三菱電機 の歴史

更新:

創業

1921年

創業者

※三菱造船

創業地

兵庫県神戸市

直近売上高(2026/3)

58,947億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1921年に三菱電機は、事業を切らず積み増す総合電機型の運営から始まったのか
A 外に市場を切り拓く新興企業として生まれたのではなく、三菱財閥の重電部門として親会社の需要を最初から抱えて発足したため、新領域は既存事業を整理せずに足していけばよかった。1921年に三菱造船神戸造船所の電機製作所を継承して創立し、神戸で変圧器・電動機・扇風機を手がけ、1923年に長崎でタービン発電機など重電機器、1924年に名古屋で家庭用電気機器へと拠点ごとに事業を広げた。財閥本体が需要を保証するなかで、製作所を地方へ増やしながら品目を重ねる構造が創業直後に固まった
Q なぜ1998年に汎用DRAMから撤退して選択と集中へ向かいながら、製作所単位の縦割りは残したのか
A 勝てない汎用品は手放す一方、製品ごとに研究開発から生産まで自己完結する製作所は技術と人材の母体として温存する判断が働いた。1994年に北岡隆社長はゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチを引き合いに「一流になれないものを切り捨てる」と語り、1998年に沖電気と同時に汎用DRAM事業から撤退して半導体をパワー・高周波・光デバイス中心へ寄せた。だが本部の統合は進めても製作所単位の縦割り運営はそのまま残し、選択と集中は事業ポートフォリオの整理にとどまった
Q なぜ安定経営で知られた三菱電機が、2025年にROIC経営と1兆円のM&A枠へ踏み込んだのか
A 自前の成長を積み上げる従来のやり方では企業価値を飛躍させられないとの認識が、2021年の長崎製作所の品質不正が露呈させたガバナンスの弱さを経て固まったためである。2025年5月のIR Dayで漆間啓氏(最高経営責任者)は、これまで大きなリスクを取らずオーガニックな成長をしてきたが抜本的な事業構造の見直しが必要と述べ、売上1兆9000億円規模を価値再獲得事業と分類して終息・売却・継続を見極める方針と、3年以内のM&A投資枠1兆円を同時に示した。安定志向を支えてきた政策保有株式を売却し、総還元性向50%以上と過去最大1,000億円の自社株買いも決めた

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1921年〜 三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代

  1. 1921年 三菱電機を創立
  2. 1923年 長崎工場を新設
  3. 1924年 名古屋製作所を新設
  4. 1940年 大船工場を新設
  5. 1940年 大阪工場を新設
  6. 1943年 福山・中津川工場を新設
  7. 1943年 姫路工場を新設

神戸造船所の電機部門継承と、ウエスチングハウスからの技術導入

三菱電機の源流は1905年、三菱合資会社造船部神戸造船所の構内で舶用・鉱山用を主とした電気機械器具の製造[1]が始まったところにある。同造船所は1908年に国産第一号のタービン発電機を完成させ[2]、創業期の電機技術を蓄えた。1921年1月15日、その電気機械部門を継承して資本金1500万円[3]で三菱電機が設立された。設立の事情は、電力を動力に用いる機運が各方面で熟していたにもかかわらず、欧州大戦直後の疲弊で先進工業国からの輸入が困難になり、電気機械製造事業の有望性が高く評価された[4]点にあった。発足時の施設は神戸工場だけで、本店は名古屋[5]に置かれた。

    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [2]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [4]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋

1921年10月に神戸工場を神戸製作所と改称し、翌1922年1月には本店を東京へ[6]移した。1923年11月には三菱造船長崎造船所の電機工場を1年の委託経営ののちに吸収して長崎製作所[7]とし、タービン発電機や船舶用直流機など大型重電機器[8]を手がけた。1924年9月には名古屋製作所を開設し、汎用誘導電動機などの標準電機品と家庭用電気機器[9]へ製品の幅を広げた。技術の面では米ウエスチングハウス社と技術提携契約を結び[10]、翌年にはウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも提携[11]した。これらの契約は戦時中の中絶を除いて戦後まで続き[12]、製品の質を支えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [6]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [7]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [10]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [11]1924年9月 ウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも技術提携
    • [12]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [9]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける

1930年から1931年にかけての不況で経営は苦しんだが、満州事変の勃発後は好況に転じ、神戸・名古屋・長崎の三製作所は整備拡張[13]の時期に入った。1935年の販売高は一期で1200万円[14]を計上した。同年には英レイロール社とも技術提携を結び[15]、大正期に結んだ米国系3社の契約へ欧州の技術を重ねた。1940年12月には尼崎に12万坪の用地を買って大阪工場を建設し、あわせて研究所[16]を開いた。大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し[17]、神戸・名古屋・長崎の三製作所と並ぶ主力工場になった。資本金は1937年と1940年の倍額増資を経て、1943年8月に1億2000万円[18]へ増えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [13]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [14]1935年 一期の販売高1200万円
    • [16]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [17]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [18]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
    • [15]1935年 英レイロール社と技術提携
    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [2]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
    • [15]1935年 英レイロール社と技術提携
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [4]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
    • [6]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [7]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [10]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [11]1924年9月 ウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも技術提携
    • [12]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
    • [13]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [14]1935年 一期の販売高1200万円
    • [16]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [17]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [18]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [9]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける

戦時下の工場分散と、三菱商事解散で失った販売機関の再建

戦時経済のもとで工場の新設は加速し、1940年12月の大阪工場は神戸製作所から無線機と精機の工場を移して[19]立ち上げ、1942年4月には世田谷工場[20]を設けた。1943年2月に福山工場と中津川工場、4月に郡山工場、6月に和歌山工場[21]と、半年のあいだに4か所が動き出した。1944年2月には姫路工場を新設[22]し、翌3月には本店研究部を研究所へ格上げ[23]して、開発の社内機能も拠点の拡張と並べて整えた。終戦時には4製作所8工場に1研究所を加え、日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーの一つ[24]に数えられる規模と内容を持った。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [21]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [22]1944年2月 姫路工場を新設
    • [23]1944年 本店研究部を研究所とする
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [20]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [24]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ

空襲による被害は、原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%[25]に及んだ。復旧を妨げたのは、制限会社の指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法の指定[26]と続いた戦後の法令であり、なかでも三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に失った[27]打撃が大きかった。売る場所を自力で作り直すため、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島などに営業所を置き[28]、その下に多数の特約店と販売店を配して全国の販売網を敷き直した。1949年5月には10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し、業界の合理化の口火[29]を切った。同月、東京証券取引所へ株式を上場[30]している。1950年3月期には8分の低率で配当を復活[31]した。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [21]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [22]1944年2月 姫路工場を新設
    • [23]1944年 本店研究部を研究所とする
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [20]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [24]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
    • [25]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
    • [26]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
    • [27]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
    • [28]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
    • [29]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
    • [31]1950年3月期 8分の低率で配当を復活

1951年〜 ウエスチングハウス提携の復活と、半導体量産への先行投資の時代

三菱電機の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1951年 米ウエスチングハウスとの技術・資本提携の復活と、「三菱」商号の存続 商号を失えば提携はない——ロイヤリティを払って技術系列に戻るか、自力で追いつくか
  2. 1953年 無線機械製作所を新設
  3. 1954年 静岡工場を新設
  4. 1959年 半導体量産専門工場・北伊丹工場の新設と、西条・高知への量産設備の拡大 電子部品を外から買うか、自ら量産するか——重電と家電の会社が「電子産業のコメ」に投じた四半世紀
  5. 1959年 商品研究所を新設
  6. 1960年 鎌倉製作所を新設
  7. 1962年 京都製作所を新設

商号存続をかけた陳情と、技術提携の復活が決めた戦後重電の系列

傾斜生産方式が再起の糸口となり、1951年以降に本格化した電源開発を受けて、電気機械の生産額は1950年の238億円から1951年には533億円[32]へ跳ね上がった。戻ってきた需要に対し、国内の技術は戦時中の停滞のぶんだけ後れて[33]いた。欧米が14万5000キロワット級のタービンを実用化していた[34]一方で、1952年完成の築上発電所向けに国産できた設備は3万5000キロワット[35]にとどまった。三菱電機が大正期に結んだ米ウエスチングハウス社との技術提携契約は戦時中に中絶[36]したままで、大容量機の技術を国内で調達する当てはなかった。

ウエスチングハウス社は、三菱電機が分割されて三菱の商号を失えば技術契約は結べない[37]と通告した。高杉晋一社長は1950年4月に三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ陳情し、5月末に一年の延期[38]を得た。再延期を経て、1952年4月28日の講和条約発効で商号の使用禁止令は消滅[39]している。商号を守ったうえで、1951年4月に技術提携を復活させ[40]、資本提携もあわせて結び直した。ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%[41]という条件であった。1955年9月時点でウエスチングハウス社は発行済4800万株のうち200万株を持つ筆頭株主[42]であった。

  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]WH社は三菱電機が分割され商号を失えば技術契約は結べないと通告
    • [38]1950年4月 高杉晋一社長が三井・住友代表とともに吉田茂首相へ陳情、5月末に一年延期
    • [39]1952年4月28日の講和条約発効で商号使用の禁止令が消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [40]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [41]ロイヤリティは1年目25万ドル・2年目30万ドル・3年目40万ドル・4年目以降売上の3%
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [42]1955年9月時点でWH社が発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主

外資法の制定を機に、富士電機はジーメンス社、東京芝浦電気はゼネラル・エレクトリック社と関係を復活させ[43]、日立製作所は1953年にゼネラル・エレクトリック社から火力プラント技術を導入[44]した。新三菱重工業も1952年2月に蒸気タービンの製作でウエスチングハウス社と提携[45]し、三菱グループは同じ系譜に連なった。水素冷却発電機の開発では長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣[46]し、同製作所員の海外出張は戦後初となっている。国内では1953年10月に無線機製作所[47]、1954年4月に冷蔵庫やエアコンなど民需用冷機の専門工場として静岡工場[48]を新設した。1955年3月期の利益は4億4000万円にとどまり、配当は1割8分[49]へ下がった。

    • [43]外資法制定を機に富士電機=ジーメンス、東芝=GEが関係を復活
    • [44]1953年 日立製作所がGEから火力プラント技術を導入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「新三菱重工業」の項
    • [45]1952年2月 新三菱重工業が蒸気タービン製作で米WH社と技術提携
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [46]水素冷却発電機の開発で長崎製作所の今北孝次試験課長をWH社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1953年10月 無線機製作所を新設
    • [48]1954年4月 民需用冷機の専門工場として静岡工場を新設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [49]1955年3月期 利益4億4000万円・1割8分へ減配
    • [32]電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
    • [33]戦時中の停滞で国内の重電技術が欧米に後れる
    • [34]欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化
    • [35]1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワット
    • [43]外資法制定を機に富士電機=ジーメンス、東芝=GEが関係を復活
    • [44]1953年 日立製作所がGEから火力プラント技術を導入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [36]大正期に締結した米ウエスチングハウス社との技術提携は戦時中に中絶
    • [49]1955年3月期 利益4億4000万円・1割8分へ減配
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]WH社は三菱電機が分割され商号を失えば技術契約は結べないと通告
    • [38]1950年4月 高杉晋一社長が三井・住友代表とともに吉田茂首相へ陳情、5月末に一年延期
    • [39]1952年4月28日の講和条約発効で商号使用の禁止令が消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [40]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [46]水素冷却発電機の開発で長崎製作所の今北孝次試験課長をWH社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
    • [41]ロイヤリティは1年目25万ドル・2年目30万ドル・3年目40万ドル・4年目以降売上の3%
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [42]1955年9月時点でWH社が発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「新三菱重工業」の項
    • [45]1952年2月 新三菱重工業が蒸気タービン製作で米WH社と技術提携
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1953年10月 無線機製作所を新設
    • [48]1954年4月 民需用冷機の専門工場として静岡工場を新設

北伊丹工場と国産IC第一号、そして電化ブームの終わり

1959年8月、三菱電機は半導体の量産だけを担う専門工場として北伊丹工場[50]を新設した。設備投資を支えたのは電源開発で、電力各社は1958年度から1963年まで5年間で1000万キロワット近い電源開発[51]を計画していた。1959年の業績は売上高が前年同期比16%増、利益金が35%増[52]で、いずれも創業以来の最高を更新し、証券市場では成長株と呼ばれた[53]。1954年の静岡工場、1956年の家庭電器工場に続いて重電・電子・家庭電器の各分野で設備を積み増し[54]、1960年に鎌倉製作所、1962年に京都製作所と相模製作所[55]を建てた。

1959年ごろ、関義長社長は提携先のウエスチングハウス社から一センチ角ほどの集積回路の試作品を持ち帰った[56]。その話が新聞記事になると三菱電機の株価は一時暴騰[57]した。関社長の指示で中央研究所が製法を考案し、1961年に「モレクトロン」の名で商品化[58]した。これが国産IC第一号にあたり、開発が早かったため1970年ごろまで国産メーカーのトップ[59]を走った。1963年3月には菱電機器を吸収合併して群馬製作所と改称[60]し、1964年には昇降機の専門工場として稲沢製作所[61]を新設している。1968年3月期の売上高は1321億円、利益36億円、受注は1500億円[62]で、いずれも創業以来の最高であった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [56]1959年ごろ 関義長社長が米WH社から一センチ角ほどのICの試作品を持ち帰る
    • [57]ICの試作品の話が新聞記事になり三菱電機の株価が一時暴騰
    • [58]1961年 中央研究所が製法を考案し「モレクトロン」として商品化
    • [59]モレクトロンは国産IC第一号で、開発の早さから1970年ごろまで国産メーカーの首位
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1963年3月 菱電機器を吸収合併し群馬製作所と改称
    • [61]1964年 昇降機の専門工場として稲沢製作所を新設
    • [62]1968年3月期 売上高1321億円・利益36億円・受注1500億円でいずれも創業以来最高

1963年から1964年を境に電化ブームは終わり、1965年9月期は利益剰余金を取り崩してかろうじて無配転落を免れた[63]。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売り[64]しており、大手3社のあいだにも格差が生じた。1971年9月期は為替差損5億3700万円で6%の減益・2分の減配[65]となり、これを機に全社総点検運動「101作戦」を始め、進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針[66]に据えた。半導体では1970年ごろから日本の十倍の規模で生産する米国メーカーが販売攻勢をかけ、価格低下で国産各社は軒並み赤字[67]に沈んだが、三菱電機は撤退せず1972年4月に半導体事業部を設けて生産と販売を強めた[68]。初代事業部長が提案したマレーシア工場案を進藤社長は言葉の違いと自動化の進展を理由に退け[69]、実際その2〜3年後に組み立て工程の自動化機械が開発された。

    • [63]1963〜1964年を境に電化ブームが終わり1965年9月期は利益剰余金取り崩しで無配転落を回避
    • [64]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売り
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号「三菱電機」(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [65]1971年9月期 為替差損5億3700万円で6%減益・2分減配
    • [66]全社総点検運動「101作戦」を開始し進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針とする
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [67]1970年ごろから日本の十倍規模で生産する米国メーカーの販売攻勢で国産各社が赤字
    • [68]1972年4月 半導体事業部を設置し生産・販売を強化
    • [69]初代事業部長のマレーシア工場案を進藤社長が言葉の違いと自動化の進展を理由に却下
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [60]1963年3月 菱電機器を吸収合併し群馬製作所と改称
    • [61]1964年 昇降機の専門工場として稲沢製作所を新設
    • [51]電力各社は1958年度から1963年まで5年間で1000万キロワット近い電源開発を計画
    • [52]1959年 売上高が前年同期比16%増・利益金35%増で創業以来の最高
    • [53]1959年 証券市場で成長株と呼ばれる
    • [54]1954年 静岡工場、1956年 家庭電器工場に続き重電・電子・家庭電器の各分野で設備を拡充
    • [55]1960年 鎌倉製作所、1962年 京都製作所・相模製作所を建設
    • [62]1968年3月期 売上高1321億円・利益36億円・受注1500億円でいずれも創業以来最高
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [56]1959年ごろ 関義長社長が米WH社から一センチ角ほどのICの試作品を持ち帰る
    • [57]ICの試作品の話が新聞記事になり三菱電機の株価が一時暴騰
    • [58]1961年 中央研究所が製法を考案し「モレクトロン」として商品化
    • [59]モレクトロンは国産IC第一号で、開発の早さから1970年ごろまで国産メーカーの首位
    • [67]1970年ごろから日本の十倍規模で生産する米国メーカーの販売攻勢で国産各社が赤字
    • [68]1972年4月 半導体事業部を設置し生産・販売を強化
    • [69]初代事業部長のマレーシア工場案を進藤社長が言葉の違いと自動化の進展を理由に却下
    • [63]1963〜1964年を境に電化ブームが終わり1965年9月期は利益剰余金取り崩しで無配転落を回避
    • [64]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売り
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号「三菱電機」(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [65]1971年9月期 為替差損5億3700万円で6%減益・2分減配
    • [66]全社総点検運動「101作戦」を開始し進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針とする

1977年〜 販売志向への組み替えと、半導体集中が招いた初の連結赤字の時代

三菱電機の業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1977年 生産志向型の事業部編成の見直しと、営業本部・4事業本部制への移行 作れば売れた名門は、売る力をどう作り直したか——生産の都合で引かれた事業の線を、客の側から引き直す
  2. 1978年 台湾三菱電機股份有限公司を設立
  3. 1981年 北伊丹製作所福岡半導体工場を新設
  4. 1983年 事業本部を6本部体制に再編
  5. 1992年 「万年3位」からの脱却を掲げた北岡改革と、半導体投資の誤算による引責辞任 「最も変化に縁遠い大企業」をどう変えるか——重電出身でない初の社長が挑んだ選択と集中は、なぜ道半ばで潰えたか
  6. 1995年 赤井電機の経営権をセミ=テックグループに譲渡
  7. 1998年 汎用DRAM事業からの撤退と、システムLSI・パワー半導体への「選択の時代」 「百貨店型」の総花的な半導体をどう畳むか——コスト勝負のDRAMを捨て、三菱電機は半導体で何に賭け直したか

生産の都合で分かれた事業部編成の見直しと「雌伏50年」

三菱電機は1958年から事業部制を敷き[70]、市場と技術の変化に合わせて手直しを重ねた結果、1972年末には10の事業部[71]を抱えていた。この編成は生産の都合で分かれており、客を単位にしていなかった[72]。1975年6月に営業本部を新設して[73]全社の販売機能を一元化し、1977年6月には事業部の上へ重電・電子・機器・商品の4事業本部[74]を重ねた。進藤貞和社長は機構改革の狙いを「全体的に販売志向型にしよう」[75]という点に置き、研究本部は開発本部へ改称[76]している。本部長には事業の技術的な専門家であることを求めず、4人が互いに協力できる人物を選ぶことを大前提[77]とした。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号「三菱電機」(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [70]1958年から事業部制を導入し手直しを重ねる
    • [71]1972年末には10事業部
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号「ヒット商品が生まれるのも人間しだい 進藤貞和氏(三菱電機社長)が語る"脱トノサマ商法"」
    • [72]従来の事業部編成は生産志向型で客を単位にしていなかった
    • [75]進藤貞和社長は機構改革の狙いを「全体的に販売志向型にしよう」と説明
    • [76]研究本部を開発本部へ改称
    • [77]4事業本部長は技術的エキスパートを条件とせず4人が協力できることを大前提に選任
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [73]1975年6月 営業本部を新設
    • [74]1977年6月 事業本部制を導入し重電・電子・機器・商品の4事業本部を新設

1976年度は攻めのSP76作戦と守りのVA350作戦[78]が効き、原価低減は目標350億円に対し実績410億円[79]に達した。操業度は1975年度上期の76%から1976年度上期には95%[80]へ戻った。1977年3月期の単体実績は売上高6962億円・経常利益145億円・当期純利益85億円[81]で、経常利益は前期61億円の2倍[82]を超えた。輸出も伸び、1976年度の受注は前年度比69.7%増の1700億円で、その3分の2をプラント輸出[83]が占めた。イラク電力庁向けの発電プラント約250億円、イラン電力庁向けの変電プラント約260億円[84]などが積み上がり、1977年10月には日立製作所・東京芝浦電気の停滞をよそに単独で増益を続ける三菱電機が「雌伏50年」のブーム到来[85]と評された。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号「三菱電機」(八塚茂治・三菱電機副社長)
    • [78]攻めのSP76作戦と守りのVA350作戦を実施
    • [79]原価低減は目標350億円に対し実績410億円
    • [80]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [83]1976年度の輸出受注1700億円(前年度比69.7%増)でうち3分の2がプラント輸出
    • [84]イラク電力庁向け発電プラント約250億円・イラン電力庁向け変電プラント約260億円を受注
  • 三菱電機 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [81]1977年3月期 単体売上高6962億円・経常利益145億円・当期純利益85億円
    • [82]1977年3月期の経常利益は前期61億円の2倍超
  • 週刊東洋経済 1977年10月15日号「雌伏50年!三菱電機ブーム」
    • [85]1977年10月 日立・東芝の停滞をよそに単独増益を続け「雌伏50年」のブームと評される

好調のかたわらで、売る相手の定まらないエレクトロニクス部門の弱さ[86]も表に出た。1977年10月時点の半導体の売上高は年間約400億円で、そのうち20%が社内向け[87]であり、民生用か産業用かの方針も定まらず業界シェアも低かった[88]。赤字だった京都製作所では大森淳夫氏が所長として購買部長と営業部長を兼務し、3年で一人当たりの生産高を2.26倍[89]に伸ばし、買い替え需要を読んだシステムテレビとVTRのピクチャーサーチ[90]を生んだ。1981年には北伊丹製作所福岡半導体工場を新設[91]し、1983年10月には4事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部[92]へ組み替えた。

  • 週刊東洋経済 1977年10月15日号「雌伏50年!三菱電機ブーム」
    • [86]売る相手の定まらないエレクトロニクス部門の弱さが指摘される
    • [87]1977年10月時点の半導体売上高は年間約400億円でうち20%が社内向け
    • [88]民生用か産業用かの方針がなく業界シェアも低いと指摘される
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号「三菱電機 京都製作所に学ぶ"開き直り蘇生術" 逆境に捨て身の設備投資 同時に意識革命、ヒット生む」
    • [89]赤字の京都製作所で大森淳夫所長が購買部長・営業部長を兼務し3年で一人当たり生産高2.26倍
    • [90]買い替え需要を読んだシステムテレビとVTRのピクチャーサーチを商品化
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [91]1981年 北伊丹製作所福岡半導体工場を新設
    • [92]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号「三菱電機」(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [70]1958年から事業部制を導入し手直しを重ねる
    • [71]1972年末には10事業部
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号「ヒット商品が生まれるのも人間しだい 進藤貞和氏(三菱電機社長)が語る"脱トノサマ商法"」
    • [72]従来の事業部編成は生産志向型で客を単位にしていなかった
    • [75]進藤貞和社長は機構改革の狙いを「全体的に販売志向型にしよう」と説明
    • [76]研究本部を開発本部へ改称
    • [77]4事業本部長は技術的エキスパートを条件とせず4人が協力できることを大前提に選任
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [73]1975年6月 営業本部を新設
    • [74]1977年6月 事業本部制を導入し重電・電子・機器・商品の4事業本部を新設
    • [91]1981年 北伊丹製作所福岡半導体工場を新設
    • [92]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号「三菱電機」(八塚茂治・三菱電機副社長)
    • [78]攻めのSP76作戦と守りのVA350作戦を実施
    • [79]原価低減は目標350億円に対し実績410億円
    • [80]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [83]1976年度の輸出受注1700億円(前年度比69.7%増)でうち3分の2がプラント輸出
    • [84]イラク電力庁向け発電プラント約250億円・イラン電力庁向け変電プラント約260億円を受注
  • 三菱電機 会社年鑑(1986年版・単体業績)
    • [81]1977年3月期 単体売上高6962億円・経常利益145億円・当期純利益85億円
    • [82]1977年3月期の経常利益は前期61億円の2倍超
  • 週刊東洋経済 1977年10月15日号「雌伏50年!三菱電機ブーム」
    • [85]1977年10月 日立・東芝の停滞をよそに単独増益を続け「雌伏50年」のブームと評される
    • [86]売る相手の定まらないエレクトロニクス部門の弱さが指摘される
    • [87]1977年10月時点の半導体売上高は年間約400億円でうち20%が社内向け
    • [88]民生用か産業用かの方針がなく業界シェアも低いと指摘される
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号「三菱電機 京都製作所に学ぶ"開き直り蘇生術" 逆境に捨て身の設備投資 同時に意識革命、ヒット生む」
    • [89]赤字の京都製作所で大森淳夫所長が購買部長・営業部長を兼務し3年で一人当たり生産高2.26倍
    • [90]買い替え需要を読んだシステムテレビとVTRのピクチャーサーチを商品化

半導体設備の積み増しと、日米半導体協定が封じた量産効果

1983年に三菱電機は米国で半導体工場を設立[93]した。日米摩擦の緩和を意図した進出[94]であった。1984年は集積回路の需要が強く、国内のIC生産額は2兆円に達する見通し[95]となっていた。同年に愛媛県の西条工場を一部完成させ、1985年には高知工場の建設に着手[96]している。西条は臨海部の用地で塩害を懸念する反対が社内に強かったが、進藤貞和社長は「人間が月に行く時代に塩ぐらい防げないわけはない」[97]と押し切った。1985年の不況で半導体の生産はピーク比で三割強落ち込み、原因はメモリー市況の崩壊[98]にあった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [93]1983年 米国に半導体工場を設立
    • [94]米国工場の設立は日米摩擦の緩和を意図したもの
    • [96]1984年 西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年 高知工場に着工
    • [97]西条の塩害を懸念する社内の反対を進藤貞和社長が押し切る
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)「今年、IC生産2兆円に」
    • [95]1984年 国内のIC生産額は2兆円に達する見通し
    • [98]1985年の不況で半導体生産はピーク比三割強の落ち込み、原因はメモリー市況の崩壊

1986年7月、日米両政府は日米半導体協定の締結に合意[99]した。公正市場価格の導入により、日本メーカーは価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略を取れなくなった[100]。それでも三菱電機は設備の積み増しを止めず、1989年6月の講演で天野順介常務取締役は、半導体が1メガDRAMで業界第二位にあり4メガ・16メガも量産できる[101]と述べ、重電の工場を半導体の工場へ転換させた[102]ことにも触れた。1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円で前年度比14.1%増、経常利益931億円で同122.7%増、当期利益324億円で同63.9%増[103]と、いずれも過去最高であった。経常利益と当期利益の伸び率の開きは、体質改善のための半導体の有税償却が主因[104]であった。

    • [99]1986年7月 日米両政府が日米半導体協定の締結に合意
    • [100]公正市場価格(FMV)の導入で価格引き下げによる量産効果狙いの戦略が封じられる
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号「三菱電機」(天野順介 常務取締役 講演要旨)
    • [101]1989年6月 天野順介常務取締役が1メガDRAMで業界第二位・4メガ/16メガも量産可能と講演
    • [102]重電の工場を半導体の工場へ転換
    • [103]1988年度単独決算 売上高2兆2301億円(14.1%増)・経常利益931億円(122.7%増)・当期利益324億円(63.9%増)
    • [104]経常利益と当期利益の伸び率の差は体質改善のための半導体の有税償却が主因

1989年6月、三菱電機は自動車機器事業本部を新設[105]した。半導体では韓国・台湾のメーカーが力をつけ、4メガDRAMでは韓国の三星電子が世界最大とみられるまでになり、メモリー中心の経営は行き詰まった[106]。1993年6月には電力工業システム・社会システム・電子システム・情報通信システム・映像情報・住環境・FAシステム・自動車機器・半導体の9事業本部へ再編し、あわせて生産システム本部[107]を新設している。1994年3月期には情報通信システムと電子デバイスの2部門が177億円の営業損失[108]を計上し、連結売上高の31%を占める最大部門[109]が収益力を欠いていた。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [105]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
    • [107]1993年6月 9事業本部へ再編し生産システム本部を新設
    • [106]4メガDRAMで韓国の三星電子が世界最大とみられメモリー中心の経営が行き詰まる
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
    • [108]1994年3月期 情報通信システム・電子デバイス部門が177億円の営業損失
    • [109]同部門は連結売上高の31%を占める最大部門
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [93]1983年 米国に半導体工場を設立
    • [94]米国工場の設立は日米摩擦の緩和を意図したもの
    • [96]1984年 西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年 高知工場に着工
    • [97]西条の塩害を懸念する社内の反対を進藤貞和社長が押し切る
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)「今年、IC生産2兆円に」
    • [95]1984年 国内のIC生産額は2兆円に達する見通し
    • [98]1985年の不況で半導体生産はピーク比三割強の落ち込み、原因はメモリー市況の崩壊
    • [99]1986年7月 日米両政府が日米半導体協定の締結に合意
    • [100]公正市場価格(FMV)の導入で価格引き下げによる量産効果狙いの戦略が封じられる
    • [106]4メガDRAMで韓国の三星電子が世界最大とみられメモリー中心の経営が行き詰まる
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号「三菱電機」(天野順介 常務取締役 講演要旨)
    • [101]1989年6月 天野順介常務取締役が1メガDRAMで業界第二位・4メガ/16メガも量産可能と講演
    • [102]重電の工場を半導体の工場へ転換
    • [103]1988年度単独決算 売上高2兆2301億円(14.1%増)・経常利益931億円(122.7%増)・当期利益324億円(63.9%増)
    • [104]経常利益と当期利益の伸び率の差は体質改善のための半導体の有税償却が主因
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [105]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
    • [107]1993年6月 9事業本部へ再編し生産システム本部を新設
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
    • [108]1994年3月期 情報通信システム・電子デバイス部門が177億円の営業損失
    • [109]同部門は連結売上高の31%を占める最大部門

「万年3位」からの脱却を掲げた北岡改革と、DRAM撤退

1992年6月、半導体部門出身の北岡隆氏が社長に就いた[110]。重電出身でない初の社長で、「万年3位に安住する三菱電機を業界トップにしよう」[111]と改革に取り組んだ。当時の会社は「最も変化に縁遠い大企業の1つ」と評され、総合電機特有の緩衝作用で業績の振幅が小さかった[112]。北岡社長はゼネラル・エレクトリック社のジャック・ウェルチ会長流の「一流になれないものは切り捨てる」選択と集中を経営の指針[113]に掲げ、1993年の再編では事業本部長が決裁できる投資枠を1億円から5億円へ広げた結果、常務会にかかる案件は6割減った[114]。売上高2兆5000億円に対し従業員5万人は過剰だとして、本社人員を毎年10%削減[115]する方針も示した。

  • 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
    • [110]1992年 半導体部門出身の北岡隆氏が社長に就任、重電出身でない初の社長
    • [111]北岡社長は「万年3位に安住する三菱電機を業界トップにしよう」と改革に着手
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
    • [112]三菱電機は「最も変化に縁遠い大企業の1つ」と評され業績の振幅が小さかった
    • [114]1993年の9事業本部再編で投資枠を1億円から5億円へ広げ常務会の案件が6割減
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号「編集長インタビュー 北岡隆氏[三菱電機社長] トップが動かねば変革できぬ 成長の芽は関係会社にある」
    • [113]北岡社長はGEのジャック・ウェルチ会長流の選択と集中を経営の指針に掲げる
    • [115]売上高2兆5000億円に対し従業員5万人は過剰として本社人員を毎年10%削減する方針

改革は人事にも及び、日立製作所・東京芝浦電気より早く年功的な人事・報酬制度を廃して社内公募制[116]を導入し、北岡社長は社員との対話集会「社長フォーラム」を70回ほど[117]重ねた。米国流の激しい人員削減はとらず、「じわじわ効く漢方薬方式がベスト」として雇用は守る立場[118]を明言している。かつての社内には重電が本流でコンピューターなどを手がけると出世できないという意識[119]があり、北岡社長は不採算事業を子会社化して稼ぐ体質への転換[120]を図った。1995年1月には赤井電機の経営権をセミ=テックグループへ譲渡[121]した。半導体投資は1994年から1996年に連結で約3000億円[122]に達し、1995年度以降はDRAMを中心に年1000億円以上[123]へ拡大している。1995年度の単独経常利益は1000億円を突破し、過去最高益1363億円[124]に迫った。

  • 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
    • [116]日立・東芝に先んじて年功的な人事・報酬制度を廃し社内公募制を導入
    • [117]北岡社長は社員との対話集会「社長フォーラム」を約70回開催
    • [122]1994〜1996年の半導体投資は連結で約3000億円
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
    • [118]北岡社長は米国流の激しいリストラをとらず「じわじわ効く漢方薬方式がベスト」と述べ雇用を守る立場
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号「編集長インタビュー 北岡隆氏[三菱電機社長] トップが動かねば変革できぬ 成長の芽は関係会社にある」
    • [119]社内には重電が本流でコンピューター等を手がけると出世できないという意識があった
    • [120]北岡社長は不採算事業を子会社化して稼ぐ体質への転換を図る
  • 三菱電機グループの実態1995年版(アイアールシー)
    • [121]1995年1月 赤井電機の経営権をセミ=テックグループへ譲渡
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱電機/脱・三菱重工の失敗 再生か、解体か? 問われる存在意義」
    • [123]1995年度以降はDRAM中心に半導体投資を年1000億円以上へ拡大
    • [124]1995年度の単独経常利益は1000億円を突破し過去最高益1363億円に肉薄

1997年、米マイクロン社の安値攻勢でDRAM市況は急落[125]した。1997年度の半導体事業の赤字は約900億円に拡大し、先送りされていた家電事業の赤字も350億円程度[126]に膨らんだ。1998年3月期の連結業績は売上高3兆8013億円・経常損益525億円の赤字・当期純損益1059億円の赤字[127]となり、上場以来初の無配[128]に落ちている。1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に汎用DRAM事業からの撤退を決めた[129]。市況悪化を受けた投資縮小は相次いでいたが撤退は初めてで、両社ともシステムLSIへ特化する方針[130]を示し、日本の半導体産業は得意分野に的を絞る「選択の時代」[131]に入ったと論評された。北岡社長は「脱DRAMを推し進められなかった」[132]ことを最大のミスと認めて同年3月に辞任を表明し、後任に谷口一郎専務を指名[133]した。

  • 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
    • [125]1997年 米マイクロン社の安値攻勢でDRAM市況が急落
    • [128]1998年3月期は上場以来初の無配
    • [132]北岡社長は「脱DRAMを推し進められなかった」ことを最大のミスと認める
    • [133]1998年3月 北岡社長が辞任を表明し後任に谷口一郎専務を指名
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱電機/脱・三菱重工の失敗 再生か、解体か? 問われる存在意義」
    • [126]1997年度の半導体事業の赤字は約900億円、家電事業の赤字も350億円程度
  • 三菱電機 会社年鑑(連結業績)
    • [127]1998年3月期 連結売上高3兆8013億円・経常損益525億円の赤字・当期純損益1059億円の赤字
  • 日本経済新聞(1998年2月17日)「汎用DRAM事業、三菱電・沖電気撤退へ」
    • [129]1998年2月 沖電気工業と同時に汎用DRAM事業からの撤退を決定
    • [130]市況悪化での撤退は初めてで両社ともシステムLSIへ特化する方針
    • [131]日本の半導体産業が得意分野に的を絞る「選択の時代」に入ったと論評
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
    • [110]1992年 半導体部門出身の北岡隆氏が社長に就任、重電出身でない初の社長
    • [111]北岡社長は「万年3位に安住する三菱電機を業界トップにしよう」と改革に着手
    • [116]日立・東芝に先んじて年功的な人事・報酬制度を廃し社内公募制を導入
    • [117]北岡社長は社員との対話集会「社長フォーラム」を約70回開催
    • [122]1994〜1996年の半導体投資は連結で約3000億円
    • [125]1997年 米マイクロン社の安値攻勢でDRAM市況が急落
    • [128]1998年3月期は上場以来初の無配
    • [132]北岡社長は「脱DRAMを推し進められなかった」ことを最大のミスと認める
    • [133]1998年3月 北岡社長が辞任を表明し後任に谷口一郎専務を指名
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
    • [112]三菱電機は「最も変化に縁遠い大企業の1つ」と評され業績の振幅が小さかった
    • [114]1993年の9事業本部再編で投資枠を1億円から5億円へ広げ常務会の案件が6割減
    • [118]北岡社長は米国流の激しいリストラをとらず「じわじわ効く漢方薬方式がベスト」と述べ雇用を守る立場
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号「編集長インタビュー 北岡隆氏[三菱電機社長] トップが動かねば変革できぬ 成長の芽は関係会社にある」
    • [113]北岡社長はGEのジャック・ウェルチ会長流の選択と集中を経営の指針に掲げる
    • [115]売上高2兆5000億円に対し従業員5万人は過剰として本社人員を毎年10%削減する方針
    • [119]社内には重電が本流でコンピューター等を手がけると出世できないという意識があった
    • [120]北岡社長は不採算事業を子会社化して稼ぐ体質への転換を図る
  • 三菱電機グループの実態1995年版(アイアールシー)
    • [121]1995年1月 赤井電機の経営権をセミ=テックグループへ譲渡
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱電機/脱・三菱重工の失敗 再生か、解体か? 問われる存在意義」
    • [123]1995年度以降はDRAM中心に半導体投資を年1000億円以上へ拡大
    • [124]1995年度の単独経常利益は1000億円を突破し過去最高益1363億円に肉薄
    • [126]1997年度の半導体事業の赤字は約900億円、家電事業の赤字も350億円程度
  • 三菱電機 会社年鑑(連結業績)
    • [127]1998年3月期 連結売上高3兆8013億円・経常損益525億円の赤字・当期純損益1059億円の赤字
  • 日本経済新聞(1998年2月17日)「汎用DRAM事業、三菱電・沖電気撤退へ」
    • [129]1998年2月 沖電気工業と同時に汎用DRAM事業からの撤退を決定
    • [130]市況悪化での撤退は初めてで両社ともシステムLSIへ特化する方針
    • [131]日本の半導体産業が得意分野に的を絞る「選択の時代」に入ったと論評

1999年〜 独立独歩を捨てた事業の入れ替えと、品質不正からの立て直しの時代

三菱電機の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2003年 日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立
  2. 2003年 東芝三菱電機産業システムを設立
  3. 2010年 ルネサス テクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサス エレクトロニクスが発足
  4. 2021年 鉄道車両向け空調機器等の品質不正が発覚
  5. 2021年 鉄道車両用空調の架空検査発覚と、杉山武史社長の引責辞任・漆間啓体制での品質風土改革 35年続いた検査不正をどう畳むか——「品質への誠実さ」を欠いた総合電機大手は、トップ交代と組織改革で立て直せるか
  6. 2024年 自動車機器事業の会社分割による分社化と三菱電機モビリティの設立、鴻海精密工業への出資受け入れの検討 総合電機の内側で立て直すか、外部の資本と組むか——CASE下で赤字が続いた車載事業をどこに置くか
  7. 2025年 ネクストステージ支援制度で2,378人が応募

「もはや独立独歩では生き残れない」と半導体事業の切り出し

1998年に社長へ就いた谷口一郎氏は、就任から1年で資材調達や営業拠点の見直しを含むあらゆる経費削減策を通じて約400億円のコストダウン[134]を実現した。谷口一郎氏(社長)は、進藤貞和元社長以来の歴代社長が皆エレクトロニクス事業、とくに情報通信事業の強化を掲げてきた[135]と振り返り、基幹事業も右肩上がりで伸びていたために戦略事業と同様に増強され、日本電気や富士通など専業企業に比べて経営資源が分散した[136]と説明した。基幹事業の市場が軒並み成熟したいま、事業の選択と集中は生き残るために欠かせないとして、「もはや独立独歩では生き残れない」[137]と述べている。戦略事業にはITビジネスを据え、情報・通信・映像各事業の拡大と融合[138]を見込んだ。

  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「編集長インタビュー 谷口一郎 三菱電機社長 もはや独立独歩では生き残れない」
    • [134]谷口一郎社長は就任1年で資材調達・営業拠点の見直し等により約400億円のコストダウンを実現
    • [135]進藤貞和元社長以来の歴代社長がエレクトロニクス・情報通信事業の強化を掲げてきた
    • [136]基幹事業も同時に増強された結果、NEC・富士通など専業企業に比べ経営資源が分散
    • [137]谷口社長は「もはや独立独歩では生き残れない」と述べ選択と集中を不可欠とした
    • [138]戦略事業をITビジネスに置き情報・通信・映像各事業の拡大と融合を見込む

組織の集約は世紀の変わり目に集中し、1999年4月には電力工業システム事業本部と社会システム事業本部を社会インフラ統括事業本部へ統合してビルシステム事業本部[139]を新設した。同じ1999年には家電業界で初となるリサイクルプラントを稼働[140]させ、2000年には映像情報事業本部と住環境事業本部をリビング・デジタルメディア事業本部へ統合[141]している。2001年にはコーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定[142]し、2003年6月には委員会等設置会社へ移行して指名・監査・報酬の三委員会[143]を置いた。同じ2003年には東京芝浦電気と製造業プラント向け電機設備事業の合弁会社、東芝三菱電機産業システム[144]を設立した。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]1999年4月 電力工業システム事業本部と社会システム事業本部を社会インフラ統括事業本部へ統合しビルシステム事業本部を新設
    • [140]1999年 家電業界初のリサイクルプラントが稼働
    • [141]2000年 映像情報事業本部と住環境事業本部をリビング・デジタルメディア事業本部へ統合
    • [142]2001年 コーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定
    • [143]2003年6月 委員会等設置会社(現指名委員会等設置会社)へ移行
    • [144]2003年 東芝と製造業プラント向け電機設備事業の合弁会社 東芝三菱電機産業システムを設立

半導体は会社の外へ切り出され、2003年4月に三菱電機は日立製作所とシステムLSI事業を統合してルネサステクノロジを設立[145]した。資本金は500億円、出資比率は日立製作所55%・三菱電機45%[146]で、統合の対象からDRAMは除かれている[147]。同じ2003年には半導体事業本部を半導体・デバイス事業本部へ改称し、汎用メモリからパワー半導体や高周波・光デバイス中心へ主力を移した[148]。DRAMはエルピーダメモリへ、システムLSIとマイコンはルネサステクノロジへと移し[149]、景気の谷が深く投資額も大きい事業を切り離した。柵山正樹社長は後年、この整理があったからこそ2008年度から2009年度のリーマン・ショック下でも赤字に落ちなかった[150]と語っている。

  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年10月3日)「日立製作所と三菱電機が半導体新会社 ルネサス テクノロジの設立について基本合意」
    • [145]2003年4月 日立製作所とシステムLSI事業を統合しルネサステクノロジを設立
  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年12月26日)「半導体新会社『ルネサス テクノロジ』の合弁契約を締結」
    • [146]ルネサステクノロジの資本金500億円・出資比率は日立製作所55%と三菱電機45%
    • [147]統合対象からDRAMは除外
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [148]2003年 半導体事業本部を半導体・デバイス事業本部へ改称し汎用メモリからパワー半導体・高周波/光デバイス中心へ移行
  • 週刊東洋経済 2016年10月15日号「この人に聞く 三菱電機 社長 柵山正樹 為替で実力を見誤ったが 投資刈り取り収益向上へ」
    • [149]DRAMはエルピーダメモリ、システムLSI・マイコンはルネサステクノロジへ分社
    • [150]柵山正樹社長は変動の大きい事業を整理したためリーマン・ショック下でも赤字に落ちなかったと説明
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「編集長インタビュー 谷口一郎 三菱電機社長 もはや独立独歩では生き残れない」
    • [134]谷口一郎社長は就任1年で資材調達・営業拠点の見直し等により約400億円のコストダウンを実現
    • [135]進藤貞和元社長以来の歴代社長がエレクトロニクス・情報通信事業の強化を掲げてきた
    • [136]基幹事業も同時に増強された結果、NEC・富士通など専業企業に比べ経営資源が分散
    • [137]谷口社長は「もはや独立独歩では生き残れない」と述べ選択と集中を不可欠とした
    • [138]戦略事業をITビジネスに置き情報・通信・映像各事業の拡大と融合を見込む
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]1999年4月 電力工業システム事業本部と社会システム事業本部を社会インフラ統括事業本部へ統合しビルシステム事業本部を新設
    • [140]1999年 家電業界初のリサイクルプラントが稼働
    • [141]2000年 映像情報事業本部と住環境事業本部をリビング・デジタルメディア事業本部へ統合
    • [142]2001年 コーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定
    • [143]2003年6月 委員会等設置会社(現指名委員会等設置会社)へ移行
    • [144]2003年 東芝と製造業プラント向け電機設備事業の合弁会社 東芝三菱電機産業システムを設立
    • [148]2003年 半導体事業本部を半導体・デバイス事業本部へ改称し汎用メモリからパワー半導体・高周波/光デバイス中心へ移行
  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年10月3日)「日立製作所と三菱電機が半導体新会社 ルネサス テクノロジの設立について基本合意」
    • [145]2003年4月 日立製作所とシステムLSI事業を統合しルネサステクノロジを設立
  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年12月26日)「半導体新会社『ルネサス テクノロジ』の合弁契約を締結」
    • [146]ルネサステクノロジの資本金500億円・出資比率は日立製作所55%と三菱電機45%
    • [147]統合対象からDRAMは除外
  • 週刊東洋経済 2016年10月15日号「この人に聞く 三菱電機 社長 柵山正樹 為替で実力を見誤ったが 投資刈り取り収益向上へ」
    • [149]DRAMはエルピーダメモリ、システムLSI・マイコンはルネサステクノロジへ分社
    • [150]柵山正樹社長は変動の大きい事業を整理したためリーマン・ショック下でも赤字に落ちなかったと説明

バランス経営の優等生と、産業メカトロニクスへの集中の誤算

リーマン・ショック直後の2010年3月期の連結営業利益は943億円[151]まで落ちたが、2014年3月期には売上高4兆543億円[152]へ戻した。この間、2010年9月のインドを皮切りに、2011年6月にベトナム、2012年9月にブラジル、同年12月にインドネシア、2013年1月にトルコ、2014年10月にロシア[153]と、新興国へ総合販売会社を相次いで設けた。2015年3月期には国際会計基準のもとで売上高4兆3230億円・営業利益3229億円[154]を計上している。2016年2月にはイタリアの業務用空調事業会社デルクリマ社を完全子会社化[155]し、欧州の業務用空調事業の中核に据えた。2019年時点の鉄道車両向け電機品の国内シェアは約6割で、鉄道関連の売上高は約2000億円[156]に達していた。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第139期(2010年3月期)【連結損益計算書】
    • [151]2010年3月期の連結営業利益943億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第143期(2014年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [152]2014年3月期の連結売上高4兆543億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [153]2010年9月 インド、2011年6月 ベトナム、2012年9月 ブラジル、同年12月 インドネシア、2013年1月 トルコ、2014年10月 ロシアに総合販売会社を設立
    • [155]2016年2月 イタリアの業務用空調事業会社デルクリマ社を完全子会社化
  • 三菱電機 有価証券報告書 第144期(2015年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [154]2015年3月期 IFRSで連結売上高4兆3230億円・営業利益3229億円
  • 週刊東洋経済 2019年6月22日号「企業リポート 実は鉄道メーカー国内2位 三菱電機「全方位戦略」の強み」
    • [156]2019年時点で鉄道車両向け電機品の国内シェア約6割、鉄道関連売上高は約2000億円

2016年、柵山正樹社長は2020年度までに売上高5兆円・営業利益率8%超という目標に対し、営業利益率で2ポイント以上の差[157]があると認めた。2014年と2015年は為替が円安に振れており、6%以上を実現できる実力がついたと思っていたが、1ドル100〜105円になると6%を割ってしまうとして、実力を見誤っていたと反省[158]を述べている。事業の撤退は毎年一つ以上続け、2016年4月には利益を出していた携帯電話販売会社を事業譲渡[159]した。判断の基準は現状の損益だけでなく、将来の展望と会社全体での相乗効果[160]に置かれた。

  • 週刊東洋経済 2016年10月15日号「この人に聞く 三菱電機 社長 柵山正樹 為替で実力を見誤ったが 投資刈り取り収益向上へ」
    • [157]2020年度までに売上高5兆円・営業利益率8%超の目標に対し営業利益率で2ポイント以上の差
    • [158]柵山社長は1ドル100〜105円で営業利益率6%を割るとして実力を見誤ったと反省
    • [159]毎年一つ以上の事業から撤退し2016年4月に携帯電話販売会社を事業譲渡
    • [160]撤退の判断基準は現状の損益と将来の展望・全社での相乗効果

2020年6月1日の経営戦略説明会で杉山武史社長は、2021年3月期の営業利益が前期比で半減以下の1200億円になる見通し[161]だと述べた。営業利益率は前期の5.8%から2.9%へ下がり、最終年度を迎えた中期経営計画の営業利益率8%以上には届かなかった[162]。原因は新型コロナウイルスの感染拡大に加え、FAシステムや自動車機器を扱う産業メカトロニクス部門への傾注が裏目に出た[163]点にあり、直近5年間の累計設備投資額のうち約4割をこの部門が占め、4200億円超[164]を投じていた。産業メカトロニクス部門の営業利益は2018年3月期の1908億円から急減し、2021年3月期は130億円[165]に沈む見通しとなった。三菱電機は大手電機8社のなかで唯一リーマン・ショック以降に赤字を計上しない優等生であったが、事業や工場ごとの独立性が強く横の連携が少ない[166]という課題を残していた。

  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号「特集 電機の試練 産業メカトロニクスへの集中が裏目に “優等生”三菱電機の誤算」
    • [161]2021年3月期の営業利益は前期比半減以下の1200億円の見通し
    • [162]営業利益率は前期5.8%から2.9%へ低下し中期経営計画の8%以上に未達
    • [163]不振の原因はコロナ禍と産業メカトロニクス部門への傾注が裏目に出たこと
    • [164]直近5年間の累計設備投資額の約4割を産業メカトロニクスが占め4200億円超を投じた
    • [165]産業メカトロニクス部門の営業利益は2018年3月期1908億円から2021年3月期130億円へ急減
    • [166]大手電機8社で唯一リーマン・ショック以降赤字なしだが事業・工場ごとの独立性が強く横の連携が少ない
  • 三菱電機 有価証券報告書 第139期(2010年3月期)【連結損益計算書】
    • [151]2010年3月期の連結営業利益943億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第143期(2014年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [152]2014年3月期の連結売上高4兆543億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [153]2010年9月 インド、2011年6月 ベトナム、2012年9月 ブラジル、同年12月 インドネシア、2013年1月 トルコ、2014年10月 ロシアに総合販売会社を設立
    • [155]2016年2月 イタリアの業務用空調事業会社デルクリマ社を完全子会社化
  • 三菱電機 有価証券報告書 第144期(2015年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [154]2015年3月期 IFRSで連結売上高4兆3230億円・営業利益3229億円
  • 週刊東洋経済 2019年6月22日号「企業リポート 実は鉄道メーカー国内2位 三菱電機「全方位戦略」の強み」
    • [156]2019年時点で鉄道車両向け電機品の国内シェア約6割、鉄道関連売上高は約2000億円
  • 週刊東洋経済 2016年10月15日号「この人に聞く 三菱電機 社長 柵山正樹 為替で実力を見誤ったが 投資刈り取り収益向上へ」
    • [157]2020年度までに売上高5兆円・営業利益率8%超の目標に対し営業利益率で2ポイント以上の差
    • [158]柵山社長は1ドル100〜105円で営業利益率6%を割るとして実力を見誤ったと反省
    • [159]毎年一つ以上の事業から撤退し2016年4月に携帯電話販売会社を事業譲渡
    • [160]撤退の判断基準は現状の損益と将来の展望・全社での相乗効果
  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号「特集 電機の試練 産業メカトロニクスへの集中が裏目に “優等生”三菱電機の誤算」
    • [161]2021年3月期の営業利益は前期比半減以下の1200億円の見通し
    • [162]営業利益率は前期5.8%から2.9%へ低下し中期経営計画の8%以上に未達
    • [163]不振の原因はコロナ禍と産業メカトロニクス部門への傾注が裏目に出たこと
    • [164]直近5年間の累計設備投資額の約4割を産業メカトロニクスが占め4200億円超を投じた
    • [165]産業メカトロニクス部門の営業利益は2018年3月期1908億円から2021年3月期130億円へ急減
    • [166]大手電機8社で唯一リーマン・ショック以降赤字なしだが事業・工場ごとの独立性が強く横の連携が少ない

35年続いた架空検査の発覚と、事業を入れ替える経営への転換

2021年6月、長崎製作所が製造する鉄道車両向け空調装置で、顧客が指定した条件と異なる方法での検査や、検査を実施しないまま架空の成績書を作る行為が1980年代から30年以上続いていた[167]ことが表に出た。この不正は過去の「全社再点検」でも確認できておらず[168]、自浄の機能が働いていなかった。1921年の創立以来続けてきた製作所単位の縦割り運営[169]のなかで、長崎製作所の長期の逸脱は本社の管理をすり抜けていた。同年7月2日に杉山武史社長が引責辞任を表明し、同月28日には事務系出身で1982年入社の専務、漆間啓[170]が執行役社長・CEOへ昇格した。漆間社長は不正の原因を「組織として品質に対する誠実さがなかった」[171]ことに置き、「上から変わることが重要だ」[172]と述べている。同年12月には新旧役員12人を処分[173]し、2022年10月の最終報告で品質不適切行為は合計197件に上って、柵山正樹前会長も課長時代の関与[174]が認定された。

  • 日本経済新聞(2021年6月29日)「三菱電機、鉄道車両空調で『不適切』検査 30年以上か」
    • [167]長崎製作所の鉄道車両向け空調装置で顧客指定と異なる検査や架空の成績書作成が1980年代から30年以上継続
  • MONOist(2021年7月1日)「三菱電機の鉄道車両用空調装置で不適切検査が発覚、『全社再点検』をすり抜け」
    • [168]過去に実施した「全社再点検」でも不正を確認できず自浄機能が働かなかった
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [169]1921年の創立以来、製作所単位の縦割り運営が続いていた
  • オートメーション新聞(2021年7月28日)「三菱電機、執行役体制を一新。新社長に漆間氏」
    • [170]2021年7月2日 杉山武史社長が引責辞任を表明、同月28日に事務系出身で1982年入社の専務 漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格
    • [171]漆間社長は不正の原因を「組織として品質に対する誠実さがなかった」ことに置いた
    • [172]漆間社長は「上から変わることが重要だ」と述べた
  • 日本経済新聞(2021年12月23日)「三菱電機、品質不正で漆間社長ら処分 新旧役員12人」
    • [173]2021年12月 品質不正の経営責任として新旧役員12人を処分
  • MONOist(2022年10月21日)「三菱電機が品質不正の調査を終了、総数197件に上り柵山前会長も課長時代に関与」
    • [174]2022年10月の最終報告で品質不適切行為は合計197件、柵山正樹前会長も課長時代の関与が認定

2021年10月には社長直轄の品質改革推進本部を新設し、全製作所へ品質保証監理部を置いて出荷の権限[175]などを与えた。2022年4月にはインフラ、インダストリー・モビリティ、ライフ、ビジネスプラットフォームの4つのビジネスエリア[176]を設定し、ビルシステム事業を承継させて三菱電機ビルソリューションズを、ソフトウエア設計子会社6社を統合して三菱電機ソフトウエア[177]をそれぞれ発足させた。2023年4月にはビジネスプラットフォームBAから半導体・デバイス事業本部を分離し、電子システム事業本部を防衛・宇宙システム事業本部へ改称[178]している。その前月にはパワーデバイス事業の累計設備投資を約1300億円から約2600億円へ倍増[179]させると発表し、うち約1000億円をSiCウエハに投じて熊本県菊池市に8インチウエハ対応の新工場棟[180]を建てる計画を示した。

  • 三菱電機「品質不適切行為に関する調査状況」(公式)
    • [175]2021年10月 社長直轄の品質改革推進本部を新設し全製作所に品質保証監理部を設置
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [176]2022年4月 インフラ・インダストリー/モビリティ・ライフ・ビジネスプラットフォームの4ビジネスエリアを設定
    • [177]2022年4月 ビルシステム事業を承継し三菱電機ビルソリューションズ、ソフトウエア設計子会社6社を統合し三菱電機ソフトウエアを発足
    • [178]2023年4月 ビジネスプラットフォームBAを分割し半導体・デバイス事業本部を分離、電子システム事業本部を防衛・宇宙システム事業本部へ改称
  • 三菱電機 ニュースリリース(2023年3月14日)「三菱電機 SiCパワー半導体の生産体制強化に向け新工場棟を建設」
    • [179]2023年3月 パワーデバイス事業の2021〜2025年度累計設備投資を約1300億円から約2600億円へ倍増
    • [180]SiCウエハに約1000億円を投じ熊本県菊池市に8インチウエハ対応の新工場棟を建設

赤字が続く自動車機器事業[181]は、2023年3月期に三菱電機単独売上高の22.9%[182]を占めていた。2023年4月24日の執行役会議で構造改革を決議[183]し、2024年4月1日に会社分割で三菱電機モビリティを設立[184]して、同月に三菱重工業と発電機事業の合弁会社、三菱ジェネレーター[185]も設けた。2026年4月24日には鴻海精密工業と覚書を結び、三菱電機モビリティへの50%出資受け入れも視野に共同運営の検討[186]を始めた。2025年5月のIR Dayでは売上1兆9000億円規模の事業を価値再獲得事業と分類[187]し、うち約0.3兆円は原則2027年度中に終息、約0.8兆円は2025年度中に判断、残る約0.8兆円は継続検討中[188]とした。ネクストステージ支援制度の特別措置には単独で2378人が応募[189]し、費用は国内関係会社を含め約1000億円[190]を見込んだ。2025年3月期の連結売上高は5兆5217億円[191]、営業利益は3918億円で過去最高を更新[192]した。

  • 時事ドットコム(2026年3月17日)「車機器子会社、出資受け入れ検討 企業価値向上へ―三菱電機」
    • [181]自動車機器事業は収益改善が課題で赤字が続いていた
  • 三菱電機「(経過開示)自動車機器事業の構造改革に伴う会社分割(簡易吸収分割)による分社化に関するお知らせ」(2023年10月31日)
    • [182]2023年3月期の自動車機器事業売上高6218億円は三菱電機単独売上高2兆7121億円の22.9%
  • 三菱電機「自動車機器事業の構造改革について」(2023年4月24日)
    • [183]2023年4月24日の執行役会議で自動車機器事業の構造改革を決議
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [184]2024年4月 自動車機器事業を会社分割により分社化し三菱電機モビリティを設立
    • [185]2024年4月 三菱重工業と発電機事業の合弁会社 三菱ジェネレーターを設立
  • 三菱電機「鴻海精密工業と自動車機器事業の共同運営を通じた戦略的提携の検討開始に合意」(2026年4月24日)
    • [186]2026年4月24日 鴻海精密工業と覚書を締結し三菱電機モビリティへの50%出資受け入れも視野に共同運営の検討を開始
  • 三菱電機 IR Day 2025(2025年5月28日)
    • [187]2025年5月のIR Dayで売上1兆9000億円規模の事業を価値再獲得事業と分類
    • [188]価値再獲得事業のうち約0.3兆円は原則2027年度中に終息、約0.8兆円は2025年度中に判断、残る約0.8兆円は継続検討中
  • 三菱電機 2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答(2026年2月3日)
    • [189]ネクストステージ支援制度特別措置に三菱電機単独で2378人が応募
    • [190]ネクストステージ支援制度の費用は国内関係会社を含め合計約1000億円の見込み
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [191]2025年3月期 連結売上高5兆5217億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【連結損益計算書】
    • [192]2025年3月期 連結営業利益3918億円で過去最高
  • 日本経済新聞(2021年6月29日)「三菱電機、鉄道車両空調で『不適切』検査 30年以上か」
    • [167]長崎製作所の鉄道車両向け空調装置で顧客指定と異なる検査や架空の成績書作成が1980年代から30年以上継続
  • MONOist(2021年7月1日)「三菱電機の鉄道車両用空調装置で不適切検査が発覚、『全社再点検』をすり抜け」
    • [168]過去に実施した「全社再点検」でも不正を確認できず自浄機能が働かなかった
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [169]1921年の創立以来、製作所単位の縦割り運営が続いていた
    • [176]2022年4月 インフラ・インダストリー/モビリティ・ライフ・ビジネスプラットフォームの4ビジネスエリアを設定
    • [177]2022年4月 ビルシステム事業を承継し三菱電機ビルソリューションズ、ソフトウエア設計子会社6社を統合し三菱電機ソフトウエアを発足
    • [178]2023年4月 ビジネスプラットフォームBAを分割し半導体・デバイス事業本部を分離、電子システム事業本部を防衛・宇宙システム事業本部へ改称
    • [184]2024年4月 自動車機器事業を会社分割により分社化し三菱電機モビリティを設立
    • [185]2024年4月 三菱重工業と発電機事業の合弁会社 三菱ジェネレーターを設立
  • オートメーション新聞(2021年7月28日)「三菱電機、執行役体制を一新。新社長に漆間氏」
    • [170]2021年7月2日 杉山武史社長が引責辞任を表明、同月28日に事務系出身で1982年入社の専務 漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格
    • [171]漆間社長は不正の原因を「組織として品質に対する誠実さがなかった」ことに置いた
    • [172]漆間社長は「上から変わることが重要だ」と述べた
  • 日本経済新聞(2021年12月23日)「三菱電機、品質不正で漆間社長ら処分 新旧役員12人」
    • [173]2021年12月 品質不正の経営責任として新旧役員12人を処分
  • MONOist(2022年10月21日)「三菱電機が品質不正の調査を終了、総数197件に上り柵山前会長も課長時代に関与」
    • [174]2022年10月の最終報告で品質不適切行為は合計197件、柵山正樹前会長も課長時代の関与が認定
  • 三菱電機「品質不適切行為に関する調査状況」(公式)
    • [175]2021年10月 社長直轄の品質改革推進本部を新設し全製作所に品質保証監理部を設置
  • 三菱電機 ニュースリリース(2023年3月14日)「三菱電機 SiCパワー半導体の生産体制強化に向け新工場棟を建設」
    • [179]2023年3月 パワーデバイス事業の2021〜2025年度累計設備投資を約1300億円から約2600億円へ倍増
    • [180]SiCウエハに約1000億円を投じ熊本県菊池市に8インチウエハ対応の新工場棟を建設
  • 時事ドットコム(2026年3月17日)「車機器子会社、出資受け入れ検討 企業価値向上へ―三菱電機」
    • [181]自動車機器事業は収益改善が課題で赤字が続いていた
  • 三菱電機「(経過開示)自動車機器事業の構造改革に伴う会社分割(簡易吸収分割)による分社化に関するお知らせ」(2023年10月31日)
    • [182]2023年3月期の自動車機器事業売上高6218億円は三菱電機単独売上高2兆7121億円の22.9%
  • 三菱電機「自動車機器事業の構造改革について」(2023年4月24日)
    • [183]2023年4月24日の執行役会議で自動車機器事業の構造改革を決議
  • 三菱電機「鴻海精密工業と自動車機器事業の共同運営を通じた戦略的提携の検討開始に合意」(2026年4月24日)
    • [186]2026年4月24日 鴻海精密工業と覚書を締結し三菱電機モビリティへの50%出資受け入れも視野に共同運営の検討を開始
  • 三菱電機 IR Day 2025(2025年5月28日)
    • [187]2025年5月のIR Dayで売上1兆9000億円規模の事業を価値再獲得事業と分類
    • [188]価値再獲得事業のうち約0.3兆円は原則2027年度中に終息、約0.8兆円は2025年度中に判断、残る約0.8兆円は継続検討中
  • 三菱電機 2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答(2026年2月3日)
    • [189]ネクストステージ支援制度特別措置に三菱電機単独で2378人が応募
    • [190]ネクストステージ支援制度の費用は国内関係会社を含め合計約1000億円の見込み
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [191]2025年3月期 連結売上高5兆5217億円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【連結損益計算書】
    • [192]2025年3月期 連結営業利益3918億円で過去最高

三菱電機の沿革1921〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三菱電機を創立
長崎工場を新設
名古屋製作所を新設
大船工場を新設
大阪工場を新設
福山・中津川工場を新設
姫路工場を新設
福岡工場を新設
本店研究部を研究所に
高杉晋一東京証券取引所に株式を上場
高杉晋一米ウエスチングハウスとの技術・資本提携の復活と、「三菱」商号の存続商号を失えば提携はない——ロイヤリティを払って技術系列に戻るか、自力で追いつくか 詳細を読む★★★
高杉晋一無線機械製作所を新設
高杉晋一静岡工場を新設
関義長半導体量産専門工場・北伊丹工場の新設と、西条・高知への量産設備の拡大電子部品を外から買うか、自ら量産するか——重電と家電の会社が「電子産業のコメ」に投じた四半世紀 詳細を読む★★★
関義長商品研究所を新設
関義長鎌倉製作所を新設
関義長京都製作所を新設
関義長三菱プレシジョンを設立
関義長菱電機器を吸収合併し群馬製作所に商号変更
大久保謙稲沢製作所を新設
進藤貞和三菱電機アメリカ社を設立
進藤貞和制御製作所・計算機製作所を新設
進藤貞和コンピュータシステム工場を新設
進藤貞和生産志向型の事業部編成の見直しと、営業本部・4事業本部制への移行作れば売れた名門は、売る力をどう作り直したか——生産の都合で引かれた事業の線を、客の側から引き直す 詳細を読む★★★
進藤貞和台湾三菱電機股份有限公司を設立
片山仁八郎北伊丹製作所福岡半導体工場を新設
片山仁八郎事業本部を6本部体制に再編
志岐守哉計算機製作所とコンピュータシステム製作所を統合しコンピュータ製作所に
志岐守哉大船製作所を廃止
志岐守哉自動車機器事業本部を新設
北岡隆「万年3位」からの脱却を掲げた北岡改革と、半導体投資の誤算による引責辞任「最も変化に縁遠い大企業」をどう変えるか——重電出身でない初の社長が挑んだ選択と集中は、なぜ道半ばで潰えたか 詳細を読む★★★
北岡隆中期経営計画を発表
北岡隆赤井電機の経営権をセミ=テックグループに譲渡★★
谷口一郎汎用DRAM事業からの撤退と、システムLSI・パワー半導体への「選択の時代」「百貨店型」の総花的な半導体をどう畳むか——コスト勝負のDRAMを捨て、三菱電機は半導体で何に賭け直したか 詳細を読む★★★
谷口一郎家電業界初のリサイクルプラントを稼働
野間口有「Changes for the Better」をコーポレートステートメントとして制定
野間口有日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立★★
野間口有委員会等設置会社へ移行
野間口有東芝三菱電機産業システムを設立★★
下村節宏山西健一郎が執行役社長に就任
山西健一郎ルネサス テクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサス エレクトロニクスが発足★★
山西健一郎三菱電機インド社を設立
山西健一郎柵山正樹が執行役社長に就任
柵山正樹デルクリマ社を完全子会社化
柵山正樹杉山武史が執行役社長に就任
漆間啓鉄道車両向け空調機器等の品質不正が発覚★★
漆間啓鉄道車両用空調の架空検査発覚と、杉山武史社長の引責辞任・漆間啓体制での品質風土改革35年続いた検査不正をどう畳むか——「品質への誠実さ」を欠いた総合電機大手は、トップ交代と組織改革で立て直せるか 詳細を読む★★★
漆間啓自動車機器事業の会社分割による分社化と三菱電機モビリティの設立、鴻海精密工業への出資受け入れの検討総合電機の内側で立て直すか、外部の資本と組むか——CASE下で赤字が続いた車載事業をどこに置くか 詳細を読む★★★
漆間啓ネクストステージ支援制度で2,378人が応募★★
出典・参考
  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
  • 野田経済 1951年5月号「東芝電気と三菱電機」(野田経済研究所 編)
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「新三菱重工業」の項
  • 実業の世界 1959年12月号「躍進の三菱電機」(三田商業研究会)
  • 産業と経済 1967年10月号「殿様商法の脱皮進む三菱電機」
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号「三菱電機」(進藤貞和・三菱電機社長)
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号「ヒット商品が生まれるのも人間しだい 進藤貞和氏(三菱電機社長)が語る"脱トノサマ商法"」
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号「三菱電機」(八塚茂治・三菱電機副社長)
  • 三菱電機 会社年鑑(1986年版・単体業績)
  • 週刊東洋経済 1977年10月15日号「雌伏50年!三菱電機ブーム」
  • 日経ビジネス 1980年6月16日号「三菱電機 京都製作所に学ぶ"開き直り蘇生術" 逆境に捨て身の設備投資 同時に意識革命、ヒット生む」
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)「今年、IC生産2兆円に」
  • 日本産業史 第4巻 電機・電子(日本経済新聞社、1994年)「半導体-日米半導体協定の衝撃」
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号「三菱電機」(天野順介 常務取締役 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号「三菱電機、即効追わぬ改革。社内公募制、事業本部再編…『変化に縁遠い大企業』の風土が変わり始めた」
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号「敗軍の将、兵を語る 北岡隆氏[三菱電機前社長、現取締役常任相談役] 投資判断誤り1000億円赤字 改革途上で無念の辞任」
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号「編集長インタビュー 北岡隆氏[三菱電機社長] トップが動かねば変革できぬ 成長の芽は関係会社にある」
  • 三菱電機グループの実態1995年版(アイアールシー)
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱電機/脱・三菱重工の失敗 再生か、解体か? 問われる存在意義」
  • 三菱電機 会社年鑑(連結業績)
  • 日本経済新聞(1998年2月17日)「汎用DRAM事業、三菱電・沖電気撤退へ」
  • 週刊東洋経済 1999年8月7日号「編集長インタビュー 谷口一郎 三菱電機社長 もはや独立独歩では生き残れない」
  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年10月3日)「日立製作所と三菱電機が半導体新会社 ルネサス テクノロジの設立について基本合意」
  • 日立製作所・三菱電機 ニュースリリース(2002年12月26日)「半導体新会社『ルネサス テクノロジ』の合弁契約を締結」
  • 週刊東洋経済 2016年10月15日号「この人に聞く 三菱電機 社長 柵山正樹 為替で実力を見誤ったが 投資刈り取り収益向上へ」
  • 三菱電機 有価証券報告書 第139期(2010年3月期)【連結損益計算書】
  • 三菱電機 有価証券報告書 第143期(2014年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 三菱電機 有価証券報告書 第144期(2015年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 週刊東洋経済 2019年6月22日号「企業リポート 実は鉄道メーカー国内2位 三菱電機「全方位戦略」の強み」
  • 週刊東洋経済 2020年6月20日号「特集 電機の試練 産業メカトロニクスへの集中が裏目に “優等生”三菱電機の誤算」
  • 日本経済新聞(2021年6月29日)「三菱電機、鉄道車両空調で『不適切』検査 30年以上か」
  • MONOist(2021年7月1日)「三菱電機の鉄道車両用空調装置で不適切検査が発覚、『全社再点検』をすり抜け」
  • オートメーション新聞(2021年7月28日)「三菱電機、執行役体制を一新。新社長に漆間氏」
  • 日経ビジネス(2022年3月10日)「不正問題の三菱電機、漆間社長が独白『品質への誠実さなかった』」
  • 日本経済新聞(2021年12月23日)「三菱電機、品質不正で漆間社長ら処分 新旧役員12人」
  • MONOist(2022年10月21日)「三菱電機が品質不正の調査を終了、総数197件に上り柵山前会長も課長時代に関与」
  • 三菱電機「品質不適切行為に関する調査状況」(公式)
  • 三菱電機 ニュースリリース(2023年3月14日)「三菱電機 SiCパワー半導体の生産体制強化に向け新工場棟を建設」
  • 時事ドットコム(2026年3月17日)「車機器子会社、出資受け入れ検討 企業価値向上へ―三菱電機」
  • 三菱電機「(経過開示)自動車機器事業の構造改革に伴う会社分割(簡易吸収分割)による分社化に関するお知らせ」(2023年10月31日)
  • 三菱電機「自動車機器事業の構造改革について」(2023年4月24日)
  • 三菱電機「鴻海精密工業と自動車機器事業の共同運営を通じた戦略的提携の検討開始に合意」(2026年4月24日)
  • 三菱電機 IR Day 2025(2025年5月28日)
  • 三菱電機 2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答(2026年2月3日)
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【連結損益計算書】

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