日本ゼオン の歴史

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創業 1950年
母体 古河電気工業+横浜護謨+日本軽金属
創業地 東京都中央区銀座西
創業 1950年4月、終戦で余った設備とカーバイドを事業へ変えるため、日本軽金属が古河
1950年4月、終戦で余った設備とカーバイドを事業へ変えるため、日本軽金属が古河電気工業と横浜護謨を誘い、東京都中央区銀座西の日本軽金属本社内に資本金500万円で日本ゼオンを設立した。米B.F.グッドリッチ・ケミカルへ資本金の35%を割り当てて全技術を導入した。国内18社は自前技術で足りると反対したが、月産250トンの設備は既存各社の2.5倍から5倍にあたった。1952年に蒲原工場が塩化ビニル樹脂の生産を開始し、社名も導入した技術の商標に由来する。ただし技術も原料も外から調達した出発であり、自前のものは電力と遊休設備だけだった。
決断 原料の作り方を自前化し、その原料の向かう先を替えてきた。1959年7月に川崎工場
原料の作り方を自前化し、その原料の向かう先を替えてきた。1959年7月に川崎工場で合成ゴムの生産を開始し、1965年には徳山工場でナフサ分解のC4留分からブタジエンを抽出するGPB法を実用化して原料を自給した。同じ抽出技術をC5留分へ広げ、イソプレン用のGPI法は国内3社と海外5社へ供与している。1987年のダンピング提訴で米国向けニトリルゴムの輸出が止まると、総額200億円で英BPケミカルズと米B.F.グッドリッチの特殊ゴム部門を取得し、日米欧3極の生産体制へ移った。汎用樹脂を量で競う場所からは、この時点で離れている。
現況 売上を作るのは合成ゴムだが、利益を作るのは光学フィルムである。2026年3月期の
売上を作るのは合成ゴムだが、利益を作るのは光学フィルムである。2026年3月期の連結売上高4,120億円のうちエラストマー素材は2,218億円と過半を占めるが、セグメント利益は117億円にとどまる。売上1,242億円の高機能材料が利益224億円を計上し、全社営業利益364億円の6割を1事業で稼いだ。この事業を支えるのは、1995年に新第一塩ビへ移管し、2000年3月に水島工場での塩ビ生産を打ち切ったあとに氷見と敦賀へ広げた光学フィルムとシクロオレフィンポリマーである。祖業を手放した年に始めた投資が、現在の利益率を作っている。
競合 合成ゴムから離れる同業が続くなかで、日本ゼオンは残る側にいる。JSRは2021年
合成ゴムから離れる同業が続くなかで、日本ゼオンは残る側にいる。JSRは2021年にエラストマー事業をENEOSへ譲渡し、半導体材料とライフサイエンスの会社へ姿を変えた。住友化学とは溶液重合SBRを合弁で生産していたが、2024年9月に合弁を解消し、ZSエラストマー株式会社を吸収合併して単独運営へ戻した。撤退した各社が市況と原料価格の振れを理由に挙げたのに対し、日本ゼオンはC5留分の抽出技術をゴムと光学材料の双方へ効かせている。同じ留分から二つの製品系列が出ることが、汎用ゴムの沈んだ年でも利益率を保たせた。
長期業績の推移 1950〜2026年
日本ゼオン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1950年〜 日本軽金属の遊休設備から興した塩化ビニル専業会社(1950〜1958)

1950年〜古河系3社と米国グッドリッチが持ち寄った資本と技術

日本ゼオンは1950年4月12日、塩化ビニル樹脂の専門メーカーとして資本金500万円で設立された。戦後日本の合弁会社としては第二号だった。発起人には日本軽金属社長の草野義一氏や稲垣平太郎氏らが名を連ね、創立総会は同年4月5日に日本軽金属の社内へ置いた創立事務所で開かれ、本社も東京都中央区銀座西の同社内に置いた。日本軽金属は終戦後ただちに設備を平和産業へ転換し、一部でカーバイドの生産を開始していたが、残る遊休施設の使い道を調査していた。原料と電力の双方で好条件を持つ塩化ビニルに狙いを定め、試作と研究を続けたうえで、古河電気工業と横浜護謨を誘って新会社を設立した。

  • 有価証券報告書
    • [1]日本ゼオンは1950年4月12日設立
    • [2]設立時の資本金は500万円
    • [6]本社を日本軽金属株式会社内(東京都中央区銀座西7の3)に設置
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [3]戦後日本の合弁会社第二号として25年に「古河グループ」と「グッドリッチ」との合弁によって設立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [4]稲垣平太郎、草野義一ほか数氏が発起人となった。草野義一は当時の日本軽金属社長で、日本ゼオンの会社を代表すべき取締役に就いた
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [5]昭和25年4月5日、日本軽金属社内の日本ゼオン創立事務所で創立総会が開催された
    • [7]日本軽金属は終戦後に設備を平和産業へ転換し、一部設備でカーバイドの生産を開始、他の遊休施設の活用を調査研究していた
    • [8]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた
    • [9]古河電工、横浜護謨とともに設立した

戦時中、米BFグッドリッチとの関係はいったん途切れたが、横浜護謨は国交がなくなっても会社間の約定は生きているとの立場を取り、技術供与のないまま技術料の支払分を積み立て続けた。同社は三社のひとつで、古河電気工業と米BFグッドリッチが出資して1917年10月に生まれたゴム製品メーカーである。1949年4月に関係が戻ると、グッドリッチ傘下で塩化ビニルを扱うB.F.グッドリッチ・ケミカルとの交渉にも乗り出した。同年10月には三社を代表する形で、横浜護謨社長の天本淑朗氏が先方社長に書翰を宛てた。書翰は日本の合成樹脂工業の概要と、古河系三社で生産会社を立ち上げる案を示し、加わるよう求めるものだった。日本軽金属は独自に塩化ビニルの企業化を計画して試作と研究を続けていたが、三社共同の構想が固まるとテストプラントを建設しただけで自社の計画を中止した。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [10]戦時中も「日米の国交は断絶しても、企業の契約は継続する」として、別に技術供与こそなかったが、G社への支払技術料を別途積み立てていた
    • [11]横浜ゴムは、大正六年十月、古河電工と米BFグットリッチ社との共同出資で設立されたゴム製品製造会社である
    • [12]戦時中は中絶したが、二十四年四月、正式に両社の関係が復活した
    • [13]二十四年十月、横浜ゴム社長天本淑朗が三社を代表してGC社社長W・S・リチャドソン宛に送った書翰によって開始された。この書翰では、日本における合成樹脂工業の概要、古河系三社による塩化ビニール生産会社設立計画案を詳細に説明するとともに、GC社の参加を要請した
    • [15]日本軽金属では独自で塩化ビニールの企業化計画を進めていたが、この三社共同の新会社設立構想の進展とともに、テストブラントを建設しただけで、計画を中止した
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [14]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた

1951年1月、外資法に基づく国内の手続を済ませたうえで、B.F.グッドリッチ・ケミカルとの契約に調印した。相手は塩化ビニル樹脂で米国第一級の技術を持つ会社だった。国内資源と外国技術を結ぶことが新会社設立の前提であり、国際価格で最高水準の品質を出すには優れた海外の技術と組むほかないとの結論から、折衝を重ねていた。この契約で日本ゼオンは、塩化ビニル及び塩化ビニリデンの製造、可塑剤D.O.P.の調製など一連の特許の実施権に加え、工場設計から運転までの指導監督と技術情報の提供を受けた。さらにグッドリッチが持つ登録商標"GEON"について日本での登録権を得ており、社名はここから取った。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [16]外資法に基づく許可等の国内手続を完了し、昭和26年1月に正式に契約調印を行った
    • [17]国際的有名商品GEON塩化ビニールのメーカーで米国第一流の技術を有するBFグッドリッチ・ケミカル会社
    • [19]最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が是非とも必要であるとの結論によったもの
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [18]この国内資源と優秀なる外国技術との結合が目的達成には最も適切な方策であるとして、米国第一流の技術を有するグッドリッチ・ケミカル会社と提携し、P.V.C.及びその関係品に対する全技術を導入することを前提として、昭和25年4月資本金500万円の会社を設立した
    • [20]塩化ビニール及び塩化ビニーリジンの製造、D.O.P.可塑剤の調製ほかグ社特許の実施権を得た
    • [21]工場及び設備の設計・建設・運転に関する指導監督、あらゆる技術的情報の提供を受ける
    • [22]グ社の登録商標「GEON」を日本で登録する権利を与えられる

対価としてロイヤリティは製品販売の日から1年目が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%と定め、グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。英文社名はThe Japanese Geon Co., Ltd.とし、その頭文字JとGを組み合わせた図案を創立時から社章に用いた。工場は日本軽金属の蒲原工場の敷地内に、カセイソーダ工場と隣り合わせて建設した。原料と用役はすべて日本軽金属から受ける計画で、アセチレンガスは同社のカーバイドから、塩素と水素はカセイソーダ工場の副産物から、電力は自家発電の余剰電力を充てた。

  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [23]ロイヤリティは製品販売の日から1カ年は売上高の1.5%、2年目は2%、3年目以降は3%支払う
    • [24]グ社に対して資本金の35%の株式を割り当てる
    • [26]プラントは日本軽金属蒲原工場の中に、カセイソーダ工場に隣接して建設された
    • [27]アセチレンガスは日本軽金属蒲原工場のカーバイドより、塩素及び水素は同社カセイソーダ工場の副産物を活用し、電力も同社の自家発電による余剰電力の供給を受ける計画
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [25]英文社名The Japanese Geon Co, Ltd のイニシアルの「J」と「G」をデザインしたもので、創立時より社章として使用している
参考文献[1]-[27]
  • 有価証券報告書
    • [1]日本ゼオンは1950年4月12日設立
    • [2]設立時の資本金は500万円
    • [6]本社を日本軽金属株式会社内(東京都中央区銀座西7の3)に設置
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [3]戦後日本の合弁会社第二号として25年に「古河グループ」と「グッドリッチ」との合弁によって設立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [4]稲垣平太郎、草野義一ほか数氏が発起人となった。草野義一は当時の日本軽金属社長で、日本ゼオンの会社を代表すべき取締役に就いた
    • [16]外資法に基づく許可等の国内手続を完了し、昭和26年1月に正式に契約調印を行った
    • [17]国際的有名商品GEON塩化ビニールのメーカーで米国第一流の技術を有するBFグッドリッチ・ケミカル会社
    • [19]最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が是非とも必要であるとの結論によったもの
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [5]昭和25年4月5日、日本軽金属社内の日本ゼオン創立事務所で創立総会が開催された
    • [7]日本軽金属は終戦後に設備を平和産業へ転換し、一部設備でカーバイドの生産を開始、他の遊休施設の活用を調査研究していた
    • [8]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた
    • [9]古河電工、横浜護謨とともに設立した
    • [14]日本軽金属は原料及び電力に最も好条件を有する塩化ビニルの生産を計画し、試作・研究を続けた
    • [18]この国内資源と優秀なる外国技術との結合が目的達成には最も適切な方策であるとして、米国第一流の技術を有するグッドリッチ・ケミカル会社と提携し、P.V.C.及びその関係品に対する全技術を導入することを前提として、昭和25年4月資本金500万円の会社を設立した
    • [20]塩化ビニール及び塩化ビニーリジンの製造、D.O.P.可塑剤の調製ほかグ社特許の実施権を得た
    • [21]工場及び設備の設計・建設・運転に関する指導監督、あらゆる技術的情報の提供を受ける
    • [22]グ社の登録商標「GEON」を日本で登録する権利を与えられる
    • [23]ロイヤリティは製品販売の日から1カ年は売上高の1.5%、2年目は2%、3年目以降は3%支払う
    • [24]グ社に対して資本金の35%の株式を割り当てる
    • [26]プラントは日本軽金属蒲原工場の中に、カセイソーダ工場に隣接して建設された
    • [27]アセチレンガスは日本軽金属蒲原工場のカーバイドより、塩素及び水素は同社カセイソーダ工場の副産物を活用し、電力も同社の自家発電による余剰電力の供給を受ける計画
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [10]戦時中も「日米の国交は断絶しても、企業の契約は継続する」として、別に技術供与こそなかったが、G社への支払技術料を別途積み立てていた
    • [11]横浜ゴムは、大正六年十月、古河電工と米BFグットリッチ社との共同出資で設立されたゴム製品製造会社である
    • [12]戦時中は中絶したが、二十四年四月、正式に両社の関係が復活した
    • [13]二十四年十月、横浜ゴム社長天本淑朗が三社を代表してGC社社長W・S・リチャドソン宛に送った書翰によって開始された。この書翰では、日本における合成樹脂工業の概要、古河系三社による塩化ビニール生産会社設立計画案を詳細に説明するとともに、GC社の参加を要請した
    • [15]日本軽金属では独自で塩化ビニールの企業化計画を進めていたが、この三社共同の新会社設立構想の進展とともに、テストブラントを建設しただけで、計画を中止した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [25]英文社名The Japanese Geon Co, Ltd のイニシアルの「J」と「G」をデザインしたもので、創立時より社章として使用している

1951年〜月産250トン設備がもたらした品質と量の優位

建設は1951年3月に着工した。設計から建設、運転開始までをグッドリッチの技術で行い、1950年7月には同社の技術担当副社長W.I.バード氏が、1951年4月には技師2名が来日して指導にあたった。所要資金は6億7,500万円を見込み、増資4億9,500万円のうち1億7,500万円をグッドリッチの現物出資で賄った。完工は朝鮮戦争の影響で予定より遅れたものの、1952年5月下旬から正常運転に入った。製品は最初からグッドリッチ製と同質のものができ、電線業者やゴム業者へ輸入品を供給してきた段階から自社製品販売の段階に移った。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [28]昭和26年3月に蒲原工場の建設に着手した
    • [33]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきたが、蒲原工場の生産開始により自社製品販売の段階に入った
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [29]グ社から25年7月技術担当副社長W.I.バード氏、26年4月技師2名が来日指導にあたった
    • [30]所要資金は6億7,500万円、増資額4億9,500万円よりグ社現物出資分1億7,500万円
    • [31]完工は朝鮮事変の影響を受けて予定より若干遅れたが、27年5月下旬から正常運転にはいった
    • [32]製品は最初からアメリカのグ社製品と全く同質のものができた

自社の設備が動き出すまでの間、会社を支えたのは輸入品の販売だった。1951年5月に業務部販売課を設け、グッドリッチ製品の輸入販売業務を始めた。当時の国産の塩化ビニル樹脂は絶縁性はもとより一般の用途でも品質が満足できるものではなく、量でも需要に応じきれていなかったため、電線業者やゴム業者の求めに応じた輸入品は各方面から歓迎された。創立第四期にあたる1951年7月から12月までに計上された売上高3,916万円余は、すべてこの輸入販売によるものだった。同年6月には本社人員が増えて日本軽金属の事務所が手狭となり、港区芝田村町の日産館へ移転した。売る組織と売る相手を先に固めたうえで、蒲原の設備が立ち上がった。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [34]日本ゼオンでは、市場開拓を目的とし、二十六年五月、業務部販売課を設け、GC社製品の輸入販売業務を開始した
    • [36]当時国産塩化ビニール樹脂は、一部を除いて絶縁性においてはもちろん、一般使用についても品質的にまだ満足しうるものでなく、また、量的にも需要に応じきれない状況にあったため、これは各方面から歓迎された
    • [37]創立第四期(二十六年七月~十二月)の売上高として三九一六万円余が計上されているが、これはGC社製品の輸入販売によるものである
    • [38]本社人員も増員され、日軽事務所では狭隘となったため、二十六年六月、本社を港区芝田村町一の二の日産館に移転した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [35]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきた

蒲原工場は1952年5月に月産250トンの設備として完成した。当時の日本のプラスチック業界は塩ビの生産が始まったばかりで、月産50トンから100トン規模の会社が数社あるにすぎず、品質も劣っていた。そこへ既存各社の2.5倍から5倍にあたる月産250トンの体制が現れたため業界の注視を集め、品質の高さも加わって、後年、古我周二社長がゼオン旋風という語で振り返るほどの反響を呼んだ。設立時には国内の塩ビメーカー18社から猛烈な反対を受けた。日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかへ、一社で予定国内総生産能力の半分にもなる規模の企業が入ることが脅威と受け止められた。塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であり、導入技術を認めれば国内の研究意欲が減退するというのが反対の論拠だった。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [39]二十七年五月に月産二五〇屯の設備として完成をみた
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [40]昭和27年のわが国プラスチック業界は塩ビの幕あけの時代で、月産50〜100トン規模の塩ビ会社が数社しかなく品質も著しく劣っていた
    • [41]月産250トン体制は業界でも注視の的となり、品質の優秀性も加わってゼオン旋風を巻き起こした
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [42]日本ゼオンの誕生は国内塩化ビニールメーカーからの猛烈な反対を受けた。弱い基盤に18社が乱立し
    • [43]わずか日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかに、一社で予定国内総生産能力の半分にもなろうという大規模企業が進出することは非常な脅威
    • [44]塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であること、これを認めることは国内の研究意欲を減退させること、国内企業を圧迫すること
参考文献[28]-[44]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [28]昭和26年3月に蒲原工場の建設に着手した
    • [33]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきたが、蒲原工場の生産開始により自社製品販売の段階に入った
    • [35]電線業社並びにゴム業社等の要望にこたえグ社製各種GEON P・VCを輸入してきた
    • [39]二十七年五月に月産二五〇屯の設備として完成をみた
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [29]グ社から25年7月技術担当副社長W.I.バード氏、26年4月技師2名が来日指導にあたった
    • [30]所要資金は6億7,500万円、増資額4億9,500万円よりグ社現物出資分1億7,500万円
    • [31]完工は朝鮮事変の影響を受けて予定より若干遅れたが、27年5月下旬から正常運転にはいった
    • [32]製品は最初からアメリカのグ社製品と全く同質のものができた
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [34]日本ゼオンでは、市場開拓を目的とし、二十六年五月、業務部販売課を設け、GC社製品の輸入販売業務を開始した
    • [36]当時国産塩化ビニール樹脂は、一部を除いて絶縁性においてはもちろん、一般使用についても品質的にまだ満足しうるものでなく、また、量的にも需要に応じきれない状況にあったため、これは各方面から歓迎された
    • [37]創立第四期(二十六年七月~十二月)の売上高として三九一六万円余が計上されているが、これはGC社製品の輸入販売によるものである
    • [38]本社人員も増員され、日軽事務所では狭隘となったため、二十六年六月、本社を港区芝田村町一の二の日産館に移転した
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [40]昭和27年のわが国プラスチック業界は塩ビの幕あけの時代で、月産50〜100トン規模の塩ビ会社が数社しかなく品質も著しく劣っていた
    • [41]月産250トン体制は業界でも注視の的となり、品質の優秀性も加わってゼオン旋風を巻き起こした
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
    • [42]日本ゼオンの誕生は国内塩化ビニールメーカーからの猛烈な反対を受けた。弱い基盤に18社が乱立し
    • [43]わずか日産60トンが最高能力という小規模生産体制のなかに、一社で予定国内総生産能力の半分にもなろうという大規模企業が進出することは非常な脅威
    • [44]塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であること、これを認めることは国内の研究意欲を減退させること、国内企業を圧迫すること

1955年〜高岡への拡張と原料の自社調達への移行

生産設備はその後も拡張を続け、第2期計画で月産500トンへ増設したのち、1955年4月には月産700トンへ達した。同年6月期の生産高は前期実績を25%上回る2,980トンで、総売上高は7億4,000万円と前期比23%増となり、用途別の内訳は軟質用が38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%だった。この間に資本金は1951年4月に2億円、同年11月に5億円へ増え、1955年時点では稲垣平太郎氏が会長、岸野佐吉氏が社長を務めた。生産品種の拡充にも力を入れ、懸案だったペーストレジンGEON121の国産化に成功して、富山県高岡市に新工場の建設を計画した。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [45]第二期計画として月産能力500屯への増設工事を完成し、30年4月には月産能力700屯に達した
    • [46]30年6月期の生産高は前期の実績を25%上回る2,980屯、同期の総売上高は7億4千万円(前期に比し23%増)
    • [47]うち軟質用38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%
    • [48]資本金は26年4月2億円、次いで同年11月5億円となった
    • [49]会長 稲垣平太郎、社長 岸野佐吉
    • [50]懸案であったペースト・レヂンGEON121の国産化に成功し、富山県高岡市に新工場を建設計画中

高岡工場は1956年11月に完成し、ペーストレジンの国産化を受けて蒲原に続く第二の塩化ビニル樹脂の生産拠点となった。原料の供給関係にも変化が生じ、塩化ビニル樹脂の生産が増えるにつれて日本軽金属のカーバイド生産では追いつかなくなり、アセチレンが供給不足に陥った。日本軽金属は1955年11月末で供給を打ち切ってアセチレン発生設備一式を譲渡し、日本ゼオンは1956年1月から自社でアセチレンを発生させた。設立時に全量を日本軽金属から受けていた原料のうち、アセチレンだけが操業開始から4年足らずで自給へ切り替わった。増産は続いたものの市況は生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮に入った。

  • 有価証券報告書
    • [51]1956年11月 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂生産開始
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [52]P.V.C.生産が増大するにつれて日本軽金属のカーバイド生産の制約によりアセチレンは供給不足気味となった
    • [53]この際、日本軽金属はアセチレン発生設備一式を同社に譲渡した
    • [54]30年11月末日をもって日本軽金属は生産を中止し、日本ゼオンは31年1月1日からアセチレンを自社で発生することになった
    • [55]当社は最初、アセチレン・塩素・水素・電力のすべてにわたって全量を供給していた。しかしP.V.C.生産が増大するにつれてアセチレンは供給不足気味となった
    • [56]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
参考文献[45]-[56]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
    • [45]第二期計画として月産能力500屯への増設工事を完成し、30年4月には月産能力700屯に達した
    • [46]30年6月期の生産高は前期の実績を25%上回る2,980屯、同期の総売上高は7億4千万円(前期に比し23%増)
    • [47]うち軟質用38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%
    • [48]資本金は26年4月2億円、次いで同年11月5億円となった
    • [49]会長 稲垣平太郎、社長 岸野佐吉
    • [50]懸案であったペースト・レヂンGEON121の国産化に成功し、富山県高岡市に新工場を建設計画中
  • 有価証券報告書
    • [51]1956年11月 高岡工場完成、塩化ビニル樹脂生産開始
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [52]P.V.C.生産が増大するにつれて日本軽金属のカーバイド生産の制約によりアセチレンは供給不足気味となった
    • [53]この際、日本軽金属はアセチレン発生設備一式を同社に譲渡した
    • [54]30年11月末日をもって日本軽金属は生産を中止し、日本ゼオンは31年1月1日からアセチレンを自社で発生することになった
    • [55]当社は最初、アセチレン・塩素・水素・電力のすべてにわたって全量を供給していた。しかしP.V.C.生産が増大するにつれてアセチレンは供給不足気味となった
    • [56]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた

第2章 1959年〜 合成ゴムの国産第1号と自社抽出技術による原料自給(1959〜1971)

筆者考察y.sugiura, author

日本ゼオンが合成ゴムで国産第1号を取れたのは、技術が早かったからではなく、国の設計図に乗らなかったからである。1956年に通商産業省が示した構想は、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する一社に政府が出資し、日本開発銀行が低利で融資するというもので、申請していた三社の計画はいったん白紙に戻された。古河系はそこで降りず、自己資金でやる分には干渉しないという言質を取り、日本ゴム工業会からは民間が一社あってよいとする決議を取り付けた。引き換えに背負ったのが特殊ゴムという狭い持ち場である。国策会社の日本合成ゴムが資本金25億円と国の保護を得て立ち上がった横で、日本ゼオンは保護を持たないまま、半年早く生産を始めた。

日本ゼオンが川崎工場を月産700トンで出発させたのは、需要が小さかったからではない。ブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買う構えでは、自社の生産規模を他社の設備能力の内側にしか置けなかった。GPB法とGPA法は、この天井を自前で外すための技術である。1965年の徳山工場では年産4万5,000トンのブタジエンを自ら抽出し、1967年に完成した二上プラントはナフサから塩ビモノマーを作った。合成ゴムの年産能力は1959年の8,400トンから1971年には23万トンへ届く。買う相手の能力が上限だった会社が、その上限を自分で決める会社に変わった12年だった。

合成ゴムの年産能力 川崎工場の生産開始から1971年まで(トン)

8,400 59年 川崎 115,000 68年 川崎・徳山 230,000 71年 川崎・徳山

1955年〜合成ゴム国策会社案に抗して取った単独企業化の認可

塩化ビニル樹脂の市況が生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮が続いた。その最中に日本ゼオンが進めていたのが、第二の柱となる合成ゴムの国産化である。着想は単独のものではない。1955年末、古河鉱業・古河電気工業・旭電化・富士電機・富士通信機・横浜護謨・日本軽金属・日本ゼオンの古河系8社が石油化学工業の企業化を共同で計画し、うち4社の名義でポリエチレン・合成ゴム・合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通商産業省へ提出していた。ところがポリエチレンで技術導入を予定していた米フィリップス・ペトロリアムの背信によって、この計画は根本からの変更を迫られた。残ったのが合成ゴムだった。

  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [57]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [58]古河系八社(古河鉱業、古河電工、旭電化、富士電機、富士通信機、横浜ゴム、日本軽金属、日本ゼオン)では、共同して石油化学工業の企業化を計画、三十年末、古河電工、横浜ゴム、旭電化、日本ゼオンの四社名義でポリエチレン、合成ゴム、合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通産省に提出した
    • [59]ポリエチレンについて、技術導入を予定していた米フィリップス・ベトロリアム社の背信行為によって、この計画は根本から変更を余儀なくされることになった

1956年5月、横浜護謨と共同で合成ゴムの企業化計画書を作り直して通商産業省へ提出した。第一期で「GR-S」とそのラテックスを計6,600トン年産し、第二期でこれを1万5,000トンへ増やす、原料のブタジエンは日本石油化学から受ける、所要資金は10億円という内容だった。三菱油化と山陽化学も企業化計画を出しており、三社競願となった。同年10月、通商産業省は三社の計画をいずれも白紙に戻し、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する新会社に政府も出資し、日本開発銀行の低利融資で助成するという構想を示した。合成ゴム国策会社案である。古河系はこれに強い不満を示し、単独で当初の計画どおり踏み切ることを確認して、1957年3月にグッドリッチ・ケミカルと技術援助契約を結んだ。導入するのは同社の合成ゴム製造技術だった。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [60]三十一年五月、横浜ゴム、日本ゼオン共同の線で合成ゴムの企業化計画書を作成、通産省に提出した
    • [61]第一期計画として「GR-S」三三〇〇トン、同ラテックス三三〇〇トン、計六六〇〇トン(いずれも年間)をつくり、第二期計画ではこれを一万五〇〇〇トンにふやし、原料ブタジエンは日本石油化学より供給を受け、第一期計画の所要資金は一〇億円とする
    • [62]当時、三菱油化および山陽化学の両社も、それぞれ合成ゴムの企業化計画を通産省に提出していた。三社競願の形になった
    • [63]通産省は、三十一年十月、「三社の計画をいずれも白紙にかえし、石油化学、化学工業およびゴム工業の三つの業界が協力して、合成ゴムを生産する新会社を設立する方向に指導していきたい、新会社には政府も一部出資し、また、開発銀行より低利の融資も行ない、助成する」と表明した
    • [64]日本ゼオンなど古河系では、この構想に強い不満をもち、あくまで単独で当初の計画どおり踏みきることを確認、三十二年三月、GC社と合成ゴムに関する技術援助契約を締結した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [65]これはグッドリッチ・ケミカル社の合成ゴム製造技術を導入したもの

日本ゼオンは、日本ゴム工業会に民間の会社も一社は要るとする決議を出させ、通商産業省の諒解を得ようと力を注いだ。その見返りに担ったのが、特殊ゴムを造る会社という役割である。一方の国策会社案は、日本開発銀行の出資に大蔵省が難色を示し国会の審議も滞ったものの、1957年5月に付帯決議を付けて成立し、翌6月に合成ゴム製造事業特別措置法として公布された。同年11月には、資本金25億円の国策会社日本合成ゴムが発足した。通商産業省は、開発資金を一切支援しない代わりに自前の資金で進めるなら口を出さないという姿勢へ転じ、両者の計画を並べて認めた。合成ゴムの需要が伸び続けるなか、日本ゼオンは国産第1号として同分野へ参入した。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [66]ゴム工業会でも、民間会社が一社くらいあったほうがベターである、というふうな決議を取りつけたり、通産省にも諒解をうるために力をつくしました
    • [67]そのかわり、うちは特殊ゴムの生産会社ということになった
    • [68]通産省の国策会社案は、当初大蔵省が開銀出資をめぐって難色を示し、また、国会審議でも難航した。しかし、三十二年五月、付帯決議づきで国会を通過し、翌六月、「合成ゴム製造事業特別措置法」として公布、施行された
    • [69]同年十一月、国策会社として「日本合成ゴム」(社長石橋正二郎、当初資本金二五億円)が誕生した
    • [70]通産省は「開発資金などの面倒はいっさいみない、古河系が自己資金でやる分には干渉しない」と態度を変え、結局、国策会社と古河系の計画を並行的に認めることにした
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [71]昭和34年に、当時次第に増え続けていた合成ゴム需要の動向を背景に、当社は国産第1号として合成ゴム分野に進出した
参考文献[57]-[71]
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
    • [57]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [58]古河系八社(古河鉱業、古河電工、旭電化、富士電機、富士通信機、横浜ゴム、日本軽金属、日本ゼオン)では、共同して石油化学工業の企業化を計画、三十年末、古河電工、横浜ゴム、旭電化、日本ゼオンの四社名義でポリエチレン、合成ゴム、合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通産省に提出した
    • [59]ポリエチレンについて、技術導入を予定していた米フィリップス・ベトロリアム社の背信行為によって、この計画は根本から変更を余儀なくされることになった
    • [60]三十一年五月、横浜ゴム、日本ゼオン共同の線で合成ゴムの企業化計画書を作成、通産省に提出した
    • [61]第一期計画として「GR-S」三三〇〇トン、同ラテックス三三〇〇トン、計六六〇〇トン(いずれも年間)をつくり、第二期計画ではこれを一万五〇〇〇トンにふやし、原料ブタジエンは日本石油化学より供給を受け、第一期計画の所要資金は一〇億円とする
    • [62]当時、三菱油化および山陽化学の両社も、それぞれ合成ゴムの企業化計画を通産省に提出していた。三社競願の形になった
    • [63]通産省は、三十一年十月、「三社の計画をいずれも白紙にかえし、石油化学、化学工業およびゴム工業の三つの業界が協力して、合成ゴムを生産する新会社を設立する方向に指導していきたい、新会社には政府も一部出資し、また、開発銀行より低利の融資も行ない、助成する」と表明した
    • [64]日本ゼオンなど古河系では、この構想に強い不満をもち、あくまで単独で当初の計画どおり踏みきることを確認、三十二年三月、GC社と合成ゴムに関する技術援助契約を締結した
    • [66]ゴム工業会でも、民間会社が一社くらいあったほうがベターである、というふうな決議を取りつけたり、通産省にも諒解をうるために力をつくしました
    • [67]そのかわり、うちは特殊ゴムの生産会社ということになった
    • [68]通産省の国策会社案は、当初大蔵省が開銀出資をめぐって難色を示し、また、国会審議でも難航した。しかし、三十二年五月、付帯決議づきで国会を通過し、翌六月、「合成ゴム製造事業特別措置法」として公布、施行された
    • [69]同年十一月、国策会社として「日本合成ゴム」(社長石橋正二郎、当初資本金二五億円)が誕生した
    • [70]通産省は「開発資金などの面倒はいっさいみない、古河系が自己資金でやる分には干渉しない」と態度を変え、結局、国策会社と古河系の計画を並行的に認めることにした
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [65]これはグッドリッチ・ケミカル社の合成ゴム製造技術を導入したもの
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [71]昭和34年に、当時次第に増え続けていた合成ゴム需要の動向を背景に、当社は国産第1号として合成ゴム分野に進出した

1959年〜外部調達の原料能力に縛られた川崎工場の月産700トン

川崎工場の用地は1957年4月、東日本の石油化学の集積地である川崎地区で、旭化成と旭ダウの工場に隣接する埋立地1万9,000坪を入手して確保した。同年10月には本社内に岸野佐吉社長を委員長とする川崎工場臨時建設委員会を置き、1958年7月の地鎮祭を経て建屋の建設に入った。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担し、グッドリッチ・ケミカルからは工場建設と運転指導の技師が来日した。建屋は同年12月にほぼ完成し、1959年1月から屋内機器の据付と配管工事にかかる。第一期の建設を終えたのが同年5月、生産を始めたのが7月で、合成ゴムの企業化はこの工場の建設から始まった。日本合成ゴムの生産開始より半年以上早い国産第1号だった。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [72]川崎工場は、三十二年四月、東日本の一大石油化学センター・川崎地区の旭化成および旭ダウ工場に隣接する埋立用地(当初一万九〇〇〇坪)を入手した
    • [73]同年十月、本社内に「川崎工場臨時建設委員会」(委員長岸野社長)を設置し、本格的建設に着手した
    • [74]三十三年七月地鎮祭を挙行、ついで建屋建設にはいった。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担した。この間にはGC社からA・メルビー、J・T・ノーマンなどが工場建設および運転指導技師として来日した
    • [75]建屋建設は十二月にほぼ完成、翌三十四年一月から屋内機器の据付けと配管工事にかかった
    • [76]川崎工場は、昭和三十四年五月、第一期建設計画を終え、認可をもらって、川崎工場で合成ゴムの生産をはじめたのが三十四年の七月であった
    • [78]日本合成ゴムの生産開始より半年以上早かったから、国産第一号です
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [77]営業の第二の柱である合成ゴムの企業化に進出したのは三四年の川崎工場の建設にはじまる

第一次計画の年産能力は8,400トンで、「GR-S」ドライ1,800トン、同ラテックス3,000トン、「ハイカー」3,000トン、「ハイカー2007」6,000トンという内訳だった。第二次計画で1万5,000トン、将来は3万トンとする青写真がありながら、当初を月産700トンに抑えたのは原料の供給先の能力に合わせたためである。川崎工場はブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買い入れて、汎用ゴムのSBRのほか特殊ゴムのハイスチレンゴムとNBRを生産した。石油化学コンビナートの一員として主原料をパイプラインで受ける立地は、調達の手間を省く一方で、自社の生産規模を他社の設備能力の内側に置くことを意味した。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [79]年産能力を第一次計画で八四〇〇トン(「GR-S」ドライ一八〇〇トン、同ラテックス三〇〇〇トン、「ハイカー」三〇〇〇トン、「ハイカー二〇〇七」六〇〇〇トン)とすることに決まっていた
    • [80]第二次計画で一万五〇〇〇トン、将来三万トンとすることに決まっていた。当初八四〇〇トン(月産七〇〇トン)と小さくしたのは、原料供給先の能力に合わせたものである
    • [82]川崎地区石油化学コンビナートの一員として、同コンビナート内から主原料のブタジエン、スチレン、アクリロニトリルをパイプラインで供給を受けている
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [81]日本石油化学、東燃石油化学からブタジエン、旭ダウからスチレン、旭化成からアクリルニトリルを買い入れ汎用ゴムSBRをはじめ、特殊ゴムHS、NBRを生産した

川崎工場の建設と同時に、その工場内へ中央研究所を新設した。日本ゼオンは創立とほぼ同時に古河電気工業の大井研究所へ人を出向させて場所を借り、研究をさせていたが、1959年7月、川崎に小規模な研究所を作って出向者を呼び戻した。当初の人員は30人ほどで、これが後の研究所の母体となる。塩化ビニルの物性や加工応用の研究開発、需要家への技術サービスがその仕事だった。米国の資本が当初35%入り、外国人技師が一切を指導したことから外国系会社という印象が長く残った。しかし15年の技術契約のうちグッドリッチの技術に頼ったのは最初の6年から7年の間だけだったと、古我周二社長は後年振り返っている。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [83]このときには、同工場内に中央研究所を新設するとともに
    • [84]会社創立とほぼ同時に、古河電工の大井研究所にゼオンの人間を出向させて、場所を借りて研究をやらせた。川崎工場ができたときに、小規模ながら研究所をつくって、そこへ出ていた人を呼びかえした。三十四年七月のことである
    • [85]はじめは三〇人くらいでした。それが、現在の研究所の母体となったわけです
    • [87]アメリカの資本が当初は三五%はいっていましたし、また、外人がきてすべてを指導したというような関係で、外国系会社というイメージが長かった
    • [88]塩ビにしても、一五年の技術契約の間で、グッドリッチの技術におんぶしたのは最初の六~七年の間だけ
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [86]三四年七月一日に中央研究所を建設し、塩ビの物性、加工応用の研究開発など需要者への技術サービスを行なってきた
参考文献[72]-[88]
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [72]川崎工場は、三十二年四月、東日本の一大石油化学センター・川崎地区の旭化成および旭ダウ工場に隣接する埋立用地(当初一万九〇〇〇坪)を入手した
    • [73]同年十月、本社内に「川崎工場臨時建設委員会」(委員長岸野社長)を設置し、本格的建設に着手した
    • [74]三十三年七月地鎮祭を挙行、ついで建屋建設にはいった。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担した。この間にはGC社からA・メルビー、J・T・ノーマンなどが工場建設および運転指導技師として来日した
    • [75]建屋建設は十二月にほぼ完成、翌三十四年一月から屋内機器の据付けと配管工事にかかった
    • [76]川崎工場は、昭和三十四年五月、第一期建設計画を終え、認可をもらって、川崎工場で合成ゴムの生産をはじめたのが三十四年の七月であった
    • [78]日本合成ゴムの生産開始より半年以上早かったから、国産第一号です
    • [79]年産能力を第一次計画で八四〇〇トン(「GR-S」ドライ一八〇〇トン、同ラテックス三〇〇〇トン、「ハイカー」三〇〇〇トン、「ハイカー二〇〇七」六〇〇〇トン)とすることに決まっていた
    • [80]第二次計画で一万五〇〇〇トン、将来三万トンとすることに決まっていた。当初八四〇〇トン(月産七〇〇トン)と小さくしたのは、原料供給先の能力に合わせたものである
    • [82]川崎地区石油化学コンビナートの一員として、同コンビナート内から主原料のブタジエン、スチレン、アクリロニトリルをパイプラインで供給を受けている
    • [83]このときには、同工場内に中央研究所を新設するとともに
    • [84]会社創立とほぼ同時に、古河電工の大井研究所にゼオンの人間を出向させて、場所を借りて研究をやらせた。川崎工場ができたときに、小規模ながら研究所をつくって、そこへ出ていた人を呼びかえした。三十四年七月のことである
    • [85]はじめは三〇人くらいでした。それが、現在の研究所の母体となったわけです
    • [87]アメリカの資本が当初は三五%はいっていましたし、また、外人がきてすべてを指導したというような関係で、外国系会社というイメージが長かった
    • [88]塩ビにしても、一五年の技術契約の間で、グッドリッチの技術におんぶしたのは最初の六~七年の間だけ
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [77]営業の第二の柱である合成ゴムの企業化に進出したのは三四年の川崎工場の建設にはじまる
    • [81]日本石油化学、東燃石油化学からブタジエン、旭ダウからスチレン、旭化成からアクリルニトリルを買い入れ汎用ゴムSBRをはじめ、特殊ゴムHS、NBRを生産した
    • [86]三四年七月一日に中央研究所を建設し、塩ビの物性、加工応用の研究開発など需要者への技術サービスを行なってきた

1965年〜ナフサ由来の自社抽出技術による原料調達の内製化

川崎工場は敷地が3万坪足らずで、年産3万トンの設備を入れると一杯になった。特殊ゴムに加えて汎用ゴムへ手を広げるには別の土地が要る。横浜の根岸埋立地、川崎の浮島、木更津と候補地を探した末、大蔵省の斡旋もあって1964年に徳山で着工し、1965年11月、汎用合成ゴムの量産専門工場として徳山工場を新設した。この工場の最大の特色は、自社開発の抽出技術で主原料のブタジエンを自給したことである。ナフサ分解で得られるBB留分を原料に、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するGPB法がそれで、徳山工場の建設と同時に年産4万5,000トンの自己抽出設備を備えた。海外で開発された方法より経費が安く純度も高いこの技術は、生産技術の最高の賞である大河内記念生産特賞を受けた。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [89]川崎は土地が三万坪たらずで年産三万トンの設備をすればいっぱいになってしまう
    • [90]新工場の候補地を求めて、当時、横浜の根岸の埋立地とか、川崎の浮島とか、木更津とかあちこち探し回った。けっきょく土地がないということで、大蔵省のあっせんもあり、現在の徳山工場を三十九年にはじめることになった
    • [91]四十年十一月、第二の合成ゴム工場として徳山工場を新設した。最初から汎用合成ゴムの量産工場として建設された
    • [92]当工場の最大の特色は、自社開発による独自のブタジエン抽出技術を開花させ、主原料ブタジエンを自給していることである
    • [93]GPB法は、ナフサ分解によってえられるBB溜分を原料として、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するという方法である
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [94]川崎工場ではブタジエンを他から供給を受けていたが、この開発で徳山工場では年産四万五〇〇〇トンの自己抽出を行なっている
    • [95]GPB法は生産、技術に関する最高の賞"大河内記念生産特賞"を受けたもので、海外で開発された方法にくらべても経費が安く、ブタジエンの純度も高い

塩化ビニルの側でも炭化水素源を石油化学へ移した。GPA法は、ナフサを分解してエチレンとアセチレンを取り、エチレンは塩素と反応させて二塩化エチレンに、アセチレンは二塩化エチレンの熱分解で得た塩化水素と反応させて塩ビモノマーにする方法で、従来の合成設備と二塩化エチレン設備をそのまま使える点に特色があった。1960年8月に高岡工場内へパイロットプラントを建て、工業化試験を重ねたうえで第四次増設を機に原料部門を全面的に切り替えることとし、1967年11月、小矢部川対岸の二上地区に建設費43億円のGPAプラントを完成させた。同年3月には蒲原工場の塩ビ設備を高岡へ集約して蒲原を閉鎖し、高岡は塩ビモノマー年産13万トンの工場となった。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [96]GPA法というのは、ナフサを分解してエチレンとアセチレンをとり、エチレンは塩素と反応させてEDCとし、アセチレンは塩化水素(EDCの熱分解によってえられる)と反応させて塩ビモノマーをつくるという方法である。従来の合成設備およびEDC設備は、そのまま利用しうるところに大きな特色がある
    • [97]三十五年八月には高岡工場内にバイロットプラントを建設、さらに慎重な工業化試験を積み重ねてきた
    • [98]第四次増設に着手するに際し、まず、塩化ビニールモノマーの原料転換をはかることとし、GPAプラントを四十二年十一月に完成した。このGPAプラント(建設費四三億円)は、小矢部川対岸の二上地区に建設された
    • [100]高岡工場は、ナフサ分解によって塩ビを製造する最新鋭工場として、塩ビモノマー年産能力一三万トンを誇る世界屈指の塩ビ工場となった
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [99]四二年には塩ビの体質強化もはかって、蒲原工場を閉鎖し、高岡工場での一工場集中量産体制を整えた

二上プラントは定期修理明けで運転を戻したばかりだったが、コンプレッサー室からガスが漏れて爆発が起き、従業員3名が殉職、数名が負傷し、生産設備も傷んだ。1968年9月のこの事故は、原料を一系統に集約したことの代償だった。水島工場はまだ稼働前で、高岡工場が全面的に止まったことは、そのまま日本ゼオンの塩化ビニル樹脂生産がすべて途絶えることを意味した。供給責任を果たすため、被害のなかったカーバイド法の荻布プラントを富山県知事の許可のもと10月11日に稼働させた。ただ、割高なカーバイドを原料とするうえモノマーの能力が足りず重合部門の操業率が下がり、原価はかさんだ。塩化ビニルの第二工場は高岡に拡充の余地がないことから瀬戸内海の水島地区で計画されており、1969年に完成する。

  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [101]八月中旬から約一カ月間の定期修理を終えて、運転を再開した直後、コンプレッサー室でのガス洩れによる爆発事故が起こった。従業員三名が殉職したほか、数名が負傷し、生産設備にもかなりの損傷をうけた
    • [102]高岡工場は、この事故発生と同時に、一時その操業を全面的に停止した。このときにはまだ水島工場は動いていない。高岡工場の操業停止は日本ゼオンとしては、塩化ビニール樹脂生産の全面停止である
    • [103]従来のカーバイド法による塩化ビニール樹脂の製造工場である荻布プラントは、まったくの無傷である。富山県知事の許可をえて、十月十一日、その操業を再開した。このプラントでは、割高なカーバイドを使ううえ、モノマーの能力不足から重合部門の低操業率を招き、塩化ビニール樹脂のコスト高は免れない
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [104]塩ビは高岡工場がすでに拡充の余地がないことから、第二工場の建設が計画されている。瀬戸内海水島地区に、四四年操業の予定で建設されることになった
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [105]蒲原工場が土地、原料確保の問題から生産の拡大をはかることが困難となったため、同工場を閉鎖して、昭和44年に、岡山県の水島に塩ビの第二工場として水島工場を建設した

自社技術の確立は資本の構成にも及んだ。創立当初35%を占めていたグッドリッチの出資比率は漸次下がり、1970年に20%、1971年の時点では完全な日本資本の会社となっていた。塩化ビニルの技術契約は1966年に終了して以降は独自の展開に移り、合成ゴムの汎用ゴムについての契約も1972年に満期を迎える予定だった。一方でGPB法は外へ出ていった。国内では千葉ブタジエン・東燃石油化学・岡山ブタジエンへ供与し、海外ではソビエト連邦・オランダ・アメリカの有力化学会社5社と技術契約を結んだ。イソプレンモノマーの抽出技術であるGPI法も1968年12月に国産第1号として企業化の認可を得て、水島で工場の建設が進んでいた。導入する側から供与する側へ回った12年だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [106]創立当初、グッドリッチの資本は35%を占めていたが、漸次減少して昨年で20%、現在では完全な日本資本の会社となっている
    • [107]塩化ビニールについては1966年に技術契約が終了して、その後は当社独自の展開をはかっている。合成ゴムについても汎用ゴムとしての契約が72年に満期となる
    • [108]GPB法の技術については、国内では千葉ブタジエン、東燃石油化学、岡山ブタジエンに供与している。海外ではソ連、オランダ、アメリカ等の有力化学会社5社と技術契約をした
    • [110]モノマー関係の工場は今年9月末に完成させ、ポリマー部門も10月末完成の計画のもとに、現在水島でその建設を進めている
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [109]日本ゼオンでは、わが国での一番乗りとして、すでに四十三年十二月、政府からこの企業化の認可を受けた
参考文献[89]-[110]
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
    • [89]川崎は土地が三万坪たらずで年産三万トンの設備をすればいっぱいになってしまう
    • [90]新工場の候補地を求めて、当時、横浜の根岸の埋立地とか、川崎の浮島とか、木更津とかあちこち探し回った。けっきょく土地がないということで、大蔵省のあっせんもあり、現在の徳山工場を三十九年にはじめることになった
    • [91]四十年十一月、第二の合成ゴム工場として徳山工場を新設した。最初から汎用合成ゴムの量産工場として建設された
    • [92]当工場の最大の特色は、自社開発による独自のブタジエン抽出技術を開花させ、主原料ブタジエンを自給していることである
    • [93]GPB法は、ナフサ分解によってえられるBB溜分を原料として、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するという方法である
    • [96]GPA法というのは、ナフサを分解してエチレンとアセチレンをとり、エチレンは塩素と反応させてEDCとし、アセチレンは塩化水素(EDCの熱分解によってえられる)と反応させて塩ビモノマーをつくるという方法である。従来の合成設備およびEDC設備は、そのまま利用しうるところに大きな特色がある
    • [97]三十五年八月には高岡工場内にバイロットプラントを建設、さらに慎重な工業化試験を積み重ねてきた
    • [98]第四次増設に着手するに際し、まず、塩化ビニールモノマーの原料転換をはかることとし、GPAプラントを四十二年十一月に完成した。このGPAプラント(建設費四三億円)は、小矢部川対岸の二上地区に建設された
    • [100]高岡工場は、ナフサ分解によって塩ビを製造する最新鋭工場として、塩ビモノマー年産能力一三万トンを誇る世界屈指の塩ビ工場となった
    • [101]八月中旬から約一カ月間の定期修理を終えて、運転を再開した直後、コンプレッサー室でのガス洩れによる爆発事故が起こった。従業員三名が殉職したほか、数名が負傷し、生産設備にもかなりの損傷をうけた
    • [102]高岡工場は、この事故発生と同時に、一時その操業を全面的に停止した。このときにはまだ水島工場は動いていない。高岡工場の操業停止は日本ゼオンとしては、塩化ビニール樹脂生産の全面停止である
    • [103]従来のカーバイド法による塩化ビニール樹脂の製造工場である荻布プラントは、まったくの無傷である。富山県知事の許可をえて、十月十一日、その操業を再開した。このプラントでは、割高なカーバイドを使ううえ、モノマーの能力不足から重合部門の低操業率を招き、塩化ビニール樹脂のコスト高は免れない
    • [109]日本ゼオンでは、わが国での一番乗りとして、すでに四十三年十二月、政府からこの企業化の認可を受けた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
    • [94]川崎工場ではブタジエンを他から供給を受けていたが、この開発で徳山工場では年産四万五〇〇〇トンの自己抽出を行なっている
    • [95]GPB法は生産、技術に関する最高の賞"大河内記念生産特賞"を受けたもので、海外で開発された方法にくらべても経費が安く、ブタジエンの純度も高い
    • [99]四二年には塩ビの体質強化もはかって、蒲原工場を閉鎖し、高岡工場での一工場集中量産体制を整えた
    • [104]塩ビは高岡工場がすでに拡充の余地がないことから、第二工場の建設が計画されている。瀬戸内海水島地区に、四四年操業の予定で建設されることになった
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月
    • [105]蒲原工場が土地、原料確保の問題から生産の拡大をはかることが困難となったため、同工場を閉鎖して、昭和44年に、岡山県の水島に塩ビの第二工場として水島工場を建設した
    • [106]創立当初、グッドリッチの資本は35%を占めていたが、漸次減少して昨年で20%、現在では完全な日本資本の会社となっている
    • [107]塩化ビニールについては1966年に技術契約が終了して、その後は当社独自の展開をはかっている。合成ゴムについても汎用ゴムとしての契約が72年に満期となる
    • [108]GPB法の技術については、国内では千葉ブタジエン、東燃石油化学、岡山ブタジエンに供与している。海外ではソ連、オランダ、アメリカ等の有力化学会社5社と技術契約をした
    • [110]モノマー関係の工場は今年9月末に完成させ、ポリマー部門も10月末完成の計画のもとに、現在水島でその建設を進めている

第3章 1972-1999 (気が向いたら執筆します!) 特殊ゴムでの世界展開と塩ビ事業からの後退(1972〜1999)

第4章 2000-2026 (気が向いたら執筆します!) 創業事業の塩ビ撤退と高機能材料への組み替え(2000〜2026)

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歴史年表 1950〜2024年

日本ゼオンの沿革1950〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1950〜1958年日本軽金属の遊休設備から興した塩化ビニル専業会社(1950〜1958)技術を持つ相手と組んで興した新会社による塩化ビニル樹脂の国産化

1950年4月、日本軽金属・古河電気工業・横浜護謨の古河系3社が、米B.F.グッドリッチ・ケミカルから塩化ビニル樹脂の全技術を導入する前提で、資本金500万円の日本ゼオンを設立した経営判断。グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。

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★★★
蒲原工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始★
高岡工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始★
1959〜1971年合成ゴムの国産第1号と自社抽出技術による原料自給(1959〜1971)川崎工場完成、合成ゴムの生産開始と中央研究所開設★★★
東京証券取引所に上場★
徳山工場完成、自社技術GPB法によるブタジエンの生産開始★★
塩化ビニル樹脂の生産合理化のため蒲原工場を閉鎖★
水島工場完成、塩化ビニル樹脂の生産開始★
水島工場に自社技術GPI法のイソプレン抽出プラント完成★★
1972〜1999年特殊ゴムでの世界展開と塩ビ事業からの後退(1972〜1999)加工品事業部門をゼオン化成として分離・独立★
高岡工場で水素化ニトリルゴムの生産開始★★
米国にZeon Chemicals Texasを設立し現地生産開始★
英国BP Chemicalsのニトリルゴム部門を買収★★
米社の同事業取得と併せた日米欧3極生産体制の構築

1989年、日本ゼオンが英BPケミカルズのニトリルゴム部門と米B.F.グッドリッチの特殊ゴム事業を総額200億円で相次いで買収し、耐油性特殊ゴムで日米欧3極の生産体制を構築した経営判断。

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★★★
水島工場でシクロオレフィンポリマーの生産開始★★★
中野克彦塩ビ事業を切離し新第一塩ビへ移管★★
中野克彦米沢市に精密化学品の米沢工場を設立★
2000〜2026年創業事業の塩ビ撤退と高機能材料への組み替え(2000〜2026)中野克彦水島工場での塩化ビニル生産の打ち切りによる祖業からの撤退

1995年7月、日本ゼオンが塩化ビニル樹脂事業を切り離し、住友化学・トクヤマとの事業統合会社である新第一塩ビへ移管した。さらに2000年3月には水島工場での塩ビ生産を打ち切り、1950年の設立目的そのものであった祖業から撤退した。中野克彦社長の在任期にあたる。

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★★★
中野克彦光学フィルム工場としてオプテス高岡製造所が完成★★
古河直純会社分割でDCPD-RIM事業部門をRIMTECへ譲渡★
古河直純本社を千代田区丸の内の現在地に移転★
古河直純富山県氷見市にオプテス氷見製造所が完成★
古河直純シンガポールにZeon Chemicals Singaporeを設立★
古河直純ベトナムにZeon Manufacturing Vietnamを設立★
古河直純トウペを公開買付けにより子会社化★
古河直純福井県敦賀市にオプテス敦賀製造所が完成★
田中公章徳山工場にカーボンナノチューブ製造プラントが竣工★★
田中公章住友化学とのS-SBR統合会社ZSエラストマーが営業開始★★
田中公章英国のZeon Chemicals Europeを清算★
田中公章敦賀工場に大型テレビ用光学フィルムのラインが竣工★
田中公章米国のAurora Microplatesを買収★
田中公章東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場へ移行★
田中公章米国のEdge Embossingを買収★
豊嶋哲也高岡工場にCOPのリサイクルプラントが竣工★
豊嶋哲也住友化学とのS-SBR合弁を解消しZSエラストマーを吸収合併★★
出典・参考 7件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本ゼオン」
  • 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
  • 日本産業史(日経文庫)第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-"不死鳥"よみがえる」
  • 証券アナリストジャーナル 1971年2月

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