1950年〜 日本軽金属の遊休設備から興した塩化ビニル専業会社(1950〜1958)
- 1950年 B.F.グッドリッチ・ケミカルとの合弁による日本ゼオンの設立と塩化ビニル樹脂の国産化 自前の技術で育てるか、外国技術を丸ごと買うか——塩ビ18社の反対を押しての合弁
- 1952年 蒲原工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始
- 1956年 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始
古河系3社と米国グッドリッチが持ち寄った資本と技術
日本ゼオンは1950年4月12日[1]、塩化ビニル樹脂の専門メーカーとして資本金500万円[2]で設立された。戦後日本の合弁会社としては第二号[3]だった。発起人には日本軽金属社長の草野義一氏や稲垣平太郎氏らが名を連ね[4]、創立総会は同年4月5日に日本軽金属の社内へ置いた創立事務所[5]で開かれ、本社も東京都中央区銀座西の同社内に置いた[6]。日本軽金属は終戦後ただちに設備を平和産業へ転換し、一部でカーバイドの生産を始めていた[7]が、残る遊休施設の使い道を調査していた。原料と電力の双方で好条件を持つ塩化ビニルに狙いを定め、試作と研究を続けた[8]うえで、古河電気工業と横浜護謨を誘って[9]新会社を興した。
- 有価証券報告書
- [1]日本ゼオンは1950年4月12日設立
- [2]設立時の資本金は500万円
- [6]本社を日本軽金属株式会社内(東京都中央区銀座西7の3)に設置
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [3]戦後日本の合弁会社第二号として二十五年に「古河グループ」と「グッドリッチ」との合弁によって設立された
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [4]稲垣平太郎、草野義一ほか数氏が発起人となった。草野義一は当時の日本軽金属社長で、日本ゼオンの会社を代表すべき取締役に就いた
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [5]昭和25年4月5日、日本軽金属社内の日本ゼオン創立事務所で創立総会が開催された
- [7]日本軽金属は終戦後に設備を平和産業へ転換し、一部設備でカーバイドの生産を開始、他の遊休施設の活用を調査研究していた
- [8]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた
- [9]古河電工、横浜護謨とともに設立した
新会社は国内の資源と外国の技術を結び付けることを設立の前提[10]に置いた。最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が必要だという結論[11]に達し、塩化ビニル樹脂で米国第一級の技術を持つB.F.グッドリッチ・ケミカル[12]と折衝を重ねて、外資法に基づく国内手続を終えた1951年1月に契約へ調印[13]した。日本ゼオンは塩化ビニル及び塩化ビニリデンの製造、可塑剤D.O.P.の調製など一連の特許の実施権[14]を得たほか、工場の設計から運転に至る指導監督と技術情報の提供[15]も受けた。グッドリッチの登録商標「GEON」を日本で登録する権利[16]も与えられ、これが社名の由来となった。
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [10]この国内資源と優秀なる外国技術との結合が目的達成には最も適切な方策であるとして、米国第一流の技術を有するグッドリッチ・ケミカル会社と提携し、P.V.C.及びその関係品に対する全技術を導入することを前提として、昭和25年4月資本金500万円の会社を設立した
- [14]塩化ビニール及び塩化ビニーリジンの製造、D.O.P.可塑剤の調製ほかグ社特許の実施権を得た
- [15]工場及び設備の設計・建設・運転に関する指導監督、あらゆる技術的情報の提供を受ける
- [16]グ社の登録商標「GEON」を日本で登録する権利を与えられる
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [11]最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が是非とも必要であるとの結論によったもの
- [12]国際的有名商品GEON塩化ビニールのメーカーで米国第一流の技術を有するBFグッドリッチ・ケミカル会社
- [13]外資法に基づく許可等の国内手続を完了し、昭和26年1月に正式に契約調印を行った
対価としてロイヤリティは製品販売の日から1年目が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%[17]と定め、グッドリッチには資本金の35%にあたる株式[18]を割り当てた。英文社名はThe Japanese Geon Co., Ltd.とし、その頭文字JとGを組み合わせた図案を創立時から社章[19]に用いた。工場は日本軽金属の蒲原工場の敷地内に、カセイソーダ工場と隣り合わせて建設[20]した。原料と用役はすべて日本軽金属から受ける計画で、アセチレンガスは同社のカーバイドから、塩素と水素はカセイソーダ工場の副産物から、電力は自家発電の余剰電力[21]を充てた。
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [17]ロイヤリティは製品販売の日から1カ年は売上高の1.5%、2年目は2%、3年目以降は3%支払う
- [18]グ社に対して資本金の35%の株式を割り当てる
- [20]プラントは日本軽金属蒲原工場の中に、カセイソーダ工場に隣接して建設された
- [21]アセチレンガスは日本軽金属蒲原工場のカーバイドより、塩素及び水素は同社カセイソーダ工場の副産物を活用し、電力も同社の自家発電による余剰電力の供給を受ける計画
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [19]英文社名The Japanese Geon Co, Ltd のイニシアルの「J」と「G」をデザインしたもので、創立時より社章として使用している
- 有価証券報告書
- [1]日本ゼオンは1950年4月12日設立
- [2]設立時の資本金は500万円
- [6]本社を日本軽金属株式会社内(東京都中央区銀座西7の3)に設置
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [3]戦後日本の合弁会社第二号として二十五年に「古河グループ」と「グッドリッチ」との合弁によって設立された
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [4]稲垣平太郎、草野義一ほか数氏が発起人となった。草野義一は当時の日本軽金属社長で、日本ゼオンの会社を代表すべき取締役に就いた
- [11]最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が是非とも必要であるとの結論によったもの
- [12]国際的有名商品GEON塩化ビニールのメーカーで米国第一流の技術を有するBFグッドリッチ・ケミカル会社
- [13]外資法に基づく許可等の国内手続を完了し、昭和26年1月に正式に契約調印を行った
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [5]昭和25年4月5日、日本軽金属社内の日本ゼオン創立事務所で創立総会が開催された
- [7]日本軽金属は終戦後に設備を平和産業へ転換し、一部設備でカーバイドの生産を開始、他の遊休施設の活用を調査研究していた
- [8]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた
- [9]古河電工、横浜護謨とともに設立した
- [10]この国内資源と優秀なる外国技術との結合が目的達成には最も適切な方策であるとして、米国第一流の技術を有するグッドリッチ・ケミカル会社と提携し、P.V.C.及びその関係品に対する全技術を導入することを前提として、昭和25年4月資本金500万円の会社を設立した
- [14]塩化ビニール及び塩化ビニーリジンの製造、D.O.P.可塑剤の調製ほかグ社特許の実施権を得た
- [15]工場及び設備の設計・建設・運転に関する指導監督、あらゆる技術的情報の提供を受ける
- [16]グ社の登録商標「GEON」を日本で登録する権利を与えられる
- [17]ロイヤリティは製品販売の日から1カ年は売上高の1.5%、2年目は2%、3年目以降は3%支払う
- [18]グ社に対して資本金の35%の株式を割り当てる
- [20]プラントは日本軽金属蒲原工場の中に、カセイソーダ工場に隣接して建設された
- [21]アセチレンガスは日本軽金属蒲原工場のカーバイドより、塩素及び水素は同社カセイソーダ工場の副産物を活用し、電力も同社の自家発電による余剰電力の供給を受ける計画
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [19]英文社名The Japanese Geon Co, Ltd のイニシアルの「J」と「G」をデザインしたもので、創立時より社章として使用している
月産250トン設備がもたらした品質と量の優位
建設は1951年3月に着工[22]した。設計から建設、運転開始までをグッドリッチの技術で行い、1950年7月には同社の技術担当副社長W.I.バード氏が、1951年4月には技師2名が来日[23]して指導にあたった。所要資金は6億7,500万円を見込み、増資4億9,500万円のうち1億7,500万円をグッドリッチの現物出資[24]で賄った。完工は朝鮮戦争の影響で予定より遅れたものの、1952年5月下旬から正常運転[25]に入った。製品は最初からグッドリッチ製と同質のもの[26]ができ、電線業者やゴム業者へ輸入品を供給してきた段階から自社製品販売の段階に移った[27]。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [22]昭和26年3月に蒲原工場の建設に着手した
- [27]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきたが、蒲原工場の生産開始により自社製品販売の段階に入った
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [23]グ社から25年7月技術担当副社長W.I.バード氏、26年4月技師2名が来日指導にあたった
- [24]所要資金は6億7,500万円、増資額4億9,500万円よりグ社現物出資分1億7,500万円
- [25]完工は朝鮮事変の影響を受けて予定より若干遅れたが、27年5月下旬から正常運転にはいった
- [26]製品は最初からアメリカのグ社製品と全く同質のものができた
蒲原工場は1952年5月に月産250トンの設備として完成[28]した。当時の日本のプラスチック業界は塩ビの生産が始まったばかりで、月産50トンから100トン規模の会社が数社あるにすぎず、品質も劣っていた[29]。そこへ既存各社の2.5倍から5倍にあたる月産250トンの体制が現れたため業界の注視を集め、品質の高さも加わって[30]、後年、古我周二社長がゼオン旋風という語で振り返るほどの反響を呼んだ。設立時には国内の塩ビメーカー18社から猛烈な反対を受けた[31]。日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかへ、一社で予定国内総生産能力の半分にもなる規模の企業が入ることが脅威[32]と受け止められた。塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であり、導入技術を認めれば国内の研究意欲が減退する[33]というのが反対の論拠だった。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [28]二十七年五月に月産二五〇屯の設備として完成をみた
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」
- [29]昭和27年のわが国プラスチック業界は塩ビの幕あけの時代で、月産50〜100トン規模の塩ビ会社が数社しかなく品質も著しく劣っていた
- [30]月産250トン体制は業界でも注視の的となり、品質の優秀性も加わってゼオン旋風を巻き起こした
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [31]日本ゼオンの誕生は国内塩化ビニールメーカーからの猛烈な反対を受けた。弱い基盤に一八社が乱立し
- [32]わずか日産六〇トンが最高能力という小規模生産体制のなかに、一社で予定国内総生産能力の半分にもなろうという大規模企業が進出することは非常な脅威
- [33]塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であること、これを認めることは国内の研究意欲を減退させること、国内企業を圧迫すること
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [22]昭和26年3月に蒲原工場の建設に着手した
- [27]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきたが、蒲原工場の生産開始により自社製品販売の段階に入った
- [28]二十七年五月に月産二五〇屯の設備として完成をみた
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [23]グ社から25年7月技術担当副社長W.I.バード氏、26年4月技師2名が来日指導にあたった
- [24]所要資金は6億7,500万円、増資額4億9,500万円よりグ社現物出資分1億7,500万円
- [25]完工は朝鮮事変の影響を受けて予定より若干遅れたが、27年5月下旬から正常運転にはいった
- [26]製品は最初からアメリカのグ社製品と全く同質のものができた
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月「日本ゼオンの現状と将来」
- [29]昭和27年のわが国プラスチック業界は塩ビの幕あけの時代で、月産50〜100トン規模の塩ビ会社が数社しかなく品質も著しく劣っていた
- [30]月産250トン体制は業界でも注視の的となり、品質の優秀性も加わってゼオン旋風を巻き起こした
- 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
- [31]日本ゼオンの誕生は国内塩化ビニールメーカーからの猛烈な反対を受けた。弱い基盤に一八社が乱立し
- [32]わずか日産六〇トンが最高能力という小規模生産体制のなかに、一社で予定国内総生産能力の半分にもなろうという大規模企業が進出することは非常な脅威
- [33]塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であること、これを認めることは国内の研究意欲を減退させること、国内企業を圧迫すること
高岡への拡張と原料の自社調達への移行
生産設備はその後も拡張を続け、第2期計画で月産500トンへ増設したのち、1955年4月には月産700トンへ達した[34]。同年6月期の生産高は前期実績を25%上回る2,980トンで、総売上高は7億4,000万円と前期比23%増[35]となり、用途別の内訳は軟質用が38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%[36]だった。この間に資本金は1951年4月に2億円、同年11月に5億円[37]へ増え、1955年時点では稲垣平太郎氏が会長、岸野佐吉氏が社長を務めた[38]。生産品種の拡充にも力を入れ、懸案だったペーストレジンGEON121の国産化に成功して、富山県高岡市に新工場の建設を計画[39]した。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [34]第二期計画として月産能力500屯への増設工事を完成し、30年4月には月産能力700屯に達した
- [35]30年6月期の生産高は前期の実績を25%上回る2,980屯、同期の総売上高は7億4千万円(前期に比し23%増)
- [36]うち軟質用38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%
- [37]資本金は26年4月2億円、次いで同年11月5億円となった
- [38]会長 稲垣平太郎、社長 岸野佐吉
- [39]懸案であったペースト・レヂンGEON121の国産化に成功し、富山県高岡市に新工場を建設計画中
高岡工場は1956年11月に完成し[40]、ペーストレジンの国産化を受けて蒲原に続く第二の塩化ビニル樹脂の生産拠点となった。原料の供給関係にも変化が生じ、塩化ビニル樹脂の生産が増えるにつれて日本軽金属のカーバイド生産では追いつかなくなり、アセチレンが供給不足に陥った[41]。日本軽金属は1955年11月末で供給を打ち切ってアセチレン発生設備一式を譲渡[42]し、日本ゼオンは1956年1月から自社でアセチレンを発生させた[43]。設立時に全量を日本軽金属から受けていた原料のうち、アセチレンだけが[44]操業開始から4年足らずで自給へ切り替わった。増産は続いたものの市況は生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮に入った[45]。
- 有価証券報告書
- [40]1956年11月 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂生産開始
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [41]P.V.C.生産が増大するにつれて日本軽金属のカーバイド生産の制約によりアセチレンは供給不足気味となった
- [42]この際、日本軽金属はアセチレン発生設備一式を同社に譲渡した
- [43]30年11月末日をもって日本軽金属は生産を中止し、日本ゼオンは31年1月1日からアセチレンを自社で発生することになった
- [44]当社は最初、アセチレン・塩素・水素・電力のすべてにわたって全量を供給していた。しかしP.V.C.生産が増大するにつれてアセチレンは供給不足気味となった
- [45]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
- [34]第二期計画として月産能力500屯への増設工事を完成し、30年4月には月産能力700屯に達した
- [35]30年6月期の生産高は前期の実績を25%上回る2,980屯、同期の総売上高は7億4千万円(前期に比し23%増)
- [36]うち軟質用38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%
- [37]資本金は26年4月2億円、次いで同年11月5億円となった
- [38]会長 稲垣平太郎、社長 岸野佐吉
- [39]懸案であったペースト・レヂンGEON121の国産化に成功し、富山県高岡市に新工場を建設計画中
- 有価証券報告書
- [40]1956年11月 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂生産開始
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [41]P.V.C.生産が増大するにつれて日本軽金属のカーバイド生産の制約によりアセチレンは供給不足気味となった
- [42]この際、日本軽金属はアセチレン発生設備一式を同社に譲渡した
- [43]30年11月末日をもって日本軽金属は生産を中止し、日本ゼオンは31年1月1日からアセチレンを自社で発生することになった
- [44]当社は最初、アセチレン・塩素・水素・電力のすべてにわたって全量を供給していた。しかしP.V.C.生産が増大するにつれてアセチレンは供給不足気味となった
- [45]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた