三菱電機 の歴史

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創業 1921年
母体 三菱造船
創業地 兵庫県神戸市
創業 1921年1月、三菱造船の神戸造船所にあった電機製作所を母体に三菱電機が設立され
1921年1月、三菱造船の神戸造船所にあった電機製作所を母体に三菱電機が設立された。1923年に長崎、1924年に名古屋へ製作所を置いて品目を重ね、米ウエスチングハウス社との技術提携で製品の質を支えた。終戦時には4製作所8工場を抱え、日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーの一つに数えられた。ただし財閥解体で三菱商事が解散し、販売機関を一挙に失っている。営業所と特約店で販売網を敷き直したうえで、1951年に三菱の商号を守って技術提携を復活させた。
決断 半導体では量産の設備を先に建て、赤字の局面でも撤退しなかった。1959年に半導体
半導体では量産の設備を先に建て、赤字の局面でも撤退しなかった。1959年に半導体の量産だけを担う北伊丹工場を新設し、1970年代前半に米国勢の攻勢で国産各社が赤字に転落した時期も撤退せず、1972年4月に半導体事業部を設置した。一方で電化ブームが終わって作れば売れる体質が通用しなくなり、1977年に市場別の4事業本部を置いた。1992年には半導体出身の北岡隆氏が社長に就任して万年3位からの脱却を掲げた。しかし1994年から3年で連結3000億円近くを投じたDRAMは、市況の急落で2年連続の営業赤字を招いた。
現況 現在の主力事業は、重電でも半導体でもなくエレベーターと空調である。2026年3月
現在の主力事業は、重電でも半導体でもなくエレベーターと空調である。2026年3月期の連結売上高5兆8947億円に対し、昇降機・空調・家電を集約したライフは売上高2兆3182億円、セグメント利益1706億円でともに首位となった。セミコンダクター・デバイスの売上高は2871億円にとどまる。この構成は、2021年に長崎製作所の検査不正が発覚したことを機に進めた組み替えの結果である。2022年に製作所単位の縦割りを4つのビジネスエリアへ再編し、2024年には自動車機器事業を会社分割で三菱電機モビリティへ切り出した。
競合 三菱電機は、総合電機3社のなかで長く万年3位と呼ばれた。終戦時は日立製作所・東京
三菱電機は、総合電機3社のなかで長く万年3位と呼ばれた。終戦時は日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーだったが、1990年代にも両社に次ぐ位置にとどまった。半導体では1998年に汎用DRAMからの撤退を決め、システムLSIも2003年に日立製作所との合弁のルネサス テクノロジへ移した。不振事業から撤退する判断は3社に共通するが、日立製作所は2020年に火力発電から撤退し、東芝は原子力の巨額損失を経て2023年に株式を非公開化した。三菱電機は事業を大きく入れ替えず、昇降機・空調とFAを主力として残した。
長期業績の推移 1949〜2026年
三菱電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1921年〜 三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代

筆者考察y.sugiura, author

三菱電機の最初の30年で二度失われたのは、工場ではなく売る経路であった。設立の年から3期続けて赤字を出した会社は、営業の中枢を東京の本店へ集め、製作損益と営業損益を分け、共同販売制度を育てて、ようやく1938年度下期に販売でも利益を出せるところまで来た。ところが終戦後、三菱商事の解散でその販売機関は一挙に消える。空襲で焼けた施設は全体の31%だが、売り先の名簿と代金回収の仕組みはすべて失われた。1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌へ営業所を並べ直した4年は、焼けた工場を建て直す作業と同じだけの重みを持っていた。

もう一つ、この30年が残したのは、技術を外から買う会社としての形である。1923年にウエスチングハウス社と結んだ技術提携以来、三菱電機の重電はこの契約とともに品質を上げてきた。だから戦後、社名を失えば契約は結べないと通告されたとき、高杉晋一社長にとって三菱の三文字は、のれんであると同時に技術の入口であった。資本金が1500万円から12億円へ膨らみ、持株会社整理委員会が筆頭株主に座った30年の終わりに、会社の手元に残ったのは工場と技術契約、そしてまだ取り戻していない販売力である。次の四半世紀は、この三つの配分をめぐって進むことになる。

資本金 1921年1月〜1950年1月(億円)

0.15 21.1 1.2 43.8 5.5 48.11 12 50.1
  • 1921年1月の設立時1500万円と1943年8月の1億2000万円は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱電機」の項、1948年11月の5億5000万円と1950年1月の12億円は株式会社年鑑 1951年版の沿革欄による。
  • 1948年11月と1950年1月の増資はいずれも戦後インフレ下の再建整備によるもので、1943年までの資本金と購買力は比較できない。

1921年〜三菱造船からの分系独立と、不況下で3期続いた赤字

造船所の電機部門を分系会社として切り出す

三菱電機の源流は1905年、三菱合資会社造船部神戸造船所の構内で舶用・鉱山用を主とした電気機械器具の製造が始まったところにある。重工業化を狙う三菱合資会社は、電機事業を戦略上の重点分野の一つとして重く見ていた。各方面で電力を動力に使う機運が熟していたのに、欧州大戦直後の疲弊で先進工業国からの輸入が難しくなり、電気機械の製造は有望な事業と評価されていた。その素地は同造船所にあり、1908年には国産第一号のタービン発電機を完成させて創業期の電機技術を積んでいた。1921年1月15日、この電気機械部門を引き継ぎ、資本金1500万円で三菱合資会社の9番目の分系会社として三菱電機が発足し、当初の施設は神戸工場だけ、本店は名古屋であった。

  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [4]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [2]三菱造船の電機製作所を母胎とする三菱合資会社の9番目の分系会社として発足し、重工業化をねらう事業戦略の一翼に電機事業が位置づけられた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [6]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
赤字の3期で品質第一主義を据える

正式に営業を始めた1921年2月の時点で、神戸工場は敷地7760坪に職員234人・職工1281人の計1515人を抱えていた。ところが一般経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり、1921年度上期から3期続けて赤字決算となった。会社は職制の大幅な縮小、休職命令、経費の10%削減を強いられた。武田秀雄会長は従業員に対し、経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを繰り返し説いている。受注した機械が動かなければ代金は入らず、工事が延びれば工場は遊ぶ。規模ではなく歩留まりが会社の生死を決める段階にあり、品質を経営の要諦に据えた判断は、この3期の赤字の内訳から導かれたものだろう。

  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [7]1921年4月末時点の神戸工場は敷地7760坪、職員234人・職工1281人の計1515人
    • [8]経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり1921年度上期から3期連続の赤字決算
    • [9]職制の大幅縮小・休職命令・経費の10%削減を実施
    • [10]武田秀雄会長は経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを強調した
製作所を継ぎ足しながら欧米3社の技術を入れる

1921年10月に神戸工場を神戸製作所と改称し、翌1922年1月には本店を東京へ移した。1923年11月には三菱造船長崎造船所の電機工場を1年の委託経営ののちに吸収して長崎製作所とし、タービン発電機や船舶用直流機など大型重電機器を手がけた。1924年9月には名古屋製作所を開設し、汎用誘導電動機などの標準電機品と家庭用電気機器へ製品の幅を広げた。技術の面では1923年11月に米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結し、翌1924年には米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年には米ナショナルニューマチック社とも提携した。これらの契約は戦時中の中絶を除いて戦後まで続き、製品の質を支えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [11]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [12]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [15]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [17]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [14]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける
  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
    • [16]1924年に米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年に米ナショナルニューマチック社とも技術提携
参考文献[1]-[17]
    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [4]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
    • [16]1924年に米ウエスチングハウスエヤーブレーキ社、1925年に米ナショナルニューマチック社とも技術提携
    • [2]三菱造船の電機製作所を母胎とする三菱合資会社の9番目の分系会社として発足し、重工業化をねらう事業戦略の一翼に電機事業が位置づけられた
    • [7]1921年4月末時点の神戸工場は敷地7760坪、職員234人・職工1281人の計1515人
    • [8]経済界の不振に製品の不良と工事の延滞が重なり1921年度上期から3期連続の赤字決算
    • [9]職制の大幅縮小・休職命令・経費の10%削減を実施
    • [10]武田秀雄会長は経営の要諦として品質第一主義と科学的経営法の重要さを強調した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [6]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
    • [11]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [12]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [15]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [17]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [13]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [14]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける

1931年〜満州事変後の設備拡張と、営業を本店へ集めた販売体制

不況を抜けて三製作所を拡張する

神戸・名古屋・長崎の三製作所が整備拡張の時期に入ったのは、1930年から1931年の不況で苦しんだ経営が、満州事変の勃発を機に好況へ向かってからである。1935年は一期の販売高が1200万円に上り、同じ年に英レイロール社と技術提携を結んで、大正期に米国系3社と交わした契約に欧州の技術を加えた。1940年12月、尼崎で12万坪の土地を取得し、大阪工場を建てるとともに研究所も設けた。のちに伊丹製作所へ名を改めた大阪工場は、神戸・名古屋・長崎の三製作所に並ぶ主力工場となった。資本金は1937年と1940年にそれぞれ倍額増資を行い、1943年8月には1億2000万円となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [18]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [19]1935年 一期の販売高1200万円
    • [21]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [22]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [23]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
    • [20]1935年 英レイロール社と技術提携
営業の中枢を本店へ集め、製作と営業の損益を分ける

本店と各製作所の連携が足りず、方針が食い違い事務も重複して遅れがちだったため、会社はこの時期に販売の体制を組み替え、東京の本店に営業の中枢を集め、職制を設けて本店営業部と各製作所の関係をはっきりさせた。製作損益と営業損益も切り分け、製作・営業の双方が自らの立場で方針を立てられる体制にした。発祥の地が神戸と長崎だったことから営業は関西と九州に偏っていたが、この改革で東日本を含む全国市場に広がる足がかりができた。1934年11月には重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録」第1版を発行している。共同販売制度のもとで利益が出るようになったのは、売上高が3000万円に達した1938年度下期であった。

  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [24]営業の中枢機能を東京の本店に集中し、三菱電機株式会社職制を制定して本店営業部と各製作所の関係を明確にした
    • [25]職制改革で製作損益と営業損益を区分した
    • [26]神戸と長崎が発祥の地であるため関西・九州に偏っていた営業活動が、本店集中により東日本を含む全国市場へ広がった
    • [27]1934年11月 重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録第1版」を発行
    • [28]共同販売制度のもとで初めて利益が出たのは売上高が3000万円に達した1938年度下期
戦時下に工場を分散させ、三大メーカーへ並ぶ

輸出も同じ時期に始まり、不況のさなかの1931年には中国や香港などへ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出している。戦時経済のもとで工場の新設は加速し、1940年12月の大阪工場は神戸製作所から無線機と精機の工場を移して立ち上げ、1942年4月には世田谷工場を設けた。終戦の時点で、同社は4製作所8工場と1研究所を擁し、日立製作所・東京芝浦電気とともに三大メーカーの一つと呼ばれる規模と中身を備えていた。そこに至るまでに、1943年には2月に福山工場と中津川工場、4月に郡山工場、6月に和歌山工場と、半年で4か所が操業を始めている。1944年2月には姫路工場を新設した。翌3月、本店研究部を研究所へ格上げし、拠点を広げるのと並行して社内の開発機能も整えた。

  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [29]1931年 中国・香港その他の地域へ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [33]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [34]1944年2月 姫路工場を新設
    • [35]1944年 本店研究部を研究所とする
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [31]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [32]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
参考文献[18]-[35]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [18]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [19]1935年 一期の販売高1200万円
    • [21]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [22]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [23]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
    • [31]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [32]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
    • [20]1935年 英レイロール社と技術提携
    • [24]営業の中枢機能を東京の本店に集中し、三菱電機株式会社職制を制定して本店営業部と各製作所の関係を明確にした
    • [25]職制改革で製作損益と営業損益を区分した
    • [26]神戸と長崎が発祥の地であるため関西・九州に偏っていた営業活動が、本店集中により東日本を含む全国市場へ広がった
    • [27]1934年11月 重電機・昇降機・標準電機品・家庭用電気機器を網羅した最初の製品カタログ「三菱電機総型録第1版」を発行
    • [28]共同販売制度のもとで初めて利益が出たのは売上高が3000万円に達した1938年度下期
    • [29]1931年 中国・香港その他の地域へ扇風機・ミシン・電力量計・小形電動機を初輸出
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [33]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [34]1944年2月 姫路工場を新設
    • [35]1944年 本店研究部を研究所とする

1945年〜財閥解体の法令と、三菱商事の解散で失った販売機関の再建

指定を外しながら資本を組み直す

戦後の法令が次々にかかり、制限会社・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法の指定が、原爆を浴びた長崎製作所を含め空襲で全施設の31%に損害を負った同社の復旧を阻んだ。特別経理会社に指定されたのが1946年8月、集中排除法の指定が外れたのが1949年2月で、同年6月に整備計画の認可を得て新旧勘定を併合し、特別経理会社の指定からも外れた。この間に資本金は1948年11月に5億5000万円、1950年1月に12億円へと積み増され、制限会社の指定も解除された。1950年5月時点の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株を持ち、旧財閥の持株は市場へ放出される途中にあった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [36]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
    • [37]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
  • 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
    • [38]1946年8月 特別経理会社指定、1949年2月 集排指定解除、同年6月 整備計画認可・新旧勘定併合・特別経理会社解除
    • [39]1948年11月 資本金5億5000万円へ増資、1950年1月 資本金12億円へ増資
    • [40]1950年1月 制限会社の指定を解除
    • [41]1950年5月27日現在の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株
商社を失い、営業所を自前で並べ直す

なかでも打撃が大きかったのは、三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に失ったことである。戦前の営業活動は三菱商事の広範な海外支店網にも支えられており、輸出の実績はその上に築かれていた。売る場所を自力で作り直すため、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島などに営業所を開設し、その下に多数の特約店と販売店を配して全国の販売網を敷き直した。工場のほうは神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所が戦後も残っている。商社を失うことは、売り先の名簿と代金回収の仕組みを同時に失うことであり、工場の復旧より売る経路の再建に時間がかかったとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [42]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
    • [44]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [43]戦前の製品輸出は三菱商事の海外の広範な支店網に支えられ、スリーダイヤモンドの電機製品が各国市場で受け入れられた
  • 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
    • [45]1950年時点の工場は神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所
人を1割減らし、株式を公開する

東京証券取引所に株式を上場したのは1949年5月で、同じ1949年のドッジラインは日本経済をインフレから安定へ導く一方、需要が足りなくなり、金融も急速に逼迫した。会社は5月の中央経営協議会で人員の1割を整理する案を出し、同じ5月に10%の賃金引き下げも打ち出して、業界における合理化の口火を切った。退職手当を手厚くした希望退職には、見込みを超える2033人が応じた。会社がなお指名による解雇を150人分求めたことで交渉はこじれ、中央労働委員会への斡旋申請を経て、8月に解雇を115人に絞ることで合意に至った。職務を仕事の質で等級に分ける職階制度は1950年1月に定め、配当は1950年3月期に8分の低い率で復活させた。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
    • [47]1949年のドッジラインは経済を安定へ導く一方、有効需要の不足と急激な金融逼迫を招いた
    • [48]1949年5月 中央経営協議会で1割の人員整理を提案
    • [50]希望退職の応募は目標の1割を超える2033人
    • [51]150人の指名解雇の主張に組合が抵抗し、中央労働委員会への斡旋申請を経て1949年8月に解雇者115人で合意
    • [52]1950年1月 仕事の質によって職務の級を分類する職階制度を制定・実施
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [49]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
  • 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
    • [53]1950年3月期 8分の低率で配当を復活
参考文献[36]-[53]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [36]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
    • [37]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
    • [42]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
    • [44]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
    • [38]1946年8月 特別経理会社指定、1949年2月 集排指定解除、同年6月 整備計画認可・新旧勘定併合・特別経理会社解除
    • [39]1948年11月 資本金5億5000万円へ増資、1950年1月 資本金12億円へ増資
    • [40]1950年1月 制限会社の指定を解除
    • [41]1950年5月27日現在の筆頭株主は持株会社整理委員会で59万6800株
    • [45]1950年時点の工場は神戸・名古屋・長崎・伊丹・福山・姫路・中津川・和歌山・福岡・大船・世田谷・郡山の12か所
    • [43]戦前の製品輸出は三菱商事の海外の広範な支店網に支えられ、スリーダイヤモンドの電機製品が各国市場で受け入れられた
    • [47]1949年のドッジラインは経済を安定へ導く一方、有効需要の不足と急激な金融逼迫を招いた
    • [48]1949年5月 中央経営協議会で1割の人員整理を提案
    • [50]希望退職の応募は目標の1割を超える2033人
    • [51]150人の指名解雇の主張に組合が抵抗し、中央労働委員会への斡旋申請を経て1949年8月に解雇者115人で合意
    • [52]1950年1月 仕事の質によって職務の級を分類する職階制度を制定・実施
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [49]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
    • [53]1950年3月期 8分の低率で配当を復活

第2章 1951年〜 ウエスチングハウスとの提携復活と北伊丹の半導体工場、製作所網の拡大

筆者考察y.sugiura, author

1951年から1976年までの三菱電機は、需要が向こうから来る時期と、需要を取りに行かねばならない時期の両方を経験した。電源開発と設備投資と家庭電化が重なった十数年、三菱グループからの受注も厚く、単体の売上高は1955年3月期の241億円から1963年3月期の1510億円へ6倍になっている。ところが1963年に電化ブームが終わると、1965年9月期は利益剰余金を取り崩して無配転落をかろうじて免れる水準まで悪化した。作る力は伸びていたのに、売る相手を自分で探す力が育っていない。殿様商法という業界誌の言葉は、重電で得た地位の裏側を指していた。

この四半世紀に打った手のうち、後々まで効いたのは組織と設備の二つである。1958年の事業部制と社内資本金は、事業部を独立した会社のように扱って損益の責任を分け、1969年度の総合年度計画と1970年度の資金管理制度がその締め方を決めた。1959年の北伊丹工場は、国産集積回路の第一号が世に出る2年前に、量産の設備だけを先に建てている。前者は操業度が76%まで低下した1975年度上期に、SP76とVA350の二つの作戦を全社へ通す土台になり、後者は四半世紀後の半導体事業の帰趨を決めた。組織は早く効き、設備は遅れて効いた。

1951年〜商号の存続を条件としたウエスチングハウスとの再提携

社名を守って技術の入口を確保する

戦時中の断絶で、重電の技術差は誰の目にも明らかなほど開いていた。欧米が14万5000キロワット級のタービンを実用化していたのに対し、1952年に完成した築上発電所向けの国産設備は3万5000キロワットにとどまった。差を埋める手として三菱電機が選んだのは、戦前の提携相手からの技術導入である。ところがウエスチングハウス社は、三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した。高杉晋一社長は1950年4月、三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情し、禁止令は延期を重ねた末に1952年4月28日の講和条約発効で消滅した。技術提携が復活したのは、その前年の1951年4月である。

  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [54]戦時中の停滞で欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化、1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワットにとどまった
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [55]ウエスチングハウス社は三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した
    • [56]1950年4月 三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情
    • [57]禁止令は5月末に一年延期、再延期を経て1952年4月28日の講和条約発効で消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [58]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
技術料と株式の両方で系列へ戻る

ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドルで、4年目以降は売上高の3%と、提携の条件は軽いものではなかった。会社は、ウエスチングハウス社が数年がかりで積み上げた技術を取り込めば、品質やコストで得る利点がはるかに上回る『数年にわたるWH社の技術の蓄積を導入することによつて、品質やコストの面に受けるプラスの方がはるかに大きい』とした。資本の面でも同社は筆頭株主に戻り、1955年9月の時点で発行済4800万株のうち200万株を保有していた。長崎製作所の今北孝次試験課長が水素冷却発電機の開発のため同社へ送られ、これが同製作所員として戦後初めての海外出張であった。同じころ東芝はゼネラル・エレクトリック、富士電機はジーメンスと関係を復活させ、戦後重電の技術系列がこの時期に固まった。

  • 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
    • [59]ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
    • [60]1955年9月時点でウエスチングハウスが発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [61]水素冷却発電機の開発のため長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [62]三菱電機=ウエスチングハウス、富士電機=ジーメンス、東芝=GEが外資法制定を機に関係を復活、日立は1953年にGEから火力プラント技術を導入
電源開発の需要に合わせて製作所を割り出す

1950年に始まった朝鮮動乱と、政府の重要政策として取り上げられた電源開発計画が、戦後の整理を終えた会社に需要をもたらした。電気機械の生産額は1950年の238億円から1951年の533億円へ急増している。海外各社との技術提携を復活・新設させながら、1953年10月には無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させて無線機製作所とし、1954年4月には名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移して静岡工場を、1956年には名古屋製作所の家庭電器部門を独立させて家庭電器工場を設けた。1955年3月期の単体売上高は241億円、従業員は1万7630人である。ただし朝鮮動乱の終結後はデフレ政策で利益が漸減し、同期の利益は4億4000万円、配当は1割8分へ減った。

  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
    • [63]朝鮮動乱の勃発と政府の重要政策となった電源開発計画を契機に飛躍的な発展期を迎えた
    • [65]1953年10月 無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させ無線機製作所とする
    • [66]1954年4月 名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移管して静岡工場を創設
    • [67]1956年 名古屋製作所の家庭電器部門が独立し家庭電器工場となる
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
    • [64]1951年以降本格化した電源開発で電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
    • [68]1955年3月期の単体売上高241億3900万円
  • 株式会社年鑑 1955年版「三菱電機」
    • [69]1954年9月末時点の従業員1万7630人
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [70]1955年3月期は利益4億4000万円・1割8分へ減配。朝鮮動乱終結後のデフレ政策で利益は漸減した
参考文献[54]-[70]
    • [54]戦時中の停滞で欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化、1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワットにとどまった
    • [62]三菱電機=ウエスチングハウス、富士電機=ジーメンス、東芝=GEが外資法制定を機に関係を復活、日立は1953年にGEから火力プラント技術を導入
    • [64]1951年以降本格化した電源開発で電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
    • [55]ウエスチングハウス社は三菱電機が分割され三菱の商号を失えば技術契約は結べないと通告した
    • [56]1950年4月 三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ商号商標使用禁止令の撤回を陳情
    • [57]禁止令は5月末に一年延期、再延期を経て1952年4月28日の講和条約発効で消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [58]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [61]水素冷却発電機の開発のため長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
    • [59]ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
    • [60]1955年9月時点でウエスチングハウスが発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
    • [63]朝鮮動乱の勃発と政府の重要政策となった電源開発計画を契機に飛躍的な発展期を迎えた
    • [65]1953年10月 無線機製造部門を伊丹製作所から分離独立させ無線機製作所とする
    • [66]1954年4月 名古屋の冷蔵庫・冷凍機部門を移管して静岡工場を創設
    • [67]1956年 名古屋製作所の家庭電器部門が独立し家庭電器工場となる
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
    • [68]1955年3月期の単体売上高241億3900万円
    • [69]1954年9月末時点の従業員1万7630人
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [70]1955年3月期は利益4億4000万円・1割8分へ減配。朝鮮動乱終結後のデフレ政策で利益は漸減した

1958年〜事業部制の導入と、北伊丹に置いた半導体の量産専門工場

事業部を独立した会社のように動かす

単体の売上高は1958年3月期の497億円から、1961年3月期に1011億円、1963年3月期に1511億円へ膨らんだ。電源開発、設備投資、家庭電化という三つのブームが同時に来たうえ、三菱グループからの受注も多く、1945年から1955年にかけて配当は3割を保った。この間に形を整えていったのが1958年導入の事業部制で、4事業部で出発し、市場と技術の変化に応じて何度か改められて1972年末には10事業部となり、生産から販売、損益までを通して任せ、社内資本金制度も設けて事業部を一つの会社として自主運営させる仕組みである。『売る苦労を知らなかった』と後年評される時期であった。

  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
    • [71]単体売上高は1958年3月期497億円、1961年3月期1010億円、1963年3月期1510億円
  • 産業と経済 1967年10月号
    • [72]戦後の電源開発・設備投資・家庭電化のブームに乗り、1945〜1955年は3割配当。三菱グループからの受注も多かった
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [73]1958年から事業部制を導入し、市場・技術の変化に対応して手直しを重ねた結果、1972年末には10事業部になっていた
    • [74]生産・販売・損益を一貫して担当する事業部に社内資本金制度を実施し、事業部を一つの会社と考えて自主的に運営させた
商品より先に量産の設備を建てる

1959年8月、会社は半導体の量産専門工場として北伊丹工場を新設した。国産第一号の集積回路が中央研究所から商品として出るのは、2年後の1961年である。用途も需要もまだ定まらない部品に対して、商品より先に量産の設備を用意したことになる。この年の業績は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録を更新し、証券市場は同社を成長株と呼んだ。背景には1958年度から1963年度にかけての1000万キロワット近い電源開発計画がある。同じ年の12月には家庭電器を専門に研究する商品研究所も設けており、重電で稼いだ資金を、電子部品と家庭電器という二つの先行投資へ同時に振り向けていた。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [75]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [80]1959年12月 家庭電器を専門に研究する商品研究所を新設
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [76]1961年 中央研究所が国産IC第一号「モレクトロン」を商品化
  • 実業の世界 1959年12月号(三田商業研究会)
    • [77]1959年は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録
    • [78]証券市場は三菱電機を「成長株」と呼んだ
    • [79]1958〜1963年度に1000万キロワット近い電源開発計画があった
電化ブームの終わりで販売力の差が出る

1963年から1964年を境に、長く続いた電化ブームは終わりを告げた。作れば売れる前提のままだった会社の業績は崩れ、1965年9月期は利益剰余金の取り崩しでかろうじて無配転落を免れている。単体の当期純利益は1965年3月期の40億円から1966年3月期には16億9000万円へ半減した。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社のあいだにも格差が生じている。1960年の鎌倉、1962年の京都、1964年の稲沢と、この時期も製作所は増え続けていた。作る側の拡張と売る側の力の差が開いたところに不況が来たことが、殿様商法という評価を呼び込んだのだろう。

  • 産業と経済 1967年10月号
    • [81]1963〜1964年を境に電化ブームが終わりを告げた
    • [82]1965年9月期は内部留保の取り崩しで無配転落を回避
    • [84]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社にも格差が生じた
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
    • [83]単体の当期純利益は1965年3月期40億1500万円から1966年3月期16億9400万円へ半減
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [85]1960年10月 鎌倉製作所、1962年1月 京都製作所、1964年10月 稲沢製作所を新設
参考文献[71]-[85]
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
    • [71]単体売上高は1958年3月期497億円、1961年3月期1010億円、1963年3月期1510億円
    • [72]戦後の電源開発・設備投資・家庭電化のブームに乗り、1945〜1955年は3割配当。三菱グループからの受注も多かった
    • [81]1963〜1964年を境に電化ブームが終わりを告げた
    • [82]1965年9月期は内部留保の取り崩しで無配転落を回避
    • [84]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売りし、大手3社にも格差が生じた
    • [73]1958年から事業部制を導入し、市場・技術の変化に対応して手直しを重ねた結果、1972年末には10事業部になっていた
    • [74]生産・販売・損益を一貫して担当する事業部に社内資本金制度を実施し、事業部を一つの会社と考えて自主的に運営させた
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [75]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [80]1959年12月 家庭電器を専門に研究する商品研究所を新設
    • [85]1960年10月 鎌倉製作所、1962年1月 京都製作所、1964年10月 稲沢製作所を新設
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [76]1961年 中央研究所が国産IC第一号「モレクトロン」を商品化
    • [77]1959年は売上16%増・利益35%増で創業以来の最高記録
    • [78]証券市場は三菱電機を「成長株」と呼んだ
    • [79]1958〜1963年度に1000万キロワット近い電源開発計画があった
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
    • [83]単体の当期純利益は1965年3月期40億1500万円から1966年3月期16億9400万円へ半減

1968年〜量から質への転換と、業績を戻した二つの全社作戦

為替差損を機に全社を総点検する

1971年9月期には5億3700万円の為替差損が出て、売上高は2026億円と前期より3%伸びたものの、税引後利益は6%減の31億4000万円、配当は2分下げて1割となった。1970年に社長となった進藤貞和氏が基本方針としていたのは、量から質への転換、つまり弾力的な経営体質と資金を効率よく使う企業体質を築くことで、その方針が問われたのは就任の翌年だった。会社はこれを受けて、人や物、金といったあらゆる資源の使い方を社内で総点検する全社運動に着手した。名前の101作戦は、会計年度で101期にあたる1973年9月期までに業績を立て直すという期限をそのまま運動名にしたものである。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [86]1971年9月期は売上高2026億円・前期比3%増ながら為替差損5億3700万円で税引後利益31億4000万円・6%減益、2分減配して1割配当
    • [87]進藤貞和社長は就任以来、量から質への転換、弾力性のある経営体質・資金効率のよい企業体質づくりを基本方針とした
    • [88]人・物・金などあらゆるものの使い方について社中の総点検を行う全社運動「101作戦」を開始した
    • [89]101作戦は会計年度の101期にあたる1973年9月期までに業績の回復を果たそうという運動
計画と資金で事業部を締める

1969年度に総合年度計画が、1970年度に資金管理制度が動き出した。会社はこの両制度を車の両輪と位置づけ、点検を途切れさせない仕掛けとした。総合年度計画では、受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の計画を事業部単位で作らせた。それを常務会で検討し、四半期ごとに実績を追った。資金管理制度のほうは、事業部ごとに社内資本金を置き、資金繰りまで各事業部の裁量に委ねる仕組みである。設備投資額は1970年度が240億円、1971年度が190億円だった。赤穂では超大型変圧機を専門に造る工場が1972年6月に動き出し、その建設には約2年と100億円がかかった。1971年度の売上高は4154億円に達し、米国を除く世界の製造企業では64位に位置した。

  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [90]総合年度計画は1969年度から、資金管理制度は1970年度から実施
    • [91]総合年度計画と資金管理制度を車の両輪として経営した
    • [92]総合年度計画は事業部単位に受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の諸計画を立てさせ常務会で検討し四半期ごとに追跡、資金管理制度は社内資本金を設けて各事業部を独立会社のように扱った
    • [93]設備投資は1970年度240億円、1971年度190億円
    • [94]赤穂市の臨海地区に約2年と100億円を投じた超大型変圧機専門の赤穂工場が1972年6月に稼働
    • [95]1971年度の売上高4154億円、フォーチュン誌調査で米国を除く世界製造企業の第64位
攻めと守りの二つの作戦で操業度を戻す

操業度が基準の76%まで低下した1975年度上期は、石油危機後の後退の深さを示し、一時帰休は28万人日に上った。会社は攻めと守りの二つの作戦で手を打ち、売上と利益を同時に得ることを掲げたSP76作戦で営業力を強め、VA350作戦では全社の総原価を350億円切り詰めようとした。後者の原価低減は410億円に達し、目標を17%上回った。操業度は1976年度上期に95%へ戻り、同年度の売上高は6950億円、受注高は7600億円、うち輸出受注が1700億円に達した。人員は1976年度中に2500人減って平均5万4300人である。数字を戻したのは新しい製品ではなく、受注と原価を同時に締める運動であった。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号(八塚茂治・三菱電機副社長)
    • [96]1975年度上期は操業度が基準の76%まで低下し、28万人日の一時帰休を出した
    • [97]攻めのSP76作戦は売上と利益の同時必達を期した営業力強化の一大キャンペーン
    • [98]守りのVA350作戦は1976年度中に全社の総原価を350億円低減する運動
    • [99]VA350作戦は目標の350億円を17%上回る410億円の原価低減となる見込み
    • [100]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [101]1976年度の売上高6950億円、受注高7600億円、うち輸出受注1700億円
    • [102]人員は1976年度中に2500人減少し、1976年度の平均人員は5万4300人
参考文献[86]-[102]
    • [86]1971年9月期は売上高2026億円・前期比3%増ながら為替差損5億3700万円で税引後利益31億4000万円・6%減益、2分減配して1割配当
    • [87]進藤貞和社長は就任以来、量から質への転換、弾力性のある経営体質・資金効率のよい企業体質づくりを基本方針とした
    • [88]人・物・金などあらゆるものの使い方について社中の総点検を行う全社運動「101作戦」を開始した
    • [89]101作戦は会計年度の101期にあたる1973年9月期までに業績の回復を果たそうという運動
    • [90]総合年度計画は1969年度から、資金管理制度は1970年度から実施
    • [91]総合年度計画と資金管理制度を車の両輪として経営した
    • [92]総合年度計画は事業部単位に受注・生産在庫・売上・利益・人員・設備投資・投融資・開発の諸計画を立てさせ常務会で検討し四半期ごとに追跡、資金管理制度は社内資本金を設けて各事業部を独立会社のように扱った
    • [93]設備投資は1970年度240億円、1971年度190億円
    • [94]赤穂市の臨海地区に約2年と100億円を投じた超大型変圧機専門の赤穂工場が1972年6月に稼働
    • [95]1971年度の売上高4154億円、フォーチュン誌調査で米国を除く世界製造企業の第64位
    • [96]1975年度上期は操業度が基準の76%まで低下し、28万人日の一時帰休を出した
    • [97]攻めのSP76作戦は売上と利益の同時必達を期した営業力強化の一大キャンペーン
    • [98]守りのVA350作戦は1976年度中に全社の総原価を350億円低減する運動
    • [99]VA350作戦は目標の350億円を17%上回る410億円の原価低減となる見込み
    • [100]操業度は1975年度上期76%から1976年度上期95%へ回復
    • [101]1976年度の売上高6950億円、受注高7600億円、うち輸出受注1700億円
    • [102]人員は1976年度中に2500人減少し、1976年度の平均人員は5万4300人

第3章 1977年〜 4事業本部制の導入とコンピュータ・半導体・自動車機器の事業再編

1977年〜重電・電子・機器・商品の4事業本部と、台湾三菱電機の設立

数字を戻した会社は、1977年6月に売り方の単位を市場に合わせて組織を組み替えた。製販一体の事業部を販売部門と製作所に分け、販売部門を顧客別・販路別の18の販売事業部に改めた。販売事業部と製作所は、重電・電子・機器・商品の4事業本部に統合された。社長の進藤貞和氏は、冷熱の担当とウインドクーラーの担当が別の事業部に割れる旧体制を生産志向型と説明した。新体制では、電力会社に対して電力の担当者が汎用モーターや変圧器、電力量計まで売る方式に改めた。販売事業部には利益責任を持たせ、製作所と並ぶ損益管理単位とした。SP76作戦で外へ向けた営業の力を、組織の単位として固定したとみられる。

  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [103]1977年6月 事業体制を市場志向・販売志向に改める組織改正を実施(1958年の事業部制導入以来19年ぶり)
    • [104]製販一体の事業部を販売部門と製作所に分離し、販売部門を顧客・市場別、販売ルート別などに再編して18の販売事業部を発足
    • [105]販売事業部と製作所を統合し、重電・電子・機器・商品の4事業本部を設置
    • [108]販売事業部に販売の責任と権限・利益責任を持たせ、販売部門と製作所がともに損益管理単位となった
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号
    • [106]進藤貞和社長の説明では、冷熱関係の部門とウインドクーラーの商品事業部が分かれるなど従来は生産志向型だった
    • [107]新体制では電力会社向けに電力担当が汎用モーター・汎用変圧器・電力量計も売る方式にした

4事業本部の下で、家電は1977年発売のふとん乾燥機を皮切りに、オーブンレンジや1978年の石油ガス化ファンヒーターと新商品を重ねた。家電部門の売上高は1977年度に重電部門と並び、1980年度に3200億円を超えた。進藤貞和氏は、群馬製作所の幹部が全国の系列販売店を回って製品を説明した点を売れた要因の一つに挙げた。ヒット商品の条件について進藤貞和氏は、実行を命じる人の有無を重く見て『やはり人次第』と語った。販売網では1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月から系列ストア2000店の増設を目標に掲げた。系列ストアの数で業界に劣位に置かれていたことが、増設を急いだ理由であった。

  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [109]1977年発売のふとん乾燥機が家電部門急伸の発端となり、オーブンレンジ、1978年の石油ガス化ファンヒーターなどが続いた
    • [110]家電部門の売上高は1977年度に重電部門に匹敵し、1980年度に3200億円を超えた
    • [113]1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月に系列ストア2000店増設を目標とする第一次ストア増設キャンペーンを開始
    • [114]当時の三菱電機は系列ストア数で業界において劣勢だった
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号
    • [111]進藤貞和社長は、群馬製作所の所長・副所長が全国の三菱系列販売店を回って説明したことを売れた要因の一つに挙げた
    • [112]進藤貞和社長は、ヒット商品には誰にやらせるか、やれと言える人がいるかが重要で、人次第だと語った

国内で立て直した事業は輸出へ広がり、輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円へ増えた。家電を中心とする量産品の輸出売上は、1977年度の420億円から1980年度に930億円となった。1978年6月には台湾三菱電機股份有限公司を設立した。1979年にはメキシコの重電機工場と英国のカラーテレビ工場が完成した。1980年3月期の売上高は1兆754億円に達し、進藤貞和氏は1980年の年頭に回復の基調を重電輸出と家電に置いた。国内の設備投資が伸び悩むなかで、輸出が操業度を支える構造になったのだろう。

  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [115]輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円
    • [116]家電を中心とする量産品輸出の売上げは1977年度の420億円から1980年度に930億円
    • [118]1979年にメキシコのメルコデメヒコの重電機工場と英国三菱エレクトリック(UK)のカラーテレビ工場が完成
    • [119]1979年度(1980年3月期)の売上高は1兆754億円で、1兆円企業となった
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [117]1978年6月 台湾に台湾三菱電機股份有限公司を設立
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
    • [120]進藤貞和社長は1980年の年頭、重電輸出と家電の活躍を基調に業績を回復したと述べた
参考文献[103]-[120]
  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [103]1977年6月 事業体制を市場志向・販売志向に改める組織改正を実施(1958年の事業部制導入以来19年ぶり)
    • [104]製販一体の事業部を販売部門と製作所に分離し、販売部門を顧客・市場別、販売ルート別などに再編して18の販売事業部を発足
    • [105]販売事業部と製作所を統合し、重電・電子・機器・商品の4事業本部を設置
    • [108]販売事業部に販売の責任と権限・利益責任を持たせ、販売部門と製作所がともに損益管理単位となった
    • [109]1977年発売のふとん乾燥機が家電部門急伸の発端となり、オーブンレンジ、1978年の石油ガス化ファンヒーターなどが続いた
    • [110]家電部門の売上高は1977年度に重電部門に匹敵し、1980年度に3200億円を超えた
    • [113]1977年4月に販売会社経営改善計画を策定し、1978年10月に系列ストア2000店増設を目標とする第一次ストア増設キャンペーンを開始
    • [114]当時の三菱電機は系列ストア数で業界において劣勢だった
    • [115]輸出受注高は1975年度の1000億円から1980年度に2550億円
    • [116]家電を中心とする量産品輸出の売上げは1977年度の420億円から1980年度に930億円
    • [118]1979年にメキシコのメルコデメヒコの重電機工場と英国三菱エレクトリック(UK)のカラーテレビ工場が完成
    • [119]1979年度(1980年3月期)の売上高は1兆754億円で、1兆円企業となった
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号
    • [106]進藤貞和社長の説明では、冷熱関係の部門とウインドクーラーの商品事業部が分かれるなど従来は生産志向型だった
    • [107]新体制では電力会社向けに電力担当が汎用モーター・汎用変圧器・電力量計も売る方式にした
    • [111]進藤貞和社長は、群馬製作所の所長・副所長が全国の三菱系列販売店を回って説明したことを売れた要因の一つに挙げた
    • [112]進藤貞和社長は、ヒット商品には誰にやらせるか、やれと言える人がいるかが重要で、人次第だと語った
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [117]1978年6月 台湾に台湾三菱電機股份有限公司を設立
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
    • [120]進藤貞和社長は1980年の年頭、重電輸出と家電の活躍を基調に業績を回復したと述べた

1980年〜片山仁八郎社長の家庭の情報化と、福岡に新設した半導体工場

1980年6月、進藤貞和氏は会長に退き、副社長の片山仁八郎氏が社長に就任した。進藤貞和氏は、社長定年を70歳とする内規に達したことと、1兆円企業入りを果たしたことを交代の理由に挙げた。進藤貞和氏は前年の交代も考えたが、片山仁八郎氏が常務だったため、副社長として社内の仕事を経験させた。片山仁八郎氏は1940年に九州帝国大学を卒業して入社し、長崎製作所と神戸製作所の所長を務めた技術者であった。片山仁八郎氏は社員に『組織のカベを突き破れ』と求めた。当時の電子部門は、日本電気や富士通に差をつけられていると評されていた。重電育ちの社長が二代続き、電子の遅れを埋める課題が新体制に残ったと推察される。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [121]1980年6月 進藤貞和氏が社長を片山仁八郎氏に譲り会長に就任
    • [122]進藤貞和氏は社長定年70歳の内規に達したことと、1980年3月期に1兆円企業入りしたことを交代の理由とした
  • エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」
    • [123]進藤貞和氏は前年の役員交替時に譲りたかったが、片山仁八郎氏が常務だったため副社長として社内の仕事を経験させた
    • [126]1980年当時、三菱電機の電子部門は日本電気や富士通といった通信機メーカーに差をつけられていると評された
  • 日経ビジネス 1981年2月23日号
    • [124]片山仁八郎氏は1940年3月に九州帝国大学工学部を卒業して入社し、1969年に長崎製作所長、1972年に神戸製作所長
    • [125]片山仁八郎社長は組織の壁を突き破り、組織にとらわれずに考えるよう社員に求めた

片山仁八郎氏の体制は、1981年初めの新長期経営計画で電子部門の売上構成比を20%強から50%程度へ上げる目標を置いた。同計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円で、日立製作所と東京芝浦電気が売上倍増の計画を出すと、上方修正の作業に入った。半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍になっていた。1981年9月には北伊丹製作所福岡半導体工場を新設した。1983年には米国に半導体工場を設立し、1984年に愛媛県の西条工場を一部完成させ、1985年に高知工場の建設に着手した。1984年の日本のIC生産額は、2兆円に達する公算が大きいと報じられた。計画の目標を追って、半導体の設備を毎年積み増したのだと読める。

  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
    • [127]1981年初めに決めた新長期経営計画は、半導体・コンピューター・テレビ・VTRなど電子部門の売上高構成比を20%強から50%程度に引き上げる計画
    • [128]新長期経営計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円。日立製作所・東京芝浦電気の売上倍増計画に刺激され、目標の上方修正作業に着手
  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [129]半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍に増加
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [130]1981年9月 北伊丹製作所福岡半導体工場(現パワーデバイス製作所)を新設
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [131]1983年に米国に半導体工場を設立し、1984年に西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年に高知工場の建設に着手
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)
    • [132]1984年のIC生産額は2兆円に達する公算が出てきた

1983年10月、事業本部は機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6本部に再編された。電子デバイス本部は、重電部門の低迷を受けて電子部品の外販を広げる役割を担った。家電では1984年、片山仁八郎氏がホームオートメーションの体系をMELONの名で打ち出した。片山仁八郎氏は、家庭の自動化は工場や事務所の省力化と異なり、安らぎやゆとりを目的とすべきだと説いた。そのうえで新しい時代の中核技術を通信に置き、家庭の情報化の始まりと位置づけた。第1弾は防犯・火災・ガスのセンサーと電気錠を備える住宅向けシステムで、1984年春の発売が予定された。家電の販売網と電子の技術を、通信でつなぐ構想であったといえる。

  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [133]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
  • 日経ビジネス 1987年1月19日号
    • [134]重電部門の低迷を背景に1983年10月に電子デバイス本部を設置し、電子部品の外販を進めた
  • 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
    • [135]三菱電機は1984年、MELONの名でホームオートメーション市場への参入を発表
    • [136]片山仁八郎社長は、HAはFA・OAと異なり、家庭のやすらぎ・ゆとり・いきがいを求めるべきだとした
    • [137]片山仁八郎社長は新しい時代の中核技術を通信とし、家庭の情報化時代の幕あけと位置づけた
    • [138]第1弾のハウスキーピングシステムAは防犯・火災・ガスセンサー、ガス遮断器、電気錠などを備え、1984年春に発売予定
参考文献[121]-[138]
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [121]1980年6月 進藤貞和氏が社長を片山仁八郎氏に譲り会長に就任
    • [122]進藤貞和氏は社長定年70歳の内規に達したことと、1980年3月期に1兆円企業入りしたことを交代の理由とした
    • [131]1983年に米国に半導体工場を設立し、1984年に西条工場(愛媛県)を一部完成、1985年に高知工場の建設に着手
  • エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」
    • [123]進藤貞和氏は前年の役員交替時に譲りたかったが、片山仁八郎氏が常務だったため副社長として社内の仕事を経験させた
    • [126]1980年当時、三菱電機の電子部門は日本電気や富士通といった通信機メーカーに差をつけられていると評された
  • 日経ビジネス 1981年2月23日号
    • [124]片山仁八郎氏は1940年3月に九州帝国大学工学部を卒業して入社し、1969年に長崎製作所長、1972年に神戸製作所長
    • [125]片山仁八郎社長は組織の壁を突き破り、組織にとらわれずに考えるよう社員に求めた
  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
    • [127]1981年初めに決めた新長期経営計画は、半導体・コンピューター・テレビ・VTRなど電子部門の売上高構成比を20%強から50%程度に引き上げる計画
    • [128]新長期経営計画の1985年度売上高目標は2兆1000億円。日立製作所・東京芝浦電気の売上倍増計画に刺激され、目標の上方修正作業に着手
  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
    • [129]半導体の売上高は1980年度に600億円を超え、5年間で約3倍に増加
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [130]1981年9月 北伊丹製作所福岡半導体工場(現パワーデバイス製作所)を新設
    • [133]1983年10月 事業本部を機電・商品・電子システム・電子計算機・電子デバイス・海外の6事業本部に再編
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)
    • [132]1984年のIC生産額は2兆円に達する公算が出てきた
  • 日経ビジネス 1987年1月19日号
    • [134]重電部門の低迷を背景に1983年10月に電子デバイス本部を設置し、電子部品の外販を進めた
  • 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
    • [135]三菱電機は1984年、MELONの名でホームオートメーション市場への参入を発表
    • [136]片山仁八郎社長は、HAはFA・OAと異なり、家庭のやすらぎ・ゆとり・いきがいを求めるべきだとした
    • [137]片山仁八郎社長は新しい時代の中核技術を通信とし、家庭の情報化時代の幕あけと位置づけた
    • [138]第1弾のハウスキーピングシステムAは防犯・火災・ガスセンサー、ガス遮断器、電気錠などを備え、1984年春に発売予定

1985年〜志岐守哉社長のSE体制強化と、自動車機器事業本部の新設

1985年6月、社長は片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は新設の名誉会長に就任した。志岐守哉氏の体制では情報通信事業が課題で、売上高は1984年度から3年間、2690億円、2700億円、2800億円にとどまった。汎用機では沖電気工業と共同開発したIBM非互換機が伸びず、1982年6月のIBMスパイ事件で互換路線も断念していた。1987年6月末の組織改革は3800人の異動を伴い、SEを提案担当の2つのセンターと開発担当のコンピュータ製作所に分けた。副社長の遠藤裕男氏は、『コンピューターの営業力とはSEの質の高さと人数そのものなのだ』と総括した。1988年7月にはSEの中途採用を始め、2000人弱の体制を2〜3年後に5000人へ増やす計画を立てた。当時、富士通と日立製作所のSEは1万人を下らなかった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [139]1985年6月 社長が片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は名誉会長の役職を新たに設けて就任
  • 日経ビジネス 1988年9月12日号
    • [140]情報通信事業の売上高は1984年度2690億円、1985年度2700億円、1986年度2800億円
    • [141]沖電気工業と共同開発したIBM非互換のCOSMOシリーズは受け入れられず、IBM互換機も1982年6月のIBMスパイ事件で断念
    • [142]1987年6月末に3800人の異動を伴う組織改革を行い、SEを上工程の2つのシステムエンジニアリングセンターと下工程のコンピュータ製作所に分けた
    • [143]遠藤裕男副社長は、コンピューターの営業力はSEの質と人数そのものであり、SEを普通の技術者と同じに扱ってきたと振り返った
    • [144]1988年7月からSEの中途採用を開始し、2000人弱のSEを2〜3年後に5000人体制とする計画
    • [145]1988年当時、富士通や日立製作所のユーザー支援SEは1万人を下らなかった

1985年秋、三菱電機は37型カラーテレビを他社より先に発売し、翌年5月に京都製作所で37インチブラウン管の工場を稼働させた。工場の年間生産能力は10万本、建物と設備の投資額は70億円であった。37型テレビを売る8社はすべて三菱電機製のブラウン管を使い、外販比率は5割近くに達した。半導体では1986年7月に日米半導体協定が合意され、日本メーカーは米政府の算定した公正市場価格を下回る対米輸出ができなくなった。価格の下落は鈍り、1メガビットDRAMは1987年から1989年にかけて約2000円で推移した。1988年度の単体経常利益は931億円と前年度から122.7%増え、会社は1985年から1986年の円高の打撃を克服したと説明した。大型ブラウン管の外販と協定下の半導体価格が、円高の後の利益を支えたと考えられる。

  • 日経ビジネス 1987年1月19日号
    • [146]1985年秋に37インチテレビを発売し、1986年5月から京都製作所の37インチ大型ブラウン管工場が稼働
    • [147]37インチブラウン管工場の生産能力は年間10万本、新工場の投資額(建物・機械設備)は70億円
    • [148]37インチテレビを発売する8社のブラウン管はすべて三菱電機製で、外販比率は5割近く
  • 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [149]1986年7月に日米半導体協定に合意し、日本メーカーは米政府算定の公正市場価格(FMV)以下では対米輸出できなくなった
    • [150]FMV導入で価格下落が鈍化し、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
    • [151]1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円、経常利益931億円(前年度比122.7%増)で過去最高。1985〜1986年の円高の打撃を克服したと説明

1989年6月、会社は自動車機器事業本部を新設した。天野順介常務は同月の説明で、事業を4つの分野に整理した。重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器である。このうち重電機器は売上に占める比率が30%前後から25%前後へ落ち、自動車・産業機器は自動車需要と設備投資の拡大に支えられて伸びていた。力点は情報通信・電子デバイスに置かれ、その比率を早期に50%近い水準まで引き上げることが目標とされた。重電の工場を半導体の生産に切り替えた事例も、天野順介氏の説明に含まれていた。ウェハの段階から一貫して生産する米国ノースカロライナ州の半導体工場は、1990年1月に完成する予定だった。不況下でも研究開発費は削れないというのが、1989年11月の片山仁八郎会長の発言である。半導体と情報通信への投資を景気に左右されない前提に置いたまま、会社は1990年代に入ったと推測される。

  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [152]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
    • [153]天野順介常務は1989年6月6日、事業を重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器の4分野と説明
    • [154]重電機器の売上高構成比はかつての30%程度から25%程度に低下。自動車・産業機器は設備投資や自動車の伸びで好調
    • [155]情報通信・電子デバイス部門の構成比をできるだけ早く50%近くにする考えで、重電の工場を半導体工場へ転換させたりしている
    • [156]米国ノースカロライナ州の半導体工場をウェハからの一貫生産工場とする計画で、1990年1月の完成を目指し増強中
  • 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
    • [157]片山仁八郎会長は1989年11月、研究開発費は不況だからといって減らすわけにはいかないと語った
参考文献[139]-[157]
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [139]1985年6月 社長が片山仁八郎氏から志岐守哉氏に代わり、進藤貞和氏は名誉会長の役職を新たに設けて就任
  • 日経ビジネス 1988年9月12日号
    • [140]情報通信事業の売上高は1984年度2690億円、1985年度2700億円、1986年度2800億円
    • [141]沖電気工業と共同開発したIBM非互換のCOSMOシリーズは受け入れられず、IBM互換機も1982年6月のIBMスパイ事件で断念
    • [142]1987年6月末に3800人の異動を伴う組織改革を行い、SEを上工程の2つのシステムエンジニアリングセンターと下工程のコンピュータ製作所に分けた
    • [143]遠藤裕男副社長は、コンピューターの営業力はSEの質と人数そのものであり、SEを普通の技術者と同じに扱ってきたと振り返った
    • [144]1988年7月からSEの中途採用を開始し、2000人弱のSEを2〜3年後に5000人体制とする計画
    • [145]1988年当時、富士通や日立製作所のユーザー支援SEは1万人を下らなかった
  • 日経ビジネス 1987年1月19日号
    • [146]1985年秋に37インチテレビを発売し、1986年5月から京都製作所の37インチ大型ブラウン管工場が稼働
    • [147]37インチブラウン管工場の生産能力は年間10万本、新工場の投資額(建物・機械設備)は70億円
    • [148]37インチテレビを発売する8社のブラウン管はすべて三菱電機製で、外販比率は5割近く
  • 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [149]1986年7月に日米半導体協定に合意し、日本メーカーは米政府算定の公正市場価格(FMV)以下では対米輸出できなくなった
    • [150]FMV導入で価格下落が鈍化し、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
    • [151]1988年度の単独決算は売上高2兆2301億円、経常利益931億円(前年度比122.7%増)で過去最高。1985〜1986年の円高の打撃を克服したと説明
    • [153]天野順介常務は1989年6月6日、事業を重電機器、自動車・産業メカトロニクス、情報通信・電子デバイス、家庭電器の4分野と説明
    • [154]重電機器の売上高構成比はかつての30%程度から25%程度に低下。自動車・産業機器は設備投資や自動車の伸びで好調
    • [155]情報通信・電子デバイス部門の構成比をできるだけ早く50%近くにする考えで、重電の工場を半導体工場へ転換させたりしている
    • [156]米国ノースカロライナ州の半導体工場をウェハからの一貫生産工場とする計画で、1990年1月の完成を目指し増強中
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
    • [152]1989年6月 自動車機器事業本部を新設
  • 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
    • [157]片山仁八郎会長は1989年11月、研究開発費は不況だからといって減らすわけにはいかないと語った

第4章 1992年〜 北岡隆・谷口一郎体制での中期経営計画と汎用DRAM事業からの撤退

1992年〜半導体出身の北岡隆社長と、社内公募制を入れた事業本部の再編

半導体と情報通信に投資を重ねたまま1990年代に入った三菱電機は、1992年6月に北岡隆氏を社長に選んだ。北岡隆氏は稲沢製作所でエレベーターを担当したのち、1985年に北伊丹製作所長として半導体を率いた。三菱電機では重電出身の社長が続いており、半導体を担った人物の起用は初めてであった。前社長の志岐守哉氏が選考理由に挙げたのは、重電・ビル・半導体を経験した北岡隆氏のバランス感覚であった。北岡隆氏は社員への約束として、志岐守哉氏から継いだ情報通信の強化とグローバリゼーションの2点を掲げた。コンピュータ投資と家電のAVがそろって冷え込む局面で、一つの事業に偏らない経歴が評価されたと考えられる。

  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [158]北岡隆は1992年6月に三菱電機社長に就任(1931年京都府生まれ、1955年入社、1987年取締役、1989年常務、1991年副社長)
    • [161]志岐守哉前社長は選考理由にバランス感覚・リーダーシップ・明るさを挙げた。北岡は重電・ビル事業・半導体デバイスを幅広く経験し、事業間の均衡を取れると期待された
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [159]北岡隆は稲沢製作所でエレベーター(ビル事業)を担当し、1985年に半導体の責任者として北伊丹製作所長に就任。1989年に常務・電子デバイス事業本部長
    • [162]北岡は社員への約束として情報通信事業の強化とグローバリゼーションの2つを挙げ、いずれも志岐前社長から受け継いだ基本方針と位置づけた
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [160]重電出身の社長が続いた三菱電機で、役員時代に半導体を担当した北岡隆はハイテク分野から出た初めての社長であった

変革を妨げているのは現場の課長・部長の意識だと北岡隆氏はみており、成果が表れるまでに5年から10年を見込んでいた。その北岡隆氏のもとで、1993年6月に6事業本部が9事業本部へ組み替えられ、本部長の投資決裁の上限は1億円から5億円に引き上げられ、1994年4月には立ち遅れていたマルチメディア分野に新組織が設けられて、社内公募制が初めて使われた。同時に、三菱電機グループとして解雇は少なくとも今世紀中は行わないと明言した。中期経営計画を初めて社外に公表した理由について、北岡隆氏は有言実行で責任を自覚するためと説明した。雇用を守る前提が、改革の速度を『漢方薬方式』に決めたと推察される。

  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [163]北岡は、手ごわいのは現場の課長・部長クラスの意識で、トップが具体的に指示しなければ変わらないと述べ、改革の成果が出るまで5〜10年かかるとみた
    • [166]北岡は人員の再配置はありうるが、三菱電機会社群として雇用は守り、解雇は少なくとも今世紀中は行わないと述べた
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [164]1993年6月に6事業本部から9事業本部(電力工業システム・社会システム・電子システム・情報通信システム・映像情報・住環境・FAシステム・自動車機器・半導体)へ再編。事業本部長の投資決裁枠を1億円から5億円に広げ、常務会の案件は6割減った
    • [165]1994年4月発足のマルチメディア事業推進プロジェクトグループで、陣容強化の要員を社内から公募する社内公募制を初めて導入
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [167]北岡は中期経営計画とビジョン22プロジェクトを初めて社外に発表した理由を、有言実行で責任を強く自覚し、社員への浸透と企業の透明化を図るためと説明した

北岡隆氏は、三菱電機本体よりも関係会社群に成長の余地が大きいとみていた。採算の合わない掃除機や炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移したところ、売上高が増えて利益も出るようになった。ただ、売上高の連結と単独の倍率は1994年時点で1.3倍で、日立製作所の2.0倍を下回った。音響の赤井電機では、1986年に三菱電機が第三者割当増資400万株を引き受けて筆頭株主となっていた。1992年11月期から赤字の続いた赤井電機は、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された。自ら育てる関係会社と外部の資本に委ねる関係会社の線引きが、本体の改革と並んで進んだのだろう。

  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [168]北岡は、最も成長の可能性が高いのは三菱電機そのものではなく関係会社群だとし、技術者を関係会社へ回して水平分業で拡大させる考えを示した
    • [169]赤字だった掃除機・炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移管し、売上が増え利益も出るようになった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [170]売上高の連単倍率は三菱電機1.3倍に対し日立製作所2.0倍。成功した関連会社は三菱電機ホーム機器と三菱プレシジョンくらいと関連会社担当常務が述べた
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [171]赤井電機は1986年2月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当て、三菱電機が筆頭株主となった
  • 実業往来 1995年9月
    • [172]赤井電機は1992年11月期以来赤字が続き(1994年11月期は経常赤字22億円)、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された
参考文献[158]-[172]
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [158]北岡隆は1992年6月に三菱電機社長に就任(1931年京都府生まれ、1955年入社、1987年取締役、1989年常務、1991年副社長)
    • [161]志岐守哉前社長は選考理由にバランス感覚・リーダーシップ・明るさを挙げた。北岡は重電・ビル事業・半導体デバイスを幅広く経験し、事業間の均衡を取れると期待された
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [159]北岡隆は稲沢製作所でエレベーター(ビル事業)を担当し、1985年に半導体の責任者として北伊丹製作所長に就任。1989年に常務・電子デバイス事業本部長
    • [162]北岡は社員への約束として情報通信事業の強化とグローバリゼーションの2つを挙げ、いずれも志岐前社長から受け継いだ基本方針と位置づけた
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
    • [160]重電出身の社長が続いた三菱電機で、役員時代に半導体を担当した北岡隆はハイテク分野から出た初めての社長であった
    • [163]北岡は、手ごわいのは現場の課長・部長クラスの意識で、トップが具体的に指示しなければ変わらないと述べ、改革の成果が出るまで5〜10年かかるとみた
    • [166]北岡は人員の再配置はありうるが、三菱電機会社群として雇用は守り、解雇は少なくとも今世紀中は行わないと述べた
    • [168]北岡は、最も成長の可能性が高いのは三菱電機そのものではなく関係会社群だとし、技術者を関係会社へ回して水平分業で拡大させる考えを示した
    • [169]赤字だった掃除機・炊飯器を子会社の三菱電機ホーム機器へ移管し、売上が増え利益も出るようになった
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
    • [164]1993年6月に6事業本部から9事業本部(電力工業システム・社会システム・電子システム・情報通信システム・映像情報・住環境・FAシステム・自動車機器・半導体)へ再編。事業本部長の投資決裁枠を1億円から5億円に広げ、常務会の案件は6割減った
    • [165]1994年4月発足のマルチメディア事業推進プロジェクトグループで、陣容強化の要員を社内から公募する社内公募制を初めて導入
    • [170]売上高の連単倍率は三菱電機1.3倍に対し日立製作所2.0倍。成功した関連会社は三菱電機ホーム機器と三菱プレシジョンくらいと関連会社担当常務が述べた
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [167]北岡は中期経営計画とビジョン22プロジェクトを初めて社外に発表した理由を、有言実行で責任を強く自覚し、社員への浸透と企業の透明化を図るためと説明した
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
    • [171]赤井電機は1986年2月発表の再建策で三菱電機に第三者割当増資400万株を割り当て、三菱電機が筆頭株主となった
  • 実業往来 1995年9月
    • [172]赤井電機は1992年11月期以来赤字が続き(1994年11月期は経常赤字22億円)、1995年2月に香港のセミ=テックグループに買収された

1995年〜東南アジアへ公開した家電技術と、1000億円の赤字に至った汎用DRAMの撤退

超円高が定着して国内から運ぶ部材では採算が合わなくなり、三菱電機は関係会社の組み替えと並行して、1995年から家電の部材の調達先を東南アジアに探した。1995年1月にバンコクで開いた展示会では、東南アジアの部品メーカー400社を相手に、エアコンや冷蔵庫の部材を仕様書とともに示した。タイの子会社のルームエアコンでは、既存製品で60%程度だった現地調達率を、96年シーズンの新製品で80%まで高める計画だった。1995年6月29日付の組織改革では、海外営業本部が担っていた販売機能が各事業本部へ移された。円高で国内の部材に依存できなくなった調達に、事業本部ごとの組織を合わせたとみられる。

  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
    • [173]資材部海外調達センター長は、超円高の定着で国内から持ち込む部材ではコスト競争力を保てず、現地調達を増やすしかないと説明した
    • [174]三菱電機は東南アジアで自社の白物家電を分解展示して現地の安価な部材を募り、海外資材調達を拡大した
    • [175]1995年1月19・20日、バンコクでエアコン・冷蔵庫・洗濯機を分解した部材を仕様書付きで展示し、東南アジアの部品メーカー400社1000人が来場した。5月には香港でAV関連も公開
    • [176]タイの生産子会社MCPのルームエアコンの現地調達率は既存製品で60%程度、96年シーズン向け新製品で80%へ引き上げる
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [177]1995年6月29日付の組織改革で、海外営業本部が担当していた海外販売機能を各事業本部に統合し、国内外を一元的に担当させた

北岡隆氏は1994年から1996年にかけ、ウィンドウズ95で増えるパソコン需要を見込んで半導体に連結で3000億円近い投資を許可した。社長就任直後の1992年には、4メガビットDRAMへの過大な設備投資が償却負担を重くしていると自ら指摘していた。それでも95年3月期に半導体が3年ぶりに営業黒字を回復すると、北岡隆氏はDRAMへの投資をさらに増やした。1997年に米国のマイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投じて市況が急落すると、半導体は2年連続で600億円を超える営業損失を出した。1998年3月末の事業構造改革策で、三菱電機は汎用品ではなく、マイコンに埋め込むDRAMとシステムLSIを育てる方針に転じた。投資の重さを知りながら黒字回復の局面で汎用品を減らさなかったことが、読み違いの核心であったと推し量れる。

  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [178]北岡は94〜96年に半導体事業へ連結で3000億円近い投資を許可した。ウィンドウズ95の発売でパソコン需要とDRAM需要が伸びるとみたため
    • [180]95年3月期に半導体事業が連結で3年ぶりに営業黒字を回復し、北岡はウィンドウズ95を前にDRAM事業の投資を増やした。本来は95年に脱DRAMを進めるべきだったと振り返った
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [179]1992年の時点で北岡は、半導体不況で苦しいのは4M DRAMへの設備投資が多すぎたことと16Mへの先行投資で償却負担が大きいためと分析した
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [181]97年に米マイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投入して市況が急激に低迷した。三菱電機の半導体事業は2年連続で600億円を超える営業損失を出した
    • [182]1998年3月末に事業構造改革のリストラ策をまとめ、半導体は自前主義にこだわらず他社との協力を増やす。DRAMは汎用品ではなくマイコンなどに埋め込むタイプを育て、システムLSIに期待をかける

1998年3月25日、三菱電機は北岡隆氏の取締役相談役への退任と、専務の谷口一郎氏の社長昇格を発表した。1998年3月期の連結当期純損失は1059億円に達した。単独決算も赤字で、三菱電機は上場以来初めて無配とした。北岡隆氏は会長に残って改革の行方を見届けることを望んでいた。しかし三菱グループの長老は、会長に残れば経営責任を取ったことにならないと北岡隆氏を諭した。改革を率いた社長を会長にも残さない人事で、三菱グループは赤字の責任の所在を明確にしたとうかがえる。

  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [183]三菱電機は1998年3月25日、北岡隆社長が取締役相談役に退き、谷口一郎専務が社長に昇格する人事を発表した
    • [186]北岡は代表権はなくても1年間は会長にとどまり、自ら進めた経営改革の行方を見届けようとした
    • [187]三菱グループの長老に「それでは経営責任をとったことにはならない」と諭され、北岡は取締役相談役に退くことになった
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [184]1998年3月期の連結当期純利益はマイナス1059億円(連結・JGAAP)
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [185]98年3月期は連結で約1000億円の最終損失を計上し、単独決算も赤字で上場以来初の無配となった
参考文献[173]-[187]
  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
    • [173]資材部海外調達センター長は、超円高の定着で国内から持ち込む部材ではコスト競争力を保てず、現地調達を増やすしかないと説明した
    • [174]三菱電機は東南アジアで自社の白物家電を分解展示して現地の安価な部材を募り、海外資材調達を拡大した
    • [175]1995年1月19・20日、バンコクでエアコン・冷蔵庫・洗濯機を分解した部材を仕様書付きで展示し、東南アジアの部品メーカー400社1000人が来場した。5月には香港でAV関連も公開
    • [176]タイの生産子会社MCPのルームエアコンの現地調達率は既存製品で60%程度、96年シーズン向け新製品で80%へ引き上げる
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
    • [177]1995年6月29日付の組織改革で、海外営業本部が担当していた海外販売機能を各事業本部に統合し、国内外を一元的に担当させた
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
    • [178]北岡は94〜96年に半導体事業へ連結で3000億円近い投資を許可した。ウィンドウズ95の発売でパソコン需要とDRAM需要が伸びるとみたため
    • [180]95年3月期に半導体事業が連結で3年ぶりに営業黒字を回復し、北岡はウィンドウズ95を前にDRAM事業の投資を増やした。本来は95年に脱DRAMを進めるべきだったと振り返った
    • [185]98年3月期は連結で約1000億円の最終損失を計上し、単独決算も赤字で上場以来初の無配となった
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
    • [179]1992年の時点で北岡は、半導体不況で苦しいのは4M DRAMへの設備投資が多すぎたことと16Mへの先行投資で償却負担が大きいためと分析した
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [181]97年に米マイクロン・テクノロジーが安価なDRAMを投入して市況が急激に低迷した。三菱電機の半導体事業は2年連続で600億円を超える営業損失を出した
    • [182]1998年3月末に事業構造改革のリストラ策をまとめ、半導体は自前主義にこだわらず他社との協力を増やす。DRAMは汎用品ではなくマイコンなどに埋め込むタイプを育て、システムLSIに期待をかける
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
    • [183]三菱電機は1998年3月25日、北岡隆社長が取締役相談役に退き、谷口一郎専務が社長に昇格する人事を発表した
    • [186]北岡は代表権はなくても1年間は会長にとどまり、自ら進めた経営改革の行方を見届けようとした
    • [187]三菱グループの長老に「それでは経営責任をとったことにはならない」と諭され、北岡は取締役相談役に退くことになった
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [184]1998年3月期の連結当期純利益はマイナス1059億円(連結・JGAAP)

1998年〜谷口一郎社長の半導体再編と、「ミツビシ」の名を捨てた携帯電話

社長の谷口一郎氏は防衛・宇宙の出身で、半導体を事業として熟知してはいなかった。谷口一郎氏が率いた最初の決算期である1999年3月期の連結経常損益は、1138億円の赤字であった。三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した。1999年6月には、台湾積体電路製造(TSMC)グループにDRAMの生産技術を有償で供与した。1999年に東芝と富士通、NECと日立製作所がDRAMで提携するなか、取締役の長澤紘一氏は三菱電機にも新たな提携が要る可能性を認めた。開発負担を他社と分け合う提携を重ねても、単独で生産規模を追う余地は狭まっていたように見える。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [188]1998年6月下旬から北岡を継ぐ谷口一郎専務は防衛・宇宙など三菱電機の得意分野を歩み、半導体もコンピューターも事業として熟知しているわけではない
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [189]1999年3月期の連結経常利益はマイナス1138億円(連結・JGAAP)
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
    • [190]三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した
    • [191]1999年6月22日、台湾積体電路製造(TSMC)グループへDRAMの生産技術を有償で供与し、開発投資の負担軽減を図った
    • [192]1999年2月に東芝と富士通、6月末にNECと日立製作所がDRAMで提携。どちらの連合にも加わっていない三菱電機の長澤紘一取締役は「DRAM事業で新たな提携が必要になる可能性もある」と答えた

半導体で規模を追えなかった三菱電機が生産を増やしたのは欧州の携帯電話で、1996年の25万台から2000年3月期には約600万台となった。国内の携帯電話は普及率がすでに40%で、需要は買い替え中心の横ばいと予測されていた。撤退論も出ていた欧州事業を立て直すため、1996年7月に山中隆司氏がフランス法人のトップに就任した。欧州での三菱電機の認知度は2%にとどまったため、山中隆司氏は社名を外したトリウム(Trium)というブランドに切り替えた。欧州の開発者は1996年の30人から、2000年3月には250人に増員された。谷口一郎氏は1999年10月の中期経営計画で、携帯電話の販売拡大をIT分野の核に据えた。

  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
    • [193]三菱電機の欧州の携帯電話生産は1996年に25万台、98年3月期62万台、99年3月期200万台、2000年3月期は前年の約3倍の約600万台
    • [194]国内の携帯電話の普及率は既に40%に達し、今後の需要は買い替え中心で年3000万〜3500万台の横ばいと予測された
    • [195]数十億円規模の赤字で撤退論もあった海外携帯電話事業の進退を任せるため、1996年7月に山中隆司がフランス法人のトップとして赴任した
    • [196]欧州の一般消費者の三菱電機に対する認知度は2%で、山中は三菱ブランドを捨て、現地社員の公募から生まれたトリウム(Trium)ブランドに切り替えた
    • [197]欧州の開発チームは96年まで30人だったが、2000年3月に250人となり、機種は1機種から6機種に増えた
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [198]1999年10月、谷口社長は2002年3月期をゴールとする中期経営計画で、携帯電話の販売拡大とソリューション事業の強化などIT分野を核とする方針を示した

2000年3月期の連結当期純利益は248億円で、三菱電機は3年ぶりに黒字を回復した。谷口一郎氏が経費削減の17プロジェクトで掲げた3年で1000億円の固定費削減は、1年前倒しで達成する見込みとなった。2002年3月期を期限とする中期経営計画では、売上高4兆円以上の企業への成長を掲げた。それでもアナリストの間では、重電・産業機械とIT事業の相乗効果をどう生むかという全体像が見えないとの評価が残った。日立製作所や東芝が分社を進めるなか、三菱電機は組織改革にも執行役員制の導入にも着手していなかった。削減で業績は回復したものの、何で収益を得る会社になるかを示す課題は次の社長へ持ち越されたと読み取れる。

  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [199]2000年3月期の連結当期純利益は248億円(1998年3月期・1999年3月期は最終赤字)
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [200]谷口社長は資材原価・物流費などテーマ別に経費削減の17プロジェクトを立ち上げ、「3年間で1000億円の固定費削減」を1年前倒しして99年度中に実現する見込みとなった
    • [201]1999年10月発表の中期経営計画は2002年3月期をゴールとし、IT分野を核に売上高4兆円以上の企業に成長する目標を掲げた
    • [202]アナリストの間では、IT事業と収益源の重電・産業機械事業とのシナジーをどう上げて成長するかという全体像が見えず、ビジョンが見えないという不満が残った
    • [203]日立や東芝が分社化を進めたのと対照的に、三菱電機は組織改革に手を付けず、執行役員制の導入などガバナンス改革も行っていなかった
参考文献[188]-[203]
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [188]1998年6月下旬から北岡を継ぐ谷口一郎専務は防衛・宇宙など三菱電機の得意分野を歩み、半導体もコンピューターも事業として熟知しているわけではない
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
    • [189]1999年3月期の連結経常利益はマイナス1138億円(連結・JGAAP)
    • [199]2000年3月期の連結当期純利益は248億円(1998年3月期・1999年3月期は最終赤字)
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
    • [190]三菱電機は1998年末に松下電器産業とDRAM混載のシステムLSIの開発で提携した
    • [191]1999年6月22日、台湾積体電路製造(TSMC)グループへDRAMの生産技術を有償で供与し、開発投資の負担軽減を図った
    • [192]1999年2月に東芝と富士通、6月末にNECと日立製作所がDRAMで提携。どちらの連合にも加わっていない三菱電機の長澤紘一取締役は「DRAM事業で新たな提携が必要になる可能性もある」と答えた
  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
    • [193]三菱電機の欧州の携帯電話生産は1996年に25万台、98年3月期62万台、99年3月期200万台、2000年3月期は前年の約3倍の約600万台
    • [194]国内の携帯電話の普及率は既に40%に達し、今後の需要は買い替え中心で年3000万〜3500万台の横ばいと予測された
    • [195]数十億円規模の赤字で撤退論もあった海外携帯電話事業の進退を任せるため、1996年7月に山中隆司がフランス法人のトップとして赴任した
    • [196]欧州の一般消費者の三菱電機に対する認知度は2%で、山中は三菱ブランドを捨て、現地社員の公募から生まれたトリウム(Trium)ブランドに切り替えた
    • [197]欧州の開発チームは96年まで30人だったが、2000年3月に250人となり、機種は1機種から6機種に増えた
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
    • [198]1999年10月、谷口社長は2002年3月期をゴールとする中期経営計画で、携帯電話の販売拡大とソリューション事業の強化などIT分野を核とする方針を示した
    • [200]谷口社長は資材原価・物流費などテーマ別に経費削減の17プロジェクトを立ち上げ、「3年間で1000億円の固定費削減」を1年前倒しして99年度中に実現する見込みとなった
    • [201]1999年10月発表の中期経営計画は2002年3月期をゴールとし、IT分野を核に売上高4兆円以上の企業に成長する目標を掲げた
    • [202]アナリストの間では、IT事業と収益源の重電・産業機械事業とのシナジーをどう上げて成長するかという全体像が見えず、ビジョンが見えないという不満が残った
    • [203]日立や東芝が分社化を進めたのと対照的に、三菱電機は組織改革に手を付けず、執行役員制の導入などガバナンス改革も行っていなかった

第5章 2001年〜 「Changes for the Better」とルネサス・TMEICの設立、委員会等設置会社への移行

2001年〜谷口一郎社長のChanges for the Betterと、野間口有社長が日立と設立したルネサス テクノロジ

業績回復を支えた携帯電話は、販売台数が2000年度の1850万台から2001年度に1050万台へ減った。2002年3月期の営業損益は、情報通信システム部門が902億円、電子デバイス部門が806億円の赤字だった。重電システム・産業メカトロニクス・家庭電器の3部門は、同じ期に332億〜466億円の営業黒字を確保した。三菱電機は2001年6月、コーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定した。社長の谷口一郎氏は2001年9月19日の会見で、収益の振れを克服して継続的に成長する方針を示した。後任の社長となった野間口有氏は、収益の振れを抑える策を社内で『山と谷の小さな』という表現で議論してきたと振り返った。将来像を問われた三菱電機は、成長より収益の振れの小ささを軸に選んだのだろう。

  • 日経ビジネス 2003年2月10日号
    • [204]携帯電話の販売台数は2000年度1850万台、2001年度1050万台、2002年度は540万台の見通し
    • [205]2002年3月期の営業損益は情報通信システム▲902億円、電子デバイス▲806億円
    • [206]2002年3月期の営業利益は重電システム466億円、産業メカトロニクス332億円、家庭電器372億円
    • [208]2001年9月19日の記者会見で社長の谷口一郎が、高いボラティリティーを克服し継続的な成長をする経営戦略を示した
    • [209]現社長の野間口有は、社内で収益のブレを小さくする策を「山と谷の小さな」という表現で話し合ってきたと振り返る
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [207]2001年6月にコーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定

野間口有氏の体制は、収益の振れが大きい半導体と携帯電話の負担を、他社と分け合う方針を取った。汎用DRAMは2003年3月、NECと日立製作所の共同出資会社エルピーダメモリへ営業譲渡した。システムLSIなど残る半導体は、同年4月に日立製作所と共同出資で設立したルネサス テクノロジへ移した。取締役の佐藤行弘氏は、研究開発と設備投資のリスク負担を大幅に軽減できると説明した。携帯電話では北米の販売子会社を2002年3月に閉鎖し、東芝とは第3世代携帯電話の開発で提携した。2003年10月には、東芝との共同出資で東芝三菱電機産業システムを設立した。重電でも一社で投資を抱えるより、競合と規模を合わせる判断が働いたとみられる。

  • 日経ビジネス 2003年2月10日号
    • [210]収益がばらつく半導体と携帯電話の負担を軽減するため、半導体は日立と統合し、携帯電話は東芝と提携
    • [211]汎用DRAMは2003年3月にNECと日立製作所の共同出資会社エルピーダメモリへ営業譲渡して撤退
    • [213]取締役の佐藤行弘は、ルネサスへの集約で研究開発や設備投資のリスク負担を大幅に軽減できると説明
    • [214]北米の携帯電話販売子会社を2002年3月に閉鎖し、東芝とは第3世代携帯電話で提携して開発費の負担を減らす
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [212]2003年4月に日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立
    • [215]2003年10月に東芝三菱電機産業システムを設立

1990年代後半、総合電機各社はカンパニー制や持株会社、執行役員制の導入を競い、時価総額の増大を図った。三菱電機は成長を経営目標の軸に据えず、これらの導入を社内で議論すらしなかった。副社長の万波健彦氏は、持株会社では子会社が自社の都合を主張し、シナジーを引き出しにくいと異を唱えた。ただし2002年度中間期の負債資本倍率は2.81倍で、日立製作所の1.21倍、東芝の2.69倍より重かった。三菱電機は2003年6月に委員会等設置会社へ移り、監督を取締役会、執行を執行役に分けた。1997年度末に1兆7,694億円あった借入金は、2006年度末に6,411億円まで減った。組織の形で市場に訴えず、監督の仕組みと財務の改善で評価を得る方針だったと推察される。

  • 日経ビジネス 2003年2月10日号
    • [216]各社はカンパニー制・持ち株会社・執行役員制などの導入を競い、将来の成長を分かりやすくして時価総額の増大を図った
    • [217]三菱電機は成長を経営目標の軸に据えず、カンパニー制・分社化・執行役員制の導入を内部で話し合ったこともなかった(副社長 万波健彦)
    • [218]副社長の万波健彦は、持ち株会社は子会社が自社の都合を言い始めればシナジー効果を引き出しづらいと異を唱えた
    • [219]2002年度中間期のデットエクイティレシオは2.81倍、日立1.21倍、東芝2.69倍
  • 三菱電機 アニュアルレポート2007
    • [220]2003年6月に委員会等設置会社へ移行し、経営の監督は取締役会、執行は執行役が担う体制とした
    • [221]1997年度末に1兆7,694億円あった借入金は2006年度末に6,411億円、借入金比率は40.6%から18.6%へ
参考文献[204]-[221]
  • 日経ビジネス 2003年2月10日号
    • [204]携帯電話の販売台数は2000年度1850万台、2001年度1050万台、2002年度は540万台の見通し
    • [205]2002年3月期の営業損益は情報通信システム▲902億円、電子デバイス▲806億円
    • [206]2002年3月期の営業利益は重電システム466億円、産業メカトロニクス332億円、家庭電器372億円
    • [208]2001年9月19日の記者会見で社長の谷口一郎が、高いボラティリティーを克服し継続的な成長をする経営戦略を示した
    • [209]現社長の野間口有は、社内で収益のブレを小さくする策を「山と谷の小さな」という表現で話し合ってきたと振り返る
    • [210]収益がばらつく半導体と携帯電話の負担を軽減するため、半導体は日立と統合し、携帯電話は東芝と提携
    • [211]汎用DRAMは2003年3月にNECと日立製作所の共同出資会社エルピーダメモリへ営業譲渡して撤退
    • [213]取締役の佐藤行弘は、ルネサスへの集約で研究開発や設備投資のリスク負担を大幅に軽減できると説明
    • [214]北米の携帯電話販売子会社を2002年3月に閉鎖し、東芝とは第3世代携帯電話で提携して開発費の負担を減らす
    • [216]各社はカンパニー制・持ち株会社・執行役員制などの導入を競い、将来の成長を分かりやすくして時価総額の増大を図った
    • [217]三菱電機は成長を経営目標の軸に据えず、カンパニー制・分社化・執行役員制の導入を内部で話し合ったこともなかった(副社長 万波健彦)
    • [218]副社長の万波健彦は、持ち株会社は子会社が自社の都合を言い始めればシナジー効果を引き出しづらいと異を唱えた
    • [219]2002年度中間期のデットエクイティレシオは2.81倍、日立1.21倍、東芝2.69倍
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [207]2001年6月にコーポレートステートメント「Changes for the Better」を制定
    • [212]2003年4月に日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立
    • [215]2003年10月に東芝三菱電機産業システムを設立
  • 三菱電機 アニュアルレポート2007
    • [220]2003年6月に委員会等設置会社へ移行し、経営の監督は取締役会、執行は執行役が担う体制とした
    • [221]1997年度末に1兆7,694億円あった借入金は2006年度末に6,411億円、借入金比率は40.6%から18.6%へ

2006年〜下村節宏社長が退いた携帯電話端末と、山西健一郎社長の成長戦略

下村節宏氏は2006年4月、執行役社長に就任した。下村節宏氏の体制は『強い事業をより強く』を成長戦略の核とし、電力システムや昇降機、FA機器、空調・住設機器などを強い事業に挙げた。2007年7月の年報は、携帯電話端末で他社との開発協業が成果を上げていると報告した。1年後の年報は、2007年度に携帯電話端末事業を終息させ、その経営資源を注力事業へ移したと記した。目的は、強い事業の視点に立った収益性の改善と強化だった。2007年度の営業利益率は6.6%で、経営目標の5%以上を2年続けて上回った。強い事業の利益が積み上がったことが、携帯電話から撤退する判断を支えたと考えられる。

  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [222]2006年4月に下村節宏が執行役社長に就任
  • 三菱電機 アニュアルレポート2007
    • [223]VI戦略は強い事業をより強くする戦略。強い事業の例は電力システム・昇降機・FA/メカトロ機器・自動車用電装品・人工衛星・空調・住設機器など
    • [224]携帯電話端末事業では他社との開発協業などで開発の効率化を進め、順調に成果を上げている(2007年7月)
  • 三菱電機 アニュアルレポート2008
    • [225]2007年度に携帯電話端末事業の終息とその経営資源の注力事業への戦略的シフトなどの構造改革に取り組んだ
    • [226]携帯電話端末事業の終息は「強い事業をより強く」の視点を踏まえた収益性改善・強化に向けた施策
    • [227]2007年度の営業利益は2,672億円、営業利益率6.6%で2年連続で経営目標(5%以上)を達成

山西健一郎氏は2010年4月、執行役社長に就任した。2010年度は新興国を中心に世界の景気が回復し、山西健一郎氏の体制は『自らの強みに根ざした成長戦略の推進に、従来以上に軸足を置いて』取り組んだ。電力、交通、ビル、FA、自動車機器、宇宙、パワーデバイス、空調、太陽光発電の9事業を、成長を期待する事業群に指定した。中国にはFAシステムや自動車機器の製造会社、インドとベトナムには販売拠点を設けた。インドでは2010年9月に三菱電機インド社を設立し、重電システムや産業メカトロニクスを核に市場を開拓すると定めた。2010年度の営業利益は前年度の2.5倍の2,338億円となった。景気の回復局面で、成長の源泉を国内から新興国へ移す判断だったと読める。

  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [228]2010年4月に山西健一郎が執行役社長に就任
  • 三菱電機 アニュアルレポート2011
    • [229]2010年度は新興国を中心とした世界的な景気回復の中、自らの強みに根ざした成長戦略の推進に従来以上に軸足を置いて取り組んだ
    • [230]特に成長を期待する事業群は電力システム・交通システム・ビルシステム・FAシステム・自動車機器・宇宙システム・パワーデバイス・空調システム・太陽光発電システム
    • [231]事業規模の拡大が著しい市場に対応する製造会社(中国:FAシステム、自動車機器など)や新市場開拓に向けた販売拠点(インド、ベトナム)を設立
    • [232]2010年9月に三菱電機インド社を設立。インド市場では重電システムや産業メカトロニクスなどグローバルに強い事業を核に成長市場を開拓する
    • [233]2010年度の売上高は3兆6,453億円、営業利益は2.5倍の2,338億円(営業利益率6.4%)

三菱電機は2009年9月30日、持分法で評価していたルネサス テクノロジの株式を、公正価値の64,237百万円まで減損した。ルネサス テクノロジは2010年4月1日にNECエレクトロニクスと合併し、ルネサス エレクトロニクスとなった。三菱電機は合併と同時の第三者割当増資134,600百万円のうち、35,235百万円を引き受けた。2013年9月30日の第三者割当増資で、三菱電機の議決権比率は25.05%から6.27%に下がった。三菱電機はこれを機に、ルネサス エレクトロニクスを持分法の対象から外した。社内に残した半導体ではパワーデバイスを成長事業に指定し、2010年11月にVincotech社を買収した。三菱電機は半導体への関与を、電力を制御する素子へ寄せていったとみられる。

  • 三菱電機 アニュアルレポート2011
    • [234]2009年9月30日において持分法で評価しているルネサス テクノロジの持分証券を公正価値の64,237百万円まで減損
    • [235]ルネサス テクノロジは2010年4月1日付でNECエレクトロニクスと合併し、ルネサス エレクトロニクスが発足
    • [236]合併の効力発生日に総額134,600百万円の第三者割当増資が実施され、当社は35,235百万円を引き受けた
    • [239]パワーデバイスを特に成長を期待する事業群とし、2010年11月にパワーデバイス事業のVincotech社を買収
  • 三菱電機 アニュアルレポート2014
    • [237]ルネサスが2013年9月30日付で第三者割当増資を実施し、当社の議決権所有割合は25.05%から6.27%に低下
    • [238]所有割合の低下に伴い、ルネサスを持分法適用関連会社から除外
参考文献[222]-[239]
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [222]2006年4月に下村節宏が執行役社長に就任
    • [228]2010年4月に山西健一郎が執行役社長に就任
  • 三菱電機 アニュアルレポート2007
    • [223]VI戦略は強い事業をより強くする戦略。強い事業の例は電力システム・昇降機・FA/メカトロ機器・自動車用電装品・人工衛星・空調・住設機器など
    • [224]携帯電話端末事業では他社との開発協業などで開発の効率化を進め、順調に成果を上げている(2007年7月)
  • 三菱電機 アニュアルレポート2008
    • [225]2007年度に携帯電話端末事業の終息とその経営資源の注力事業への戦略的シフトなどの構造改革に取り組んだ
    • [226]携帯電話端末事業の終息は「強い事業をより強く」の視点を踏まえた収益性改善・強化に向けた施策
    • [227]2007年度の営業利益は2,672億円、営業利益率6.6%で2年連続で経営目標(5%以上)を達成
  • 三菱電機 アニュアルレポート2011
    • [229]2010年度は新興国を中心とした世界的な景気回復の中、自らの強みに根ざした成長戦略の推進に従来以上に軸足を置いて取り組んだ
    • [230]特に成長を期待する事業群は電力システム・交通システム・ビルシステム・FAシステム・自動車機器・宇宙システム・パワーデバイス・空調システム・太陽光発電システム
    • [231]事業規模の拡大が著しい市場に対応する製造会社(中国:FAシステム、自動車機器など)や新市場開拓に向けた販売拠点(インド、ベトナム)を設立
    • [232]2010年9月に三菱電機インド社を設立。インド市場では重電システムや産業メカトロニクスなどグローバルに強い事業を核に成長市場を開拓する
    • [233]2010年度の売上高は3兆6,453億円、営業利益は2.5倍の2,338億円(営業利益率6.4%)
    • [234]2009年9月30日において持分法で評価しているルネサス テクノロジの持分証券を公正価値の64,237百万円まで減損
    • [235]ルネサス テクノロジは2010年4月1日付でNECエレクトロニクスと合併し、ルネサス エレクトロニクスが発足
    • [236]合併の効力発生日に総額134,600百万円の第三者割当増資が実施され、当社は35,235百万円を引き受けた
    • [239]パワーデバイスを特に成長を期待する事業群とし、2010年11月にパワーデバイス事業のVincotech社を買収
  • 三菱電機 アニュアルレポート2014
    • [237]ルネサスが2013年9月30日付で第三者割当増資を実施し、当社の議決権所有割合は25.05%から6.27%に低下
    • [238]所有割合の低下に伴い、ルネサスを持分法適用関連会社から除外

2014年〜柵山正樹社長のデルクリマ買収と、売上高5兆円を掲げた成長目標

柵山正樹氏は2014年4月、執行役社長に就任した。三菱電機は2014年度、2020年度までに連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上とする成長目標を掲げた。起点とした2013年度の実績は売上高4兆543億円、営業利益2,351億円、営業利益率5.8%だった。2014年7月の年報は、もう一段高い成長に向けて倫理・遵法を徹底して強化し、経営基盤を再構築すると記した。翌年の年報で柵山正樹氏は、欧米と中国の事業力を強化し、インド・東南アジア・中南米で需要を獲得する方針を示した。2014年度の営業利益率は7.3%となり、目標との差は0.7ポイントに縮まった。

  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [240]2014年4月に柵山正樹が執行役社長に就任
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年6月)
    • [241]2014年度に掲げた2020年度成長目標は売上高5兆円以上・営業利益率8%以上
  • 三菱電機 アニュアルレポート2014
    • [242]2013年度の売上高は4兆543億円、営業利益は2,351億円(営業利益率5.8%)
    • [243]もう一段高い成長の実現を目指すにあたり、健全性、特に倫理・遵法を徹底的に強化し、より強固な経営基盤を再構築したうえで成長戦略を推進する
  • 三菱電機 アニュアルレポート2015
    • [244]欧米や中国における事業力を強化し、インド・東南アジア・中南米などの成長市場における需要獲得に注力する(執行役社長 柵山正樹、2015年7月)
    • [245]2014年度の売上高は4兆3,230億円、営業利益は3,176億円(営業利益率7.3%)

柵山正樹氏の体制は、成長目標の実現に向けて協業やM&Aにも取り組むと定めた。視点は、不足する製品群や技術領域の補完、新地域での販売・サービス網の確保、新規顧客層の獲得の3つだった。三菱電機は2015年12月23日、欧州の空調事業の拡大を目的に、イタリアの業務用空調会社デルクリマの株式約74.97%を取得した。売り手はデロンギ・インダストリアルで、取得額は508百万ユーロ(67,141百万円)だった。残る約25.03%には公開買付けを行った。三菱電機は2016年2月、デルクリマを完全子会社とした。買収は、欧州で手薄だった業務用空調の製品群を補う手段と位置づけられていたと見てよい。

  • 三菱電機 アニュアルレポート2016
    • [246]2020年度までに達成すべき成長目標の実現に向け、成長に資する協業やM&Aにも積極的に取り組む
    • [247]M&Aの視点は、事業拡大に向けて不足している製品群や技術領域等の補完、新地域・新市場進出に際しての販売網・サービス網の確保、事業基盤強化に向けた新規顧客層の獲得
    • [248]2015年12月23日、欧州市場における空調事業拡大を目的に、イタリアの業務用空調事業会社(旧デルクリマ社)の発行済株式の約74.97%を取得
    • [249]株式はデロンギインダストリアル社から508百万ユーロ(67,141百万円)で取得
    • [250]残り約25.03%の株式に公開買付けを行い、2016年3月31日時点で完全子会社
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [251]2016年2月にデルクリマ社を完全子会社化

杉山武史氏は2018年4月、執行役社長に就任した。2019年7月の年報でも、『2020年度成長目標(連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上)の達成とその後の成長持続に向け』取り組むと記した。2020年6月の経営戦略は、2020年度の見通しを売上高4.1兆円、営業利益率2.9%とし、目標を下回るとした。FAとパワーデバイスでの米中貿易摩擦などによる需要停滞に加え、『市場環境変化への対応不足など反省すべき項目あり』と総括した。2019年度には、労務問題や品質の不適切行為が明らかになった。2020年11月の経営戦略は、不採算事業の見極めとエンゲージメントサーベイを指標にした風土改革を掲げた。三菱電機は成長目標を下ろした時点で、働き方と組織風土の問題を解消できていなかったとうかがえる。

  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [252]2018年4月に杉山武史が執行役社長に就任
  • 三菱電機 アニュアルレポート2019
    • [253]執行役社長 杉山武史は2019年7月、2020年度成長目標(連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上)の達成とその後の成長持続に向け各種施策に取り組むとした
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年6月)
    • [254]2020年度の業績見通しは売上高4.1兆円・営業利益率2.9%で、2014年度に掲げた2020年度成長目標を下回る見込み
    • [255]FA・パワーデバイスのマイナス要因は米中貿易摩擦等による需要伸長の停滞。外部要因の一方で市場環境変化への対応不足など反省すべき項目あり
  • 三菱電機 アニュアルレポート2020
    • [256]2019年度、労務問題や品質不適切行為及び不正アクセスによる情報流出の可能性などの課題が明らかになった
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年11月)
    • [257]2025年度を目標とする新中期経営計画に向け、不採算・低収益事業の見極めと経営資源の再配分、エンゲージメントサーベイを風土の指標とした風土改革を掲げる
参考文献[240]-[257]
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
    • [240]2014年4月に柵山正樹が執行役社長に就任
    • [251]2016年2月にデルクリマ社を完全子会社化
    • [252]2018年4月に杉山武史が執行役社長に就任
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年6月)
    • [241]2014年度に掲げた2020年度成長目標は売上高5兆円以上・営業利益率8%以上
    • [254]2020年度の業績見通しは売上高4.1兆円・営業利益率2.9%で、2014年度に掲げた2020年度成長目標を下回る見込み
    • [255]FA・パワーデバイスのマイナス要因は米中貿易摩擦等による需要伸長の停滞。外部要因の一方で市場環境変化への対応不足など反省すべき項目あり
  • 三菱電機 アニュアルレポート2014
    • [242]2013年度の売上高は4兆543億円、営業利益は2,351億円(営業利益率5.8%)
    • [243]もう一段高い成長の実現を目指すにあたり、健全性、特に倫理・遵法を徹底的に強化し、より強固な経営基盤を再構築したうえで成長戦略を推進する
  • 三菱電機 アニュアルレポート2015
    • [244]欧米や中国における事業力を強化し、インド・東南アジア・中南米などの成長市場における需要獲得に注力する(執行役社長 柵山正樹、2015年7月)
    • [245]2014年度の売上高は4兆3,230億円、営業利益は3,176億円(営業利益率7.3%)
  • 三菱電機 アニュアルレポート2016
    • [246]2020年度までに達成すべき成長目標の実現に向け、成長に資する協業やM&Aにも積極的に取り組む
    • [247]M&Aの視点は、事業拡大に向けて不足している製品群や技術領域等の補完、新地域・新市場進出に際しての販売網・サービス網の確保、事業基盤強化に向けた新規顧客層の獲得
    • [248]2015年12月23日、欧州市場における空調事業拡大を目的に、イタリアの業務用空調事業会社(旧デルクリマ社)の発行済株式の約74.97%を取得
    • [249]株式はデロンギインダストリアル社から508百万ユーロ(67,141百万円)で取得
    • [250]残り約25.03%の株式に公開買付けを行い、2016年3月31日時点で完全子会社
  • 三菱電機 アニュアルレポート2019
    • [253]執行役社長 杉山武史は2019年7月、2020年度成長目標(連結売上高5兆円以上、営業利益率8%以上)の達成とその後の成長持続に向け各種施策に取り組むとした
  • 三菱電機 アニュアルレポート2020
    • [256]2019年度、労務問題や品質不適切行為及び不正アクセスによる情報流出の可能性などの課題が明らかになった
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年11月)
    • [257]2025年度を目標とする新中期経営計画に向け、不採算・低収益事業の見極めと経営資源の再配分、エンゲージメントサーベイを風土の指標とした風土改革を掲げる

第6章 2021年〜 鉄道空調の品質不正と漆間啓体制、三菱電機モビリティの分社

2021年〜長崎製作所の鉄道空調の不正と、漆間啓社長の3つの改革

2021年6月、長崎製作所の鉄道車両用空調装置等で、購入仕様書と異なる検査や検査の不実施が明らかになった。同じ時期に名古屋製作所可児工場でも、電磁開閉器の第三者認証への不適合が判明した。三菱電機は社長を室長とする緊急対策室を設け、外部専門家で構成する調査委員会に調査を委嘱した。社長の杉山武史氏は2021年7月に引責辞任し、同月28日に専務の漆間啓氏が執行役社長CEOに就任した。調査の対象は、長崎と可児にとどまらず全22製作所と関係会社へ広げられた。成長目標を下ろしながら働き方と組織風土の問題を抱えていた前の代の課題が、品質の不正として顕在化したとみられる。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第151期(2022年3月期)
    • [258]長崎製作所の鉄道車両用空調装置等で、購入仕様書と異なる検査・検査不実施・検査成績書への不適切記載が2021年6月に判明
    • [261]杉山武史社長が2021年7月に引責辞任し、同月28日に専務の漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2021年11月12日)
    • [259]名古屋製作所可児工場で電磁開閉器の第三者認証不適合、長崎製作所で鉄道車両用空調装置等の不適切検査が判明
    • [260]社長を室長とする緊急対策室を立ち上げ、外部専門家で構成する調査委員会に品質の調査を委嘱
    • [262]調査委員会による調査は全22製作所等と関係会社へ継続

調査委員会が示した8項目の提言は、製作所や工場への強い帰属意識や、事業本部制を前提にした対策にまで及んでいた。このため漆間啓氏は、品質部門だけの問題として扱わず、品質風土・組織風土・ガバナンスの3分野を急いで改める対象に据えた。2021年10月に固まった改革案を受け、漆間啓氏は翌月の経営戦略に『改革の成功無くして会社の存続もない』と記した。品質面の中核は社長直轄の品質改革推進本部の設置と、2年間で300億円を充てる品質インフラ投資枠であり、組織風土の面ではチーム創生と名づけた全社変革プロジェクトを始めて人事制度の見直しに入った。進み具合を監督するため、2022年12月に取締役会のもとへ3つの改革モニタリング委員会が設けられた。

  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2021年11月12日)
    • [263]調査委員会の提言8項目に「製作所や工場への強い帰属意識への対処」「事業本部制を前提とした対策」「経営の本気度」を含む
    • [264]漆間社長は品質風土・組織風土・ガバナンスの3分野での改革が急務と表明
    • [266]品質改革推進本部を社長直轄で設立し、2年間で300億円の品質インフラ投資枠を確保
    • [267]組織風土変革として全社変革プロジェクト「チーム創生」を立ち上げ、人事制度を刷新
  • 三菱電機「当社が進める3つの改革の進捗について」(2023年4月14日)
    • [265]3つの改革(品質風土・組織風土・ガバナンス)を2021年10月に策定
    • [268]2022年12月、取締役会のもとに3つの改革モニタリング委員会を発足

2022年4月、三菱電機は各事業本部を4つのビジネスエリアに割り当て、それぞれにビジネスエリアオーナーを置いた。4つはインフラ、インダストリー・モビリティ、ライフ、ビジネスプラットフォームで、9つの事業本部がその下に並んだ。漆間啓氏は後年、発足当初のオーナーの役割を不採算事業の撤退判断、エリア内の人財流動化、事業本部間の連携加速と説明した。事業は重点成長・レジリエント・価値再獲得・課題の4区分に分け、一定基準を下回る低収益事業を売却・撤退の検討対象とした。京都製作所では液晶テレビ事業の縮小と業務用プリンター事業の終息を決め、経営資源を空調冷熱システムへ移した。ビジネスエリアは、調査委員会が指摘した事業本部制の課題に組織面で応える仕組みでもあったのだろう。

  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2022年5月30日)
    • [269]2022年度より各事業本部を4つのビジネスエリアに割り当て、ビジネスエリアオーナーを設置
    • [270]4BA(インフラ/インダストリー・モビリティ/ライフ/ビジネスプラットフォーム)の下に事業本部を配置
    • [272]事業を重点成長・レジリエント・価値再獲得・課題事業に区分し、一定基準を下回る低収益事業は売却・撤退を検討
    • [273]液晶テレビ事業の縮小(2021年11月発表)、業務用プリンター事業の終息など京都製作所事業を見直し、資源を空調冷熱システム事業へシフト
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
    • [271]BA制度発足当初のオーナーの役割は不採算事業の撤退判断、BA内の人財流動化、事業本部間の連携加速が中心(漆間)
参考文献[258]-[273]
  • 三菱電機 有価証券報告書 第151期(2022年3月期)
    • [258]長崎製作所の鉄道車両用空調装置等で、購入仕様書と異なる検査・検査不実施・検査成績書への不適切記載が2021年6月に判明
    • [261]杉山武史社長が2021年7月に引責辞任し、同月28日に専務の漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2021年11月12日)
    • [259]名古屋製作所可児工場で電磁開閉器の第三者認証不適合、長崎製作所で鉄道車両用空調装置等の不適切検査が判明
    • [260]社長を室長とする緊急対策室を立ち上げ、外部専門家で構成する調査委員会に品質の調査を委嘱
    • [262]調査委員会による調査は全22製作所等と関係会社へ継続
    • [263]調査委員会の提言8項目に「製作所や工場への強い帰属意識への対処」「事業本部制を前提とした対策」「経営の本気度」を含む
    • [264]漆間社長は品質風土・組織風土・ガバナンスの3分野での改革が急務と表明
    • [266]品質改革推進本部を社長直轄で設立し、2年間で300億円の品質インフラ投資枠を確保
    • [267]組織風土変革として全社変革プロジェクト「チーム創生」を立ち上げ、人事制度を刷新
  • 三菱電機「当社が進める3つの改革の進捗について」(2023年4月14日)
    • [265]3つの改革(品質風土・組織風土・ガバナンス)を2021年10月に策定
    • [268]2022年12月、取締役会のもとに3つの改革モニタリング委員会を発足
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2022年5月30日)
    • [269]2022年度より各事業本部を4つのビジネスエリアに割り当て、ビジネスエリアオーナーを設置
    • [270]4BA(インフラ/インダストリー・モビリティ/ライフ/ビジネスプラットフォーム)の下に事業本部を配置
    • [272]事業を重点成長・レジリエント・価値再獲得・課題事業に区分し、一定基準を下回る低収益事業は売却・撤退を検討
    • [273]液晶テレビ事業の縮小(2021年11月発表)、業務用プリンター事業の終息など京都製作所事業を見直し、資源を空調冷熱システム事業へシフト
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
    • [271]BA制度発足当初のオーナーの役割は不採算事業の撤退判断、BA内の人財流動化、事業本部間の連携加速が中心(漆間)

2023年〜4つのビジネスエリアと、三菱電機モビリティの分社

2024年4月1日、三菱電機は自動車機器事業を会社分割で切り出し、三菱電機モビリティを設立した。自動車業界では電動化をはじめ大きな投資が要り、会社側は社外のパートナーとの連携で事業を立て直す方針を取った。新会社は事業ごとの責任の所在をはっきりさせ、提携の実行、注力分野の選別、課題事業の終息を速めるためのものだと、2024年5月に説明された。アイシンとは次世代電動車向け製品の合弁会社をつくることで基本合意していたが、同年10月までに形を業務提携に改め、その際に会社側は、自動車機器事業にとって最適な体制を、どの選択肢も除外しないまま探り続けると述べた。提携先ごとに事業を切り出せる単位を用意する意味が分社にはあり、それが2026年の鴻海精密工業との協業検討につながったと推察される。

  • 三菱電機 有価証券報告書
    • [274]2024年4月、自動車機器事業を分社化し三菱電機モビリティを設立
  • 三菱電機「2025年3月期 第2四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2024年10月31日)
    • [275]自動車業界は電動化をはじめ大きな投資が必要で、パートナー戦略に変更はない(会社側)
    • [278]アイシンとの合弁の基本合意を業務提携へ変更。最適な体制はすべての可能性を排除せずに検討(会社側)
  • 三菱電機 事業戦略説明会資料「インダストリー・モビリティビジネスエリア」(2024年5月29日)
    • [276]新会社で各事業の責任体制を明確化し、パートナー戦略実行・注力分野の絞り込み・終息スキーム確定を推進
    • [277]アイシンと次世代電動車向け製品に関する合弁会社設立に基本合意(2024年5月時点)

三菱電機は2022年5月、パワーデバイスのウエハ生産能力を2025年度までに2020年度比で約2倍に増やす計画を示した。自動車・民生分野でパワー半導体の需要が増えていたためであり、福山工場に8インチラインを設け、12インチラインの構築にも着手した。電気自動車から再生可能エネルギー機器まで、電力を変換するモジュールの需要は広がると見込まれていた。これを受けて会社は2024年11月、約100億円で福岡地区にモジュールの組立・検査を担う新工場棟を建て、2026年10月に稼働させると発表したが、2025年2月には、投資額が巨額になるなら『独力で全てを行うことは現実的ではない』との考えも示した。

  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2022年5月30日)
    • [279]ウエハ生産能力を2025年度までに2020年度比約2倍に増強
    • [280]自動車・民生分野の旺盛な需要に対応し、福山工場に8インチラインを構築、12インチラインの構築にも着手
  • 三菱電機 ニュースリリース「パワーデバイス製作所 福岡地区に新工場棟を建設」(2024年11月20日)
    • [281]パワー半導体モジュールは電気自動車・民生・産業・再エネ・電鉄で使われ市場拡大が予測される
    • [282]約100億円を投資しパワーデバイス製作所福岡地区にモジュール組立・検査工程の新工場棟を建設、2026年10月稼働予定
  • 三菱電機「2025年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2025年2月4日)
    • [283]投資が巨額になる場合は独力は非現実的、国内外の協業も視野(会社側)

連結売上高は2023年3月期の5兆36億円から2024年3月期に5兆2579億円へ、営業利益は2624億円から3285億円へ増えた。漆間啓氏は統合報告書2024で、売上高と営業利益がともに過去最高を更新したと報告した。ただFAシステム事業と空調・家電事業の環境は、2021年度の計画策定時の想定より悪化していた。このため三菱電機は2025年度の財務目標のうち、営業利益率を8%以上、ROEを9%へ見直した。空調・家電は北米の売上構成比が上がり、2024年度第2四半期の営業利益が前四半期の倍になったが、欧州は不調であった。2024年度の営業利益率目標7.4%にはMDロジスの一部株式譲渡益約240億円が含まれ、会社側は翌年度に実力値で8%へ上げる必要を認めた。

  • 三菱電機 有価証券報告書(2023年3月期・2024年3月期)
    • [284]連結売上高 50036億円→52579億円、営業利益 2624億円→3285億円(IFRS)
  • 三菱電機「統合報告書2024」 社長メッセージ
    • [285]2023年度は売上高・営業利益ともに過去最高を更新
    • [286]FAシステム事業と空調・家電事業の事業環境が2021年度の中計策定時の想定から悪化
    • [287]2025年度財務目標の営業利益率を8%以上、ROEを9%に見直し
  • 三菱電機「2025年3月期 第2四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2024年10月31日)
    • [288]空調・家電のQoQ営業利益倍増は北米の売上構成比上昇による。欧州は不調
  • 三菱電機「2025年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2025年2月4日)
    • [289]24年度の営業利益率目標7.4%にはMDロジス一部株式譲渡益約240億円を含み、来年度は実力値で8%へ引き上げる必要
参考文献[274]-[289]
  • 三菱電機 有価証券報告書
    • [274]2024年4月、自動車機器事業を分社化し三菱電機モビリティを設立
  • 三菱電機「2025年3月期 第2四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2024年10月31日)
    • [275]自動車業界は電動化をはじめ大きな投資が必要で、パートナー戦略に変更はない(会社側)
    • [278]アイシンとの合弁の基本合意を業務提携へ変更。最適な体制はすべての可能性を排除せずに検討(会社側)
    • [288]空調・家電のQoQ営業利益倍増は北米の売上構成比上昇による。欧州は不調
  • 三菱電機 事業戦略説明会資料「インダストリー・モビリティビジネスエリア」(2024年5月29日)
    • [276]新会社で各事業の責任体制を明確化し、パートナー戦略実行・注力分野の絞り込み・終息スキーム確定を推進
    • [277]アイシンと次世代電動車向け製品に関する合弁会社設立に基本合意(2024年5月時点)
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2022年5月30日)
    • [279]ウエハ生産能力を2025年度までに2020年度比約2倍に増強
    • [280]自動車・民生分野の旺盛な需要に対応し、福山工場に8インチラインを構築、12インチラインの構築にも着手
  • 三菱電機 ニュースリリース「パワーデバイス製作所 福岡地区に新工場棟を建設」(2024年11月20日)
    • [281]パワー半導体モジュールは電気自動車・民生・産業・再エネ・電鉄で使われ市場拡大が予測される
    • [282]約100億円を投資しパワーデバイス製作所福岡地区にモジュール組立・検査工程の新工場棟を建設、2026年10月稼働予定
  • 三菱電機「2025年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2025年2月4日)
    • [283]投資が巨額になる場合は独力は非現実的、国内外の協業も視野(会社側)
    • [289]24年度の営業利益率目標7.4%にはMDロジス一部株式譲渡益約240億円を含み、来年度は実力値で8%へ引き上げる必要
  • 三菱電機 有価証券報告書(2023年3月期・2024年3月期)
    • [284]連結売上高 50036億円→52579億円、営業利益 2624億円→3285億円(IFRS)
  • 三菱電機「統合報告書2024」 社長メッセージ
    • [285]2023年度は売上高・営業利益ともに過去最高を更新
    • [286]FAシステム事業と空調・家電事業の事業環境が2021年度の中計策定時の想定から悪化
    • [287]2025年度財務目標の営業利益率を8%以上、ROEを9%に見直し

2025年〜Serendieのデジタル基盤と、ネクストステージ支援制度に応じた2,378人

事業間の差を埋める共通基盤として、三菱電機はデジタル基盤Serendieを新たに構築した。漆間啓氏は、交通・電力・FA・ビル・空調が事業ごとに別のプラットフォームでデータを使い、事業間の連携が不十分だった点を課題に挙げた。Serendie関連事業の2025年度売上高は約6,800億円の見込みにとどまり、FAのコンポーネントが減ったことで当初の計画を下回った。目標は2030年度に売上高1.1兆円、営業利益率23%である。加賀邦彦氏は、従来のソリューションが『コンポーネント中心の発想に留まってしまっていた』と認め、2026年5月には、買収したNozomi NetworksのOTセキュリティのソフトをPLCやサーボに順に搭載していく方針を打ち出した。

  • 三菱電機「統合報告書2024」 社長メッセージ
    • [290]事業間の壁を打破するデジタル基盤としてSerendieを新たに構築
    • [291]交通・電力・FA・ビル・空調など事業ごとに最適化された個別プラットフォームで、事業間の連携が不十分だった
    • [293]Serendie関連事業で2030年度に売上高1.1兆円・営業利益率23%を目指す
  • 三菱電機「IR Day 2025 質疑応答要旨」(2025年5月28日)
    • [292]Serendie関連事業の25年度売上高は約6,800億円見込み、FAのコンポーネント減で当初計画を下回る(武田)
    • [294]これまでのソリューション創出はコンポーネント中心の発想に留まっていた(加賀)
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
    • [295]買収したNozomi Networks社のソフトをPLC・NC・サーボ等に順次導入(漆間)

2025年5月のIR Dayで漆間啓氏は、これまでを『大きなリスクを取らずオーガニックな成長をしてきた』と総括し、1.9兆円ある価値再獲得事業のうち0.3兆円について終息を決め、残る0.8兆円は2025年度中に結論を出すとした。営業利益率を間接費用の最適化で1ポイント押し上げる目標も掲げられ、その中核となったのがネクストステージ支援制度特別措置である。2025年12月末までに三菱電機単独で2,378人が応募し、CFOの藤本健一郎氏は対象の20%を超えたと説明した。費用は2026年3月期第3四半期に743億円を計上し、第4四半期の約260億円と合わせて約1,000億円を見込んだ。狙いは、年齢の高い社員に再就職の選択肢を示し、若い層に昇進の機会を与えることにあった。

  • 三菱電機「IR Day 2025 質疑応答要旨」(2025年5月28日)
    • [296]大きなリスクを取らずオーガニックな成長をしてきたが、抜本的な事業構造の見直しが必要(漆間)
    • [297]価値再獲得事業1.9兆円のうち0.3兆円は終息を意思決定済、0.8兆円は25年度中に終息・継続を判断(漆間)
  • 三菱電機「2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2026年2月3日)
    • [298]ネクストステージ支援制度特別措置はIR Day 2025で示した間接費用最適化による営業利益率1pt改善の重要な要素
    • [299]三菱電機単独で2,378人が応募し、20%を超える応募(藤本)
    • [300]第3四半期に743億円(12月末までの応募実績)を計上、第4四半期に約260億円、合計約1,000億円の見込み
    • [301]施策の狙いは年齢の高い社員に新たな仕事の選択肢と再就職支援、若い層にプロモーションの機会を提供

2026年3月27日、三菱電機はローム・東芝らと、パワーデバイス事業の統合協議に向けた基本合意書を結んだ。対象はロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業で、2024年3月から続いていた両社の協議に三菱電機が加わった。世界市場で競争し得る事業規模と技術基盤を得ることが、合意の理由として示された。漆間啓氏は5月の説明で、国内の半導体メーカーが各社で開発投資を重ねている現状を挙げ、3社一体で開発効率を上げる考えを示した。漆間啓氏は、車載向けで『中国企業に対抗できなければ3社統合の意義が損なわれる』とも述べた。同じ日に示した新中期経営戦略は2030年度に調整後営業利益率12%+とROE12%を掲げたが、統合の影響は計画に含めていない。

  • 三菱電機「三菱電機のパワーデバイス事業、ロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業との事業・経営統合に関する協議開始に向けた基本合意書の締結に関するお知らせ」(2026年3月27日)
    • [302]2026年3月27日、ローム・東芝・JIPらとパワーデバイス事業等の事業・経営統合に関する協議開始に向けた基本合意書を締結
    • [303]ロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業の提携協議(2024年3月29日提案)に三菱電機が加わる
    • [304]世界市場で競争し得る事業規模や技術基盤の実現を目的に合意
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
    • [305]日本の半導体メーカーは数が多く開発投資を各社で実施。3社一体で開発効率を上げる(漆間)
    • [306]車載向けで中国企業に対抗できなければ3社統合の意義が損なわれる(漆間)
    • [307]30年度の調整後営業利益率12%+・ROE12%。統合の影響は計画に含まない
参考文献[290]-[307]
  • 三菱電機「統合報告書2024」 社長メッセージ
    • [290]事業間の壁を打破するデジタル基盤としてSerendieを新たに構築
    • [291]交通・電力・FA・ビル・空調など事業ごとに最適化された個別プラットフォームで、事業間の連携が不十分だった
    • [293]Serendie関連事業で2030年度に売上高1.1兆円・営業利益率23%を目指す
  • 三菱電機「IR Day 2025 質疑応答要旨」(2025年5月28日)
    • [292]Serendie関連事業の25年度売上高は約6,800億円見込み、FAのコンポーネント減で当初計画を下回る(武田)
    • [294]これまでのソリューション創出はコンポーネント中心の発想に留まっていた(加賀)
    • [296]大きなリスクを取らずオーガニックな成長をしてきたが、抜本的な事業構造の見直しが必要(漆間)
    • [297]価値再獲得事業1.9兆円のうち0.3兆円は終息を意思決定済、0.8兆円は25年度中に終息・継続を判断(漆間)
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
    • [295]買収したNozomi Networks社のソフトをPLC・NC・サーボ等に順次導入(漆間)
    • [305]日本の半導体メーカーは数が多く開発投資を各社で実施。3社一体で開発効率を上げる(漆間)
    • [306]車載向けで中国企業に対抗できなければ3社統合の意義が損なわれる(漆間)
    • [307]30年度の調整後営業利益率12%+・ROE12%。統合の影響は計画に含まない
  • 三菱電機「2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2026年2月3日)
    • [298]ネクストステージ支援制度特別措置はIR Day 2025で示した間接費用最適化による営業利益率1pt改善の重要な要素
    • [299]三菱電機単独で2,378人が応募し、20%を超える応募(藤本)
    • [300]第3四半期に743億円(12月末までの応募実績)を計上、第4四半期に約260億円、合計約1,000億円の見込み
    • [301]施策の狙いは年齢の高い社員に新たな仕事の選択肢と再就職支援、若い層にプロモーションの機会を提供
  • 三菱電機「三菱電機のパワーデバイス事業、ロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業との事業・経営統合に関する協議開始に向けた基本合意書の締結に関するお知らせ」(2026年3月27日)
    • [302]2026年3月27日、ローム・東芝・JIPらとパワーデバイス事業等の事業・経営統合に関する協議開始に向けた基本合意書を締結
    • [303]ロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業の提携協議(2024年3月29日提案)に三菱電機が加わる
    • [304]世界市場で競争し得る事業規模や技術基盤の実現を目的に合意

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歴史年表 1921〜2025年

三菱電機の沿革1921〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1921〜1950年三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代三菱電機を創立★
長崎工場を新設★
名古屋製作所を新設★
大船工場を新設★
大阪工場を新設★
福山・中津川工場を新設★
姫路工場を新設★
福岡工場を新設★
本店研究部を研究所に★
高杉晋一東京証券取引所に株式を上場★
1951〜1976年ウエスチングハウスとの提携復活と北伊丹の半導体工場、製作所網の拡大高杉晋一技術・資本両面での関係の復活と、「三菱」商号の存続

1951年4月、三菱電機は戦争で中断していた米ウエスチングハウス社との技術提携を復活させ、資本提携もあわせて正式に復活させた経営判断。前年から続いた"三菱"商号の存続運動と一体の決着であった。

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★★★
高杉晋一無線機械製作所を新設★
高杉晋一静岡工場を新設★
関義長半導体量産専門工場・西条・高知への量産設備の拡大

1959年8月、三菱電機は半導体の量産専門工場として北伊丹工場(兵庫県)を新設した。米ウエスチングハウス社の試作品をもとに中央研究所が国産IC第一号"モレクトロン"を商品化する2年前である。以後、1972年の半導体事業部の設置、1981年の福岡半導体工場、1984年の西条工場(愛媛県)、1985年着工の高知工場と設備を積み増した。重電と家電で立つ会社が、電子部品の内製と量産に資源を割いた経営判断。

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★★★
関義長商品研究所を新設★
関義長鎌倉製作所を新設★
関義長京都製作所を新設★
関義長三菱プレシジョンを設立★
関義長菱電機器を吸収合併し群馬製作所に商号変更★
関義長稲沢製作所を新設★
進藤貞和三菱電機アメリカ社を設立★
進藤貞和制御製作所・計算機製作所を新設★
進藤貞和コンピュータシステム工場を新設★
1977〜1991年4事業本部制の導入とコンピュータ・半導体・自動車機器の事業再編進藤貞和生産志向でつくられてきた事業部編成の解体と、市場を起点とする体制への組み替え

1975年6月の営業本部新設と1977年6月の事業本部制導入により、三菱電機が生産の都合で分かれていた事業部編成を、市場ごとに責任を負う重電・電子・機器・商品の4事業本部へ組み替えた経営判断。同社はこれを"販売志向型"への切り替えと位置づけた。

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★★★
進藤貞和台湾三菱電機股份有限公司を設立★
片山仁八郎北伊丹製作所福岡半導体工場を新設★
片山仁八郎事業本部を6本部体制に再編★
志岐守哉計算機製作所とコンピュータシステム製作所を統合しコンピュータ製作所に★
志岐守哉大船製作所を廃止★
志岐守哉自動車機器事業本部を新設★
1992〜2000年北岡隆・谷口一郎体制での中期経営計画と汎用DRAM事業からの撤退北岡隆長く3位にとどまった地位からの脱却を掲げた改革と、半導体投資の誤算

1992年に三菱電機で初のハイテク分野出身社長となった北岡隆氏が、GEのジャック・ウェルチ氏流の選択と集中を掲げ、9事業本部への再編・権限委譲、本社人員の毎年削減、社内公募制の導入に着手した構造改革。しかし自らの出身分野である半導体のDRAM投資が裏目に出て、1998年3月期に連結最終赤字へ転落し、北岡隆氏は改革の途上で引責辞任した。

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北岡隆中期経営計画を発表★
北岡隆赤井電機の経営権をセミ=テックグループに譲渡★★
谷口一郎谷口一郎氏が取締役社長に就任★
谷口一郎システムLSI・パワー半導体へ軸足を移す事業領域の絞り込み

1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に、汎用DRAM事業からの撤退を決定した。DRAM市況の悪化で各社が投資を縮小するなかでの撤退は初めてで、両社ともシステムLSIへ資源を集中させる。汎用メモリからマイコンまで手広く抱える"百貨店型"の半導体から、得意分野に的を絞る"選択の時代"への転換であり、後のパワー半導体特化につながる出発点となった経営判断。

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谷口一郎家電業界初のリサイクルプラントを稼働★
2001〜2020年「Changes for the Better」とルネサス・TMEICの設立、委員会等設置会社への移行谷口一郎「Changes for the Better」をコーポレートステートメントとして制定★
野間口有野間口有氏が取締役社長に就任★
野間口有日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立★★
野間口有委員会等設置会社へ移行★
野間口有東芝三菱電機産業システムを設立★★
下村節宏下村節宏氏が執行役社長に就任★
山西健一郎山西健一郎氏が執行役社長に就任★
山西健一郎ルネサス テクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサス エレクトロニクスが発足★★
山西健一郎三菱電機インド社を設立★
柵山正樹柵山正樹氏が執行役社長に就任★
柵山正樹デルクリマ社を完全子会社化★
杉山武史杉山武史氏が執行役社長に就任★
2021〜2026年鉄道空調の品質不正と漆間啓体制、三菱電機モビリティの分社杉山武史鉄道車両向け空調機器等の品質不正が発覚★★
漆間啓長崎製作所の検査不正発覚と、漆間啓体制での3つの改革

2021年6月、長崎製作所が製造する鉄道車両用空調装置等の一部で、購入仕様書の記載とは異なる検査の実施や検査の不実施、検査成績書への不適切な記載が判明した。杉山武史社長は7月に引責辞任し、同月28日に事務系出身の専務・漆間啓氏が執行役社長・CEOへ昇格する。 全社レベルの点検と真因究明を委嘱した調査委員会からは2021年10月1日、12月23日、2022年5月25日と報告書を受け取り、そのつど一部の拠点で新たな品質不適切行為が判明した。漆間啓社長は品質改革推進本部の新設とビジネスエリア体制への移行で、縦割りの組織そのものの立て直しに着手した。

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漆間啓自動車機器事業を会社分割で切り出した三菱電機モビリティの設立と、外部資本への開放

2023年4月、三菱電機は自動車機器事業の構造改革を決議し、1年以内の分社化を表明した。2024年4月1日に会社分割で三菱電機モビリティを設立し、カーマルチメディアなど課題事業の終息と、電動化・ADASでの社外パートナーとの協業を進める経営判断。2026年4月には、三菱電機モビリティへの鴻海精密工業からの50%出資受け入れを視野に入れた検討開始の覚書にまで至っている。

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漆間啓ネクストステージ支援制度で2,378人が応募★★
出典・参考 74件
出典・参考
  • 三菱電機 アニュアルレポート2007
  • 三菱電機 アニュアルレポート2008
  • 三菱電機 アニュアルレポート2011
  • 三菱電機 アニュアルレポート2014
  • 三菱電機 アニュアルレポート2015
  • 三菱電機 アニュアルレポート2016
  • 三菱電機 アニュアルレポート2019
  • 三菱電機 アニュアルレポート2020
  • 三菱電機 有価証券報告書 第151期(2022年3月期)
  • 三菱電機 有価証券報告書(2023年3月期・2024年3月期)
  • 三菱電機 ニュースリリース「パワーデバイス製作所 福岡地区に新工場棟を建設」(2024年11月20日)
  • 三菱電機「統合報告書2024」 社長メッセージ
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
  • 三菱電機「2025年3月期 第2四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2024年10月31日)
  • 三菱電機「2025年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2025年2月4日)
  • 三菱電機「2026年3月期 第3四半期決算説明会 質疑応答要旨」(2026年2月3日)
  • 三菱電機 有価証券報告書「沿革」
  • 三菱電機 有価証券報告書(沿革)
  • 三菱電機 有価証券報告書
  • 三菱電機社史(創立60周年記念、三菱電機、1982年)第1章「三菱電機の誕生」
  • 三菱電機社史 創立60周年(1982年)6章「新しい出発」
  • 株式会社年鑑 1951年版「三菱電機」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
  • 株式会社年鑑 1955年版「三菱電機」
  • 株式会社年鑑 1956年版「三菱電機」
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和34年版)・会社年鑑(1963年版・1967年版)単体・半期合算
  • 三菱電機 会社年鑑(1967年版・単体、半期合算)
  • 経済春秋社編『企業の歴史 : 明治百年』「三菱電機」(経済春秋社, 1968年)
  • 日本産業史 第2巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-『傾斜生産』で再起」
  • 三菱電機 上場会社総覧(昭和31年版・単体、半期合算)
  • 日本産業史 第4巻「半導体-日米半導体協定の衝撃」
  • 会社年鑑「三菱電機」連結業績
  • 野田経済 1951年5月号(野田経済研究所 編)
  • 実業の世界 1959年12月号(三田商業研究会)
  • 産業と経済 1967年10月号
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 第15巻第5号(八塚茂治・三菱電機副社長)
  • 日経ビジネス 1977年12月5日号
  • 日経ビジネス 1981年2月23日号
  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
  • 安全と管理 1984年1月号「四つの「ふれあい」で家庭の情報化システム築く――三菱電機株式会社社長 片山仁八郎氏」
  • 日経ビジネス 1987年1月19日号
  • 日経ビジネス 1988年9月12日号
  • 証券アナリストジャーナル 1989年27巻7号 天野順介(1989年6月6日講演要旨)
  • 近代中小企業 1989年11月号 片山仁八郎(三菱電機会長)
  • 日経ビジネス 1990年4月9日号
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
  • 日経ビジネス 1994年3月21日号
  • 日経ビジネス 1994年7月11日号
  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
  • 日経ビジネス 1998年8月17日号
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号
  • 日経ビジネス 1999年8月2日・9日号
  • 日経ビジネス 2000年4月3日号
  • 日経ビジネス 2000年1月17日号
  • 日経ビジネス 2003年2月10日号
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
  • 日本経済新聞(1984年7月31日)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱電機」進藤貞和
  • エネルギーフォーラム 1980年「クローズアップ--三菱電機新社長 片山仁八郎」
  • 電子材料 1992年11月「この人に聞く--情報通信の強化とグローバリゼーションに注力」北岡隆
  • エルネオス 1995年「トップインタビュー 北岡隆」
  • 実業往来 1995年9月
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年6月)
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2020年11月)
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2021年11月12日)
  • 三菱電機 経営戦略説明会資料「三菱電機の経営戦略」(2022年5月30日)
  • 三菱電機「当社が進める3つの改革の進捗について」(2023年4月14日)
  • 三菱電機 事業戦略説明会資料「インダストリー・モビリティビジネスエリア」(2024年5月29日)
  • 三菱電機「IR Day 2025 質疑応答要旨」(2025年5月28日)
  • 三菱電機「IR Day 2026 新中期経営戦略 質疑応答要旨」(2026年5月29日)
  • 三菱電機「三菱電機のパワーデバイス事業、ロームと東芝デバイス&ストレージの半導体事業との事業・経営統合に関する協議開始に向けた基本合意書の締結に関するお知らせ」(2026年3月27日)

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