三菱電機の最初の30年で二度失われたのは、工場ではなく売る経路であった。設立の年から3期続けて赤字を出した会社は、営業の中枢を東京の本店へ集め、製作損益と営業損益を分け、共同販売制度を育てて、ようやく1938年度下期に販売でも利益を出せるところまで来た。ところが終戦後、三菱商事の解散でその販売機関は一挙に消える。空襲で焼けた施設は全体の31%だが、売り先の名簿と代金回収の仕組みはすべて失われた。1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌へ営業所を並べ直した4年は、焼けた工場を建て直す作業と同じだけの重みを持っていた。
もう一つ、この30年が残したのは、技術を外から買う会社としての形である。1923年にウエスチングハウス社と結んだ技術提携以来、三菱電機の重電はこの契約とともに品質を上げてきた。だから戦後、社名を失えば契約は結べないと通告されたとき、高杉晋一社長にとって三菱の三文字は、のれんであると同時に技術の入口であった。資本金が1500万円から12億円へ膨らみ、持株会社整理委員会が筆頭株主に座った30年の終わりに、会社の手元に残ったのは工場と技術契約、そしてまだ取り戻していない販売力である。次の四半世紀は、この三つの配分をめぐって進むことになる。
三菱電機の源流は1905年、三菱合資会社造船部神戸造船所の構内で舶用・鉱山用を主とした電気機械器具の製造が始まったところにある。重工業化を狙う三菱合資会社は、電機事業を戦略上の重点分野の一つとして重く見ていた。各方面で電力を動力に使う機運が熟していたのに、欧州大戦直後の疲弊で先進工業国からの輸入が難しくなり、電気機械の製造は有望な事業と評価されていた。その素地は同造船所にあり、1908年には国産第一号のタービン発電機を完成させて創業期の電機技術を積んでいた。1921年1月15日、この電気機械部門を引き継ぎ、資本金1500万円で三菱合資会社の9番目の分系会社として三菱電機が発足し、当初の施設は神戸工場だけ、本店は名古屋であった。
正式に営業を始めた1921年2月の時点で、神戸工場は敷地7760坪に職員234人・職工1281人の計1515人を抱えていた。ところが一般経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり、1921年度上期から3期続けて赤字決算となった。会社は職制の大幅な縮小、休職命令、経費の10%削減を強いられた。武田秀雄会長は従業員に対し、経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを繰り返し説いている。受注した機械が動かなければ代金は入らず、工事が延びれば工場は遊ぶ。規模ではなく歩留まりが会社の生死を決める段階にあり、品質を経営の要諦に据えた判断は、この3期の赤字の内訳から導かれたものだろう。
1921年10月に神戸工場を神戸製作所と改称し、翌1922年1月には本店を東京へ移した。1923年11月には三菱造船長崎造船所の電機工場を1年の委託経営ののちに吸収して長崎製作所とし、タービン発電機や船舶用直流機など大型重電機器を手がけた。1924年9月には名古屋製作所を開設し、汎用誘導電動機などの標準電機品と家庭用電気機器へ製品の幅を広げた。技術の面では1923年11月に米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結し、翌1924年には米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年には米ナショナルニューマチック社とも提携した。これらの契約は戦時中の中絶を除いて戦後まで続き、製品の質を支えた。
神戸・名古屋・長崎の三製作所が整備拡張の時期に入ったのは、1930年から1931年の不況で苦しんだ経営が、満州事変の勃発を機に好況へ向かってからである。1935年は一期の販売高が1200万円に上り、同じ年に英レイロール社と技術提携を結んで、大正期に米国系3社と交わした契約に欧州の技術を加えた。1940年12月、尼崎で12万坪の土地を取得し、大阪工場を建てるとともに研究所も設けた。のちに伊丹製作所へ名を改めた大阪工場は、神戸・名古屋・長崎の三製作所に並ぶ主力工場となった。資本金は1937年と1940年にそれぞれ倍額増資を行い、1943年8月には1億2000万円となった。
本店と各製作所の連携が足りず、方針が食い違い事務も重複して遅れがちだったため、会社はこの時期に販売の体制を組み替え、東京の本店に営業の中枢を集め、職制を設けて本店営業部と各製作所の関係をはっきりさせた。製作損益と営業損益も切り分け、製作・営業の双方が自らの立場で方針を立てられる体制にした。発祥の地が神戸と長崎だったことから営業は関西と九州に偏っていたが、この改革で東日本を含む全国市場に広がる足がかりができた。1934年11月には重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録」第1版を発行している。共同販売制度のもとで利益が出るようになったのは、売上高が3000万円に達した1938年度下期であった。
輸出も同じ時期に始まり、不況のさなかの1931年には中国や香港などへ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出している。戦時経済のもとで工場の新設は加速し、1940年12月の大阪工場は神戸製作所から無線機と精機の工場を移して立ち上げ、1942年4月には世田谷工場を設けた。終戦の時点で、同社は4製作所8工場と1研究所を擁し、日立製作所・東京芝浦電気とともに三大メーカーの一つと呼ばれる規模と中身を備えていた。そこに至るまでに、1943年には2月に福山工場と中津川工場、4月に郡山工場、6月に和歌山工場と、半年で4か所が操業を始めている。1944年2月には姫路工場を新設した。翌3月、本店研究部を研究所へ格上げし、拠点を広げるのと並行して社内の開発機能も整えた。
戦後の法令が次々にかかり、制限会社・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法の指定が、原爆を浴びた長崎製作所を含め空襲で全施設の31%に損害を負った同社の復旧を阻んだ。特別経理会社に指定されたのが1946年8月、集中排除法の指定が外れたのが1949年2月で、同年6月に整備計画の認可を得て新旧勘定を併合し、特別経理会社の指定からも外れた。この間に資本金は1948年11月に5億5000万円、1950年1月に12億円へと積み増され、制限会社の指定も解除された。1950年5月時点の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株を持ち、旧財閥の持株は市場へ放出される途中にあった。
なかでも打撃が大きかったのは、三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に失ったことである。戦前の営業活動は三菱商事の広範な海外支店網にも支えられており、輸出の実績はその上に築かれていた。売る場所を自力で作り直すため、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島などに営業所を開設し、その下に多数の特約店と販売店を配して全国の販売網を敷き直した。工場のほうは神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所が戦後も残っている。商社を失うことは、売り先の名簿と代金回収の仕組みを同時に失うことであり、工場の復旧より売る経路の再建に時間がかかったとみられる。
東京証券取引所に株式を上場したのは1949年5月で、同じ1949年のドッジラインは日本経済をインフレから安定へ導く一方、需要が足りなくなり、金融も急速に逼迫した。会社は5月の中央経営協議会で人員の1割を整理する案を出し、同じ5月に10%の賃金引き下げも打ち出して、業界における合理化の口火を切った。退職手当を手厚くした希望退職には、見込みを超える2033人が応じた。会社がなお指名による解雇を150人分求めたことで交渉はこじれ、中央労働委員会への斡旋申請を経て、8月に解雇を115人に絞ることで合意に至った。職務を仕事の質で等級に分ける職階制度は1950年1月に定め、配当は1950年3月期に8分の低い率で復活させた。
1951年から1976年までの三菱電機は、需要が向こうから来る時期と、需要を取りに行かねばならない時期の両方を経験した。電源開発と設備投資と家庭電化が重なった十数年、三菱グループからの受注も厚く、単体の売上高は1955年3月期の241億円から1963年3月期の1510億円へ6倍になっている。ところが1963年に電化ブームが終わると、1965年9月期は利益剰余金を取り崩して無配転落をかろうじて免れる水準まで悪化した。作る力は伸びていたのに、売る相手を自分で探す力が育っていない。殿様商法という業界誌の言葉は、重電で得た地位の裏側を指していた。
この四半世紀に打った手のうち、後々まで効いたのは組織と設備の二つである。1958年の事業部制と社内資本金は、事業部を独立した会社のように扱って損益の責任を分け、1969年度の総合年度計画と1970年度の資金管理制度がその締め方を決めた。1959年の北伊丹工場は、国産集積回路の第一号が世に出る2年前に、量産の設備だけを先に建てている。前者は操業度が76%まで低下した1975年度上期に、SP76とVA350の二つの作戦を全社へ通す土台になり、後者は四半世紀後の半導体事業の帰趨を決めた。組織は早く効き、設備は遅れて効いた。
戦時中の断絶で、重電の技術差は誰の目にも明らかなほど開いていた。欧米が14万5000キロワット級のタービンを実用化していたのに対し、1952年に完成した築上発電所向けの国産設備は3万5000キロワットにとどまった。差を埋める手として三菱電機が選んだのは、戦前の提携相手からの技術導入である。ところがウエスチングハウス社は、三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した。高杉晋一社長は1950年4月、三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情し、禁止令は延期を重ねた末に1952年4月28日の講和条約発効で消滅した。技術提携が復活したのは、その前年の1951年4月である。
ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドルで、4年目以降は売上高の3%と、提携の条件は軽いものではなかった。会社は、ウエスチングハウス社が数年がかりで積み上げた技術を取り込めば、品質やコストで得る利点がはるかに上回る『数年にわたるWH社の技術の蓄積を導入することによつて、品質やコストの面に受けるプラスの方がはるかに大きい』とした。資本の面でも同社は筆頭株主に戻り、1955年9月の時点で発行済4800万株のうち200万株を保有していた。長崎製作所の今北孝次試験課長が水素冷却発電機の開発のため同社へ送られ、これが同製作所員として戦後初めての海外出張であった。同じころ東芝はゼネラル・エレクトリック、富士電機はジーメンスと関係を復活させ、戦後重電の技術系列がこの時期に固まった。
1950年に始まった朝鮮動乱と、政府の重要政策として取り上げられた電源開発計画が、戦後の整理を終えた会社に需要をもたらした。電気機械の生産額は1950年の238億円から1951年の533億円へ急増している。海外各社との技術提携を復活・新設させながら、1953年10月には無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させて無線機製作所とし、1954年4月には名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移して静岡工場を、1956年には名古屋製作所の家庭電器部門を独立させて家庭電器工場を設けた。1955年3月期の単体売上高は241億円、従業員は1万7630人である。ただし朝鮮動乱の終結後はデフレ政策で利益が漸減し、同期の利益は4億4000万円、配当は1割8分へ減った。
単体の売上高は1958年3月期の497億円から、1961年3月期に1011億円、1963年3月期に1511億円へ膨らんだ。電源開発、設備投資、家庭電化という三つのブームが同時に来たうえ、三菱グループからの受注も多く、1945年から1955年にかけて配当は3割を保った。この間に形を整えていったのが1958年導入の事業部制で、4事業部で出発し、市場と技術の変化に応じて何度か改められて1972年末には10事業部となり、生産から販売、損益までを通して任せ、社内資本金制度も設けて事業部を一つの会社として自主運営させる仕組みである。『売る苦労を知らなかった』と後年評される時期であった。
1959年8月、会社は半導体の量産専門工場として北伊丹工場を新設した。国産第一号の集積回路が中央研究所から商品として出るのは、2年後の1961年である。用途も需要もまだ定まらない部品に対して、商品より先に量産の設備を用意したことになる。この年の業績は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録を更新し、証券市場は同社を成長株と呼んだ。背景には1958年度から1963年度にかけての1000万キロワット近い電源開発計画がある。同じ年の12月には家庭電器を専門に研究する商品研究所も設けており、重電で稼いだ資金を、電子部品と家庭電器という二つの先行投資へ同時に振り向けていた。
1963年から1964年を境に、長く続いた電化ブームは終わりを告げた。作れば売れる前提のままだった会社の業績は崩れ、1965年9月期は利益剰余金の取り崩しでかろうじて無配転落を免れている。単体の当期純利益は1965年3月期の40億円から1966年3月期には16億9000万円へ半減した。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社のあいだにも格差が生じている。1960年の鎌倉、1962年の京都、1964年の稲沢と、この時期も製作所は増え続けていた。作る側の拡張と売る側の力の差が開いたところに不況が来たことが、殿様商法という評価を呼び込んだのだろう。
1971年9月期には5億3700万円の為替差損が出て、売上高は2026億円と前期より3%伸びたものの、税引後利益は6%減の31億4000万円、配当は2分下げて1割となった。1970年に社長となった進藤貞和氏が基本方針としていたのは、量から質への転換、つまり弾力的な経営体質と資金を効率よく使う企業体質を築くことで、その方針が問われたのは就任の翌年だった。会社はこれを受けて、人や物、金といったあらゆる資源の使い方を社内で総点検する全社運動に着手した。名前の101作戦は、会計年度で101期にあたる1973年9月期までに業績を立て直すという期限をそのまま運動名にしたものである。
1969年度に総合年度計画が、1970年度に資金管理制度が動き出した。会社はこの両制度を車の両輪と位置づけ、点検を途切れさせない仕掛けとした。総合年度計画では、受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の計画を事業部単位で作らせた。それを常務会で検討し、四半期ごとに実績を追った。資金管理制度のほうは、事業部ごとに社内資本金を置き、資金繰りまで各事業部の裁量に委ねる仕組みである。設備投資額は1970年度が240億円、1971年度が190億円だった。赤穂では超大型変圧機を専門に造る工場が1972年6月に動き出し、その建設には約2年と100億円がかかった。1971年度の売上高は4154億円に達し、米国を除く世界の製造企業では64位に位置した。
操業度が基準の76%まで低下した1975年度上期は、石油危機後の後退の深さを示し、一時帰休は28万人日に上った。会社は攻めと守りの二つの作戦で手を打ち、売上と利益を同時に得ることを掲げたSP76作戦で営業力を強め、VA350作戦では全社の総原価を350億円切り詰めようとした。後者の原価低減は410億円に達し、目標を17%上回った。操業度は1976年度上期に95%へ戻り、同年度の売上高は6950億円、受注高は7600億円、うち輸出受注が1700億円に達した。人員は1976年度中に2500人減って平均5万4300人である。数字を戻したのは新しい製品ではなく、受注と原価を同時に締める運動であった。
数字を戻した会社は、1977年6月に売り方の単位を市場に合わせて組織を組み替えた。製販一体の事業部を販売部門と製作所に分け、販売部門を顧客別・販路別の18の販売事業部に改めた。販売事業部と製作所は、重電・電子・機器・商品の4事業本部に統合された。社長の進藤貞和氏は、冷熱の担当とウインドクーラーの担当が別の事業部に割れる旧体制を生産志向型と説明した。新体制では、電力会社に対して電力の担当者が汎用モーターや変圧器、電力量計まで売る方式に改めた。販売事業部には利益責任を持たせ、製作所と並ぶ損益管理単位とした。SP76作戦で外へ向けた営業の力を、組織の単位として固定したとみられる。
4事業本部の下で、家電は1977年発売のふとん乾燥機を皮切りに、オーブンレンジや1978年の石油ガス化ファンヒーターと新商品を重ねた。家電部門の売上高は1977年度に重電部門と並び、1980年度に3200億円を超えた。進藤貞和氏は、群馬製作所の幹部が全国の系列販売店を回って製品を説明した点を売れた要因の一つに挙げた。ヒット商品の条件について進藤貞和氏は、実行を命じる人の有無を重く見て『やはり人次第』と語った。販売網では1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月から系列ストア2000店の増設を目標に掲げた。系列ストアの数で業界に劣位に置かれていたことが、増設を急いだ理由であった。
国内で立て直した事業は輸出へ広がり、輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円へ増えた。家電を中心とする量産品の輸出売上は、1977年度の420億円から1980年度に930億円となった。1978年6月には台湾三菱電機股份有限公司を設立した。1979年にはメキシコの重電機工場と英国のカラーテレビ工場が完成した。1980年3月期の売上高は1兆754億円に達し、進藤貞和氏は1980年の年頭に回復の基調を重電輸出と家電に置いた。国内の設備投資が伸び悩むなかで、輸出が操業度を支える構造になったのだろう。
1980年6月、進藤貞和氏は会長に退き、副社長の片山仁八郎氏が社長に就任した。進藤貞和氏は、社長定年を70歳とする内規に達したことと、1兆円企業入りを果たしたことを交代の理由に挙げた。進藤貞和氏は前年の交代も考えたが、片山仁八郎氏が常務だったため、副社長として社内の仕事を経験させた。片山仁八郎氏は1940年に九州帝国大学を卒業して入社し、長崎製作所と神戸製作所の所長を務めた技術者であった。片山仁八郎氏は社員に『組織のカベを突き破れ』と求めた。当時の電子部門は、日本電気や富士通に差をつけられていると評されていた。重電育ちの社長が二代続き、電子の遅れを埋める課題が新体制に残ったと推察される。
片山仁八郎氏の体制は、1981年初めの新長期経営計画で電子部門の売上構成比を20%強から50%程度へ上げる目標を置いた。同計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円で、日立製作所と東京芝浦電気が売上倍増の計画を出すと、上方修正の作業に入った。半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍になっていた。1981年9月には北伊丹製作所福岡半導体工場を新設した。1983年には米国に半導体工場を設立し、1984年に愛媛県の西条工場を一部完成させ、1985年に高知工場の建設に着手した。1984年の日本のIC生産額は、2兆円に達する公算が大きいと報じられた。計画の目標を追って、半導体の設備を毎年積み増したのだと読める。
1983年10月、事業本部は機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6本部に再編された。電子デバイス本部は、重電部門の低迷を受けて電子部品の外販を広げる役割を担った。家電では1984年、片山仁八郎氏がホームオートメーションの体系をMELONの名で打ち出した。片山仁八郎氏は、家庭の自動化は工場や事務所の省力化と異なり、安らぎやゆとりを目的とすべきだと説いた。そのうえで新しい時代の中核技術を通信に置き、家庭の情報化の始まりと位置づけた。第1弾は防犯・火災・ガスのセンサーと電気錠を備える住宅向けシステムで、1984年春の発売が予定された。家電の販売網と電子の技術を、通信でつなぐ構想であったといえる。
1985年6月、社長は片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は新設の名誉会長に就任した。志岐守哉氏の体制では情報通信事業が課題で、売上高は1984年度から3年間、2690億円、2700億円、2800億円にとどまった。汎用機では沖電気工業と共同開発したIBM非互換機が伸びず、1982年6月のIBMスパイ事件で互換路線も断念していた。1987年6月末の組織改革は3800人の異動を伴い、SEを提案担当の2つのセンターと開発担当のコンピュータ製作所に分けた。副社長の遠藤裕男氏は、『コンピューターの営業力とはSEの質の高さと人数そのものなのだ』と総括した。1988年7月にはSEの中途採用を始め、2000人弱の体制を2〜3年後に5000人へ増やす計画を立てた。当時、富士通と日立製作所のSEは1万人を下らなかった。
1985年秋、三菱電機は37型カラーテレビを他社より先に発売し、翌年5月に京都製作所で37インチブラウン管の工場を稼働させた。工場の年間生産能力は10万本、建物と設備の投資額は70億円であった。37型テレビを売る8社はすべて三菱電機製のブラウン管を使い、外販比率は5割近くに達した。半導体では1986年7月に日米半導体協定が合意され、日本メーカーは米政府の算定した公正市場価格を下回る対米輸出ができなくなった。価格の下落は鈍り、1メガビットDRAMは1987年から1989年にかけて約2000円で推移した。1988年度の単体経常利益は931億円と前年度から122.7%増え、会社は1985年から1986年の円高の打撃を克服したと説明した。大型ブラウン管の外販と協定下の半導体価格が、円高の後の利益を支えたと考えられる。
1989年6月、会社は自動車機器事業本部を新設した。天野順介常務は同月の説明で、事業を4つの分野に整理した。重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器である。このうち重電機器は売上に占める比率が30%前後から25%前後へ落ち、自動車・産業機器は自動車需要と設備投資の拡大に支えられて伸びていた。力点は情報通信・電子デバイスに置かれ、その比率を早期に50%近い水準まで引き上げることが目標とされた。重電の工場を半導体の生産に切り替えた事例も、天野順介氏の説明に含まれていた。ウェハの段階から一貫して生産する米国ノースカロライナ州の半導体工場は、1990年1月に完成する予定だった。不況下でも研究開発費は削れないというのが、1989年11月の片山仁八郎会長の発言である。半導体と情報通信への投資を景気に左右されない前提に置いたまま、会社は1990年代に入ったと推測される。
半導体と情報通信に投資を重ねたまま1990年代に入った三菱電機は、1992年6月に北岡隆氏を社長に選んだ。北岡隆氏は稲沢製作所でエレベーターを担当したのち、1985年に北伊丹製作所長として半導体を率いた。三菱電機では重電出身の社長が続いており、半導体を担った人物の起用は初めてであった。前社長の志岐守哉氏が選考理由に挙げたのは、重電・ビル・半導体を経験した北岡隆氏のバランス感覚であった。北岡隆氏は社員への約束として、志岐守哉氏から継いだ情報通信の強化とグローバリゼーションの2点を掲げた。コンピュータ投資と家電のAVがそろって冷え込む局面で、一つの事業に偏らない経歴が評価されたと考えられる。
変革を妨げているのは現場の課長・部長の意識だと北岡隆氏はみており、成果が表れるまでに5年から10年を見込んでいた。その北岡隆氏のもとで、1993年6月に6事業本部が9事業本部へ組み替えられ、本部長の投資決裁の上限は1億円から5億円に引き上げられ、1994年4月には立ち遅れていたマルチメディア分野に新組織が設けられて、社内公募制が初めて使われた。同時に、三菱電機グループとして解雇は少なくとも今世紀中は行わないと明言した。中期経営計画を初めて社外に公表した理由について、北岡隆氏は有言実行で責任を自覚するためと説明した。雇用を守る前提が、改革の速度を『漢方薬方式』に決めたと推察される。
北岡隆氏は、三菱電機本体よりも関係会社群に成長の余地が大きいとみていた。採算の合わない掃除機や炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移したところ、売上高が増えて利益も出るようになった。ただ、売上高の連結と単独の倍率は1994年時点で1.3倍で、日立製作所の2.0倍を下回った。音響の赤井電機では、1986年に三菱電機が第三者割当増資400万株を引き受けて筆頭株主となっていた。1992年11月期から赤字の続いた赤井電機は、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された。自ら育てる関係会社と外部の資本に委ねる関係会社の線引きが、本体の改革と並んで進んだのだろう。
超円高が定着して国内から運ぶ部材では採算が合わなくなり、三菱電機は関係会社の組み替えと並行して、1995年から家電の部材の調達先を東南アジアに探した。1995年1月にバンコクで開いた展示会では、東南アジアの部品メーカー400社を相手に、エアコンや冷蔵庫の部材を仕様書とともに示した。タイの子会社のルームエアコンでは、既存製品で60%程度だった現地調達率を、96年シーズンの新製品で80%まで高める計画だった。1995年6月29日付の組織改革では、海外営業本部が担っていた販売機能が各事業本部へ移された。円高で国内の部材に依存できなくなった調達に、事業本部ごとの組織を合わせたとみられる。
北岡隆氏は1994年から1996年にかけ、ウィンドウズ95で増えるパソコン需要を見込んで半導体に連結で3000億円近い投資を許可した。社長就任直後の1992年には、4メガビットDRAMへの過大な設備投資が償却負担を重くしていると自ら指摘していた。それでも95年3月期に半導体が3年ぶりに営業黒字を回復すると、北岡隆氏はDRAMへの投資をさらに増やした。1997年に米国のマイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投じて市況が急落すると、半導体は2年連続で600億円を超える営業損失を出した。1998年3月末の事業構造改革策で、三菱電機は汎用品ではなく、マイコンに埋め込むDRAMとシステムLSIを育てる方針に転じた。投資の重さを知りながら黒字回復の局面で汎用品を減らさなかったことが、読み違いの核心であったと推し量れる。
1998年3月25日、三菱電機は北岡隆氏の取締役相談役への退任と、専務の谷口一郎氏の社長昇格を発表した。1998年3月期の連結当期純損失は1059億円に達した。単独決算も赤字で、三菱電機は上場以来初めて無配とした。北岡隆氏は会長に残って改革の行方を見届けることを望んでいた。しかし三菱グループの長老は、会長に残れば経営責任を取ったことにならないと北岡隆氏を諭した。改革を率いた社長を会長にも残さない人事で、三菱グループは赤字の責任の所在を明確にしたとうかがえる。
社長の谷口一郎氏は防衛・宇宙の出身で、半導体を事業として熟知してはいなかった。谷口一郎氏が率いた最初の決算期である1999年3月期の連結経常損益は、1138億円の赤字であった。三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した。1999年6月には、台湾積体電路製造(TSMC)グループにDRAMの生産技術を有償で供与した。1999年に東芝と富士通、NECと日立製作所がDRAMで提携するなか、取締役の長澤紘一氏は三菱電機にも新たな提携が要る可能性を認めた。開発負担を他社と分け合う提携を重ねても、単独で生産規模を追う余地は狭まっていたように見える。
半導体で規模を追えなかった三菱電機が生産を増やしたのは欧州の携帯電話で、1996年の25万台から2000年3月期には約600万台となった。国内の携帯電話は普及率がすでに40%で、需要は買い替え中心の横ばいと予測されていた。撤退論も出ていた欧州事業を立て直すため、1996年7月に山中隆司氏がフランス法人のトップに就任した。欧州での三菱電機の認知度は2%にとどまったため、山中隆司氏は社名を外したトリウム(Trium)というブランドに切り替えた。欧州の開発者は1996年の30人から、2000年3月には250人に増員された。谷口一郎氏は1999年10月の中期経営計画で、携帯電話の販売拡大をIT分野の核に据えた。
2000年3月期の連結当期純利益は248億円で、三菱電機は3年ぶりに黒字を回復した。谷口一郎氏が経費削減の17プロジェクトで掲げた3年で1000億円の固定費削減は、1年前倒しで達成する見込みとなった。2002年3月期を期限とする中期経営計画では、売上高4兆円以上の企業への成長を掲げた。それでもアナリストの間では、重電・産業機械とIT事業の相乗効果をどう生むかという全体像が見えないとの評価が残った。日立製作所や東芝が分社を進めるなか、三菱電機は組織改革にも執行役員制の導入にも着手していなかった。削減で業績は回復したものの、何で収益を得る会社になるかを示す課題は次の社長へ持ち越されたと読み取れる。
業績回復を支えた携帯電話は、販売台数が2000年度の1850万台から2001年度に1050万台へ減った。2002年3月期の営業損益は、情報通信システム部門が902億円、電子デバイス部門が806億円の赤字だった。重電システム・産業メカトロニクス・家庭電器の3部門は、同じ期に332億〜466億円の営業黒字を確保した。三菱電機は2001年6月、コーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定した。社長の谷口一郎氏は2001年9月19日の会見で、収益の振れを克服して継続的に成長する方針を示した。後任の社長となった野間口有氏は、収益の振れを抑える策を社内で『山と谷の小さな』という表現で議論してきたと振り返った。将来像を問われた三菱電機は、成長より収益の振れの小ささを軸に選んだのだろう。
野間口有氏の体制は、収益の振れが大きい半導体と携帯電話の負担を、他社と分け合う方針を取った。汎用DRAMは2003年3月、NECと日立製作所の共同出資会社エルピーダメモリへ営業譲渡した。システムLSIなど残る半導体は、同年4月に日立製作所と共同出資で設立したルネサス テクノロジへ移した。取締役の佐藤行弘氏は、研究開発と設備投資のリスク負担を大幅に軽減できると説明した。携帯電話では北米の販売子会社を2002年3月に閉鎖し、東芝とは第3世代携帯電話の開発で提携した。2003年10月には、東芝との共同出資で東芝三菱電機産業システムを設立した。重電でも一社で投資を抱えるより、競合と規模を合わせる判断が働いたとみられる。
1990年代後半、総合電機各社はカンパニー制や持株会社、執行役員制の導入を競い、時価総額の増大を図った。三菱電機は成長を経営目標の軸に据えず、これらの導入を社内で議論すらしなかった。副社長の万波健彦氏は、持株会社では子会社が自社の都合を主張し、シナジーを引き出しにくいと異を唱えた。ただし2002年度中間期の負債資本倍率は2.81倍で、日立製作所の1.21倍、東芝の2.69倍より重かった。三菱電機は2003年6月に委員会等設置会社へ移り、監督を取締役会、執行を執行役に分けた。1997年度末に1兆7,694億円あった借入金は、2006年度末に6,411億円まで減った。組織の形で市場に訴えず、監督の仕組みと財務の改善で評価を得る方針だったと推察される。
下村節宏氏は2006年4月、執行役社長に就任した。下村節宏氏の体制は『強い事業をより強く』を成長戦略の核とし、電力システムや昇降機、FA機器、空調・住設機器などを強い事業に挙げた。2007年7月の年報は、携帯電話端末で他社との開発協業が成果を上げていると報告した。1年後の年報は、2007年度に携帯電話端末事業を終息させ、その経営資源を注力事業へ移したと記した。目的は、強い事業の視点に立った収益性の改善と強化だった。2007年度の営業利益率は6.6%で、経営目標の5%以上を2年続けて上回った。強い事業の利益が積み上がったことが、携帯電話から撤退する判断を支えたと考えられる。
山西健一郎氏は2010年4月、執行役社長に就任した。2010年度は新興国を中心に世界の景気が回復し、山西健一郎氏の体制は『自らの強みに根ざした成長戦略の推進に、従来以上に軸足を置いて』取り組んだ。電力、交通、ビル、FA、自動車機器、宇宙、パワーデバイス、空調、太陽光発電の9事業を、成長を期待する事業群に指定した。中国にはFAシステムや自動車機器の製造会社、インドとベトナムには販売拠点を設けた。インドでは2010年9月に三菱電機インド社を設立し、重電システムや産業メカトロニクスを核に市場を開拓すると定めた。2010年度の営業利益は前年度の2.5倍の2,338億円となった。景気の回復局面で、成長の源泉を国内から新興国へ移す判断だったと読める。
三菱電機は2009年9月30日、持分法で評価していたルネサス テクノロジの株式を、公正価値の64,237百万円まで減損した。ルネサス テクノロジは2010年4月1日にNECエレクトロニクスと合併し、ルネサス エレクトロニクスとなった。三菱電機は合併と同時の第三者割当増資134,600百万円のうち、35,235百万円を引き受けた。2013年9月30日の第三者割当増資で、三菱電機の議決権比率は25.05%から6.27%に下がった。三菱電機はこれを機に、ルネサス エレクトロニクスを持分法の対象から外した。社内に残した半導体ではパワーデバイスを成長事業に指定し、2010年11月にVincotech社を買収した。三菱電機は半導体への関与を、電力を制御する素子へ寄せていったとみられる。
柵山正樹氏は2014年4月、執行役社長に就任した。三菱電機は2014年度、2020年度までに連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上とする成長目標を掲げた。起点とした2013年度の実績は売上高4兆543億円、営業利益2,351億円、営業利益率5.8%だった。2014年7月の年報は、もう一段高い成長に向けて倫理・遵法を徹底して強化し、経営基盤を再構築すると記した。翌年の年報で柵山正樹氏は、欧米と中国の事業力を強化し、インド・東南アジア・中南米で需要を獲得する方針を示した。2014年度の営業利益率は7.3%となり、目標との差は0.7ポイントに縮まった。
柵山正樹氏の体制は、成長目標の実現に向けて協業やM&Aにも取り組むと定めた。視点は、不足する製品群や技術領域の補完、新地域での販売・サービス網の確保、新規顧客層の獲得の3つだった。三菱電機は2015年12月23日、欧州の空調事業の拡大を目的に、イタリアの業務用空調会社デルクリマの株式約74.97%を取得した。売り手はデロンギ・インダストリアルで、取得額は508百万ユーロ(67,141百万円)だった。残る約25.03%には公開買付けを行った。三菱電機は2016年2月、デルクリマを完全子会社とした。買収は、欧州で手薄だった業務用空調の製品群を補う手段と位置づけられていたと見てよい。
杉山武史氏は2018年4月、執行役社長に就任した。2019年7月の年報でも、『2020年度成長目標(連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上)の達成とその後の成長持続に向け』取り組むと記した。2020年6月の経営戦略は、2020年度の見通しを売上高4.1兆円、営業利益率2.9%とし、目標を下回るとした。FAとパワーデバイスでの米中貿易摩擦などによる需要停滞に加え、『市場環境変化への対応不足など反省すべき項目あり』と総括した。2019年度には、労務問題や品質の不適切行為が明らかになった。2020年11月の経営戦略は、不採算事業の見極めとエンゲージメントサーベイを指標にした風土改革を掲げた。三菱電機は成長目標を下ろした時点で、働き方と組織風土の問題を解消できていなかったとうかがえる。
2021年6月、長崎製作所の鉄道車両用空調装置等で、購入仕様書と異なる検査や検査の不実施が明らかになった。同じ時期に名古屋製作所可児工場でも、電磁開閉器の第三者認証への不適合が判明した。三菱電機は社長を室長とする緊急対策室を設け、外部専門家で構成する調査委員会に調査を委嘱した。社長の杉山武史氏は2021年7月に引責辞任し、同月28日に専務の漆間啓氏が執行役社長CEOに就任した。調査の対象は、長崎と可児にとどまらず全22製作所と関係会社へ広げられた。成長目標を下ろしながら働き方と組織風土の問題を抱えていた前の代の課題が、品質の不正として顕在化したとみられる。
調査委員会が示した8項目の提言は、製作所や工場への強い帰属意識や、事業本部制を前提にした対策にまで及んでいた。このため漆間啓氏は、品質部門だけの問題として扱わず、品質風土・組織風土・ガバナンスの3分野を急いで改める対象に据えた。2021年10月に固まった改革案を受け、漆間啓氏は翌月の経営戦略に『改革の成功無くして会社の存続もない』と記した。品質面の中核は社長直轄の品質改革推進本部の設置と、2年間で300億円を充てる品質インフラ投資枠であり、組織風土の面ではチーム創生と名づけた全社変革プロジェクトを始めて人事制度の見直しに入った。進み具合を監督するため、2022年12月に取締役会のもとへ3つの改革モニタリング委員会が設けられた。
2022年4月、三菱電機は各事業本部を4つのビジネスエリアに割り当て、それぞれにビジネスエリアオーナーを置いた。4つはインフラ、インダストリー・モビリティ、ライフ、ビジネスプラットフォームで、9つの事業本部がその下に並んだ。漆間啓氏は後年、発足当初のオーナーの役割を不採算事業の撤退判断、エリア内の人財流動化、事業本部間の連携加速と説明した。事業は重点成長・レジリエント・価値再獲得・課題の4区分に分け、一定基準を下回る低収益事業を売却・撤退の検討対象とした。京都製作所では液晶テレビ事業の縮小と業務用プリンター事業の終息を決め、経営資源を空調冷熱システムへ移した。ビジネスエリアは、調査委員会が指摘した事業本部制の課題に組織面で応える仕組みでもあったのだろう。
2024年4月1日、三菱電機は自動車機器事業を会社分割で切り出し、三菱電機モビリティを設立した。自動車業界では電動化をはじめ大きな投資が要り、会社側は社外のパートナーとの連携で事業を立て直す方針を取った。新会社は事業ごとの責任の所在をはっきりさせ、提携の実行、注力分野の選別、課題事業の終息を速めるためのものだと、2024年5月に説明された。アイシンとは次世代電動車向け製品の合弁会社をつくることで基本合意していたが、同年10月までに形を業務提携に改め、その際に会社側は、自動車機器事業にとって最適な体制を、どの選択肢も除外しないまま探り続けると述べた。提携先ごとに事業を切り出せる単位を用意する意味が分社にはあり、それが2026年の鴻海精密工業との協業検討につながったと推察される。
三菱電機は2022年5月、パワーデバイスのウエハ生産能力を2025年度までに2020年度比で約2倍に増やす計画を示した。自動車・民生分野でパワー半導体の需要が増えていたためであり、福山工場に8インチラインを設け、12インチラインの構築にも着手した。電気自動車から再生可能エネルギー機器まで、電力を変換するモジュールの需要は広がると見込まれていた。これを受けて会社は2024年11月、約100億円で福岡地区にモジュールの組立・検査を担う新工場棟を建て、2026年10月に稼働させると発表したが、2025年2月には、投資額が巨額になるなら『独力で全てを行うことは現実的ではない』との考えも示した。
連結売上高は2023年3月期の5兆36億円から2024年3月期に5兆2579億円へ、営業利益は2624億円から3285億円へ増えた。漆間啓氏は統合報告書2024で、売上高と営業利益がともに過去最高を更新したと報告した。ただFAシステム事業と空調・家電事業の環境は、2021年度の計画策定時の想定より悪化していた。このため三菱電機は2025年度の財務目標のうち、営業利益率を8%以上、ROEを9%へ見直した。空調・家電は北米の売上構成比が上がり、2024年度第2四半期の営業利益が前四半期の倍になったが、欧州は不調であった。2024年度の営業利益率目標7.4%にはMDロジスの一部株式譲渡益約240億円が含まれ、会社側は翌年度に実力値で8%へ上げる必要を認めた。
事業間の差を埋める共通基盤として、三菱電機はデジタル基盤Serendieを新たに構築した。漆間啓氏は、交通・電力・FA・ビル・空調が事業ごとに別のプラットフォームでデータを使い、事業間の連携が不十分だった点を課題に挙げた。Serendie関連事業の2025年度売上高は約6,800億円の見込みにとどまり、FAのコンポーネントが減ったことで当初の計画を下回った。目標は2030年度に売上高1.1兆円、営業利益率23%である。加賀邦彦氏は、従来のソリューションが『コンポーネント中心の発想に留まってしまっていた』と認め、2026年5月には、買収したNozomi NetworksのOTセキュリティのソフトをPLCやサーボに順に搭載していく方針を打ち出した。
2025年5月のIR Dayで漆間啓氏は、これまでを『大きなリスクを取らずオーガニックな成長をしてきた』と総括し、1.9兆円ある価値再獲得事業のうち0.3兆円について終息を決め、残る0.8兆円は2025年度中に結論を出すとした。営業利益率を間接費用の最適化で1ポイント押し上げる目標も掲げられ、その中核となったのがネクストステージ支援制度特別措置である。2025年12月末までに三菱電機単独で2,378人が応募し、CFOの藤本健一郎氏は対象の20%を超えたと説明した。費用は2026年3月期第3四半期に743億円を計上し、第4四半期の約260億円と合わせて約1,000億円を見込んだ。狙いは、年齢の高い社員に再就職の選択肢を示し、若い層に昇進の機会を与えることにあった。
2026年3月27日、三菱電機はローム・東芝らと、パワーデバイス事業の統合協議に向けた基本合意書を結んだ。対象はロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業で、2024年3月から続いていた両社の協議に三菱電機が加わった。世界市場で競争し得る事業規模と技術基盤を得ることが、合意の理由として示された。漆間啓氏は5月の説明で、国内の半導体メーカーが各社で開発投資を重ねている現状を挙げ、3社一体で開発効率を上げる考えを示した。漆間啓氏は、車載向けで『中国企業に対抗できなければ3社統合の意義が損なわれる』とも述べた。同じ日に示した新中期経営戦略は2030年度に調整後営業利益率12%+とROE12%を掲げたが、統合の影響は計画に含めていない。
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|---|---|---|---|---|
| 1921〜1950年三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代 | 三菱電機を創立 | ★ | ||
| 長崎工場を新設 | ★ | |||
| 名古屋製作所を新設 | ★ | |||
| 大船工場を新設 | ★ | |||
| 大阪工場を新設 | ★ | |||
| 福山・中津川工場を新設 | ★ | |||
| 姫路工場を新設 | ★ | |||
| 福岡工場を新設 | ★ | |||
| 本店研究部を研究所に | ★ | |||
| 高杉晋一 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 1951〜1976年ウエスチングハウスとの提携復活と北伊丹の半導体工場、製作所網の拡大 | 高杉晋一 | 技術・資本両面での関係の復活と、「三菱」商号の存続 1951年4月、三菱電機は戦争で中断していた米ウエスチングハウス社との技術提携を復活させ、資本提携もあわせて正式に復活させた経営判断。前年から続いた"三菱"商号の存続運動と一体の決着であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 高杉晋一 | 無線機械製作所を新設 | ★ | ||
| 高杉晋一 | 静岡工場を新設 | ★ | ||
| 関義長 | 半導体量産専門工場・西条・高知への量産設備の拡大 1959年8月、三菱電機は半導体の量産専門工場として北伊丹工場(兵庫県)を新設した。米ウエスチングハウス社の試作品をもとに中央研究所が国産IC第一号"モレクトロン"を商品化する2年前である。以後、1972年の半導体事業部の設置、1981年の福岡半導体工場、1984年の西条工場(愛媛県)、1985年着工の高知工場と設備を積み増した。重電と家電で立つ会社が、電子部品の内製と量産に資源を割いた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 関義長 | 商品研究所を新設 | ★ | ||
| 関義長 | 鎌倉製作所を新設 | ★ | ||
| 関義長 | 京都製作所を新設 | ★ | ||
| 関義長 | 三菱プレシジョンを設立 | ★ | ||
| 関義長 | 菱電機器を吸収合併し群馬製作所に商号変更 | ★ | ||
| 関義長 | 稲沢製作所を新設 | ★ | ||
| 進藤貞和 | 三菱電機アメリカ社を設立 | ★ | ||
| 進藤貞和 | 制御製作所・計算機製作所を新設 | ★ | ||
| 進藤貞和 | コンピュータシステム工場を新設 | ★ | ||
| 1977〜1991年4事業本部制の導入とコンピュータ・半導体・自動車機器の事業再編 | 進藤貞和 | 生産志向でつくられてきた事業部編成の解体と、市場を起点とする体制への組み替え 1975年6月の営業本部新設と1977年6月の事業本部制導入により、三菱電機が生産の都合で分かれていた事業部編成を、市場ごとに責任を負う重電・電子・機器・商品の4事業本部へ組み替えた経営判断。同社はこれを"販売志向型"への切り替えと位置づけた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 進藤貞和 | 台湾三菱電機股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 片山仁八郎 | 北伊丹製作所福岡半導体工場を新設 | ★ | ||
| 片山仁八郎 | 事業本部を6本部体制に再編 | ★ | ||
| 志岐守哉 | 計算機製作所とコンピュータシステム製作所を統合しコンピュータ製作所に | ★ | ||
| 志岐守哉 | 大船製作所を廃止 | ★ | ||
| 志岐守哉 | 自動車機器事業本部を新設 | ★ | ||
| 1992〜2000年北岡隆・谷口一郎体制での中期経営計画と汎用DRAM事業からの撤退 | 北岡隆 | 長く3位にとどまった地位からの脱却を掲げた改革と、半導体投資の誤算 1992年に三菱電機で初のハイテク分野出身社長となった北岡隆氏が、GEのジャック・ウェルチ氏流の選択と集中を掲げ、9事業本部への再編・権限委譲、本社人員の毎年削減、社内公募制の導入に着手した構造改革。しかし自らの出身分野である半導体のDRAM投資が裏目に出て、1998年3月期に連結最終赤字へ転落し、北岡隆氏は改革の途上で引責辞任した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 北岡隆 | 中期経営計画を発表 | ★ | ||
| 北岡隆 | 赤井電機の経営権をセミ=テックグループに譲渡 | ★★ | ||
| 谷口一郎 | 谷口一郎氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 谷口一郎 | システムLSI・パワー半導体へ軸足を移す事業領域の絞り込み 1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に、汎用DRAM事業からの撤退を決定した。DRAM市況の悪化で各社が投資を縮小するなかでの撤退は初めてで、両社ともシステムLSIへ資源を集中させる。汎用メモリからマイコンまで手広く抱える"百貨店型"の半導体から、得意分野に的を絞る"選択の時代"への転換であり、後のパワー半導体特化につながる出発点となった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 谷口一郎 | 家電業界初のリサイクルプラントを稼働 | ★ | ||
| 2001〜2020年「Changes for the Better」とルネサス・TMEICの設立、委員会等設置会社への移行 | 谷口一郎 | 「Changes for the Better」をコーポレートステートメントとして制定 | ★ | |
| 野間口有 | 野間口有氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 野間口有 | 日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立 | ★★ | ||
| 野間口有 | 委員会等設置会社へ移行 | ★ | ||
| 野間口有 | 東芝三菱電機産業システムを設立 | ★★ | ||
| 下村節宏 | 下村節宏氏が執行役社長に就任 | ★ | ||
| 山西健一郎 | 山西健一郎氏が執行役社長に就任 | ★ | ||
| 山西健一郎 | ルネサス テクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサス エレクトロニクスが発足 | ★★ | ||
| 山西健一郎 | 三菱電機インド社を設立 | ★ | ||
| 柵山正樹 | 柵山正樹氏が執行役社長に就任 | ★ | ||
| 柵山正樹 | デルクリマ社を完全子会社化 | ★ | ||
| 杉山武史 | 杉山武史氏が執行役社長に就任 | ★ | ||
| 2021〜2026年鉄道空調の品質不正と漆間啓体制、三菱電機モビリティの分社 | 杉山武史 | 鉄道車両向け空調機器等の品質不正が発覚 | ★★ | |
| 漆間啓 | 長崎製作所の検査不正発覚と、漆間啓体制での3つの改革 2021年6月、長崎製作所が製造する鉄道車両用空調装置等の一部で、購入仕様書の記載とは異なる検査の実施や検査の不実施、検査成績書への不適切な記載が判明した。杉山武史社長は7月に引責辞任し、同月28日に事務系出身の専務・漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格する。 全社レベルの点検と真因究明を委嘱した調査委員会からは2021年10月1日、12月23日、2022年5月25日と報告書を受け取り、そのつど一部の拠点で新たな品質不適切行為が判明した。漆間啓社長は品質改革推進本部の新設とビジネスエリア体制への移行で、縦割りの組織そのものの立て直しに着手した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 漆間啓 | 自動車機器事業を会社分割で切り出した三菱電機モビリティの設立と、外部資本への開放 2023年4月、三菱電機は自動車機器事業の構造改革を決議し、1年以内の分社化を表明した。2024年4月1日に会社分割で三菱電機モビリティを設立し、カーマルチメディアなど課題事業の終息と、電動化・ADASでの社外パートナーとの協業を進める経営判断。2026年4月には、三菱電機モビリティへの鴻海精密工業からの50%出資受け入れを視野に入れた検討開始の覚書にまで至っている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 漆間啓 | ネクストステージ支援制度で2,378人が応募 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三菱電機)