日本ゼオンは1950年4月12日、塩化ビニル樹脂の専門メーカーとして資本金500万円で設立された。戦後日本の合弁会社としては第二号だった。発起人には日本軽金属社長の草野義一氏や稲垣平太郎氏らが名を連ね、創立総会は同年4月5日に日本軽金属の社内へ置いた創立事務所で開かれ、本社も東京都中央区銀座西の同社内に置いた。日本軽金属は終戦後ただちに設備を平和産業へ転換し、一部でカーバイドの生産を開始していたが、残る遊休施設の使い道を調査していた。原料と電力の双方で好条件を持つ塩化ビニルに狙いを定め、試作と研究を続けたうえで、古河電気工業と横浜護謨を誘って新会社を設立した。
戦時中、米BFグッドリッチとの関係はいったん途切れたが、横浜護謨は国交がなくなっても会社間の約定は生きているとの立場を取り、技術供与のないまま技術料の支払分を積み立て続けた。同社は三社のひとつで、古河電気工業と米BFグッドリッチが出資して1917年10月に生まれたゴム製品メーカーである。1949年4月に関係が戻ると、グッドリッチ傘下で塩化ビニルを扱うB.F.グッドリッチ・ケミカルとの交渉にも乗り出した。同年10月には三社を代表する形で、横浜護謨社長の天本淑朗氏が先方社長に書翰を宛てた。書翰は日本の合成樹脂工業の概要と、古河系三社で生産会社を立ち上げる案を示し、加わるよう求めるものだった。日本軽金属は独自に塩化ビニルの企業化を計画して試作と研究を続けていたが、三社共同の構想が固まるとテストプラントを建設しただけで自社の計画を中止した。
1951年1月、外資法に基づく国内の手続を済ませたうえで、B.F.グッドリッチ・ケミカルとの契約に調印した。相手は塩化ビニル樹脂で米国第一級の技術を持つ会社だった。国内資源と外国技術を結ぶことが新会社設立の前提であり、国際価格で最高水準の品質を出すには優れた海外の技術と組むほかないとの結論から、折衝を重ねていた。この契約で日本ゼオンは、塩化ビニル及び塩化ビニリデンの製造、可塑剤D.O.P.の調製など一連の特許の実施権に加え、工場設計から運転までの指導監督と技術情報の提供を受けた。さらにグッドリッチが持つ登録商標"GEON"について日本での登録権を得ており、社名はここから取った。
対価としてロイヤリティは製品販売の日から1年目が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%と定め、グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。英文社名はThe Japanese Geon Co., Ltd.とし、その頭文字JとGを組み合わせた図案を創立時から社章に用いた。工場は日本軽金属の蒲原工場の敷地内に、カセイソーダ工場と隣り合わせて建設した。原料と用役はすべて日本軽金属から受ける計画で、アセチレンガスは同社のカーバイドから、塩素と水素はカセイソーダ工場の副産物から、電力は自家発電の余剰電力を充てた。
建設は1951年3月に着工した。設計から建設、運転開始までをグッドリッチの技術で行い、1950年7月には同社の技術担当副社長W.I.バード氏が、1951年4月には技師2名が来日して指導にあたった。所要資金は6億7,500万円を見込み、増資4億9,500万円のうち1億7,500万円をグッドリッチの現物出資で賄った。完工は朝鮮戦争の影響で予定より遅れたものの、1952年5月下旬から正常運転に入った。製品は最初からグッドリッチ製と同質のものができ、電線業者やゴム業者へ輸入品を供給してきた段階から自社製品販売の段階に移った。
自社の設備が動き出すまでの間、会社を支えたのは輸入品の販売だった。1951年5月に業務部販売課を設け、グッドリッチ製品の輸入販売業務を始めた。当時の国産の塩化ビニル樹脂は絶縁性はもとより一般の用途でも品質が満足できるものではなく、量でも需要に応じきれていなかったため、電線業者やゴム業者の求めに応じた輸入品は各方面から歓迎された。創立第四期にあたる1951年7月から12月までに計上された売上高3,916万円余は、すべてこの輸入販売によるものだった。同年6月には本社人員が増えて日本軽金属の事務所が手狭となり、港区芝田村町の日産館へ移転した。売る組織と売る相手を先に固めたうえで、蒲原の設備が立ち上がった。
蒲原工場は1952年5月に月産250トンの設備として完成した。当時の日本のプラスチック業界は塩ビの生産が始まったばかりで、月産50トンから100トン規模の会社が数社あるにすぎず、品質も劣っていた。そこへ既存各社の2.5倍から5倍にあたる月産250トンの体制が現れたため業界の注視を集め、品質の高さも加わって、後年、古我周二社長がゼオン旋風という語で振り返るほどの反響を呼んだ。設立時には国内の塩ビメーカー18社から猛烈な反対を受けた。日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかへ、一社で予定国内総生産能力の半分にもなる規模の企業が入ることが脅威と受け止められた。塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であり、導入技術を認めれば国内の研究意欲が減退するというのが反対の論拠だった。
生産設備はその後も拡張を続け、第2期計画で月産500トンへ増設したのち、1955年4月には月産700トンへ達した。同年6月期の生産高は前期実績を25%上回る2,980トンで、総売上高は7億4,000万円と前期比23%増となり、用途別の内訳は軟質用が38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%だった。この間に資本金は1951年4月に2億円、同年11月に5億円へ増え、1955年時点では稲垣平太郎氏が会長、岸野佐吉氏が社長を務めた。生産品種の拡充にも力を入れ、懸案だったペーストレジンGEON121の国産化に成功して、富山県高岡市に新工場の建設を計画した。
高岡工場は1956年11月に完成し、ペーストレジンの国産化を受けて蒲原に続く第二の塩化ビニル樹脂の生産拠点となった。原料の供給関係にも変化が生じ、塩化ビニル樹脂の生産が増えるにつれて日本軽金属のカーバイド生産では追いつかなくなり、アセチレンが供給不足に陥った。日本軽金属は1955年11月末で供給を打ち切ってアセチレン発生設備一式を譲渡し、日本ゼオンは1956年1月から自社でアセチレンを発生させた。設立時に全量を日本軽金属から受けていた原料のうち、アセチレンだけが操業開始から4年足らずで自給へ切り替わった。増産は続いたものの市況は生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮に入った。
日本ゼオンが合成ゴムで国産第1号を取れたのは、技術が早かったからではなく、国の設計図に乗らなかったからである。1956年に通商産業省が示した構想は、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する一社に政府が出資し、日本開発銀行が低利で融資するというもので、申請していた三社の計画はいったん白紙に戻された。古河系はそこで降りず、自己資金でやる分には干渉しないという言質を取り、日本ゴム工業会からは民間が一社あってよいとする決議を取り付けた。引き換えに背負ったのが特殊ゴムという狭い持ち場である。国策会社の日本合成ゴムが資本金25億円と国の保護を得て立ち上がった横で、日本ゼオンは保護を持たないまま、半年早く生産を始めた。
日本ゼオンが川崎工場を月産700トンで出発させたのは、需要が小さかったからではない。ブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買う構えでは、自社の生産規模を他社の設備能力の内側にしか置けなかった。GPB法とGPA法は、この天井を自前で外すための技術である。1965年の徳山工場では年産4万5,000トンのブタジエンを自ら抽出し、1967年に完成した二上プラントはナフサから塩ビモノマーを作った。合成ゴムの年産能力は1959年の8,400トンから1971年には23万トンへ届く。買う相手の能力が上限だった会社が、その上限を自分で決める会社に変わった12年だった。
塩化ビニル樹脂の市況が生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮が続いた。その最中に日本ゼオンが進めていたのが、第二の柱となる合成ゴムの国産化である。着想は単独のものではない。1955年末、古河鉱業・古河電気工業・旭電化・富士電機・富士通信機・横浜護謨・日本軽金属・日本ゼオンの古河系8社が石油化学工業の企業化を共同で計画し、うち4社の名義でポリエチレン・合成ゴム・合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通商産業省へ提出していた。ところがポリエチレンで技術導入を予定していた米フィリップス・ペトロリアムの背信によって、この計画は根本からの変更を迫られた。残ったのが合成ゴムだった。
1956年5月、横浜護謨と共同で合成ゴムの企業化計画書を作り直して通商産業省へ提出した。第一期で「GR-S」とそのラテックスを計6,600トン年産し、第二期でこれを1万5,000トンへ増やす、原料のブタジエンは日本石油化学から受ける、所要資金は10億円という内容だった。三菱油化と山陽化学も企業化計画を出しており、三社競願となった。同年10月、通商産業省は三社の計画をいずれも白紙に戻し、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する新会社に政府も出資し、日本開発銀行の低利融資で助成するという構想を示した。合成ゴム国策会社案である。古河系はこれに強い不満を示し、単独で当初の計画どおり踏み切ることを確認して、1957年3月にグッドリッチ・ケミカルと技術援助契約を結んだ。導入するのは同社の合成ゴム製造技術だった。
日本ゼオンは、日本ゴム工業会に民間の会社も一社は要るとする決議を出させ、通商産業省の諒解を得ようと力を注いだ。その見返りに担ったのが、特殊ゴムを造る会社という役割である。一方の国策会社案は、日本開発銀行の出資に大蔵省が難色を示し国会の審議も滞ったものの、1957年5月に付帯決議を付けて成立し、翌6月に合成ゴム製造事業特別措置法として公布された。同年11月には、資本金25億円の国策会社日本合成ゴムが発足した。通商産業省は、開発資金を一切支援しない代わりに自前の資金で進めるなら口を出さないという姿勢へ転じ、両者の計画を並べて認めた。合成ゴムの需要が伸び続けるなか、日本ゼオンは国産第1号として同分野へ参入した。
川崎工場の用地は1957年4月、東日本の石油化学の集積地である川崎地区で、旭化成と旭ダウの工場に隣接する埋立地1万9,000坪を入手して確保した。同年10月には本社内に岸野佐吉社長を委員長とする川崎工場臨時建設委員会を置き、1958年7月の地鎮祭を経て建屋の建設に入った。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担し、グッドリッチ・ケミカルからは工場建設と運転指導の技師が来日した。建屋は同年12月にほぼ完成し、1959年1月から屋内機器の据付と配管工事にかかる。第一期の建設を終えたのが同年5月、生産を始めたのが7月で、合成ゴムの企業化はこの工場の建設から始まった。日本合成ゴムの生産開始より半年以上早い国産第1号だった。
第一次計画の年産能力は8,400トンで、「GR-S」ドライ1,800トン、同ラテックス3,000トン、「ハイカー」3,000トン、「ハイカー2007」6,000トンという内訳だった。第二次計画で1万5,000トン、将来は3万トンとする青写真がありながら、当初を月産700トンに抑えたのは原料の供給先の能力に合わせたためである。川崎工場はブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買い入れて、汎用ゴムのSBRのほか特殊ゴムのハイスチレンゴムとNBRを生産した。石油化学コンビナートの一員として主原料をパイプラインで受ける立地は、調達の手間を省く一方で、自社の生産規模を他社の設備能力の内側に置くことを意味した。
川崎工場の建設と同時に、その工場内へ中央研究所を新設した。日本ゼオンは創立とほぼ同時に古河電気工業の大井研究所へ人を出向させて場所を借り、研究をさせていたが、1959年7月、川崎に小規模な研究所を作って出向者を呼び戻した。当初の人員は30人ほどで、これが後の研究所の母体となる。塩化ビニルの物性や加工応用の研究開発、需要家への技術サービスがその仕事だった。米国の資本が当初35%入り、外国人技師が一切を指導したことから外国系会社という印象が長く残った。しかし15年の技術契約のうちグッドリッチの技術に頼ったのは最初の6年から7年の間だけだったと、古我周二社長は後年振り返っている。
川崎工場は敷地が3万坪足らずで、年産3万トンの設備を入れると一杯になった。特殊ゴムに加えて汎用ゴムへ手を広げるには別の土地が要る。横浜の根岸埋立地、川崎の浮島、木更津と候補地を探した末、大蔵省の斡旋もあって1964年に徳山で着工し、1965年11月、汎用合成ゴムの量産専門工場として徳山工場を新設した。この工場の最大の特色は、自社開発の抽出技術で主原料のブタジエンを自給したことである。ナフサ分解で得られるBB留分を原料に、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するGPB法がそれで、徳山工場の建設と同時に年産4万5,000トンの自己抽出設備を備えた。海外で開発された方法より経費が安く純度も高いこの技術は、生産技術の最高の賞である大河内記念生産特賞を受けた。
塩化ビニルの側でも炭化水素源を石油化学へ移した。GPA法は、ナフサを分解してエチレンとアセチレンを取り、エチレンは塩素と反応させて二塩化エチレンに、アセチレンは二塩化エチレンの熱分解で得た塩化水素と反応させて塩ビモノマーにする方法で、従来の合成設備と二塩化エチレン設備をそのまま使える点に特色があった。1960年8月に高岡工場内へパイロットプラントを建て、工業化試験を重ねたうえで第四次増設を機に原料部門を全面的に切り替えることとし、1967年11月、小矢部川対岸の二上地区に建設費43億円のGPAプラントを完成させた。同年3月には蒲原工場の塩ビ設備を高岡へ集約して蒲原を閉鎖し、高岡は塩ビモノマー年産13万トンの工場となった。
二上プラントは定期修理明けで運転を戻したばかりだったが、コンプレッサー室からガスが漏れて爆発が起き、従業員3名が殉職、数名が負傷し、生産設備も傷んだ。1968年9月のこの事故は、原料を一系統に集約したことの代償だった。水島工場はまだ稼働前で、高岡工場が全面的に止まったことは、そのまま日本ゼオンの塩化ビニル樹脂生産がすべて途絶えることを意味した。供給責任を果たすため、被害のなかったカーバイド法の荻布プラントを富山県知事の許可のもと10月11日に稼働させた。ただ、割高なカーバイドを原料とするうえモノマーの能力が足りず重合部門の操業率が下がり、原価はかさんだ。塩化ビニルの第二工場は高岡に拡充の余地がないことから瀬戸内海の水島地区で計画されており、1969年に完成する。
自社技術の確立は資本の構成にも及んだ。創立当初35%を占めていたグッドリッチの出資比率は漸次下がり、1970年に20%、1971年の時点では完全な日本資本の会社となっていた。塩化ビニルの技術契約は1966年に終了して以降は独自の展開に移り、合成ゴムの汎用ゴムについての契約も1972年に満期を迎える予定だった。一方でGPB法は外へ出ていった。国内では千葉ブタジエン・東燃石油化学・岡山ブタジエンへ供与し、海外ではソビエト連邦・オランダ・アメリカの有力化学会社5社と技術契約を結んだ。イソプレンモノマーの抽出技術であるGPI法も1968年12月に国産第1号として企業化の認可を得て、水島で工場の建設が進んでいた。導入する側から供与する側へ回った12年だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1950〜1958年日本軽金属の遊休設備から興した塩化ビニル専業会社(1950〜1958) | 技術を持つ相手と組んで興した新会社による塩化ビニル樹脂の国産化 1950年4月、日本軽金属・古河電気工業・横浜護謨の古河系3社が、米B.F.グッドリッチ・ケミカルから塩化ビニル樹脂の全技術を導入する前提で、資本金500万円の日本ゼオンを設立した経営判断。グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 蒲原工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始 | ★ | |||
| 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始 | ★ | |||
| 1959〜1971年合成ゴムの国産第1号と自社抽出技術による原料自給(1959〜1971) | 川崎工場完成、合成ゴムの生産開始と中央研究所開設 | ★★★ | ||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 徳山工場完成、自社技術GPB法によるブタジエンの生産開始 | ★★ | |||
| 塩化ビニル樹脂の生産合理化のため蒲原工場を閉鎖 | ★ | |||
| 水島工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始 | ★ | |||
| 水島工場に自社技術GPI法のイソプレン抽出プラント完成 | ★★ | |||
| 1972〜1999年特殊ゴムでの世界展開と塩ビ事業からの後退(1972〜1999) | 加工品事業部門をゼオン化成として分離・独立 | ★ | ||
| 高岡工場で水素化ニトリルゴムの生産開始 | ★★ | |||
| 米国にZeon Chemicals Texasを設立し現地生産開始 | ★ | |||
| 英国BP Chemicalsのニトリルゴム部門を買収 | ★★ | |||
| 米社の同事業取得と併せた日米欧3極生産体制の構築 1989年、日本ゼオンが英BPケミカルズのニトリルゴム部門と米B.F.グッドリッチの特殊ゴム事業を総額200億円で相次いで買収し、耐油性特殊ゴムで日米欧3極の生産体制を構築した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 水島工場でシクロオレフィンポリマーの生産開始 | ★★★ | |||
| 中野克彦 | 塩ビ事業を切離し新第一塩ビへ移管 | ★★ | ||
| 中野克彦 | 米沢市に精密化学品の米沢工場を設立 | ★ | ||
| 2000〜2026年創業事業の塩ビ撤退と高機能材料への組み替え(2000〜2026) | 中野克彦 | 水島工場での塩化ビニル生産の打ち切りによる祖業からの撤退 1995年7月、日本ゼオンが塩化ビニル樹脂事業を切り離し、住友化学・トクヤマとの事業統合会社である新第一塩ビへ移管した。さらに2000年3月には水島工場での塩ビ生産を打ち切り、1950年の設立目的そのものであった祖業から撤退した。中野克彦社長の在任期にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |
| 中野克彦 | 光学フィルム工場としてオプテス高岡製造所が完成 | ★★ | ||
| 古河直純 | 会社分割でDCPD-RIM事業部門をRIMTECへ譲渡 | ★ | ||
| 古河直純 | 本社を千代田区丸の内の現在地に移転 | ★ | ||
| 古河直純 | 富山県氷見市にオプテス氷見製造所が完成 | ★ | ||
| 古河直純 | シンガポールにZeon Chemicals Singaporeを設立 | ★ | ||
| 古河直純 | ベトナムにZeon Manufacturing Vietnamを設立 | ★ | ||
| 古河直純 | トウペを公開買付けにより子会社化 | ★ | ||
| 古河直純 | 福井県敦賀市にオプテス敦賀製造所が完成 | ★ | ||
| 田中公章 | 徳山工場にカーボンナノチューブ製造プラントが竣工 | ★★ | ||
| 田中公章 | 住友化学とのS-SBR統合会社ZSエラストマーが営業開始 | ★★ | ||
| 田中公章 | 英国のZeon Chemicals Europeを清算 | ★ | ||
| 田中公章 | 敦賀工場に大型テレビ用光学フィルムのラインが竣工 | ★ | ||
| 田中公章 | 米国のAurora Microplatesを買収 | ★ | ||
| 田中公章 | 東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 田中公章 | 米国のEdge Embossingを買収 | ★ | ||
| 豊嶋哲也 | 高岡工場にCOPのリサイクルプラントが竣工 | ★ | ||
| 豊嶋哲也 | 住友化学とのS-SBR合弁を解消しZSエラストマーを吸収合併 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本ゼオン)