1893年〜 財閥系損保の系譜と戦時統合から戦後復興まで
MS&ADインシュアランスグループホールディングスの業績推移:単体
- 1893年 大阪保険を設立
- 1916年 大阪保険を大阪海上火災保険に商号変更
- 1916年 大阪商船グループ入り
- 1917年 扶桑海上保険を設立
- 1918年 三井物産関係者が大正海上火災保険を設立
- 1940年 扶桑海上が住友海上火災保険に商号変更
- 1944年 大阪海上と旧住友海上が合併し大阪住友海上火災保険を設立
神戸の三井物産が起こした大正海上火災保険
1918年10月、三井物産常務の小田柿拾郎の発案で、財界有力者を集めて資本金50万円の大正海上火災保険が設立された。本社登記は東京に置いたが、営業本部は神戸支店に構えた。三井物産船舶部の本拠が神戸にあり、当時の日本の海外貿易の中心も神戸港にあったためである。社名にあえて三井を冠さず、大正という元号に由来する無難な名を採用した。創業時の三井財閥の影響力が強く、損害保険という事業の先行きに対する世間の見方も定まっておらず、三井の屋号を背負わせるのを避けたためである。財閥色の濃い発起人構成と控えめな社名の組み合わせには、三井系らしい用心深さがにじむ。 [1][2][3]
- 日本会社史総覧 三井海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1918年10月 三井物産関係者が大正海上火災保険を設立(資本金50万円)
- [2]発案者は三井物産常務の小田柿拾郎
- [3]営業本部は神戸支店に置かれた
関東大震災では本店の置かれた三井第2号館が全焼し、本来は填補責任のないはずの地震災害についても、政府の裁定に基づいて見舞金を支払った。海上・火災・運送の三本柱に加え、1928年に自動車保険と傷害保険、1937年に航空保険、1938年に利益保険の認可を相次いで取得し、種目を広げた。1937年には収入保険料で業界47社中第3位の地位を確保し、1940年には海上保険分野で業界2位の規模に達した。それでも社名を三井海上火災保険へと変更したのは、創立から73年を経た1991年4月のことである。三井系の損保として本来の屋号を取り戻すまでに、戦中の財閥批判と戦後の財閥解体という二つの断絶を挟み、ほぼ一世代分の時間を要した。財閥名を社名に出さずに事業を運ぶ姿勢には、三井系の気風がそのまま映る。 [4][5]
- 日本会社史総覧 三井海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [4]1937年に収入保険料で業界47社中第3位
- [5]1991年4月 大正海上火災保険が三井海上火災保険に商号変更(創立73年)
- 日本会社史総覧 三井海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1918年10月 三井物産関係者が大正海上火災保険を設立(資本金50万円)
- [2]発案者は三井物産常務の小田柿拾郎
- [3]営業本部は神戸支店に置かれた
- [4]1937年に収入保険料で業界47社中第3位
- [5]1991年4月 大正海上火災保険が三井海上火災保険に商号変更(創立73年)
戦時統制が縫い合わせた住友海上火災保険の二系統
住友海上のルーツをさかのぼると、異なる二つの系譜に行き着く。一つは1893年に大阪製銅社長の増田信之が中心となって設立した大阪保険で、火災保険と海上保険の両方を扱う関西の地場損保として出発した。1916年に大阪商船グループの傘下へ入って大阪海上火災保険へと改称し、第1次世界大戦下の海運好況にも助けられ、翌年度の保険料収入は業界2位に達した。もう一つの系譜は、1917年に山下汽船社長の山下三郎が提唱し、渋沢栄一や住友吉左衛門らが発起人となって設立した扶桑海上保険で、資本金1,000万円という当時として群を抜く規模の創業だった。大阪の商工業者を軸とする地場系と、海運と財閥資本を軸とする全国系。性格の対照的な二社が、のちに戦時統制のもとで縫い合わされる素地がここで用意された。 [6][7][8]
- 日本会社史総覧 住友海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [6]1893年 大阪製銅社長の増田信之が中心となり大阪保険を設立(火災・海上保険)
- [7]1916年 大阪保険が大阪商船グループ傘下に入り大阪海上火災保険へ改称
- [8]1917年 山下汽船社長の山下三郎が提唱・渋沢栄一・住友吉左衛門らが発起人となり扶桑海上保険を設立(資本金1,000万円)
扶桑海上は1920年に火災保険にも進出して扶桑海上火災保険へと改称し、1927年には住友合資会社が筆頭株主に就いた。1940年に社名を住友海上火災保険へ改めた段階で、住友グループの一員としての立ち位置はほぼ固まった。1944年3月、戦時経済統制下の損保業界整理統合のなかで、大阪海上と旧住友海上は政府の企業整備統合要請に基づき合併し、大阪住友海上火災保険として発足した。新生会社の規模は当時の業界第3位に並び、関西地盤の損保としては頭ひとつ抜けた。1954年7月には商号を住友海上火災保険へと再変更した。住友系損保の母体は、関西の商工業者を軸とする系譜と海運業者を軸とする系譜という二つの流れが、戦時統制下の政府要請で縫い合わされて成立した。 [9][10][11][12]
- 日本会社史総覧 住友海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [9]1940年 扶桑海上が住友海上火災保険に改称(住友合資会社が筆頭株主)
- [10]1944年3月 大阪海上と旧住友海上が政府の企業整備統合要請に基づき合併し大阪住友海上火災保険として発足(当時業界第3位)
- [11]新生会社の規模は当時の業界第3位
- [12]1954年7月 大阪住友海上火災保険が住友海上火災保険に商号変更
- 日本会社史総覧 住友海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [6]1893年 大阪製銅社長の増田信之が中心となり大阪保険を設立(火災・海上保険)
- [7]1916年 大阪保険が大阪商船グループ傘下に入り大阪海上火災保険へ改称
- [8]1917年 山下汽船社長の山下三郎が提唱・渋沢栄一・住友吉左衛門らが発起人となり扶桑海上保険を設立(資本金1,000万円)
- [9]1940年 扶桑海上が住友海上火災保険に改称(住友合資会社が筆頭株主)
- [10]1944年3月 大阪海上と旧住友海上が政府の企業整備統合要請に基づき合併し大阪住友海上火災保険として発足(当時業界第3位)
- [11]新生会社の規模は当時の業界第3位
- [12]1954年7月 大阪住友海上火災保険が住友海上火災保険に商号変更
新種保険の開拓と海外復帰に表れた戦後成長の二本柱
戦後の両社は、海上保険分野の不振を抱えつつ、国内市場の開拓と海外業務への復帰に同時に向き合わねばならなかった。三井系の旧大正海上は、森林・盗難・競争馬・信用・風水害・硝子といった新種目の損害保険を同業他社に先駆けて拡充し、国内の営業網を広げた。1961年には東海村の原子炉組立保険を幹事会社として引き受け、原子力保険という未知の分野に踏み込んだ。1964年にはロンドン市場でLDR(ロンドン預託証券)を発行し、これは日本企業として初のロンドン株式時価発行となった。国内の種目拡充と海外資本市場への進出を両輪に据える戦略が、戦後成長期の旧大正海上の骨格をつくった。 [13][14]
- 日本会社史総覧 三井海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1961年 大正海上が東海村の原子炉組立保険を幹事会社として引き受け(原子力保険分野へ参入)
- [14]1964年 大正海上がロンドン市場でLDR(ロンドン預託証券)を発行(日本企業初のロンドン株式時価発行)
住友系ではひと味違う切り口が選ばれた。効率経営と積立型商品による差別化である。1969年には初の積立型商品となる長期総合保険を発売し、以後の積立商品が同社総資産の拡大を支える原動力となった。1984年に単独開発した積立女性保険は爆発的に売れ、日本経済新聞社の年間優秀製品賞を受賞した。1968年には代理店の全国組織である住友連合代友会を結成し、1965年決算では営業残高率で業界首位に立った。1978年から1979年にかけては一挙に50支社を新設し、地域密着の販売体制を厚くしている。新種保険の拡充派と効率経営派。同じ業界上位ながら戦略の色合いが対照的な両社が、半世紀ののちに統合相手として巡り合う伏線が、1960年代から1980年代にかけて敷かれた。 [15][16][17]
- 日本会社史総覧 住友海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [15]1969年 住友海上が初の積立型商品「長期総合保険」を発売
- [16]1984年 住友海上が単独開発した積立女性保険を発売・日本経済新聞社の年間優秀製品賞を受賞
- [17]1968年 住友海上が代理店の全国組織「住友連合代友会」を結成
- 日本会社史総覧 三井海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1961年 大正海上が東海村の原子炉組立保険を幹事会社として引き受け(原子力保険分野へ参入)
- [14]1964年 大正海上がロンドン市場でLDR(ロンドン預託証券)を発行(日本企業初のロンドン株式時価発行)
- 日本会社史総覧 住友海上火災保険(東洋経済新報社, 1995)
- [15]1969年 住友海上が初の積立型商品「長期総合保険」を発売
- [16]1984年 住友海上が単独開発した積立女性保険を発売・日本経済新聞社の年間優秀製品賞を受賞
- [17]1968年 住友海上が代理店の全国組織「住友連合代友会」を結成