1919年〜 11個の荷物から始まった個人宅配市場の創出
ヤマトホールディングスの業績推移
- 1919年 ヤマトホールディングス創業——東京京橋のトラック4台から日本初の路線トラック便へ 荷馬車が主流の大正期の都心貨物に、小倉康臣氏は資本金10万円・トラック4台の大和運輸でどう自動車輸送を根づかせたか
- 1929年 東京-横浜間で定期便を開始
- 1949年 東京証券取引所に上場
- 1950年 通運事業に参入
- 1951年 航空貨物取扱を開始
- 1976年 宅急便事業の創業——路線トラック三番手からの個人宅配市場への転換 法人の大口貨物を追うか、誰も手をつけない個人の小口宅配を開拓するか——小倉昌男社長は行き詰まった路線事業をどう転換したか
- 1981年 郵便小包の官業独占に対する、宅急便による約20年の規制対抗 国の郵便独占という壁に、宅急便はどう対抗し続けたか——「官業を食う」経営から信書便法案参入断念まで
路線トラック三番手からの脱出という構想
1919年、小倉康臣氏が東京市京橋区で大和運輸を創立した。資本金10万円、車両わずか4台からの出発ながら、創業直後から三越呉服店の商品配送や日本橋魚河岸の鮮魚輸送を請け負い、都心の商業貨物輸送で事業基盤を固めた。1929年には東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始し、戦後は1949年に東京証券取引所へ上場した。1950年代に通運事業、航空貨物取扱、海上貨物取扱と事業領域を広げ、1958年には美術品の梱包輸送にも進出し、法人向けの総合輸送業者としての顔を整えた。1978年の日経ビジネスは「戦前は日本一のトラック会社」(日経ビジネス 1978/7/19)と伝えたように、戦前戦後を通じて業態の軸は法人荷主を相手にした商業貨物にあった。 [1][2][3][4][5]
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1919年11月 小倉康臣が東京市京橋区で大和運輸を創立(資本金10万円・車両4台)
- [2]1929年 東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始
- [3]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [4]1950年代に通運(1950/3)・航空貨物(1951/1)・海上貨物(1952/1)取扱へ事業領域を拡大、1958年に美術品梱包輸送に進出
- 日経ビジネス(1978年7月19日, 日経BP)
- [5]1978年の日経ビジネスが戦前の同社を「戦前は日本一のトラック会社」と評した
しかし1960年代に長距離路線輸送へ参入した際、関西での知名度の低さが響き、荷主獲得で日本通運や西濃運輸の後塵を拝した。小倉昌男氏は後に「5年の遅れは痛かった。新規開業の挨拶に回っても、すでに主な荷主は同業者に抑えられ、貨物が集まらないのには頭を抱えてしまった」(小倉昌男『経営学』1999)と振り返った。路線トラック事業は参入順に主要荷主を押さえた会社が有利な構造であり、後発の大和運輸が大口の法人荷主を奪い取るのは容易ではなかった。三番手の位置から抜け出せないまま1970年代に入ると業績は低迷し、オイルショックの影響も重なって経営は厳しさを増した。1971年に社長へ就任した2代目の小倉昌男氏は、法人の大口荷物を奪い合うのではなく、誰も手をつけていない個人の小口荷物にこそ活路があるという構想を温め始めた。 [6][7]
- 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
- [6]1960年代の長距離路線参入で関西の知名度の低さから荷主獲得が日本通運・西濃運輸に後れた(小倉昌男の回想)
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【役員の状況】
- [7]1971年 2代目社長に小倉昌男が就任
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1919年11月 小倉康臣が東京市京橋区で大和運輸を創立(資本金10万円・車両4台)
- [2]1929年 東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始
- [3]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [4]1950年代に通運(1950/3)・航空貨物(1951/1)・海上貨物(1952/1)取扱へ事業領域を拡大、1958年に美術品梱包輸送に進出
- 日経ビジネス(1978年7月19日, 日経BP)
- [5]1978年の日経ビジネスが戦前の同社を「戦前は日本一のトラック会社」と評した
- 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
- [6]1960年代の長距離路線参入で関西の知名度の低さから荷主獲得が日本通運・西濃運輸に後れた(小倉昌男の回想)
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【役員の状況】
- [7]1971年 2代目社長に小倉昌男が就任
宅急便──「電話1本で翌日届く」仕組みの設計
1973年、小倉昌男氏はニューヨークで視察を行い、UPSの小型トラックが1ブロックを1台で受け持つ緻密な集配モデルを目にし、個人向け小口宅配の採算性の確信を得た。小倉社長は「一般個人から個人への宅配需要はせいぜい2倍止まりだろうと推定されるから、過大な設備コストに悩まされることはないと思う」(小倉昌男『経営学』1999)と、需要の平準化が採算性の核心であると見抜いていた。1975年8月、小倉社長は「宅急便開発要領」を社内に発表した。ハブ・アンド・スポーク型の全国集配ネットワークを構築し、取扱店を全国に設けて荷物の密度を高めて採算を成り立たせる構想である。1976年1月20日、電話1本で集荷し翌日配達、運賃は安くて明瞭というコンセプトを掲げて宅急便のサービスを開始したが、初日の取扱個数はわずか11個にとどまった。それでも10年で年間個数は3億個規模へ跳ね上がる。 [8][9][10][11][12]
- 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
- [8]1973年 小倉昌男がニューヨーク視察でUPSの集配モデルを見て個人向け小口宅配の採算性を確信
- [9]個人宅配需要は2倍止まりで設備過剰に悩まされないと見抜いた(小倉昌男の言)
- [10]1975年8月 小倉社長が「宅急便開発要領」を社内発表
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [11]1976年1月20日 宅急便のサービスを開始(電話1本・翌日配達・運賃明瞭)/初日(集計開始)の取扱個数11個
- ヤマト運輸 宅急便のあゆみ
- [12]宅急便の年間取扱個数が10年で3億個規模へ拡大
当時、運輸省は路線トラック事業の免許制を維持し、新規路線の認可には数年を要した。小倉社長は行政訴訟も辞さない姿勢で全国の路線免許を取得し、街の酒屋や米屋を取扱店として組み込み独自のネットワークを築いた。1981年に東証一部へ指定替え、1982年には「ヤマト運輸」へ商号変更し、1980年代半ばには宅急便の年間取扱個数が3億個を超えた。路線トラックで三番手に甘んじた会社が、個人向け宅配という市場の創出者へ立ち位置を変えた。法人の大口を諦めて個人の小口に賭けた判断が、日本の物流業界の勢力図を塗り替えた。新規路線の認可を勝ち取るごとに荷物の密度が高まり、密度の上昇がさらに採算性を押し上げる。小倉社長が狙った好循環は、免許行政との粘り強い交渉のうえに初めて成り立つ仕組みでもあった。 [13][14]
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [13]1981年9月 東証一部へ指定替え
- [14]1982年10月 大和運輸からヤマト運輸へ商号変更
- 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
- [8]1973年 小倉昌男がニューヨーク視察でUPSの集配モデルを見て個人向け小口宅配の採算性を確信
- [9]個人宅配需要は2倍止まりで設備過剰に悩まされないと見抜いた(小倉昌男の言)
- [10]1975年8月 小倉社長が「宅急便開発要領」を社内発表
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [11]1976年1月20日 宅急便のサービスを開始(電話1本・翌日配達・運賃明瞭)/初日(集計開始)の取扱個数11個
- [13]1981年9月 東証一部へ指定替え
- [14]1982年10月 大和運輸からヤマト運輸へ商号変更
- ヤマト運輸 宅急便のあゆみ
- [12]宅急便の年間取扱個数が10年で3億個規模へ拡大
クール宅急便と全国ネットワーク完成による物流インフラ化
1987年に日経ビジネスはヤマト運輸を「物流革命の旗手」(日経ビジネス 1987/11/9)と呼び、「宅配便市場で快走してきたヤマト運輸の秘密は、利益の確保を二の次に、あくまでも顧客の利便性を追求してきたからだ」(日経ビジネス 1987/11/9)と述べた。1996年、日本初の低温管理宅配サービス「クール宅急便」を開始した。同時に年末年始営業を導入し、365日体制へ移行した。温度管理輸送の導入は宅急便を単なる荷物配送から食品流通のインフラへ広げ、生鮮食品のギフト配送や産地直送ビジネスの基盤となった。2003年には小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成し、同年にはクロネコメール便の全国展開も始まった。宅急便は個人の荷物市場から食品やメール便の領域へ用途を広げ、同社の物流インフラとしての性格を強めた。 [15][16][17]
- 日経ビジネス(1987年11月9日, 日経BP)
- [15]1987年の日経ビジネスがヤマト運輸を「物流革命の旗手」と呼んだ
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1996年 日本初の低温管理宅配サービス「クール宅急便」を開始、年末年始営業導入で365日体制へ移行
- [17]2003年 小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成、クロネコメール便の全国展開も開始
グループ再編も並行した。ヤマトロジスティクスやヤマトグローバルフレイトなどの機能別子会社を整備し、デリバリー事業以外の物流領域へ展開を広げた。2005年11月に純粋持株会社制へ移行してヤマトホールディングスへ商号変更し、BIZ-ロジ事業、e-ビジネス事業、フィナンシャル事業などを含む6事業セグメント体制を整えた。同年7月の日経MJは創業者・小倉昌男氏の死去を伝える紙面論評で、宅急便をセブン-イレブン・ジャパンと並ぶ戦後日本の消費者向け流通サービス業の画期と評価した。宅急便の発明から30年で、大和運輸は路線トラック会社から総合物流グループへ転じ、個人向け宅配市場の創出者という自己像を企業構造そのものに焼き付けた。 [18][19][20]
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [18]ヤマトロジスティクス等の機能別子会社を整備しデリバリー事業以外の物流領域へ展開
- [19]2005年11月 純粋持株会社制へ移行しヤマトホールディングスへ商号変更(6事業セグメント体制)
- 日経MJ(2005年7月4日, 日本経済新聞社)
- [20]2005年7月の日経MJが創業者・小倉昌男の死去を伝え、宅急便を戦後日本の消費者向け流通サービス業の画期と評価(小倉昌男は2005年6月30日逝去)
- 日経ビジネス(1987年11月9日, 日経BP)
- [15]1987年の日経ビジネスがヤマト運輸を「物流革命の旗手」と呼んだ
- ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [16]1996年 日本初の低温管理宅配サービス「クール宅急便」を開始、年末年始営業導入で365日体制へ移行
- [17]2003年 小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成、クロネコメール便の全国展開も開始
- [18]ヤマトロジスティクス等の機能別子会社を整備しデリバリー事業以外の物流領域へ展開
- [19]2005年11月 純粋持株会社制へ移行しヤマトホールディングスへ商号変更(6事業セグメント体制)
- 日経MJ(2005年7月4日, 日本経済新聞社)
- [20]2005年7月の日経MJが創業者・小倉昌男の死去を伝え、宅急便を戦後日本の消費者向け流通サービス業の画期と評価(小倉昌男は2005年6月30日逝去)