NIPPON EXPRESSHD の歴史

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創業 1872年
創業者 佐々木荘助
創業地 東京市麹町区
創業 1872年6月、官営郵便に書状の逓送を奪われた江戸以来の定飛脚問屋が、前島密氏の
1872年6月、官営郵便に書状の逓送を奪われた江戸以来の定飛脚問屋が、前島密氏の勧めで東京日本橋佐内町に陸運元会社を創立した。資本金は5万円で、頭取に吉村甚兵衛氏、副頭取に佐々木荘助氏らが就任した。1875年2月に内国通運会社へ改称し、各駅の人馬継立と郵便の請負を引き受ける。1891年に逓信請負を入札で失い、翌1892年には社長の佐々木荘助氏が死去した。鉄道の全通で長距離の道路輸送が縮小すると、営業の軸を鉄道貨物の取扱へ移した。
決断 一貫するのは、消費者の小口から降り、企業の荷を国境を越えて運ぶ側へ寄る選択である
一貫するのは、消費者の小口から降り、企業の荷を国境を越えて運ぶ側へ寄る選択である。1977年に始めた宅配便ペリカン便は個数で上位2社を下回り、2000年の郵政事業庁との宅配便連合構想も合意に至らなかった。2010年7月、33年続けた宅配便から撤退する。2022年1月に持株会社NIPPON EXPRESSホールディングスへ移行し、同年12月期には国際航空貨物の基幹システム開発を断念して154億円を減損、2023年に委託先のアクセンチュアへ損害賠償を求めて提訴した。資源は、半導体製造装置や医薬品を空と海で運ぶ国際フォワーディングへ振り向けられた。
現況 現在の姿は、日本の陸上物流にM&Aで取得した海外フォワーディングを積んだ構造であ
現在の姿は、日本の陸上物流にM&Aで取得した海外フォワーディングを積んだ構造である。2025年12月期の売上収益2兆5,748億円のうち、日本が1兆2,224億円、欧州が5,138億円を占める。欧州を押し上げたのは2023年のcargo-partner買収で、中東欧の非日系荷主を基盤ごと得た。ただし同期は欧州で612億円を減損し、営業利益515億円に対し親会社帰属利益は27億円にとどまった。買収した規模を利益へ変えきれないまま、2026年4月にカナダのMetro Supply Chain Group買収を約2,070億円で発表している。
競合 宅配便では上位2社に届かず、国際輸送では欧州勢の規模を追う立場にある。国内の宅配
宅配便では上位2社に届かず、国際輸送では欧州勢の規模を追う立場にある。国内の宅配便ではヤマト運輸の宅急便と佐川急便との個数差が広がり、2010年に撤退した。国際フォワーディングではM&Aで規模を拡大したDSVやキューネ・アンド・ナーゲルが先行し、日系荷主に伴走して拠点を増やすやり方では差が縮まらなかった。cargo-partner買収で航空は世界7位から5位、海上は17位から11位へ上がる見通しだが、開きは残る。個数で測れない重量品建設を国内に持つものの、売上は451億円で全社の2%に満たない。
長期業績の推移 1950〜2025年
NIPPON EXPRESSホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1996年3月期〜2025年12月期

第1章 1872年〜 陸運元会社の設立と内国通運会社への商号変更

1872年〜官営郵便に追われた定飛脚仲間5人と、資本金5万円の陸運元会社

江戸以来の定飛脚問屋の書状逓送は、1871年3月に東海道で官営郵便が開設されると、官と同じ市場で競うことになった。三都の定飛脚屋は東京〜大阪間の賃銭を郵便と同額に、東京〜横浜間を郵便の半額に下げて対抗した。駅逓司も横浜便を別に設け、飛脚屋と同じ賃銭をつけて応戦した。1872年1月からは長崎までの郵便が予定され、諸道への拡張が各地の飛脚屋の営業を脅かした。前島密氏は、飛脚屋で最も利益の厚い業務が書状の送達であり、郵便がそれを奪う構図にあると認めていた。書状の逓送は旧飛脚問屋の営業の主要部分だった。値下げで官に対抗しても、全国に延びる郵便網と競い続ける余力は飛脚問屋に残っていなかったとみられる。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
    • [1]1871年3月の東海道官営郵便開設で旧飛脚業者は書状逓送という主要業務で官と競争し、のち官営郵便の下請と長距離輸送に活路を求めた
    • [6]1871年3月の東海道官営郵便開設で旧飛脚業者は書状逓送という主要業務で官と競争し、のち官営郵便の下請と長距離輸送に活路を求めた
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [2]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [3]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [4]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [5]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す

定飛脚仲間は1872年4月に転身の結論を出し、同年6月に東京日本橋佐内町の和泉屋邸内で陸運元会社を創立した。資本金は1株500円・100株の総額5万円で、頭取に和泉屋当主の吉村甚兵衛氏、副頭取に武田喜右衛門氏・佐々木荘助氏・河村幸氏の3名が就任した。駅逓寮は各駅の陸運会社を旧伝馬所の名を改めただけの組織とみなし、吉村甚兵衛氏ほか4人が興す元会社を育てる方針を沿道の府県に通達した。転身を説いたのは前島密氏で、和泉屋番頭だった佐々木荘助氏が飛脚側の交渉役として問屋の主人や番頭を説き伏せた。飛脚問屋が江戸時代から蓄えた資本は、この新会社に結集された。官と争わずに旧来の取扱網を生かせる領域として、郵便の下請と長距離の運送取扱が残されていたのだろう。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [7]1872年6月、東京日本橋佐内町和泉屋邸内に陸運元会社創立。1株500円×100株=資本金5万円、頭取吉村甚兵衛、副頭取武田喜右衛門・佐々木荘助・河村幸
    • [8]1872年6月、東京日本橋佐内町和泉屋邸内に陸運元会社創立。1株500円×100株=資本金5万円、頭取吉村甚兵衛、副頭取武田喜右衛門・佐々木荘助・河村幸
    • [9]駅逓寮が沿道府県への達で、各駅陸運会社は真の私会でないとし、吉村甚兵衛外4人が定飛脚仲間の名称を転じて設ける陸運元会社を積極的に育成する方針を示した
  • 企業の現代史(1964)「流通経済を支える動脈(日本通運)」
    • [10]前島密が1871年秋〜1872年春に飛脚問屋を説得し、和泉屋番頭佐々木荘助が交渉役を務め、1872年4月に結論、6月に元会社創立。飛脚問屋の蓄積資本を結集した会社
    • [11]前島密が1871年秋〜1872年春に飛脚問屋を説得し、和泉屋番頭佐々木荘助が交渉役を務め、1872年4月に結論、6月に元会社創立。飛脚問屋の蓄積資本を結集した会社

元会社は旧来の定飛脚出張店を元会社出張所に改め、出張所は1872年7月時点で横浜・高崎・新潟・仙台・箱館など22カ所に達した。主要幹線の定便は元会社の直営とし、賃銭をすべて本社に集めて、各地の取引店には一定の手数料だけを支払った。創立前の同年5月に駅逓寮へ出した運輸仕法見込御伺書は、諸道の陸運会社や類業者を元会社の統制下に置き、輸送を円滑にする方針を掲げていた。駅ごとの継ぎ替えをやめ、3〜4里から5〜6里を1継ぎとする案も盛り込んでいた。1873年の太政官布告は、陸運業者に元会社への入社・合併か駅逓頭の免許取得かを選ばせ、元会社の統制を制度で支えた。定便の賃銭を本社に集める仕組みが、各地の業者を手数料で結ぶ取扱網の骨組みになったと思われる。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [12]元会社は定飛脚出張店を元会社出張所に改め、1872年7月現在で22カ所。主要幹線の定便を直営とし賃銭を元会社に集め、各地取引店には手数料のみ支払った
    • [13]元会社は定飛脚出張店を元会社出張所に改め、1872年7月現在で22カ所。主要幹線の定便を直営とし賃銭を元会社に集め、各地取引店には手数料のみ支払った
    • [14]1872年5月提出の運輸仕法見込御伺書で、諸道陸運会社等を元会社の統制下に置き輸送円滑化を図ること、3〜4里ないし5〜6里を一継ぎとすることなどを掲げた
    • [15]1872年5月提出の運輸仕法見込御伺書で、諸道陸運会社等を元会社の統制下に置き輸送円滑化を図ること、3〜4里ないし5〜6里を一継ぎとすることなどを掲げた
  • 企業の現代史(1964)「流通経済を支える動脈(日本通運)」
    • [16]1873年の太政官布告で陸運業者は元会社に入社・合併するか駅逓頭の免許を受けるかを選ぶことになり、元会社は政府から特権を得た
参考文献[1]-[16]
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
    • [1]1871年3月の東海道官営郵便開設で旧飛脚業者は書状逓送という主要業務で官と競争し、のち官営郵便の下請と長距離輸送に活路を求めた
    • [6]1871年3月の東海道官営郵便開設で旧飛脚業者は書状逓送という主要業務で官と競争し、のち官営郵便の下請と長距離輸送に活路を求めた
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [2]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [3]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [4]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [5]駅逓の前島密が回想で、1871年東京〜大阪間・東京〜横浜間で三都の定飛脚屋が郵便に値下げ競争を挑み、駅逓司が横浜便で応戦、1872年1月に長崎まで郵便を開く予定だったこと、書状送達が飛脚屋の最大の利益源だったことを記す
    • [7]1872年6月、東京日本橋佐内町和泉屋邸内に陸運元会社創立。1株500円×100株=資本金5万円、頭取吉村甚兵衛、副頭取武田喜右衛門・佐々木荘助・河村幸
    • [8]1872年6月、東京日本橋佐内町和泉屋邸内に陸運元会社創立。1株500円×100株=資本金5万円、頭取吉村甚兵衛、副頭取武田喜右衛門・佐々木荘助・河村幸
    • [9]駅逓寮が沿道府県への達で、各駅陸運会社は真の私会でないとし、吉村甚兵衛外4人が定飛脚仲間の名称を転じて設ける陸運元会社を積極的に育成する方針を示した
    • [12]元会社は定飛脚出張店を元会社出張所に改め、1872年7月現在で22カ所。主要幹線の定便を直営とし賃銭を元会社に集め、各地取引店には手数料のみ支払った
    • [13]元会社は定飛脚出張店を元会社出張所に改め、1872年7月現在で22カ所。主要幹線の定便を直営とし賃銭を元会社に集め、各地取引店には手数料のみ支払った
    • [14]1872年5月提出の運輸仕法見込御伺書で、諸道陸運会社等を元会社の統制下に置き輸送円滑化を図ること、3〜4里ないし5〜6里を一継ぎとすることなどを掲げた
    • [15]1872年5月提出の運輸仕法見込御伺書で、諸道陸運会社等を元会社の統制下に置き輸送円滑化を図ること、3〜4里ないし5〜6里を一継ぎとすることなどを掲げた
  • 企業の現代史(1964)「流通経済を支える動脈(日本通運)」
    • [10]前島密が1871年秋〜1872年春に飛脚問屋を説得し、和泉屋番頭佐々木荘助が交渉役を務め、1872年4月に結論、6月に元会社創立。飛脚問屋の蓄積資本を結集した会社
    • [11]前島密が1871年秋〜1872年春に飛脚問屋を説得し、和泉屋番頭佐々木荘助が交渉役を務め、1872年4月に結論、6月に元会社創立。飛脚問屋の蓄積資本を結集した会社
    • [16]1873年の太政官布告で陸運業者は元会社に入社・合併するか駅逓頭の免許を受けるかを選ぶことになり、元会社は政府から特権を得た

1874年〜内国通運会社へ改めた元会社と、利根川を上った通運丸

元会社は1874年1月に金沢の北陸道陸運元会社を合併し、取扱網を裏日本一帯へ広げた。1875年に入ると各駅陸運会社の解散が迫り、元会社は同年2月に社名を内国通運会社へ改めた。同年3月の会議で各駅の人馬継立を引き受ける請書を出す一方、水運・鉄道・馬車の便が開けて社運が衰える場合の永続は保証できないと口頭で申し入れた。5月の陸運会社解散は、元会社を中心とする道路輸送網の再編を前提に進められた。解散後の内国通運は、陸運会社に代わって諸道の輸送現業の責任を負った。全国の継立を引き受けた時点で、経営陣は継立そのものが交通の変化で縮む事業だと承知していたと推察される。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [17]1874年1月、東京(諸国)陸運元会社が石川県金沢の北陸道陸運元会社を合併し取扱網を裏日本一帯に拡張、同3月本社に水運課を設置
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
    • [18]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
    • [20]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
    • [21]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [19]1875年3月の元会社会議で各駅人馬継立の引受を請書で表明し改称を上願。水運・鉄道・馬車の便が開け社運が衰退する場合は保証しがたいと口頭で申し入れた

旧飛脚業者の転身は、官営郵便の下請と長距離の道路輸送を軸に進んだ。1871年3月に発足した官営郵便は、郵便物の逓送をはじめ多くの業務を民間業者の請負に依存していた。1873年3月の改定郵便規則で金子入書状の受付が始まると、その運送と駅逓寮・各地郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負になった。契約は1875年2月の改称後も続き、陸運会社の解散で一般郵便物の逓送も多くが内国通運の継立に移った。馬車輸送も郵便物の逓送を中心に始まり、1874年には東京〜小田原間で馬車を走らせた。1875年10月には駅逓頭の許可を得て、11月1日から小田原以西の熱田まで接続馬車で郵便物を運んだ。逓信事業の請負は1891年3月まで続いた。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
    • [22]旧飛脚業者は官の指導に沿い、官営郵便の下請業務と長距離道路輸送に活路を見いだした
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [23]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [24]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [25]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [26]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された
    • [27]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された
    • [28]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された

元会社は1875年3月の会議で、水運・鉄道・馬車の便が開ければ継立の社運が衰えうると官に伝えていた。鉄道では、工部省が1875年3月に三井組独占の新橋〜横浜間の貨物取扱を一般へ開放した。内国通運は直ちに頭取の吉村甚兵衛氏の名義で出願して即日許可を得た。同じ日に阪神間の鉄道貨物の取扱も命じられた。水運では、1874年3月に本社へ水運課を設け、下野国阿久津の河岸で若目田健次郎氏の家業を買収していた。1876年に利根川筋の水深を測って浅瀬の浚渫を所管庁に建議し、1877年2月24日に汽船第1号の通運丸を東京から武州大越まで試運転した。社費で江戸川と利根川の浅瀬を浚渫して航路を開き、同年5月1日から深川扇橋〜下野国生井村間で旅客の定期運航を始めた。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [29]1875年3月、元会社は人馬継立の引受を請け負う一方、水運・鉄道・馬車の便が開け社運が衰退する場合は永続を保証しがたいと口頭で申し入れた
    • [30]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [31]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [32]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [34]1876年に利根川筋の水深を実測し浚渫を建議、1877年2月24日に汽船第1号通運丸を東京〜武州大越間で試運転、社費で浚渫し同年5月1日から深川扇橋〜野州生井村間で開業
    • [35]1876年に利根川筋の水深を実測し浚渫を建議、1877年2月24日に汽船第1号通運丸を東京〜武州大越間で試運転、社費で浚渫し同年5月1日から深川扇橋〜野州生井村間で開業
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [33]1874年3月、本社に水運課を設け、下野国阿久津川岸の若目田健次郎の家業を買収して利根川周辺の水運業拡張に着手
参考文献[17]-[35]
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
    • [17]1874年1月、東京(諸国)陸運元会社が石川県金沢の北陸道陸運元会社を合併し取扱網を裏日本一帯に拡張、同3月本社に水運課を設置
    • [33]1874年3月、本社に水運課を設け、下野国阿久津川岸の若目田健次郎の家業を買収して利根川周辺の水運業拡張に着手
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
    • [18]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
    • [20]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
    • [21]1873年6月の太政官布告第230号で元会社育成が明確化。1875年2月、各駅陸運会社の解散を前に内国通運会社へ改称、同5月陸運会社解散後は諸道の輸送現業の責任を負った
    • [22]旧飛脚業者は官の指導に沿い、官営郵便の下請業務と長距離道路輸送に活路を見いだした
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [19]1875年3月の元会社会議で各駅人馬継立の引受を請書で表明し改称を上願。水運・鉄道・馬車の便が開け社運が衰退する場合は保証しがたいと口頭で申し入れた
    • [23]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [24]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [25]官営郵便は郵便物逓送など多くを民間請負に依存。1873年3月改定郵便規則で金子入書状の運送と駅逓寮・郵便取扱所間の現金運送が元会社の請負となり、改称後も継続、陸運会社解散で一般郵便物の逓送も同社の継立に移った
    • [26]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された
    • [27]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された
    • [28]内国通運は逓信事業の請負を元会社時代から引き継ぎ1891年3月まで継続。1874年東京〜小田原間で郵便馬車、1875年10月7日付駅逓頭達で11月1日から小田原〜熱田間の接続馬車による郵便物運送を許された
    • [29]1875年3月、元会社は人馬継立の引受を請け負う一方、水運・鉄道・馬車の便が開け社運が衰退する場合は永続を保証しがたいと口頭で申し入れた
    • [30]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [31]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [32]1875年3月、工部省が三井組独占の新橋〜横浜間鉄道貨物取扱を一般開放し、内国通運は同月27日頭取吉村甚兵衛名義で出願、即日許可。阪神間鉄道の取扱も同日命じられた
    • [34]1876年に利根川筋の水深を実測し浚渫を建議、1877年2月24日に汽船第1号通運丸を東京〜武州大越間で試運転、社費で浚渫し同年5月1日から深川扇橋〜野州生井村間で開業
    • [35]1876年に利根川筋の水深を実測し浚渫を建議、1877年2月24日に汽船第1号通運丸を東京〜武州大越間で試運転、社費で浚渫し同年5月1日から深川扇橋〜野州生井村間で開業

1891年〜社長佐々木荘助を失った元請の危機と、鉄道貨物へ移った内国通運株式会社

逓信省は内国通運との契約が満期を迎えた1891年4月、すべての逓信請負事業を一般入札に付した。請負は日本運輸会社に移り、1年契約は1892年3月にそのまま更新された。同年4月6日、25日の総会を前に社長の佐々木荘助氏が心痛と株主への責任感から自殺を図り、7日夜に死去した。佐々木荘助氏は元会社の副頭取から、1881年8月に吉村甚兵衛氏が病気で退任した後は頭取、1888年4月からは社長として経営を率いていた。一方の日本運輸会社は全国の運輸網を欠き、1893年3月の指名入札で落札した後に請負を辞退し、逓信事業は内国通運に戻った。同年、内国通運は約30万円の不良資産を切り捨てて資本金を140万円から112万円に減資し、取締役の互選で佐久間精一氏が社長に就任した。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [36]逓信省は1890年末に物品運搬請負を一般入札とし、内国通運との契約満期の1891年4月にすべての請負事業を一般入札に付した
    • [37]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
    • [38]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
    • [39]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第1節 内国通運株式会社の発展」
    • [40]日本運輸会社は1891年春から逓信事業を請け負ったが運輸網と社内規律に欠け、1893年3月11日の指名入札で予定価格65,430円に対し19,302円で落札後、連帯保証人を得られず辞退。逓信事業は内国通運に戻った
    • [41]1893年、定款改訂で取締役互選により佐久間精一が社長に就任。整理委員の調査で約30万円の不良資産を切り捨て、資本金を140万円から112万円に減資

内国通運株式会社の営業は、1890年代後半から鉄道貨物の取扱を主軸に移した。1889年7月の新橋〜神戸間、1891年9月の上野〜青森間の全通で、長距離の道路輸送は成り立たなくなった。1892年6月の鉄道敷設法の公布が路線の延長を後押しした。背後では綿紡績・製糸・織物などの工業が1890年代後半から骨格を整えつつあった。1899年5月には官設鉄道・日本鉄道・海陸運送舎と提携して北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送を始めた。東京では1902年4月から市内と地方向けの小荷物を一律5銭で集配し、同年8月に新橋・上野両駅へ納めた鉄道運賃は従前の5倍以上になった。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会では、東海・北陸・中央西線の過去1年の支払運賃1,604千円で第1位として表彰された。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第1節 内国通運株式会社の発展」
    • [42]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [43]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [44]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [46]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
    • [47]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
    • [48]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章 概観」
    • [45]第3章の対象期は明治20年代後半の資本主義確立期で、綿紡績・製糸・織物などの工業が発展した

鉄道貨物の取扱では競争会社が相次いで現れ、通運系の取引網に対抗する勢力が育った。1899年8月10日、鉄道積貨物の運送取扱を目的とする日本逓業株式会社が、資本金10万円で大阪市北区曾根崎に設立された。1907年3月には東京に明治運送株式会社が設立され、両社は提携して日明系を形成した。明治運送株式会社は前身の明治運送合資会社と出資者が重なっていた。合資会社は1906年の祝賀会で内国通運・日本逓業株式会社に次ぐ運賃支払額で表彰されていた。業者間の競争は激しくなり、日露戦後の不況期には業者自身が当局に業者数の制限を陳情した。日明系は交互計算や貨物引換証の整理事業を整え、通運系と業界を二分する勢力となった。この二つの系列の対立が、次の時代に取扱業者の合同を促す起点になったと考えられる。

  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章 概観」
    • [49]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [51]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [54]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [55]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第2節 「非通運系」会社の創立と発展」
    • [50]日本逓業株式会社は1899年8月10日、資本金10万円で大阪市北区曾根崎に設立、目的は鉄道積貨物運送取扱
    • [52]明治運送合資会社の出資者山本吉五郎が明治運送株式会社の取締役に選任。合資会社は1906年5月の祝賀会で内国通運・日本逓業に次ぐ運賃支払額で表彰され、1908年9月解散
    • [53]明治運送合資会社の出資者山本吉五郎が明治運送株式会社の取締役に選任。合資会社は1906年5月の祝賀会で内国通運・日本逓業に次ぐ運賃支払額で表彰され、1908年9月解散
参考文献[36]-[55]
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
    • [36]逓信省は1890年末に物品運搬請負を一般入札とし、内国通運との契約満期の1891年4月にすべての請負事業を一般入札に付した
    • [37]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
    • [38]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
    • [39]日本運輸会社への1年契約が1892年3月に更新。同4月6日、社長佐々木荘助が心痛と株主への責任感から自殺を図り7日夜死去。1881年8月吉村甚兵衛の病気退職後に頭取、1888年4月から社長
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第1節 内国通運株式会社の発展」
    • [40]日本運輸会社は1891年春から逓信事業を請け負ったが運輸網と社内規律に欠け、1893年3月11日の指名入札で予定価格65,430円に対し19,302円で落札後、連帯保証人を得られず辞退。逓信事業は内国通運に戻った
    • [41]1893年、定款改訂で取締役互選により佐久間精一が社長に就任。整理委員の調査で約30万円の不良資産を切り捨て、資本金を140万円から112万円に減資
    • [42]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [43]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [44]1890年代後半から鉄道貨物取扱業が営業種目の主軸に。1889年7月新橋〜神戸間、1891年9月上野〜青森間全通、1892年6月鉄道敷設法公布で鉄道網が拡大
    • [46]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
    • [47]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
    • [48]1899年5月北海道〜大阪間の海陸縦貫輸送、1905年12月京釜鉄道と日鮮間連絡輸送、1902年4月東京市内で一律5銭の小荷物集配開始(同年8月の新橋・上野両駅への納付運賃が従前の5倍以上)。1906年5月の鉄道5,000マイル祝賀会で支払運賃1,604千円で第1位
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章 概観」
    • [45]第3章の対象期は明治20年代後半の資本主義確立期で、綿紡績・製糸・織物などの工業が発展した
    • [49]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [51]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [54]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
    • [55]1899年8月大阪に日本逓業株式会社、1907年3月東京に明治運送株式会社が設立され、提携して日明系(のち国明系)を形成し通運系取引網に対抗。交互計算や貨物引換証整理事業を整え、大正中期に業界を二分。日露戦後の不況期に業者自ら業者数制限を陳情
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第2節 「非通運系」会社の創立と発展」
    • [50]日本逓業株式会社は1899年8月10日、資本金10万円で大阪市北区曾根崎に設立、目的は鉄道積貨物運送取扱
    • [52]明治運送合資会社の出資者山本吉五郎が明治運送株式会社の取締役に選任。合資会社は1906年5月の祝賀会で内国通運・日本逓業に次ぐ運賃支払額で表彰され、1908年9月解散
    • [53]明治運送合資会社の出資者山本吉五郎が明治運送株式会社の取締役に選任。合資会社は1906年5月の祝賀会で内国通運・日本逓業に次ぐ運賃支払額で表彰され、1908年9月解散

第2章 1912-1949 (気が向いたら執筆します!) 国際通運の発足から日本通運法に基づく設立と56社の合併

第3章 1950-1976 (気が向いたら執筆します!) 日本通運法の廃止による民間会社としての再出発と上場、コンテナ・観光・国際航空貨物混載

第4章 1977-1999 (気が向いたら執筆します!) ペリカン便の開始と欧州・アジアへの拠点展開

第5章 2000-2021 (気が向いたら執筆します!) 郵政との宅配便連合構想とJPエクスプレス、宅配便事業からの撤退

第6章 2022-2026 (気が向いたら執筆します!) NIPPON EXPRESSHDの設立とcargo-partner・Metro Supply Chainの買収

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歴史年表 1872〜2026年

NIPPON EXPRESSホールディングスの沿革1872〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1872〜1911年陸運元会社の設立と内国通運会社への商号変更陸運元会社を設立★
内国通運会社に商号変更★
1912〜1949年国際通運の発足から日本通運法に基づく設立と56社の合併国際通運として発足★
日本通運法に基づき設立★★
東京合同運送ほか56社を合併★★
1950〜1976年日本通運法の廃止による民間会社としての再出発と上場、コンテナ・観光・国際航空貨物混載民間会社として再出発・上場★
「日本通運法を廃止する法律」の施行により一般商事会社に★★
コンテナ試験輸送・美術品業務開始★
観光業務・国内航空貨物混載業務開始★
国際航空貨物混載業務開始★
福島敏行米国日通を設立★
福島敏行米国日本通運設立★
福島敏行東京オリンピックの運搬を担当★
澤村貴義大阪万博の運搬を担当★
1977〜1999年ペリカン便の開始と欧州・アジアへの拠点展開広瀬真一オランダ日通設立★
広瀬真一ペリカン便開始★★
広瀬真一オランダ日本通運設立★
広瀬真一香港日本通運設立★
広瀬真一ドイツ日通設立★
広瀬真一海外拠点200突破★
広瀬真一天宇客貨運輸服務有限公司(現・NX国際物流有限公司)設立★
2000〜2021年郵政との宅配便連合構想とJPエクスプレス、宅配便事業からの撤退広瀬真一宅配便連合構想の提示と、共通ブランドをめぐる協議の開始

2000年秋、日本通運は宅急便で独走するヤマト運輸に対抗するため、郵政事業庁(後の日本郵政公社)との宅配便事業の連合を構想し、ペリカン便とゆうパック事業の統合や共通ブランドの検討にまで着手した。だが構想は正式な提携合意には至らず、9年後の2009年のJPエクスプレス設立まで持ち越された。

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広瀬真一本社を汐留地区に移転★
広瀬真一本社を移転★
広瀬真一日通キャピタル設立★
広瀬真一JPエクスプレス設立・ペリカン便統合★★
広瀬真一ペリカン便撤退・宅配便事業から撤退★★
広瀬真一欧州日本通運設立★
広瀬真一南アジア・オセアニア日本通運 設立★
広瀬真一日通NECロジスティクス株式取得★
広瀬真一ワンビシアーカイブズ株式取得★
2022〜2026年NIPPON EXPRESSHDの設立とcargo-partner・Metro Supply Chainの買収齋藤充単独株式移転による純粋持株会社体制への移行とグループ経営機能の分離

2022年1月4日、日本通運は単独株式移転により完全親会社NIPPON EXPRESSホールディングスを設立し、純粋持株会社体制へ移行した。株式移転比率は1対1で、日本通運の普通株式1株に持株会社の普通株式1株を割り当て、交付した新株式は90,599,225株。持株会社の資本金は70,175百万円、資本準備金は26,908百万円となった。 同日、持株会社が東京証券取引所市場第一部へテクニカル上場し、日本通運は上場廃止となった。株主構成は移転の前後で変わらず、企業会計上は共通支配下の取引に当たるため損益への影響もない。初代社長には齋藤充氏が就任し、グループブランド「NX」を導入した。

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堀切智オーストリアの物流企業の取り込みによる、欧州・中東欧の事業基盤の獲得

2023年5月12日、NIPPON EXPRESSホールディングスは、オーストリアに本拠を置く物流企業cargo-partner社の全株式を取得する株式譲渡契約を締結し、2024年1月4日に子会社化を完了した。契約上の取得原価は普通株式845百万ユーロ、連結上の支払対価は129,982百万円であり、有価証券報告書が「過去最大のM&A」と記す規模となった。

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堀切智新・国際航空貨物基幹システムの開発断念と154億円の全額減損

日本通運が航空運送事業のグローバル共通基盤として2017年4月に着手した「新・国際航空貨物基幹システム」は、稼働に至らないまま2022年12月期に開発が断念され、ソフトウェアの帳簿価額154億6100万円が全額減損された。

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堀切智欧州に続く北米での事業基盤の獲得に向けた、cargo-partner社に次ぐ大型買収

2026年4月、NIPPON EXPRESSホールディングス(NXHD)は、カナダを本拠に北米などで物流事業を営むMetro Supply Chain Groupを買収すると発表した。2023年のcargo-partner社に続く大型の海外買収であるが、本稿執筆時点でNXHDの有価証券報告書に企業結合の注記はなく、取得の条件も株式取得の完了も同社の開示資料からは確認できない。

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★★★
出典・参考 7件
出典・参考
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章 概観」
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第2節 陸運元会社の創立」
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第2章第3節 内国通運会社への発展」
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第1節 内国通運株式会社の発展」
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章 概観」
  • 日本通運株式会社 社史(1962)「第3章第2節 「非通運系」会社の創立と発展」
  • 企業の現代史(1964)「流通経済を支える動脈(日本通運)」

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