1920年代を通じて静岡県浜松は工場都市として栄えたものの、その代償として労働争議が頻発した。中でも、すでに大規模工場を構えるほどに成長していた日本楽器製造(ヤマハ)が組合の標的とされ、大規模な労働争議に巻き込まれた。
労働争議を解決するために、取引先の銀行であった住友銀行は、住友財閥系の企業に勤めていた川上嘉市を、1927年に日本楽器製造の社長として送り込んだ。その後、労働問題を解決し、生産体制は元に戻った。
この経緯から、日本楽器製造の社長は、川上嘉市が歴任する形となった。以後、1992年に至るまで、川上家がヤマハの経営に従事した。