創業地北九州市八幡
創業年1949
上場年1986
創業者三井孝昭

独立系・個人創業職人・家業・小売からの出発1949年1月、安川電機に勤めていた三井孝昭が低い待遇から抜けるため独立し、福岡県八幡市で金型の製造販売を個人で始めた。八幡製鐵所のおひざ元という製鉄業の集積地で、安川電機時代に身につけたモーター向け金型の技術を生かす方針をとった。戦後の家電普及がモーター鉄心の需要を押し上げ、1958年には1億枚の打抜きに耐えるタングステンカーバイド金型を開発、珪素鋼板から鉄心を打ち抜く精度を高め、家電が先に普及していたアメリカ市場へ鉄心部品を輸出して業容を広げていった。

技術・ブランドによる差別化/多角化販路・チャネルの差し替えコストリーダーシップ・低価格で勝つ1966年、三井孝昭は実用化されたばかりのICリードフレームに目をつけ、薬品で削るエッチングが主流の業界で、プレスで打ち抜く量産に賭けた。研究の末に量産コストを十分の一に下げたが、年商二十億円に満たない中小企業の部品を国内半導体メーカーは採らなかった。そこで販路をアメリカに求め、1972年に米国TIから約十億円の大量受注を獲得する。これを足がかりに三菱電機や東芝など国内大手にも採用が広がり、金型の精度を別の出口へ向け替える手が通った。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1949年創業の金型メーカーが、モーター鉄心を打ち抜く精度に賭けたのか
A 金型そのものは安く、価値を生むのはそれが打ち抜く部品の精度と耐久だった。エアコンや冷蔵庫のモーター鉄心は珪素鋼板を寸分たがわず大量に抜き続ける必要があり、わずかな金型の摩耗が不良率を押し上げる。そこへ精度を売る余地があった。三井孝昭は安川電機で身につけたモーター向け金型の技術を持って1949年に福岡県八幡市で独立し、八幡製鐵所のおひざ元という鋼材の集積地に拠った。1958年には1億枚の打抜きに耐えるタングステンカーバイド金型を開発し、戦後の家電普及で膨らむ鉄心需要を精度で取りにいった
Q なぜ1972年に、量産化したICリードフレームを国内ではなく米国TIへ売り込んだのか
A 国内の半導体メーカーが、年商二十億円に満たない中小企業の部品を採るリスクを取りたがらなかったためである。三井孝昭は、薬品で削るエッチングが主流だったリードフレームをプレスで打ち抜く方向に賭け、量産コストを十分の一に下げていた。その価格優位を評価する買い手は、ICの量産に先行して急成長していた米国市場にいた。1969年にリードフレームの製造販売を始め、1972年に米国イリノイ州へ現地法人を設け、TIから約十億円の大量受注を獲得した。これを足がかりに三菱電機や東芝など国内大手にも採用が広がった。
Q なぜ2010年代後半に、リードフレームではなくEV駆動モーターコアへ売上を超える設備投資を集中させたのか
A 主力のリードフレームは中国勢の台頭で価格が下がり、家電・産業用モーターも成熟して伸びにくくなっていた。一方、創業以来の「珪素鋼板を金型で精密に打ち抜く」技術は、HV・EVの駆動モーター鉄心という新しい出口にそのまま効いた。三井ハイテックはモーターコアで世界シェア六割超を握り、トヨタ自動車などへ供給する立場にあった。そこで2018年に岐阜県可児市へ百億円超を投じて車載コア量産拠点を新設し、当時の電機部品事業の売上を超える額を、需要拡大が見込めるEVへ振り向けた

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1949年〜1991年 北九州八幡での創業から株式公開までの基盤形成期

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

創業者・三井孝昭氏の独立と「金型」への集中──安川電機からの脱出

三井孝昭氏は安川電機に入社後、金型製造部門に配属されたが、労働条件が厳しく非常に精緻な仕事だったため、当初は金型の仕事を好まなかった[1]。だが軍隊に召集され、戦場で敵国の兵器を目にした際、それがすべて金型によるプレス加工で製造されていることに気づいた。日本軍の兵器は切削加工で1個仕上げるのに数分から1時間を要したのに対し、プレス加工なら当時でも1分間に60個もの均一な製品を生産できるという彼我の差を目の当たりにし、金型の重要性に開眼した[2]。この経験が、終戦・帰国後に金型一筋の道を選ぶ原点となった。

1949年1月、安川電機に勤務していた三井孝昭氏が、低賃金の待遇からの脱却を目的に独立し、福岡県八幡市(現北九州市八幡西区黒崎)で金型の製造販売業を個人事業として始めた[3][4][5]。八幡製鐵所のおひざ元という製鉄業の集積地で、安川電機時代に習得したモーター向け金型の技術を生かす方針である。戦後復興期の電気製品の家庭普及が需要側を押し上げ、モーター鉄心の打抜き金型という限定領域で精度を競う事業基盤が固まった。三井孝昭氏は技術志向の経営者で、金型という製造業の裏方に集中する戦略を貫いた。

1954年3月、熱処理後総研削仕上げ金型1号機を納入し、量産用金型の精度水準を引き上げた[6]。1957年4月に資本金150万円で株式会社三井工作所を設立し、個人事業から法人化を完了した[7][8]。1958年12月にはタングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発、1億枚の打抜きに対応する超硬合金金型への参入を果たした[9]。当時すでに家電が普及していたアメリカ市場に着目し、珪素鋼板から打ち抜いたモーター鉄心の輸出で業容を広げた経緯である。1959年5月、モーターコア用タングステンカーバイド精密順送り金型の製造販売を開始した[10]。エアコン・冷蔵庫等の家電用モーター・自動車部品用モーターの鉄芯(コア)を打抜くための精密金型の供給で、後年の主力事業の起点となる。創業時の昭和24年(1949年)に50万円だった売上高は、オール研磨仕上げ金型の開発により毎年40〜50%の成長を続け、33年(1958年)に5,000万円、創業10周年の34年(1959年)には1億円に達した[11]

ICリードフレームのプレス加工量産──業界常識の転覆

1960年10月、北九州市八幡西区小嶺に小嶺工場(現本社・八幡事業所)を新設し、生産能力を引き上げた[12]。1961年4月には平面研削盤の量産化体制を整え外販を開始、自社の生産技術を外販する工作機械事業の起点を築いた[13]。1966年5月、三井孝昭氏はICリードフレームに着目した[14]。1960年代当時、IC(集積回路)は世界で実用化されたばかりの最先端技術で、リードフレームはエッチング方式で製造するのが業界の主流だった。エッチングは薬品を使うため量産コストが高く、半導体メーカーの量産化のボトルネックでもあった。三井孝昭氏はプレス加工で量産する方向に賭けて研究開発を進め、量産コストを1/10に削減することに成功する。同年8月には米国イリノイ州にシカゴ事務所を開設し、初の海外拠点を設置した[15]

1969年6月、ICリードフレームの製造販売を開始した[16]。金型・モーターコアに続く3本目の柱となる事業領域への参入だが、量産化に成功しても国内に販路はなかった。当時の三井ハイテックは年商20億円未満の中小企業で、国内半導体メーカーはICの量産に乗り出しておらず、中小発の部品を採用するリスクを取りたがらなかった。三井孝昭氏は販路をアメリカに求め、1972年4月に米国イリノイ州でインターナショナル・リードフレーム・コーポレーションを設立、急成長期だった米国TI(テキサスインスツルメンツ)から約10億円の大量受注を獲得した[17]。この受注を足がかりに日本の半導体メーカーからもリードフレームの採用が広がり、リードフレーム事業の量産体制が整った。1972年12月のシンガポール進出(ミツイ・マニュファクチュアリング(シンガポール)、現ミツイ・ハイテック(シンガポール)設立)は、1971年12月のニクソンショックによる円高ドル安に対応するもので、北米輸出向けリードフレームの量産コスト低減を狙った拠点である[18]。1974年8月にはモーターコアの金型自動結束システム(MAC)を開発した[19]。モーターコア生産の「計量・ひねり・積層・結束」を自動化する装置で、世界各国で特許を取得し、年間約1億円の特許収入を生んだ。

「三井ハイテック」への社名変更と九州シリコンアイランド連動

1975年、三井ハイテックは創業以来初の赤字に転落した。1973年10月のオイルショックで取引先の設備投資が止まり、リードフレームとモーターコアの両方の需要が同時に縮んだ局面である。1979年10月にICリードフレームのめっき事業(自動連続スポットめっき装置)を開発、1980年代に入って業績は回復に向かった[20]

1984年5月、商号を株式会社三井ハイテックに変更した[21]。金型・モーターコア・リードフレームの3本柱を持つ精密加工メーカーとしての自己定義の転換である。同年7月にIC組立事業を開始(2018年10月に清算)、9月に福岡証券取引所に株式を上場した[22][23]。FY1984の売上は290億円(前年比+70.8%)・営業利益48億円(利益率16.8%)に達し、当時のリードフレームではトップシェアを握り、取引先には三菱電機・東芝・日立・TI・モトローラ・フェアチャイルドなど世界の半導体大手が並んだ。1980年代の九州はシリコンアイランドとして半導体産業の集積が進み、三井ハイテックの売上の25%は九州地区向けで占められた。本社を九州に構える地の利が、産業集積の一翼を担うかたちで業容を後押しした期間である。1985年9月には東京証券取引所市場第二部に上場、1991年7月には東証一部に昇格した[24][25]。創業から42年で個人事業から東証一部上場企業へ成長した経緯である[26]

1987年1月のマレーシア進出、1993年12月の中国北京事務所開設、1994年7月の中国天津現法(三井高科技(天津)有限公司)設立、1996年3月の上海現法設立、1997年1月のシンガポール統括会社(ミツイ・アジア・ヘッドクォーターズ)設立と、東南アジア・中国の主要地域に拠点を設けた[27][28][29][30][31]。1990年代後半までに、世界の主要半導体パッケージ需要地(米国・東南アジア・中国)に物理的に拠点を持つ体制が整った。

1992年〜2014年 リーマンショック直撃と業績低迷の長期化

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

中国・東南アジアの量産拠点拡張

1998年10月の台湾現法(ミツイ・ハイテック(タイワン))設立、1999年6月のイタリアミラノ事務所開設、12月のタイ現法(ミツイ・ハイテック(タイランド))設立と、半導体パッケージのアジア生産拠点の急拡張期に同社も拠点網を広げた[32][33][34]。2002年9月の中国広東現法(三井高科技(広東)有限公司)設立で、中国南部の電子製造拠点(深圳・東莞・恵州等)の半導体需要を取り込む布石を打った[35]

1990年代後半からの東南アジア・中国拠点の連続新設は、半導体パッケージのアジアシフトに合わせた現地供給体制の構築であった。米国・東南アジア・中国の3極に物理的拠点を持つ体制が2000年代前半までに完成し、ICリードフレーム・モーターコアの世界向け供給網が地理的に整った。三井ハイテックが創業以来築いてきた金型・モーターコア・リードフレームの3本柱は、この時期に国内一極依存から脱却し、半導体パッケージ需要地に近接する位置に台湾・タイ・中国広東の量産ラインを並べる形になった。

リーマンショック・東日本大震災・業績低迷の連鎖

2008年秋のリーマンショックで三井ハイテックは直撃を受けた。FY07の売上629億円・純利益17億円から、FY08は売上504億円・純損失42億円、FY09は売上379億円・純損失50億円、FY10は売上501億円・純損失28億円、FY11は売上508億円・純損失16億円と、4期連続赤字の長期低迷期に入った。半導体需要の急減と中国・東南アジアでの過剰生産能力、円高による海外売上の円換算減少が同時に襲う環境だった。

2009年4月、坂上隆紀社長から三井康誠氏が代表取締役社長を承継した[36]。三井家3代目として1968年11月生、三井ハイテック入社の生え抜き。リーマン直後の業績悪化と長期低迷の中で経営の舵を引き継ぐ難しい船出となった。FY12(2013年1月期)に売上546億円・純利益22億円とようやく黒字回復、FY13-FY15は売上規模600〜650億円の停滞期を続けた。半導体パッケージのリードフレーム需要は中国勢の台頭で価格圧力が強まり、モーターコア需要は家電・産業用モーターの成熟化で伸びを期待しにくい状況が続いた。

2015年〜2025年 EV駆動モーターコア需要の波と「ヴィジョン2030」

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

北米・欧州EV市場への布石と岐阜事業所103億円投資

2015年1月、カナダにミツイ・ハイテック(カナダ)を設立し、北米EV需要を見据えた拠点を整えた[37]。2018年9月にはポーランドにミツイ・ハイテック(ヨーロッパ)を設立し、欧州EV需要への布石を置いた[38]。同年11月に岐阜県可児市の岐阜事業所を新設、車載コアモーターの量産拠点として稼働させた[39]。FY2017の設備投資103億円を投じた新設で、当時の電機部品事業の売上79億円を超える額である。事業規模に対しては売上超の投資判断で、半導体リードフレームの中国勢台頭による価格圧力と、家電・産業用モーターの成熟化に直面していた三井ハイテックが、車載コアモーターへ集中投資する経営判断を体現した一手であった。

EV駆動モーター用モーターコアは、ハイブリッド車(HEV)・電気自動車(EV)の駆動モーターの鉄芯を構成する精密積層部品で、トヨタ自動車・テスラ・ホンダ・日産自動車・現代自動車・フォルクスワーゲン等の主要自動車メーカーが大量に消費する。三井ハイテックは2022年時点で世界シェア60〜70%を握り、「厚板を薄くして金型を打つ」技術的優位性が、競合参入や顧客の内製化を抑える参入障壁となった。創業以来65年の金型精度の蓄積が、EV駆動モーターという出口で結びついた経緯である。

EV需要急増による業績拡大とFY25の急ブレーキ

FY20(2021年1月期)の売上974億円・営業利益38億円から、FY21の売上1,394億円・営業利益150億円、FY22の売上1,746億円・営業利益226億円、FY23の売上1,959億円・営業利益181億円、FY24の売上2,149億円・営業利益160億円と、4年間で売上は約2.2倍・営業利益は約4.2倍に拡大した。EV駆動モーター用モーターコアの世界的な需要拡大を、北米・欧州・国内の生産拠点拡充で取り込んだ結果である。2022年4月の東京証券取引所プライム市場移行を経て、2023年8月にはアメリカにミツイ・ハイテック ノースアメリカを設立し北米EV需要への増強、2024年12月にはドイツにミツイ・ハイテック ドイチュランドを設立し欧州EV需要への増強と、地域別の生産能力拡張を急ピッチで行った[40][41][42]

ただしFY25(2026年1月期)には急ブレーキがかかった。売上2,183億円と前期比約1.6%増にとどまり、営業利益127億円と前期比約21%減、純利益31億円と前期比約74%減に縮小した。EV需要の伸び鈍化、過剰生産設備の減損74億円(特別損失内)、円安効果の剥落が同時に響いた局面である。三井康誠社長の長期政権下で、創業以来一貫した「金型・モーターコア・リードフレームの3本柱」の収益安定性と、EV需要急増局面で行った生産能力拡張の回収バランスが焦点となる局面に入った。

創業から77年を経た同社は、北九州八幡の個人事業から世界トップシェアのEV駆動モーター用モーターコアメーカーへ転換した[43]。三井康誠社長の長期政権下で、「中期経営計画ヴィジョン2030」を掲げ、熊本県大津町・福岡県嘉麻市・米州・中国を含むグローバル生産能力増強を進めつつ、EV需要拡大期に合わせた設備投資を主導している。創業家3代として家族経営の連続性を保ちつつ、社外取締役(弁護士・公認会計士・元日本銀行)の招聘でコーポレートガバナンスを強化し、上場企業としての透明性を高めた経営フェーズに入っている。EV需要鈍化・地政学変動・半導体パッケージ需要のサイクルという3つの外部要因に直面しながら、3本柱の収益基盤を維持できるかが、次の10年の経営課題となる。