1878年12月、わが国最初の保険会社として東京海上保険会社が設立され、翌1879年8月から貨物海上保険の引き受けを目的に営業を開始した。近代海運業が勃興する時期の創業であり、渋沢栄一氏の主唱により、岩崎弥太郎氏をはじめとする旧藩主らが出資した。資金の出どころは廃藩置県で旧藩主が受け取った金禄公債で、当初は鉄道への投資が検討されたものの、鉄道は政府が担うと決まり、渋沢栄一氏が海上保険を勧めた。社名は創業地の地名から取り、初代頭取には華族出身の政治家・蜂須賀茂韶氏が就任した。頭取の座はその後も旧藩主が継ぎ、2代目は宇和島藩主の伊達宗城氏、3代目は岡山藩主の池田茂政氏だった。
創業の翌年には欧米へも営業網を広げ、1884年2月には船舶保険の引き受けを開始した。当初は順調に推移したものの、1890年以降のイギリスでの営業が巨額の損失を招いた。現地の引き受けをブローカーに任せきりにしていたため、危険を選別して悪いリスクを断る仕組みを欠いたままロンドン市場に出ていた。立て直しののち、1899年以降はロンドン総代理店を開設し、その子会社に火災保険の特約再保険取引を全面的に委託した。同社が創業から敗戦までに数えた経営危機は3度あり、この英国での損失が最初のものだった。
1944年の3社合併で発足した東京海上火災保険は、1945年8月の敗戦で海外の営業網と在外資産を一切失った。戦前は海外の比重が大きく、1937年度には全保険料の27.3%をロンドンとニューヨークで得ていた。国内に残った海上と火災の引受けも、船舶の喪失と住宅の荒廃で赤字を抱えた。本社ビルも接収され、本店の臨時事務所は東京都大田区に置かれた。それでも資本の切り捨てには至らず、戦後の再建整備を終えた。戦前の信用は残り、占領軍が外国の買い手の入国を認めると英米などの保険会社から取引再開の申し出が相次いだ。営業の重心は、海外を主力とする体制から国内だけで引き受ける体制へ移った。
東京海上火災保険の火災保険の損害率は、1945年度の25%から1946年度には117%へ跳ね上がった。立て直しのため、1947年1月から普通物件で35%、工場物件で80%の料率引き上げが実施された。料率の引き上げで火災の収支を立て直す足場ができ、経済の復興が進むと業績は好転に向かった。海上が船舶の喪失と貿易の停滞で細るなか、旧明治火災の広い代理店網を足場に火災保険の拡大を優先した。1947年8月には代理店の強化に着手し、1948年には業界で初めて「代理店ニュース」を発行した。同じ1947年に常務へ就任した高木幹夫氏は、社長の田中徳次郎氏を支えつつ再建に向けて人材の育て直しに注力した。
東京海上火災保険は1949年5月、東京証券取引所に株式を上場した。その前段には財閥解体があり、1946年3月に制限会社の指定を受けて保有株の処分などを求められていた。1950年時点の大株主には、持株会社整理委員会と大蔵大臣が名を連ねた。上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡の4か所に及んだ。制限会社の指定は1950年10月に解かれ、海外営業の推進と過小資本の是正を掲げて増資を重ねた。資本金は1953年10月に20億円となり、1956年10月には40億円に達した。三菱系の持ち合いがほどけた株を市場で受け止め、担保力を積む増資の受け皿を整えることが上場の狙いだったとみられる。
火災と海上で立て直した東京海上火災保険の保険料は、1955年度でも火災50.5%、海上37.5%の2種目に偏っていた。同年7月に自動車損害賠償保障法が成立し、引受額の6割を国が再保険する仕組みで強制保険が始まった。自賠責は車の保有者と運転者に付保を義務づける対人の賠償保険である。東京海上火災保険は1955年12月に自賠責の営業を始めた。1964年度には自賠責を含む新種保険が保険料の34.4%を占め、火災の33.2%、海上の32.4%と並んだ。1964年版のダイヤモンド会社産業総覧は、自動車の構成比を17〜18%としている。車の台数に比例して契約が積み上がる強制保険は、火災と海上に続く収益源の候補になったと考えられる。
海外との取引は再保険から戻り、1950年4月にロンドンのウィリス2社との協約が成立した。同じ月に外貨建ての貨物海上保険の営業も再開した。1955年には輸出入がともに伸び、国際収支は大幅な黒字に転じていた。東京海上火災保険は約200万ドルを送金し、ニューヨークのアップルトン社を現地の営業責任者に指名した。1956年1月には同州で海上保険を中心に元受営業を再開した。同年5月にはウィリス・フェーバー・エンド・デュマ商会を欧州の総代理店に据えた。ただ1961年度の外国営業は7億円で、全保険料226億円の3%強にとどまった。日本の荷主の貨物を現地で引き受ける需要が戻ったことが、再開を後押ししたのだろう。
1957年、田中徳次郎氏の後を受けて高木幹夫氏が社長に就任した。事務の機械化はその前から段階を踏み、1953年3月に統計調査室を設けていた。1955年2月には業界で初めてIBMの統計会計機を導入した。高木氏の代の1962年4月には、IBM1401型の電子計算機を入れてパンチカード方式から切り替えた。電子計算機による事務の合理化は、経費を抑える大きな力になった。損害率が上がるなかでも事業費率を年々下げ、手元に残る利益の比率を保った。従業員は1956年に2,476人で、1968年でも3,600名にとどまった。契約の増加を人員の増加でなく機械で吸収する方針が、この時期に定まったと推察される。
1966年3月期の自動車の保険料は138億5,500万円で、5年前の31億8,000万円の4.4倍に膨らんだ。同じ期の正味保険料は14.3%増えたが、利益は横ばいにとどまった。同年6月、死去した高木幹夫氏に代わり専務の山本源左衛門氏が社長に就任した。1967年6月には、交通事故の支払いが膨らみ任意の自動車保険の引受けを断る損保が増えたという。1970年度には自賠責が元受保険料の30%、自動車が23%を占め、両種目とも高い損害率を抱えた。損保は準備金を厚く積むため引受けの収支は赤字が普通で、利益は運用益に依存していた。車の保険の比重が上がるほど、運用に回す資金の厚みが収益の焦点になっていったと読める。
1969年4月、東京海上火災保険は積立保険(長期総合保険)を発売した。補償に貯蓄の性格を加えた長期の保険で、満期に掛け金の一部が戻る。当時の社長は1966年6月に就任した山本源左衛門氏である。1984年に社長の竹田晴夫氏は、開発の発想を『発想的には、"かけ捨て"が「いやだ」という契約者に対して、掛け金が少しでももどる保険を作ったらどうかということからまず長総を作った』と説明した。竹田氏によれば長総は予想を超えて売れ、当初は利回りを売り物にしていなかったという。積立保険は個人資産の増加とともに伸び、1990年度には元受保険料の30%を占めた。掛け捨てを嫌う家計を取り込みつつ保険料を長く預かる商品設計は、運用益に依存する収益構造にも合っていたはずだ。
1972年6月、三菱海上火災保険に1934年に入社した菊池稔氏が社長に就任した。1973年3月期の正味保険料は1,635億3,800万円に達した。1966年3月期の378億円から、7年で4倍を超えた規模である。1973年版の日本企業要覧は事業の内訳を自賠責29.54%、自動車18.33%とし、車の保険が半ば近くを占めた。保険料が4倍を超えたのに対し、1972年3月末の在籍人員は4,121名だった。事務の機械化は業況の進展に合わせて進められていた。件数の多い自動車と家計の契約を捌くには、人手に依存する事務はすでに限界に近かったといえよう。
1972年に社長の菊池稔氏が打ち出した事務の機械化は、1974年2月に業界初の自動車保険オンラインシステムとして稼働した。東京海上火災保険の保険料は、1955年度の99億円から1970年度の1,640億円へ16.6倍に増えていた。同じ15年で主力は海上と火災から自賠責と自動車へ移り、1970年度は両者で53%を占めた。1974年3月期の正味保険料は1,872億円で、前期から19.1%伸びた。その内訳は自動車28%と自賠責15%で、火災の24%や海上の19%を上回った。小口の契約が件数で押し寄せる構造に変わり、手作業の事務では処理が追いつかなくなったのだろう。
1974年度の利益金は145億円で、2位の安田火災海上保険の54億円と3位の大正海上火災保険の49億円を合わせても及ばなかった。料率は算定会が算出して大蔵大臣が認可する一本の水準で、新規参入も25年間認められていなかった。正味保険料のシェアは16%で、海上部門の強さと三菱系企業との深い取引が同業との差を支えた。差を生んだのは企業保険の厚さで、大口の契約が経費率を安田火災より一貫して低く保った。人事は若手に権限を委ね、入社6年目までは同期の間に昇進の差を付けない制度を敷いた。認可制では新商品の先行利益が残らず、顧客に合う保険を組み合わせる知識の量が競争の焦点になるという。
石油危機後に成長が鈍るなか、東京海上火災保険は1977年4月に経営体質強化計画(GOGO作戦)を始めた。創業100周年の1979年度を期限とし、保険料収入5,500億円とマーケットシェア1%増を掲げた。社長の菊池稔氏は、営業拠点を増やす量の拡大から経営の質を上げる方向への転換と位置づけた。1978年7月に渡辺文夫氏が社長を継ぎ、1979年度に二つの目標はそろって達成された。渡辺氏は続く目標に、5年後の年間収入保険料1兆円突破と第2次総合機械化計画を据えた。期限と数字を自ら置いたことで、横並びの業界でも前進を測る物差しができたと考えられる。
創業100周年を越えた1980年、社長の渡辺文夫氏は21世紀に損保で世界一になる目標を社員に示した。1977年度の世界順位は保険料で6位、純資産で2位で、それぞれ米国のオールステートとステートファームが首位だった。保険業法が他業への進出を禁じるなか、渡辺氏は80年代の伸びしろを新分野ではなく国際化に求めた。足場のロンドンでは1970年に現地法人の東京海上火災保険(UK)を立て、ロンドン引受業者協会に加わった。同法人の保険料収入は1972年の90万ポンドから1976年に450万ポンドへ増え、85%が外国企業との契約だった。料率が横並びの国内では、規模の差を広げる余地が海外にしか残っていなかったとうかがえる。
1984年7月に社長へ就任した竹田晴夫氏は、同年8月に顧客別と市場別の機構改革を実施した。10支店と3営業部、51の課支社を増やし、地域営業の拠点を広げた。竹田氏は積立型保険の比重がさらに高まるとみて、自社も注力すべき商品と位置づけた。代理店数では個人向けに強い安田火災海上保険に1983年時点で1万店以上離されており、逆転は1986年だった。1985年4月にTOPS5カ年経営計画を始め、同年9月には「積立特約」の認可を得た。企業保険の厚みだけでは個人の貯蓄需要を取り込めないと判じた布陣と推察される。
1986年以降、東京海上火災保険は積立を含む保険料で世界の上位3社に入った。1990年度の元受保険料は1兆5,501億円となり、20年で9.5倍に増えた。構成比は積立が30%、自動車が28%で、積立保険の伸びが規模を押し上げた。積立保険料の増加はオンライン化を促し、1988年10月に第3次オンラインが本格稼働した。1990年3月末の総資産は4兆1,556億円、同期の正味収入保険料は9,246億円で、ともに2位の安田火災との差を広げた。長期の積立契約を大量に抱えたことが、機械化への投資を続ける理由になったとみられる。
世界3位の規模の陰で、東京海上火災保険は1988年度上半期に海上を除く保険料で安田火災海上保険に抜かれた。1990年3月末の県別の個人向けシェアでは、東京・千葉・埼玉・神奈川のいずれでも首位を取れていなかった。1990年6月に社長へ就任した河野俊二氏は、副社長時代に営業強化を主眼とする3カ年計画を作っていた。同月の機構改革で首都圏など12支店を本部に格上げし、県別の営業体制へ組み替えた。本部長が決められる保険金の支払額は従来の3倍強になり、個人の案件は多くを県本部で決められるようになった。代理店も毎年6,000〜7,000店のペースで増やし、自動車整備工場やガソリンスタンドにも取扱いを求めた。
護送船団の枠は1990年から緩み始め、同年4月に料率を上下10%の幅で各社が決められるようになった。それでも全社が同じ料率にそろい、新商品も認可後に業界へ開示されるため先行の利益は残らなかった。同年5月には大蔵大臣の諮問機関である保険審議会の総合部会が、自由化を基本とする中間答申を出した。東京海上火災保険は1993年4月、1995年度を目標年度とする新中期経営計画IC-95を始めた。1995年6月には改正保険業法が公布され、事業環境の大きな変化が見込まれた。料率と商品で差を付けられる時代に向け、組織の組み替えを先に済ませる計画だったと言えそうだ。
1996年4月に新保険業法が施行され、生保と損保が子会社を通じて互いの分野へ入れるようになった。同年6月には専務の樋口公啓氏が5人を飛び越えて社長に就任し、副社長を経ない昇格は30年ぶりだった。抜擢の背景は競争の自由化で、生保子会社は同年10月にも営業を始める予定だった。この子会社がのちの有価証券報告書に載る東京海上あんしん生命保険である。同年12月には日米保険協議が決着し、損保の料率を1998年7月までに完全自由化する方針が決まった。自動車保険料も地域や年齢で分けて決められるようになり、価格で競う時代が目前に迫った。
1996年末の日米保険協議の決着で個人向け保険も料率の自由化が決まり、1997年9月には外資系が通販でリスク細分型の自動車保険を出した。料率算定会の料率の使用義務がなくなる1998年7月を前に、社長の樋口公啓氏は通信販売などの直販を採らないと明言した。全国に約8万の代理店を抱え、家族を含めて約30万人がその商売で暮らしていることを理由に挙げた。代わりに約35%の付加保険料率を30%未満へ下げ、代理店手数料もサービスの質で差を付ける体系に改めると約束した。同じ7月に東京海上火災保険は15の本部制を敷き、代理店と結ぶ通信網も新たに整えた。代理店網を価格競争の重荷とせず、事故対応で選ばれる販売網へ作り替えようとしたと考えられる。
代理店網を残したうえで、東京海上は商品と損害サービスで他社との差を付けにいった。1998年10月に出した自動車保険TAPは、自社データも使って独自に料率を定め、契約者自身のけがを過失を問わず補う人身傷害補償を載せた。樋口氏は損害保険協会長の任にありながら、大蔵省の指針の地域区分はリスクに合わないと主張を曲げなかった。TAPは1999年6月末までに76万8,000件を超え、保険料は約740億円に達した。他社が似た商品を追って出すと、東京海上は国内最大の損害サービス網で支払いの質に差が出ると訴えた。年報で樋口氏は、自由化の時代を『In my view, the era of liberalization and deregulation presents a great opportunity for further business expansion』(訳:自由化と規制緩和の時代は事業拡大の大きな好機だ)と位置付けた。
2000年9月、東京海上は朝日生命保険・日動火災海上保険と持株会社のもとで経営を統合するミレア保険グループ構想を公表した。直前の8月には安田火災海上保険と第一生命保険が提携を発表し、生損保の組み合わせで後れを取る懸念が強まっていた。同じ三菱グループの明治生命保険は株式会社化を伴う統合に応じず、生保の相手は朝日生命に絞られたという。樋口氏は年報で、業界の動きを『many companies have begun pursuing mergers or alliances with other non-life insurers or with life insurance companies』(訳:多くの社が損保どうし、あるいは生保との合併・提携に動き始めた)と見立てていた。構想には共栄火災海上保険も加わり、東京海上と日動火災が2002年4月に先に持株会社を作ることになった。朝日生命と共栄火災は、2004年までに持株会社へ合流する段取りとされた。
統合準備が進むさなかの2001年6月、樋口氏は会長に退き、専務の石原邦夫氏が社長に就任した。石原氏は情報システム部門の出身で、代理店が契約内容を直接入力するオンライン網の構築を率いてきた。この網は2001年3月期に7万6,000台へ広がり、代理店による直接入力は年500万件を超えた。石原氏は年報で4社の組み合わせについて、『Tokio Marine excels in the wholesale market, Nichido Fire’s forte is in the retail market』(訳:東京海上は企業向け市場に強く、日動火災の得意は個人向け市場だ)と説明した。一方で東京海上は事業費率で他社にやや遅れ、その引き下げが新社長の当面の課題とされた。統合を回す要として、代理店と本社をシステムでつないだ実務の経験が買われた人事と推察される。
2001年11月、東京海上は、傘下の東京海上あんしん生命保険へ朝日生命の営業部門を移管し、2003年春をめどに生保事業を合わせる検討を発表した。逆ざやに苦しむ朝日生命の信用を東京海上が補う宣言と受け取られ、株価は下がり社内からも批判が出た。両社は朝日生命の営業職員網に払う営業権の値付けで折り合えず、2002年1月31日に早期統合の見送りを発表した。会長の樋口氏は、ミレアは強い会社どうしの連合が前提であり、救済はその理念に合わないとの立場を示した。2002年4月2日、東京海上と日動火災は予定どおり持株会社ミレアホールディングスを設け、その完全子会社となった。
2003年1月、朝日生命は株式会社化の延期を理由に、2004年に予定したミレアとの経営統合を取りやめた。生損保の4社連合が崩れたことで、ミレアは東京海上と日動火災を一つにする作業を急いだ。2003年6月の株主・投資家向け説明では、合併の目的を両社の強みを合わせた成長、規模拡大による効率化、グループのシナジーの3点に整理した。両社合算の正味収入保険料は1兆8,660億円で、国内主要損保のシェアは27%、代理店は重複を除いて7万4,422店だった。同じ説明で、政策株式などの非効率な資産を売り、数千億円規模の余剰資本を収益性の高い事業へ充当する方針も示した。生保でも2003年10月に東京海上あんしん生命と日動生命を合併させ、東京海上日動あんしん生命とした。
2004年10月1日、東京海上と日動火災は合併し、東京海上日動火災保険が発足した。石原氏は合併の狙いを、『by combining the strength of both companies and by increasing efficiency through greater scale』(訳:両社の強みを合わせ、規模の拡大で効率を上げる)と説明した。新会社は個人・企業・自動車ディーラーの市場別に社内カンパニーを置き、販売経路ごとに商品と売り方を組み立てた。合併時の最大の懸念だったシステムの大きな混乱は起きなかった。2004年度までに拠点は営業部門で27%、損害サービス部門で29%減り、要員は約18%減った。規模の効率は取り込めたが、国内の保険料そのものを伸ばす手立ては別に要ったようだ。
合併と並んで、ミレアは資本に見合う利益を出すことを経営目標の中心に据えた。2005年度の計画は修正ROEが4.5%程度にとどまるなか、10年後の姿として10%を超えるROEを掲げた。資本効率を上げるため、2001年度以降に時価で約5,100億円の政策株式を売却した。2005年度末までに、2003年9月末比でさらに1割程度を減らす計画も示した。年報では、自社株買いと安定配当による株主還元も検討すると表明した。株価の評価を純資産の水準より上へ引き上げるには、過大な資本を削減するほかなかったのだろう。
2007年6月、ロンドン首席駐在員など海外部門を歩いた隅修三氏がミレアの社長に就任し、石原氏は会長に回った。直前の3月には東京海上日動が第三分野商品の保険金不払いで業務停止命令を受け、隅氏は信頼回復を最優先の課題に置いた。そのうえで少子高齢化など国内の構造変化を踏まえ、事業地域を世界へ広げると表明した。修正利益では国内損保が2005年度の915億円から2006年度に890億円へ減り、海外保険は77億円から286億円へ伸びた。ミレアは2004年の年報ですでに『we aim to earn approximately half of our profits from operations other than the domestic property and casualty insurance business in 10 years』(訳:10年後に利益の約半分を国内損保以外で稼ぐ)と定めていた。国内の保険料が伸びない前提で、海外の買収で成長を取る方向がこの時点で固まっていたとみられる。
海外に成長を求めると決めた東京海上グループは、2008年3月に英国のKiln Ltd(以下Kiln)を友好的に買収した。Kilnの取得に投じた額は、取得原価で94,122百万円だった。東京海上グループとKilnは再保険の取引で40年を超える関係にあり、Kilnはロイズの引受能力で上位のグループだった。年次報告書は、買収先に求める条件を健全な経営、強いビジネスモデル、高い成長性の3つに定めた。社長の隅修三氏は、2000年に東京海上火災保険のロンドン首席駐在員を務めていた。長年の再保険取引で相手の引受の規律を見極めていたことが、最初の買収先を決める材料になったと推察される。
Kilnを迎えた4か月後の2008年7月、持株会社は商号をミレアホールディングスから東京海上ホールディングスに改めた。改称に先立ち、国内の損保子会社2社は保険金の不適切な不払いで行政処分を受けていた。2008年の年次報告書は、この件の謝罪と顧客の信頼回復を社長メッセージの冒頭に置いた。12月に公表した中期経営計画は、国内市場の大きな伸びは望みにくいとして、目指す姿を「グローバル企業グループ」とした。東京海上HDは翌年、東京海上の名を国内の保険市場で安心感を伝えるブランドと位置づけた。海外で買収を重ねる局面で、国内で信用を積んだ創業以来の名を持株会社の看板にも掲げる狙いがあったとみられる。
2008年12月、東京海上HDは米国のPhiladelphia Consolidated Holding Corp.の友好的買収を完了した。取得原価は473,537百万円で、Kilnの5倍を超えた。Kilnの買収で米国市場の注目が集まり、Philadelphia側が関心を示す契機になった。同じ年度には金融危機で、約2,300億円の評価損を計上していた。それでも東京海上HDは、海外について『Overseas, our sights are set upon increasing our earnings while diversifying business globally.』(訳:海外では、事業をグローバルに分散しながら利益を伸ばすことを目指す)と掲げた。中期経営計画は、海外の修正利益を2011年度に600億円へ引き上げる目標を置いた。国内の運用益が細るなか、保険の引受で稼ぐ米国の事業を早く取り込む必要があったのだろう。
買収は利益の構成を変え、修正利益に占める海外の比率は2007年度の20%から2009年度に44%へ上がった。一方で国内損保は自動車の保有台数の減少で市場が縮み、コンバインドレシオは98%近くに上がっていた。2011年度は国内の台風や豪雨、北米のハリケーン、タイの洪水が重なり、グループの修正利益は195億円の損失となった。連結の当期純利益は2012年3月期に6,001百万円まで減少した。2011年3月の東日本大震災では、当時社長の隅氏が5月末までの保険金支払いを目標に据えたという。経営陣は『it would not be easy to increase return on equity (ROE) solely through the Japanese non-life insurance business which requires considerable reserves in case of such natural disasters as typhoons and earthquakes』(訳:台風や地震に備える多額の準備金を要する国内損保だけではROEを高めにくい)と早くから見ていた。
東京海上HDは2012年5月、米国の生損保兼営グループDelphi Financial Group(以下Delphi)を買収した。Delphiの取得原価は215,054百万円で、Philadelphiaの半分に満たなかった。Delphiは従業員の福利厚生に関わる保険に強く、年次報告書はその意義を『自然災害リスクの引受が限定的であることから、同社がグループに加わることはリスク分散効果の向上にも資するものです』とした。同じ年度に始めた中期経営計画「変革と実行2014」は、グローバルなリスク分散による資本効率の向上に注力する方針を掲げた。隅氏はリスク分散を保険事業の本質とし、その理由を『保険事業にとっては地球全体がマーケットであると捉えているからです』と説明した。2015年の説明資料は、2007年以降の欧米の大型買収をKiln、Philadelphia、Delphiの3件に整理している。自然災害の引受が少ない事業を選んだことに、損保と値動きの違う収益を足す意図がうかがえる。
2013年6月、隅氏は会長に移り、副社長の永野毅氏が社長に就任した。永野氏はDelphiを買収した2012年に、持株会社の海外事業企画部長を兼ねていた。アニュアルレポート2012は、先進国ではDelphiとのシナジーの発揮に力を注ぐと記した。中期経営計画は2014年度に修正利益2,300億〜2,600億円、修正ROE7%以上を目指していた。2015年の説明資料は、買収後の統合で現地経営陣と相互の信頼を築き、その考えを尊重しつつ統治を整えると定めた。買い集める段から、買った会社の利益をグループに取り込む段へ、社長の役割が移ったと考えられる。
統合の型を整えた後の2015年6月、東京海上HDは米国のHCC Insurance Holdings(以下HCC)の買収で合意した。東京海上日動が1株78ドル、総額約75億ドルを現金で払い、増資は行わなかった。HCCはスペシャルティ保険のグループで、相関の低い100種類超の種目を持ち、巨大自然災害の引受は小さかった。買収で海外保険事業が事業別利益に占める割合は、38%から46%に上がる試算だった。手続きは2015年10月27日に完了し、取得原価は898,012百万円となった。規模は過去最大でも、選ぶ基準はKiln以来の3条件と自然災害への耐性に置かれていたようだ。
HCCの発表に先立つ2015年5月、東京海上HDは新中期経営計画「To Be a Good Company 2017」を公表した。2017年度に修正純利益3,500億〜4,000億円、修正ROE9%程度を目標に置いた。海外保険事業を利益成長の牽引役とし、買収の規律を保って新たな投資を探し続けるとした。統治や内部統制、ERMなどの本社機能と、海外人材の育成も強化項目に挙げた。北米は海外の利益の約8割を占めたが、各社の顧客層と商品が異なるため分散が効いた。欧州の再保険子会社は、元受中心の構成で分散が取れたとして2018年度に売却した。
2018年、国内では西日本豪雨が起き、台風が首都圏などに大きな被害をもたらした。後に社長となる小宮暁氏は、この年を日本で過去最大級の自然災害が起きた年と振り返っている。同じ年の4月に始まった中期経営計画は、修正純利益4,000億円以上、修正ROE10.0%以上を目標に掲げていた。連結の当期純利益は2019年3月期に274,579百万円となり、前期の284,183百万円を下回った。統合レポート2021は、2018年と2019年の台風を上回る規模の災害をストレステストで想定するとした。海外で分散を積み上げた後も、国内の災害で利益がぶれる構造は残り、次の一手を考える前提になったとみるのが自然だ。
2019年6月、永野毅氏が会長に移り、専務取締役の小宮暁氏が東京海上ホールディングスの社長に就任した。その2019年度も、前年に続いて国内で大規模な自然災害が起きた。ただし2019年度の災害はリスク管理の想定の範囲内だったとして、風水災の引受方針は変えなかった。小宮氏は翌年のトップメッセージで『経営の屋台骨が揺らぐようなことがあってはならない』とした。そのための手立てとして、リスクを地理・事業・商品の各面で分散させる必要を挙げた。災害の多い国内から退くのではなく、災害と別の動きをする収益を外に積む方針を、就任初年度に改めて確かめたとみられる。
2020年2月、米国の富裕層市場で保険を扱うPure Groupの買収を完了した。小宮氏は、日本の自然災害と相関の低い海外事業を15年ほどかけて広げてきたとし、Pureの買収をその流れに置いた。対象はカルチャーフィット・高い収益性・強固なビジネスモデルの3原則を満たす会社に限っていた。代価は軽くなく、2019年度決算で示した実質純資産の4,000億円の減少は主因がPureの買収だった。2021年5月に示した中期経営計画でも、Pureの利益拡大を成長施策の一つに数えた。企業向けが中心だった北米事業に富裕層の個人向けを加え、分散の軸を顧客の面にも広げたと推察される。
2020年には、国内の災害に新型コロナウイルスの世界的な流行が重なった。2020年5月の決算説明では、2020年度の修正純利益への影響を税後300億〜400億円と見込み、大半を海外のイベント中止保険とした。先行きが読めないとして、自己株式取得による資本水準の調整も見送った。親会社株主に帰属する当期純利益は、2020年3月期の2,597億円から2021年3月期に1,618億円へ減った。海外事業はすでにグループ利益の約5割を占める規模になっていた。国内の災害に備えた海外の分散は疫病では損失の入口にもなり、振れを消す仕組みではなかったと考えられる。
小宮氏は、2018年4月から2021年3月までの前中期経営計画の期間を最も厳しい3年間だったと振り返った。2021年4月からの3カ年の新中期経営計画では、修正純利益の年3〜7%成長と修正ROE12%程度を指標に置いた。M&Aは分散のために良い案件があれば行うものとして、計画の数字に含めなかった。資本の使い道も縛り、事業投資と自己株式取得の合計で年1,000億円を必ず使う枠として年初に示した。ESRが目標範囲の上限140%を超えれば、事業投資か株主還元を必ず実行するとも約束した。買収に依存しない成長と資本を貯め込まない姿勢を並べ、資本効率への問いに先回りして答えたようだ。
2021年度、東京海上ホールディングスは買収基準と市場の評価額を勘案し、大型の買収を実行しなかった。2022年5月の決算説明では『当社にとってM&Aは目的ではなく手段であり』とし、基準を満たす案件が無ければ買収しないと説明した。買収の目的はリスク分散で、カルチャーフィットを含む原則を満たし高いリターンを上げられる案件に絞るとも示した。一方でグループ会社が進める小型のボルトオン買収は、数千万〜1億ドル規模を中心に続ける想定だった。前年のCFOメッセージも、良質な大型案件は目標達成を早める手段と位置づけていた。大型買収を前倒しの手段にとどめたことで、割高な案件を見送る余地が生まれていたのだろう。
2023年、子会社の東京海上日動火災保険が企業向け保険で保険料を調整していた事案が顕在化した。2023年11月の時点では外部弁護士による特別調査委員会の調査が続き、業績予想は見直していなかった。2023年12月26日、金融庁は東京海上日動に業務改善命令を出した。東京海上日動は2024年2月に業務改善計画書を出し、その後も進捗を金融庁へ報告した。2024年11月には、他社との不当な取引制限として公正取引委員会からも排除措置命令と課徴金納付命令を受けた。海外で災害の振れを抑えてきた一方、利益の源である国内の企業保険には、競争より取引関係を重んじる慣行が残っていたと思われる。
業務改善命令を受けた東京海上ホールディングスは、競争を適正に行える環境づくりの一環として、政策保有株式の残高を2029年度末でなくす方針を、命令から5カ月後の2024年5月に決めた。売却はそれ以前から進み、2002年度以降の累計は2.7兆円に達し、国内の政策株の簿価は2002年3月末の28%まで縮んでいた。それでも手元には約3.5兆円が残っており、全部を手放せばリスク量は1兆円強減る見込みだった。保有株を純投資に区分し直して持ち続ける選択肢も否定し、『現在保有している政策株式について、安易な「ラベル替え」を行うつもりは全く無い』とした。20年余りで7割を減らした保有を残り6年で閉じる決定は、保険の値付けを株の持ち合いから切り離す意思表示と読める。
政策株の売却は計画を上回り、2024年度は6,000億円の計画に期中の合意が加わって9,000億円を超えた。年初に5,470億円と見込んだ売却益が加わり、2025年3月期の親会社株主に帰属する当期純利益は1兆552億円となった。売却益は一時のもので、政策株を除いても1株利益を年8%以上伸ばす計画を別に掲げていた。2026年のCFOメッセージは、削減が短期にはROEを押し下げると認めた。そのうえで、削減を進める理由を『政策株式に固定化されていた資本を、より高いRORが見込める主要事業へ再配分することが、中長期的なROE向上に不可欠』と記した。1兆円の利益は持ち合いを解く途中の副産物で、解いた資本の置き場所が次に問われるといえる。
2024年4月、東京海上ホールディングスは内部統制委員会を改め、グループ監査委員会を置いた。2025年3月には情報漏えい事案で、東京海上日動が2度目の業務改善命令を受けた。2025年6月、小宮氏は会長に移り、常務執行役員だった小池昌洋氏が社長に就任した。2026年6月には監査等委員会設置会社へ移り、グループ監査委員会の主な機能を監査等委員会に集めた。取締役17名のうち9名が社外で、取締役会の議長は会長が務める。議長を務める小宮氏は、移行について『これまでの体制に問題があったから移行したわけではありません。』とした。狙いには、執行へ大きく権限を委ね、取締役会が中長期の戦略の論議と監督に集中することを挙げた。
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|---|---|---|---|---|
| 1879〜1944年渋沢栄一らが興した日本初の保険会社と、ロンドン撤退・3社合併 | 東京海上保険会社を創業 | ★ | ||
| 船舶保険の営業開始 | ★ | |||
| 明治火災保険を設立 | ★ | |||
| 増資ではなく払込資本金の半額切り捨てを選び、引受量より危険の選別を取った英国営業の立て直し 1890年以降のイギリスでの営業が巨額の損失を招いた。東京海上保険は現地ブローカーへ引き受けを委ねたまま増資で穴を埋める道を採らず、1894年7月、当時26歳の各務鎌吉氏をロンドンへ派遣して対策を立てさせた。各務氏の献策により、本社は1898年に保険業法の制定に3年先立って年度別計算を採用し、1899年には払込資本金75万円の半額を切り捨てて英国営業の損失約50万円を整理した。引き受け量を追う構えを捨て、危険の選別へ寄せた縮小再建であった。 詳細を読む | ||||
| 火災・運送・自動車の各保険の営業開始 | ★ | |||
| 東京海上火災保険に商号変更 | ★ | |||
| 三菱海上火災保険を設立 | ★ | |||
| 関東大震災・地震免責条項問題 | ★★ | |||
| 旧東京海上・明治火災・三菱海上の3社合併で発足 | ★★ | |||
| 1945〜1973年終戦で失った海外網と、自賠責・積立保険で広げた大衆向け損保 | 終戦により海外営業網と在外資産を一切喪失 | ★★ | ||
| 田中徳次郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 田中徳次郎 | 自賠責保険の営業開始 | ★ | ||
| 田中徳次郎 | 米国元受営業を再開(欧州は5月) | ★ | ||
| 山本源左衛門 | 掛け捨ての補償に貯蓄性を足した長期商品への踏み出し 1969年4月、補償に貯蓄性を加えた長期保険である積立保険(長期総合保険)を発売した。主力種目が海上・火災から自賠責・自動車へ入れ替わり、その2種目がいずれも高い損害率に苦しむなかで、1年で完結する掛け捨ての損害保険に貯蓄の機能を足し、保険料を長期に前受けして運用する商品を投入した判断である。 詳細を読む | |||
| 山本源左衛門 | 積立保険(長期総合保険)の発売 | ★★ | ||
| 1974〜1997年業界初の自動車保険オンラインと、保険料世界3位・東京海上あんしん生命 | 菊池稔 | 業界初の自動車保険オンラインシステム稼働 | ★ | |
| 菊池稔 | 序列の維持ではなく、創業100周年の1979年度に保険料収入5,500億円とシェア1%増を掲げた3年計画 1977年4月、東京海上火災保険は創業100年に向けた3年間の経営体質強化計画を始めた。GoGo作戦と名づけた社内運動で事務処理を総合的に合理化し、創業100周年にあたる1979年度に保険料収入5,500億円・マーケットシェア1%アップという数値目標を掲げる。菊池稔社長のもとで決めた、業界内の序列ではなく自ら置いた数字で経営を測る運動である。 詳細を読む | |||
| 渡辺文夫 | 創業100周年。保険料収入5500億円達成 | ★ | ||
| 竹田晴夫 | 「積立特約」の認可取得 | ★ | ||
| 竹田晴夫 | 保険料ベースで世界ベストスリー入り | ★ | ||
| 竹田晴夫 | 第3次オンラインの本格稼働 | ★ | ||
| 河野俊二 | 新中期経営計画IC-95開始 | ★ | ||
| 1998〜2007年料率自由化での代理店との共存と、ミレアHD設立・東京海上日動の発足 | 樋口公啓 | 料率自由化を前に直販へ踏み込まず、代理店経由の販売を軸に据える選択 1996年12月の日米保険協議決着で1998年7月の料率完全自由化が固まり、護送船団行政が解体に向かった。正味保険料シェア18%で業界首位の東京海上火災保険は、樋口公啓社長のもとで、約8万の代理店網を捨てず"代理店との共存"を柱に据え、機械化と体質改革で価格競争に備えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 石原邦夫 | 国内初の上場保険持株会社ミレアホールディングスの設立 2002年4月、東京海上火災保険と日動火災海上保険が共同株式移転で持株会社ミレアホールディングスを設立し、国内初の上場保険持株会社が誕生した案件。生損保を糾合する総合金融グループ構想として始まったが、朝日生命・共栄火災の離脱で損保2社の統合へと縮退した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石原邦夫 | 東京海上と日動火災が合併し東京海上日動火災保険が発足 | ★★ | ||
| 2008〜2018年東京海上HDへの改称と、Kiln・Philadelphia・Delphi・HCCの海外買収 | 隅修三 | Kiln Ltdを買収 | ★ | |
| 隅修三 | 東京海上HDに商号変更 | ★ | ||
| 隅修三 | Philadelphia Consolidated Holdingを買収 | ★★ | ||
| 隅修三 | Delphi Financial Groupを買収 | ★ | ||
| 永野毅 | 永野毅氏が社長に就任 | ★ | ||
| 永野毅 | 898,012百万円を現金で投じ、成長の場を国内損保から米国のスペシャルティ保険へ移した 2015年10月27日、東京海上ホールディングスが子会社の東京海上日動火災保険を通じて、米国のスペシャルティ保険グループHCC Insurance Holdings, Inc.の発行済み株式を100%取得した。取得原価は898,012百万円で対価はすべて現金、発生したのれん339,086百万円を10年間で均等償却する。国内損保から海外へ収益源を移す一連の買収のうち、最も大きい一手にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 永野毅 | 西日本豪雨・台風21号等で大規模保険金支払い | ★ | ||
| 2019〜2026年小宮暁社長のPURE買収と価格調整問題、政策保有株ゼロと純利益1兆円 | 小宮暁 | 小宮暁氏が社長に就任 | ★ | |
| 小宮暁 | PURE Group買収完了 | ★ | ||
| 小宮暁 | 子会社の独占禁止法違反で処分が重なり、適正な競争を阻害してきた業界慣行の解消に踏み込んだ 2023年12月26日、金融庁が東京海上日動火災保険に保険業法に基づく業務改善命令を発した。独占禁止法に抵触すると考えられる行為および同法の趣旨に照らして不適切な行為と、その背景にある態勢上の問題が認められたことによる。同社は深く反省するとともに再発防止策の策定等に取り組み、2024年2月29日付で業務改善計画書を金融庁へ提出した。 2024年11月1日には、不当な取引制限の禁止に違反する行為を行っていたとして、公正取引委員会から排除措置命令および課徴金納付命令を受けている。 詳細を読む | |||
| 小宮暁 | 2029年度末までに上場株の残高をなくすと決め、取引関係を株式で結ぶ慣行を捨てた 2024年5月20日の取締役会で、政策投資として保有する株式を2029年度末までにゼロにすると決めた。対象は上場株式で、非上場株式と資本業務提携による出資等は除く。2024年3月末におよそ3.5兆円あった保有時価を、2024年度に9,224億円、2025年度に7,456億円削減した。損害保険業が長く抱えてきた持ち合いを、企業向け保険の価格調整問題を触媒に手放す資本政策の転換である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小宮暁 | FY24親会社株主帰属当期純利益1兆552億円 | ★ | ||
| 小池昌洋 | 小池昌洋氏が社長に就任 | ★ | ||
| 小池昌洋 | 不祥事を受けて置いたグループ監査委員会の機能を法定の監査等委員会へ集約し、執行への権限委譲と組織的監査を組み合わせた 2026年6月29日開催の第24回定時株主総会で「定款一部変更の件」が承認可決され、同日付で監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げた目的は、「成長戦略とガバナンスの高位均衡」の実現をさらに進化、充実させることである。 取締役会は7名の社外取締役を含む13名から、9名の社外取締役を含む17名となり、このうち5名が監査等委員である取締役となった。 詳細を読む |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(東京海上ホールディングス)