本業の消失に備えた構造改革「VISION75」と第二の創業

2004年実施

利益の源泉であった写真フィルムが消えるとき、富士写真フイルムは何を捨て、どこへ資源を移したか

時期 2004年2月
論点 本業消失と事業構造改革
概要
2004年、写真フィルムの世界需要が2000年をピークに急減するなか、富士写真フイルムの古森重隆社長兼CEOが、創立75周年の2009年度を目標年とする中期経営計画「VISION75」を発表し、徹底的な構造改革と成長分野への資源再配分に踏み切った経営判断。
背景
単体で経常利益1000億円超を稼いだ写真フィルムは、2000年時点で売上高の約6割、利益の3分の2を占める収益の源泉だった。しかしデジタルカメラの普及で写真フィルムの世界需要は2000年を境に急減し、その後の10年で10分の1以下にまで落ち込んだ。本業そのものが市場ごと消えていった。
内容
古森社長兼CEOは2004年2月、「経営全般にわたる徹底的な構造改革」「新たな成長戦略の構築」「連結経営の強化」を三つの基本方針に据えた。保有技術を棚卸しして液晶用フィルム材料・高機能材料・メディカルなどへ資源を配り直す一方、イメージング事業で約5,000人を削減し、総額約1,650億円の一時費用を集中して計上した。
含意
同じ本業消失に直面したコダックは2012年に破綻したが、富士写真フイルムは2008年3月期に売上高・営業利益とも当時の最高水準へ回復し、危機を生き延びた。古森氏はこの転換を「第二の創業」と呼び、後年のヘルスケア事業拡大の土台を築いた。
筆者の見解

何を残し、何を捨てるか

この判断の核心は、財務の危機ではなく、利益の源泉であった本業そのものの消失に、成功体験の当事者がみずから手を入れた点にある。写真フィルムで世界2位を築いた富士写真フイルムにとって、祖業の縮小を認め、5,000人規模の削減に踏み込むことは、過去の成功を否定する選択でもあった。古森氏は、消えゆく写真フィルムの技術を捨てる資産ではなく転用できる資産としてとらえ直し、液晶材料やヘルスケアへ配り直した。守るものと捨てるものを選り分けた点に、この構造改革の性格がうかがえる。

同じ市場の消失に直面したコダックが破綻し、富士写真フイルムが生き延びた事実は、危機の有無ではなく、危機への向き合い方が明暗を分けたことを示す。もっとも、VISION75がすべてを解決したわけではない。デジタルカメラ自体もやがてスマートフォンに置き換わり、同社は化粧品や医薬品、バイオ医薬の製造受託へと事業の重点を移していった。後年のヘルスケア1兆円構想は、この2004年の選択の延長線上にある。本業が消えるとき、成功を収めた企業がそれを手放して自らを作り替えられるか――富士写真フイルムの「第二の創業」は、その問いに一つの答えを残した。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

銀塩の盟主として

富士写真フイルムは、写真フィルムと印画紙を主力に、国内で圧倒的な地位を築いてきた。1985年時点の国内カラーフィルム市場では、同社が7割強を占めて独走し、コニカ(小西六写真工業)が2割弱、米イーストマン・コダックは1割強で3位にとどまった。海外でも創立以来コダックを追走し、世界2位の写真フィルムメーカーとして高い収益を上げていた。銀塩写真は高度な技術を要し、世界で参入できる企業は数社に限られていた[1]

利益の源泉が縮む

この写真フィルムが、富士写真フイルムに巨額の利益をもたらしていた。単体で経常利益1000億円超を上げ続ける超高収益企業だったが、1990年代後半にデジタルカメラが普及すると、その足元が揺らぎ始めた。1997年、日経ビジネスは、利益の源泉であった国内のフィルム・印画紙市場が縮み、同社が転換点に立っていると指摘した。デジタル化の大波は、写真フィルムそのものの需要を侵食していた[2]

縮小は、一部門の不振にとどまらなかった。2000年当時、写真フィルムなどの写真感光材料は、富士写真フイルムの売上高の約6割、利益の3分の2を占めていた。ところがカラーフィルムの世界需要は2000年にピークを打ち、その後は年率10%ほどの勢いで減り、10年後には10分の1以下にまで落ち込んだ。会社の収益を支えてきた本業が、数年のうちに赤字へ転じた。利益の大半を生んできた事業が、市場ごと消えていった[3]

決断

古森の就任とVISION75

この危機に向き合ったのが、2000年6月に社長へ就いた古森重隆氏である。欧州法人の社長を経て本社の経営を担った古森氏は、2003年に代表取締役CEOとなり、最終的な意思決定の権限を握った。写真フィルムの退潮は誰の目にも明らかで、古森氏はのちに当時を、来るものが来てしまった、このままでは大変なことになる、と振り返っている。前任の宗雪雅幸社長の時期に遅れた対応を、古森氏は自らの権限で立て直そうとした[4]

2004年2月、古森氏は中期経営計画「VISION75」を掲げた。創立75周年にあたる2009年度を目標年とし、「富士フイルムを没落より救い出し、2〜3兆円の売上高を持つリーディングカンパニーとして存続させる」ことをビジョンに置いた。柱は三つで、経営全般にわたる徹底的な構造改革、新たな成長戦略の構築、連結経営の強化である。祖業への依存から抜け、事業構成を全面的に組み替えるという宣言だった[5]

技術の棚卸しと大リストラ

構造改革と並行して、富士写真フイルムは保有技術の棚卸しに着手した。写真フィルムで培った薄膜塗布や機能性材料、酸化を抑える技術を、成長が見込める分野へ配り直す方針である。新たな収益源として光学デバイス、高機能材料、メディカル・ライフサイエンスなどの事業を選び、業績が厳しいなかでも研究開発費を年間約2,000億円の水準で維持した。液晶パネル用のフィルム材料は、その代表格となった[6]

成長への投資は、痛みを伴う縮小と表裏だった。2006年1月、富士写真フイルムはイメージング事業で約5,000人を削減する構造改革の概要を明らかにした。需要が減り続ける写真フィルムの生産・販売体制を縮め、真に必要な設備だけを残す方針で、総額約1,650億円の一時費用を当年度から翌年度にかけて集中して計上した。長年の成功を支えた体制そのものに、みずから手を入れた[7]

結果

第二の創業の成立とコダックの破綻

構造改革はやり切られた。写真事業の縮小と成長分野への再配分が進むと、富士写真フイルムの業績は底を打って回復に向かった。2006年10月には持株会社の富士フイルムホールディングスへ移行し、2008年3月期には連結売上高が約2兆8,000億円、営業利益が約2,070億円と、当時の最高水準に達した。利益の源泉が消えるという創業以来の危機を、同社は生き延びた。古森氏は一連の転換を「第二の創業」と呼んだ[8][9]

明暗は、最大の競合との対比で際立った。1880年創業のコダックは、高収益の銀塩フィルム事業に固執し、急速に普及したデジタルカメラへの対応で日本勢に後れをとった。2008年以降は毎年のように最終赤字を計上し、2012年1月、米連邦破産法11条の適用を申請した。同じデジタル化の波を受けながら、一方は破綻し、一方は事業構成を組み替えて生き残った。両社を分けたのは、本業に固執するか、それを手放すかだった[10]

出典・参考