創業1957年、合成ゴムの国産化を国策として担うため、合成ゴム製造事業特別措置法に基づき政府と民間の共同出資で日本合成ゴムが設立された。天然ゴムの輸入依存を断ち、外貨と資源の安定を確保する国家的要請が出発点にある。四日市の石油化学コンビナートを軸に合成ゴムと合成樹脂を量産する素材メーカーとして育ち、1969年に純民間会社へ移行、翌1970年に上場した。特定の創業者ではなく国策の使命から生まれた点に原点の特殊性があり、合成ゴムで培った高分子の合成・精製技術が、後にフォトレジストなど半導体材料への転換を支える資産となった。
- 歴史詳細 4章・4,113字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 41件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 2006〜2024年(19カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- セグメント情報 2015〜2023年(9カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長 4名
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2022年(5カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 2016〜2023年(8カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2012〜2023年(12カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く
1957年〜1969年 合成ゴムの国産化を担う国策会社としての出発と民営化
特別措置法が生んだ官民出資の合成ゴムメーカー
日本合成ゴム株式会社は、合成ゴムの国産化を目的とした合成ゴム製造事業特別措置法に基づき、1957年12月10日に政府および民間会社の出資によって設立された[1]。当時のタイヤや工業用ゴム製品は天然ゴムの輸入に依存しており、外貨負担の軽減と資源の安定確保が国家的な課題とされていた。本社は東京都港区麻布飯倉片町に置かれ、翌1958年には東京都中央区京橋へ移転している[2]。合成ゴムという当時の日本にとって未確立の素材産業を、官民の共同出資という枠組みで立ち上げた点に、この会社の出発点の特殊性がある。
設立から間もなく、会社は生産拠点の整備を急いだ。1960年4月に四日市工場が稼動を開始して合成ゴムの生産に入り、翌1961年には合成ゴムラテックスの生産を始めている[3]。1964年10月には合成樹脂の生産にも踏み出し、ゴムから樹脂へと素材の幅を広げた[4]。日合商事や日本ラテックス加工、日合ゴム加工といった関連会社を相次いで設立し、原料調達から加工・販売までを担うグループの原型を整えていった。四日市を母体とする石油化学のコンビナートを軸に、合成ゴムメーカーとしての基盤がこの時期に固まった。
国策会社から純民間会社へ移行した転機
国策会社としての性格は、設立から十年あまりで転機を迎えた。1969年4月、日本合成ゴムに関する臨時措置法を廃止する法律が第61国会で成立・施行され、会社は政府出資を離れた純民間会社となった[5]。合成ゴムの国産化という当初の政策目的が一定の達成をみたことが、この移行の背景にあった。官の後ろ盾を外れた会社は、以後は一民間企業として、需要変動や価格競争、原料市況の波を自らの競争力で受け止めながら事業を伸ばす立場に立つことになる。設立から40年余りをかけて収益構造を大きく組み替えていく長い変容は、この民営化を出発点としている[6]。
純民間会社となったことは、単なる資本構成の変化にとどまらなかった。合成ゴムの国産化という国家的な使命のもとで守られてきた会社は、以後は需要変動や価格競争、原料市況の波をすべて自らの経営判断で受け止めなければならない立場に立った。四日市を中心とする石油化学の生産基盤と、合成ゴム・ラテックス・合成樹脂へと広げてきた製品群は、この時点で相応の厚みを備えていた。だが高度成長という追い風のもとで築かれたその事業構造が、次の時代の環境変化にどこまで耐えられるかは、まだ誰にも見えていなかった。
1970年〜1988年 上場後の石油危機と円高が突きつけたコモディティの限界
二部上場から市場第一部への駆け上がり
民営化の翌年にあたる1970年10月、会社は株式を東京・大阪両証券取引所の市場第二部に上場した[7]。翌1971年1月には鹿島工場が稼動を開始し、同年8月には市場第一部への指定替上場を果たしている[8]。設立から十数年で二部上場、そのわずか一年足らずで一部へと駆け上がった歩みは、高度成長期の合成ゴム需要の強さと、それに応えた四日市・千葉・鹿島という生産拠点の拡張力を反映していた。この時期の会社は、自動車産業の拡大に支えられたタイヤ・工業用ゴム向けの合成ゴムを収益の柱とする、典型的な素材メーカーだった。
上場後の会社は、高度成長期の旺盛な需要を背に、合成ゴムを主力とする素材メーカーとして規模を拡げていった。1968年に稼動した千葉工場、1971年の鹿島工場と生産拠点を相次いで立ち上げ、1975年12月には本社を東京都中央区築地へ移している[9]。タイヤや工業用ゴム、合成樹脂といった製品は、自動車をはじめとする国内製造業の成長とともに需要を伸ばした。もっとも、こうした汎用素材は景気や原料市況、為替の変動に業績が左右されやすく、規模の拡大が必ずしも安定した収益に直結するわけではない。拡大の裏側には、コモディティ素材ならではの構造的な弱さも潜んでいた。
二度の石油危機と円高が迫った脱コモディティ
素材メーカーとしての安定は、1970年代後半から揺らぎ始めた。1978年から82年にかけての第2次石油危機はゴム原料価格を押し上げ、1982年3月期の営業利益は前期に比べて大きく落ち込んだ[10]。さらに1985年のプラザ合意による円高は、輸出依存だった自動車産業を直撃し、その打撃はタイヤ向け合成ゴムの販売不振として会社に跳ね返った[11]。汎用の合成ゴムは価格競争に晒されやすく、需要も景気に連動して振れる。原料高と円高の二重苦のなかで、本業一辺倒からの脱却は避けて通れない経営課題として明確になった。
転換の芽は、危機に先立って蒔かれていた。1979年4月、会社はフォトレジストの販売を開始し、半導体材料の分野に足を踏み入れている[12]。フォトレジストは半導体のシリコンウエハー上に微細な回路を焼き付ける工程で使う感光性の薬品であり、合成ゴムで培った高分子の合成・精製の技術を応用できる領域だった。続く1988年3月には液晶ディスプレイ材料の販売も始め、電子・光関連の素材へと事業の裾野を広げていく[13]。石油危機と円高が突きつけた汎用素材の限界が、この電子材料への傾斜を静かに後押ししていた。
1989年〜2000年 電子材料への集中投資と海外進出、そしてJSRへの改称
「系列の壁」を海外進出のバネに変える
フォトレジスト事業は、発売当初から国内の系列取引の壁に阻まれた。ある旧財閥系の大手電機メーカーへの納入が決まりかけた際、同じ系列に属する化学会社の役員が割って入り、商談は流れたという[14]。日本合成ゴムはこの経験を逆手にとり、活路を海外に求めた。1990年2月には欧州での現地生産のためベルギーの化学会社UCBの子会社株を取得し、同年7月には米国市場を開拓するためJSRマイクロエレクトロニクスを設立した[15]。半導体市場の規模で欧州を上回る米国で事業を伸ばさない限り海外戦略は実らない、との判断からだった。
海外での実績づくりの手法も際立っていた。米国進出にあたり担当者がまず行ったのは、半導体メーカーに対しフォトレジストの性能を証明するための実験への協力を申し出ることだった。顧客が使う生産ラインと同じクリーンルームを設け、半導体の性能を検査して結果を報告して回ったという。研究開発部門がフォトレジスト関連の基礎研究を海外の学会で発表していたことも、専門家の間での知名度につながった。こうした地道な顧客密着を通じて、1997年3月期にはフォトレジストの世界シェアで約2割を握り、首位の東京応化工業を追う世界2位の座に立った[16]。
本業リストラで捻出した電子材料の投資原資
電子材料への傾斜は、潤沢な資金があってのことではなかった。80年代の終わりごろから会社は年間の研究開発費を100億円台に増やし、その半分以上を電子材料分野に充てた。売上高に対する研究開発費の比率は、合成ゴム事業では3%程度だったのに対し、光・電子材料部門では20%に達したという[17]。その原資は本業のリストラで捻り出された。1994年3月期からの3年間で、合成ゴム部門は中核商品のスチレン・ブタジエンゴムの品目数を4割ほどあった水準から半分近くに絞り込み、物流費も圧縮して、毎年100億円を超えるキャッシュフローを電子材料への投資に振り向けた[18]。
この多角化を陣頭で指揮したのが、社長・会長を通算10年務めた朝倉竜夫氏だった。朝倉氏は「多角化の成功のポイントは海外に出たことだった」と振り返り、「利益をあげるにはその分野で1位か2位になるしかない」と語っている[19]。フォトレジスト・液晶材料・光ファイバー保護樹脂の多角化3部門は1990年代に入って単年度黒字に転じ、電子材料への転換に手応えが見えてきた。こうした変化を象徴するように、会社は1997年12月、社名を日本合成ゴム株式会社からJSR株式会社へと改めた[20]。合成ゴムの社名を外し、電子材料メーカーとしての新たな企業像を打ち出す節目だった。
2001年〜2024年 半導体材料の世界的リーダーへ、ライフサイエンス参入とJICによる非公開化
半導体材料の中核化とライフサイエンスへの多角化
2000年代以降のJSRは、半導体材料を収益の中核に据える会社へと姿を変えていった。フォトレジストや液晶・有機ELの表示材料を軸に、韓国・台湾など東アジアの生産拠点を整え、微細化が進む半導体産業の要請に応え続けた。2021年10月には、次世代のEUVリソグラフィ向けメタルレジストを手がける米Inpria Corporationを完全子会社化し、最先端の露光材料での地歩を固めている[21]。連結売上高は2019年3月期に約4954億円と一つの頂に達し、素材メーカーとしての規模と、半導体材料に集中した収益構造の両立が進んだ。
半導体材料と並ぶ第二の柱として、JSRはライフサイエンス事業を育てた。2015年3月にはバイオ医薬品の開発製造受託を手がけるKBI Biopharmaを、2018年5月には創薬支援のCrown Bioscience Internationalを相次いで傘下に収め、2021年には診断薬の医学生物学研究所を完全子会社化している[22]。2019年1月にはJSR Life Sciencesを設立し、北米を軸にライフサイエンスの事業体制を整えた[23]。合成ゴムで培った高分子・精密合成の技術を、半導体材料とライフサイエンスという二つの成長分野に振り向ける多角化が、この時期の会社の基本戦略だった。
エラストマー事業の譲渡とJICによる上場廃止
半導体材料とライフサイエンスへの集中は、創業以来の中核だった合成ゴム事業との訣別を伴った。2022年4月、JSRはエラストマー事業をENEOS株式会社に譲渡し、国策会社としての出発点だった合成ゴムから事実上撤退した[24]。同じ月には東京証券取引所の市場区分見直しにより、第一部からプライム市場へ移行している。この前後の時期、2021年3月期には大幅な最終赤字を計上するなど業績は振れたが、コモディティ事業を切り離して半導体材料などの高付加価値分野へ主力を移すという、長年の転換の総仕上げがここで行われた。
最後の転機は、資本の枠組みそのものの変更だった。2024年、政府系ファンドである産業革新投資機構の傘下のJICC-02株式会社による公開買付けが成立し、JICC-02がJSRの親会社・主要株主となった[25]。半導体材料という経済安全保障上も重要な分野で、短期的な株主還元の圧力から離れて中長期の大型投資を進めるための非公開化だった。これを受けてJSRは2024年6月、東京証券取引所プライム市場で上場廃止となった[26]。合成ゴムの国策会社として1957年に生まれた会社は、半導体材料の世界的リーダーへと姿を変えたうえで、再び国の関与のもとで次の成長を追う新たな体制へ移った。