1941年〜 戦時統合の十大紡績から繊維不況による9期連続無配まで
ダイワボウホールディングスの業績推移:単体
- 1941年 紡績ブロック結成案に応じ4社合併で大和紡績を設立 統制の求めに最初に応じるか、単独で残るか——業界に先駆けた4社の合流
- 1941年 本社事務所を移転
- 1944年 大和工業に商号変更
- 1946年 大和紡績に商号を復旧
- 1949年 大和機械工業を設立
- 1982年 繊維不況の打開策としてダイワボウ情報システムを設立し情報分野へ進出 設備の3割廃棄が見込まれるなかで、紡績会社は何を次の柱に選んだか
- 1982年 情報産業に参入
紡績4社合併で誕生した戦時統合企業
1941年5月、当時の大日本紡績聯合会が提唱した紡績ブロック結成案の決定に従い、業界に先駆けて錦華紡績、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の4社が合併し[1]、大和紡績株式会社が設立された。前身4社はいずれも独自の特色と伝統の技術を擁し、業界に確固たる地歩を占めていた。最古参の和歌山紡織は1893年、日出紡織は1912年の設立で重布部門の経営に特色を持ち、錦華紡績は1917年設立で『金鳥票綿糸』の生産をもって広く知られ、出雲製織は1920年の設立だった[2]。なかでも出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力[3]しており、戦時下で4社が大同団結する合併は画期的なものだった。設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘、織機3581[4]台)、人絹・スフ3工場(日産115屯強)、加工2工場で、これは全国第4位の規模にあたり、資本金は8666万8450円だった。
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [1]大日本紡績聯合会の紡績ブロック結成案に従い錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併して大和紡績株式会社が設立された
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [2]前身4社の設立年は和歌山紡織1893年(明治26年)・日出紡織1912年(明治45年)・錦華紡績1917年(大正6年)・出雲製織1920年(大正9年)で、日出紡織は重布部門、錦華紡績は「金鳥票綿糸」に特色があった
- [3]出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力していた
- [4]設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘・織機3581台)・人絹スフ3工場(日産115屯強)・加工2工場で全国第4位の規模、資本金は8666万8450円だった
発足直後は戦時体制の強化に伴って紡績業全体が縮小に向かい、大和紡績も発足時から1944年にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し、綿紡2工場を重工業へ転換、加工1工場を現物出資した。[5]その一方で満支大陸では重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し、朝鮮[6]では朝鮮大和紡績を設立、フィリピンでは綿花の栽培と紡績の設営を進めるなど、海外へも意欲的に進出した。だが本社社屋をはじめ各工場が戦災に遭い海外資産も接収され、終戦時にはわずか精紡機18万3580錘、織機2674[7]台を有するのみとなっていた。戦後は制限会社・持株会社の指定など種々の拘束を受けたが、逐次工場の再開・設備の復旧と新増設を進め、綿紡事業を中心に復興に努めた。1949年には舞鶴工場に超ハイドラフト精紡機を設置して業界における同機採用の先鞭をつけ、同年には紡機・自転車製造部門の宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた。[8]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [5]発足時から1944年(昭和19年)にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し綿紡2工場を重工業へ転換し加工1工場を現物出資した
- [6]戦時下に満支大陸で重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し朝鮮で朝鮮大和紡績を設立しフィリピンで綿花栽培と紡績設営を進めた
- [7]戦災と海外資産接収により終戦時には精紡機18万3580錘・織機2674台を有するのみとなった
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [8]1949年(昭和24年)に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置し業界で同機採用の先鞭をつけ、同年に宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた
1949年5月には東京・大阪両証券取引所に株式上場[9]を果たし、戦後復興期の繊維需要拡大を捉える資本基盤を整えた。翌1950年には朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴の各工場を拡張し、あわせて化学繊維部門への進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した。[10]1951年には舞鶴第二工場が完成し、おりから繊維統制が撤廃されて空前の好況期に入った。[11]1952年にはスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成し、従来の紡績一本から化繊兼営へと業容を拡大、同年6月には大阪・御堂筋に大和建物の手による本社新ビルを竣工して『十大紡績』の1社に数えられる地位を固めた。[12]翌1953年には福井工場に同社初の毛設備を併設し、織布部門の織機自動化なども進めて、ここに繊維総合経営体制が整った。[13]以後も新分野への投資が続き、1958年には創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成、1960年には大洋化成株式会社、大和ポリグラス工業株式会社を設立して経営多角化の布石を打つとともに、休止していた広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた。[14][15]この20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘、スフ紡機6万2720錘[16]、梳毛紡機1万6800錘、合繊紡機2万5480錘、軽布織機3819台、重布織機287台、スフ日産82屯に達していた。1962年にはポリプロピレン繊維へ進出して事業に一層の幅を持たせ、おりからの不況に苦しむ場面もあったが、海外市場の開拓や子会社によるボーリングへの進出など多角経営でこれを乗り切った。[17]1967年には株式の額面を50円(旧100円)に変更し、4月期から2分増配へと進むなど安定した経営を続け、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘、軽布織機3655台、重布織機373台、ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し、年間総売上高は383億円に達した。[18]さらに企業体質の強化に向け、業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り、金沢工場で実用化[19]を進めた。
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [9]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式上場した
- [12]1952年(昭和27年)にスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成して紡績一本から化繊兼営へ業容を拡大し、同年6月に大和建物の手による本社新ビルを大阪・御堂筋に竣工した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [10]1950年(昭和25年)に朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴各工場を拡張し化学繊維部門進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した
- [11]1951年(昭和26年)に舞鶴第二工場が完成し繊維統制が撤廃されて好況期に入った
- [13]1953年(昭和28年)に福井工場へ同社初の毛設備を併設し織布部門の織機自動化を進めて繊維総合経営体制が整った
- [14]1958年(昭和33年)に創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成した
- [15]1960年(昭和35年)に大洋化成株式会社・大和ポリグラス工業株式会社を設立し休止中の広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた
- [16]創立20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘・スフ紡機6万2720錘・梳毛紡機1万6800錘・合繊紡機2万5480錘・軽布織機3819台・重布織機287台・スフ日産82屯だった
- [17]1962年(昭和37年)にポリプロピレン繊維へ進出した
- [18]1967年(昭和42年)に株式の額面を50円(旧100円)に変更し2分増配へ進み、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘・軽布織機3655台・重布織機373台・ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し年間総売上高は383億円だった
- [19]業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り金沢工場で実用化を推進した
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [1]大日本紡績聯合会の紡績ブロック結成案に従い錦華紡績・日出紡織・出雲製織・和歌山紡織の4社が合併して大和紡績株式会社が設立された
- [8]1949年(昭和24年)に舞鶴工場へ超ハイドラフト精紡機を設置し業界で同機採用の先鞭をつけ、同年に宍道工場を大和機械工業株式会社(現オーエム製作所)として分離独立させた
- [9]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式上場した
- [12]1952年(昭和27年)にスフ製造の益田工場第一期復元工事が完成して紡績一本から化繊兼営へ業容を拡大し、同年6月に大和建物の手による本社新ビルを大阪・御堂筋に竣工した
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)
- [2]前身4社の設立年は和歌山紡織1893年(明治26年)・日出紡織1912年(明治45年)・錦華紡績1917年(大正6年)・出雲製織1920年(大正9年)で、日出紡織は重布部門、錦華紡績は「金鳥票綿糸」に特色があった
- [3]出雲製織と和歌山紡織は陸海軍指定業者として軍需綿布の生産に注力していた
- [4]設立当初の設備は紡織16工場(精紡機114万5252錘・織機3581台)・人絹スフ3工場(日産115屯強)・加工2工場で全国第4位の規模、資本金は8666万8450円だった
- [5]発足時から1944年(昭和19年)にかけて綿紡8工場・人スフ3工場を閉鎖し綿紡2工場を重工業へ転換し加工1工場を現物出資した
- [6]戦時下に満支大陸で重工業・ゴム・繊維の傍系各社を運営し朝鮮で朝鮮大和紡績を設立しフィリピンで綿花栽培と紡績設営を進めた
- [7]戦災と海外資産接収により終戦時には精紡機18万3580錘・織機2674台を有するのみとなった
- [10]1950年(昭和25年)に朝鮮動乱を契機とする活況期を迎えて金沢・福井・舞鶴各工場を拡張し化学繊維部門進出に備えて大阪に化学繊維研究所を開設した
- [11]1951年(昭和26年)に舞鶴第二工場が完成し繊維統制が撤廃されて好況期に入った
- [13]1953年(昭和28年)に福井工場へ同社初の毛設備を併設し織布部門の織機自動化を進めて繊維総合経営体制が整った
- [14]1958年(昭和33年)に創立以来初の新設工場である梳毛紡績の稲沢工場が完成した
- [15]1960年(昭和35年)に大洋化成株式会社・大和ポリグラス工業株式会社を設立し休止中の広島工場を東洋工業に譲渡して創立20周年を迎えた
- [16]創立20周年時点の保有設備は綿紡機43万4108錘・スフ紡機6万2720錘・梳毛紡機1万6800錘・合繊紡機2万5480錘・軽布織機3819台・重布織機287台・スフ日産82屯だった
- [17]1962年(昭和37年)にポリプロピレン繊維へ進出した
- [18]1967年(昭和42年)に株式の額面を50円(旧100円)に変更し2分増配へ進み、当時は精紡機第一区分47万1462錘・第二区分1万6400錘・軽布織機3655台・重布織機373台・ポリプロピレン日産20屯の10工場を擁し年間総売上高は383億円だった
- [19]業界に先がけて豊田自動織機と提携のうえ空気精紡機の導入を図り金沢工場で実用化を推進した
1975年経常赤字転落と9期連続無配
1971年8月のニクソンショックと1973年10月の第一次石油危機は、日本繊維業界全体を直撃した。原油価格の高騰で合成繊維の原料コストが急上昇し、ドル円の急変動で輸出採算が悪化した。加えて1970年代を通じて韓国・台湾・中国の繊維産業が技術力・コスト競争力ともに向上し、日本繊維業界は構造的な国際競争力低下に直面した。大和紡績も例外ではなく、1975年3月期に29億円の経常赤字に転落し、翌1976年3月期には無配に転じた。創業から30年余、十大紡績の一角を担ってきた同社の業績が1975年から1976年にかけて悪化した時点であり、合成繊維への参入で多角化を試みた1960年代の投資判断も、原油価格の構造変化のなかで十分な収益貢献に結びつかなかった。
1970年代後半から1980年代前半にかけて、繊維業界各社は生産拠点の閉鎖と人員削減を伴う構造改革を相次いで実行した。大和紡績も例外ではなく、1982年4月に稲沢工場を閉鎖し、跡地を日本メナード化粧品に売却した。1986年3月には主力紡織工場の1つだった佐賀工場を閉鎖した。佐賀は1941年合併4社の1社(錦華紡績)の本拠地であり、創業以来の主力工場の閉鎖は祖業の生産拠点を順次たたんでいく方針への転換を意味した。1988年2月にはレーヨン事業の分離縮小も実施し[20]、合成繊維の一角を担ってきた事業も縮小対象となった。これらの構造改革を経ても、1984年時点で9期連続の無配という業績低迷が続き、過剰設備を抱えた繊維事業の継続が困難な状況に陥った。
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [20]1988年2月にレーヨン事業を分離縮小した
繊維事業の構造的な低迷を打開するため、大和紡績は1982年に情報分野への進出を決断し、子会社のダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立[21]した。当時の日本では日本電気のPC-9800シリーズを中心にパソコン市場が立ち上がり、OA機器の企業向け販売市場が急拡大する局面にあった。DISの特色は支店網の地理的配置にあり、佐賀・金沢・出雲など大和紡績の主力工場が存在する地方都市に支店を設置し、地方の卸売市場での足場を最初から確保した。競合の大塚商会が都心部への直販を主体としていたのに対し、DISは地方の卸売というポジションで棲み分けを実現した。1983年にはNECとの販売特約店契約を締結し、PC-9800の地方流通網を握る企業として急成長した。繊維業界では当たり前だった『大量の在庫を保有する』というビジネスモデルをパソコン業界に持ち込み、即納体制を競争優位の源泉とした点も特徴だった。
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [21]1982年に子会社ダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立した
- ダイワボウHD 有価証券報告書【沿革】
- [20]1988年2月にレーヨン事業を分離縮小した
- [21]1982年に子会社ダイワボウ情報システム株式会社(DIS)を設立した