日本M&Aの創業者である分林保弘は、立命館大学を卒業後、会計系のコンピューターを取り扱う外資企業「日本オリベッティ」に入社。同社では会計士向けのシステム販売に従事し、中小企業の経営問題を解決してきた。なお、1970年代に日本オリベッティはTKC(栃木県計算センター)と提携した関係から、分林も会計事務所との接点を持つことになった。
(筆者注:日本オリベッティで勤務していた頃は)マーケティング方法や業種別の展開、ネットワークの組み方を勉強したいと思っていました。なかでも一番影響を受けたのが企業分析です。私はコンピュータの販売を担当しましたが、受注伝票から最後の入金に至るまで、各企業をフローチャートで分析、現状と問題点を把握したら、その解決策をレポート用紙にまとめて経営者に提案するのです。まさに今、日本M&Aセンターでやっていることと、まったく一緒です。
分林保弘はM&Aの実務未経験にもかかわらず、日本M&Aセンターを設立。全国の地方に点在する会計事務所が出資することで、日本エムアンドエーセンターを中心とするM&Aのネットワークの構築に着手した。
そのころに一緒にやっていた税理士さんから「分林さん、後継者がいない会社が多いんですよ」と相談があったので、それならM&Aの会社をつくろうかと思いました。そのころまで僕はM&Aを、1回もやったことはないんですけどね(笑)。
日本エムアンドエーセンターの創業と前後して、会計士が出資する地域M&Aセンターは50社設立され、それぞれの資本金は1000万円に設定。このうち10%(100万円)の株式を日本M&Aセンターが取得し、代わりに日本M&Aセンターの一部の株式を、地域M&Aセンターが取得。利害関係を一致させることで、日本M&Aは求心力を持続。なお、日本M&Aセンターは設立の2年目から配当10%を継続。日本M&Aセンターが「配当」と「高収益」に強くこだわる原点は、出資者への恩義。
顧客獲得のため、日本経済新聞の一面記事に「あなたの会社の後継社を探します」という広告を出稿。あえて「後継者」ではなく「後継社」と記載することで、日本の中小企業では馴染みのなかったM&Aの存在を啓蒙した。なお、この広告により全国から400社の問い合わせを獲得する。
中小企業にM&Aを認知させるために、分林保弘は著書を出版。出版により、地方銀行から行員研修の依頼が舞い込むようになり、後述する「全国金融M&A研究会」に発展する契機となった。
地方銀行や信用金庫で「全国金融M&A研究会」という銀行員向けの研修を定期的に開催することで、地方の金融機関との接点を構築。以後、日本M&Aセンターは地銀との協力関係を構築し、その情報ネットワークが大きな強みなる。
日本国内でもM&Aという表記が一般的になったことから、商号を変更
本社を都内随一の一等地である丸の内に移転。採用力の強化のための投資と推察される
創業者の分林保弘は、M&A仲介業は守秘義務の観点から上場できないと考えていたが、HISの創業者・澤田氏からのアドバイスを受けて株式上場を決意。2006年に東証マザーズへの上場を果たす
市場調査機能を強化するために、矢野経を取り込んだ