日本触媒の前身ヲサメ硫酸工業は、接触硫酸設備で知られた納五平[1]が興した会社で、当時輸入に頼っていた硫酸触媒の国産化を手がけていた。その附属研究所長だった八谷泰造は、1937年にバナジウム[2]触媒の研究を主に耐酸セメントの製造を始め、あわせて無水フタル酸の研究にも着手した。触媒化学の工業化は当時、海外技術に頼るのが一般的で、国産触媒で量産にこぎつける試みは常に事故リスクと隣り合わせだった。塗料・可塑剤向けの無水フタル酸は輸入依存で、国産化できれば代替市場は大きいと八谷は踏んでいた。八谷はナフタリンの空気酸化による無水フタル酸の企業化に道筋をつけ、1941年8月、資本金18万円のヲサメ合成化学工業株式会社として独立[3]させた。創業そのものが国産触媒研究の延長線上にあった。
1943年、ヲサメ合成化学工業は資本金を60万円へ増やし、吹田の用地を買収して月産100トンの無水フタル酸プラント[4]の建設に着手した。ところが1944年3月、稼働まもなくプラントは大爆発を起こし、設備は四散して死亡者まで出した[5]。戦火でも工場は焼け落ちたが、八谷は再建を主張して事業継続を決めた。戦後の1945年6月には空襲で大阪市内の本社を焼失し、吹田工場へ移転した。1949年、創業者の納が退陣したのを機に八谷が社長へ就き、商号[6]を日本触媒化学工業に改めた。1950年代に三井化学・ダイセル・旭化成が無水フタル酸に参入したが、爆発リスクから順に撤退し、1956年には日本触媒が国内シェア70%を握った[7]。先に事故を経験し、原料仕込み量の制御や反応器の冷却・安全弁といった工程管理のノウハウを積み上げたことが、結果として残存者利益につながった。
1951年、無水フタル酸は塩化ビニールをはじめ合成繊維の増産体制が整うにつれて日ごとに重みを増す素材となり、日本触媒も設備の拡張によって増産に踏み切る意向を示していた[8]。塗料と可塑剤の原料である無水フタル酸は、自社の売り込みよりも川下の塩ビ産業の設備投資に需要の伸びを握られる位置にあった。川下が伸びるかぎり単一製品への集中は成長の梃子として働くが、同じ構造は塩ビの増産が止まれば反転する。戦後の需要拡大を追い風に増産へ踏み切った判断が、翌年に訪れる反動の大きさをそのまま決めた。設備を増やすほど、単一製品に依存する収益構造の振れ幅も大きくなった。
1952年、経済不況で塩ビ市場が縮小し、売上高の90%を無水フタル酸に頼っていた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し、銀行借入も立ち行かない状況に追い込まれた。無水フタル酸の原料であるナフタリンを仕入れていた富士製鐵が筆頭株主でもあったため、八谷は永野重雄社長へ直談判に向かい、ナフタリンの現物出資で第三者割当増資を実施した。富士製鐵の社内で一度否決された増資案を、永野社長の判断で覆させた経緯だった。仕入先であり株主でもある富士製鐵との関係が、銀行借入という通常の資金調達手段を失った中小企業の存続を支えた。
不況が一巡して塩ビ市場が再び拡大に転じると、国内シェア首位の地位は確かなものとなった。無水フタル酸の月産能力は1949年の30トンから1951[9]年には250トンへ急拡大し、1953年にはポリエステル樹脂の国産企業化にも成功[10]して単一製品からの脱却が始まった。八谷は『企業は公器なり』という信念のもと、同族経営を避け、広く株主を受け入れる資本政策を掲げた。富士製鐵による資本救済はこの方針の延長線上にある。爆発事故の克服と資本面での救済という2つの危機を越え、単一製品への依存と資本の脆弱さという、創業期から抱えていた構造リスクが修正された。1952年の株式公開で資本市場からの調達手段も整え、銀行借入頼みではない事業拡張の経路を整えた。設立から20年近くを経て、日本触媒は単一事業への依存から抜け出すための土台を手に入れた。
1959年6月、日本触媒は日本石油化学の川崎コンビナートへ参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は9.8億円に上り、当時の資本金4.8億円の2倍を超えた。無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すには石油化学の原料を押さえるしかない、という八谷の判断だった。業界関係者からは『潰れる』と揶揄されたが、1960年に姫路工場を新設し、川崎と姫路の2拠点体制を築いた。1967年には川崎第二工場も稼働した。石炭化学から石油化学への原料転換期に、あえて石油コンビナート側へ身を置いた意思決定が、のちのアクリル酸とSAPの原料供給につながった。無水フタル酸だけに依拠していた時代から、酸化エチレン・エチレンオキサイドという石油化学誘導品を自社の収益軸に組み込む構造転換が、ここで始まった。
川崎と姫路の設備が動き出すと、日本触媒を見る目は無水フタル酸のメーカーから酸化技術の会社へと移っていった。1968年には証券市場でも酸化の日本触媒という呼び方が通るようになり[11]、製品名ではなく反応の型で認識される会社になっていた。ナフタリンを空気で酸化して無水フタル酸を得る工程も、エチレンを酸化して酸化エチレンを得る工程も、触媒の上で酸素の付き方を制御する点では同じ技術系統に属する。製品ごとに技術を外から買うのではなく、一つの反応系を深く掘って隣の製品へ広げる型が、この時期に社外からも見える形で定着した。
八谷は海外技術の導入が主流の時代に国産技術へこだわり、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化で世界初の成功を収めた。分相応の範囲に事業をとどめるべきだという周囲の声に反して、身の丈を超えた設備投資が企業の成長段階を引き上げた。1960年代の合成繊維ブームで売上は拡大し、川崎と姫路の両軸が次の時代の主力事業の土台となった。姫路は無水フタル酸と酸化エチレン誘導品を軸に据え、川崎は酸化エチレンとその下流製品の供給拠点となり、東西2拠点で原料と製品の相互補完が効く体制が整った。国産触媒技術へのこだわりと資本金を超える規模の設備投資の2つが、創業期の製品依存を抜け出すためのてことなって日本触媒に揃った。
1970年、日本触媒は気相酸化技術を応用してアクリル酸の国産化に成功した。アクリル酸は塗料やインクの原料として需要があり、のちに高吸水性樹脂の原料としても欠かせない物質となる。当時の国内メーカーの多くは海外技術を導入してアクリル酸を調達したが、日本触媒は無水フタル酸で磨いたバナジウム触媒と気相酸化の技術をそのままアクリル酸の合成に応用する経路を選んだ。海外技術に頼らず自前で酸化触媒を育てた判断は、20年近い時間差を置いて紙おむつ市場で効いてきた。アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を国内で唯一持つことが、のちのSAP事業における構造的優位の源泉となった。
1972年の時点で、日本触媒は化学業界で一般的だった海外からの技術導入を退け、自社技術主義を貫く会社と見られていた[12]。オルソキシレンを原料とする無水フタル酸、接触気相酸化法による酸化エチレン、プロピレンの直接気相酸化によるアクリル酸は、いずれも世界で最初の水準にある技術として業績に寄与していた。自前で技術を起こせば研究開発費は重くなりそうだが、酸化と触媒に的を絞って基礎研究を広げなかったため、負担は売上の2%程度に収まっていた[13]。技術導入費用の節減、低コストの製法を自ら設計できること、地域制限なく製品を輸出できること、技術やプラントそのものを輸出して対価を得られることが、その見返りに挙げられた[14]。
1981年3月には姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制を強化した。同じころ塩化ビニールは、国内市況がある程度回復してもカナダや米国の安い原料価格の前に国際競争力を失う一方だと見られ、業界では魅力を失った製品と語られていた[15]。可塑剤を通じて塩ビに連なる無水フタル酸の需要も、その先細りと無縁ではない。この時期の日本触媒は無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品を切り替え、触媒技術という共通基盤のうえで製品ラインナップを広げる戦略が定まった。無水フタル酸を含む複数の酸化反応でバナジウム触媒を育てた経験が、気相酸化でアクリル酸を作る工程にそのまま転用された。石油化学への参入と国産技術へのこだわりは、次の時代のSAP事業における原料優位の技術的基盤を形づくる。創業期の無水フタル酸依存から、川崎と姫路の2拠点と酸化エチレン・アクリル酸を軸とする構造へと、収益源の姿が切り替わった。
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| 1935〜1960年爆発事故を越えた無水フタル酸の残存者利益 | 八谷泰造氏による無水フタル酸事業の継続と爆発事故を越えた残存者利益の確立 1944年3月、吹田工場の無水フタル酸プラントが試運転中に爆発し死亡者を出したが、八谷泰造氏は事業継続を決めた。1949年に社長へ就いて経営体制を立て直し、危険な量産技術に踏み切れない企業が多いなかで、1950年代半ばには全国生産量の7割を占める規模へ育てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 空襲で本社焼失。吹田工場に移転 | ★ | |||
| 八谷泰造 | 商号を日本触媒化学工業に変更 | ★ | ||
| 八谷泰造 | 大阪証券取引所第1部に株式上場 | ★ | ||
| 八谷泰造 | 無水マイレン酸の製造開始 | ★ | ||
| 八谷泰造 | 半期赤字に転落。富士製鐵が救済 | ★★ | ||
| 八谷泰造 | 酸化エチレンの量産開始 | ★★ | ||
| 八谷泰造 | 姫路工場を新設 | ★ | ||
| 1961〜1981年石油化学参入とアクリル酸国産化による原料一貫化 | 八谷泰造 | 本社を高麗橋に移転、吹田に研究所 | ★ | |
| 八谷泰造 | 川崎第二工場を新設 | ★ | ||
| 北野精一 | アクリル酸の国産化と高吸水性樹脂(SAP)市場への後発参入がもたらした原料一貫戦略 1959年の石油化学参入に始まり、1970年のアクリル酸国産化、1983年の高吸水性樹脂(SAP)市場への後発参入を経て、日本触媒がアクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制を築き上げた一連の経営判断。三洋化成に7年遅れた参入でありながら、参入から1年で国内生産量首位に立った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北野精一 | 追浜工場を新設(1978年休止) | ★ | ||
| 北野精一 | セカンダリーアルコールエトキシレートの製造を開始 | ★ | ||
| 石川三郎 | 姫路研究所・川崎研究所を新設 | ★ | ||
| 1982〜2026年後発参入から世界首位に立ったSAPと統合白紙撤回 | 石川三郎 | メタクリル酸・同エステルの製造を開始 | ★ | |
| 石川三郎 | 姫路製造所で高吸水性樹脂(SAP)の製造を開始 | ★★ | ||
| 石川三郎 | 高吸水性樹脂(SAP)の製造を開始 | ★ | ||
| 中島爾 | NA Industries Inc.を設立(米国法人) | ★ | ||
| 中島爾 | 10ヵ年総合経営計画「テクノアメニティ」を策定 | ★ | ||
| 田中荘三 | 社名を「日本触媒」に変更 | ★ | ||
| 田中荘三 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 田中荘三 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 田中荘三 | ベルギーに子会社を設立 | ★ | ||
| 田中荘三 | 長期経営計画「テクノアメニティNV」を策定 | ★ | ||
| 田中荘三 | 住友化学との事業交換によりアクリル酸事業を取得 | ★ | ||
| 田中荘三 | 住友化学にメチルメタクリレート事業を譲渡 | ★ | ||
| 田中荘三 | シンガポール・アクリリック等2社を取得 | ★★ | ||
| 近藤忠夫 | 日本乳化剤と中日合成化學を取得 | ★ | ||
| 池田全德 | 姫路製造所アクリル酸タンク爆発事故への対応と安全管理体制の立て直し 2012年9月29日、日本触媒姫路製造所のアクリル酸中間タンクが爆発し、消火にあたった消防副士長1人が死亡、35人が重軽傷を負った。日本触媒は事故調査委員会の設置や操業対応にあたる一方、2015年9月の起訴、2018年7月の有罪判決という刑事責任の確定を経て、安全管理体制の見直しを迫られた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 池田全德 | 吹田工場を閉鎖(研究拠点として継続活用) | ★★ | ||
| 池田全德 | 高吸水性樹脂の増産を決定 | ★★ | ||
| 五嶋祐治朗 | SAPの収益性が低下。サバイバルPJを開始 | ★★ | ||
| 五嶋祐治朗 | 三洋化成工業との経営統合発表と破談 2019年5月、日本触媒は三洋化成工業との対等の経営統合を発表し、統合持株会社の傘下に両社が入る枠組みで2020年10月の統合完了を目指した。新型コロナウイルスの影響で2021年4月への延期を経て、2020年10月に三洋化成工業側からの申し入れで中止となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 五嶋祐治朗 | 最終赤字108億円に転落 | ★★ | ||
| 五嶋祐治朗 | プライム市場に移行 | ★ |
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事実根拠:出所(日本触媒)