重要な意思決定
195011月

商号を日本触媒化学工業に変更

背景

創業者の経営放棄と八谷氏への経営移行

終戦後、ヲサメ合成化学の創業者である納五平氏は会社の再建を諦め、保有株式を第三者に売却するなど事業継続の意思を失った。資本金60万円の小企業は存続の危機にあった。この状況の中で、取締役であった八谷泰造氏が会社を引き受け、社長に就任した。商号を「日本触媒化学工業株式会社」に変更し、個人事業の色彩が濃い会社からパブリックな企業への転換を図った。

八谷氏は同族経営を回避する資本政策を明確に打ち出した。納氏の個人経営が行き詰まった反省から、八谷家の会社ではなく開かれた上場企業を目指す方針を定めた。増資を繰り返すことで創業者や自身の持分比率を意図的に低下させ、「企業は公器なり」という考えのもと、能力主義に基づく経営体制の構築を志した。

決断

富士製鐵の出資受入と設備投資の実行

1950年前後から塩ビ市場が急拡大し、可塑剤としての無水フタル酸の需要が高まった。日本触媒は吹田工場に真空蒸留工場を新設して増産と品質改善を図る計画を立てたが、銀行からの借入は困難であった。そこで増資による資金調達を選択し、引受先として仕入先であった富士製鐵に依頼した。無水フタル酸の原料ナフタリンを供給する取引関係が縁となった。

八谷氏は富士製鐵の永野重雄社長に直談判で増資を持ちかけた。富士製鐵社内では否決されたものの、永野社長の意向により増資が決定された。この結果、富士製鐵が日本触媒の株式33%を保有する筆頭株主となり、日本触媒は資本面で個人経営から脱却した。大阪の中小企業に対して日本有数の製鉄メーカーが出資するという、当時としては異例の資本関係が成立した。

結果

増資と品質改善による無水フタル酸の市場拡大

富士製鐵からの出資を得て財務基盤を強化した日本触媒は、吹田工場の設備増強を実行した。真空蒸留工場の新設により、無水フタル酸の結晶構造を従来の針状結晶から純白フレーク状に改良し、品質面で競合他社との差別化を図った。塩ビ市場の拡大とともに需要は伸び、1950年代を通じて日本触媒の売上高の90%を無水フタル酸が占めた。

八谷氏は後年、「私自身も能力がなければ、いつ何時でも失脚しなければならないものと考えている」と述べている。個人経営からの脱却と同族支配の回避という資本政策の方針は、創業期の経営破綻の教訓から生まれたものであり、日本触媒の企業統治の原型となった。