日本ゼオン塩化ビニル事業の新第一塩ビへの移管と、水島工場での生産打ち切りによる祖業からの撤退
社名の由来となった祖業を、いつ、どの順序で手放すか——設備過剰が解けない業界での離脱
- 概要
- 1995年7月、日本ゼオンが塩化ビニル樹脂事業を切り離し、住友化学・トクヤマとの事業統合会社である新第一塩ビへ移管した。さらに2000年3月には水島工場での塩ビ生産を打ち切り、1950年の設立目的そのものであった祖業から撤退した。中野克彦社長の在任期にあたる。
- 背景
- 塩化ビニル樹脂は1950年の設立目的であり、1971年には国内生産量第1位を占めた。しかし1990年代に入ると住宅着工の減少と公共事業の抑制で内需が縮み、業界各社の塩ビ部門の経常損益は1992年度から10年にわたり赤字が続いた。
- 内容
- 1995年7月に塩ビ事業を新第一塩ビへ移管。1996年には東ソー・三井化学・電気化学による大洋塩ビも発足したが、いずれも設備廃棄を伴わず過剰は残った。日本ゼオンは2000年3月に水島工場での生産を打ち切り、自社での塩ビ製造を終えた。
- 含意
- 撤退後の主力は耐油性合成ゴムで、1997年度の営業利益は118億円に達していた。塩ビをやめた水島工場ではシクロオレフィンポリマーの生産が続き、2001年12月には光学フィルムのオプテス高岡製造所が完成した。
祖業を手放せた条件
1997年度に118億円の営業利益を稼いだのは、塩ビではなく耐油性合成ゴムであった。祖業を外す判断は、収益の入れ替わりが撤退より先に済んでいたから成立した。塩ビは1971年に国内首位を占め、社名の由来にもなった事業であったが、内需が縮み設備の余った1990年代に、規模の小さい日本ゼオンが単独で採算を戻せる見込みは乏しかった。統合会社へ移し、生産を打ち切り、出資だけを残す。この順序が、損失の膨張を避けた。
日本ゼオンが生産をやめた後も、新第一塩ビの赤字は続いた。2001年度には20億円弱の営業赤字を出しており、この撤退が業界の過剰を解いたわけではない。事業を統合会社に集めながら設備を減らさなかったため、上位企業との収益力格差はむしろ広がった。日本ゼオンから見れば早い離脱であり、業界から見れば、過剰を抱えた統合会社へ祖業を預けた形でもあった。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
社名の由来となった祖業
日本ゼオンは1950年4月、日本軽金属が古河電気工業・横浜護謨とともに設立した塩化ビニル樹脂の専門会社であった。日本軽金属が蒲原工場で持て余していたカーバイドと自家発電の余剰電力を塩化ビニルへ振り向ける計画で、製造技術は米国のB.F.グッドリッチ・ケミカルから全面的に導入した。同社の登録商標である GEON を日本で登録する権利も併せて得ており、社名はこの商標に由来する。蒲原のプラントは1952年5月下旬に正常運転へ入った[1]。
設立から20年で、塩ビは国内首位の事業に育っていた。1971年1月、古我周二社長は証券アナリストの企業分析部会で、塩化ビニルの生産量が業界第1位にあり、高岡工場の能力が年産12万から13万トン、前年末に第3期工事を終えた水島工場が8万から9万トンに達したと説明している。同じ講演で古我社長は、塩ビと合成ゴムの二本の柱だけで環境の変化に応じることには疑問があるとし、第三、第四の柱を立てる必要を挙げた[2]。
内需が縮んだ1990年代の塩ビ
祖業の採算は1990年代に反転した。塩ビ樹脂は建材を中心に使われるため、住宅着工の減少と公共事業の抑制がそのまま出荷の減少として表れた。国内価格は国際価格を下回り、塩ビ樹脂部門の経常損益は、各社合計で1992年度から10年にわたって赤字が続いた。設備は過剰なまま残り、採算の合う価格を通せなかった[3]。
一方で、日本ゼオンの収益はすでに塩ビの外へ移っていた。自動車部品向けの耐油性合成ゴムでは世界シェア35%前後を占めて首位に立ち、1997年度の連結では合成ゴム事業が118億円の営業利益を稼いだ。中野克彦社長は、規模は小さくても利益率の高い市場で優位性を強化する方針を掲げていた。市況で価格の決まる汎用樹脂である塩ビは、この方針に合わなかった[4]。
決断
事業統合会社への移管(1995年7月)
1995年7月、日本ゼオンは塩ビ事業を切り離し、住友化学・トクヤマとの事業統合会社である新第一塩ビへ移管した。翌1996年には東ソー・三井化学・電気化学による大洋塩ビが発足し、複数社の事業を1社に集める再編が業界の主流になった。国内の塩ビメーカーは1995年6月の15社から10社まで減り、ある程度の設備廃棄も行われた。日本ゼオンは、この移管で祖業を初めて自社の外へ出した[5][6]。
統合は過剰の解消には結びつかなかった。新第一塩ビも大洋塩ビも設備廃棄を伴わずに発足し、その後の内需縮小で能力が余った状態が続いた。1998年度は塩ビ樹脂の全社が赤字となり、業界全体で推定150億円の赤字が出た。統合会社2社も赤字が止まらず債務超過寸前となり、新第一塩ビは減増資で債務超過を解消したうえで、トクヤマが子会社化して再建にあたることが決まった[7]。
水島の生産打ち切り(2000年3月)
2000年3月、日本ゼオンは水島工場での塩ビ生産を打ち切り、塩化ビニル事業から撤退した。水島工場は、発祥の地である蒲原工場が用地と原料の確保に行き詰まって拡張できなくなったため、1969年に塩ビの第二工場として建設した拠点だった。蒲原から高岡、水島へと受け継いできた自社での塩ビ製造は、この打ち切りで途切れた。1952年に蒲原が運転を始めてから48年が経っていた[8][9]。
生産をやめても、日本ゼオンが新第一塩ビの出資者から降りたわけではない。2002年の時点でも、同社はトクヤマ・住友化学と並ぶ新第一塩ビの出資者として名を挙げられている。トクヤマが子会社として再建を担う枠組みのなかで、日本ゼオンは自社工場での製造を先に手放した。祖業を一度に清算せず、生産・出資・再建責任を分けて外す順序を採った[10]。
結果
縮まなかった過剰と、薄い利益
撤退の後も、塩ビ業界の設備過剰は残った。2002年度の国内出荷量は1999年比で二桁減の150万トン割れが見込まれ、輸出を含めても220万トンにとどまる一方、2001年末の生産能力は257万トンあった。大手3社と4位以下の収益力格差はかえって広がり、新第一塩ビは2001年度に20億円弱の営業赤字を計上した。大洋塩ビの日野清司社長は、大手3社が自らの判断で30万トン程度の設備を廃棄しなければならないと述べている[11]。
日本ゼオン自身の決算も、撤退の直後は薄い利益にとどまった。2002年3月期の連結売上高は1,912億円、経常利益は84億円、当期純利益は0.3億円にとどまった。市況で価格の決まる汎用樹脂を外したことで業績の振れ幅は小さくなったが、それが利益として表れるまでには時間がかかった。連結の当期純利益が30億円台へ戻るのは、翌2003年3月期である[12]。
塩ビを外した工場に残ったもの
塩ビをやめた水島工場は、閉鎖されなかった。同工場では1990年11月からシクロオレフィンポリマーのプラントが動いており、塩ビの設備が止まった後も、この樹脂の生産拠点として残った。2001年12月には、光学フィルムの工場としてオプテスの高岡製造所が完成している。高岡もまた、1956年11月の完成時から塩化ビニル樹脂を生産してきた[13]。
祖業を外した後の日本ゼオンは、耐油性合成ゴムを収益の中心に置き、光学フィルムとシクロオレフィンポリマーを次の主力に育てる構成へ移った。1997年度の時点では、合成ゴムと合成樹脂を除く事業は売上高480億円に対して15億円の営業赤字で、中野社長は翌年度の黒字化を課題に挙げていた。1971年に古我社長が説いた第三、第四の柱は、塩ビを手放した後の事業構成として実現した[14]。
- 日本軽金属 日本軽金属二十年史(日本軽金属, 1959年)
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月号「日本ゼオンの現状と将来」
- 日経ビジネス 1998年9月21日号「日本ゼオン 国際ニッチ戦略で生き残り 特殊ゴム、M&Aで首位固め」
- 週刊東洋経済 1999年9月4日号「過剰 三菱化学、東亞合成の事業統合でも道半ば 塩ビの見えない終着点」
- 週刊東洋経済 2002年8月10日号「化学業界 国内需要縮小で始まった“生き残り再編”第2幕」
- 日本ゼオン 有価証券報告書【沿革】
- 日本ゼオン 有価証券報告書(2002年3月期・連結)