1923年〜 シーメンスとの合弁が背負った現金不足という創業期の採算上の負担
富士電機の業績推移:単体
- 1923年 富士電機製造を設立
- 1925年 川崎工場を新設し重電機の製造を開始
- 1931年 全従業員の16%にあたる205名の削減と、名取和作社長の退任 9期のうち7期が赤字の合弁会社は、何を削って収支を合わせたか
- 1935年 通信機部門の分離独立と富士通信機製造の設立 伸び始めた弱電を本体に抱えるか、別の資本を立てて外に出すか——資金の窮屈な合弁会社の分岐
- 1953年 半導体部門に参入
- 1969年 自動販売機の製造を開始
- 1976年 経営不振の家電部門を3社に再編
現物出資の合弁会社、川崎工場への借入依存
1923年8月、古河電気工業とドイツ・シーメンス社の資本・技術提携により富士電機製造株式会社が設立された。資本金1,000万円のうちシーメンスは300万円を引き受けたが、払い込みは機械器具の現物100万円と技術報償金200万円で振り替えられ、現金は入らなかった。「富士」の社名は「古河(富)」「シーメンス(士)」に由来する合弁の象徴で、日立・三菱電機・明電舎に出遅れていた古河財閥が、第一次世界大戦敗戦後のドイツ経済インフレ下で技術輸出を模索するシーメンスと条件を合わせた形となる。後発の富士電機にとって、シーメンスからの現物出資は技術供与と同時に現金不足という構造を会社に埋め込むものとなり、発足直後の資金繰りを強く縛った。 [1][2][3]
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1923年8月 古河電気工業とドイツ・シーメンスの資本・技術提携により富士電機製造株式会社を設立
- [2]設立時資本金1,000万円・シーメンス出資比率30%(出資300万円)
- [3]日立・三菱電機・明電舎の先発に対し古河財閥は重電後発で、シーメンスは第一次大戦後ドイツの技術輸出を模索する立場
1925年4月、川崎工場が投資額578万円・敷地4.8万坪で稼働を開始した。それまでの間、富士電機製造はシーメンス製品の輸入・販売や同社が日本に持っていた貯蔵品の引き継ぎ販売で事業をつないだ。設立時資本金の過半を超える投資だったが、シーメンスからの現金払込がないため、資金は金融機関からの借入で賄われた。工場長にはシーメンスから派遣された外国人が就き、製作第一号品の配電盤に始まり発電機・電動機・変圧器・扇風機・探照灯・量水計などを電力会社向けに量産する体制が組まれた。しかし日立・三菱電機・明電舎の先発企業が握る市場で、後発参入の富士電機は販売に苦戦し、1928年度の1,034万円をピークに1931年度まで3期連続の減収となる。借入金利負担と固定資産償却が利益を圧迫する構造が定着し、創業期の収益回復の道筋は見えないまま昭和恐慌期に入った。 [4][5][6][7]
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1925年4月 川崎工場が稼働を開始し重電機の製造を開始
- [5]後発参入で販売に苦戦(先発は日立・三菱電機・明電舎)し、生産品目は発電機・電動機・変圧器・配電盤・扇風機・探照灯・量水計など
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]工場建屋完成までの間はシーメンス製品の輸入・販売と、同社が日本に所有していた貯蔵品の継承販売で営業をつないだ
- [7]川崎工場の製作第一号品は配電盤で、以後 電動機・変圧器・発電機へと製造機種を広げた
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1923年8月 古河電気工業とドイツ・シーメンスの資本・技術提携により富士電機製造株式会社を設立
- [2]設立時資本金1,000万円・シーメンス出資比率30%(出資300万円)
- [3]日立・三菱電機・明電舎の先発に対し古河財閥は重電後発で、シーメンスは第一次大戦後ドイツの技術輸出を模索する立場
- [4]1925年4月 川崎工場が稼働を開始し重電機の製造を開始
- [5]後発参入で販売に苦戦(先発は日立・三菱電機・明電舎)し、生産品目は発電機・電動機・変圧器・配電盤・扇風機・探照灯・量水計など
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]工場建屋完成までの間はシーメンス製品の輸入・販売と、同社が日本に所有していた貯蔵品の継承販売で営業をつないだ
- [7]川崎工場の製作第一号品は配電盤で、以後 電動機・変圧器・発電機へと製造機種を広げた
1931年、9期中7期赤字と人員削減205名
1931年、富士電機は全従業員の16%にあたる205名を削減し、残る社員には昇給停止と手当減額を実施した。名取和作社長は経営不振の原因について、設立時のシーメンス現金出資が実現しなかったことと、川崎工場新設の借入依存を挙げている。「最初の株金払込がわずか250万円で、そのうちシーメンスの分は現金の払込がなく、工場建設が始まってからも株金払込は思うように取れなかったので、全て銀行からの借入金で賄った。また固定資産の償却も所定通り行ったから、それとこれとあわせるとほぼ赤字に匹敵することがわかった」(名取和作)。名取社長は同年4月に引責辞任し、二代目社長に吉村萬治郎氏が就いて創業以来の赤字経営の打開に着手する。製品コスト低下の対策と景気回復が重なり、わずか2年半で繰越赤字を全額補填して黒字へ転換、1935年4月決算では年6分の初配当を実施した。 [8][9]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]1931年4月の名取社長辞任を受け、二代目社長に吉村萬治郎が就任して赤字経営の打開に着手
- [9]製品コスト低下策と景気回復で約2年半で繰越赤字を全額補填し黒字転換、1935年4月決算で年6分の初配当を実施
1933年4月には電話部を設置して通信機器に進出したが、戦時下に通信省の指定工場となった関係で1935年6月に通信機部門を分離し、富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立した。満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を始めている。1942年から1944年にかけて松本・吹上・豊田・三重の各工場が相次いで立ち上がり、戦時増産の拠点が揃う。このうち松本工場は後にパワー半導体の主力工場となり、三重工場は戦後の家電と自動販売機の拠点に変わった。戦時期の工場網は財閥解体と戦後復興を経ても富士電機の生産基盤として残り、半導体・自販機という新規事業の受け皿として後年まで残った。合弁という出自で得た技術蓄積が、戦後の事業多角化の足場となる。 [10][11][12][13][14]
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1933年4月 通信機部門に進出(製造を開始)
- [11]1935年6月 通信機部門を分離し富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立
- [13]1942-1944年に松本(1942/10)・吹上(1943/3)・豊田(1943/5)・三重(1944/6)の各工場が立ち上がる
- [14]松本工場は後にパワー半導体主力工場、三重工場は戦後の家電・自動販売機拠点となる
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [12]満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を開始
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]1931年4月の名取社長辞任を受け、二代目社長に吉村萬治郎が就任して赤字経営の打開に着手
- [9]製品コスト低下策と景気回復で約2年半で繰越赤字を全額補填し黒字転換、1935年4月決算で年6分の初配当を実施
- [12]満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を開始
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [10]1933年4月 通信機部門に進出(製造を開始)
- [11]1935年6月 通信機部門を分離し富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立
- [13]1942-1944年に松本(1942/10)・吹上(1943/3)・豊田(1943/5)・三重(1944/6)の各工場が立ち上がる
- [14]松本工場は後にパワー半導体主力工場、三重工場は戦後の家電・自動販売機拠点となる
1949年上場、1953年半導体参入、1969年の自販機進出
1949年5月、同社は東京証券取引所に株式を上場した。1953年10月には半導体部門に進出し、同じ年にスイスのエッシャウイス社との提携でガスタービン生産も開始する。電源開発ブームで重電各社の受注は積み上がり、同社の受注残は「30億円以上に達している」(新日本経済 1952/06)状況にあった。ただし同じ記事は「電動機メーカーとしては東芝、日立、三菱に比べると小型であるが、水車の制作部門をもち、また水車整流器メーカーとしても定評がある」(新日本経済 1952/06)と位置づけており、重電4社の中で小型のプレイヤーという認識が業界に定着していた。1961年に千葉工場、1963年に中央研究所が加わり、1968年には川崎電機製造を吸収合併して神戸・鈴鹿の2工場を獲得した。個別事業の収益性はいずれも先発企業と拮抗する水準になく、広さと深さの両立は課題として残った。 [15][16][17][18][19]
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- [16]1953年10月 半導体部門に進出。同年スイスのエッシャウイス社との提携でガスタービンにも着手
- [19]1961年に千葉工場(1961/8)、1963年に中央研究所(1963/9)が加わり、1968年に川崎電機製造を吸収合併し神戸・鈴鹿の2工場を獲得
- [17]1952年6月時点で受注残は「30億円以上に達している」
- [18]業界内で東芝・日立・三菱に比べ小型だが水車・水車整流器に定評があるという位置づけ
1969年9月、富士電機は自動販売機の製造を開始した。家電事業の販売不振で三重工場に生産すべき家電が不足し、将来の市場成長が見込める新規事業として自販機に着眼した経緯だった。自販機進出の社内提案者は後の社長和田恒輔で、「1966年、私は自動販売機部門に進出することを提案した。業界には10年遅れての参入だったが、思い切って自販機の製造、その設備資金のリース、ベンディング材料の取り扱いと最初から一貫体制を整えた」(日経産業新聞 1987/12/23)と振り返っている。ツガミや三菱重工といった先発企業がいたが、製造に徹せず販売まで自社で担うモデルを取り、参入から約4年で国内シェア1位を獲得した。先発に勝てない領域を見切り、後発でも勝てる隣接領域に資源を移し替える判断が、以降の富士電機の事業再編パターンとなった。 [20][21][22][23]
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [20]1969年9月 自動販売機の製造を開始
- [21]家電販売不振で三重工場に新事業が必要となり市場成長の見込める自販機に着眼。先発はツガミ・三菱重工
- [23]参入から約4年で自販機の国内シェア1位を獲得(製造に留まらず販売まで自社で担うモデル)
- 日経産業新聞(1987年12月23日)
- [22]自販機進出の社内提案者は後の社長和田恒輔。1966年に進出を提案し製造・リース・材料の一貫体制を整えたと回想
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
- [16]1953年10月 半導体部門に進出。同年スイスのエッシャウイス社との提携でガスタービンにも着手
- [19]1961年に千葉工場(1961/8)、1963年に中央研究所(1963/9)が加わり、1968年に川崎電機製造を吸収合併し神戸・鈴鹿の2工場を獲得
- [20]1969年9月 自動販売機の製造を開始
- [21]家電販売不振で三重工場に新事業が必要となり市場成長の見込める自販機に着眼。先発はツガミ・三菱重工
- [23]参入から約4年で自販機の国内シェア1位を獲得(製造に留まらず販売まで自社で担うモデル)
- [17]1952年6月時点で受注残は「30億円以上に達している」
- [18]業界内で東芝・日立・三菱に比べ小型だが水車・水車整流器に定評があるという位置づけ
- 日経産業新聞(1987年12月23日)
- [22]自販機進出の社内提案者は後の社長和田恒輔。1966年に進出を提案し製造・リース・材料の一貫体制を整えたと回想