創業1879年8月、明治政府の殖産興業期に渋沢栄一の主唱と岩崎弥太郎の出資で日本初の海上保険専業会社として東京海上保険会社が創業した。邦船社の積荷保険の大半はロンドン市場で英系保険会社に握られており、邦船保険を国内資本で引き受ける受け皿として構想された。1890年以降のイギリス事業で巨額損失を出したが、1894年に26歳の各務鎌吉をロンドンに派遣して半額減資と業務改革で立て直した。
決断1914年に国内初の自動車保険を引き受け、1944年3月の旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で新生・東京海上火災保険が発足した。1974年に業界初の自動車保険オンラインを稼働させ、1995年時点で業界シェア18%の国内ガリバーとなった。2002年4月にミレアホールディングスを設立、2008年7月に東京海上ホールディングスへ商号変更し、同年12月に米フィラデルフィアを約47億ドル、2015年10月にHCCを約75億ドル、2020年2月に米PUREを約31億ドルで買収した。
課題2024年5月、企業向け共同保険料の事前調整問題への金融庁要請を受け、政策保有株式3.5兆円の2030年3月末全売却を決議した。2025年3月期は親会社株主帰属当期純利益1兆552億円と邦損保初の1兆円超え、海外保険事業の経常収益が国内損害保険事業を上回った。戦後一貫して担ってきた持ち合い構造からの脱却――2030年3月末の政策保有株式3.5兆円全売却が、収益と資本の両面の再構築を進める。
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歴史概略
1879年〜1943年海運国家の損保としての船出と戦時の海外撤退
渋沢栄一と岩崎弥太郎が出資した日本初の海上保険会社
1879年8月、渋沢栄一の主唱により貨物海上保険の引き受けを目的として東京海上保険会社が創業した。社名は創業地の地名から取り、初代頭取には華族出身の政治家・蜂須賀茂韶が就いた。大口出資者には岩崎弥太郎の名前があがり、明治政府の殖産興業期を代表する二つの資本人脈が同じ船に乗り合わせる発足となった。明治政府が殖産興業を進めるなか、近代海運業の勃興に伴って貨物の海上輸送リスクを担う専業会社が必要とされ、渋沢と岩崎が海上保険の引受装置を国内資本で立ち上げた。海運リスクを国内で抱える受け皿を作るという課題に、当時の最大級の財界人脈が応えた創業だった。
1879年当時、邦船社の積荷保険の大半はロンドン市場で英系保険会社に握られており、邦船保険を国内資本で引き受ける受け皿として東京海上は構想された。創業翌年から欧米にも営業網を広げ、1884年2月には船舶保険の引き受けを開始した。当初は推移したが、1890年以降のイギリス事業が巨額の損失を出して経営危機に陥り、創業から10年余で会社の存続が危ぶまれた。ロンドン市場の競争に挑んだ邦資本初の海上保険会社は、英系保険会社が長年蓄積した統計とブローカー網の壁に打ち当たり、海外進出の初動が一度折れた。ロンドンで損失を出したからといって撤退するのではなく、その場に腰を据えて学び直す道を選んだ。
26歳の各務鎌吉をロンドンに派遣
1894年7月、当時26歳の各務鎌吉がロンドンに派遣された。各務は現地の経営状況を詳細に分析し、会計方式の切り替えと半額減資を柱とする業務改革を献策、東京海上はこれを実行して窮地を脱した。年齢や経験から見て経営判断を任せる人選としては異例だったが、ロンドン市場で生き残るには英系保険会社の運営手法を内部に取り込むほかなく、若手の現地長期駐在による直接吸収という道が選ばれた。各務がそのころ考案した「ロンドン・カバー」と呼ばれる再保険特約は、高水準の引受能力を可能にし、戦間期以降のわが国海運界の発展を裏側から支える仕組みとなった。
各務はのちに専務・会長として経営の中心に立ち続け、1923年9月の関東大震災では大日本連合火災保険協会長として地震免責条項の政治問題化を処理した。1894年のロンドン派遣で抜擢された26歳の若手が、近代日本の保険業を制度面から支える人物へと育ち、東京海上は海上保険の引受能力で業界首位の地位を固めた。国際市場の厳しさに一度屈した会社が、現地派遣という手段でその厳しさ自体を吸収した点に、東京海上の海外学習の型が表れている。後年のロンドン・ニューヨーク・パリ網の復旧や2000年代以降のM&Aによる海外事業拡大も、この現地に人を置いて仕組みごと取り込むという発想の延長線上に並ぶ。
わが国初の自動車保険、そして1944年の3社合併
1914年、東京海上は火災・運送・自動車の各保険の営業を開始した。自動車保険はわが国で初めての引き受けであり、自動車そのものが稀有だった時代における新分野への先行参入だった。1918年に東京海上火災保険株式会社へ改称し、1911年から始まったアメリカでの本格営業や英・伊保険会社との提携を通じて、世界49都市規模の海外網をつくりあげた。海上保険は第1次大戦により拡大し、海運国家の貨物輸送リスクを引き受ける業界首位の地位を固めた。創業期から「海外」と「業界初の新種保険」の二軸を経営の特徴とした点が、1914年の自動車保険参入と海外網拡張に表れる。
第2次大戦で、この海外営業網は丸ごと失われた。1944年3月、戦時下の業界再編の一環として、旧東京海上、明治火災(1891年設立)、三菱海上(1919年設立)の3社合併により新生・東京海上火災保険株式会社が発足した。三菱系損保の統合は戦時経済下における保険業集約の一環であり、創業以来積み上げてきた海外網はいったん白紙に戻された。海運国家の損保として攻めに出た60年強の歩みは敗戦とともに国内市場への撤退を迫られ、会社は次の再出発をゼロに近い地点から始めるしかなくなった。戦後に海外網を再建するまで10年以上の歳月を要し、その間の海外事業はほぼ白紙である状態が続いた。
1944年〜2001年戦後の再出発と国内ガリバーとしての確立
海外網ゼロからの再出発と自動車保険オンライン業界初
1945年8月の終戦で、同社は契約激減・損害率悪化に加えて、在外資産の喪失、本社ビル接収、公職追放、優良持株の放出を一度に引き受けた。海外営業網は丸ごと失われ、1956年1月の米国元受営業再開、同年5月の欧州再開に至るまで海外収益はゼロの状態が続いた。1949年5月に東京証券取引所に株式を上場し、1950年4月に外貨建貨物海上保険の営業を再開、ロンドン・ニューヨーク市場との再保険取引も復活した。戦前の世界49都市網を作り直すには10年以上の時間がかかり、海外事業の実質的な復旧は1960年代以降に持ち越された。戦後の東京海上は、国内市場で食いつなぎながら海外網を細々とつなぎ直す作業から再出発した。
1955年12月、自動車損害賠償保険法に基づく強制保険として自賠責保険の営業を開始した。モータリゼーションの進展で自賠責と任意の自動車保険は規模を伸ばし、1974年2月には業界初の自動車保険オンラインシステムが稼働した。1988年から90年にかけての第3次オンラインで総合システムの高度化を実現し、損保業界の電算化を先導する立場となった。1960年代後半には交通戦争の激化で保険金支払いがかさみ、任意自動車保険の引き受けを断る損保が業界で相次ぐ事態となったが、東京海上は電算化投資の先行で契約一件当たりの処理単価を下げ、大量契約・大量事故処理の世界に最も早く対応した。海上保険の祖として始まった会社が、戦後高度成長期に主力種目の電算装置で業界首位の維持を裏付けた。
海上49%・火災42%から、自動車・自賠責へ
1955年度の元受保険料収入99億円から1970年度には1640億円へ、15年間で16.6倍に伸びた。種目別構成比は1955年度の海上49%・火災42%から、1970年度には自賠責30%・自動車23%へと置き換わった。海運国家の貨物リスクを引き受けるために生まれた会社は、高度成長期の15年でモータリゼーション時代の主力損保へと中身を入れ替えた。両保険とも高い損害率に悩まされたが、契約件数の桁違いの拡大が業容のけん引役となり、海上保険の時代に築かれたブランドと代理店網がそのまま自動車保険の販売装置として転用された。海上から陸上へという主力種目の入れ替えが、戦後東京海上の前半を形づくった。
1969年4月には補償に貯蓄性を加えた長期保険である積立保険(長期総合保険)を発売し、1985年9月には積立特約の認可を取得した。1990年度の元受保険料は1兆5501億円と20年間で9.5倍に伸び、構成比では積立30%・自動車28%と積立保険の比率が高まった。1986年以降は保険料ベースで世界のベストスリーにランクされる規模となった。積立保険は個人金融資産の増大という時代背景を捉えた商品であり、損害保険の枠を超えた金融商品開発主体として東京海上の性格を押し広げた。リスク移転だけでなく貯蓄の受け皿としても個人顧客を抱え込む構造が、80年代後半の東京海上の収益基盤を支え、業界トップで高収益と評される優位なポジションが定着した。
国内首位シェア18%とミレアホールディングス設立
1995年時点で東京海上の正味保険料の業界シェアは18%に達し、三菱系損保として業界首位の座を占めた。海上保険を中心に各種企業保険に強みを持ち、世界49都市に137人の駐在員を送り込む国内ガリバーとして1990年代を迎えた。1995年6月の改正保険業法公布を受け、新中期経営計画IC-95を進めている最中だった。改正保険業法は損保各社の業務範囲拡大と業態転換を促す制度変更であり、業界首位の東京海上は次の経営体制を構想する時期に入った。戦後50年で国内市場を掌握した裏で、人口減少と自動車保険市場の成熟が見え始めており、国内に閉じたままでは収益成長の頭打ちが近づくという共通認識が社内に生まれた。
1998年に樋口公啓社長は、護送船団行政下の代理店網がいまや弱みに転じかねないと述べ、「東京海上だけで約8万もの代理店ができました。ところが最近は通信販売を活用した外資系保険の攻勢や保険料率の自由化で、この膨大な販売店網が弱みに転じかねない情勢です」(出所 1998/8/3)と語った。1996年12月の日米保険協議決着で1998年7月までの料率完全自由化が決まり、業界は厳しい価格競争に向き合う環境となった。2001年1月、東京海上火災保険、日動火災海上保険、朝日生命保険の3社が「ミレア保険グループ」の結成を発表し、2002年4月、東京海上と日動火災が共同株式移転方式で株式会社ミレアホールディングスを設立した。国内初の上場保険持株会社であり、邦損保業界における持株会社化の先駆けとなった。
2002年〜2019年海外M&Aで稼ぐグローバル損保への転換
朝日生命と共栄火災が抜けた誤算と東京海上日動の発足
ミレア保険グループの当初構想は、東京海上・日動火災に加えて朝日生命と共栄火災を糾合した総合金融グループだった。共栄火災は2002年8月にJA共済連グループ入りに伴って離脱し、朝日生命も2003年1月に経営統合の膠着を理由に離脱した。生損保の総合金融グループという初期構想は2年で解体され、ミレアは事実上、東京海上と日動火災という損保2社の統合プラットフォームに縮退した。生保参入という業態拡張のシナリオが当初構想から消えた事実は、2002年以降の戦略選択を規定する前提となった。業態を広げる器を用意したのに中身が揃わず、次の一手をどこに求めるかという問いが正面に残った。
2004年10月1日、持株会社傘下の東京海上火災保険と日動火災海上保険が合併し、東京海上日動火災保険株式会社が発足した。生命保険を含む総合金融グループ構想は解け、損保事業に焦点を絞った再出発となる。この縮退が、2008年以降の海外M&Aによる成長戦略へと持株会社の戦略軸を振り直す下地となった。国内損保市場の成熟が見えるなか、業態拡張の代わりに地理的拡張を選ぶほかに成長余地が残されていなかった。国内金融複合体という絵を諦めた裏で、海外P&C保険会社の買収というシンプルな成長シナリオに集中する環境が整った。持株会社方式という器は残しつつ、中身を損保のグローバル化に絞り替える選択が、ここで固まった。
47億ドルのフィラデルフィア・コンソリデーテッド ── 米市場本格進出
2008年3月、東京海上は英ロイズ市場の保険グループKiln Ltdを約6億ポンドで買収し、ロイズ市場への参入を果たした。同年7月にミレアホールディングスから東京海上ホールディングス株式会社へ商号を変更し、グループ統一ブランドを掲げた。続く2008年12月、米P&C保険会社フィラデルフィア・コンソリデーテッドを1株61.50ドル・買収総額約47億ドルで取得した。邦損保として最大級の海外M&Aであり、英米2市場の事業基盤を同じ年に同時に取得した。世界49都市網を戦争で失った会社が、60年余り後にロイズと米P&Cというふたつの中核市場を同時に押さえ直した点で、海外戦略における歴史的な節目となった。
2008年は世界金融危機のただ中であり、リーマン・ブラザーズ破綻直後という市況で踏み切った買収だった。FY08(2009年3月期)の親会社株主帰属当期純利益は231億円と前年の1088億円から落ち込んだが、海外M&Aの手は止めなかった。2009年3月の週刊東洋経済で隅修三社長は「エネルギーは内向きより外向きに拡大させていく」(出所 2009/3/28)と語り、危機下の海外攻勢を路線として明示した。買収後の統合に時間を要し、当面の業績は採算上の負担を負ったが、市況の底で案件を成立させた決断が後年の収益拡大を支えた。買収価格の適正さが評価されるまでに数年を要したが、5年後には海外事業の利益貢献が視認できる水準にまで膨らんだ。
デルファイ、HCC、PURE ── 100億ドルを超えた海外M&A
2012年5月、米Delphi Financial Groupを約26.6億ドルで買収し、団体生命・障害・補助医療の領域に進出した。2015年10月にはHCCインシュアランス・ホールディングスを1株78ドル・約75億ドルで取得した。HCC買収は東京海上の海外M&A史上最大の規模であり、米国スペシャルティ保険大手という新たな事業領域を加えた。2008年のフィラデルフィア・コンソリデーテッドが個人向けP&C、デルファイが団体生命・補助医療、HCCがスペシャルティ保険と、米国市場で異なる商品領域をひとつずつ補完する積み上げ方だった。2008年から2015年までの主要海外M&A総額は1兆円を優に超え、海外保険事業の規模と利益貢献は国内損保事業に肩を並べる水準にまで伸びた。
隅修三社長は2009年3月の週刊東洋経済で「もっと科学で勝負していく。いろいろなデータを駆使し、相手に説得力のある企画書を作成し、相手の分析もできる、もっと科学で商売する会社に変わっていける」(出所 2009/3/28)と語り、データと統合管理を軸に海外買収先を取り込む路線を経営の言葉で示した。国内では2018年9月の西日本豪雨と台風21号で業界全体の自然災害保険金支払いが1兆5000億円を超え、台風21号単独で1兆678億円という過去最高水準を記録した。海外M&Aで規模を拡大した裏で、国内では気候災害という新たなリスクが姿を現し、長期の損害率データに基づく保険料設計そのものに再評価が迫られた。2019年6月、永野毅から小宮暁へ社長交代が行われ、海外M&A群の統合期から、災害対応とコスト構造改革へ経営課題が移った。