1949年〜 北九州八幡での創業から株式公開までの基盤形成期
三井ハイテックの業績推移:単体
- 1949年 創業者三井孝昭が金型の製造販売業を開始
- 1958年 タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
- 1959年 モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始
- 1969年 ICリードフレームの製造販売を開始
- 1974年 MACシステム(積層鉄芯金型内自動結束装置)を開発
- 1979年 ICリードフレームのめっき事業に参入
- 1984年 IC組立事業に参入
創業者・三井孝昭氏の独立と「金型」への集中──安川電機からの脱出
三井孝昭氏は安川電機に入社後、金型製造部門に配属されたが[1]、労働条件が厳しく非常に精緻な仕事だったため、当初は金型の仕事を好まなかった。だが軍隊に召集され、戦場で敵国の兵器を目にした際、それがすべて金型によるプレス加工で製造されていることに気づいた。日本軍の兵器は切削加工で1個仕上げるのに数分から1時間を要したのに対し、プレス加工なら当時でも1分間に60個もの均一な製品を生産できるという彼我の差を目の当たりにし、金型の重要性に開眼した。[2]この経験が、終戦・帰国後に金型一筋の道を選ぶ原点となった。
- [1]三井孝昭氏は安川電機の金型製造部門に配属されたが、当初は労働条件の厳しさから金型の仕事を好まなかった
- [2]出征中に敵国兵器がすべて金型プレス加工で作られていることを知り、金型の重要性に開眼した
1949年1月、安川電機に勤務していた三井孝昭氏が[3]、低賃金の待遇からの脱却を目的に独立し[4]、福岡県八幡市(現北九州市八幡西区黒崎)で金型の製造販売業を個人事業として始めた。[5]八幡製鐵所のおひざ元という製鉄業の集積地で、安川電機時代に習得したモーター向け金型の技術を生かす方針である。戦後復興期の電気製品の家庭普及が需要側を押し上げ、モーター鉄心の打抜き金型という限定領域で精度を競う事業基盤が固まった。三井孝昭氏は技術志向の経営者で、金型という製造業の裏方に集中する戦略を貫いた。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [3]1949年1月 三井孝昭が福岡県八幡市で金型の製造販売業を個人創業
- [4]創業者は三井孝昭(安川電機からの独立)
- [5]創業地は北九州市八幡西区黒崎
1954年3月、熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入し[6]、量産用金型の精度水準を引き上げた。1957年4月に資本金150万円で株式会社三井工作所を設立し[7]、個人事業から法人化を完了した[8]。1958年12月にはタングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発[9]、1億枚の打抜きに対応する超硬合金金型への参入を果たした。当時すでに家電が普及していたアメリカ市場に着目し、珪素鋼板から打ち抜いたモーター鉄心の輸出で業容を広げた経緯である。1959年5月、モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始した[10]。エアコン・冷蔵庫等の家電用モーター・自動車部品用モーターの鉄芯(コア)を打抜くための精密金型の供給で、後年の主力事業の起点となる。創業時の1949年に50万円だった売上高は、オール研磨仕上げ金型の開発により毎年40〜50%の成長を続け、33年(1958年)に5,000万円、創業10周年の34年(1959年)には1億円に達した。[11]
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [6]1954年3月 熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
- [7]1957年4月 資本金150万円で株式会社三井工作所を設立(法人化)
- [8]設立時資本金150万円
- [9]1958年12月 タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
- [10]1959年5月 モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始
- [11]創業時(昭和24年)売上高50万円が、毎年40〜50%成長し昭和33年に5,000万円、創業10周年の昭和34年に1億円に到達
- [1]三井孝昭氏は安川電機の金型製造部門に配属されたが、当初は労働条件の厳しさから金型の仕事を好まなかった
- [2]出征中に敵国兵器がすべて金型プレス加工で作られていることを知り、金型の重要性に開眼した
- [11]創業時(昭和24年)売上高50万円が、毎年40〜50%成長し昭和33年に5,000万円、創業10周年の昭和34年に1億円に到達
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [3]1949年1月 三井孝昭が福岡県八幡市で金型の製造販売業を個人創業
- [4]創業者は三井孝昭(安川電機からの独立)
- [5]創業地は北九州市八幡西区黒崎
- [6]1954年3月 熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入
- [7]1957年4月 資本金150万円で株式会社三井工作所を設立(法人化)
- [8]設立時資本金150万円
- [9]1958年12月 タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
- [10]1959年5月 モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始
ICリードフレームのプレス加工量産──業界常識の転覆
1960年10月、北九州市八幡西区小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設し[12]、生産能力を引き上げた。1961年4月には平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始[13]、自社の生産技術を外販する工作機械事業の起点を築いた。1966年5月、三井孝昭氏はICリードフレームに着目[14]した。1960年代当時、IC(集積回路)は世界で実用化されたばかりの最先端技術で、リードフレームはエッチング方式で製造するのが業界の主流だった。エッチングは薬品を使うため量産コストが高く、半導体メーカーの量産化のボトルネックでもあった。三井孝昭氏はプレス加工で量産する方向に賭けて研究開発を進め、量産コストを1/10に削減することに成功する。同年8月には米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設し[15]、初の海外拠点を設置した。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [12]1960年10月 小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設
- [13]1961年4月 平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
- [14]1966年 ICリードフレームに着目(試作金型開発)
- [15]1966年8月 米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設(初の海外拠点)
1969年6月、ICリードフレームの製造販売を開始[16]した。金型・モーターコアに続く3本目の柱となる事業領域への参入だが、量産化に成功しても国内に販路はなかった。当時の三井ハイテックは年商20億円未満の中小企業で、国内半導体メーカーはICの量産に乗り出しておらず、中小発の部品を採用するリスクを取りたがらなかった。三井孝昭氏は販路をアメリカに求め、1972年4月に米国イリノイ州でインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立、急成長期だった米国TI(テキサスインスツルメンツ)から約10億円の大量受注を獲得した。[17]この受注を足がかりに日本の半導体メーカーからもリードフレームの採用が広がり、リードフレーム事業の量産体制が整った。1972年12月のシンガポール進出(ミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)、現ミツイ・ハイテック(シンガポール)設立)は[18]、1971年12月のニクソンショックによる円高ドル安に対応するもので、北米輸出向けリードフレームの量産コスト低減を狙った拠点である。1974年8月にはモーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発した[19]。モーターコア生産の『計量・ひねり・積層・結束』を自動化する装置で、世界各国で特許を取得し、年間約1億円の特許収入を生んだ。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [16]1969年6月 ICリードフレームの製造販売を開始
- [17]1972年4月 米国イリノイ州にインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
- [18]1972年12月 シンガポールにミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)(現ミツイ・ハイテック(シンガポール))を設立
- [19]1974年8月 モーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [12]1960年10月 小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設
- [13]1961年4月 平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始
- [14]1966年 ICリードフレームに着目(試作金型開発)
- [15]1966年8月 米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設(初の海外拠点)
- [16]1969年6月 ICリードフレームの製造販売を開始
- [17]1972年4月 米国イリノイ州にインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立
- [18]1972年12月 シンガポールにミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)(現ミツイ・ハイテック(シンガポール))を設立
- [19]1974年8月 モーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発
「三井ハイテック」への社名変更と九州シリコンアイランド連動
1975年、三井ハイテックは創業以来初の赤字に転落した。1973年10月のオイルショックで取引先の設備投資が止まり、リードフレームとモーターコアの両方の需要が同時に縮んだ局面である。1979年10月にICリードフレームのめっき事業(自動連続スポット[20]めっき装置)を開発、1980年代に入って業績は回復に向かった。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [20]1979年10月 ICリードフレームのめっき事業(自動連続スポットめっき装置)を開発
1984年5月、商号を株式会社三井ハイテックに変更[21]した。金型・モーターコア・リードフレームの3本柱を持つ精密加工メーカーとしての自己定義の転換である。同年7月にIC組立事業を開始(2018年10月に清算)、[22]9月に福岡証券取引所に株式を上場した[23]。FY1984の売上は290億円(前年比+70.8%)・営業利益48億円(利益率16.8%)に達し、当時のリードフレームではトップシェアを握り、取引先には三菱電機・東芝・日立・TI・モトローラ・フェアチャイルドなど世界の半導体大手が並んだ。1980年代の九州はシリコンアイランドとして半導体産業の集積が進み、三井ハイテックの売上の25%は九州地区向けで占められた。本社を九州に構える地の利が、産業集積の一翼を担うかたちで業容を後押しした期間である。1985年9月には東京証券取引所市場第二部に上場[24]、1991年7月には東証一部に昇格した[25]。創業から42年で個人事業から東証一部上場企業[26]へ成長した経緯である。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [21]1984年5月 商号を株式会社三井ハイテックに変更
- [22]1984年7月 IC組立事業を開始(2018年10月清算)
- [23]1984年9月 福岡証券取引所に株式を上場
- [24]1985年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [25]1991年7月 東京証券取引所市場第一部に昇格
- [26]創業(1949年)から42年で東証一部上場(1991年)
1987年1月のマレーシア進出[27]、1993年12月の中国北京事務所開設[28]、1994年7月の中国天津現法(三井高科技(天津)有限公司)設立[29]、1996年3月の上海現法設立[30]、1997年1月のシンガポール統括会社(ミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ)設立と[31]、東南アジア・中国の主要地域に拠点を設けた。1990年代後半までに、世界の主要半導体パッケージ需要地(米国・東南アジア・中国)に物理的に拠点を持つ体制が整った。
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [27]1987年1月 マレーシアにミツイ・ハイテック(マレーシア)を設立(マレーシア進出)
- [28]1993年12月 中国北京事務所開設
- [29]1994年7月 中国に三井高科技(天津)有限公司を設立
- [30]1996年3月 中国に三井高科技(上海)有限公司を設立
- [31]1997年1月 シンガポールにミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ(アジア統括拠点)を設立
- 株式会社三井ハイテック 有価証券報告書(【沿革】)
- [20]1979年10月 ICリードフレームのめっき事業(自動連続スポットめっき装置)を開発
- [21]1984年5月 商号を株式会社三井ハイテックに変更
- [22]1984年7月 IC組立事業を開始(2018年10月清算)
- [23]1984年9月 福岡証券取引所に株式を上場
- [24]1985年9月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [25]1991年7月 東京証券取引所市場第一部に昇格
- [26]創業(1949年)から42年で東証一部上場(1991年)
- [27]1987年1月 マレーシアにミツイ・ハイテック(マレーシア)を設立(マレーシア進出)
- [28]1993年12月 中国北京事務所開設
- [29]1994年7月 中国に三井高科技(天津)有限公司を設立
- [30]1996年3月 中国に三井高科技(上海)有限公司を設立
- [31]1997年1月 シンガポールにミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ(アジア統括拠点)を設立