位、可塑剤のDOPとDOAでは首位を占めた[54]。1956年3月期に32億3,901万円だった売上高は、1961年3月期には84億円を超えた[55]。
設立から6年後の1956年11月、新日本窒素肥料は全額出資で日窒アセテートを設立し、1958年12月には同じく全額出資の日窒電子化学を加えた[56]。酢酸繊維素アセテートの『ミナロン』は、この全額出資2社が生産を引き受けた[57]。1950年の設立時に副社長となった吉岡喜一社長が1958年に社長へ就き、1951年から副社長を務めた大石武夫会長が同じ年に会長となった[58]。1963年3月末の従業員は4,174人で、うち水俣工場が3,478人、横浜市の中央研究所が156人を数えた[59]。水俣工場には約2,158人の水俣工場労働組合と約1,207人の水俣工場新労働組合があった[60]。
水俣工場でアセトアルデヒドと合成酢酸の製造設備が動き始めたのは1932年で、このときから工場排水が水俣湾へ流れ込んだ[61]。合成酢酸の製造技術は旧・日本窒素肥料が自社で開発したもので、酢酸繊維素やアセテート、酢酸ビニルの生産はここから広がった[62]。アセトアルデヒドは塩化ビニルや医薬品、肥料の中間物質にあたり、その製造工程で有機水銀が副生する[63]。新日本窒素肥料は戦後もアセトアルデヒドの生産を続けて1953年に水俣工場の生産能力を引き上げ[64]、同じ年から水俣周辺では猫が狂って死ぬ例が相次いだ[65]。1956年5月1日、水俣工場附属病院が水俣保健所へ類例のない疾患の発生を届け出て[66]、これが水俣病の公式発見となった[67]。
熊本大学の研究班は新日本窒素肥料の妨害を受けながら原因究明を進め、1959年7月14日に有機水銀説を発表した[68]。原因物質はメチル水銀と判明して発生源も水俣工場とほぼ特定され[69]、同年12月30日に患者と新日本窒素肥料は見舞金契約を結んだ[70]。死者1人当たり30万円などの支払いを定める一方、将来原因が新日本窒素肥料にあると判明しても新たな補償を求めないという条項が入った[71]。見舞金を受け取る資格のある患者を決める組織として水俣病患者診査協議会が発足し、認定制度はこの受給資格の判定に力点を置いて出発した[72]。水俣湾の漁獲禁止や工場の排水停止を求める声はこの間も出ていたが、どちらも実現しなかった[73]。
水俣市は新日本窒素肥料の企業城下町で[74]、最盛期の従業員は4,000人にのぼり[75]、1963年3月末でも全従業員4,174人のうち3,478人が水俣工場に勤めた[76]。水俣病が公式に確認された当時に水俣市長を務めた橋本彦七市長は、もとは新日本窒素肥料の水俣工場長で、有機水銀を生む工程を工業化した人物である[77]。新日本窒素肥料は水俣病の公式発見から8年を経た1964年時点でも、自社を自家水力発電12か所8万キロワットを基礎とするカーバイド、アンモニア系統の化学会社と説明し、この業界のパイオニアとしての伝統を持つ会社と記した[78]。同じ説明のどこにも水俣病は出てこない[79]。
石油化学に入るための製造技術を、新日本窒素肥料は3件の契約で外部から取り入れた。1960年12月、西独のアルデヒド社およびフリードリッヒウーデ社とアセトアルデヒド製造技術について技術援助契約を締結[80]。翌1961年1月には米国のアビサン社とポリプロピレン製造技術について、同年4月には米国のコスデン社とポリブテン製造技術について、それぞれ契約を結んだ[81]。アセトアルデヒドは水俣工場が1932年から製造してきた製品であり、新日本窒素肥料はその石油系の製法をあらためて外部から導入した[82]。ポリプロピレンの生産は、契約から2年後の1963年に始まった[83]。
1962年6月、吉岡喜一社長のもとで[84]新日本窒素肥料は全額出資の子会社チッソ石油化学を設立した[85]。工場用地は千葉県五井地区に置き、丸善石油化学グループの一員として年産1万3,000トンのポリプロピレン製造設備の建設に入った[86]。この設備は1962年12月に完成して[87]1963年からポリプロピレンの生産を開始し[88]、アセトアルデヒドなどエチレン系製品の製造設備も続けて建設する計画だった[89]。滋賀県守山ではポリプロピレン繊維の日産3トン設備を1963年5月末の完成目標で建設し、樹脂の加工は同系の積水化学工業が引き受けた[90]。熊本県の緑川水系では、出力5,700キロワットの目丸発電所を1966年1月の完成目標で建設した[91]。
石油化学の建設と並行して、本業の収益は落ちた。1962年3月期に97億929万円だった売上高は[92]、1962年9月期に86億5,969万円へ減り、この半期に1億1,000万円の損失を計上した[93]。1963年3月期の売上高は92億3,168万円まで戻したものの、利益は1,332万円にとどまり、2期続けて無配となった[94]。同期の売上内訳は、商品が31億4,285万円、アセテートが20億5,554万円、樹脂と可塑剤が19億8,598万円、肥料が14億4,654万円、工業薬品が6億75万円である[95]。1963年3月末の借入金は短期65億254万円、長期109億8,770万円で、資本金47億2,500万円の3.7倍に達した[96]。
1963年の新日本窒素肥料は、12カ所8万キロワットの自家水力発電を基礎とするカーバイドとアンモニア系統の化学会社だった[97]。主力は硫加燐安を中心とする高度化成肥料で、ほかに塩化ビニル、可塑剤、アセテート繊維、金属シリコンを生産し、カーバイドの生産規模は業界5位、塩化ビニルは4位、高度化成は3位、可塑剤のDOPとDOAでは首位を占めた[98]。石油化学へは1962年6月に全額出資のチッソ石油化学を設立して入り[99]、千葉県五井地区にポリプロピレン年産1万3,000トンの設備を建てて1963年に生産を始めた[100]。五井では1964年にアセトアルデヒドの製造設備も完成し、石油化学事業の基礎ができた[101]。
1965年1月、新日本窒素肥料は社名をチッソへ変更した[102]。同年9月には無配へ転落[103]。水俣工場では1932年からアセトアルデヒドと合成酢酸の設備が動き、その製造工程で副生したメチル水銀が排水とともに水俣湾へ流れ出て、1956年5月1日に水俣病が公式に確認された[104]。1962年8月には熊本大学が工場廃液中の有機水銀を報告し、1965年5月31日には新潟で第2の水俣病が公式に見つかった[105]。チッソが水俣工場でのアセトアルデヒド生産を止めたのは1968年5月で[106]、同年9月26日には厚生省と科学技術庁が政府統一見解を出し、熊本の水俣病の原因を水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物と断じた[107]。
1968年のチッソは、江頭豊社長のもとで本社を東京都千代田区丸ノ内に置き、資本金78億1,396万円、従業員3,316名を抱え、年間売上高は360億円を超えた[108]。水俣・五井・守山・野田の4工場では、ポリプロピレンや塩化ビニルなどのプラスチック、可塑剤、硝酸・酢酸・酢酸エチルといった工業薬品、硝加燐安・硫酸加里・CDUなどの化学肥料、ポリプロピレン繊維、トランジスターに用いる金属シリコンを製造販売した[109]。同じ1968年の会社紹介でチッソは、自社にとっての最大の転機を1961年の千葉県五井地区での石油化学着手に置き、水俣病には一言も触れていない[110]。
水俣病の補償は、1959年12月30日にチッソと患者との間で結ばれた見舞金契約から始まった。死者1人当たり30万円などとする内容で、将来原因がチッソにあると分かっても新たな補償要求はしないという条項を含んでいた[111]。1973年3月20日、熊本地裁は患者側を勝訴させ、チッソの責任を初めて確定するとともに、見舞金契約を公序良俗違反とした[112]。判決の後、1973年7月に患者補償協定書が結ばれ、認定を申請する被害者が相次ぎ、同年11月に申請者はそれまでの3倍を超える2,000人以上になった[113]。
1970年5月、チッソは一部の患者と和解契約を結び、訴訟を続ける患者との間で患者側は分裂した[114]。同年11月には一株株主運動によってチッソの株主総会が荒れた[115]。1971年7月1日に環境庁が発足し[116]、翌8月には環境庁長官が水俣病の認定について、否定できないものは認定するよう求めた[117]。1973年5月には、熊本大学の研究班が発生地域と異なる地域にも水俣病に似た患者がいると指摘したことから第3水俣病問題が起こり[118]、全国的な水銀パニックと魚価の下落を招いたが[119]、環境庁はこれを水俣病ではないと判定した[120]。
1973年10月、チッソの石油化学製品の生産を担う子会社チッソ石油化学の五井工場が爆発し[121]、この復旧資金の返済見通しが立たなくなった[122]。補償金の支払いはすでに資産の切り売りで賄われており、1973年9月に堺工場を24億円で、1974年2月には子会社のチッソ電子化学を三菱金属へ34億円で売却した[123]。チッソ石油化学自体も資本金20億円に対して1975年3月期末で43億円の累積赤字を抱え、1974年度だけで20億円の赤字を出した[124]。
資産売却を重ねてもなお、1975年3月期末の累積欠損は155億3,000万円に達し、資本金78億1,400万円のほぼ倍になった[125]。水俣病の関係でそれまでに支払った補償金は漁業補償を含めて210億円弱、これに対して処分した資産の合計は122億円である[126]。1975年3月末の現預金は22億5,700万円、手元流動性比率は0.40倍で、東京証券取引所上場の化学69社の1974年度下期平均1.91倍に対しておよそ84億円が不足した[127]。長短借入金に対する現預金の比率は5.3%[128]。売掛債権の回転日数を99.2日へ縮める一方で買掛債務の回転日数は110.8日へ延ばし、4月末には日本興業銀行と三和銀行から6億円のつなぎ融資を受けた[129]。チッソは累積赤字を消す見通しを持たず、配当も断念していた[130]。
復旧資金の手当てとして、チッソは1974年10月に日本開発銀行へ39億円の融資を要請した[131]。政府資金を公害企業へ貸すことが汚染者負担の原則に照らしてどうかという世論があって決着は延び、1975年に20億円程度の線でまとまる[132]。チッソと日本興業銀行をはじめとする主力銀行筋は、融資の目的はあくまでチッソ石油化学の復旧資金であって水俣病の補償ではないと名目を主張した[133]。売れる資産としては最大出力9万キロワットの自流式水力発電所が挙げられ、簿価は約40億円、1キロワット当たり20万円という建設単価から換算した時価は約180億円になる[134]。チッソはこの電力の70%を関係会社の日本珪素工業へ売って市価換算で年間4億円程度の利益を得ており、年金の支払いに要る安定収入源として手放さなかった[135]。
1975年6月4日時点の水俣病認定患者は808人、うち生存者は700人弱[136]。一時金は病状3ランクと家族への慰謝料を合わせて平均1人当たり2,000万円、年金にあたる特別調整手当は物価スライド制で年35万円程度、医療関係費が年50万円強で、認定患者だけで年間およそ6億円の支払いになる[137]。申請者は1975年4月末で熊本県2,845人、鹿児島県369人の計3,214人に上った[138]。水俣市の人口3万6,435人のうち42.3%はチッソ関連企業に関わる人々で、市の固定資産税の45%をチッソが納めた[139]。国は1978年、水俣病の認定基準を複数の症状の組み合わせを求める厳しいものへ改め、認定審査会を熊本県だけでなく国にも置いた[140]。あわせて同じ1978年から、熊本県が県債を発行して調達した資金を患者補償の原資としてチッソへ貸し付ける県債方式が始まる[141]。
認定患者1人には1,600万円から1,800万円の一時金と年金・医療費が支払われ、毎年30億円前後の負担が発生した[142]。1994年度のチッソ県債の発行額は727億円、1995年度からは設備投資名目の県債も新設され28億円が発行された[143]。それでも1995年3月期は液晶部門などが好調で経常利益23億円を計上したが[144]、同じ1995年3月末までにチッソが支払った補償金は約1,000億円に達していた[145]。
1995年9月28日、政府と連立与党は水俣病問題の最終解決案を提示した[146]。認定を棄却された人のうち一定の要件を備えたおよそ8,000人を対象とし、一時金は一律部分を1人当たり260万円としたうえで、5つの被害者団体に38億円から6,000万円の団体加算金を上乗せする組み立てだった[147]。一時金の総額は約258億円と見込まれたが、チッソにこれを負担する力はなく、国費の投入を前提とした調整が続いた[148]。一時金の支払いに応じたチッソを率いたのは1993年6月に社長へ就いた後藤舜吉社長で、2000年3月期の債務免除も同じ在任中に受けた[149]。一方、水俣病関西訴訟グループは国の責任があいまいなままの決着を拒み、いち早く不参加を表明した[150]。
2000年2月、水俣病問題に係る支援措置が閣議で了解された[151]。
チッソは2011年1月に事業の譲渡先となるJNCを設立し、同年3月に事業を譲渡した[152]。
事業譲渡後のチッソは自ら製造も販売も手がけず、補償を担う主体として残った[153]。チッソが開示する連結業績はJNCを中心とする企業集団のもので、2026年3月期の売上高は1,370億円、経常利益は35億円だった[154]。従業員数は連結で2,493名、チッソ単体では29名にとどまる[155]。連結売上高は2014年3月期の2,288億円を超えられないまま推移し、2019年3月期と2020年3月期には連結営業損益が2期続けて赤字となった[156]。譲渡後の経営では2017年6月に後藤舜吉氏が代表取締役社長へ復帰し、2018年12月には木庭竜一氏が後を継いだ[157]。2019年6月にJNCの社長へ就いた山田敬三社長は、2024年6月にチッソの代表取締役社長へ就いた[158]。液晶材料については、2025年6月に中国の子会社の全出資持分を譲渡した[159]。
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|---|---|---|---|---|
| 1906〜1945年金山の余剰電力から興南コンビナートまでの日窒コンツェルン | 曾木電気を設立 | ★★★ | ||
| 日本窒素肥料に商号変更 | ★★ | |||
| 水俣工場で石灰窒素の製造を開始 | ★★ | |||
| 白川発電所完成、以降南九州各地に発電所を建設 | ★ | |||
| カザレー式合成アンモニアの製造を開始 | ★★ | |||
| 朝鮮窒素肥料を設立、興南工場を建設 | ★★ | |||
| 塩化ビニルの製造を開始 | ★ | |||
| 朝鮮窒素肥料を合併 | ★ | |||
| 水豊ダム完成 | ★ | |||
| 敗戦により在外資産の一切を喪失 | ★★ | |||
| アンモニア肥料(硫安)の製造を再開 | ★ | |||
| 1946〜1962年水俣工場だけを残した第二会社と五井の石油化学 | アセテート繊維の製造を再開 | ★ | ||
| 企業再建整備法により第二会社の新日本窒素肥料を設立 | ★★★ | |||
| オクタノール・DOP・アセテートステープルの製造設備完成 | ★ | |||
| 高度化成肥料の製造設備完成 | ★ | |||
| 水俣病の公式確認 | ★★★ | |||
| 高純度金属シリコンの製造設備完成 | ★ | |||
| チッソ石油化学を設立、石油化学事業に参入 | ★★ | |||
| 1963〜1978年熊本地裁判決と210億円の補償が奪った自力再建 | チッソ石油化学でポリプロピレンの生産を開始 | ★★ | ||
| チッソに商号変更 | ★★ | |||
| 水俣工場のアセトアルデヒド製造を停止 | ★★★ | |||
| 政府が水俣病を公害病と認定 | ★★ | |||
| ポリエチレンの製造設備完成 | ★ | |||
| 水島工場竣工 | ★ | |||
| 液晶の製造設備完成 | ★★ | |||
| 水俣病第一次訴訟で熊本地裁が原告勝訴の判決 | ★★ | |||
| 熱接着性複合繊維(ES)の製造設備完成 | ★★ | |||
| 東京証券取引所の上場廃止 | ★★ | |||
| 1979〜2026年補償を続けながら進んだJNCへの事業譲渡 | バイオヒアルロン酸の製造設備完成 | ★ | ||
| 後藤舜吉 | 広州ES繊維有限公司を設立 | ★ | ||
| 後藤舜吉 | 水俣病問題に係る支援措置を閣議了解 | ★★ | ||
| 日本ポリプロを設立、ポリプロピレン事業を統合 | ★★ | |||
| チッソ旭肥料に肥料事業を承継 | ★★ | |||
| 事業譲渡先となるJNCを設立 | ★ | |||
| JNCに事業を譲渡 | ★★★ | |||
| ポリプロピレンコンパウンド事業を日本ポリプロに統合 | ★ | |||
| 山田敬三 | 液晶材料子会社の全出資持分を譲渡 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(チッソ)